テニスマガジン
1996年1月5日号・1月20日/2月5日号
アメリカ「TENNIS」誌からのエア・メッセージ
ガリクソン家での朝食
文:David Higdon
訳:川口 由紀子


   前号の「ニュース・フラッシュ」でもお伝えしたように、ピート・サンプラスの
コーチ、ティム・ガリクソンは今、闘病生活を送っている。悲しむべきことに、
悪性の脳腫瘍に冒されているのだ。しかし、それでもなお彼は、彼を必要と
している人々のために心を開いているという。
   そんなガリクソンの現況を伝える一文を2号に渡ってお送りしよう。

イリノイ州・ウィートン
パパのティムは家にいる。彼は興奮した様子で、リビングルームにある革製のリクライニング・チェアに腰掛けている。8歳になる娘・ミーガンも興奮して彼の膝の上に座っている。それは7月9日の日曜日の早朝のことだった。ピート・サンプラスとボリス・ベッカーが、ガリクソン家の大型テレビの中でウインブルドンの決勝戦を戦い始めていた。ミーガンはイチゴとクリームのいっぱい載ったお皿を手にしていた。たっぷり盛りつけた冷たいホイップクリームが紙皿の上で踊っている。「皿の上で食べるようにしなさい」とパパは教える。

12歳の息子・エリックはソファーにもたれかかっている。手にはふたつの大きなリモートコントロールを持っている。彼はコントロールしているのだ。エリックはちょうどアガシと同じ白いバンダナをしている。その前面にはファンキーなデザインが見える。彼が自分でデザインしたのだった。"アンプ" と呼ばれる自分の会社を作ったばかりだった。たぶん母親の勤めている法律事務所の弁護士のひとりが手伝って作り、パテントみたいなことについて教えたのだろう。


ウインブルドンのウェアのコマーシャルになった。コンチータ・マルチネスがスクリーンに突然現れると、そのコマーシャルのナレーターは「クイーン」と言う。そしてテレビがサンプラスを映し出すと、「キング」と言った。コマーシャルがブルーのブレザーを身につけた英国の紳士の場面に戻ると、エリックが自分流のナレーションをつけ加えた。
パパのティムはガンにかかっている。脳のガンだ。腫瘍が4つあるのだ。

ガリー(ガリクソン)は家に居る。居間には友達が集まっている。ウインブルドンでの朝食だ。ガリー家での朝食だ。部屋の後ろの方にはオーストラリアのシドニーから来ている友達のグラハムが座っている。グラハムは、1月、ガリーが医師団からあと3〜6か月の命だと告げられたとき、オースーラリアン・オープンに来ていた。医者たちは間違っていた。6か月はあと数日で過ぎることになる。近所の人たちとその息子、この地で車のディーラーを営んでいる人、妻・ローズマリーの事務所の数人の弁護士たち、すべてが、ここイリノイ州ウィートンで試合を観戦していた。彼らはシナモンとレーズンの入ったべ−グルが本当のべーグルと言えるかどうか議論していたが、一致した意見は出なかった。

「ピートのパッシングショットは良くない」
ガリーの友達のスティーブが厳しい第3セットのとき言った。
「自信を失っているみたいだ」
「ピートは自信を失っていないさ」とガリーは言った。そのことに関しては確信を持って言っているようだった。

ガリーの友達は、ベッカーがファーストサービスに失敗すると必ず、「ダブれ、ダブれ」と繰り返し、唱えた。ガリーはガムを吐き出した。彼が口を大きく開けて笑うと、いつでもガムが彼の歯と同じ容積くらいたっぷりと見える。「ここはウインブルドンのプレーヤーズボックスよりずっといいよ」と彼は言う。
「友達や家族がみんないるし、すばらしい食べ物もある。そして思いきり応挨できる」
彼は嘘はつかない男に見える。でもそんなはずはない。この20年でウインブルドンに行かなかったなんて今度が初めてのことなのだ

ゲームカウント4−5。30オールでベッカーのサーブのとき、サンプラスはバックハンドのリターンをチップさせ、それはネットの上で少しの間止まった。ガリーは叫んだ。
「越えろ」
しかし、それはサンプラス側に戻ってきた。ガリーを含む誰もが唸った。「父さん」とミーガンは言う。
「あの人たちはときどきネットの上に打つのね」
ガリーの友達は皆、笑った。まるでガリーが言いそうな言葉だった。


コーチのティムは家にいる。彼は世界中で最高のプレーヤーのひとりを教えているのだが、同時にコリナ・モラリウともいっしょにやっている。彼女は16歳であり、ランキングは世界300位台の選手だ。ティムは彼女の父親、アルビン・モラリウ博士を「守護の天使」と呼ぶ。というのは、1月20日の午後、サンプラスをウォーミングアップさせたあと、ガリーは気分が悪くなったのだが、そのとき、博士とコリナもオーストラリアにいた。そしてメルボルンのエプワース病院で、ティムが黒色腫と誤って診断され、心痛む予測を与えられたのだったが、そのとき、モラリウ博士はティムに向かって、「その診断は間違っているようだ」と告げたのだ。しかし、誰も確かなことはわからなかった。

サンプラスは、1月24日、ティムと最後の4日を過ごしたあとのオーストラリアン・オープンの準々決勝で、クーリエを相手にプレーした。試合中、突然、彼はひとつの幻を見た。それはティムが病院のベッドで横たわって泣いている姿だった。彼にはティムがさめざめと泣いている姿を正視することに耐えられなかった。それで彼も泣き出したのだが、泣きやんだあと、彼はクーリエを倒した。そこに居合わせた多くの人々は、それは今までで一番びっくりした試合だったと言った。

サンプラスはウインブルドンでのファーストセットをタイブレークで落とした。ティムは直ちに椅子を変えた。彼は少しばかり迷信深いのだ。サンプラスはすぐに、ベッカーのサーブをブレークし、セカンドセットを楽に勝ち続けた。椅子を変えたのが効いたらしい。
ティムの座っている椅子の奇妙なアングルからはほとんどテレビのスクリーンを見ることができなかった。しかし残りの試合も、そこから動こうとはしなかった。そこではもっと見づらくなるかもしれなかった。オースーラリアでは、ティムは何日もの間、周辺視野を失っていたのだ。

ティムの崇拝者は、やはり偉大なスポーツ・インストラクターであるビンス・ロンバルディだった。ティムは1970年、コーチのロンバルディがガンで亡くなったと知ったとき、打ちのめされた。偉大なコーチがなぜ死ぬのだ、そんなことってあるものなのか? ロンバルディはいつも、物事にまさるのは精神の力だと説いてきたが、ティムは今でもその言葉を信じている。そして彼の "守護の天使" であるモラリウ博士も、彼が長生きできないなんて何の根拠もないと言ってくれた。「私はこの病気に勝つ」とティムは言う。ティムは彼の弟子(テレビのスクリーンで欠点のないテニスをしている)と同様、自信を失いはしない。

双子の兄弟の兄、ティムは家にいる。もうひとりの双子の弟・トムはウインブルドンで、トム・クルーズとニコール・キッドマンの2列前の席に座って試合を見ている。サンプラスが試合の主導権を握り、大事なサードセットを取ると、ウインブルドンにいる双子の片割れは、サンプラスに向かって元気づけようと叫ぷ。「ピストル・ピート」を短くして「ピストル」と呼んで。サンプラスは試合のあとで、試合中のトムの叫び声は、まるで自宅で、テレビからはおかしなアングルにある居心地の悪い椅子に座っているもうひとりの双子の兄弟の声のようだったと言った。

双子のこの兄弟は、もと、プロツアーにおけるトップのダブルスチームだった(彼らは12年前、ウインブルドンの決勝に達していた)が、今回、ふたたび力を合わせることになった。ティム&トム・ガリクソン・ガン研究基金のためだった。

ウインブルドンの放送中にその基金のことがアナウンスされると、ガリーの友達のグラハムは2階に上がり、100ドルのオーストラリアン・ドル紙幣を探して持ってきた。「モノポリーのゲームに使うんだろ。そのお金は受け取れないよ」とティムは冗談を飛ばした。

4月に双子の兄弟はフロリダにゴルフに行った。
「私は痙攣性麻痺を起こしていた」
ティムは説明する。
「今までの人生で、もっとも強くそう感じた唯一のときは、スキーを習おうとしたときだった」
ティムはクラブヘッドでゴルフボールを打つことができなかった。
今では、冗談でそのことを言える---「ゴルフでトムを負かすという長年の課題はどうやったら克服できるのだろう?」---しかしそれは、頭丈な体をいつも誇りに思っていた双子の片割れ、ティムにしては、ぎょっとする経験だった。彼は恐れていた。本当に恐れていた。

兄のティムは頼繁にゴルフに行くわけではなかった。ゴルフをするときは、彼は帽子と長袖のシャツを身に着けなければならなかったし、太陽を避けなければならなかった。それに、ゴルフコースヘは、車の送り迎えが必要だったが、彼は他人と同乗するのが嫌いだった。彼は自分の車を持っていたかったし、自分で運転したかった。ちょうど息子がテレビのリモコンをコントロールするのを気に入っているように…。



現在、脳腫瘍による闘病生活を送っているピート・サンプラスのコーチ、ティム・ガリクソンの現況を伝える一文の後編。子供の父親として、夫として、コーチとして、そして双子のトムの兄として、以前と変わらぬガリクソンの温かい人柄が伝わってくる---。

夫であるティムは家にいる。天気のいい朝などは、妻のローズマリーをウィートン駅まで歩いて見送りに行く。「雨の朝だってそうさ」とティムは誇らしげに言う。もし居眠りをしていなければ、シカゴのダウンタウンで仕事をしている妻が帰宅するとき、駅まで歩いて迎えに行く。彼女はそのことが気に入っている。

ティムはしばしば居眠りをする。毎日飲む3錠の薬と、シカゴにあるロヨラ大学病院でしばしば受ける静脈注射の処置によって、眠くなるのだ。42日間の化学療法の最初のラウンドの間、ステロイドも投与しなければならなかったが、それは吐き気を催させ、体を弱らせた。今日は3回目の化学療法の26日目だった。最初の回で、腫瘍は50パーセント縮小した。次の回でさらに15パーセント縮小した。ローズマリーは妻として、そして医学的知識を持った元看護婦として、病気の進行を密接にフォローしていた。

『乏突起(神経)膠細胞』という4つのまれな脳腫瘍に対してつけられた医学的な名前は彼女の神経をまいらせはしなかった。腫瘍がティムの健康にどのような影響を及ぼすとも…。94年の秋、スウェーデンで、ティムは夕食後、虚脱状態に陥り、ガラスのテーブルに崩れ落ち、鼻の骨を折り、顔に傷をつけた。2か月後、ドイツにおいて、ローズマリーがホテルの部屋の中で彼を呼んだとき、彼の話はごちゃごちゃで、間違いだらけだった。ローズマリーはフロントに電話し、彼を救急車で病院に運んでもらった。医者たちはティムに、大丈夫、問題はない、小さな発作だから心配はいらないと告げた。彼らは間違っていた。

化学療法の影響の累積が、彼を弱らせている。彼は少々弱々しそうに見えるが、しかし、依然として陽気で温かい人柄だ。ヘアスタイルはショート。それはたいていの人が想像するような治療の影響からではなく、夏に向けて短くしたかったという、それだけの気持ちからである。ミーガンとエリックはそれをクールだと感じている。ローズマリーはそうは思っていないが、それでも自分の夫は世界中で一番ハンサムだと思っている。

ガリクソン氏は自宅にいる。多くの人々はここを訪れたり、彼に手紙を書いてくる。ガンという診断が認定されて以来、送られてきた手紙が入った大きな袋がとってある。どの手紙も救いの手紙であり、捨てることはできなかった。
『ディア・ガリクソン』とある手紙は始まっていた。それはガリクソン氏がかつてトーナメントで出会った少年からの手紙だった。少年は、ガリクソン氏がいくつかのアドバイスと励ましの言葉をくれたこと、そしてそのことを忘れないだろうこと、落ち込んでいたとき、ガリクソン氏の言葉によって元気づけられたことなどを書いてきた。少年は、自分の手紙でガリクソン氏が元気になればと願っている。

他の手紙とか訪問も、アドバイスにあふれていた。ある手紙では、毎日ティースプーン10杯の唐辛子の服用を勧めている。ティムはそのアドバイスを気に留めていない。少年のとき、最初のコーチ、コロネル・ハンク・ジャングルから次の助言をすでに得ていたからである。
「すべての人にとって効くことを試してみなさい」
ガリクソン氏はそのモットーに従って生きてきた。

サンプラスがウインブルドンで3年連続のタイトル獲得を果たした直後から、電話が鳴り始めた。ティムはどの電話も取らなかった。テレビで授賞式の様子を見ていたのだ。NBCのインタビュアーであるバド・コリンズがサンプラスに質問をする前に、勝利者は、この勝利をガリクソン氏に捧げることを口にした。サンプラスは、ガリクソン氏のために祈っていたと述べた。その部屋にいたすべての人々はしーんと静まりかえっていた。ガリクソン夫人は部屋から出ていった。自宅で、頬をふたつの拳の上に乗せて座っているガリクソン氏はつぶやく。
「ありがとう」
誰もが静かにしていた。そして誰かが言った。
「ついに終わった。そしてやっと我々がここにいる理由でもある、女子のダブルスの試合を見ることができるぞ」


ピートの相棒であるティムは自宅に居る。彼はキッチンにある電話でピートと話をしている。ふたりはお互いを "相棒" と呼び合う。「歴史だ」とピートの相棒は言う。
「これは歴史的なことだ」
ピートはすばらしいプレーをしたのだから、優勝を手にするに値すると彼は言った。そして、「ありがとう、相棒」とティムは何度も何度も繰り返して言った。彼は受話器を高く掲げた。キッチンにいた人々の多くは、ピートがかつてトーナメントでもらったシャンパンをボトルからついで、おめでとうと叫んだ。

ふたりの相棒はしばしば電話で話をする。その会話はもはや、「クロスコートのフォアハンド・ウィナー」とか「飛行機の乗り継ぎ」などといった言葉ではなく、「MRI」とか「生検」、そして「全体論」などといったものになってきた。ピートは来週でも相棒の家を訪ねようと思っている。まだウィートンには行ったことがなかった。ピートはこの病気に関することすべてに少しばかリシャイであるとティムは思っている。最近になるまで、彼はいつもと同じように振る舞っていた。例えば、友達のビタス・ゲルレイティスの葬式に参列をしなかった。今ではそのことにとても狼狽している。「他人の痛みにどう対処するかについて、僕はかなりほかの人と違うんだ」と彼は、言う。

ピートはテレビのインタビューを受けている。
「一番大切なことはテニスの試合に勝つことじゃない」とピートは言う。
「大切なのは、健康だよ」
彼は相棒こそ真のチャンピオンだと言う。

パパのティムは自宅にいる。彼は息子に、火曜日のテニスのレッスンに立ち寄ると約束した。ジュニアプレーヤーたちに助言でも与えられたらと思ったからだ。そしてミーガンに対しては、これからもっと家にいるよ、と言った。結局のところ、ピートとはもう年間26週もいっしょに旅をする必要はないと考えた。「私の未来は違ったものになりそうだ」と彼は言う。
「これからは家族と意味のある時間を過ごしたい」

それでも、彼は良くなれば、巡業に戻るだろう。それが彼の人生なのだから。彼はパパであるが、またコーチのガリクソンでもあり、双子の片割れであり、夫であり、ガリクソン氏であり、ピートの相棒でもある。家族や子供のことは大丈夫。仕事に復帰したら喜んでくれるはずだ。しかし同時に悲しむかもしれない。何しろここ6か月間は毎日家にいたのだ。彼らはさみしく思うだろう。