
八森城 はちもりじょう
1467年に大井義久が築いた丘城で、代々の矢島氏にとって重要な出城だった。矢島氏滅亡後は最上氏家臣の楯岡氏や由利十二頭の打越氏が居城とし、1640年に生駒氏が移封されると矢島藩の藩庁となって幕末まで続いた。その後、戊辰戦争で庄内藩の攻撃を受けて落城し、城はこの時に焼失した。現在は矢島神社と招魂社、そして矢島小学校の敷地になっている。▼遺構や見所
■ 本丸跡 ■
城は舌状台地の上にあり、先端の一番高くなっている場所が矢島氏の頃の本丸跡だという。この場所からは城下の街並みが良く見えるが、藩政時代は曲輪として使用されず雑木林に覆われていたようだ。現在は矢島神社と招魂社の境内になっている。
■ 二の丸跡(陣屋跡) ■
本丸の西側の一段低い場所が矢島氏の頃の二の丸跡で、藩政時代はむしろここが城の中心だった。かつては矢島藩の陣屋と蔵があり、画像のあたりには庭園があったという。現在は全て小学校の敷地になっている。
■ 水堀 ■
陣屋跡の西側には水堀が良く残っており、一見すると半分は無くなっているように見えるが、幕末の絵図でもこの通りになっており、設計思想か予算の問題だったものと思われる。
■ 大手門跡 ■
幕末の絵図を見ると水堀には木橋が架けられており、その渡った先が桝形になっていて大手門を形成していた。現在は門跡の痕跡は見られないが、水堀に架けられていた木橋が再現されている。
■ 武家屋敷(旧佐藤政忠家) ■
陣屋跡から水堀を隔てて西側の一帯には藩校や武家屋敷が建ち並んでいたが、今も見られる武家屋敷は旧佐藤政忠家だけとなっている。佐藤政忠は幕末の戊辰戦争で部隊を率いて戦った藩士で、戦後に家老の加川退蔵から屋敷を譲り受けたものがこの住宅だという。
内部を見学するためには事前に申し込みが必要。
■ 表門跡 ■
武家屋敷のある台地から下に降りる場所に表門跡があり、ここを抜けて川を渡った先が城下町となる。現在は石垣のようなものが見られるが、当時のものかどうかは不明。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1467年信濃国佐久庄から出羽国由利郡の矢島にやってきた大井義久が八森台に支城を築いたのが始まりという。大井義久
- 1588年11月矢島満安の代に仁賀保光誠を旗頭とする由利衆に攻め込まれ、敗れて妻の実家の西馬音内へと逃れるがそこで自刃して果てた。矢島満安
- 1588年?仁賀保光誠は家臣の菊池長右衛門を八森城の城代として置いた。菊池長右衛門
- 1600年5月徳川家康の上杉討伐に連動して仁賀保氏を中心とする由利衆が庄内へ攻め込む。矢島氏旧臣達はこれに合わせて蜂起し菊池氏の守る八森城を攻め落とした。菊池長右衛門
- 1600年5月庄内から引き返してきた仁賀保氏によって八森城は攻め落とされ、蜂起は数日で鎮圧されたという。矢島氏旧臣
- 1602年由利郡は最上義光の領地となり、家臣の楯岡満広が矢島3千石を与えられて八森城に入った。楯岡満広
- 1622年最上家が御家騒動で取り潰されると、打越光隆が矢島に転封されて八森城に入った。打越光隆
- 1635年打越光久が子がないまま亡くなり打越氏は断絶する。打越光久
- 1640年8月讃岐国高松から生駒高俊が出羽国矢島に移封され塩越村に入った。この間に八森城の修復を実施したという。生駒高俊
- 1640年10月八森城の修復が完了したため生駒高俊は居城を移した。以後は幕末まで矢島藩の藩庁となった。生駒高俊
- 1868年7月戊辰戦争で矢島藩は新政府軍に付いたため、列藩同盟軍の庄内藩の攻撃を受けて城は落城した。落城間際に生駒氏は城に火を放ち、同じ新政府軍の久保田藩の元へと逃れたという。生駒親敬
- 1868年12月戊辰戦争後、生駒氏は東京で明治政府に出仕していたが、再び矢島に戻った。そして翌年に知藩事を務めた。生駒親敬
- 1871年廃藩置県により廃城となる。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年4月28日 |
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別名 | 矢島城、矢島陣屋 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1467年 |
築城完了 | 1467年 |
築城者 (設計者) | 大井義久 |
分類 | 連郭式丘城 |
規模 | 東西350m×南北200m |
標高 | 標高:79m、比高:約20m |
文化財指定 | 市指定史跡 |
現存建造物 | 佐藤政忠家住宅 |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | 大手橋 |
遺構 | 水堀、土塁、曲輪跡 |
標柱・説明板 | 水堀沿いに城址碑と説明板あり |
現状 | 矢島神社、招魂社、矢島小学校 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 秋田県由利本荘市矢島町城内字八森 |