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六章 宮古の歴史と風土 仲宗根将二

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平坦な地形が続き「低島(ていとう)」の
典型といわれる宮古島
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1 宮古を知るために top
宮古と八重山−類似と相違
宮古諸島は、ほぼ北緯二五度、東経一二五度線上に、主島・宮古島を中心に大神(おおがみ)、池間(いけま)、来間(くりま)、伊良部(いらぶ)、下地(しもじ)、多良間(たらま)、水納(みんな)の八つの島々からなる。すべて有人島である。
西接する八重山諸島と共に、古くから先島(さきしま、諸島)とも呼ばれている。
先史時代は、本土文化圏とは異なった文化を展開する“南島文化圏”のなかでも“南部圈”と呼ばれ、縄文・弥生文化の影響を受けない南方色濃厚な文化を形成した地域である。
県都・那覇市から南西へおよそ三〇〇キロ、一五〇人乗りジェット機で宮古空港へ四五分、海路ならば五〇〇〇トン級貨客船で一二時間、宮古島市の平良(ひらら)港へ渡ることができる。
八つの島々すべてが隆起サンゴ礁を基底に形成されており、もっとも高い所で一一三メートル、全体一〇〇メートル以下の低平な島である。
総面積二二五・六一平方キロで全県のおよそ十分の一、八重山に比べても三分の二人口はおよそ五万七〇〇〇人で、全県の四・二%、八重山よりはいくぶん多い。
年平均二一一〇〇ミリという多雨地帯だが、多くは地質がサンゴ石灰岩であるため、地下に浸透して天然の地下ダムを形成、地表を流れる川はない。
水田が発達しなかった理由であるが、しかし水にまつわる神話・伝承はきわめて多彩である。
八つのどの島にも毒蛇ハブは棲息せず、また九月の白露の季節に南下する渡り鳥アカハラダカ、一〇月寒露の季節には国際保護鳥サシバ(鷹の一種)の大群を人里近くで観察できる、日本列島唯一のめぐまれた地域でもある。
これは、石垣島、西表島など数百メートルの山があり、県下一の高い山、長い川を有して水田にめぐまれる反面、ハブの棲む八重山との基本的な違いともいえよう。
首里王府の支配と人頭税
宮古にいつごろから人が住みついたのか、定かではないが。
フィリピンなど東南アジアと根は一つとみられる先島先史時代(一〇〇〇〜四二〇〇年前)に比定される遺跡も数か所確認されている。
しかし圧倒的多数の遺跡は一三世紀以降で、先島先史時代との関連はいまだ明らかではない。
海岸近くに湧出する各地の泉を中心に小集落が発生、宮古として統一していく過程で、一三九〇年、八重山と共に沖縄本島の王権と交渉をもつようになる。
のちに琉球の史書は、「これにより中山(王朝)始めて強し」と記している。
一五〇〇年、八重山で、首里王府に抗してオヤケ赤峰らの事件が起きたとき、宮古の仲宗根豊見親(とぅゆみや)は宮古勢を率いて王府軍の先導をつとめて支配者としての地位を確立し、資源豊富な八重山への影響力も強めると共に、妻の宇津免嘉(うつめが)は神職の最高位である大安母(おおあも)に任命されている。
人頭(にんとう)税の原初的な形態は、このころ仲宗根豊見親が創設したと伝えられている。
漲水の浜(現平良港第二埠頭)近くに行政庁蔵元を設置、御嶽(うたま)を整備するなど祭政両面から局内統治を整備、強化していく。
一六〇九(慶長一四)年、琉球は薩摩の島津氏に征服された。
本土との往来、通商が禁止・制限されるなど、あらゆる面で島津氏の指揮監督を受けるようになる。
対中国との進貢貿易のため、かたちは独立国でも、内実は日本の幕藩体制に組み込まれていく。 |

15世紀から拓世紀初頭、宮古の支配者仲宗根豊見親が
その父のために建造したと伝えられる墓(国指定建造物)
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検地を通じて石高・貢租(こうそ)が定められ、鎖国政策、キリシタン宗門改めも始まる。
首里王府は王朝体制を維持、存続していくために、様々な施策を講じていった。
主要な一つに、宮古・八重山統治の強化がある。
一六二九(八重山は一六三二)年、在番奉行がおかれ、在地役人を介しての間接統治から直接統治へと変った。
人頭税が整備、強化され、数え一五歳から五〇歳未満の男女が納税義務者として、主に男は粟(八重山は米)、女は上布を納めさせられる。
身分制――税を取立てる側と納める側――系図の有無によって工農の分離も確立する。
人頭税は、一八七九(明治一二)年の廃藩置県(琉球処分)後も存続、明治政府ならびに貴族院・衆議院両院への直接請願など、民衆のねばり強い運動で、ようやく一九〇二(明治三五)年二一月に廃止となった。
翌年、他県同様の国税徴収法ならびに地租条例が適用されるが、同時に徴兵令も全面適用され、直後に迎えた日露戦争では多くの若者が大陸の山野で屍をさらした。
宮古の「沖縄戦」
一九四三(昭和一八)年、「沖縄戦」必至の情勢のもと日本軍が宮古にも移駐してきた。
翌年夏までには約三万余の陸海軍将兵が展開、宅地・耕地に至るまでおよそ三四三万平方メートルを強制接収して海軍飛行場(現宮古空港)と二つの陸軍飛行場、滑走路は合計六本を設営、これを中心にすべての島々に陣地を築いて全島を要塞化、米英軍の迎撃体制に入った。
学校など主要施設は兵舎や野戦病院に転用、あるいは解体されて陣地構築用材に使われた。
一方、戦闘に支障をきたす老幼婦女子およそ一万人は、制海権・制空権ともに連合軍の手中にある危険な海を渡って、九州や台湾へ強制疎開となる。
残る一般成人は男女とも現地召集あるいは徴用されて日夜陣地構築、戦闘訓練に従事、中学生は通信隊へ、女学生は特志看護隊へ編成されて軍と行動を共にさせられた。
一九四四年一〇月一〇日、米軍の初空襲に始まって、翌年八月まで、連日空襲、五月四日は英国太平洋艦隊の艦砲射撃など、平良の市街地はじめ、ほとんどの集落は焦土と化し、全島形あるもののおおかたを失ってしまった。
輸送路を絶たれて、武器・弾薬はおろか、食糧や医薬品の補給もなく、飢えとマラリア等のため多くの命が失われた。
また、国民学校(小学校)はおよそ一年近く、休校状態で、児童生徒まで飛行場建設工事や道路整備、陣地偽装用縄ない、軍馬のための草刈り奉仕などに従事させられた。
各学校の「御真影」(ごしんえい)や勅語・詔書類は、一九四四年一一月以来、沖縄守備軍先島集団司令部近くの特設壕に「奉遷」(ほうせん)され、日夜二人の男性教師が一二時間交替で翌年八月の敗戦まで「奉護」させられた。
八月三一日、「内務次官通諜」で、一括「奉焼」している。
明治以来の「皇民教育」の終焉である。
2 「あららがま精神」の系譜 top
首里王府の収奪と「百姓一揆」
一七世紀初頭、琉球王国が島津氏に支配されて以来の宮古は、いわば薩摩藩→首里王府→在地役人という三重支配を受けることになる。
しかも人頭税は、個人責任であるばかりでなく、村(現在の大字)の連帯責任でもある。
民衆には事実上、移住はおろか村外への往来も、村外婚の自由もなく、土地にしばりつけられてしまった。
村単位の共同体=閉鎖社会の誕生である。
一方、役人予備軍たる士族たち(系図所持を許された階層)は、役人登用への狭き門にひしめき、ひとたび就任すれば今度は昇進のために規定以上の税を割増しして収奪、饗応と賄賂に狂奔する者もでる。
加えて台風、かんばつによる凶作は飢饉をもたらし、疫病をまんえんさせる。役人の腐敗は民衆のいっそうの疲弊を生む。
もはや民衆は税を納めるためにのみ働き、新しい労働力を生みだすための存在にしかすぎなくなる。
首里王府は、たびたび検使を派遣、また惣横目なる行政監察官を設置して綱紀粛正をはかるが、効果はあがらない。
近世末期になると、割重穀(わちかさみこく)事件、多良間(たらま)騒動、落書(らくしょ)事件と、なかには下級役人をまきこんだ、様々な事件が起きるようになる。
筵(むしろ)旗こそかかげないけれども、それらは王府支配を根底からゆるがす「百姓一揆」とも呼べるものであった。
一八七九(明治二一)年、沖縄の廃藩置県を断行した明治政府は、沖縄県政を人頭税廃止運動 他県並に改革していくのではなく、旧支配層への配慮から「旧慣温存」策でのぞんだ。
県政の名のもとに人頭税も存続する。民衆の苦悩、悲しみ、怒りはいっそう屈折したものになっていった。
一八八四年、県派遣の製糖教師として宮古入りした那覇の城間正安(ぐすくませいあん)、また一八九二年、真珠養殖のために宮古を訪れた新潟県の中村十作(じゅうさく)というよき指導者を得て、人頭税廃止運動は燎原の火のごとく宮古全域に燃えひろがっていった。
しかし、県宮古島役所、県庁との交渉を積みあげて部分的な改革はかちえたものの、人頭税廃止にはいたらない。
そこで一八九三年一一月、城間、中村のほかに西里蒲(にしさとかま)、平良真牛(ひららもうし)の二人の農民代表を加えた代表四人は、様々な妨害をおして上京、明洽政府要路はじめ帝国議会への直接請願となる。
請願要旨は、@役人の数を減じ、負担を軽減する、A人頭税を廃し、地租とする、B物納を廃し、金納とする――の三項。
東京府下の各新聞は、「沖縄県宮古島の惨状」あるいは「琉球の佐倉宗五郎上京す」と、一行の行動を大きく報じ、積極的に支援した。 |

宮古広域圏事務組合によって、代表4人の歓迎祝賀会を催したという
鏡原馬場跡に建立された「人頭税廃止100周年記念碑」
人物写真の左は城間正安、右は中村十作
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こうして一八九九(明治二八)年一月、貴族院、衆議院ともに「沖縄県宮古島々費軽減及島政改革請願書」を可決、また貴族院は議員発議で「沖縄県々政改革建議案」を可決する。
宮古民衆の人頭税廃止運動は、宮古・八重山はもとより、沖縄県全体の「旧慣改革」――近代化をうながす大きな原動力となったのである。
宮古の民衆運動は、その後も地租条例施行にともなう重税反対運動、さらに八重山と共に国政参加請願運動、特別町村制撤廃運動、村政民主化運動とたゆみなく続けられた。
米軍占領下の密貿易
一九四五(昭和二〇)年六月二三日は、「沖縄戦」における日本軍の最高指揮官らが自決した日である。
一般にこの日を沖縄戦終結の日として、県条例で「慰霊の日」と定め、全県民喪に服す日とされてきた。
しかしこれは、最高指揮官の死で日本軍の“組織的”抵抗が終ったというにすぎず、戦闘はなお各地でつづいていたし、また沖縄本島における多くの県民はそのことを知らず、時には「友軍」の銃に脅えながら山野を逃げまどっていた。
その点、その後とも米英軍の爆撃下にあった宮古の終戦は、他府県同様八月一五日ということになろう。
日本軍の公電によって日本の敗戦を知らされ、日ならずして各学校では「大東亜戦争終結ニ関スル詔書奉読式」を挙行している。
沖縄県庁はなくなっても、出先機関の宮古支庁、町村役場は一定の機能をはたしていた。
同年一二月八日には、米軍による軍政がしかれ、国・県の援助どころか県内他地域への往来さえ規制され、宮古だけで「自立」を余儀なくされていたのである。
まず郡民の食糧、衣服、住居をどうするか。
一七世紀以来造成された森林のおおかたは三つの軍用飛行場を中心に全域要塞(軍事基地)構築のため乱伐され、加えて戦火で何もかも失っている。
公務員の給与、疎開者の引揚げ促進、すべてがゼロからの出発である。
漁村に残ったわずかばかりの小型木造漁船がフル回転で活用された。
沖縄本島へ豚、山羊、犬、兎、黒砂糖、カツオ節等、のちにはスクラップまで運びだされる。
替りに買込むのは各種食糧、燃料、衣服、セメント、木材など。密貿易ルートは、本土、台湾、香港、マカオへまで伸び、生活必需品のほか薬品、書籍、映画のフィルムまで持ち込まれた。
戦後民主化運動の台頭
国や県の庇護を失った人々は、自力で衣食住の確保、台湾疎開者の引揚げ促進をはかると共に、革新会や青年連盟等を組織して、「自立」への模索をはじめた。
戦争激化で原材料が払底して停刊していた新聞も再刊され、情報に飢えた人々に歓迎された。
敗戦の年の一二月八日に軍政をしいた米軍は、同月一一日、空席の平良町長に助役を昇任させたが、前記諸団体は「民意を問え」と米軍に申し入れるなど、民主化へ向けて大きく動きだした。
翌一九四六年三月、早くも三〇〇〇人の郡民を結集して時局批判演説大会が開かれ、各弁士は官公吏員の公選、民主主義の確立、労働者の団結、農民組合の結成、不正払下げの是正、郡政の実権は郡民にあり、などを訴えた。
大会は、「沖縄本島と同一統治下へ」「支庁長・町村長・郡会議長の公選」「食糧・住宅・失業等諸問題の早急解決」「米軍票の流通」「戦時利得税、財産税の賦課」などを決議、米軍政府ならびに支庁当局に要請している。 |

敗戦直後、大工・左官による宮古初の労働組合
「宮協・土建労働組合」旗。宮協とは、戦前の弾圧下に活動した
全協(日本労働組合全国協議会)にちなんだ命名
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さらに教員組合、労農協議会、各種政党、団体も結成され、次第に政治的・社会的発言を強めていく。
また一九四七年三月、支庁を改めた宮古民政府は、「新宮古建設の歌」の公募、文化連盟、文化史編さん委員会等を発足させて、歴史の掘起こし、文化運動の推進によって戦争で荒廃した人心を一新、郷土再建の方途をさぐるといった動きも始めた。
宮古教育基本法と自主作成の教科書
敗戦で日本本土から分離され、米軍の全面占領下、県内各群島間の自由な往来もままならない宮古で、ただ一ヵ所、本土政府の行政権の及ぶ機関があった。
宮古島測候所(現宮古島地方気象台)である。
そこには、中央気象台から二、三ヵ月ごとに補給船が回航し、職員給与、食糧、日用品、気象観測用機材、消耗品等が輸送されていた。
宮古民政府文教部は、この補給船を通じて、新しい憲法、教育法規、教科書、参考書等を入手した。
こうして、教育基本法ならびに学校教育法の「国家」や「国」を削除し、「国民」を「人間」などと一部改めて、宮古教育基本法、宮古学校教育法を制定し、一九四八年四月一日から宮古独自に六・三・三制をスタートさせた。
本土に遅れること一年である。教科書は、教科ごとに編さん委員会を編成して審議し、各学年分をガリ版刷りで作成、配布している。
さきの密貿易の物品の中には、ノート、鉛筆等の学用品と共に教科書等も入っている。これらは、各学校に常備して児童生徒に自由に読ませた。
学校図書館の始まりでもある。
方言の「あららがま」や「わいどー」に代表される宮古人気質なるものがある。
先史時代から近世にいたるまで、歴史的にも文化的にも同一圏とみなされる宮古と八重山であるが、何かにつけて両者は対照的にみなされがちである。
八重山は、じっくりと腰をすえ、持久力が強いと評されるのに対し、宮古は直情径行、熱しやすく燃えやすいかわりに持続性なし、と酷評される。自然風土の違いに加えて、人頭税の圧政下でかたちづくられたものであろう。
「あららがま」も「わいどー」も、苦境にあって、「何くそ!」と自らを奮い立たせ、「さあ頑張ろう!」と互いに決起をうながす掛け声として生まれたものである。
3 巨大開発への疑問と疑惑 top
離農する農家と土地の買占め
一九六九(昭和四四)年一一月、佐藤・ニクソン会談で沖縄の施政権返還は「両三年内」と確定した。
県外大企業は「経済一体化」を売りものに、土地の投機買いを始めた。
一九七〇から七一年期の宮古の基幹作物サトウキビは、一八〇余日におよぶ未曽有の大干ばつで前年期のおよそ八分の一。
もはや農業だけで生活できる状況ではない。
農業に見切りをつける農家が日毎に増え、県外へ郡外へと季節労務あるいは新しい生活の場を求めて移住していった。
急激な過疎化の始まりである。
土地を離れようとする農民の土地を買いあさるのはたやすい。
三・三平方メートルあたり三三セントから一ドル二○セント(約二一〇から四三〇円)程度で買いたたかれる状況は、大手週刊誌に「ヒース一個の値段で土地が買える」と書かれたほどだった。
東急、近鉄、ダイエーなどの大手をはじめ、表面は地元名義だが、実際は県外不動産業者によって買占められた土地は、本土復帰翌年の一九七三年六月時点で、宮古だけでも農地二九四万五一六七平方メートル、山林原野八〇五万四一九九平方メートル、採草放牧地一一七万六五二三平方メートル、計一二一七万五八九九平方メートルにのぼった。
「開発」という名の自然破壊
零細な第一次産業が主で、雇用につながる目立った産業のない宮古では、わけても公共工事が歓迎される。
社会資本の整備、景気浮揚雇用促進等の美名のもと、県も市町村も競って公共工事導入に目の色を変える。
道路が次々と新設、拡張、舗装されていく。
学校規模や校区を無視した公営団地の造成、小さな平坦な島の小丘、森林を削りとっての畑地改良、大規模な港湾工事は、海岸線を一変させてしまった。
畑地の基盤整備は、八〇〇億円ともいう国の一〇年計画による世界最大の地下ダム建設とも連動していながら、畑地周辺の森林原野は消えて吹きさらしとなる。
台風の常襲地帯で農作物はもろに被害を受け、雨水は地下への浸透よりも表土と共に海に流れ込み、サンゴ礁を破壊して、モスクやクビレズタ(海ぶどう)の養殖場、漁場を荒らしている。
与那覇前浜一帯では、一九八四年四月に東急リゾートホテル、一九八八年四月にはゴルフ場もオープンした。
二〇〇七年現在、この小さな宮古にゴルフ場はフルコース三、ハーフコースが四コース開設され、引続きいくつかの大型リゾートならびにゴルフ場建設が計画されている。
国や自治体による大型公共工事と並行して大企業による「開発」という名の自然破壊は、とどまるところを知らないといっても過言ではなさそうである。
宮古・下地両「民間」空港と米軍機の飛来
第二次大戦中に設営された旧海軍飛行場は、戦後米軍に接収されたが、復帰後は第三種県営宮古空港として平良市(現宮古島市)が委託管理する純民間空港となった。
二〇〇〇メートルの滑走路を有し、一五○人乗りジェット旅客機が那覇−宮古間を日に一一往復、さらに多良間、石垣へ中・小型機も往復、県民の足として定着している。
一九七五年二月以来、ここにも米軍機が飛来するようになった。
同年中に五回、五機、翌七六年にも五回、五機、以降、七七年五回、九機、七八年二回、二機、七九年一回、二機、八一年九回、一八機、八二年一一回、五機、八三年一回、一機、八五年三回、六機、八六年一一回、二三機、八七年二回、四機とつづく。
おおかたの名目は「給油のための緊急着陸」であるが、事実はフィリピン−嘉手納を結んでの恒常的な軍事利用であった。 |

宮古島の中央部にある野原岳頂上の航空自衛隊通信基地。
手前のコンクリートの建造物は旧日本軍の電波探知機壕跡
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そのつど民主団体等の抗議行動の広がりを反映してか、宮古空港への飛来が少なくなった分、四キロ海をへだてた対岸の伊良部・下地島空港への「緊急着陸」が急激に増加した。
一九八二年「エンジントラブル」で二機飛来、地元の反応をみるといったかたちであったが、八六年三回、一三機、八七年九回、五七機、八八年一〇回、五一機、八九年一〇回、七四機、九〇年一〇回、四九機と急速にふえていった。二〇〇六年現在、三三二機飛来、恒常的な軍事利用はつづいている。
この下地島空港は、本土復帰前、賛否両論はげしく対立、流血騒ぎもあるなかで、四〇〇〇メートル滑走路一本、三〇〇〇メートル二本、計三本の計画を三〇〇〇メートルー本に縮小、「民間航空以外に使用させない」(屋良覚書)との確約のもとに着工、完成した第三種空港である。
国内唯一のジェットパイロット訓練飛行場として、一九七九年七月開港、日本航空、全日空、日本トランスオーシャン航空(旧南西航空)等のパイロットを訓練している。
こうした経過をもつ下地島空港に、年に五〇機以上の米軍機が飛来したのである。
ときの保守県政が日米両政府の意のままに、「民間空港であっても日米安保条約七条、地位協定五条で、米軍機の使用を拒否できない」と明言していたことも無関係とはいえないであろう。宮古・下地島両空港での米軍機の傍若無人の振る舞いを、このような県当局の安保容認・軍事基地容認の姿勢が許していたのである。
一九九〇年代に入って沖縄県は革新県政の登場、またフィリピン在米軍基地の撤去等もあって、米軍機の飛来はその後散発的になったが、近年は米軍ばかりか日本政府まで自衛隊の使用を容認する発言を繰返している。
二〇〇四(平成一六)年二月、平良市長(当時)を実行委員長とする「下地島空港の軍事利用に反対する宮古郡民総決起大会」が開かれ、日米両政府はじめ各関係機関に郡民の総意として決議文を送付、その後もことあるごとに多様なかたちで抗議行動が続けられている。
二〇〇六年七月には全国の「九条の会」に呼応して「みやこ九条の会」も結成され、翌○七年六月、広範な市民のカンパで「憲法九条の碑」も建立されている。 |

平良市街地を一望するカママ嶺公園に
「みやこ九条の会」を中心とする
実行委員会によって建立された「憲法九条の碑」
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港湾拡張と「シーレーン防衛」の影
とくに本土復帰後、各種大型公共工事で、宮古の自然は大きく変貌しつつある。
とりわけ平良港の変りようは異常ともいえる。戦前は遠浅のために汽船は沖合に碇泊、貨客はハシケを利用していた。
大型汽船の接岸は郡民多年の夢であった。戦後、平良市当局は三大事業の一つに港湾整備をあげ、一応の実現をみた。
復帰後は国の重要港湾に指定され、一九七四i七六年には五〇〇〇トン級の接岸可能な第三埠頭(ふとう)、七九−八二年には同規模の第一埠頭、八二−八五年には一万トン級の第二埠頭を完成させた。
八六年に始まった第七次計画では、「荒天時、航行、避泊の安全確保」の名目で、総延長三五一〇メートルの防波堤の築造工事が開始された。
平良港から放射状に周辺離島をつなぐ小型船舶のための埠頭は、第四埠頭の名でようやくこの七次計画で着工、一九九六年五月に完成をみている。
人口六万足らずの宮古に、全く別の島の感を抱かせるほどの自然破壊を伴いつつ進行する大規模な港湾施設を必要とする理由、背景は、いったい何であろうか。
米軍や自衛隊のためのシーレーン防衛計画の一環では、との声も聞かれる。
このためにつぎこまれた総工費は、一九七二年から二〇〇五年までに約一一〇五億円にのぼっている。
しかし、宮古でのおおかたの大型公共工事と同様に、これら巨額の工費がまるごと地元に落ちるわけではない。
ほとんどを中央省庁につながりをもつ県外大企業が請負、そうでなくとも設計から原材料等まで県外からの移入であり、地元はせいぜい下請けの労務賃程度というのが関係者の声である。
地元の要求にこたえるかたちで、別のもっと巨大な意思が働いているといわれるゆえんである。
工事が自己目的化しているという批判が出るのも、原因はそこらに伏在していそうだ。
港湾工事は一九九三年からは、その一部地域にコースタルリゾート計画の名を冠して、二四ヘクタールのサンゴ礁の海が埋めたてられ、県(海)外大型リゾート等の導入が構想されている。 |

企業誘致のため新たに造成された
コースタルリゾート計画のトゥリバー地区
(内閣府 沖縄総合事務局 平良港湾事務所作成F平良港)より)
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シマおこしの新しい波
一九八四年一月、平良市在の三〇近いサークル、団体を結集して、文化協会が結成された。
これまで満一〇年、行政主導で行われてきた市民総合文化祭が、名実ともに「創造する市民の文化祭」としてひきつがれた。
その活動分野も、美術、工芸、書道、写真、文芸、生花、お茶、手芸、料理、園芸、音楽、郷土芸能、方言大会、人形劇、歴史、民話、将棋、手話など、多彩である。
一九八八年からは春・秋の二回、サークルごとの日常的な創造活動の延長線上に開催され、二〇〇五年市町村合併後の宮古島市文化協会に引きつがれている。
一九八五年四月二八日、第一回全日本トライアスロン宮古島大会が開かれた。
限界への挑戦といわれ、水泳三キロメートル、自転車一三六キロメートル、マラソンは日本最南端(当時)の公認コース四二・一九五キロメートルを、午前八時から一五時間かけて競うのである。
海外をふくめて参加者は全国から二四八人、三〇〇〇人のボランティアに支えられて成功をおさめた。
一九八八年四月の第四回からは、制限時間を一四時間に短縮、希望者二千余人を六〇〇人に制限して行われたが、その後も増え続ける出場希望者に応えて、出場枠も年々拡大され、自転車は一五五キロに延長されている。
一九九九年四月の第一五回では希望者三千余人を一五〇〇人に制限して行われ、以後一五〇〇人規模で継続している。
これを支えるボランティアは県内外から参加する五〇〇人の医療班を含めておよそ五〇〇〇人。 |

「全日本トライアスロン宮古島大会」の自転車レース
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毎回数十社から一〇〇社近い報道機関が取材に訪れる。離島での炎天下の成功は、宮古内すべての企業・団体・機関が一体となって島中がボランティアと化し、日本一安全なトライアスロン大会だからだといわれる。
資源の乏しい宮古を活性化させる一つの方策として、宮古をあげてとりくむ。
炎天下終日を手弁当でつぶしてしまう宮古人気質のシマ「宮古」へ行ってみよう――こういう人々の交流で、ソフト面からの活性化も期待できる、そういうねらいは成功していると内外から高い評価がよせられている。
トライアスロンを契機に「スポーツアイランド構想」が策定され、一九九三年からはプロ野球はじめ社会人や学生野球のキャンプ地としても知られるようになった。
戦前・戦後を通して悩みのタネであったウリや果実類の害虫、ウリミバエ、ミカンコミバエもおよそ一五億円かけて一九八七年、根絶された。
また永年の運動が奏功して、一九八九年七月、東京−宮古間、一九九二年七月からは大阪−宮古間に空の直行使が飛んでいる。
さらに一九九七年七月、新空港ターミナルの完成で、空からの往来は一層便利になっている。
しかし宮古は、世界最大の貯水量二〇〇〇万トン余の「地下ダム」、国内唯一のジェットパイロット訓練飛行場「下地島空港」、全日本トライアスロン宮古島大会、日本一長い農道橋「来間大橋」、東京・大阪空の直行便、プロ野球キャンプ地など、社会面を賑わすような派手な話題ばかりではない。
自然破壊に抗して、与那覇湾の淡水湖化や大野山林の横断道路新設を中止させ、宮古全域に生活用水を供給する白川田水源地近くの県外大手企業によるゴルフ場付き大規模リゾート計画も断念させている。
一六%にまで減少した森林を回復させて、花とみどり豊かな宮古を取戻すために、県・市町村・民間が一体となって森林組合を設立、自然と歴史的景観を回復させる作業も始まっている。
豊富な地下水を利用して、基幹作物であるサトウキビ、葉たばこ、蔬菜類、マンゴー等の果実の反収増をはかると共に、畜産はじめ、より付加価値の高い作物の創出も求められている。
とりわけ第一次産業就労者の高齢化が進み、後継者の減少が避けられないだけに、地元にも外来者にも支持されている、自然と歴史的景観を生かした観光のあり方を求める声も高い。
関連してすでに実用化を目前にしている平良・狩俣(かりまた)の風力発電ならびに城辺(ぐすくべ)・保良の太陽光(熱)発電やバイオエタノールの利用は、地球環境保全、省エネ等の観点からも内外の注目を集めている。
宮古圈の掲げる「スポーツアイランド構想」は、これら宮古の持つもろもろの可能性と結びつけられて、「豊穣(ほうじょう)の共生」を基本理念とし、心身ともに健やかでふくよかな地域づくり「ウェルネスアイラッド構想」へと発展させられている。
二〇〇五年一〇月一日、宮古六市町村のうち、多良間村を除く五市町村――平良・城辺・下地・上野・伊良部――が合併して宮古島市が誕生、「核兵器廃絶平和都市」「森林都市」官言等も引きついで、「エコアイランド宮古」「こころつなぐ 結いの島宮古」をめざして新たな歩みを始めている。
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