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2003年8月21日
寡黙な戦士
文:David Higdon


サンプラスの孤独で苦しい、そして輝かしいキャリアを振り返る


ウインブルドンの由緒あるセンターコートと神聖な緑の芝生を、ピート・サンプラスは自分の庭にしてしまったが、その入り口にはラドヤード・キプリングの詩の引用が刻まれている。

「もし勝利と大敗に遭遇したら、その2つを同じく受け止めたまえ」

ピート・サンプラスが歩んできた偉大さへの道のりを、これほど正確に表す詩句はないだろう。彼はテニス界最高の選手として歴史に記される。しかし彼の勝利も、彼がその途上で耐えてきた試練や苦難の前ではかすんでしまう。サンプラスの勝利を振り返る時、コーチ・親友で、脳腫瘍により1995年(訳注:1996年5月)に亡くなったティム・ガリクソンのために彼が流した涙、そしてコート上に文字通りまき散らした腸(ガッツ)を思い出さずにはいられない。

新記録となった2000年ウインブルドンのタイトルは、次のように記憶されるだろう。闇が迫る中、フラッシュが暗がりをライトの煌めきに変え、寡黙な両親が見守る前で、彼は涙にむせんだ。彼らは息子がグランドスラム・タイトルを勝ち取るのを、初めて直接見たのだった。

しかしながら、彼が第2週の間、事実上1本の足でプレーした事は忘れられるだろう。彼の痛めた左足は、他の日には痛みを我慢する事もできたが、試合前には痛み止めの注射を必要とした。それでようやく芝の上で、アスレチックにプレーする事ができたのだ。

サンプラスはクールで超然とした存在感を放ち、めったにガードを下げる事がなかった。しかし、それゆえこのような瞬間が作られたのだ。彼の魂へのドアが少しでも開いているのを見た者には、はっきりと分かる。4年前のウインブルドン優勝後、サンプラスはロサンジェルスの自宅に戻る途上、メディア出演のためにニューヨークに1日滞在した。そこで彼はついに私に強いられて --- 彼はそれを「口やかましい」と呼んだが --- 弱みを見せた。

朝に行われた長いインタビューの数々が終わり、彼はTV局のスタッフに付き添われてエレベーターへと向かっていた。彼は突然立ち止まり、上の階まで歩いて上がりたいと言った。そして素速く私を階段室の中に押しやり、背後の重いドアをバタンと閉めた。

「 #&%*!」
人に聞かれない所で、サンプラスは吠えた。そして靴を脱いで、左腕を私の右肩に回し、我々は数段の階段を上った。彼の左足はほとんど役に立たない状態だった。「Today Show」出演に先立って夜明けに服用した鎮痛剤は、完全に効き目が切れていたのだ。しかし上の階に到着し、ドアを開けた時には、サンプラスは靴をはき直していて、最後のインタビューのスタジオへと素速く歩いていった。そして彼の不快感については、誰にも漏らさなかった。

サンプラスは自分の選んだスポーツにおいて、独りで立っていた。比喩的には彼の偉業ゆえに、そして文字通りテニスというスポーツの性質ゆえに。選手がステージ上で独りで競うという点で、テニスはスポーツの世界ではユニークな存在だ。かつて作家 Jay Winik が「ウォールストリート・ジャーナル」の社説で述べたように。

「スポーツ解説者は……サンプラス氏を特別なカテゴリーに据える。マイケル・ジョーダン、タイガー・ウッズ、マーク・マクガイアーなどのために予約済みの所に。しかしこれは、サンプラス氏の偉業をとても控え目に見積もっている。失礼ながら、これらの素晴らしい運動選手の1人として、サンプラス氏が対峙する心身をすり減らすような日ごとのプレッシャーには直面してきていない。

そして皆「調子の悪い」日々には頼るべき誰かがいる。ゴルフにはキャディ、ボクシングにはコーナー、野球とバスケットボールにはチームメイトが。テニスはそうではない……。サンプラス氏は全くもって完全に独りで、それをやってきた」

生後18カ月で、兄が適当に作ったフットボールを、幼いピートが繰り返しまっすぐ蹴り上げるのを父親が見た時から、サンプラスは天賦の才に恵まれているようだった。ソテリオス(サム)サンプラスはやがてピートをテニスに向かわせ、それから息子のトレーニングを1人の医者に託した。その医者はIQ200を誇る秀才だったが、テニスコーチとしての経歴は全くなかった。

ピート・フィッシャー博士は内分泌学が専門の小児科医だったが、完璧なテニスプレーヤーを「創造する」という、マッド・サイエンティスト的構想を持っていた。彼は従順な生徒にロッド・レーバーの古い18ミリフィルムを見せ、サンプラスにいつか「史上最高のプレーヤー」より上になるのだと言い聞かせた。これはすべて、その子供がまともなバックのパッシングショットを打てる前の話だった。

しかし才能はそこにあった。ジュニア・サーキットでたくさんの試合に負けていた時さえ、オブザーバーは溢れかえった。1987年、私が「Tennis Magazine」のためにサンプラスについて書いていた時、USTAジュニア育成コーチの Greg Patton は語った。「彼らは技能をピート・サンプラスに投げ売りし、彼を紙ヤスリで磨き上げただけでなく、絵の具を塗り重ねた。彼らは12もの異なった特製絵の具を、この子供のいたる所に塗りたくったのだ。彼は1つの芸術作品である」

フィッシャーは、ジュニアでの成功がサンプラスには欠けているという懸念を、プロになるための準備には無関係であると退けた。フィッシャーは言った。「目標は常にウインブルドン、競争相手は常にロッド・レーバーであった」

サンプラスは最初の4つのグランドスラム大会では、2回戦を突破しなかった。しかし1990年USオープンで、彼の駆け出しのテニスキャリアにおける最もホットな2週間を送った……「時期尚早の光芒」と、いま彼は呼ぶ。彼は19歳でその大会に優勝し、大会史上最年少男子チャンピオンとなった。その過程で4人の元、そして将来のナンバー1プレーヤーを打ち負かした。トーマス・ムスター、イワン・レンドル、ジョン・マッケンロー、そしてアンドレ・アガシ。「スポーツ・イラストレイテッド」誌はサンプラスを表紙に載せ、「スター誕生」という見出しをつけた。

それから彼は後退した。1991年、敗戦が重なり、メディアやファンの注目は彼からエネルギーを奪った。そしてサンプラスは素速く元の殻の中に撤退した。どん底は1991年USオープンだった。当時伸び盛りだった若いアメリカ人、ジム・クーリエに準々決勝で敗れた後、サンプラスはタイトル防衛のプレッシャーが「重荷」であったと認めた。

彼のコメントがジミー・コナーズに伝えられた時、そのベテランは 39歳で、大衆の喜ぶ準決勝への進軍のまっ最中だったが、サンプラスを激しく非難した。「それは最大の×××だ」と、コナーズは言った。「俺はUSオープン・チャンピオンになるために生きてるんだぜ。もし彼が負けてホッとしてるのなら、ゲームの何かが……そして彼が悪い!」

天才児サンプラスは、間もなくティム・ガリクソン --- 元そこそこのプロ --- を見いだした。彼らは不釣り合いなカップルだった。2人が一緒にやり始めた頃、ガリクソンは道教の本を読んでいたが、ピートは高校生の時「ライ麦畑でつかまえて」を斜め読みして以来、本を拾い上げた事さえなかっただろう。

ガリクソンの友人は彼に「ミスター猛烈」とあだ名をつけ、クーリエはサンプラスに、人生へのお気楽で無頓着な彼のアプローチから「甘ちゃん」とあだ名をつけた。

ガリクソンなら体重を減らしたいと思ったら1日10マイル、週に7日走り始めるだろう。逆に、のどかなサンプラスは努力以上の結果を期待した。レンドルはかつて1週間サンプラスの面倒を見た事があるが、時間の浪費だったと言明した。「彼は成功には何を要するか分かってない」とレンドルは言った。「彼は必要とする事をしたがらない」

サンプラスはガリクソンを雇った時点までに、たくさんのコーチをさっさと解雇していた。フィッシャーとの苦い別れが「指導者」について彼を幻滅させた。そして他人の教えにほとんど敬意を払っていなかった。ガリクソンはかつて18位まで行ったが、サンプラスは計算して、グランドスラム大会前の週末にはプレーしなかった。世界1位の選手になるという事について、彼は何を知っているのか?

しかし彼らの協力関係は、ガリクソンの早すぎる死までうまくいっていた。「ピートは私が有能だと証明したんだよ」と、死の直前、ガリクソンは語った。「面白い。私はいま、ふさわしい地位にいるような気がする」

確かにサンプラスは21世紀(訳注:20世紀?)の最も偉大な運動選手のリストに属している。その栄誉の大部分は、賢明で、過小評価されがちなポール・アナコーンの監督下で得たものだ。

サンプラスは6年連続でATPツアー1位だった。これは新記録で、彼のグランドスラム・タイトル記録より、さらに破りがたい偉業だと我々の多くは見なしている。

彼のキャリア賞金獲得額は4,300万ドルを超え、ライバルであるアンドレ・アガシの倍近い。これは14のグランドスラム・タイトル、11のテニスマスターズシリーズ・タイトル、5つのツアー最終戦タイトルを勝ち取った能力の証なだけでなく、15年のキャリアを通じて、容赦なく断固として完璧さを追求した証でもある。

前述したウインブルドン・センターコート入り口の引用は、テニスプレーヤー、ピート・サンプラスの本質を反映している。しかし彼の精神をいっそう正確に反映し、いま夫・父親として新しい人生へと踏み出す彼を導くのは、キプリングの詩全文である。

  もし勝利と大敗に遭遇したら、その2つを同じく受け止めたまえ。
  もし大衆と話す機会があれば、徳を保ちたまえ。
  さもなくば王と共に歩んでも、民の資質を失うだろう。
  大地とそのすべては君のものだ。そのうえ君は一人前の男になれる。息子よ!