
湊城 みなとじょう
築城については定かではないが、湊安東氏によって土崎に築かれた平城で、寺内後城から移り住んでからは安東氏代々の居城となった。安東三城の一つ。1602年に出羽国に転封された佐竹義宣も久保田城が完成するまで一時居城とした。現在は神明社と市街地。▼遺構や見所
■ 土崎神明社(本丸跡) ■
土崎神明社のある場所が湊城の本丸跡で、神社は1620年に川口惣治郎が城址に勧請したものだという。江戸時代の絵図では本丸跡に合わせて方形の境内だったが、土崎駅に続く車道が造られた時に削られてしまった。
■ 内堀跡と土塁跡 ■
内堀は水堀だったが江戸時代の時点で半分が埋め立てられており、現在は全て埋め立てられて街に埋没している。強いて言えば「土崎街区公園」の東端に僅かに堀跡の凹と土塁跡の凸が確認できる程度である。なお、画像左外の宅地は過去の発掘調査で内堀跡だったことが確認されている。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1394年安東鹿季が「湊」に攻め込み、そこを拠点にして湊安東氏を称したとされる。-
- 1436年安東康季が将軍野北西に城を築いた。『秋田沿革史大成』-
- 1551年安東堯季が亡くなると、檜山安東家からの養子の茂季が跡を継ぐが、実質は檜山安東氏による併合に近いものだという説もある。安東堯季
- 1570年安東茂季が雄物川の水運に制限をかけた結果、豊島氏等の流域の領主が反乱を起こして推古山(今の手形山)付近で合戦となった。安東茂季
- 1572年安東茂季とそれを援護する安東愛季によって反乱は鎮圧されるが、乱後に茂季は豊島城に移され、湊は愛季の直轄となったという。安東茂季
- 1587年安東愛季が亡くなると、湊城の城代をしていた子の実季が跡を継いだ。安東実季
- 1588年安東茂季の子の高季(道季)が湊安東家の復権を掲げて豊島城にて謀反を起こした(湊合戦)。高季の元には旧湊安東氏の家臣が集結し、戸沢氏などの援助もあって実季を上回る勢力となった。安東実季
- 1589年2月安東実季は湊城では不利とみて檜山へと逃れ、檜山城に籠城した。安東実季
- 1589年5月「檜山城の戦い」の末に安東高季と実季は和睦し、安東高季は湊城へと入った。安東高季
- 1589年7月安東実季は和睦を破棄し、由利衆を味方に付けて湊安東氏の勢力を挟み撃ちする形で合戦を仕掛けた。安東高季は湊城に籠るものの、家臣は各個撃破されて援軍も望めなくなった為、戸沢氏を頼って仙北へと落ち延びた。安東高季
- 1590年「奥州仕置」の後、安東実季は湊城を改修して居城を移し、以後は秋田氏を称した。秋田実季
- 1602年秋田実季は徳川家康の命で常陸国の宍戸に転封され、替わって出羽国へは常陸国から佐竹義宣が移された。佐竹義宣
- 1603年5月佐竹義宣は湊城が手狭なため、神明山に梶原政景と渋江政光を派遣して新たに築城を開始する。佐竹義宣
- 1604年8月神明山に築いた久保田城の主要部分が完成したため、佐竹義宣は湊城から居城を移し、城は廃城となった。佐竹義宣
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年4月28日 |
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別名 | 土崎湊城 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 中世 |
築城完了 | 中世 |
築城者 (設計者) | 安東氏 |
分類 | 輪郭式中世平城 |
規模 | 東西150m×南北150m(本丸のみ) |
標高 | 標高:6m、比高:- |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 堀跡、土塁跡 |
標柱・説明板 | 土崎街区公園に説明板あり。神明社に標柱あり。 |
現状 | 土崎神明社、土崎街区公園、住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 秋田県秋田市土崎港中央 |