2006.07.07
すでに時間が経ちましたので「Ⅲ 被爆60年の日本・日本人について改めて考えること」については、ごく簡単にポイントだけを申し上げておきたいと思います。まず戦争責任問題。これは小泉首相の靖国参拝問題、歴史教科書問題、憲法改悪の動き、このような現にある動きの中で私たちとして本当におろそかにできない問題になってきています。しかし非常に率直に認めなければならないのは、私たち国民の側にこのような重要な問題として真剣に、深刻に受け止める雰囲気があるだろうか、ということです。それはやはり一部の人に限られているのではないかという気が私はするのです。この点でもドイツと日本との違いを大きくいろいろ考えます。レジュメにはいろいろな事例、一連のことに対する原因をあげておきましたけれども、私がいま一番大きいと思っていることは、最高指導者の戦争責任に対する問い方の違いということです。ドイツでは第二次大戦後、ヒットラー以下の指導者に対する弾劾が徹底的に行われた。それに対して日本では昭和天皇以下のほとんどの戦争指導者は責任を問われることがなかった。だから国民としては一体誰に戦争の責任を問えばよいのかわからない。だから一億総懺悔という訳のわからないことが行われたときに結局、私たちは損したと思うしかない状況に追い込まれているということです。それからもう一つは戦後指導者における過去との断絶の動きです。これは端的に言えば、岸信介氏が、東条内閣の閣僚となった彼が、戦後政治の最高指導者として復権したことが集中的に問題の所在を示しています。ドイツではあり得ないことが日本では公然とまかり通っていた。こういう自分自身、過去を引きずる人が自分の過去を徹底的に清算するはずがありません。そこで現実に起こったことは何かと言ったら、その過去を美化し、都合の悪いことは隠し通すことになりました。そして、このことが戦後60年間、積み重なって歴史的な蓄積となったために、私たちは今、戦争責任問題に向かい合えないようになっている。先ほど述べた原爆投下に対する昭和天皇の責任、あるいは被爆者の方も含めて、例えば原爆災害の補償を求める議論の中で、戦争という国民全部が味わった不幸だから受忍することは国民の義務であると言って、国の責任を承認しないいわゆる「受忍」論に対して、「そんな馬鹿な」ということが出てこない。このことも私は最近のいわゆる被爆者の方々の補償問題を見ていて強く感じる点です。やはり援護法という国の論理に乗っかって議論をせざるを得ない状況というのは、基本的に弱さがあるのではないかと私個人としては素人的に考えているところです。さらにそういう日本は、アジア諸国民からの損害賠償要求に対しても誠意を持って対応ができないことにもつながります。そのような非常に曖昧な日本人の歴史感覚を考えたとき、なぜそういう発想が生まれてくるのかについて考えているのがレジュメに書きました丸山真男の所説から学ぶことであり、「天動説的」国際観の日本・日本人という問題です。
丸山真男は日本政治思想史の大家であり、戦後の日本、特に60年代初期までの日本の言論界を指導した政治学者です。彼が非常に私にとっては納得できる言葉を発しています。一つは「普遍の意識の欠如」ということです。要するに私たちには普遍性のあるものを考えることができない、ということです。例えば真理、正義、あるいはその現れとしての人間の尊厳や基本的人権、民主主義といったことです。これらを口ではわかっているつもりでも、実はそれが自分の発想の根本に座っていない。それはなぜかと言うと、客観的なもの、普遍的なもの対して、私たちは斜に構える傾向があるということです。しかしその普遍的な、客観的な価値基準・物差しがないと、何事を判断するときにも、状況に応じた物差ししか適用されないということになるでしょう。だから私たちの判断は状況対応型になってしまうことになります。それは普遍的な基準が自分の中にないから、今ある現実がすべてのように映ってしまう。現実だから仕方がないと諦める、もうできあがってしまったことだから覆せないとなり、そのできあがった現実から次のステップが始まってしまう。これが、実際に日本において1990年の湾岸戦争、PKO法から続いてきた事態なのです。全部のことがいったんある事実がつくられたところから物事の議論が始まり、その事実が間違っているからと言って元に戻ろうという発想にはならない。これが二番目の「既成事実への屈服」であります。
三番目は「他者感覚」の欠落です。簡単に言えば相手の立場に立って物事を見たらどうなるかという感覚が欠けているというのです。今、中国・韓国の反日感情という問題がありますが、なぜ中国・韓国で反日感情、反日行動が起きるのかについて真っ正面から捉えようという動きは、日本の中ではほとんど見られません。これは本当におかしなことです。相手も何か事情があるのではないか、相手はどういう気持ちなのかがわかれば、その相手と話し合う可能性も出てくる。ところがそれができない。要するに他者感覚、相手の立場に立ってものを考えるという姿勢がないということです。
これらのことを国際的な視野を含めて言うと、次の「天動説」的国際観の日本・日本人という問題が出てきます。この「天動説」的国際観、「地動説」的国際観というのは、私の造語です。意味はおわかりになると思いますけれども、要するに日本人はすべて自分を中心にして世の中が回っていると考えます。だから何か他の国との関係で悪いことがあったら、日本は悪くないのだから相手が悪い、と思ってしまうのです。これが私の言う「天動説」的国際観です。しかし実際の世の中では私たちは国際社会の一員として回っているにすぎないのです。「地動説」的世界観における太陽というのは、抽象的なもの、普遍的価値、人間の尊厳や基本的人権、民主主義などです。これらの物差しに照らして今の日本をみたとき、本当にまともな国と言えるのかという疑問が出てこなければおかしいと思うのです。ではなぜ日本人は天動説なのかと言えば、レジュメに書きましたように昔の日本は天皇中心の天動説だったからです。それが戦後になったら、天皇からアメリカに変わっただけの話なのです。私は長い間外務省で仕事をしておりましたけれども、この説明が一番すっきりします。この天皇をアメリカに替えればすべて話がわかります。物事を深く考える必要はないのです。それほど単純なのです。本当にやりきれないほどの不合理性を感じますけれども、実際そうなっています。しかもよりたちが悪いのは、そのアメリカが、日本とは質は違うのですけれども、やっぱりアメリカが世界の中心だと考える天動説の国だからです。だから私たちが世界を見るときには、常にアメリカの目で世界を見ることをしています。その裏返しとしてアジア蔑視がはびこっている。ということは、強く申し上げるまでもないことと思います。ですから私は、本当に私たちがこれから国際社会に認められるため、一人前として認められる日本人・日本となるための大前提は、地動説的な国際観を身につけることだと思います。そうすれば日本は国際社会において揺るぎない地位を占めることになるだろうと感じます。最後の方のことは私の世迷い言として聞いてくだされば結構でございますが。以上で、今日私にいただいた「被爆60年をふりかえって—日本・アジア・世界のこれから」という話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
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