被爆60年・戦後60年をふりかえって
—日本・アジア・世界のこれまで・これから─ Page.2

2006.07.07

2.21世紀国際社会の展望

(1)20世紀国際社会の成果

次に21世紀国際社会の展望ということです。ここで私が強調しようと思ったことは、実は20世紀の国際社会、人類社会というのは、非常に大きな成果を上げていること、そしてその成果物をしっかり確認して21世紀に活かしていくという基本的な認識を持つ必要があるのではないか、という考えです。この20世紀の積極的な成果として見られるものは4つあります。一つは人間の尊厳、基本的人権、民主主義という普遍的価値が国際的に確立したということです。これはみなさんは、それほど違和感のないことだと思います。一言だけ申し上げれば、第二次世界大戦が全体主義対民主主義との全面戦争であり、そこで全体主義であった日本、ドイツ、イタリアが、民主主義を代表する連合国に敗れたことによって、民主主義が国際連合憲章の中に書き込まれることによって最終的に確立した成果であるということです。そして国連憲章の中で、人間の尊厳、基本的人権の普遍性について高らかにうたわれています。もちろん人間の尊厳や基本的人権、民主主義は早くから言われていたことで、国によっては実行に移されることもあったわけです。しかしこの人間の尊厳、基本的人権、民主主義が疑うべくもなく、あらゆる人、あらゆる国家に当てはまらなければならないと確認されたのは、第二次世界大戦後であったわけです。特に国連憲章にこのことが入っているということをしっかりと認識しておく必要があります。この点では日本の状況は少し特殊です。私がレジュメの「Ⅲ 被爆60年の日本・日本人について改めて考えること」で言おうとすることと重なりますが、例えば人間の尊厳、基本的人権と口ではみんな言うけれども、日本においては1945年の敗戦まではまったく無縁のことだったのです。明治憲法の下、私たちは天皇の臣民としてしか位置づけられていなかったわけです。そういう意味で日本に基本的人権、人間の尊厳が確立されたのは、平和憲法の下においてです。しかもその憲法は、国民の主体的なアイディアから生まれたとは必ずしも言えない。自民党の人たちがよく言うように、押しつけ憲法という面が確かにあるわけです。極端な言い方をすれば、私たちにとって人権・民主主義、基本的人権、人間の尊厳という考え方も天からふってきたという要素があります。そして私たちがこういう価値を必ずしも主体的に自分のものにしているかどうかは非常に問題があるところです。それが故にこそ、今日は触れる余裕がないと思いますけれども、今自民党が憲法を変えようとしている中で最大の狙いは、この人間の尊厳、基本的人権、民主主義を形骸化する、つまり中身を失わせ、言葉だけのものにしようとする動きにもつながっていると認識しております。しかし客観的、国際的に言えば、この普遍的価値が国際的に確立したのは、間違いないことです。例えば国が憲法をつくるとき、いまやどの国も、しっかりした人権規定がなければ非常に厳しい国際的批判を覚悟しなければなりません。民主主義についても同じです。このように、今や人間の尊厳、基本的人権、民主主義を実現しなければならないということが、国際的には当然のことになったということは20世紀国際社会の非常に大きな成果であると考えます。

2番目は民主的国際関係です。ここでは主権国家間の民主的国際関係と補足していただきたい。要するに国家の大小、強弱、貧富にかかわらず、国家は主権国家として独立である限り、相互の関係において対等平等であるという考え方です。このことも国連憲章にはっきりと定められました。第二次世界大戦までも、国家関係は基本的、本質的に対等平等でなければならないという考え方はあったのですけれども、現実の国際関係においては権力政治がまかり通り、力がものを言うということがありました。だから大国や強国が小国を侵略し、陥れ、戦争でやっつけるということがあっても、それに対して有力な規制力が働く環境はなかったのです。しかしこの国連憲章におきましては、そういうことがあってはいけないと明確に定めております。現実にはブッシュ大統領のように、イラクを乱暴に先制攻撃でやっつけるという事態が起こっておりますけれども、あれは本当に国連憲章違反の戦争であって、してはいけないことであるということは国際的には広く認識されている。そういう認識が必ずしもしっかり定着していないのは、対アメリカに追随する日本であるからこそで、国際的に見るとそういうことがあってはならないということは、よく認められていることであります。

3番目の大きな20世紀の成果というのは、戦争を違法化し、そして核兵器の使用も違法化するということが実現したことです。この戦争の違法化につきましては、戦争のみならず、武力行使、武力の威嚇をもしてはいけないという原則が国連憲章として定められました。ただし国連憲章は、アメリカの影響力の下でつくられたこともあって、例えばよく言われている集団的自衛権という形での武力行使、あるいは国連が認める戦争はしてもいいとか、そういう曖昧さと言いますか、アメリカにとっての抜け口を始めから設けていたという点で、限界を始めから持っています。これは今後の21世紀において、戦争の違法化をどうやって徹底していくのかが私たちに残された課題として存在しているということです。それから核兵器使用の違法化については、1996年の国際司法裁判所の勧告的意見というのがあります。一般論としてではありますが、国際司法裁判所が核兵器の使用は国際法違反だという意見を明確に示しています。これは核兵器廃絶を目指す私たちにとって、忘れてはならない一つの重要なデータと考えて良いだろうと思います。ただしこの核兵器の違法化について詳しく言いますと、国際司法裁判所の勧告的意見は徹底したものではなくて、最終的なギリギリの国家自衛のために核兵器を使用する場合、それを違法と言えるかどうかについては判断を避けてしまっています。ですから核兵器の使用は自衛の名の下には許されるのだ、というアメリカなどの意見が法的に全面的に批判されることにはなっていません。このことが限界でもあり、この点をいかにしてこれから克服していくのかが21世紀の私たちの課題になっています。

もう一つは相互依存という問題です。この相互依存ということと、グローバリゼーション、グローバル化ということが、ごっちゃにして使われていることを私はかなり前から問題だと思っておりました。国際社会が交通、通信、運輸といった手段の飛躍的な発展によって、国家同士、民族同士、個人同士がお互いに関係を持ち、つながりを持つようになって関係が深まることは、歴史の必然であって、私たちとしてはこれを受け入れることは必要だろうと思います。その相互依存が深まるということ自体は決して、ある国がある国を乗っ取る、ある民族がある民族を取り込む、強いものが弱いものを挫くという意味ではないわけで、もっぱらすぐれた科学技術・手段の発達に呼応している事態ということで、私はこれを積極的に評価して良いだろうと思います。むしろ大事なのは、この相互依存の中においても、各国、各民族、各文化が自身の独自性を保ちつつ、世界との文化、他の国との交流を深めていく、これが確保されることが大事なのではないかと思っています。

21世紀の国際社会を展望するとき、これまでに述べました4つの要素が生かされる国家・社会にしていくことが、私たちの課題として出てくるということになります。ですから21世紀はテロとの戦争の時代だ、などというようなブッシュ的な見方が、皮相的かつ彼らの自分勝手、独断的な判断であるかということがすぐおわかりになると思います。実際にはもっと貴重な成果を人類の歴史は生み出してきていて、それをどのように積極的に継承していくかがこれからの課題になる。そういう意味でも、これらの成果を本当に無にしようとするブッシュ政治を、これ以上許してはいけないという私たちの決意をも引き起こすものでなければならないと思っています。

(2)20世紀国際社会が生み出した課題

20世紀の国際社会は、このような積極的な成果ばかりではなく、いろいろ問題をも生み出しています。いろいろあるのですが、特に大きな問題として私は、地球環境問題と、新自由主義・グローバリゼーションという問題を取り上げました。地球環境問題というのは、非常に大きな意味を持っていると思います。20世紀までの人類社会は、地球環境のことを考えずにひたすら豊かになること、物質的に豊かになることを追求することが許されてきたと言えると思います。しかし20世紀後半から次第に明らかになり、昨日もモントリオールで会議が行われているように、地球温暖化という問題が本当にのっぴきならない、非常に緊急に取り組まなければ取り返しのつかない課題となって登場してきています。そういう時期に21世紀は直面しているということを、私たちは知らなければならないと思います。つまりこの地球温暖化という問題は、非常におおざっぱに言えば、エネルギー消費の急激な増大によって引き起こされている事態で、私たちの物質的文明というのはエネルギー消費と過度に結びついているということです。しかしこれを野放図に繰り返していくならば地球が悲鳴をあげる。ということは人類が意味のある生存をまっとうすることが不可能になる。そしてこのような状況がもう数年十後には現実のものとなってしまう。そういう非常に恐ろしい試練を迎えているのです。今すぐには目に見える変化がおきないものだから、それほどの危機感を持たないで私たちは暮らしています。この例を一つだけ申しますと、南太平洋にあるツバルという小さな国は、珊瑚礁の上に乗っている島国なのですけれども、いま地球温暖化のために海面水位が上昇して数年後には国がなくなるという事態に直面しています。物理的になくなってしまうのです。これは本当に最初のケースです。今後さらに地球温暖化が進めば、低湿地である国々はすべて波によって土地が浸食される状況が出てくるということが、非常に深刻に懸念されます。そういうことを考えますと、私たちは今のように使いたいだけエネルギーを使う、あるいは生活の豊かさのためには、他のことを犠牲にしても構わないという事態を改めなくてはいけないところにもう直面しているということです。このことはどのようなことを意味するかと言えば、私たちは今までのような豊かさの考え方ではもう済まないという問題、要するに生活の中身自体を変えなければ、この地球環境の破壊を食い止めることはできないという問題が一つある。他方、今世界では南北問題と言われるように、非常に多くの国々が貧困に喘いでいます。これら貧困に喘いでいる国々に対して、今のままで我慢しろ、エネルギーを使うなと言うことは、人間の尊厳、基本的人権を承認する立場からは当然許されないことだろうと思います。したがって途上国の絶対的貧困に対して、必要なエネルギーを使うことを確保しなければならない。そうすると私たちは、自分たちの生活の豊かさについて考え直すことにプラスして、他の途上国の人々が人間らしく生存することができるように、私たちが今使っているエネルギーのかなりの部分をそちらにまわすことを考えなければなりません。私たちはこういう課題にも直面しているということです。そういう意味で、この地球環境問題というのは、私たち人類のこれからのあり方、何をもってわれわれの幸せとするか、何をもって意味のある人類社会の繁栄と考えるのかという問題までもが、緊急の課題としてあがっているということです。

これも非常に深刻な問題ですが、もう一つは新自由主義・グローバリゼーション、グローバル化という問題があります。人の名前で言えば、レーガン、サッチャー、中曽根といった人たちが支配した1980年代前半頃から、この新自由主義・グローバリゼーションという考え方が、非常に幅をきかせるようになりました。今や日本国内でそれを一生懸命に実行しているのが、いわゆる小泉改革と呼ばれるものです。一言で言ってしまえば、新自由主義というのは、市場にすべてをゆだねよ、という考え方です。小泉流に言えば、官から民へということです。要するに民間ができることからは全部官は手を引けと言っています。そうすることによって、弱者を切り捨てる、社会的不公平を拡大する、という方向の改革を進めようとしています。こういう言い方をすること自体に唐突さを感じる方もおられるかもしれません。日本においては、アメリカ的な考え方が何か国際的なスタンダード、歴史的な流れであるかのように思えてきて、今や仕様がないのだ、市場原理で、市場にすべてをまかせなければならないのだ、諦めに似た気持ちでそれが受け入れられている雰囲気があるのですけれども、国際的には決してそうではないのです。例えば北欧諸国、今注目されている中南米諸国などでは、新自由主義は非常に大きな社会的不公平を生む、そして人間の尊厳、基本的人権と対立するではないかという考え方が有力にあるのです。現にその新自由主義が何をもたらすか。やや象徴的ケースでありますけれども、この間アメリカを襲ったハリケーン・カトリーナの例を見れば、いかにアメリカの弱者が犠牲を受けるかが示されています。ですから私たちは本当にアメリカの言うがまま、アメリカ型の社会、ごく一握りのものに富が集中し、それ以外のものはだんだんと貧困に追い込まれていくような社会になっても良いのか、すなわち新自由主義を当然の前提として受け入れるべきなのか、受け入れて良いのか、という問題を遅まきながら考えなければならない時期にきているのだと思います。この点につきましては、例えば社会保障の問題、介護や障害者自立支援の問題、あるいは郵政民営化の問題、その他の問題などで、みなさんも間近にされていることだと思います。最近ヒットになっている『下流社会』という新書があります。この本の帯に慶応大学の金子勝先生が評を載せていますが、ここで小泉改革の真相が見えてくると言っています。要するに中流社会というのは、今まで私たちが当たり前にしてきた概念ですけれども、これからは国民のかなりが下流になってしまうという恐ろしい状況が小泉改革によってもたらされる、ということを喚起しています。実際にこのような問題があります。人間の尊厳、基本的人権を守るという立場から、そういう問題にどのように対抗していくのかという課題が、私たちは日本国内においても、あるいは国際的な分野においても考えなければならないこととして出てきている、ということを申し上げておきたいと思います。

(3)21世紀国際社会の展望

21世紀国際社会の展望についてですが、私は国家観というのは2つの種類があるだろうと思っています。日本においては伝統的に、特に戦前の明治憲法の下での国家観というのは、国家あるいは天皇を個人の上におく国家観でした。今の平和憲法の下、基本的人権、人間の尊厳が最も大事だという考えを前提にすれば、「個人を国家の上におく」国家観、これは私の造語ですが、この国家観を私たちはわがものしなければならないのではないかと思います。みなさんの中には、国家ということを考えること自体、何か薄汚いこと、国家そのものをあまり考えたくないという方もおられると思います。けれども客観的に申しあげて、この21世紀はやはり国家という存在はなくならない。その国家を通して国際社会に関わることが、私たちは圧倒的に多いということを前提にして考えなければなりません。このような場合、私たちがしっかりした国家観を持っていないと大変なことになります。自民党以下、「国家を個人の上におく」国家観によって、私たちを引っ張っていこうという動きが今強まっています。これが憲法改正という形で出てきているわけですから、これらに対して、私たちが個人の方が国家よりも大事なのだという考え方をはっきり据え、そして私たち主権者が国家を道具として動かすのだという考え方をしたたかに身につけることが、私は大事だと思います。そういう国家観であってこそ、私は国際社会の基準に合致するのだろうと思います。そして同時に、「個人を国家の上におく」ということは、国家のために個人が犠牲になることを許さないわけですから、簡単に言えば、国家が戦争をやろうとすることも許さないということに繋がってきます。それを私は、「力によらない」平和観と言っているわけです。戦争を放棄し、戦力を持たない、戦争をしないと誓ったこの日本国憲法というのは、まさにそういう「力によらない」平和観というものを体現しているということになります。そういう平和観がなければ、アメリカの力による支配に21世紀国際社会が振り回されかねません。ですから私たちが平和憲法に現されているような「力によらない」平和観によって、いかにして国際関係が実施されるようにするかという大きな課題も、私たちは背負っているということも申し上げておきたいと思います。「言うのは簡単だけど」と思われるかもしれませんが、すでに私たちは日本国憲法を持っていることによって、国際社会に対して非常に大きな力、手だて、保証を持っているということなのです。私たちが憲法改悪を許さなければ、今の憲法を持ち続けることができるならば、平和憲法を押し立てて国際関係に臨む日本は、正直言って私は「力による」平和観のアメリカに対する有力な対抗軸として、国際社会で認められる存在になると思います。こういう自信を私たちは持つ必要があるということを、皆様にぜひ考えていただきたいのです。以上が21世紀の世界情勢認識についてのポイントです。

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