事件と裁判 追悼

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娘はなぜ、どのようにして犠牲になったか

2000.8.12.

Photo1
在りし日の千尋
友人からもらいうけ、「サム」と名づけて可愛がっていた愛犬とともに
1995年1月

娘の犠牲を無にしないためには、「事故」という名の「犯罪」を決して過去のものに塗り込めてしまわないことが大切と、千尋のことを想うたびに、いつも胸に刻んでいます。 いくら加害者を恨んでも、「クルマ優先社会」を呪っても、千尋は帰ってきません。
しかし、千尋をはじめ数多くの尊い犠牲が生かされず、今現在も同様事故が続発していることに黙っていることは出来ません。千尋が許してくれないと思います。
千尋が望んでいることは、犠牲を無にせず、人命軽視の交通犯罪を絶滅することだと思います。
そのために、今も日常のように起こっている交通犯罪が、どれだけ理不尽なものなのかを知って欲しい。そういう思いで事故を振り返り,作成しました。(2000.8.12.)

1995年10月25日(水)17:50

Photo2
事故を報道した「北海道新聞」
1995年10月26日付け

恵庭北高校2年の千尋はJR通学をしていたが、親しい友人3人と長都駅で別れ、徒歩で帰宅途中、後ろからきた前方不注視のワゴン車にはねられ、「頚椎骨折、頭蓋内出血」によりほぼ即死の状態でその命と未来、全てを奪われた。17歳5ヶ月だった。

加害者と車輌

Photo3
実況見分中、運転席に座る加害者と車輌の破損状況
(実況見分調書に添付された写真より)
A:放射状にひび割れ破損したフロントガラス
B:衝撃でへこんだ前部
C:同上

Photo4
加害車輌(Photo3のCの部分)を側面より撮ったもの。
衝撃の大きさを物語る。
(実況見分調書に添付された写真より)

二つの写真から、千尋はワゴン車の前部CとBで、腰、背中を強打し、その後フロントガラスAに後頭部を打ち付けられ、これが「頚椎骨折、頭蓋内出血」の致命傷になったと思われる。
体の前部および側部には傷等がないことから、千尋はワゴン車に真後ろから衝突されたものである。

現場と事故の概要

Photo5
95年12月4日撮影の現場(千歳市北信濃770番地)

現場の様子

当時、歩道は未設置で、道路わきの空地はぬかるみ、雨の時は水たまりができ、歩行者は道路の端を歩いていた。
10月25日17:50、雨のなか傘をさして家路にむかう千尋は、後ろからきたワゴン車にはねられ、A地点から左前方に4.6mとばされ、道路わきの草地に倒れた。
現場の見通しは良く、衝突地点Aの7m先に街路灯があり、明るかった。実況見分調書によると、ライト下向きでも40m手前からA地点の人を認めることができたという。また、千尋は赤い傘をさしており、この点でも運転者が正しく前を見て運転さえしていれば、衝突は避けられた。

加害者の行動

  1. 自動支払機の手数料がかからない6時までに市街の銀行に着きたいと、5:45ごろワゴン車で自宅を出たが、急いでおりラジオで正確な時刻を知りたいと思い、衝突地点の手前約30mから、カーラジオの操作を始めた。
  2. カーラジオの①スイッチを入れ、②ボリュームを調整し、それでも音が出ないので、③カセットのイジェクトボタンを押すという動作を行ったが、その間操作に気をとらて下を向き、前方を注視することなく、時速40~50キロで進行し、A地点で千尋をはねた。
  3. 衝撃を感じ、A地点から9m走った地点で顔を上げ前方を見た。フロントガラスの破損に気付き、「何かに衝突したと思い」
  4. さらにそこから22m進行したところで停止した。
  5. Uターンして、倒れている千尋を発見し、心臓マッサージをした。
    (実況見分調書および加害者の供述調書より)

千尋は、通勤通学者の多い時間帯という現場の道路状況も熟知しているはずの加害者Sが、僅か103円の銀行手数料を節約するため殊更先を急ぎ、ワゴン車を5速で疾駆させながら、時刻を確かめるためのカーラジオ操作を下を向いて行い、この間注視すべき前方は全く見ていないという、「未必の故意」にほかならない重大過失を犯したことによって、殺されたのです。

未だに残る疑問

Photo6
茄子川教授の鑑定書より
(96年5月15日撮影)

【その1】衝突地点は特定できるのか

衝突時の速度にも関係してくる衝突地点について、実況見分調書では加害者の言い分だけで特定されているが、現場にはブレーキ痕や破片という物証は一切なく、客観的根拠はないはずであるのに、なぜ特定できるのか。
民事裁判で事故鑑定を依頼した北海道自動車短期大学の茄子川教授も、この点について「実況見分調書現場見取図における衝突地点の認定には客観的な証明が見あたらなく疑問である」(96.6.13.鑑定書)という鑑定結論を出している。

【その2】衝突時の速度は何キロか

加害者は衝突時の時速を、警察の供述調書(10/26)では「約40キロメートル位」と供述し、私の前(11/21)では「50キロぐらい」と説明。また検察庁(12/4)では「40~50キロ」と供述した。そして判決では、加害者の言い分どおり「約40キロ」とされた。
しかし40キロという根拠は何もないはずである。むしろ、急いでおり、ラジオの操作に入る前にギアを最大回転比の5速に入れていた(本人が11/21に私の前で言明)というのであるから、また車輌の破損に残る千尋が受けた衝撃の大きさからすると、制限時速の50キロを大きく越えた60キロ前後ではないかと思われる。
上記茄子川教授の鑑定では「衝突地点には疑問があるが、飛ばされた距離4.6mおよびフロントガラスなどの破損状況から検討すると47~52km/hの速度で衝突したものと推定」さらに「飛ばされた距離が4.6m以上であれば、衝突速度はさらに高くなる」と述べている。
検察庁では5速の件は全く取り上げてもらえなかった。何を根拠に「約40キロ」と断定できるのか、大いに疑問。
断定するのであれば、車輌の破損状況を分析するなど、誰しもが納得できる、科学的、合理的な説明が必要である。
この点で、警察で事故の内容を聞いた時、私の「スピードはどのくらいだったのですか」という問に、担当の司法巡査が「そのことは民事にかかわってくるので(加害者に不利になることもあるので)言えません」と答えた言葉が気にかかる。
加害者も、そして警察も制限時速の50キロを十分に意識していたようなのである。「死人に口なし」、加害者本位の捜査や扱いが、いとも簡単に行われている。
こうした、客観的な裏づけもない、ずさんな実況見分調書を基に、刑事裁判は行われ、悪質違反の制限速度超過の可能性は不問にされ、判決では執行猶予がつけられた。最初から最後まで加害者の言い分のみが一方的に尊重されたのである。
娘の尊い犠牲が、このように、不当に、そして軽く扱われたことに対する無念の思い、悔しさ、怒りは、何年経っても消えません。むしろ大きくなるばかりなのです。

安全対策はなぜ事件後なのか

歩道敷設後(左写真)と敷設前の現場(右写真)

Photo7(99年10月撮影)
右側に敷設された歩道と、防護柵がある
Photo8(95年11月27日撮影)
簡易歩道敷設工事の写真

歩道未設置の「事情」

この「市道7線」は、歩道設置には十分な幅員(40m)がありながら、写真の手前(中央大通りから)と先(JR千歳線の先)は既に街路整備がされ、歩道も設置されていたが、現場を含む国道と鉄道の間約800mだけが未整備のまま放置されていた。
その理由は、国の街路計画が鉄道をオーバーブリッジで抜けるというものであり、一方JRは高架化も検討というはざまになり、整備が遅れているからという。(1995年11月16日千歳市議会会計決算審査特別委員会での五島市議の質問に答えた議事録より)
この箇所はJR長都駅から徒歩10分ほどのところであり、通勤、通学の歩行者や自転車など通行者は多い。 上記の決算特別委員会で五島市議が、娘の事故をとりあげ、街灯設置とともに歩道設置を促した結果、同年12月には簡易歩道が設置され、その後、Photo7にあるように防護柵も取り付けられた。
この経過は、自動車通行のために車道は優先して作っても、歩道設置は後回しで、歩行者、自転車利用者の安全は二の次、三の次にしか考えないという、日本の道路行政の典型例である。
歩道が設置されていればと悔やまれます。千尋は、歩行者の安全をないがしろにする、「クルマ優先社会」がもたらした行政の貧困の犠牲にもなったのだと思います。

娘はなぜ犠牲になったのか

1 加害者の前方不注視という重大過失

先を急ぐあまり、時間を確かめようとカーラジオの操作で脇見運転

2 行政の問題

市が歩道未設置の市道を放置

3 背景にある人権無視の「クルマ優先社会」

【次へ】裁判を終えて

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