アメリカ版TENNIS
1993年9月号
ザ・スイート・ワン
文: David Higdon


2つ目のグランドスラム・タイトルを獲得し、
ピート・サンプラスの行く手には、
もう9つ控えているだけである


ファンはいつもピート・サンプラスに愛していると言う。彼のスタイル、彼の態度、彼の外見を愛している。ファンは彼に触れ、偉大さ、特別な何か、何か甘いものを感じたいと思う。

去る5月、フロリダのサドルブルック・リゾートでサンプラスが練習を終えると、年輩の女性グループが彼と握手しようと近づいてきた。「私たちはあなたを愛しているわ、ハニー」1人の銀髪の女性が言った。「僕もあなた方を愛していますよ、ハニー」とスイート・ワンは答えた。

サンプラスを「スイート・ワン」と名づけたのはジム・クーリエである。形容詞としても名詞としても適切なニックネームだ。サンプラスは本当にそういう人だから。

それはプロテニス選手にランクをつける、コンピュータ上のトップの地位ゆえだけではない。むしろ同世代における彼の立場、彼に触れたいと願う人達や彼を負かしたいと望む選手達とは違う、彼の特性のためである。

彼は疲れ切ってしまう事もあり得る、しかし彼は決して打ちのめされないだろう。身体的には彼に手が届く、しかし彼は決して心は奪われないだろう。

「とてもシンプルだよ」自分自身を描写するよう請われると彼は言う。「シンプルな生活、シンプルな男さ」と。シンプル? それはサンプラスではない。シンプルとはアンドレ・アガシのような者を描写する言葉だ。ポップヒーロー、ピエロの王子……彼のラスベガス的振る舞いは、充分な知識のない人たちにはユニークに見えるかもしれない。しかし実際は、以前に何100回と見た事のある磨き上げられたショーに過ぎない。

これはアガシへの侮辱を意味しているのではない。エンターテインメントなしでどうしろというのだ? コート上でもオフコートでも、彼を見るのは楽しい。しかしアガシは10代のつかの間に熱を上げる対象だ。サンプラスは、いわば複雑な恋愛。彼に触れたいと願う、しかし同時に彼を揺さぶり、叫び、顔をピシャリと叩きたくなる時がある。

そうでなくてなぜ、ウインブルドン準々決勝・アガシ戦の第4セットの間、彼の頭がうなだれてくるのを見て怒り狂い、テレビに向かって金切り声を上げたというのか? 彼はその試合がどれほど重要か、気づいていなかったのか? それはウインブルドンだったのだ! 数週間前に彼の外見をからかった男に、彼は負けようとしていた。彼はこの男をやっつけ、不適切な発言の償いをさせたくなかったのか?

いいや、そのような感情、そのような動機づけの方法は、我々には意味がある。スイート・ワンは競技に個人感情を持ち込まない。彼はそれを越えたところにいる。彼は我々がテニスプロに抱く、自惚れ屋というイメージには合わないかもしれない。しかし彼の自信のレベルは、他のいかなるスポーツのいかなるアスリートにも匹敵する。

6年のプロキャリアの間で、対戦相手の技量がその日は彼より上だったとサンプラスが結論を下したのは、わずか2回だけであった。両方ともそれは同じプレーヤー --- ボリス・ベッカー --- だった。しかしそれは数年前の事だ。負ける時はいつも、それは自分の標準レベルでプレーする事に失敗したからだとサンプラスは感じる。

感情を見せないでいられるサンプラスの能力に、誰もが驚嘆する。しかしそれは断固とした作戦であり、ある選手が相手のバックハンドを攻撃すると決める事と大した違いはない。サンプラスは1つの理由、たった1つの理由のために冷静さを保つ。それは彼が勝つのを助けるという事だ。

もしラケットを投げたり、きたない言葉を吐いたり、あるいは握り拳を振り上げたりする事が勝つのに役立つなら、彼はそうするだろう。しかしこのような道化た仕草は、彼のフラストレーション・痛みと関係しているのだと、対戦相手に分からせてしまうだろう。いいや、スイート・ワンはアンタッチャブルだ。

サンプラスは頭が良いのか? 彼は才気に長けてはいない。しかし聡明で、答えるより多くの質問をする、ツアーの中でも物を知りたがるプレーヤーの1人である。世間知らずか? 多少は。しかし彼のショックを受けたような表情、ボーイッシュな大笑いは、彼は誰も信用していないという事実を覆い隠している。

この特質は彼のユース時代を通じて強化された。無数の「専門家」は彼に、ゲームへの彼のアプローチは見当違いだと言ったのだ。頑固か? 信じられないほどその通り。しかし彼はたいていのプレーヤーより、自分のゲームに手を加える事を厭わない。せっかちか? 彼を待たせてはいけない。しかし彼は向上のために予定表をセットしない方が好きだ。

面白みがないか? あるいは表面上は。しかし殻が割れそうもない人ほど魅力的なものはない。「彼が何を考えていたか、全く分からなかった」と前のコーチ、ピート・フィッシャーは言う。そして何がサンプラスを行動させるのか、誰も分からない。「私は今でも分からない」と彼の姉、ステラは認める。「彼はあまり感情を見せない」

興味深い事に、テニス界が最後の不可解な偉人、アーサー・アッシュを失った同じ年に、サンプラスは分かりにくいスターになっていった。アッシュには対戦相手だけでなくファンをも困惑させる冷静さがあった。過去10年、彼らは惜しみなくアッシュを称賛してきたかもしれないが、殆ど誰も彼を理解していなかった。

サンプラスにも同じ事が言える。アッシュと周りとの距離は、見かけ的には明白であった。彼は白人のスポーツにおけるアフリカ系アメリカ人であった。一方サンプラスは、ごく普通の少年のように見える。しかし見かけは、しばしば誤解を招く。ごく普通の少年は、生後18カ月でフットボールを繰り返しまっすぐ蹴ったりはしない。

シンプルな男 --- 友人、家族、そしてサンプラス自身、マントラのようにそれを繰り返す。そして我々は彼らを信じる。また、たいていの実況アナウンサーやテニスコーチが、サンプラスのストロークはシンプルでクラシックだと言ってきたので、我々はサンプラスのようにテニスボールを打てるだろうと信じる。しかし、やってみるとうまく行かない。

「ピートを真似る事はできない」とサンプラスのコーチ、ティム・ガリクソンは言う。「人々は彼のようにはボールを打てない」と。サンプラスはまるでそのカテゴリーで属さないかのように、彼は「人々」という言葉を強調する。

ガリクソンはサンプラスと共に多くの時を過ごし、彼をコーチし、おだてて練習をさせ、個人的な問題を彼と論じてきたが、サンプラスの近くにはいない事を知っている。今後も決して近づけないだろう。スイート・ワンには手が届かない。彼は特別である。

テニスの鑑識眼のある者はサンプラスの華麗なショット・メイキングを愛するが(「スイート・ピートのゲームは、ジョン・マッケンロー以来の最もエキサイティングなものだと思う」とテレビ解説者のマリー・カリロは言う)、多くのテニスファンは彼を単調でつまらないと見なす。

ファンにとってサンプラスの練習を見る事は、あたかも神の顕現のようであろう。サンプラスが抱くテニスへの抑えられない喜びが輝くのは、そして彼の素晴らしい才能と尊大さが完璧なハーモニーを奏でるのは、練習の間である。

5月の初め、サンプラスがサドルブルックでフレンチ・オープンの準備をしていた時、私は彼と数日間を共に過ごした。そこは彼がガールフレンドのデレイナ・マルケイと暮らすフロリダ州タンパの家から、車で15分のところにある。

リゾートにはレッドクレーのコートが2面ある。そして大体、近くのデイドシティに住むクーリエが1日2回の練習セッションの1回目を終えた頃に、サンプラスは練習を始めた。かつての親友同士はちょっと挨拶を交わすだけだった。彼らの関係は、世界のトップ2という現在の地位のため、少しばかり緊張したものになっていた。それでも彼らは尊敬し合い、共にトレーナーのパット・エチェベリーに見てもらっている。

サンプラスは毎日3時間コートで練習し、その後疲れ切った体でエチェベリーのところへ行き、スプリント、ウェイト・トレーニング、フットワークの訓練を受ける。サンプラスはエチェベリーとのセッションの前後に、素早く昼食休憩を取る。まさに「素早く」だ。「誰もピート・サンプラスのような食べ方をしない」ある日ガリクソンが、サンプラスの空の皿を示して言った。「彼は世界一の早食いだ」と。サンプラスはその証拠を口いっぱに頬張って大笑いした。

コートでは、サンプラスは微笑み、悪態をつき、叫び、大喜びし、不平を言い、たじろぎ、ふさぎ込んだ。ガリクソンはしばしば首を振り、サンプラスのやんちゃぶりに歯を見せて笑った。「時々、彼がどれほど優れているか、普通のファンは正しく理解できるのだろうかと思う事がある」と、ガリクソンは後で言ったものだった。「彼はとても素晴らしいアスリートなのだ……生来のパワー、信じがたいほどのフットワーク、技巧」

ワークアウトの中の練習セットで、サンプラスはガリクソンに、対戦相手のどこへエースを打つべきか尋ねる。ガリクソンがセンター、あるいはクロスコートと言うと、ピートはそこへ打ってエースを取り、私の方を向いてにっこり笑う。一度などは4ポイント連続でコーナーへ打った。対戦相手のツアープロは、2回ラケットに触れさせる事はできたが。最後のエースで、サンプラスは大声で叫び、握り拳を振り上げ、そして怒鳴った。「気分は最高!」

練習の間じゅう、サンプラスは喋ったり呻いたりしていた。「暑すぎる」「退屈だ」「脚が痛い」「肩が硬い」などなど。イギリスのマスコミはウインブルドンで、彼に心気症患者というレッテルを貼った。現在のコーチも前のコーチも異議を唱えるが。「13歳の時、彼はカラマズー(USTA国内少年選手権)で過去最長試合をし、右手首の疲労骨折を起こした」とフィッシャーは思い出す。「次の日、彼の対戦相手は疲労を理由にプレーしなかった。ピートは骨折した手首でプレーした」

ウインブルドンのアガシ戦では第3・4セットを失った後、サンプラスは闘う事を止めていたように見えたが、私はフロリダでの出来事を思い出した。スプリント練習の終わりに、 エチェベリーはもう1回ラップを促したが、サンプラスは汗ビッショリになって寝転がり、もう続けられない、足が鉛みたいだ、目眩がする、あれこれあれこれ……と駄々をこねた。

ついに、多分終わりにする時だとエチェベリーがしぶしぶ認めると、サンプラスは飛び起きて「いや、僕はオーケイだよ。もう1回やろう」と宣言した。彼は私の耳に「時間かせぎさ」と囁いて、コーンを回るスプリントを始め、最後にはガリクソン(最初に大きなリードを与えられていたのだが)を抜き去ったのだ。

「みんなはジム(クーリエ)の競争心が強い事は承知しているだろう」と、クーリエのコーチ、ブラッド・スタインは言う。「彼らが分かっていないのは、ピートがどれほど競争心が強いかという事だ」

そのいくらかは、確かにガリクソンのおかげだ。非常に競争心が強い人間で、プレーヤーとして常に欲求とコートでの賢さを持っていたが、スーパースターになるだけの才能はなかった。プロ初期のサンプラスとは、まさに正反対の存在である。サンプラスの練習・トレーニングへの態度は、フィッシャー後・ガリクソン前の多くのコーチ達を激怒させた。その中にはジョン・オースチンやブライアン・ゴットフリードも含まれる。

しかし柔和な中にも堅固な意志を持つガリクソンは、正しいボタンを押したようだ。「彼は僕にばかな事を言ったりしない」それがサンプラスの誉め言葉である。しかも、ガリクソンには無駄口を叩き続ける才能がある。一度などはインタビューのレポーターが居眠りしてしまったほどの。「ティムはすごいお喋り好きなんだ」とサンプラスは笑いながら言う。

しかしながら、サンプラスの最も重要な腹心の友はマルケイだろう。彼女はこの秋から法律学校で勉強を始める。2人は1990年USオープン優勝直後に出会った。テニス界の多くの人々は、そのタイミングゆえに彼女の動機と誠意に疑問を抱いた。

2人の年齢差も(サンプラスは22歳でマルケイは29歳)引っかかった。しかし中傷はしだいに影を潜め、いまや事情通の人々は、サンプラスが集中し研ぎ澄まされた状態を保つのに、彼女は不可欠ではないにしても、助けとなっていると感じている。

マルケイはサンプラスの最初の --- そしてもしかすると最後の --- 恋人で、サンプラスの成長期に関わってきたフィッシャーが残した、情緒面の空隙を満たしたように見える。カリフォルニアのティーチング・プロ、ロバート・ランズドープは、冗談ぽく彼らを「*サンプラスとデリラ」と呼ぶ。裏切りは起こりそうもなさそうだが。大方の者が同意するが、間違いなく彼らは恋愛中である。
訳注:「サムソンとデリラ」(サムソンは旧約聖書に登場する大力の勇士、 愛人デリラの裏切りでペリシテ人に捕われ盲目にされた)に引っかけている。

2人の関係は当初、無理からぬ事ではあるが、サンプラスと家族との強い絆に緊張をもたらした。内省的な人々である家族は、いつも彼と親密だったのだ。ソテリオス&ゲオルジア・サンプラスが4人の子供(ガス、ステラ、ピート、マリオン)と1羽のオウム(ホセ)、全財産をフォード・ピントの屋根に積み上げ、ワシントンD.C.からカリフォルニアのランチョ・パロス・ベルデスまで車で引っ越ししてきた時からずっと。

最近ピートはあまり西部の家に帰らないかもしれない。しかし彼は頻繁に電話をし、財政管理は家族に任せている(兄のガスは彼のマネージャを務めている)。家族は彼の運命の女性を受け入れ、彼の最も熱心なサポーターであり続けてきた。直接彼の試合を見ると、神経質になりすぎるきらいはあるが。実際、7月4日の独立記念日に、 弟が念願の大会で優勝したとステラが1階のラジオで耳にした時、 ソテリオスとゲオルジアは2階で新聞を読んでいたのだ。

6年前ピート・フィッシャーは、教え子のジュニア・テニスにおける順位について「TENNIS」の記者に尋ねられた時、その質問を的はずれであると退けた。「目標は常にウインブルドン、競争相手は常にレーバーであった」と彼は言った。今年、サンプラスは目標の半分を達成した。そして彼に約50万ドルをもたらし、フィッシャーには100ドルをもたらした。彼は1988年の段階で、1993年までにサンプラスがウインブルドンで優勝すると、友人と賭けをしていたのだ。

いま、サンプラスはレーバーを視野に置き、今月フラッシング・メドウで追求を続ける。 そこで彼は2回目のUSオープン優勝を果たし、偉大なオーストラリアのプロが獲得したUSオープン・タイトルの数に並ぶ事を望んでいる。しかしまたレーバーはウインブルドンで4回、オーストラリアン・オープンで3回、フレンチ・オープンで2回優勝した。サンプラスにはさらに9つのグランドスラム・タイトルが必要だ。彼の行く手には遙かな道が続いている。

数字はサンプラスを混乱させるものではない。この22歳の男は高校中退かもしれない。しかし伝えられるところによれば、彼は数学的な頭脳を持っている。「うん、僕は数を取り扱うのがかなり得意だよ」と彼は言う。「特にゼロはね」

彼は間もなくキャリア獲得賞金総額で600万ドルのマークを通り越すだろう。しかしロンドンで彼が獲得した1つのタイトルに比べれば、お金の価値は重要でなくなる。フィッシャーの単調で頑固な声 ---「目標は……ウインブルドン、競争相手は……レーバー」--- がサンプラスの心の中で響き渡る。

サンプラスはフィッシャーを助言者、コーチ、親友 --- ロサンジェルス地区の小児科医がかつて正当に主張できたすべて --- としては遠ざけたかもしれない。しかし彼はまだフィッシャーの設定した高遠な目標から逃れられない。サンプラスは人生で多くのもの --- 見知らぬ人とのアイコンタクト、高校のパーティー、トップスピン・セカンドサーブ --- を避けてきたが、歴史的な偉大さはその1つではない。

10代で、まだテニスコートで何の結果も出していない時でさえ、彼は会話の中で未来像に触れた。「僕は……と記憶されたい」と。現在は未来においてのみ評価される。過去が成功であると思われる場合に限り、彼は未来において満足するだろう。

「まだ進歩する余地がたくさんある」とフィッシャーは言う。「彼は誰もが不可能だと見なす事をする事で、レーバーに匹敵できるだろう。彼が2回のグランドスラム優勝で留まるか、あるいは11回のグランドスラム優勝者になるか、もしいまの段階で賭けるとしたら、私は11回と言うだろう。私は常に、史上最高のテニスプレーヤーになる事を彼に言い聞かせてきたのだ」

想像してくれ。史上最高のテニスプレーヤー。それはフィッシャーだけではなかった。サンプラスは思い出す事もできないくらい前から、どこでも、誰からもそれを聞いてきた。「ここにいるのは正真正銘の天才児である」とガリクソンは言う。彼の分析力と社交性はサンプラスに完璧にマッチしているようだ。

「ピートが8歳の時から、いかに彼には才能があるか、人々は彼に言い聞かせていた」ランズドープは1980年代初期にサンプラスと一緒にやっていたが、カリフォルニアのローリング・ヒルズ・エステートにある「ジャック・クレーマー・テニスクラブ」で彼がヒッティングをすると、コートに群衆が集まっていたのを思い出す。「11歳の時に彼はサービスラインでボレーができ、ローボレーをいとも簡単にこなしていた。それは私の心に何よりもクッキリと焼きついている」とランズドープは言う。

かつてのUSTAジュニア・コーチであるグレッグ・パットンは1987年、16歳のサンプラスについて、夢中でレポーターに喋りたてた。「彼らは技能をピート・サンプラスに投げ売りし、彼を紙ヤスリで磨き上げただけでなく、絵の具を塗り重ねた。彼らは12もの異なった特製絵の具を、この子供のいたる所に塗りたくったのだ。彼は1つの芸術作品である」
それを想像してくれ。

もし彼がアメリカ版アンリ・ルコントになっていたとしても、誰がサンプラスを責められただろう? ルコントはウィナーを打つのが好きな、見かけ倒しの、自惚れ屋のテニスプロだ。小切手をかき集め、そしてただ彼より一生懸命やり、スマートにプレーするだけの選手達に負ける男。確かに、果たされなかった可能性と砕かれた将来性を抱えたプレーヤーが、テニス界にはたくさんいる。

ユースの頃、サンプラスはすべきでないと言われるすべての事をした。上の年齢のグループでプレーし、両手バックハンドから片手に換え、テニスアカデミーに行かず、プロになるために高校を中退した。彼の唯一の指導は、風変わりな医者からのものだった。彼のメインの仕事は、赤ちゃんを死の瀬戸際から救う事だったのだ。

「今日は何人の命を救ったの?」フィッシャーが練習に現れると、サンプラスは言う。フィッシャーははにかみ屋の友人と笑い合い、それから少年に、フォアハンドのグラウンド・ストロークをダウン・ザ・ラインに100回、クロスコートに100回打つよう命じたものだった。

ヨーロッパのスラム・シーズンに向け、サンプラスはキャリア最良の4カ月を誇っていた。30勝3敗という勝敗記録と3タイトルを挙げたのだ。過去3年間を合わせても、1月から6月までは、サンプラスは3回しか優勝した事がなかった。彼は通常、天気とともにホットになる。

「1990年は、僕のゲームは本当の意味では身についていなかった」USオープンで優勝した年に触れて彼は言う。「僕はただホットな2週間を過ごしただけだったんだ。いま、僕はもっと堅実で良いプレーヤーだ。少し大人になった。1990年の時は、何が起こったのか自分でもよく説明できないような2週間だった。ただとても速く起こった。そして多分、僕はそれに対して準備ができていなかった」

現実に、気乗りしない様子で1991年USオープンに戻り、前回優勝者としての立場を嘆き、あらゆる空騒ぎを終えられて嬉しいと敗戦後に述べた事をサンプラスは批判された。おそらくサンプラスは正しい。多分USオープン優勝は、彼のキャリアにおける時期尚早の光点だったのだろう。

その2週を除けば、グランドスラムでの彼の進歩は、不可解なほど着実な様相を呈している。1991年USオープン以外には、サンプラスはグランドスラム大会で前の年より悪い成績だった事がない。たとえばウインブルドンでは、最初の2年間は1回戦で敗退した。1991年は2回戦、92年は準決勝進出、そして今年は優勝した。

USオープンでは1989年に4回戦、1991年に準々決勝、そして去年は決勝に進出した。この昨年の決勝は、6-3、4-6、6-7、2-6でステファン・エドバーグに敗れたのだが、冬から春の間ずっとサンプラスの中にくすぶっていた。

「試合に臨むにあたっては、気分は良かったんだ」と彼は言う。「僕はいいプレーをしていなかった。それでも第3セットを取れるサービスゲームを迎えたのに……。もし僕があの第3セットを取っていたなら、もしかするとオープンで優勝できていたかもしれない。あれはおそらく僕のキャリアで最もひどい敗戦だった」

ウインブルドンでは、彼はもうグランドスラム・タイトルを取りこぼしたくなかった。それはクーリエ戦の最後で、なぜ彼が目に見えて硬くなったか説明しているのかもしれない。彼とクーリエは共に、それを肉体的な疲労のせいだとした。しかしサンプラスはただ「その時」の重みに捕らえられたと言った方が適切だろう。

彼は試合後に「なんだかボンヤリしている」と認めさえした。サンプラスは彼のやる気に疑問を呈していた人々をいま一度笑い者にした一方、1990年の段階で彼は将来ウインブルドン・タイトルを獲ると予想したテニスレジェンド、フレッド・ペリーの予言を成就した。

「僕は自分を駆り立てる人間だという事を、みんなは分かってないのだと思う」とサンプラスは言う。「人はピート・サンプラスを見て、彼は少しひたむきさに欠け、無頓着であると考える。でも僕は、テニスに関しては一生懸命やっている。僕はテニスの試合に負けるのは好きじゃない、それは確かだ。みんなを打ち負かす事で多くの喜びを得る」

「フレッド・ペリーやレーバーのような人たちから敬意を受けるのは、晴れがましい気分だよ。僕をいい気持ちにしてくれる。でも僕はそういう事についてはあまり気に懸けない。それほど考えない」

実際に、サンプラスはレーバーに一度しか会った事がない。そして彼らの会話は短くてぎこちないものだった。対戦相手についてするように、サンプラスはレーバーを客観化する。彼は人間あるいはテニスプレーヤーではなく、崇拝の対象である。ゴルフの話を交わしたりするような誰かではない。レーバーは最後の本物のオールコート・チャンピオンであったとサンプラスは信じている。そして実際、サンプラスはこの春、フレンチ・オープンのタイトルを夢見て……いや、 期待してパリに向かったのだ。

スポーツに関わる者は皆、サンプラスとレーバーを対面させ、彼らが歴史やウインブルドン、ボレーのテクニックなどについて論じるのを見たいと望む。しかしサンプラスは望まない。「スイート・ワン」にとっては、レーバーは手の届かない、子供時代に見たビデオテープ上のイメージであり続けるのだ。なるほど。もしサンプラスが棒の先のにんじんを掴んだら、何が彼を走らせ続けるというのか?