アメリカ版TENNIS
1991年1月号
1990年の最も進歩したプロ
ピート・サンプラス / 夢は確かにかなう
文:David Higdon


編集長コラム/我々が選んだ1990年の最も進歩したプロ

実は夏の初め、我々はすでに「最も進歩したプロ選手賞」の最高の候補者を見つけたかに思われた。ユーゴスラビアのモニカ・セレシュとゴラン・イワニセビッチは、エキサイティングなゲームと個性で輝いていた。

しかしそれはピート・サンプラスであった。物静かなカリフォルニアンで、その性格は「不可解なほど冷静」と描写される彼が、USオープンで追い込みをかけ、その栄誉をイワニセビッチから奪ったのだ。

彼自身、コーチ、家族へのインタビューを通して、編集主任のデビッド・ヒグドンは、サンプラスが単なる普通の若者ではないと気づいた。彼は普通のままでいようとし、現在乗っている人気の波に呑み込まれまいと努めている若者なのである。

デビッドはオープンの後、彼が出場したエキシビション大会の間、サンプラスと共に時を過ごした。サンプラスはフェアウェイでは、企業のゲストとも気軽に冗談を交わした。しかし後の記者会見では、見るからに居心地悪そうな様子に変わったのを見て、デビッドは驚いた。

「その答えが記事から明らかになればいいのだが」とデビッドは語る。「彼は明らかに聡明で、事情を心得ている。だが世間はまだその面を知らないようだ。カメラの前では、彼は本当の彼自身ではない。それは本当に驚くべき、著しい対照であった。数年かけて彼はなじみ、もっと上手く対処するようになるだろう」

それで良いではないか。それは彼が始めからずっとしてきた事なのだ。

寄稿編集者のピーター・ボドは、フレンチ・チャンピオンのモニカ・セレシュは正反対だと感じた。彼女は注目を浴びるのが好きで、どのように対処すべきかを知っている。

また今月号では、新しいコラム「ウィナーズ」で、情熱的だがそれほど有名ではない人々を取り上げ、第24回キャンプ&クリニックのガイドを紹介する。

--- ドナ・ドハティ:編集長



ウッドのクラブを手に、ピート・サンプラスは目を細めて長い、誰もいないフェアウェイを見下ろした。旗は前方のグリーン上で風にはためいていたが、彼のいる位置からはかろうじて認められるだけだった。

大きな谷 --- 白いゴルフボールを待ち望んでいる --- が、サウス・カロライナ州マートル・ビーチ、ウォーターウェイ・ヒルズ3番グリーンの前に広がっていた。生い茂った木々の壁が、他の3方を囲んでいた。

この晴れ渡った9月の日、後で行われるエキシビション大会「GTEサザン・プロ・クラシック」では、サンプラスはより馴染んだ、信頼のおけるクラブをスイングするだろう。

しかし445ヤード、パー5の真ん中に立ち、唯一サンプラスの心にあるのは、遠方のカップの事だけだった。ボールを打ち出すべく準備をし、彼はグループ最高のゴルファー、退職した航空会社の経営者をちらっと見上げた。

「どうかな、ピート」
男は上品な、南部特有のゆっくりした調子で言った。「あの谷はここからおよそ200ヤードある。君はクラブで飛距離を出すだろうが、おそらく谷をクリアするのは無理だろう。自重して、手前のフェアウェイを捉えた方が望ましいんじゃないかな」

「あなたは僕がアイアンに替えるべきだって考えているんですね?」とサンプラスが尋ねた。
「うん。あそこに打つだけにしたまえ」

サンプラスはニッコリと顔いっぱいに笑みを広げ、太い眉を生えぎわまで上げた。生来のチャーミングな笑みだが、この日は生意気さに満ち満ちていた。

しかし誰がサンプラスを責められただろう? ほんの3週間前、この19歳の子供はトーマス・ムスター、イワン・レンドル、ジョン・マッケンロー、アンドレ・アガシを下し、USオープンを首尾よく駆け抜けたのだ。

彼はこの年を81位から始めて5位までランキングを上げ、「テニス」誌の「1990年の最も進歩した男子プロ」賞を獲得した。水の上を歩いてきた者にとって、ボールを強打する事の何がそれほど難しいというのか?

「僕は自重して打つためにここに来たんじゃない」と彼は言った。

ウッドのままで、サンプラスはボールをぶっ叩いた。そして、もちろん充分に、200ヤード以上を飛ばした。最後の瞬間、ボールは木々の方向に切れ、隣のフェアウェイへと行ってしまった。

サンプラスは肩をすくめ、ゴルフカートの車輪の後ろにジャンプした。「次回だ」と彼は冗談を飛ばした。

確かに、もし彼が年長の、より経験豊かなゴルファーのアドバイスに従っていたなら、もっと良いポジションにいたであろう。だがおそらく次回は、彼はまっすぐに打つだろう。そのショットは葉っぱを早すぎる死に送り込んだりしないだろう。

その代わりに、刈り込まれたグリーン上にデリケートに跳ね、カップから数インチの所に転がるだろう。USオープンでしたように、サンプラスは腕を突き上げ、顔いっぱいの笑みを見せるだろう。

「もしピートの(USオープン)優勝で示したものが1つあるなら」と、プロのジェイ・バーガーが言う。「夢は確かにかなうという事だ」

夢が現実になる。しかしそうなるまで、ピート・サンプラスのような夢見る者は、慣習に従う者、テニス界にごった返す典型的な中産階級気質の者たちに、直面しなければならない。

ひょろっとした内向的なジュニア・テニスプレーヤーだった時期、「専門家」はいつも彼に、頼まれもしない忠告を提供し続けた:君の禿げた鉛筆みたいな首のコーチをクビにしなさい。年長のジュニアと競うのではなく、君と同年代のグループでプレーしなさい。片手打ちに切り替えず、君の両手バックハンドを続けなさい。

それから彼は16歳でプロに転向した。主要なジュニア・タイトルは何も獲得していなかった。そして批判は激しくなった:君はチャンピオンになるには怠惰すぎる。君は高校に留まり、それから大学でテニスをするべきだった。君はプロのプレッシャーに対処する事ができない。

コーチたちは彼からの申し出を断った。やっと受け入れた者たちは、フラストレーションから辞めた。「ピート・サンプラスは、精神的には並みの訓練しか受けてこなかった」
USオープンの直前に、あるトップのアメリカ人テニスコーチは「テニス」誌に語った。

だから、ゴルフコース上で友好的なアドバイスを無視したとて、誰がピート・サンプラスを非難できただろうか? 提案・忠告・警告:彼は聞く。しかし多分それらに注意を払わないだろう。懐疑心がサンプラスの心を支配する。他人への不信感は、筋金入りの習癖になっていた。

USオープン優勝の後、いまの気持ちを訊かれ、サンプラスはスタジアム・コートの群衆に語った。「今後のキャリアで何をしようとも、僕は常にUSオープン・チャンピオンという事になります」
サンプラスはテレビ・インタビュアーの質問以上の事を答えていた。彼はすべての否定論者たちに答えていたのだ。彼らに --- 礼儀正しい、控えめな態度ではあるが --- 彼が正しく、彼らが間違っていたと語っていたのだ。

そしてピート・フィッシャー博士 --- 7歳の時からサンプラスを養成し、ワールドクラスのテニスプレーヤーへと形成してきた才気あふれる小児科医 --- の貢献に謝意を表しはしたが、同じくサンプラスは静かに前コーチに答えていたのだ。サンプラスがマッチポイントでアガシに対してエースを取った時、彼はフィッシャー --- 常に正しいとサンプラスが信じていた男 --- さえ間違っていた事を証明した。

マートル・ビーチ・ホテルの部屋でくつろぎ、彼のより年若い日々について話し合いながら、ピート・サンプラスは痛む向こうずねの上にアイスバッグを当てたり外したりしていた。私は年長のジュニアと競うという彼の決断について尋ねた。

彼は答えた。「多くの親は、そして多くの人々は僕と意見が違った。彼らはいつも、僕は同年代のグループとプレーすべきだとか、あれやこれや言った」

彼は言葉を切り、目をグルッと回した。「いま、その人たちは何て言っているかい?」

そしてバックハンドの変更 --- 多くの人は、それも良くないアイディアだと感じたのか?

「みんなそう感じていたよ」
彼は素早く答えた。「僕が話をしたすべてのコーチ、すべてのプレーヤー、みんな。僕の家族とフィッシャー以外はね。つまりピート(フィッシャー)はいかに優秀かを物語っている」

1979年、2人のピートは一緒にテニスをするようになった。しかし小児科医 --- 子供たちの生命に不可欠な人間 --- が、カリフォルニア州ランチョ・パロス・ヴェルデス出身の幼いギリシャ系アメリカ人の少年にとって、いかに重要な存在かという事を実感したのは、ほぼ3年後だった。10歳のサンプラスはクリスマスの贈り物として、大会優勝後に2人で撮った写真を額に入れ、フィッシャーにプレゼントしたのだ。献辞は:「ピート・フィッシャー、僕の親友でありコーチへ」

ソテリオス(サム)サンプラス --- ピートの父親は、フィッシャーに息子をコーチしてくれるよう頼んでいた。ローリング・ヒルズ・エステーツのジャック・クレーマー・テニスクラブで、彼は眼鏡の医者をテニス・プロと間違えていたのだ。その代わりに、フィッシャー --- IQ200近い男 --- は、両手のストロークを持つ生来のアスリートに、まったく異なったものを教えると応諾した。「私は天才を指導する」とフィッシャーは言う。「しかし基礎を身につけなければ、天才にはなれない」

そこでフィッシャーはサンプラスをロバート・ランズドープ --- トレーシー・オースチンの元コーチ --- の下に行かせ、グラウンドストロークを学ばせた。ロサンジェルス地区の別のプロ、ラリー・イースレイはサンプラスにサーブ&ボレーの基本を教えた。デル・リトルは少年のフットワークに取り組んだ。レッスンの大切さを痛感させるために、ロッド・レーバーの試合のテープが用いられた。レーバーはサンプラスが永久にフィッシャーによって測られる、偉大さの基準になるだろう。

それほど多くの意向が同じ人間に働きかけるのだから、当然、衝突が起こった。ある大会で、フィッシャーとランズドープは、痩せっぽっちのサンプラスがより背の高い、もっと強い敵に対してサービスリターンを打ち損ねるのを見た。

「君はあんなに金を請求してるんだから」とフィッシャーが言った。「彼にリターンでステップ・インする方法を教えてはどうかい?」

「なるほど、ところで君は(小児科医として)あんなに金を請求してるんだから」とランズドープがやり返した。「彼を成長させてはどうかい?」

サンプラスはやがて成長した。しかしそれは、彼を年長のグループでプレーさせる(「最良の競争は対等の者とだ。そしてピートと対等の者は、彼より3歳年上だった」)、そして彼のベストショットである両手バックハンドを捨てるという、物議をかもしたフィッシャーの決定の後だった。

優れたボレーヤーに必要なラケットの「感触」が、両手打ちには欠けているとフィッシャーは考えている。「両手バックハンドの優れたサーブ&ボレー・プレーヤーは、いまだかつていない」と彼は言う。「そして今後も決して出てこないだろう」

ストロークの変更で、14歳だったサンプラスの自信と国内順位はガラガラと崩れ落ちた。「彼はたくさんのボールをフェンス越えさせた。いくらかは偶然に、そしていくらかは故意に --- とても苛立たしかったからだ」とフィッシャーは振り返る。

「僕のジュニア・キャリアは平凡なものだった。でも問題は、僕のゲームを進化させる事だった」とサンプラスは言う。「僕はいつも長期的な目標を持っていた。少なくともピート(フィッシャー)はそうだった。そして彼はそれに関して僕に影響を与えた。ピートは常に将来を、グランドスラムの事を考えていた」

「私は頭がおかしいと、何年も何年も言われたよ」とフィッシャーは言う。「もっとよく分かっているべき人々にね。あるプロは、別のランキング・ジュニアの方がもっと良い選手になるだろうと言い、またあるプロは、ピートはものにならないだろうと言っていたのを覚えている。私は後知恵で批判するのは好きではなかった。しかしそれはまさしく私がしていた事に伴っていた。それは完璧なテニスプレーヤーを作り上げるという事だった」

成長する若者にその構築計画を押しつければ、必然的になんらかの障害に遭遇するだろう。サンプラスは高校を卒業してはいないものの、明らかに聡明な10代の若者である。彼はまた典型的な10代の若者でもある:頑固で、短気で、しばしば闘志満々の。彼はフィッシャーに反発した。フィッシャーはサンプラスの身体に自分の頭脳を入れ込もうとしたと認めている。

「彼が僕のプレーを見ている時はいつも、少し後ろめたい気分だった」とサンプラスは言う。「もし僕が愚かなショットを打ったら、彼はそれについて意見しようとした。彼はすべてを分かっているから。すべてのポイントを覚えている。とても頭が良いから、僕がいつも完璧であるべきだと考える。彼が見ていると、僕はナーバスになったよ」

1988年、サンプラスがプロに転向した時、フィッシャーは日々のコーチングをジョン・オースチン --- トレーシーの兄(弟?)に手渡した。

しかしながら、当時のサンプラスは、フィッシャーによれば「反抗期の真っ盛り」で、オースチンとの関係は短命に終わった。

1988年ナビスコ・マスターズの間、イワン・レンドルの家に1週間滞在したが、それさえもサンプラスの態度に、直接の変化をほとんどもたらさなかった。

レンドルはフィッシャーに、サンプラスは本能的なプレーヤーだが、その天性を磨くために進んで努力する人間ではないと感じた、と言った。(レンドルのまさに正反対)

1989年の間、サンプラスは100位付近をウロウロしていた。フィッシャーとサンプラスはしょっちゅう口論をした。そしてフィッシャーによれば、何らかの「かなり重大な争い」が起こった。昨年の後期に彼らが袂を分かつ前、この別離はサンプラスの夢を粉々にするという事を、唯一の生徒は悟るだろうとフィッシャーは断言した。

「フィッシャーは、僕が彼なしでUSオープン、あるいはウインブルドンに優勝できるわけがないと言った」とサンプラスは振り返る。「彼は常に正しいと思っていたから、僕は怯えたよ。いまは思っている、おそらく僕には彼が必要なんだろうってね」

「彼がUSオープンで優勝すると思ったかって? いいや」とフィッシャーは認める。「彼がレンドルと上手くやれなかったら、そしてゴットフリードと上手くやれず、私とも上手くやれなかったから、彼は決して上手くいかないだろうと考えていた」

最終的に、サンプラスはある者と上手くいった:彼自身だ。フィッシャーと別れた後、サンプラスは「ニック・ボロテリー・テニス・アカデミー」で2週間を過ごす事にし、ジョー・ブランディの監督下でウェイトを挙げ、走り、テニスをした。それから彼は1990年オーストラリアン・オープンに独りで出かけ、そこで4回戦に進出した。それは彼のキャリア最高のグランドスラム成績に等しかった。

2月には、フィラデルフィアで最初のプロタイトルを獲得した。お尻の筋肉の怪我、ウインブルドンでの期待はずれの1回戦敗退が、一時的に上昇を遅らせたが、控えめなブランディがいまやしっかりとコーチに就き、サンプラスは正しい方向に進んでいた。彼はUSオープンでピークに達した。

「私は彼のお尻に火をつけたのだと思う」と、ブランディ --- 元の職人的プロは言う。「私は彼に『君はテニスを務めとみなすべきだ。もし君がちゃんと準備しないなら、誰かが君のテーブルから食べ物を盗んでいくよ』と言い聞かせたのだ」

「僕は自分のケツを叩いたのさ」とサンプラスは言う。「そして僕はいま、一生懸命やっている。トップ10、トップ5の選手であるためにしなければならない事が、心を占めている。僕はキャリアを終える時、才能があったのに努力しなかったためにそれを無駄にしたとは考えたくない」

心と身体が共に機能しているいま、サンプラスにスローダウンするつもりはない。USオープン後にダラスで行われたエキシビションでレンドルに勝利して、サンプラスは真夜中近く、ボロテリー・アカデミー内の自宅に到着した。彼はトレーナーのパット・エチェベリーに電話をかけ、深夜のトレーニングのために彼に会う手はずを整えた。月の光の下、サンプラスは白い砂浜で前後に走り回った。その晩の夢は、遅くまで待たなければならないであろう。

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1996年? 1997年?
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ピートはジュニア時代から「専門家」の見立てを裏切り、初のUSオープン優勝時にも予想をくつがえしてきたのですね。最後のUSオープン優勝の時にも、「もう彼は終わりだ」という大方の見方をくつがえしたわけで、己の間違いを認めたくない人たちにとっては、「小憎らしい」存在であり続けたのかしら。

筆者のデビッド・ヒグドンは、ごく初期の頃からピートを見守ってきた人で、かなり親しく、彼をよく理解していたと言えそうですね。この記事ではキャリア初期のピートの孤立感について、少し誇張した書き方をしていますが、レンドルやアンドレス・ゴメスなどは彼に目を掛け、またエドバーグはよく一緒に練習をしてくれたそうです。

後年、ピート・フィッシャーの人生は厳しい局面を迎えましたが、先日(2004年スコッツデール)ツアー初優勝を果たしたビンス・スペイディアが、彼にコーチを頼んでいたと聞きました。もう医者は続けられないものの、それなりに平穏な生活を送っているようで何よりです。

<参考:デビッド・ヒグドンの記事>
アメリカ版TENNIS
1991年9月号
サンプラスがレーバーから学んだ事

アメリカ版TENNIS
1993年9月号
ザ・スイート・ワン

アメリカ版TENNIS
1994年7月号
クーリエとサンプラスが語り合う

テニスマガジン
1996年1月5日号・1月20日/2月5日号
ガリクソン家での朝食

インスタイル
1996年9月号
ザ・プレーヤー

ATPサイト、SIサイト
2003年8月21日
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