
稲庭城 いなにわじょう
13世紀中頃に小野寺経道によって築かれた山城で、小野寺氏代々の居城。小野寺氏が居城を移した後は一門の稲庭氏が居城とした。1596年に最上軍の攻撃を受けて落城した。現在は大部分が山林となり、二の丸に模擬天守閣の今昔館が建つ。▼遺構や見所
■ 本丸跡 ■
大森山西尾根の先のピークに本丸跡があり、現在は山林となっている。山の上とは思えないくらい曲輪が広いが、中央付近に稲荷明神の祠がある他は特に目立ったものは無い。周囲の一段下に帯曲輪が付随しており、二の丸方面と大森山方面の尾根に雛壇状の腰郭も展開している。
■ 本丸背後の堀切 ■
本丸と大森山との間の鞍部には堀切が設けてあり、背後の山伝いの部分を遮断している。
■ 本丸中腹の堀切 ■
本丸と二の丸の間の中腹に堀切が設けてあり、二の丸から登ってくるルートを遮断している。
■ 二の丸背後の三重堀切跡 ■
二の丸が背後の山と繋がっている箇所の鞍部には三重の堀切があったようだが、現状では車道の下に埋まってしまい、脇から見える部分しか確認出来ない。
■ 模擬天守閣(今昔館) ■
二の丸跡には模擬天守閣が建っており内部は資料館になっている。最上階からは稲庭地域が一望できる。
時間:9:30~16:30
休館日:11月中旬~4月中旬
休館日:4月下旬~11月上旬の火曜日
入館料:430円、中学生以下210円
※スロープカーの乗車料も含む
■ 二の丸土塁と物見台 ■
二の丸の南側には土塁が残っており、物見台とされる高くなった部分からは過去に石積みが発掘されている。なお、土塁の上にある松は小野寺道勝お手植えの夫婦松と伝わる。
■ 二の丸からの眺め ■
二の丸の模擬天守閣からの眺めは絶景で、山に挟まれて回廊状になった稲庭地域が一望できる。
■ 二の丸腰跡 ■
二の丸の北側には腰郭が設けられてあり、中腹まで小さな曲輪が連なっている。現在はこの腰郭を縫うように山道が通っている。一番上の腰郭には鞍掛神社(駒形根神社の遥拝所)と稲荷神社が鎮座している。
■ 二の丸中腹の堀切 ■
二の丸の斜面は十分急斜面だが、それでも緩い箇所に念入りに堀切が設けられており、この辺りは本丸中腹の堀切と共通する設計思想である。
■ スロープカー ■
西麓から二の丸までスロープカーが通っており、乗車券は駐車場脇の売店(古館庵)で購入する。なお、乗車券は今昔館の入館チケットも兼ねている。
■ シャガ ■
アヤメ科の植物で城跡に自生している。一説には城の防御のために小野寺氏が植えたとも伝わる。同様の伝承に横手城の韮もある。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1189年頃小野寺道綱は源頼朝に従って「奥州合戦」に従軍し、その軍功により出羽国雄勝郡の地頭職を賜った。-
- 1190年頃小野寺道綱の代官として庶子の重道が雄勝郡に派遣され、その時に稲庭に城が築かれたという説もあるが定かではない。小野寺重道
- 1250年前後小野寺道業の代官として妻の弟の小野寺経道が稲庭に入り城を築いたとされる。小野寺経道
- 中世小野寺経道以降の子孫は沼館城や横手城を築いたとも伝わっており、情勢によって居城を変えていた節があるもののハッキリしない。小野寺氏
- 1411年前後小野寺泰道は雄勝郡の稲庭から平鹿郡の沼館に本拠地を移転した。一説には仙北に侵攻した南部氏に対抗するためとされる。小野寺泰道
- 1457年稲庭城主の小野寺道広によって前湯寺が稲庭城下に移され、この時に嶺道山広沢寺と改めた。『広沢寺由緒』
※私見では小野寺泰道が稲庭から本拠地を移転した際に一族の道広が城代となったと思われる。小野寺道広 - 1458年小野寺泰道は南部氏との合戦に敗れ、その傘下に降ることになる。稲庭の道広が参戦したかは不明。小野寺道広
- 1467年小野寺泰道が南部氏を破って仙北から駆逐することに成功する。この時の稲庭の動向は不明。小野寺道広?
- 1524年9月小野寺道俊が大森山にあった三嶋権現を麓に移して現在の三嶋神社の社殿を建てた。『三嶋神社由緒』
※この時点で既に小野寺道俊が稲庭を相続済か小野寺道俊 - 1527年小野寺道俊が熊野神社に懸仏を奉納する。※県指定文化財『懸仏』小野寺道俊
- 1546年小野寺稙道が横手薩摩らの謀反で自害した際、兄に代わって弟の道俊が家督を継ぎ、後に将軍から一字貰って晴道を名乗った。小野寺晴道
- 1554年小野寺晴道は兄の嫡子の孫四郎に家督を返上し、以後は稲庭小野寺氏の祖となる。小野寺晴道
- 1586年小野寺軍が失地回復の為、最上領へと攻め込み「有屋峠合戦」となるが、双方損害を出して撤退となった。この戦いには稲庭から道勝が参戦した。小野寺道勝
- 1596年最上軍が小野寺領の雄勝郡へと侵攻し、稲庭城は清水義親の軍勢に攻められて落城した。城主の道勝は山伝いに城を脱出して落延びた。小野寺道勝
- 1601年小野寺氏は西軍に加担したことから改易となり、稲庭城も廃城になったとされる。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年11月3日 |
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別名 | 鶴ヶ城、早坂館 |
前身 | 早坂館? |
前身の築城年代 | 1190年? |
築城・普請開始 | 13世紀 |
築城完了 | 13世紀 |
築城者 (設計者) | 小野寺経道 |
分類 | 中世山城 |
規模 | 東西600m×南北400m |
標高 | 標高:351.9m、比高:約180m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | 模擬天守閣 |
遺構 | 曲輪跡、土塁、堀切 |
標柱・説明板 | 本丸及び二の丸に説明板あり。登山口に城址碑あり。 |
現状 | 山林、今昔館、スロープカー線路 |
イベント | - |
注意事項 | 熊出没注意 |
場所 | 秋田県湯沢市稲庭町字古舘前平 |