インスタイル
1996年9月号
ザ・プレーヤー
文:David Higdon
撮影:George Holz


彼の仕事は世界を旅する事である。だからテニス界トップランクのピート・サンプラスは、
休みをとる必要がある時には、まっすぐフロリダの自宅へ向かう



「ハニー、ちゃんとベッドへ行きなさい」
女性の声がキッチンから聞こえる。ピート・サンプラスの長年のガールフレンド、デレイナ・マルケイが、冷蔵庫からゲータレードを取り出しているのだ。サンプラスは居間のソファに寝そべり、大きな微笑を浮かべる。「さっき僕が君にそう言わなかったっけ?」とやり返す。実際、最終試験のためにロースクールの教科書と一日じゅう取り組み、マルケイ自身が疲労と戦っているのだ。後に優秀な成績で合格するのだが。

サンプラスはしかめっ面をし、疲れた様子で深呼吸する。「僕はもう少しだけここにいなくっちゃ」と呟く。サンプラスは、今月ニューヨークで開催されるUSオープンで4回目のタイトルを勝ち取り、4年連続ナンバー1で終わりたいと考えているが、いまは厄介でおなじみの敵:ジェットラグ(時差ボケ)と戦っている。

「アジアから飛行機で戻ってくると、それだけで何日間かグッタリしてしまうんだ」
太い眉の下の目は落ちくぼんでいる。

4〜5日前、サンプラスは1996年ジャパン・オープンで優勝し、アジアン・ダブルと呼ぶ仕事を完了した。前の週には香港でも、男子プロツアーの大会で優勝していたのだ。

タンパへ戻る途中、彼はロサンジェルスに立ち寄って家族と過ごし、それからシカゴを訪れて、ガンに冒されたコーチであり親友のティム・ガリクソンを見舞い、短いが感情的な時を過ごした。

(我々の訪問の1週間後、 ガリクソンは44歳で亡くなった。葬儀の席で、サンプラスは泣きながら、コーチの家族に最初のウインブルドン・トロフィーを贈った)

ガリクソンとの悲痛な試練の時期、サンプラスは頭上に新しいトロフィーを掲げるよりも、多くの日々を家で過ごしてきた。彼は7つのグランドスラム・タイトル(グランドスラム大会は、1年で最も高名な大会である)を獲得している。

いまもキャリア・人生の頂点にいるが、自分が新しい段階に入ったと実感している。間違いなく、ガリクソンの死は、彼も悲劇を免れえないのだという事を教えた。その事実は、彼とマルケイの仲をいっそう緊密にした。


少なくとも感情的には。サンプラスとマルケイが家にいる時、2人はたいてい別行動をし、別々の部屋で過ごしている。マルケイの本拠地は書斎のようなグリーンルームで、サンプラスは5,500平方フィートの家の心臓部で多くの時を過ごす。レッドルームは広々としており、家族の写真や、数えきれない海外旅行で手に入れた土産物・小物であふれている。

彼が寝そべるのはここ、巨大なエンターテインメント・ユニットの前である。そこには大1台、小2台のテレビ、ステレオ、そして彼の最も価値ある所有物が収められている。オーストラリアン・オープン・トロフィー、3つのUSオープン・トロフィー、そして3つのウインブルドン・トロフィーである。


これら7つのグランドスラム・タイトルは、サンプラスを特別な一団に加えた。プロテニスツアーにおける彼の同世代 --- 同僚のアメリカ人マイケル・チャン、アンドレ・アガシ、ジム・クーリエ --- は、それぞれ1つ、3つ、4つのグランドスラム大会で優勝している。

ジョン・マッケンローは7つのグランドスラム・タイトルを獲得し、ジミー・コナーズは22年以上のキャリアで、8つのグランドスラムに優勝した。サンプラスは8月に25歳になったばかりで、これら2人のスーパースターの偉業に感嘆しながら成長した。だが自分のゲームや態度については、オーストラリアの偉人ロッド・レーバー --- 11個のグランドスラム・タイトルを獲得し、多くの人に史上最高の選手と称されている --- をモデルにした。

「目標は常にウインブルドンであった」
1987年、サンプラスの子供時代のコーチであるピート・フィッシャーは、レポーターに語った。

当時サンプラスは、カリフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデス出身の、16歳のやせっぽちな少年でしかなかったのに。「競争相手は常にレーバーであった」

サンプラスが8歳の時から、小児科医のフィッシャーは、自分が天才児をコーチしていると知っていた。「私はいつも彼に、史上最高のプレーヤーになるのだと言いきかせていた」とフィッシャーは語る。

だが1988年、彼がプロに転向した直後、 フィッシャーはコーチを辞めた。

2年後、サンプラスが19歳でUSオープンに優勝し、この大会の史上最年少チャンピオンになった時、彼はフィッシャーの示した方向へ向かっているようだった。1990年を5位で終え、前年から76位ランクを上げたのだ。

その後、サンプラスは即座にきりもみ飛行に入った。彼はコーチを解雇した。1991年のUSオープンで負けた後、失望よりもプレッシャーから解放されたと認め、メディアやコナーズから批判された。彼にはガッツが欠けているとコナーズは感じたのだ。

いま、サンプラスは語る。「僕は注目を浴びたが、それに対する準備ができていなかった。そして注目の的になるのが心地よくなかった。まだ片隅にいたかったし、煩わされたくなかったんだ。僕のゲーム自体にも、まだ多くの穴があり、非常に辛い時期となった」

サンプラスは立ち直った。1992年にコーチとなった元選手ガリクソンの、コート内外でのサポートと指導によるところが大きかった。ガリーは社交的で、すぐに若いサンプラスから慕われた。

そして間もなく、世界を巡るテニスサーキットで、サンプラスの腹心の友として、より大きな役割を担うようになった。1995年オーストラリアン・オープンの最中にガリクソンが脳腫瘍と診断されると、サンプラスは試合の途中で涙に暮れた。

16カ月にわたるガリクソンの闘病中、サンプラスとマルケイ --- 彼の人生ただ1人の恋人 --- の絆は深まった。

彼の旅行スケジュールと彼女の勉強のため、共に過ごす時間は限られるが、2人は1990年にダラスのエキシビションで出会った時から、心は分ちがたく結ばれてきたも同然だった。彼らの初デートは「5日間続いた」とサンプラスが称するものだった。

6年後、2人はお互いの言葉をみなまで言わせず、からかい合う仲だ。サンプラスは注目を浴びるのが苦手で、生来の魅力やウィットを隠してきたが、彼らが初めて家を見てまわった時の事を思い出して、笑いながら言う。「この家に入ると、彼女はあたりを見回して言ったんだ。『完璧だわ! すべて変えましょう!』って」

寝室は「壁に4インチ厚さの曇りガラスが張り巡らされていたのよ」とマルケイは言う。現在はアンティークの大型衣装だんすが設えられ、片側には本が、もう片側には、洋服掛けと化したエクササイズ・マシーン(Stairmaster)が収められている。「ここはまるでラスベガスみたいだったわ」

メインの浴室へと続く長い廊下には、サンプラスとマルケイのウォークイン・クロゼットがある。

彼の方にはTシャツとショートパンツが積み重ねられ、そして似たようなデザインの真新しいナイキ・テニスシューズが並んでいる。

彼女の方には、もっとバラエティに富んだ履き物が並んでいる。

「そしてここが、イメルダ・マルコスのクロゼットです」と、サンプラスは冗談を言いながら通り過ぎる。

「違うわ」と31歳のマルケイが反撃する。「私としては*ニーマン・マーカスのクロゼットと思いたいわ」
訳注:アメリカの有名な老舗高級デパート。

「ここに引っ越してきた時、僕に必要なのはテレビと熱いシャワー、寝室だけだとデレイナに話したんだ」と、屋根付きのテラスへと歩きがらサンプラスは言う。

「でも、いますべてが整い、満足しているよ。旅に出ていると、家が本当に恋しくなる。帰るのが待ちきれないよ」

翌朝、 マルケイが5日連続で行われる試験の初日に向かうと、レッドルームは屋内ジムに変わる。サンプラスは専属トレーナーのトッド・シュナイダーを招き、肉体的にきついフレンチ・オープンへの準備として、1週間の集中トレーニングに取り組んでいるのだ。

エクササイズ・マシーン(Lifecycle)が引っ張り出され、シュナイダーはマッサージテーブルを準備する(その上でサンプラスは柔軟・筋力トレーニングをする)。

「休みを取ると、ゴルフをしたりして数日間はリラックスする」とサンプラスは言う。「それから、うずうずしてくる。トレーニングしたくなる。再びテニスをしたくなるんだ」

日中のワークアウトが激しいのは明らかだ。その晩、ホッケー観戦へと向かうドライブの最中、サンプラスはズボンを膝の下まで下ろしていた。紳士がテニスをしていた時代の生まれ変わりと見なされる彼が、下着姿でハイウェイをドライブしていたのだ。シュナイダーがフロントシートに屈み込み、電気刺激の器具をサンプラスの痛む左膝に装着し、理由は判明した。

車がアリーナに到着する時までには、サンプラスはズボンを引き上げ、 R.E.M. のキャップをかぶり、自分と世界の双方に満足げな男のオーラを身にまとう。辛抱強く列に並んで入場すると、サンプラスは誰かが「ようこそ、ピート!」と叫ぶのを耳にする。彼はファンに微笑みかけて答えるのだ。「ありがとう。ここにいられて嬉しいよ」と。




プライバシーを公開したがらないピートが、こういう取材を受けたのはおそらく初めてで、ファンながら驚きでした。レポーターが気心の知れた David Higdon だったからでしょうか。同様の記事がフランス「Paris Match」とイギリス「Hello!」にも掲載されました。ここでは3誌分の写真を紹介しています。

ビリヤード・テーブルが置かれている場所は、屋根付きのテラスで、プール、バーベキュー・グリルへと繋がっているそうです。ハリケーンが来たら、どうなるんでしょ?

マッサージを受けている写真はちょっとキワドくて、「あのタオルの下はどうなってるんだ〜!」と、一時 samprasfanz で盛り上がりました。(^^;