2006.07.07
− 本当に今日の先生のお話はとてもよくわかりました。ありがとうございました。お話の中で核廃絶運動が平和憲法を守りきるということ、核廃絶運動をしている人は平和憲法を言わない、逆もしかりとおっしゃいました。私たちは長崎の証言運動などをしていますが、かならず憲法の問題がでます。この2つのことは不可分の関係にあると私たちは考えています。その点がちょっと首をかしげたところです。
浅井:じつは言葉が足りなかったと思います。被爆者の方が憲法を大切に思っておられるということはよくわかっています。例えば広島におきましてもこの間、平和記念資料館の元館長の高橋さんとシンポジウムで一緒になりました。そこで彼は被爆者にとって第9条は命であると非常に明確にお話されておりました。私も被爆者の方や一部の運動をやっておられる方々の間で、平和憲法の闘いと核廃絶の闘いとを結びつけて考えておられる方がいるということは理解しています。ただ一般的に言った場合、特に私のように東京に長くいたものの感じで言うと、憲法問題を語るときに核廃絶の問題がそれほど明確に問題意識として浮上してこない。特に広島にきてから平和憲法そのものに対する声があまりにも聞こえてこないものですから、非常に私としてはとまどっている状況があります。いずれにしましても事実としての見方をすれば、広島・長崎があっての平和憲法です。このことをもっと多くの人が本当に常識的に理解するようになるには、かなりまだ努力が必要なのではないかと思っているということです。ですから被爆者の方における憲法9条の重さについては、私もまったう疑問を持っておりません。
− 先生は昭和天皇の戦争責任の追及ということに言及されましたけれども、むしろ日本における天皇制そのものについて、きっちりした考えを戦後持たなかった、一つの結論をつけなかったということまで考えないとなかなか難しい問題ではないかと感じました。それと若干関係するのですけれども、最近、新憲法草案の関連で日本国憲法を改めて勉強しました。その中でアメリカの学者が日本国民の世代の違いの表れだという観点を持たないといけないとしているものを目にしました。むしろ外国の方から日本人論を教えられると私自身感じて、遅いのですが、目が覚めた感じがしました。私たちが前向きに日本国憲法のすばらしいところを訴えることは必要だと思うのですが、そこではやはり先ほどの天皇制についての不十分さが関係してきていると思うのです。そこで加害責任の世代としての日本国憲法という観点を、まず最初に強調して、それから戦争反対、核廃絶の運動へと結びつけていくという形でもっともっと強調していかなくてはいけないかなという感想を持ちました。先生のお考えをお聞かせください。
浅井:いまおっしゃったことは私も考えていることです。昭和天皇の戦争責任について決着をつけるという発想がなければいけないのではないか、ということですが、私は厳密に言うと、昭和天皇個人の戦争責任の問題と、天皇制そのものをどうするかという問題とは、分けて考える可能性があると思います。天皇制そのものの問題を正面からとりあげると、昭和天皇の戦争責任問題がかえって弱められてしまう可能性もあるのです。ですから私自身はまず、昭和天皇の戦争責任問題を明確にする。その上で制度としての天皇制を日本において存続するのか、廃止するのか、という問題に議論を及ぼすことが、私としては国民的にも議論しやすい話になるのではないかと思います。議論しやすいだけではなくて、論理的にも、問題の本質を考える上でも、このような二段構えのアプローチの方が良いのではないかと思います。この2つの問題が一緒にされてしまうと、天皇制の問題だけに議論が集約されてしまって、肝心の昭和天皇の戦争責任問題が明らかにならなくなってしまうという懸念を私は強く持ちます。ですから私としては、天皇制に賛成する人も賛成しない人も、とにかく昭和天皇が日本を侵略戦争に導いたその結果としての広島・長崎という問題に対して負うべき責任をはっきりさせる。これは歴史の事実を認識するかどうかという問題で、天皇制という制度の問題とは違うわけです。そこはしっかりさせておかなければならないのではないか、と私は思っております。
それからアメリカの学者による日本国憲法というのは日本人の世代問題の現れという観点を押さえなければならない、ということについてですが、このことは私も今日の話とは別の機会で別の切り口で話をするときには非常に強調する点です。要するに日本国憲法というのは、日本が敗戦を受け入れ、ポツダム宣言受諾し、そのポツダム宣言受諾を憲法化したものが今の日本国憲法であるということです。ポツダム宣言では日本が徹底した民主化をすること、人権国家になること、戦争犯罪人を処罰すること、といったことを要求していました。それを受け入れて日本は降伏し、日本国憲法を制定したのですから、その憲法の中に近隣諸国に対する侵略・植民地支配に対する反省と謝罪という内容が本質的に入っていることは間違いないことだと思います。そういう意味で、このようなお話をする際にも、そういう点を観点に入れ、打ちだした上で、天皇の戦争責任についても話すべきだとおっしゃられれば、これから気をつけさせていただきたいと思います。
−2つほど教えていただきたいのですが。一つは最初の方と重なって申し訳ありませんが、核廃絶という課題が憲法問題と結びつくというのはその通りだと思います。しかし現時点の局面では、かなり異質な原理的違いという部分にもう入ってしまっているのではないか、という気がするのです。ホロコーストとの関係で、核廃絶の問題を世界に訴えていくことは国をあげて取り組んでいく課題である、というのはその通りだと思います。今の憲法改正、改悪の問題は自民党がしていることです。そういう見方をすれば、憲法の改悪を阻止することは、反自民という性格を持つことになります。国外に向けて国をあげて核廃絶を訴えることと、今現時点で国内にある緊迫した憲法改悪の問題、これらはなかなか結びつき難い現実の違いがあるような気がしてしまうのです。その違いをふまえながら両者を結びつけるにはどのような視点があるのか、お考えを教えていただきたい。
もう一つは個人を国家の上に位置づける国家観ということで、少しよくわからない部分がありましたので教えていただきたい。個人を国家の上におくと言ったときに、連想されてくるのは独裁者のことです。自分を国家の上において国家を自分の思うがままに手段として使う独裁者が連想されます。もちろん意図はそれとはぜんぜん違うことを言われているのですが、構造的には同じになってしまう気がします。先生はお書きになったものの中で、欧州人権裁判所の例をあげてこれを説明してらっしゃいます。その説明では、個人が国家のくびきを離れて自由に裁判所に提訴し、それが認められれば欧州人権裁判所がその国に圧力をかけたり、実行力を及ぼすのだから、国家の上に個人が立つ必要性があると述べられていると思うのです。それは個人を国家の上におくというニュアンスよりは、個人が国家の支配・統制の下に絡め取られない要素があるという指摘のように思えるのです。ですから国家の上におくというのはちょっと違うような感じがしています。この点について補足していただければと思います。
浅井:核廃絶の課題と日本国憲法とを結びつけることには、現時点ではいろいろな難しさがあるのではないか。特に憲法問題については反自民にならざるを得ないということをおっしゃったということは、核廃絶については反自民・与党でなくても考えられるという意味が入っているのだと思います。私はそもそも反自民の色合いをなくす工夫として出てきたのが究極的核廃絶、核廃絶というものを無限の彼方に押しやってしまう考え方だったと思います。それにも関わらず、今までは核廃絶という言葉が入っているから一緒に行動するという傾向があったことが、実は日本の核廃絶の訴えの国際的説得力を弱めてきたのではないかという感じがしています。ですから私は、やはりこの究極的核廃絶という課題を、核廃絶の側に立つものとして受け入れるかどうかが問われていると思います。究極的核廃絶という言葉は、実は1978年の国連軍縮総会への政府の対処方針として初めて出てきたものです。私はそのとき外務省にいたものですから、なぜ「究極的」という言葉が使われるようになったのかよく知っています。結局それはアメリカの核政策と矛盾しないようにするための苦心の作だったのです。私から言わせれば核廃絶の目標を実際は無にするに等しい内容のものです。それを核廃絶と言っているからいいと言うことは結局、日本の核廃絶運動そのものを弱めることになるのではないか、と長い間考えてきました。そういう観点からすると、核廃絶の課題は自民も巻き込む国民的課題であり得るというのは、実はそうではないのではないか、と私は思わざるを得ません。特に私がこの点を強く申し上げるのは、次のような理由からです。例えば日本が憲法9条を変えて、自民党草案にあるように自衛軍を保持し、いわゆる戦争する国になったなら、そういう日本が核廃絶と言っても私は国際的な説得力はゼロだと思います。誰もまともに聞いてくれないと思います。まして日本は、明確にアメリカの核政策を受け入れる国になるのですから。その日本がそれまでと同じ気持ちで、われわれの主体的な気持ちとしては同じ気分で核廃絶を言ったって、国際社会から見れば、「もうお前は違うじゃないか」とならざるを得ない。そんな日本に今までのような国際的な核廃絶運動のリーダーシップはとれないと思います。ですからそういう意味におきましても、私はやはり究極的ではない核廃絶と9条を守り抜く闘いというのが、明確に一体化していく必要があるだろうと考えています。また9条を守るという人と核廃絶は大事だと思う人とを比較した場合、今のところはまだ核廃絶とためらいなく答える人が多いということも考えると、9条を守る闘いをエネルギーあるものにするためにも、核廃絶の重要さを認識する人に、核廃絶のためには憲法9条がないとダメなんだということをわかってもらう。そのことに成功すれば、結局9条改定阻止のエネルギーが全体として強まり、高まってくるだろう、という運動の認識も私が持っているということも付け加えたいと思います。
「個人を国家の上におく」国家観というのは、私が2年前に出した『戦争する国、しない国』という本の中で、私がつくった造語です。この本を読んでいただければ、その個人というのは独裁者を意味するものではなく、人間としての尊厳を備えた個人あるいは基本的人権の感覚を我がものにした個人という意味であることはわかっていただけると思います。今日のようなお話のときにはそのような前置きを省いてしまうものですから、そういう疑問を招くということを私は反省しなくてはならないと思って聞かせていただきました。私が言う「個人を国家の上におく」国家観の個人というのは独裁者ではありません。私としては今お話したように認識しておりますので、これからはそういう誤解を招かないように、きちんと前置きして使いたいと思います。「個人を国家の上におく」というあまりにも俗っぽい表現だったことが、ご指摘になったような疑問を招いているのだろうと思いますけれども、私としては非常にわかりやすく考えるために造った言葉なのです。以前の明治憲法の時代の日本では国家が個人を牛耳っていたでしょう。今はそうではないのです。主権者としての個人が国家を支配するのだという国家観が大事です、ということです。実は国家と言うと「お上」だとか、「抗しがたい相手」という感覚が、かなり多くの日本の人たちの中に今なおあるということを、今までのいろいろな会合の中で実感せざるを得なかったものですから、「そうじゃないんだよ」、「平和憲法、人権・民主主義の憲法においては、国家というのはあくまで私たちが使いこなす道具なんだ」、「そういう考え方を持ちましょう」、と言いたいために使っている言葉なのです。
− 2006年に向けての情勢という話の中でアメリカの情勢は詳しくお話いただいたのですが、もう一つのアジアの問題、特に中国をめぐる情勢・状況を先生がどのように認識をされ、現在の状況をどのように見ておられるのかをお聞かせください。以前、ソ連邦崩壊のあと岩波新書で、先生が中国についての認識を読んだことがあります。ソビエトの崩壊後、中国も後に続くのではないかと言われていた頃のことでしたが、著書の中で、先生が明確に中国の立場を割合きちんと述べられておりました。ですから演題とは少し外れますが、現在の中国の状況をどのように先生がみられているのかをぜひお聞きしたい。よろしくお願いいたします。
浅井:私は、基本的には中国はかなり良質な国家指導部を持っていると思います。そして今伝えられている中国共産党の腐敗・堕落といったことは、最高指導部ではなくて、住民との間の中間層に位置する支配者、つまり中国共産党の中堅幹部のことだと思います。権力の腐敗ということは日本でもたくさんあることです。中国でのことは度が過ぎているかどうかという問題がありますれけども、私はこの権力の腐敗現象というのはどの国にもある問題だと思っております。むしろ私が注目しているのは、その上に立つ国家の最高指導部が明確な国家戦略を持っているかどうかです。戦略という言葉は響きが悪いですけれども、要するに中国という国をどのような方向に持って行くのか、持って行くべきなのか、そしてそのためにはどういうことをしなくてはいけないのか、ということです。これは大変なことですけれども、中国の最高指導部は非常によく考えて動いていると思っています。そういう意味で私は、今の世界の多くの国々のなかでも中国の最高指導部というのは、かなり良質な指導部だろうと思っています。本当に残念なことですが、例えば今の日本の小泉政治と比べれば、はるかに中国の指導部の方が国民のことを考えた政治を行っていることは間違いないところだと思います。もちろんだからと言って、中国が万々歳であるかについて私は自信を持って言えるわけではありませんし、中国は本当にものすごく膨大な課題を抱えています。だから私は彼らが成功しても失敗しても驚きません。と言いますのは、私は80年代初めに中国にいて、中国の将来を予測したこともあるのですが、その予測はまるっきり良い方に外れています。そのときの私の予測は多く特派員、新聞記者から楽観的すぎると嘲られました。その私の予想をはるかに超えたものすごい成果を中国があげてきているのは事実です。しかしそれでもなお、今日、中国は非常に多くの問題を抱えている。本当に13億という人口は並のものではないし、国家も巨大です。中国で本当に豊かなのは沿海部だけで、少し内陸に入ると貧困が支配しています。そういう国なので、国内の貧富の格差もすごく拡大している。また、中国の大企業というのは言ってみれば十数年年前の国鉄と一緒なのです。それが一社ではなくて数千社、大企業にすると六千社あります。その六千社を全部民営化するという膨大な取り組みをしています。このような課題の難しさなどを考えれば、挫折しても、どこかでつまずいても、驚いてはいけないことだろうと思います。ただし最後に言えば、中国がこけたら、それはもうただごとではありません。世界がこけます。そういう意味では、本当に中国にこけられたら大変なことになるという認識で、私たちは反中感情に身をゆだねるのではなくて、いかにして日本を含めた国際社会の共存共栄・繁栄のために中国とつきあうか、という視点でなるべく中国が墜落しないように協力していくことを基本的な方向として考えるべきだと思います。
−関連してですが、先生のレジュメの中に核にかかわる問題と関連して、六カ国協議、台湾問題と中国核戦力の増強、などがあげられています。そしてイラクの問題についてマスコミはあまり取りあげないけれども、逆に北朝鮮と中国の問題については現状以上にクローズアップして報道するという脅威的な状況があり、このことを一つの口実にも使っていると思います。もう一つ、個人を国家の上におくこと、力によらない平和観に基づく国際関係の構築とありますが、これらの関係が、戦後60年を振り返ってこれからというときに非常に重要なことではないかと思います。このあたりを割愛されたような気がしますので、この点をご説明いただければありがたいのですけれども。
浅井:次のようなお話をご紹介するのが良いのかもしれないと今思いつきました。私どもの研究所の主催で連続市民講座を開講しています。研究所の金という韓国からの研究員がいるのですけれども、彼がこの中でこの前、六カ国協議について話をしたのです。そのとき会場から北朝鮮の核ミサイルが飛んできたらどうするのか、あるいはゲリラが日本に侵入してきたらどうなるか、それにしては韓国は日本ほど騒いでいない、そこがまたよくわからない、という発言がありました。それに対して、金先生が言ったことは、私もまったく我が意を得たりという内容でした。先ほど私が最後に申し上げた天動説、地動説の話と繋がってきます。彼はこのように言ったのです。「よく考えてください。北朝鮮がどうして日本を攻撃するのですか。攻撃したら北朝鮮は次の瞬間には灰になりますよ。そんなことを北朝鮮がどうしてまともに考えるのですか。金正日にとって唯一の財産は今の北朝鮮を保つことです。それを灰にするような、攻撃を仕掛けるなどという選択肢はあり得るでしょうか。そういうことを韓国の人たちはよくわかっている。だから北朝鮮からする戦争はない」と。それ以上彼は言わなかったのですけれども、私はそこから付け加えて申しますと、今ある北朝鮮をめぐる戦争の可能性、台湾をめぐる戦争の可能性というのは、ブッシュの先制攻撃戦略の下で初めてありうることなのです。アメリカだって北朝鮮が攻めてきて始まる戦争のシナリオは持っていません。台湾が中国に攻め込んで始まる戦争のシナリオも持っていません。あるのはアメリカが北朝鮮をなきものにしようとして始める戦争のシナリオです。アメリカが中国に戦争をしかけて始まる戦争のシナリオです。しかし、その場合には北朝鮮はそのまま屈するわけにはいかない、そこで一戦と反撃してくる。それは中国においてもしかり。ここから非常にはっきりわかることは、アメリカが何もしなければ戦争は起こらないということです。私の言う「力によらない」平和観ということは、このようなことと結びついています。要するに力を行使するアメリカを押さえる、つまりすべてのことを外交・政治で問題を解決すべきだとしていけば、私はアジア太平洋において戦争が起こる可能性はないと確信をもって言えます。問題はアメリカという猫にどうやって鈴をつけるか、という話に帰着するということです。
− いま先生が話してくださったことに関係して、先だって長崎大学の市民講座の中で元中国総領事の方の話を聞きました。この方は北朝鮮やアジアの問題点についてのお話をされました。そして北朝鮮の核問題、六カ国協議についても言及されました。そこで私は、なぜ北朝鮮の核を容認しないのかとお尋ねしたところ、その方は「金正日体制であれば破れかぶれになったら核を使う可能性がある。そういう意味で自分たち中国も十分北朝鮮の核政策というのには関心を払っている」と答えられました。今日の先生のレジュメの中では、中国が核廃絶ということでは最も近いところにあるとあります。この点をどのように捉えて良いのかということを一つお聞きします。
また天動説的、地動説的ということは、初めてお聞きしましたが、これは良い説明で、私も取り入れていけたらと思います。そこで、これはぜひお聞きしたいのですが、かつて皇民化教育を受けた中で天動説的な国際感覚を持った日本人というのはわかるのですが、戦後・敗戦60年、この間平和憲法を持った中で、曲がりなりにも民主教育を受けてきた私たち日本人が、なぜ今もなお天動説的国際感覚の中でしか生きられないのか、一体その原因は何なのか。いま私たちが生きているこの日本が、天動説的な国際感覚の中で生きているところがあるとすれば、それはまたなぜなのか、このあたりをお聞かせいただければと思います。
浅井:中国の元総領事の方がどういう表現でおっしゃられたのかよくわかりませんけれども、要するに核を拡散するということは百害あって一利なしだという感覚からのお答えだったのだと思います。これは多くの国々が共有することで、NPT体制もそういう認識から始められたと思います。金正日は破れかぶれになったら核を使う可能性があるということでしたが、この破れかぶれというのは、もう自分の国がなくなっても良いから使おうということではないと思うのです。要するに、どうしようもない状況に追い込まれて、他に手がなくなれば自分も消えるかもしれないけれども、俺一人だけ消えると思うなよという居直りということだと思うのです。ですから、本当に彼らが先に核を使うという意味でお使いになったのではないと私は思います。
戦後、民主教育を行ってきた日本で、何で天動説なのかということですが、一番わかりやすい例で言うと、今年の4月に起こった中国・韓国でのいわゆる反日運動に対する日本のマスメディアの報道ぶりを見れば、私はそこに脈々と天動説が生きていると感じるのです。要するに「けしからん」、「反日教育をしているからああいうことになるのだ」、こういう議論しかないわけでしょう。そうではなくて、それにはものすごい伏線があったのです。それは小泉首相の数度にわたる靖国参拝、歴史教科書の問題、韓国の問題について言えば、島根県が竹島条例をつくったという相手を苛立たせる極めつけの行為もあったし、台湾について言えば2月にアメリカと日本の間で交わされた「2+2」という安全保障協議委員会での共同発表で、台湾を日米の共通戦略関心事項として入れたことが中国にものすごく警戒をもって受け止められたなどということがあったのです。そういうことが積み重なってきたから、中国側に「日本は本当になんて国だ」と受け止められ、そこは若い国で非常にナショナリズムの血気盛んな人たちがいて、あのような行動に出てしまうということがあったわけです。このような背景事情を知れば、私たちが刺激的なことをしなければ、彼らもあのような行動は起こさなかったことが容易に理解できます。特に一番問題になっているのは小泉氏の靖国参拝問題です。このことに対する最近の世論調査では一端不支持が増えましたが、また再び支持する人たちの方が多くなっているわけでしょう。中国側から見れば、このようなことは小泉氏個人の問題ではないのかもしれない、という不安感を持たざるを得ないわけです。本当に戦争を肯定する国民が増えてきてしまったのか、と受け止めざるを得ない状況が出てきている。だからこそ彼らには、このまま日本が憲法改正して戦争をする国になったらどうなるのだろう、また来た道を歩くのではないだろうか、という被害者としては当然の警戒感が出てくるわけです。私たちもそれがわかっていれば、いろいろな行動を自制したはずなのです。ところが私たちは天動説で、相手がどう思っているか考えないものだから「相手が悪だ」と決めつけるだけになってしまう。ですから私は、戦後の民主教育は間違って教えられたという自民党筋の言うことにはまったく同意しません。民主教育をさせないようにしてきたのは、戦後の文部教育ですから。それはまったく問題をすり替えた話なのです。民主教育を妨げてきたから今があると私は言いたい。もっと徹底した民主教育が行われていたならば、私は今のような日本にはなっていなくて、もっと地動説的な考え方が国民の間に定着する可能性があったと思われてなりません。