事件と裁判 追悼

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【手記】

17歳で「交通死」した娘からの「問いかけ」

私たちの最愛の娘千尋(ちひろ)は交通犯罪によって殺されました。当時高校2年生の娘は、1995年10月25日午後5時50分、通学電車を降り自宅へむかう途中、「前方不注視」のワゴン車により後ろからはねられ即死したのです。

加害者は35歳、看護婦をしており、2児の母というごく普通の女性でした。6時までに銀行へ着かなくてはならないと急いでおり、正確な時刻をカーラジオ で確かめようと、その操作に気をとられ、脇見のまま漫然走行して直進。赤いかさをさして直線道路の左端を歩く娘を4.6mもはね飛ばし、衝撃とフロントガ ラスの破損で初めて「何かに衝突した」と自覚するという「重大過失」が原因でした。 現場の市道には車歩道の区別はなく、水はけも悪いため、雨の日など歩行者は車とともに舗装面を通ることを余儀なくされる箇所でした。通勤通学の歩行者、自 転車も多い通りで、この事故後市議の追及もあり、歩道や防護柵が整備されました。

遺された私たち家族の悲しみは到底言葉で言い尽くすことができません。娘の死から3年が経とうとしていますが、娘のことを思わぬ日はなく、涙しない日は ありません。朝起きて食卓を囲めば、そこに居るべき長女の爽やかな笑顔はありません。娘がボーイフレンドからもらい受け「サム」と名付けて可愛がっていた 犬を、娘に代わって散歩させる度に娘の無念さを思います。街を歩いていても娘に似た後ろ姿をみては立ち止まり、テレビもその場面ごとに娘の事を連想し時に 涙が溢れます。旅行に出ても、家族キャンプや家族旅行の時の長女の笑顔が浮かびます。家族4人で過ごした楽しかった思い出の全てが、淋しさと娘の無念さを 思う悔しい過去に変わってしまいました。「果無し」という言葉が私たちの心境に最も近い言葉なのです。

私と妻は二女の存在だけを支えに、張り裂けそうな悲しみに耐えて生きています。娘は病魔と戦ったわけでもなく、避けがたい自然災害に巻き込まれたわけで もありません。娘に何らの過失も無かったことは裁判でも明らかにされました。娘は一方的に、人為的な強制力で限りない未来とその全てを奪われたのです。

しかし、その加害者は「禁錮1年、執行猶予3年」という信じられない寛刑で、事件から4か月後の判決以降は一度もお参りにさえ来ないという不誠実を貫き、刑務所にも入らず、従前と変わらない生活を送っていているのです。

私は娘の仏前で未だに「安らかに」という声は掛けられません。千尋からいつも「私がどうしてこんな目に遭わなくてはならなかったの?」「私がその全てを 奪われたこの犠牲は報われるの?」と問いかけられているような気がするからです。そして、娘の遺影と向き合う度に、遺された私たちがいくら辛くても、亡く なった娘の無念さとは比べようがないと思い直し、娘の問いに答えなくてはと思います。

模索の中で、杉田聡さんや「クルマ社会を問い直す会」と出会い、遺族の立場でたたかいを始めている人たちがいることも知りました。娘の問いについて考える中で、私たちの意識の底まで深くはびこっている異常な「クルマ優先社会」が浮かび上がって来ました。

判断力や運動能力の劣る子どもとお年寄、そして歩行者、自転車という交通弱者を毎年20万人以上も殺傷(死者は4千人以上)しながら、その原因や責任が 追及されず、従って抜本対策が立てられないまま現在進行形で「日常的」に死傷者を出していることを異常と認識できない「経済優先」の倒錯した社会が娘に対 し最大の人権侵害を行った元凶であると思います。

私は、娘の犠牲が真に生かされて、交通弱者への交通犯罪被害が無くなることを何より願います。この点で、被害遺族のたたかいの記録でもある「交通死」 (二木雄策著 岩波新書)や「遺された親たち」(佐藤光房著 あすなろ社)との出会いは、大きな勇気を与えてくれました。かけがえのない宝である娘を失っ た親として、娘の死に報いるために、何をすべきか、何が出来るか常に考えながら、しっかり歩みたいと思います。

(「クルマ社会を問い直す会会報」 第13号 1998.9.30掲載)

【次へ】娘はなぜ、どのようにして犠牲になったか(娘の生い立ちと事故の概要)

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