
潟保館 かたのほだて
築城時期は定かでないが古くは奥州藤原氏の一族とされる斎藤氏の居館で、後に海野弥太郎が斎藤氏に婿入りして潟保氏を称し、以後は由利十二頭の一角の潟保氏代々の居館となった。現在は孔雀館公園と浄水場と山林と畑。▼遺構や見所
■ 主郭跡 ■
山頂に主郭跡があり、南北に長い楕円形の曲輪だが、南側は人為的に掘り下げられて削平されている。主郭跡は現在は「孔雀館公園」になっているため、公園整備で削られたか。なお、北側には龍田神社、潟保神社、金刀比羅神社の石碑があるが、何故ここにあるかは不明。
■ 二の曲輪跡西部 ■
主郭より一段低い北側から西側にかけては二の曲輪跡みられ、ここの西側は今は浄水場の施設になっている。ただ、改変が激しい為、浄水場の部分は元は小さな腰郭だったのかもしれない。
■ 二の曲輪跡北部 ■
伝承で二の曲輪は孔雀の「嘴」の部分と言っている為、もしかすると北に突き出ている曲輪が二の曲輪跡かもしれない。ただ、こちらは今は藪になっていて全貌が判らない。
■ 土塁? ■
主郭と二の曲輪に土塁が見られるが、公園化による改変が激しい為、果たしてこれが土塁かは判断に困る。
■ 出丸? ■
山腹には無数の曲輪群が確認できるが、北の麓に近い位置に比較的大きな曲輪があり、これが説明板にある出丸と思われる。ここの東に大手道と思われる山道があるため、大手の守りの為に設けられた曲輪か。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 中世斎藤氏の居館の「潟の府館」と伝わる。斎藤氏
- 1217年一説にはこの頃に潟保館が築かれたと伝わる。斎藤氏
- 1467年信濃国からやってきた海野弥太郎が斎藤重友に婿入りし、潟保氏を称したという。潟保弥太郎
- 1587年6月矢島満安と仁賀保光誠が合戦になった時、潟保隻記斎が仲介して和睦させたという。潟保隻記斎
- 1588年5月潟保治部大輔の元に最上義光家臣の中山光直より書状が届き、豊臣秀吉の天下統一のために義光に協力して欲しいと要請される。『中山播磨守光直書状』潟保治部大輔
- 1588年11月潟保氏は仁賀保光誠の矢島攻めに参加する。矢島満安は敗れて妻の実家の西馬音内へと逃れるがそこで自刃して果てた。潟保治部大輔
- 1590年潟保氏は豊臣秀吉の奥州仕置後も潟保村を安堵される。『潟保村拝領御朱印』潟保治部大輔
- 1595年一説にはこのころ廃城になり、潟保氏は仁賀保氏の家臣になったとも伝わる。潟保氏
- 1600年5月徳川家康の上杉討伐に連動して仁賀保氏を中心とする由利衆が庄内へ攻め込む。この時に潟保氏家臣の稲葉勘解由左衛門が滝沢氏の陣を借りて参加したという。潟保出雲
- 1602年潟保出雲は最上氏の家臣に組み込まれて山形に移り、潟保氏の一族や家臣の一部は帰農したという。潟保出雲
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年4月27日 |
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別名 | 潟の府館、孔雀館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 中世 |
築城完了 | 中世 |
築城者 (設計者) | 斎藤氏? |
分類 | 中世山城 |
規模 | 東西300m×南北400m |
標高 | 標高:97.7m、比高:約80m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、曲輪跡 |
標柱・説明板 | 主郭に城址碑、二の曲輪に説明板あり |
現状 | 孔雀館公園、浄水場、山林、畑 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 秋田県由利本荘市西目町西目字舘ノ後 |