被爆60年・戦後60年をふりかえって
—日本・アジア・世界のこれまで・これから─ Page.3

2006.07.07

Ⅱ 核兵器廃絶の展望

1. 広島・長崎を人類共通の「負の遺産」とするための条件について
(1) 広島・長崎が持つ普遍的要素

次に核兵器廃絶の展望ということです。これにつきましては先ほどお断りしましたように、まだ広島一年生の私が、大きなことを言える内容があるわけではありませんが、それでもいろいろ一生懸命考えている過程の、一つの見方として聞いていただけたらと思います。私はこの広島・長崎を人類共通の「負の遺産」とすることが求められているのではないかと思います。この人類共通の「負の遺産」とは、例えばホロコーストがあります。ドイツのナチが行ったユダヤ人などの大虐殺をホロコーストと言っています。このホロコーストは本当に人類共通の「負の遺産」として、絶対に繰り返してはならない確かな記憶として認められています。他の新聞には出なかったと思いますが、今年の11月3日のしんぶん赤旗に、国連総会が全会一致で来年1月27日をホロコーストの大量虐殺追悼日にすることを決めたと報じられていました。この中のアンケートを見てみますと、中国や韓国の代表が日本の侵略について触れています。このことで議論の応酬があったそうです。広島・長崎の残虐性・悲惨性というのは、ホロコーストに勝るとも劣ることはない。しかし広島・長崎を大量虐殺の追悼日にするというような動きは出てこないという現実があるのは間違いないことです。これはどうしてなのだろうか、というのが私の発想の出発点です。広島・長崎にはホロコーストのような、人類共通の「負の遺産」となるための客観的な条件・内容は備わっていないのでしょうか。誰もが認める2つの普遍性を、広島・長崎は持っていると思います。一つは大量殺戮、無差別殺人であったということ。もう一つは放射線被害ということ。これらがどうして普遍性になるかと言うと、レジュメに書きましたようにジェノサイド、大量殺戮・殺人が世界各地で起こっている。今でもスーダンあるいはアフリカのチャドといったところで起こっています。十年前にもルワンダでありました。このジェノサイド、大量虐殺について私たちは、テレビを通じて繰り返しその映像を見ています。そのとき私たちは本当に深刻に受け止める気持ちになります。しかし私たちがちょっと想像力を持てば、さらに言えば私は平和教育の重要性がそこらへんにあると思うのですけれども、その映像から私たちが想像力を働かせて広島・長崎を思い起こせば、広島・長崎のとてつもない残虐性が明らかになります。そういう意味で広島・長崎は今日、追憶する、思い出すための現実の生々しい非常に大きな材料を一緒に持っているということです。

被ばくという点でも同じです。チェルノブイリ、ネバダ、セミパラチンスク、マーシャル群島、劣化ウランというように、」被ばく・放射線被害は世界各地で起こっています。そしてその悲惨性も非常に明らかになりつつあります。そういう点でも広島・長崎は、被爆60年を経てもなお、放射線被害に悩む方々がおられる。その説得力、その圧倒的な重みというのは非常に理解し易いはずなのです。こういうことからも私は広島・長崎が人類共通の「負の遺産」として認められるのに十分すぎる要件があると思います。広島・長崎の場合はむしろその大量虐殺と被ばくという2つの要素を兼ね備えているという点では、他のケースを圧倒する人類共通の「負の遺産」となるべき要件を備えていると思うのです。

(2) 広島・長崎が人類共通の「負の遺産」となるために実現しなければならないこと

しかしこのホロコーストを大量虐殺追悼日とするのと同じように、広島・長崎を何らかの形で人類共通の記憶にするには、非常に大きな障害があると思います。つまり広島・長崎を人類共通の「負の遺産」とするためには乗りこえなければならないことがあるのではないか、ということです。逆に言えば、このような条件があるのに、なぜ広島・長崎はホロコーストと違った扱いを受けてきたのか、今も受けているのか、どうしてもっと国連で広島・長崎を何らかの追悼日にしようという動きが出ないのか、ということです。ここで私はホロコーストとの比較から見えてくる点を申し上げたいと思います。

一つは国をあげての取り組みが不可欠であるということです。具体的には何かと言うと、ドイツの場合には、このホロコーストの被害に対して国をあげて取り組んでいます。要するに無条件にドイツは悪いことをしたのだと率直に認め(最近ホロコースト記念館がベルリンにできたそうです)、そうして国民的に絶対に忘れてはならないこととして真剣に取り組んでいるということです。それに対し日本はどうか。唯一の被爆国と言いながら、アメリカの核抑止力に依存する政策をとり、核廃絶についても、1978年からですが、究極的核廃絶ということを言い出した。そして結局、核廃絶を永遠の彼方に引き延ばしてしまっています。日本場合、本音と建て前が違うのです。唯一の被爆国というのは建前で、本音ではアメリカの核政策に対して邪魔だてするようなことはしない。このような国の姿勢の下で、どうして国をあげての核廃絶の取り組みや広島・長崎を人類共通の「負の遺産」にすることができるのかということです。私たちは何とかして国の政策を変えさせ、アメリカの核を肯定する政策をきっぱり止めさせ、そして明確な核廃絶を主張する国にしなければならない。そういう国にならなければ、私は広島・長崎が国際的な共通の「負の遺産」になる条件は生まれてこないと考えています。

もう一つは関係諸国との共通認識を作り上げることの重要性ということです。この点でもドイツは、ホロコーストの被害者・被害国との間で共通の歴史認識を作り上げるために、大変な努力を重ねています。このことは歴史教科書作成にあたっても貫かれています。それに対して日本はどうか。この点では私たちは、対アメリカとの関係、対アジアとの関係の両方について考えなければならないことがあります。対アメリカについて、私が非常にいま悔しい思いを強めているのは、アメリカの広島・長崎への原爆投下に対して、正面からそれは犯罪であると国をあげて言う姿勢がないということです。むしろ原爆投下もやむを得なかったのだと受け止めてしまい、それ以上の議論をしようとしない状況が、アメリカとの関係であるのではないかと思います。しかし、私がこれはおかしいと思うのは、先ほど言いましたように国際司法裁判所の勧告的意見でも、また原則的な国際法においても非常に明確にその違反性は明らかになっているからです。このことについても、私たちはやはりもっと明確な立場を打ちだす必要があります。なにも正面から原爆を投下したアメリカを糾弾し、犯罪性を問うてどうこうするというわけではなくて、やはりあれはしてはいけなかった国際法違反であり、反人道的なことだったのだとはっきりと認識させるということです。そうしなければアメリカはいつまで経っても核抑止政策への固執から抜けだすことはできません。この点から私たちはアメリカとの間で、いかにして認識の共有をはかるのかという問題に取り組む必要があるのではないかと私は思っています。

対アジアとの関係においても、やはり広島・長崎に関する共通認識を形作る必要があるのではないかと思います。広島の原水爆禁止運動に関わっている方から、やはり中国、韓国と交流するときに難しいことがある、と直接聞いたことがあります。そしてその方はどうしてもお互いの意思が伝わりあわない、と嘆いておられました。そこで私が僭越に申し上げたことは、次の二つのことです。一つは私たち日本側としては、侵略戦争・植民地支配したこと、つまり加害に起因する太平洋戦争の結果としての広島・長崎に対する原爆投下という歴史を直視し承認するということです。これを歴史的事実として承認する。実は私たちは今までこのようなことについても何も言わなかったのです。加害について触れること自体が、非常に憚れる雰囲気があります。しかし、原爆投下についての良い悪いは別として、それ以前には日本の侵略戦争・植民地支配という過去があって、そこに根本の原因があるということは認めるしかないということです。そのことを認めれば、中国・韓国を初めとしたアジアの国々と日本との歴史認識の共通性ができ、その次の段階として、その直視・承認の基礎の上に立った核兵器そのものの反人道性・国際法違反性に対する認識の共有を図る努力が可能になってくると思います。これは私の決して勝手な推測ではありません。例えば韓国には在韓被爆者がいます。実は第二次世界大戦時、広島には7万人近くの朝鮮人が強制連行で来ていて被爆しています。その中のかなりの方が韓国に戻っているわけですけれども、結局、今まで韓国で支配的である原爆投下が韓国・朝鮮半島の解放を早めたという認識の下において、在韓被爆者は一体どうなるのかという問題が彼ら自身の問題として出てくるのです。この解決のためには核兵器の使用はそのものが違法であるとしなければならないという発想に繋がってくる。また中国について別の視点で見れば、核兵器保有国の中で中国は唯一、全面核廃絶を最初から主張しています。中国の核兵器はもっぱらアメリカやかつてのソ連に対する抑止力として保有しているのであって、アメリカ、ロシアが核兵器を廃絶するならば、中国も廃絶する用意があると言っています。そこにはやはり核兵器の国際法違反性に対する考慮も明らかにあるのだろうと思います。こう考えれば、私たちがアジア諸国、なかんずく韓国・中国との間で認識の共有をはかる可能性はあるということを申し上げたいのです。その他、ホロコーストとの比較の他に、従軍慰安婦問題との比較からもいろいろな視点が出てくるのですけれども、時間の関係がありますので、次の問題に進みたいと思います。

2.核廃絶を目指す立場にとっての課題
(1)戦争禁止という展望の中で核廃絶問題を位置づけるという課題

核兵器廃絶を目指す立場にとっての課題についてです。ここでは2つのことを皆様にお示ししてご批判を仰ぎたいと思ってレジュメに書きました。よくNo more Hiroshima, No more Nagasaki, No more Warと言い、広島・長崎を戦争そのものの否定と結びつける考え方は確かにあります。しかし現実問題として、戦争禁止という問題と、核廃絶という問題とを結びつけて、実際にそういう展望のもとに運動が行われてきているのかという点で、私は若干疑問を持ちつつあります。それは核廃絶それ自体を最終目的とするのではなく、戦争を禁止するという大きな枠組みの中で核廃絶を位置づける必要があるのではないかと考えるからです。これを私が特に具体的に考えるようになったきっかけというのは、『核にボタンをかける男たち』という邦訳本があるのですけれども、その本のあとがきを私が書いたときからです。アメリカや世界のその他の国々は戦争を肯定する。私流に言えば「力による」平和観をとる人たちですが、その見方をとる人たちの中にも、核兵器はいらない、核兵器は使えないシロモノだから核兵器は廃絶したって良い、われわれはもうすでに核兵器を必要としないだけの軍事力を持つに至ったのだからそれで十分だ、という考え方があるのです。そういう人たちと私たちは、核廃絶という点では一致し得るのです。けれども核廃絶の後、残るのは何かと言うと、アメリカによる軍事的世界支配を肯定する彼らと、戦争は禁止すべきこととする私たちとの対立が、そこで起こってくるわけです。核廃絶だけを掲げる運動は足元をすくわれる可能性があります。私流に言えば、核廃絶が仮に実現しても、アメリカ的な権力政治と、日本の平和憲法における「力によらない」平和の立場とがぶつかるケースが、核廃絶後も起こるということです。これは今すぐにという課題ではありませんけれども、私たちは戦争禁止という大きな問題、国連憲章があのような形でしか表現し得ない問題を、どのようにこの核廃絶と結びつけるのかという課題を考える必要があるのではないか、と私は今考えています。

(2)「核時代」の安全保障のあり方を指し示す平和憲法を全面に押し出すという課題

それから二番目に大きな問題、これについては私が非常に率直に申してきていることですが、日本の核廃絶運動において日本国憲法を守るという課題が全面に押し出されてきた歴史がないということです。私の勝手な思いこみではなくて、第五福竜丸事件によって日本の原水爆禁止運動はそもそも起こったわけですけれども、その当初から、原水爆禁止署名運動あるいは核廃絶運動というのは、不偏不党で核廃絶一点の運動であるとさかんに自己規定しています。当時から、非常に明確に憲法問題を持ち込むなと言われていました。その理由としては発足当時、保守的な人たちの中にも核廃絶には賛成と言う人がいるけれども、憲法問題では別の立場を持つので、このような人たちも核廃絶運動の中に取り込むため、憲法問題を持ち出すと分裂のもとになるからと言われていました。私はそのこと自体、当時の運動論としてはあり得たのかもしれないけれども、今になって思えば非常に重大な欠点を含んでいたのではないかと思うしかありません。レジュメに平和憲法において核時代の安全保障のあり方を述べた1946年3月27日の幣原喜重郎の発言を引用しております。要するにこの発言の中で幣原喜重郎氏は、この日本国憲法では、まさに核兵器が現れ、これからの戦争は人類を破滅に追い込む戦争になるという認識に立って、あらゆる戦争を放棄し、このことを世界につながなければいけない、と言っています。つまり核廃絶という考え方は平和憲法と不可分の関係にあるということです。そして平和憲法に込められたメッセージを、新憲法制定時代の保守政治家も明確に認識していたことをはっきり知らなければいけないだろうと思います。昭和21年〜24年くらいまでの広島における平和宣言、あるいは広島平和都市建設法制定のときの資料などを調べるうちに見つけたことですが、この幣原喜重郎氏が言ったこととまったく同じ思想を、当時の広島市長や国会議員などがやはり繰り返し発言しているのです。ですから当時は、人類を滅亡させる核戦争はあってはならないとし、恒久平和を考える思想が明確にあったということです。まだここからは調べがついていませんが、それがなぜ54年の第五福竜丸事件以降、このような発想がこの核廃絶運動に継承されなかったのかというのが私には疑問・宿題として残っています。その点について何かご存じのことがあればぜひとも教えていただきたいと思うのですが、いずれにしましても結論として申し上げたいことは、これからの核廃絶運動においては、明確に核廃絶・核戦争は絶対あってはならないという戦争観に立った平和憲法を守らないでどうするのかという指摘も、明確に示していかなければならないのではないかということです。

その他にもあるのですが、それは今年の7月の広島平和研究所主催のシンポジウムで私がお話したことを「広島の課題—核廃絶と平和憲法を結びつける発想を—」の中で詳しく書きましたので、読んでいただけたらと思います。ここで申し上げたかったことに少し触れれば、これは本論から外れるかもしれませんけれども、先ほど述べましたように、原爆投下についてやむを得なかった、仕方がなかったという見方が生まれる一つの根拠に、昭和天皇が広島・長崎が原爆を受けるまで戦争をやめることをためらったということがあると思うのです。このことはもうかなり明確に証明されていますから、このことについてもやはり私たちは認識を明らかにしなければいけないのではないか。ある意味、広島・長崎への原爆投下を招いたことに対する昭和天皇の戦争責任、これを私たちはしっかり位置づけないと、この戦争責任の問題に対して一番根本的なところでいつも曖昧な形で妥協をはからなければいけなくなってくる。私は決して昭和天皇を墓場から引きずり出して何かするということを言っているのではなくて、私たちの認識上の問題として言っているのです。私たちの認識の中で、広島・長崎を招いた昭和天皇の責任を明確にし、そのことがあらゆる物事を考える上での出発点でなければいけないのではないか、ということです。その前提に立って、私たちが持つ平和憲法は広島・長崎の代償の上に成り立っているのだと、私たちは重みを持って実感することが必要なのではないか。そして同時に、核廃絶運動の側が平和憲法を守りきる決意を明らかにすることの重要性にも触れています。要するに平和憲法を守ろうとする人たちは核廃絶を言わない。核廃絶を言う人たちは平和憲法を言わない。しかし核廃絶を言う人も平和憲法を守ろうと言う人も、実は非常に層が重なっている。どうしてその2つの要素が有機的に結びつかないのか。このことが私たちの運動がこれから克服していかなければいけない問題としてあるのではないか、とこの〔参考文書b〕の中で言っています。

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