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 五章 明治時代の八王子

  1 明治維新と八王子 top

 維新と八王子千人同心

 一八六八(明治元)年一月、鳥羽伏見の戦に端を発して、薩長を主体にした官軍は錦旗(きんき)をかざし江戸城めざして進軍した。
 東山道総督参謀板垣退助らは甲州街道を江戸に向った。
 これに対し近藤勇は甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を率いて甲州街道を西に進んだ。
 両軍は勝沼で衝突したが、にわかづくりの甲陽鎮撫隊は簡単に敗退した。
 官軍は小仏峠を越え、三月一一日には八王子に入った。
 八王子では幕府直属の千人同心組頭二〇人、平同心約三〇人が麻の裃(かみしも)をつけ大月番窪田金之助の屋敷で行軍を迎えた。
 千人同心たちは誓詞を書き血判をすませ、鉄砲などの武器を官軍に差し出して降伏した、と大国魂神社の神官猿渡容盛は 「反古帖」に記している。
 官軍鎮撫隊は、千人町の宗格院に「陸軍仮扱所」を設置し、帰順や拝領屋敷上知等の事務を執行した。

 官軍に降伏したものの、千人同心のなかは大きく揺れ動いていた。
 日光警備の責任者石坂弥次右衛門は、官軍に降って平和的に日光を明け渡して八王子に戻ってきたが、戦わずに降伏したことで非難され、四月一一日切腹して責任をとった。
 形の上では官軍に降伏したものの、承服しない千人同心が多くいたためである。
 彼らは上野の山にこもって官軍と対峙していた彰義隊に参加していった。その中心は千人頭河野仲次郎であった。
 彼は歩兵頭補に命じられ、二小隊を編成して八王子方と称し上野山内の警備にあたった。その人数は一九二人に及んだ。
 しかしながら五月一五日、官軍の上野総攻撃の前に彰義隊はもろくも崩れさった。
 八王子方でも戦死者を出し、その場を捨てて八王子に逃げ帰ってきた。
 上野の戦争を境に、官軍の姿勢はより強圧的になった。
 六月四日、鎮撫府参謀より千人隊に対し、徳川家への復帰者は家族等を連れて徳川領地へ引取るように、「王室」(官軍)従事の者は去就を決めるように伝えてきた。
 続いて六月一一日、千人隊は徳川家に対し御暇願を差し出し、五〇人ほどが王臣の願を出した。
 王臣の申請者は徳川家から明治新政府に鞍替えをしたわけである。
 七月にはいり、干人隊一同願いの通り認められた。
 これにより開幕当初、甲州街道警備を目的に設置された千人同心は終止符を打つことになった。
 八月にはいり千人頭河野仲次郎と組頭の日野信義(日野宿)の二人は、甲府参謀より呼出しを受けた。


日光を戦火から守った千人頭
石坂弥次右衛門の顕彰碑
(八王子市千人町 興岳寺)

 上野戦争で八王子方を指揮し官軍に反抗した責任を問われたのであった。
 その結果、二人は井伊掃部頭へ永御預けとなり家財闕所(けっしょ)の処分を受けた。
 上野戦争に参加した千人同心のなかには、榎本武揚と共に江戸を出て北海道に逃れようとした者もいた。
 八月一九日、榎本は開陽以下八隻の旧幕府軍艦を率いて品川を出航した。千人同心新藤左右助はそのうちの美賀保艦に乗船していた。
 ところが、二七日に犬吠埼沖で台風に遭遇、美賀保艦は座礁して多くが死んだ。新藤左右助もその一人であった。
 現在、彼をとむらう「弔魂碑」が市内元横山町の大義寺の境内にある。篆額は勝海舟が書いている。
 さて、千人同心は上野戦争後、自己の生きる道を三つの中から選択しなければならなかった。
 まず第一の道は、駿府に移封した徳川氏に帰参するか、それとも第二の道として新政府に仕えるか、さもなければ帰農するか、という三つの道である。
 同心頭の大方は帰参して駿府に移っていった。しかし駭府での生活は苦しかった。
 小島陣屋(庵原郡小島)に着いた千人頭志村源一郎は「こまっても八王子の方はるか都にぞんじ候」、「向見ずに参り候のゆへ大いに損をいたし候」と書いているが、いかに生活が苦しかったかが偲ばれよう。
 駿府に移った千人同心は何か所かに分散したが、なかには牧野原台地の開墾に従事する者もいた。
 しかし、多くの千人同心は駿府の生活が苦しいため、一旦は帰参したものの、明治三年頃から再び故郷に戻ってくる者が多かった。
 時流を見抜いていち早く新政府に仕えた者はどうであったのだろうか。
 その数はおよそ五〇名、彼らは護境隊を結成し、大部分は肥後藩の支配下にはいり、多摩の警備にあたったが、間もなく御役御免となった。
 その後一八七一(明治四)年、東京に徴集され、八王子同心隊と呼ばれたが、これは陸軍編成の濫觴(らんしょう)ともいわれている。
 しかし一八七二(明治五)年、徴兵令が発布され新しく軍制ができるにおよんで解散となった。
 帰農の同心隊は圧倒的に多かったと思われる。彼らは一八六八(明治元)年六月、土着願を提出した。
 一八六九(明治二)年、版籍奉還が行なわれて、藩主と藩士の身分がなくなり、新しく華族・士族・平民が生れて形の上では身分制度はなくなった。
 しかし華・士族にはいずん家禄が与えられ、これが国家財政に大きな影響を与えていたので一八七三(明治六)年に新政府は家禄奉還をきめた。
 千人同心のなかでも家禄奉還願書を次のように提出している。

     家禄奉還願書
  一 家禄現米七石弐斗 野口久平
  今般仰出 候御布告ニ基キ家禄奉還仕度依之此段奉願候以上
                浜松県管下第一大区廿七小区原籍
                神奈川県管下第九大区小八区
                武蔵国多摩郡犬目村廿弐番町之内壱号
                当県出戻士族
    明治七年第六月                        野口久平
  神奈川県令中島信行殿

 野口久平は、この願書の提出にそえて、犬目村において農業に精を出して生活をしていく旨を書きしたためた「活計見込書」を差出している。
 八王子千人同心は、幕府を支えていた側であっただけに維新においてその打撃は大きかった。
 だが一応困苦をくぐりぬけて新しい社会に歩を踏み出していった。
 この後明治二〇年代にはいって、土着を申出でで士族の称を失なった元同心たちが士族復籍の運動を展開していく。

 神奈川県編入
 八王子地方は一八六八(明治元)年六月に、幕府の直轄地は韮山県となり、旗本知行地は武蔵知県事の支配に移って品川県となり、下壱分方(しもいちぷがた)、弌分万(にぷがた、以上元八王子地区)と下恩方・小津(以上恩方地区)は入間県になった。
 また寺方村の一部は足柄県に編入されたこともあった。
 一八七一(明治四)年七月に廃藩置県が断行され、知藩事にかわって新政府の役人が府知事、県令となって地方に派遣され、中央実権体制が確立されたが、すでに現在の八王子地域はそのほとんどが神奈川県のもとに統一されていた。
 しかし神奈川県自体は、水戸・烏山など諸藩がいりまじって旧体制は依然として存在していたので、この廃藩置県によって一つに統一されることになった。
 続いて同年一一月、新置改県が行われ、八王子地域では入間県に属していた前述の元八王子恩方地域の一部が神奈川県に編入されることになった。
 このようにして七二(明治五)年までに八王子地域はすべて神奈川県のもとに統一されることになった。


商盛社の馬車広告(明治15年のもの)

 交通・郵便・治安の近代化
 一八七二(明治五)年八月、江戸時代から続いていた伝馬所、助郷制度が廃止され、これにかわって陸運会社という継立組織が街道の各駅に一斉に誕生した。


明治初年の八王子の旅館

 八王子市域では同年四月から五月にかけて、小仏駅陸運会社・駒木野駅陸運会社・八王子宿陸運会社設立願書がかっての宿役人によって提出された。
 これらの陸運会社は、一八七二(明治五)年九月一日以降あいついで開業した。
 しかしその営業は一般に極めて不振で、一八七五(明治八)年五月末で解散され、それにかわって内国通運会社を主体にして改編させられた。
 宿駅制度の廃止をきっかけに馬車会社が出現したことも一つの大きな特色であった。
 まず八王子と東京の間を結ぶ甲州街道馬車会社の設立願いが、二人の士族によって出願され、一八七二(明治元)年一〇月に認可されている。
 毎日二頭立の馬車四台をつかって郵便物および一般乗客を輸送するものであった。
 このように一八七二(明治五)年という早い時点で設立されたのは、生糸輸送という八王子の産業上の要請があったと考えられる。
 馬車交通は、その後一八七九(明治一二)年頃に田島軒が開業、ついで商盛社ができた。
 八二(明治一五)年に商盛社は八王子〜東京間を一日六往復、片道四時間半で走った。
 郵便制度は一八七一(明治四)年一月、周知のように前島密の努力によって発足したが、神奈川県下ではその年の七月に横浜郵便役所が設立された。
 八王子では一八七二(明治五)年四月に郵便取扱所が川口七郎兵衛宅にきめられ、翌年四月に号外三等格郵便役所の開設が次のように達せられた。

  武蔵国八王子号外三等格
             川口七郎兵衛
  於其地三等郵便役所ヲ被仰右役所詰申付候事
   但郵便役所建築相成候迄当分之内典自宅ヲ以仮役所卜相称回申事
    明治六年四月
                              駅逓頭

 その後一八七六(明治九)年四月に八王子四等郵便局と改称、為替取扱事務もおこなうようになった。
 このように上からの近代化が次々に進められたが、警察制度もその重要な一つであった。
 一八七一(明治四)年一二月、邏卒(らそつ)制度が設けられたが、それと同時に横浜以外では保土ヶ谷・横須賀・神奈川宿と相前後して八王子にも邏卒が置かれるようになった。
 一八七三(明治六)年六月には八王子以下一○か所に五一名の邏卒が派避されたが、八王子にはそのうちの七名が配置された。
 やがて邏卒の呼称は巡査と改められ、七六(明治九)年からは八王子警察署が第九大区、すなわち多摩全地域を管轄下におさめるようになった。

 畑に重い地租改正
 維新政府は近代化政策を次々におこなったが、なかでも一八七三(明治六)年の地租改正条例は、廃藩置県とならんで近代化の柱であった。
 ところで、この地租改正については、八王子地方の農民は本能的に警戒の念をもっていた。
 小比企村(現小比企町)の農民は、「此布告前、流言ニビックリ箱上一言箱を朝廷ヨリ戸長へ渡シ、此フタヲ開ケレバビックリスル箇条アリト言う風言説専ラ」であった。
 農民は地租改正を「ビックリ箱」として、何が飛びだすかわからないとじっと注視していた。
 すでに土地売買は自由になり、それを示すものとして一八七二(明治五)年に壬申(じんしん)地券が発行されていた。
 続いて翌年に地租改正条例が公布されたが、それは、
 @課税の標準を収穫高から地価に変え、
 A物納を金納に改め、
 B税額を地価の一〇〇分の三ときめ、
 C納税者は土地所有者とした。


神奈川県の発行した地券(明治13年)

 このもとに、具体的には田畑を測量して面積を出し、地価の価格を決定すること、要するに地押丈量(じおしじょうりょう)と地価の決定の作業を進めていくことであった。
 一八七四(明治七)年に県より「反別地価等書上方心得」が配布された。
 それには旧来の土地制度を廃すると宣言、一村全図、字切絵図の作製が命じられている。
 その年の一〇月には「田畑其外反別取調野帖」ひながたが布達され、土地面積の把握、所有者の確認が行われた。
 測量の方法は十字検地といって、縄を川いた従来の検地力法でめった。
 地価の決定に至るまでには試行錯誤があったが、結果的には官吏によって収穫高が査定され、それを基準にして地価が決められていった。
 基本はあくまでも「……地祖改正ノ始先ツ旧来ノ歳人ヲ減セサルヲ目的トシ……」とされており、これをもとに課税されていったが、八王子市域の村々をみると、水他は旧貢祖と比較して四〇パーセント減少しているのに対し、畑は逆に一四・四パーセント増組とたっていて、畑作地帯は以後負袒に苦しむ結果になった。
 一八七八(明治一一)年から一八八〇(明治一三)年にかけて改正地券が交付された。地租額は少し軽減されて、「明治十年ヨリ此百分ノ弌ケ半」と書かれている。
 新地根の徴収は一八七七(明治一〇)年から開始されている。
 その年は「追納」という形で一挙に納入し、翌年からは年間を六期にかけて二か月に一回納入することになった。
 地租金は郡役所を経由して戸長が集め、郡役所へ納付した。地租金の預り所は全国で一〇九か所あったが、八王子はその一つで、当時横山町にあった三井銀行が取扱った。
 なお改正地券は一八八六(明冶一九)年、登記法が制定され、登録することになって存在理由を失ない、一八八九(明治三一)年三月に廃止された。

 学校の発足
 神奈川県の小参事大屋斧次郎は一八七一(明治四)年、勧農の訓示と同時に郷学校の設立に奔走していた。
 郷学校の構想は、寺小屋とも私塾ともちがい規獏が大きく郷村の公共的な性格をもっていた。
 県では郷学校を寄場組合単位で二七か所設立することを考えていた。
 現在、判明しているそれは二五校であるが、一八七一(明治四)年に設立され、なかでもよく知られているのは小野路村(現町田市)の小野郷学校である。
 二五校のなかには八王子と日野は含まれていないが、日野に存在していたことは確認されており、八王子にも間違いなく存在したものと考えられている。
 六歳の七月一五日に入門し、一三歳の七月までが就学の期間であった。
 郷学校は、学制発布にもとづく小学校の発足と共に消滅するが、寺小屋から小学校への橋渡しとして郷学校の存在は、現在高く評価されている。
 一八七二(明治五)年八月、学制が頒布された。
 「……邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事」を期して、あらたに発足する学校に必ず就学することを規定している。
 学制は欧米の教育方針を模範としたものといわれ、教育分野のみでなく日本の近代化の柱をなすものであった。

 政府は学制を具体的にすすめていくために、全国を八つの大学区に大きく分け、さらにそれを二五六の中学区に分割し、そして人口六〇〇人に一校の割で小学区をつくった。
 神奈川県は第一大学区に属し、第七番から第一〇番まで四つの中学区に分割され、小学区は二二七区にわけられた。
 多摩は第八番中学で、当然現八王子市域は第一大学区第八中学区になるわけである。
 一八七二(明治五)年一一月、神奈川県は従来の寺小屋を廃して小学校にあらため、およそ三〇〇戸を「一小学校」として逐次番号をつけて呼ぶことにした。
 ついで、一八七三(明治六)年二月、「学制に関する告諭」を出し神奈川県学制も公布され、この県学制にもとづいて県下の各地に次々に学校が設置された。
 八王子市域においても「文部年報」によると一八七四(明治七)年に宇津木学舎をはじめ二四校が、翌年までに総計三四校が開設した。


成績優秀児童に与えられた
書籍料という名目の賞金
(明治10年・小野家所蔵)

 横山学舎、八日市学舎、八木学舎などは県学制公布の四か月後に発足している。
 小学校は上等と下等にわかれ、それぞれ四か年で、上等・下等とも八級にわかれ毎級六か月で修業した。
 下等は六歳から九歳、上等は一〇歳から二三歳までが学齢であった。
 授業は一日五時間で、下等は読物・算術・習字・書取・作文・問答・復読・休操であり、上等は読物・算術・習字・輪講・問答・作文・罫画・体操であった。
 上級に進む場合は試験が行われた。
 就学については県ではきびしく指導したが、簡単にははこばなかった。
 少し後になるが犬目村の陶鎔学校の場合、一八七八(明治一一)年から一八七九(明治一二)年にかけて男子学齢人口六六名のうち就学数は五三人(八〇・三パーセント)、女子は四五名のうち二二名(四八・九パーセント)であった。
 教師は一般には僧侶や神官や塾の先生が就任したといわれているが、八木学舎では漢学者が二人おり、また次のように佐幕派士族がみられたことは注意を要しよう。
 由木地区の生蘭学校の斎藤一諾斎はもと新撰組の隊士であった。
 維新後、日野宿の佐藤彦五郎家に厄介になり、学制で発足した生蘭学校の教師に迎えられた。
 同じく由木地域の鑓水学校の中橋誠は、仙台藩の著名な漢学者大槻盤渓の弟子であった。川口地域の犬目学舎の森正道は元静岡藩士であった。
 地方にかって教育行政の最高の責任者は学区取締である。
 学区取締は地方における要の存在であり戸長(大区小区制では村用掛)や副戸長は教育に関しては学区取締のもとに従った。
 現八王子市域の学区取締は横川村の横川高徳であった。
 学区取締についで、村においては学校世話役が教育の面で責任を負った。
 世話役は村内の就学督促、学校諸入費、教員給料、訓導の怠惰等について学区取締に報告することを職務とした。
 学校世話役も村の有力者が任命された。中には元の千人同心もいた。
 学校連営にあたっては知識人が必要であったから、当然村の知識人であった元千人同心が登場したのである。
 犬目村の学校世話役斎藤総次郎や子安学舎の秋山義方は元千人同心であったことに注目したい。

 学校を道営するにあたって村では財源に苦労した。
 学校に対する県の支出は徴々たるもので、基本的には受益者負担であったからほとんど民費によっていた。
 発足当初は寺院や民間の家を借用したが、それはあくまでも一時しのぎのものであった。
 一八七五(明治八)年あたりから校舎が新築するようになったが、その資金は地方の負択であった。
 村々ではおもに小学金資本積立の方法をとり、有志者の寄付金、あるいは賦課金によってまかなわれた。
 寄付者に対しては県令の名で行状や木盃があたえられた。 村に誕生した新しい校舎には洋風の様式をとりいれたものもみられた、
 現在加往地区に公会堂として利用されている明化学校の校舎は、玄関の型にそれまで村ではみられなかった洋風を感じさせる。


小学校建築のための寄付者への感謝状
(井出家所蔵)

 一八八二(明治一五)年一〇月、県令冲守固(おきもりかた)一行が、三多摩の各地を巡視した時、八王子の学佼について御用係の安田米斎は次のように記している。
  「……九時、八王子学校(注:天王森ニ在リ)ニ至り、各教場ノ授業ヲ巡覧アリ。
  教員ハ武田求馬、吉木渚以下十一人、生徒ハ男女二百八十余名ニ近シ。
  コレヨリ裏宿通り八幡宿ノ多賀学校ニ至ル。教場中、甚ダ狭隘ニシテ、且不潔ナリ……」
 ともかく学校は定着し、近代化を進めていく柱となっていった。

 生糸商人と八王子生糸改(あらため)会社
 生糸は幕末の開港によって輸出品の八割を占め、輸出の花形にのしあがっていった。
 八王子は昔から桑都として知られその周辺を含めて絹織物の原料である生糸の生産は盛んであった。
 生産された生糸は八王子の六斎市で取引がおこなれた。
 加えて甲州街道の宿駅であり、開港地横浜に近いという地理的に有利な条件から、信州や甲州や関東西部山麓地帯で生産された生糸はいったん八王子に吸いこまれるように集められ、一本の太い流れをつくって横浜に向ってすすみ、横浜との間に「絹の道」をつくりあげていった。
 生糸商人は、生糸を籠で背負い、天秤で運び、または馬の背にのせたり、さまざまの方法で多摩丘陵を鑓水(やりみず)を経て横浜へと向っていった。
 現在、鑓水には“神奈川”をさし示す道標がのこされている。
 この道は生産地と開港地を結ぶ最短距離であった。
 もちろん道幅も狭かったであろう。後に馬車道に改装したいという申請が地元の関係者から提出されている。
 鑓水では浜道・浜街道と呼ばれる地名も生れた。
 生糸は時代の花形、生糸商人は時代の先端をゆく職業であった。


生糸改(あらため)会社規則

 一八七三(明治六)年九月の調査によると、高座・都築を含めた八王子生糸改(あらため)会社傘下の生糸商人の数は二六○六人、このうち多摩全体で一九二六人(七四・三パーセント)、第八・九区(南多摩郡)だけでも一三二四人で令体の五〇・八ハーセントにおよんでいる。
 生糸商人がのちの南多摩榔にいかに集住していたかがわかる。
 ただ一口に生糸商人といってもいろいろ種類があった。
 糸繭(いとまゆ)商人、即座師(そくざし)、書類に登場する輸出人、その手代といった具合である。
 輸出人は自分の手代を使い、糸繭商人や即座師が集めた生糸を仕入れ、横浜の生糸貿易商人へ売渡す生糸流通の要のような役割をした。
 後述する改会社の役員はこのような輸出人であったが、なかでも鑓水村の生糸商人は知られている。
 大塚吾郎吉は維新前後には何百両という金をうごかし、八木下要右衛門は鑓水に異人館を建てて外国人を招き生糸取引をしたという。
 現在その屋敷跡には大きな石垣だけが残り“石垣大尽”の名がに伝えられているが、繁栄を誇った時代を彷彿(ほうふつ)させる。
 ところで、日本の輸出生糸は、品質の点で外国の貿易商人からしばしば非難されていた。
 糸のあがり、太さの不揃い、光沢、色、それに屑が多いという点が問題とされた。
 政府はそれを“祖製濫造”としてこれの防止に全力を傾けていった。
 一八七二(明治五)年一〇月、租税頭・陸奥宗光(むつむねみつ)は全国の有力な生糸業者を東京に呼び集め、不良生糸取締機関である生糸改会社の設立を提案した。
 八王子からは山上重郎左衛門・田野倉常蔵・畔見保太郎、鑓水村の大塚宗兵衛・大塚弥十郎、それに小山村の荻原半蔵の六人が出席した。
 彼らは地方で名だたる生糸商人であった。六人は戻るとすぐに生糸改会社の設立に奔走した。
 一八七三(明治六)年三月、八王子生糸改会社規則が認可された。
 それによると八王子に改会社の本拠を置き原町田・五日市・上溝に出張所を置き検査手数料や組織などを決めている。
 社長に山上重郎左衛門が就任した。副社長は六人で月番制、世話役がおり、その他検査の諸係がいた。
 すでに「生糸製造取締規則」、「生糸改会社規則」、それに「生糸売買鑑札渡方規則」の生糸取締りの規則が公布されていた。
 なにぶんにも八王子生糸といえば粗悪品の代名詞のようにいわれていたから、生糸値はいつも最低であった。
 このような状況下に生糸取締りは厳しく行われた。
 たとえば一八七三(明治六)年九月のこと、生糸製造取締規則違反ということで第八区の正・副区長、正・副戸長、それに二ッ取り器械を使用した直接の違反者四人の氏名が新聞紙上に公表された。
 二ッ取り器械の使用は厳禁されていたからである。
 取締りがあまりにも厳重であったため、ついに生糸商人は反対に立ちあがった。
 生糸商人の新井・毛利・三好らは、代言人(弁護士)伊従勝五郎を代理人として、政府に取消しを迫ってついに訴訟を提起した。
 改(あらため)会社は一八七七(明治一〇)年四月に廃止された。

 器械製糸工場の誕生
 神奈川県は、生糸の粗製濫造防止のため、生糸改会社制度と共に器械製糸工場の建設を強くすすめた。
 一八七六(明治九)年、県令野村靖は八王子にあらわれ、有力な生糸商人四〇名を前に製糸工場の建設を強く訴えた。 これを契機にして、八王子市域に県下ではじめて五つの製糸工場が誕生した(上表参照)
 これについて県では、八王子地方の生糸が「下等」であるのは「良法ノ器械ナキガタメ」であり、それ故「粗製濫造ノ弊ヲ免」がれるために器械を作り改良しようとするものである、と記している。


萩原彦七

 この五つの工場のうちでも萩原彦七が経営する工場は他を圧する勢いで成長していった。
 彦七は一八八〇(明治一三)年に仏人シャモテールを招いて技術指導にあたらせた。
 その年、明治天皇の中央道御巡幸があった。
 御巡幸の一行は八王子で一泊したが、「東海東山巡七川誌」には
 「駅中ノ製糸逐年ニ盛ナリ小門宿ノ萩原彦七最モ心ヲツクシ精製ノ方ヲ図リ、卒ニ其賤械ヲ発明シ明治十年一大工場ヲ設ケ、是ヨリ生糸ノ価ヲ増シタリ……」と記されており、特に参議山田顕義、宮内卿徳大寺定則を工場に派遣した。
 その秋原彦七の工場について同日誌は次のように詳しく記載している。
 萩原彦七製糸場ハ駅北ニ在り 三馬カノ気器ヲ設ケテ繭ヲ煮ル 輪軸ヲ運シ繰車ヲ転スルニハ水車ヲ用フ、水車ハ木造ナリ 工女百人ヲ使役シ日々二貫目ノ糸ヲ製スペシ 建設費一万円営業費ハ年々一万六千円ヲ要スト云……
 この萩原彦七をはじめ田代平兵衛、それに織物業の折田佐兵衛の三人にそれぞれ賞状が下賜(かし)された。

                    神奈川県平民 萩原彦七
 其方儀製糸ノ業ニ尽力候段神奈川県令只状ノ旨遂百聞候尚此末典産ノ道相堡候様勉励可致事
  明治十三年六月十七日
                            二條太政大臣

 その後も萩原工場は成長し、一八八六(明治九)年には横浜の貿易商人アペナと特約して直輸出を行い、工場を二五○人繰りとして規模を拡大した。

 文明開化とキリスト教
 幕末から八王子には“異人”がやってきた。ある異人が八王子近くの一婦人に出くわした。
 その婦人は大切に秘蔵している十字架を示し、外人の前でこれを恭しく額に戴いて敬意を表した。
 そして村にはキリシタンの教えを信じている一家があることをも語ったという。
 横浜の神父たちは隠れキリシタンの発見と色めきたった。
 明治新政府はキリスト教に対しては幕府の政策を継承して禁教の態度で臨んだ。
 それゆえ長崎の浦上で発見された隠れキリシタンに対してははげしく弾圧した。
 これに対して諸外国は新政府を攻撃した。
 新政府は心ならずもキリシタン禁止の高札(こうさつ)を撤去せざるを得なかった。
 だがそれはキリスト教を容認するというものではなかった。だからキリスト者はいばらの道を歩まねばならなかった。
 高札が撤去された直後の一八七三(明治六)年一〇月のことであった。二人の青年が開会前の八王子の「村議会」にあらわれた。
 二人は小川義綏と奥野昌綱というプロテスタントであった。関東の農村伝道の一環として府中での伝道を終え八王子にやってきたのであった。
 その伝道はプロテスタントにおいて日本人による最初の歴史的な伝道であった。
 二人は「村会議員の居並ぶ前で、アポロの雄弁滔々として気焔万丈虹の如」き場面をくりひろげたのである。
 この伝道について県の為政者は警戒した。もしこのまま放置しておいたならば「日ナラスシテ郷民彼ノ教ニ傾カン事必セリ」という、府中大国魂神社の神官の報告があったからである。
 県の為政者は早速戸長に対して「何者ニ不限」、「洋教異説ヲ唱民心ヲ誘惑致候もの有之候バ、一泊一休タリトモ不為(なさず)断然拒絶シ迫払」うように指示して、盟約連印書を県に提出させた。

 だが、それにもかかわらずキリスト教は多摩に浸透していった。
 当時下壱分方村と呼ばれた泉町に力トリックが導入されたのは一八七六(明治九)年のことである。
 村の青年山上作太郎は親戚の三好箭蔵から手紙を受けた。
 箭蔵は横浜で教師をしており、手紙の内容はクリスチャンになるようにとの勧めであった。
 作太郎はこれに応じテストヴィド神父から洗礼を受けることになった。
 作太郎は東京においてキリスト者であった中村敬宇が経営する同人社で学んでいた。
 だから容易にキリスト教を受容することができたのであろう。
 テストヴィド神父は一八七七(明治一〇)年五月、作太郎を故郷に帰した。
 故郷にもどった作太郎はすぐさま「横浜耶蘇(やそ)宗天主堂分社」として教場を設けた。
 その年、数名の受洗者を得、翌年には五〇名くらいの改宗者があらわれた。
 神父は村の中央に土地を求め、家を建てて礼拝堂兼子供の勉強室とし、神父の旅行中の休憩所にした。
 山上は伝道士と塾の先生を兼ねた。山上らは官憲の圧迫をおしのけて一八七八(明治一一)年一〇月教公堂を建て、聖嗎利亜(せいマリア)教会と名付けた。
 これとは別に、横川村出身の塚本五郎は、明治初年に横浜に行き、サン・モール会で働らくことになり、一八七五(明治八)年受洗した。


フランス人宣教師テストヴィド神父

 後に片倉に家を構えたが、塚本は八王子教会の基礎をつくった、と後に八王子で布教に従事したメイラン神父は書いている(八王子教会百年)
 そのほか、明治一〇年代に、八王子の町なかで蘭方医として活躍した松井玄同がテストヴィド神父より受洗した。
 カトリックと並んでギリシア正教も早くから八王子に浸透していた。すでに一八八〇(明治一三)年には八王子正教会として設立されていた。
 司祭パウエル佐藤、副伝教師イオシフ萩原、同ステファノン近藤がおり、信者は六六名であった。
 少し年代はくだるが、一八八三(明冶一六)年のこと、大主教ニコライが八王子にみえ、横山町の風呂屋の二階で説教した。
 それを聴いた瀬沼恪三郎という一四歳の少年は感激し、友人と共に家出をして神学校に入学した。
 瀬沼は後にロシアに留学し、帰国後は神学校で教鞭をとると共にロシア語の学者として活躍した。
 彼はトルストイの「アンナ・カレーニナ」を日本で最初に紹介した人であり、妻の夏葉はロシア文学者として名高い。
 キリスト教は八王子における文明開化でもあったのである。

  2 自由民権運動と困民党事件 top

 銀行の誕生
 明治一〇年前後、八王子地方においては器械製糸工場の設立が要請されていた。
 生糸取引も盛んに行われ遠隔地との取引が必要とされた
 。当然、従来の質屋金融や金賃しという個人的な規模の金融機関では社会の要請に応じられない状況になって、新しいタイプの金融機関に期待が寄せられていた。
 一八七六(明治九)年に銀行条例が改正された。
 条件をゆるめたために国立銀行の設立は急速に増加していった。

 八王子においては、一八七七(明治一〇)年四月から銀行設立の運動が開始され、その中心人物は横山町の谷合弥七で、その他田野倉常蔵・岡本平兵衛・畔見保太郎・久保兵次郎ら生糸商人であった。
 彼らは翌年二月一日に、創立証書・定款・申合規則を県に提出した。
 それによると名称は第三拾六国立銀行、場所は八王子横山宿一一四番地に設置されることになった。
 第三拾六国立銀行は二月一六日大蔵卿大隈重信によって認可された。

 認可は全国で三一番目、位置は現在の富士銀行八王子支店のところである。
 営業はその年の四月二三日に開始された。
 “銀行”というそれまできいたこともない金融機関の呼称に、人々は文明開化のひびきをきいたにちがいない。
 全国的には国立銀行は一五三行で打切られたが、その後も私立銀行の設立は続いた。
 これらの銀行は国立銀行条例によって銀行の名称をつけることを禁じられたため、一般に「銀行類似会社」の名で呼ばれた。
 このような金融機関の設立はブームを呼び、雨後の竹の子のようにあらわれた。
 八王子の町においても、明治一〇年までに八王子銀行をはじめとして八つの銀行類似会社が設立された(上表参照)
 頭取や社長は町や村の名望家であった。この中から、後に自由民権運動に参加していった者がみられたことは興味深い。株主のうちにもその傾向は強くみられた。
 さて、第三拾六国立銀行の設立に当ってきわだって活躍したのは谷合弥七であった。
 谷合は、一八三五(天保六)年、横山宿の商家に生まれ、名を為政、通称弥七といった。
 晩年には弥二と改名している。文を塩野適斎に、武を近藤勇に習った。
 彼は早くから八王子地方で頭角をあらわしていた。
 一八七三(明治六)年には設立されたばかりの生糸改会社の役員をつとめ、七九(明治一二)年には南多摩郡から石坂昌孝・富沢政恕らと共に県会議員に選出されている。彼は商人として地方産業の興隆に全力を傾けていた。博覧会や共迎会で在地の産業を代表し、また、武相蚕糸改良協会(一八八二年)や全国的組織の蚕業組合中央部の幹事(一八八六年)となり、八王子織物同業細合の設立(一八八六年)に奔走し、染色講習所の責任者でもあった。
 また生糸の粗製濫造防止の先頭に立って地元産業・在来産業の興隆に心血を注いだ。谷合はまさに地万における渋沢栄一的な存在であった。
 『興業意見』を著わした前田正名は、谷合弥七の肖像画(右の写真参照)の讚に次のように書いている。
  「此人雖逝功業不墜其名永伝八戸子地」(この人、逝くといえども、功業墜ちず。永く八王子の地に伝わる)


谷合弥七肖像画(谷合家所蔵)

 南多摩郡の成立
 一八七八(明治一一)年七月、郡区町村編制法が三新法の一つとして発布された。
 この法律にもとづいて同年一一月、多摩郡は西、南、北の三郡にわかれ、ここに南多摩郡が発足した。
 郡役所は八王子の本宿、禅東院におかれた。初代の郡長は日野宿の佐藤彦五郎俊正であった。
 郡区町村編制法にもとづいてそれまでの大区小区制は廃止され、旧慣尊重という趣旨のもとに従来の村落が再び認められた。
 八王子の名称は、江戸時代には八王子・横山三宿・八王子十五宿その他の呼称があったが、明治に入ると八王子駅とも単に横山宿とも称せられていた。
 一八七七(明治一一)年になって八王子町と呼ばれるようになったという。
 周辺の八王子市域の村でも江戸時代の名称を用いるようになった。
 一八七九(明治一三)年四月には区町村会法が発布された。
 これにもとづいて八王子市域においては町村会規則をつくって県に提出し認可を得た。現在、南多摩郡八王子横山宿々会規則をはじめ、谷野・中山・犬目・楢原・上川口の各村々の村会規則が残っており、村会の目的を「公共ニ関スル事件及経費ノ支出徴収方法并議事ノ細則ヲ議定ス」るものと規定している。
 また村会議員の選挙法は「満二十以上の男子ニシテ当町村内ニ本籍住居ヲ定メ且土地ヲ有スル者」に限るとし、議長・副議長は議員の互選とされた。
 現在の八王子市議会の源流は実にこの時に発足したものである。
 郡区町村編制法と共に府県会規則と地方税規則が公布された。府県会規則にもとづいて一八七七(明治一二)年三月にはじめての県会議員の選挙が施行された。
 選挙有資格者は満二〇歳以上の男子で郡区内に土地を所有し、地祖五円以上を納める者という条件があった。
 その結果、南多摩郡からは富沢政恕(連光寺村)、石坂昌孝(野津田村)、谷合弥七(八王子横山町)と大野清助(日野宿)が選出された。
 県議会は、自由民権運動の重要な活躍舞台でもあった。

 自由民権運動
 自由民権運動は新政府に民撰議院設立建白書を提出した板垣退助らによって開始された。
 一八七四(明治七)年のことである。
 やがてこの政治運動に地租の軽減を求める地主層が参加して、国民的な運動に発展していった。
 一八八〇(明治一三)年三月には国会期成同盟が結成され、政府に国会開設を要求した。
 自由民権運動の活動は八王子地方にも波及していた。
 一八八〇(明治一三)年一月、八王子に改進党系の政治結社(政社)第十五嚶鳴(おうめい)社が設立された。
 その模様を東京横浜毎日新聞は次のように報じた。
 「神奈川県下八王寺の成内(頴一郎)、川口(寛一)の両氏始め五十名程の発起にて組立てたる第十五嚶樢社に於て、過る七日に開業式を行ひ社長沼問守一も其招待を受け則ち同地へ赴きたり」
 その月には肥塚龍もみえて演説会を開催した。翌一八八一(明治一四)年三月には政談演説会が開催れた。
 嚶鳴社の動きに対し自由党系の国友会の演説会も五月に開かれた。
 八王子周縁部の動きをみると、大塚村には林副重・柚木芳三郎・土方啓次郎らによって博愛社が設立された。
 多摩における運動を結集し、その頂点にいたのは鶴川の石坂昌孝・村野常右衛門らであった。
 一八八一(明治一四)年一一月には石坂・村野らによって政社融貫社が結成された。
 八王子市域から大塚村の林副重と内藤武兵衛(大和田村)が幹部として参加していた。
 とりわけ林は、石坂や村野と共に多摩の民権運動のリーダーであった。
 一八八二(明治一五)年七月三〇日には石坂らは自由党に人党した。
 これに続いて市域では下壱分方村福岡のカトリックの信者山上卓樹ら五人も自由党に投じた。ついで林副重が続いた。
 こののち、大塚村二名、東中野村二名、堀之内村一名、鑓水村二名、下柚木村一名(以上由木地域)、八王子町一三名、片倉村三名、上川口村一名、本郷村一名、以上の人たちは一八八二(明治一五)年から八四(明治一七)年にかけて入党している。
 さきにあげた下壱分方村と大塚村一名を加えて三二名となる。この他にも推定の党員が三名みられる。
 これら自由党に投じた人たちの名は板垣退助監修の『自由党史』にも散見できる。
 一八八三(明治一六)年には自由党の檄に応じて各地の党員は多額の寄付金を醵出したが、南多摩郡の自由党員も賛同し、そのなかに八王子市域の面々もみられる。
 すなわち、大塚金蔵(五〇円)、大塚源太郎(二五円)、大沢信重(二五円)、山口重兵衛(三〇円)、石原正吉(三〇円)、大塚直次郎(二五円)、柏木豊次郎(二五円)、山上作太郎(二〇円)、奥田兵助(一〇円)、以上の九名である。

 一方、川口の地においては一八八一から八二(明治一四〜五)年に川口青年会がつくられた。
 上川口村森下には“ヤットーの爺”として慕われていた秋山国三郎がいた。
 村においては上層部に属し、村会議員や講の世話役などをして社会的地位が高かった「沈静なる硬漢、風流なる田人、園芸をわきまへ俳道に明らかに、義太夫節に巧みに、刀剣の鑑定にぬきんで、村葛藤を調理する威権ある二十貫男」であった。
 村の潸年たちはこの国三郎のもとに集まった。
 秋山文一(文太郎)をはじめ、そのなかには小田原出身の北村透谷、愛甲郡の大矢正夫がいた。
 後に日本の近代文学を樹立す役割を果した透谷は国三郎老人を敬愛し、上川口の森下“幻境”と呼んでいる。
 それも「我が幻境は彼あるによて幻境なりしなり」と記している。透谷と共に幻境生を送ったのは大矢正夫であった。


上川口村の民権家・秋山国三郎の旧宅
(現米山誠一氏宅)

 彼は脚気の治療で上川に転地し、一八八四(明治一七)年六月から翌一八八五(明治一八)年の春まで上川口学校で教鞭をとった。
 この間一時期、透谷は「山に入りて炭焼薪木樵(きこり)の業を助くをこよなき漫興と」し、「或時は彼家の老婆に破衣を借りて身をやつしつ炭売車の後に尾きて」八王子の市に出ることを楽しみにしていた。
 ところが、民権運動の行きづまりを打開するために党中央の大井憲太郎らによって渡韓計画がなされた。
 透谷は大矢から計画に勧誘されたもののこれをことわり、政治から身をひいていった。
 計画は発覚して(大阪事件)、大矢は逮捕され、裁判の結果軽懲役六年の刊を宣告されて獄にくだった。
 上川口村はむしろ五日市の経済圏にあった。在地の青年秋山文太郎は五日市の勧能学校で教鞭をとったことがあった。
 校長は干葉卓三郎、五日市憲法草案の起草者である。千葉は「王道論」を書いた。
 文太郎はそれを清書し、「跋王道論後」を書いている。文太郎は当時文一と称していた。
 早くから改進党系の動向がみえた八王子の町は、周辺の村落の動きに対してどう展開していたであろうか。
 党員名簿によると、自由党員は一三人と数の上では他の村落を圧倒している。
 一八八三(明治一六)年一一月に浅草井生村楼で自由党臨時党大会が開催されたが、その時、八王子からは青木副太郎が出席した。
 吉本は八王子町の自由党の指導者と考えられる。
 ところが、その年の七月、東大医学部を卒業した藤沢の人平野友輔が八王子で開院し、民権運動の活動を積極的に開始した。
 彼は石坂昌孝の長女みなの許婚者であった。
 九月には寺町二番地に自由党の八王子広徳館がつくられた。館長は林副重、平野は小林幸二郎らと共に多摩講学会をつくった。
 一一月には八王子の有志で共立会もできた。演説会は警察の弾圧にも屈せず、繰返し行われた。
 八王子は政治活動のはなやかな舞台であった。
 八王子といえば絹織物の生産地として著名であるが、機業関係者と民権運動とどのような関係があったのだろうか。
 自由党員名簿のなかで、小川時太郎の名がみえる。彼は機業家であった。
 後年の経歴は、一八九九(明治二一)年、八王子織物同業組合が設立された時、代議員に就任、一九〇五(明治二八)年には組長となって以後一六年間もその座にあった。
 北村理三郎は生糸商人であった。生糸を横浜に出荷すると同時に八王子の機業家に賃機をさせていたという。
 生糸商として八王子においては最右翼にいた。
 それに党員名簿には出ていないものの、後に江戸時代の風俗史研究で知られた三田村鳶魚(えんぎょ)は、大横町の織物仲買商に生れ、壮士として活躍した。

 困民党事件
 明治一〇年代につくられた『皇国地誌』によると、八王子の周辺村落では男は「農桑薪炭」を業とし、女は「養蚕製糸或ハ機織」をおこなって収入源としていた。田畑はそれほど多くなく、恩方地方などは多くは山に覆われた山村である。大なり小なり八王子周辺の村落は山村的な性格をもっている。だから農業のほかには、養蚕と機織が重要な副業であった。農民たちは生糸と織物を介して否応なしに商品経済のなかに巻きこすれていった。
 銀行や銀行類似会社も続々と誕生し、一八八一(明治一四)年の調査によると、八王子を中心に一四社が設立されていた。農民たちは西南戦争後のインフレ景気にわが世の春を謳歌していた。あたかも昭和戦後の高度成長期の状況によく似ていた。
 だが情勢は急変した。一八八一(明治一四)年末、大蔵卿松方正義がインフレ抑制のために新たな財政施策を断行したからである。そのため経済界は急速にデフレ現象を起した。農民たちは救いがたい泥沼に追い込まれた。
 それは一八八四(明治一七)年にピークに達した。
 南多摩郡長の原豊穣はその有様を「負債額只申書」に記して県令沖守固あてに送っている。
 それによると一八八四(明治一七)年九月、各村一戸当りの負債額を南多摩郡で平均すると一〇八円九四銭六厘に当り、その負債の三分の二は一八八一(明治一四)年以降三年九か月の間に増加したものであり、原因については「千緒万般ナリト雖トモ一言以テ物価激変ノ四字ニ帰セサルヲ得ス」としている。

 農民はついに起き上がった。
 一八八四(明治一七)年五月、神奈川県の南、大住郡に農民騒動が起り、高利貸露木卯三郎が殺害された。
 困民党と呼ばれた農民騒動は台風のように北上し、七月には八王子の南に波及し、八月一〇日には御殿峠に停滞した。
 八王子南部の動きに呼応するかのように、多摩北部一帯の西・北多摩郡の農民たちは下川口村唐松の塩野倉之助のもとに結集した。
 塩野家には負債証券が山と槓まれた。だが、警察の目はこの動きを素早く捕え、九月一目、塩野家を急襲し、書記の町田克敬を拘留し書類を押収した。
 九月五日、塩野をはじめ多数の困民が西中野村字明神山に集結し協議したが、結論が出ないまま塩野を先頭に二百余名が八王子警察に押しかけた。
 彼らは町田の釈放・書類の返還を要求した。


困民党指導者・久保善太郎の収監状
(久保家所藏)

 これに対し官憲は解散を命じ、ついに全員逮捕された。
 逮捕者は一二〇名、このうち現八王子地域の農民は山人村二二人を最高に一二二名(五八・一パーセント)に及んだ。
 多摩北部困民党の最高責任者は塩野倉之助、副は中野村の小池虎馬之助であった。
 その下に各村落に責任者がいた。
 上川口村の久保善太郎ら九人である。彼らは監獄八王子支署に収監され裁判を受ける身となった。
 この九・五事件以来、谷野村の須長漣造はひそかに武相七郡一五○ヵ村の盟約をつくっていた。
 須長のほかには中島小太郎・若林高之助(自由党員)、それに南大沢の佐藤昇之助らがいた。
 彼らは武相困民党を発足させた。だがその運動方針は蜂起から請願へと変えていた。
 武相困民党は、県との交渉のさなかに指導層は官憲に逮捕されて壊滅した。
 塩野倉之助と小池虎馬之助け軽懲役六年、久保らに重禁錮一年の判決がくだった。
 彼らは一八八五 (明治一八)年二月に上告したが、却下された。
 その結果、塩野は判決に服し、一八八九(明治二二)年の憲法発布の特赦で出獄し、小池は獄死、久保は一八八五(明治二二)年二月に保証金を績んで保釈となった。
 村は一段と疲弊し生活の場は崩壊にひんしていた。
 一八八五(明治一八)年四月、南多摩郡長原豊穣は困窮の様を県令沖守固に報告した。
 「方今郡下ノ人民非常ニ困迫ニ陷り就(なかんずく)中西北部落最モ惨状ヲ極メ其情況実ニ予想外ニ至レリ……」」、
 原はこう書きはじめ詳細に報告した上で、郡下の農民は
 「粮食(りょうしょく)ヲ購入スルノ途(みち)ヲ失ヒ実ニ飢餓ニ瀕ス」る状態であり、そのため
 「何卒非常ノ困難ヲ救済スル非常ノ御詮議披為存度此段卜申候也」と結んでいる。

 博覧会・共進会と八王子織物
 明治新政府は富国強兵と殖産興業を二大スローガンとして掲げた。
 とりわけ殖産興業をすすめる具体的な手段として博覧会と共進会が積極的に行われた。
 一八六七(明治一〇)年、上野で開催された第一回内国勧業博覧会はその第一歩を示す催しであった。
 八王子市域からは高橋仙之助(小比企村)、野崎富太(散田村)、福田甚太郎(八王子駅)、梅沢久次郎(八王子駅)ら二〇人が絹織物を出品した。
 出品者は「製法」を付しているが、高橋仙之助の解説の内容は注目される。
 彼は「…慣用の旧機ニ仏国ノ新機ヲ折衷シテ」織ったもので、新機とはジャカードであるからだ。
 ジャカードは一八七三(明治六)年のウィーン博覧会の時、日本にとりいれられ、一八七六(明治九)年に日本製ジャカード機が完成され、この内国博覧会に出品されていた最新の織機である。

 高橋仙之助け解説に「……之ヲ若爪徳氏(ジャカード、仏人発明者の名)ノ制式卜云フ……」とはっきり記している。
 織物のほかには練糸・座繰器・養そう器を谷合弥七が、蚕・蚕綿を川野介常蔵、生糸を鶴見保太郎らが出品している。
 続いて一八八一(明治一四)年一〇月一五日から一一月一三日の三〇日間、八王子横山町の八王子学校において神奈川県主催で、埼玉・群馬・栃木の四県連合繭生糸織物連合共進会が開催された。
 運営資金は谷合弥七の寄付金一二〇円を最高に、西川冶兵衛・岡本平兵衛・田野倉常蔵ら織物商や生糸商を主体に集められた。いわば「民立ノ共進会」の色彩が濃かった。
 この共進会の四年後の一八八五(明治一八)年、東京上野において五品共進会が開催された。
 八王子からは織物や生糸が出品されたが不振を極わめ、五等賞を得たにすぎなかった。
 この成績は織物仲買商に大きな打撃を与えた。特に染色が問題にされ、強く改良を迫られた。
 「一度洗滌すればたちまち褪色する」ような化学染料が使われていたからである。
 このことが八王子織物組合をつくらせ、染色講習所(都立八王子工業高校の前身)の設立へのきっかけになっていった。


八王子で開催された四県連合共進会(明治14年)

 大垂水(おおたるみ)峠開削
 南多摩郡長原豊穣は「物産を増殖シ土地ヲ繁盛ナラシムルハ運輸ノ便ヲ開クヨリ急ナルハナシ」として「地嶮ヲ盤シ岨ヲ通シ道路ヲ改修」することに枚挙にいとまがないと記している。
 甲州街道の小仏峠は「其峻険ナル実ニ単行徒歩卜雖モ困難ヲ極ムルノ悪路」であると甲部巡察使は明治一六年の復命書で述べている。八王子の谷合弥七は路線を践渉(ばっしょう)して調査し、県庁に申請して早くから測量をさせていた。
 この嶮岨な甲州街道の開削が本格的に俎上(そじょう)にのせられたのは一八八二(明治一五)年九月、たまたま玉川上水を視察した県令沖守固と府知事芳川顕正らが小仏嶺の現地をみてからであった。
 郡長原豊穣もその一行に随行していた。原はそれ以後、開削の経過をつ路線競争回末」に詳細に記録している。
 一〇月に入ると県会でも県議を派遣、八王子の有力者と共に現地を視察した。
 コースとしては案下(あんげ)通、小仏通と千木良(ちぎら)通の三つが考えられていた。
 案下通は上恩方を通り和田峠を経て佐野川から上野原を結ぶ線、小仏通は従来の線であり、千木良通は大垂水を通過する路線である。
 この三コースのうち工費が少なくて済むということで千木良通開削に決定した。
 八王子では甲州街道開削で谷合以下町の有力者が結集し、委員を選出してこれにあたった。
 一八八二(明治一五)年一二月一日には協議案第一号を出している。
 ところが、その月の一一日に、千木良通決定をきいた上恩方村から案下通を要請してきた。
 案下通案には主恩方一万円、佐野川二〇〇〇円とそれぞれ工費を捻出するという条件がついていた。
 このため八王子の有力者は実地調査し、一七日に理事委員を召集して従来の千木良通案を撤回して案下通開削に変更した。
 このことは山梨県令藤村紫郎や津久井郡長吉野十郎に伝えられた。
 明けて一八八三(明治一六)年正月から開削問題の討議は続けられた。
 津久井郡は八王子案に反対し千木良通を固守した。
 二月の一一日、紀元節の日、この問題に結論が出され、案下通案は敗れて再び千木良通に決定した。
 開削工事は七月に着工、五年後の一八八一(明治二一)年五月三日に完成した。
 この甲州街道の開削と並んで早くから問題になっていたのは八王子から横浜へ通じる道路であった。現在“絹の道”と呼ばれているそれである。
 横浜開港でがぜん注目されるようになったが、元々「里道」であり、多摩丘陵越えが難所であった。
 早くも一八七五(明治八)年には、八王子の商人から馬車道にとの要望が県に提出されていた。
 横浜−町田−八王子のコースよりも、横浜からいったん東京に出て甲州街道を八王子に達した方が距離は遠いが容易である、と理由を付していることは注目される。
 八王子から東京までは馬車で結ばれており、東京から横浜までは汽車が通じていた。
 馬車道が実現したならば、甲州街道の開削と並んで、甲州の物資が甲州街道を通って八王子に流れ、かつまた横浜へも自由に運ばれると考えていた。
 この横浜街道が改修されたのは一八九一(明治二四)年のことであった。

  3 八王子織物業と日清・日露戦争 top

 八王子織物と染色講習所

 一八八一(明治一四)年末に強行された松方肘政政策で、西南戦争後の好況は不況に転じ、織物は一八八二(明治一五)年以後、販売が急激に低下していった。
 このようななかで同年八月、八王子の機業者は粗製濫造防止を掲げて八玉子機業組を結成した。
 「……人ノ衆多ナル其製ノ数品ナル其製等シク共名ヲ同フスト雖卜壬其ノ中ニ於テ精アリ粗アリ且瞰濫ノ製無シト保シ難シ、飮テ今回該業二仕ル者協議決定シハ王子機業組卜号(なず)ケ……」としたためでいる。
 経済界の不況と共に粗製濫造防止の声は織物界に起っていたが、これを決定的にさせたのは、一八八五(明治一八)年、東京上野に開催され九五品共進会であった。
 五品とは繭・糸・織物・陶・漆器である。この共進会で八王子の成績はほかの産地と比較して振るわず、わずかに五等賞を獲得したにすぎなかった。
 八王子織物業界の指導者――それは織物仲買商たちであったが、その成績にがくぜんとした。
 不況に加えての成績不振に指導者たちはみずからの力によってマイナスをプラスに大きく変えるために努力した。
 一八八五(明治一八)年、同業組合準則が公布された。
 八王子の織物仲買商たちはこの準則にもとづき、翌年五月谷今弥七ら二十三名は、八王子織物組合を設立した。
 彼らは、「八王子織物組合規約御認可願」のなかで、
 「……近来生産者競フテ廉価ヲ主トスルヨリ或ハ丈幅ヲ短縮シ或ハ偽似ノ染色ヲ為ス等ノ悪弊に陥り殆ント将ニ需給者ノ信憑ヲ失ハントス。
 今ニシテ此弊風ヲ矯正スルニ非ズンバ遂ニ地方ノ富源ヲ絶ツニ至ルハ必然ノ義」として、規約を設けた理由としている。
 主体になって活躍したのは谷合弥七・荻島信吉らであった。
 五品共進会で審査官がきびしく指摘したのは染色問題であり、これは織物業界全体の共通課題でもあった。
 関東における機業地では次々に染色講習所を設立していった。
 すなわち足利においては一八八四(明治一七)年、桐生・伊勢崎では一八八六(明治一九)年、山梨県の郡内あまた一八八六(明治一九)年に染色の研究機関を設けた。
 それらの機業地は中央より技師を招き講習所を通して成績を向上させていった。
 八王子において毛織物同業組合設立の目的は染色講習所の設立にあった。
 組合の指導者は一八八六(明治一九)年七月、神奈川県知事に「織物講習所設立ノ趣旨」を提出した。
 翌年三月六日、八王子町の新町の一角に八王子織物染色講習所が設立され、盛大に開業式が行われた。
 県知事代理をはじめとして裁判所長・南多摩郡長・戸長・銀行頭取など町の名士が出席した。
 花火が打ちあげられ西洋料理が並び、近郷近在から三〇〇〇人もの見物人が集まって祭りのような気分にわきたった。

 建築費八八二円余の建物、備付品四〇五円余の設備、八王子織物染色講習所はこのようにして発足した。
 所長は谷合弥七、講師は染色界の第一人者山岡次郎があたった。
 だが山岡の在任期間は六か月で短かった。
 山岡の後任には山岡の要請で中村喜一郎が迎えられた
 中村は一八七三(明治六)年、ウィーン博覧会に佐野常民の一行に事務員として随行したが、ウィーンにおいて佐野の命で染色研究に従事し、ドイツで学んで翌年六月に帰朝し、以後、主に京都の染殿で指導にあたっていた。
 中村こそ日本における化学的染法の嚆矢であり、かがやかしい業績を残した人である。
 中村は八王子に招かれたくだりについて次のように記録している。
 此時ニ当リテハ王子町ニ於テモ有志者相謀リテ一ノ織物染色講習所ヲ新設シ大ニ当業者ノ便益ヲ図ルリ来リテ余ニ其教授ノ任ヲ請ヘリ
 余ヤ固ヨリ斯業改進ノ責ハ夙ニ身ニ在り且其衝ニ任ズル是レ素志ノアル所ナリ
 因(よっ)テ官ヲ辞シ明治二十年九月始メテ八王子ニ来り遂予行ヲ染色教授ノ業ニ投ジ一意専心之ガ改進研究ノ法ヲ講ジテ只管地方物産ノ繁殖増進ヲ図り種々実験ノ結果八王子織物トシテ一ツニ堅牢染色ニヨリテ世ニ名声ヲ得ルニ至ラシメクルモノハ余ガアリザリン染料応用ノ法ヲ勧誘実行セシメタル結果卜謂フベシ……


中村喜一郎が中心になって
刊行した『染色雑誌』

 中村は以後一四年問にわたり壮年期の三〇代から四〇代にかけて八王子織物の指導に任じた。
 八王子織物が発展していく素地は、まさにこの八王子織物組合の設立、技術指導の殿堂――染色講習所の誕生によるものといわなければならない。

 八王子町と新九ヵ村の成立
 一八八八(明治二一)年四月、市制町村制が交付された。
 神奈川県では、これにもとづき県知事の名で翌年三月三一日をもって市町村の分合を通達した。
 八王子市域においては八王子町が生れ、由井村をはじめ九ヵ村が別表のように新たに成立した。
 ところで町村合併は「大凡三百戸以上」で、なるべく従来の関係や地形・人情を参考にして合併すること、また連合戸長役場制区域については特別の問題のない場合はそれと同一の区域を継承することをすすめられた。
 この町村合併によって全国的には町村数が七万四三五から一万三三四七に激減した。
 八王子市域においては一九の町が八王子町として統合され、従来の六一ヵ村が九ヵ村にまとめられ、旧村は大字として残されることになった。
 八王子市域において、一八七四(明治一七)年の連合戸長役場制と一八八九(明治二二)年の町村合併を比較してみると、由井地域に属していた鑓水村が町村合併の時は由木村にかわったことであろう。その他の地域は両者のちがいはない。
 新しく生れた村の名については、村に大小ある場合は大の村名をそのままつけ、同じ大きさの場合は全く新しい名をつけるように指示された。
 八王子市域で全く新しい名がつけられたのは、由井村・横山村・浅川村・加住村・小宮村の五ヵ村である。
 この名称の由来については、由井村は北野・打越・長沼が由井領であり、横山村は横山庄横山郷に属し、小宮村は小宮領に属していたことによるものであろう。
 加住村は、高月の北条氏照の居城が霞ヶ城といった故事により、霞と一三ヵ村を加え住む意をもって加住としたと伝えられている。
 浅川村は浅川の源流によるものであろう。
 川口村について土地の記録「唐松日待帖」には合併について次のように記載されている。
 明治二十二年七月 五ヶ村合せて川口村と名づく。
 坂本登名蔵殿五ヶ村々長となる。
 役場の場所は大地蔵の新宅なり。

 新しい村の運営は村長と助役、それに村会議員で行われた。村会議員は村全体の公民の中から選出された。
 公民とは地租を納めているかまたは直接国税二円以上を納入している者である。
 村長と助役は村会議員の投票によって決められた。村長は原則として無給の名誉職であった。
 だから村の有力者が村の最高指導者であり、地主そのものであったのである。
 こうして新しい村が誕生し、村長・助役・村会議員が選出され、村役場ができあがり、兵役・戸籍・土地収用・伝染病・道路・小学校などの行政事務が行われるようになって、村役場は官庁の出先機関としての役割を果すことになった。
 以後八王子町の市制施行、浅川村と小宮村の町制施行、それに小宮町の八王子市への合併という変遷はあるが、その他の村は戦後の市町村合併までその体制を維持した。

  【明治廿三年一月 八王子町統計表】(省略)

 甲武鉄道と横浜鉄道
 明治の一〇年代、多摩にはまだ一本の鉄道も敷設されていなかった。
 馬車が陸上唯一の交通機関として、時折りけけむりをあげて街道を突っ走っていた。
 武蔵野の静かなしじまを破って八王子と新宿の問を汽車が走ったのは、一八八九(明治二一)年八月のことであった。
 一八八五(明治一八)年頃、神奈川県庁に奉職していた清水保吉の「八王子鉄道論」によると、八王子へ向けた鉄道にはつぎの四つのコースが計画されている。
 (1)内藤新宿→八王子に、(2)川崎→八王子、(3)内藤新宿→青梅、支線で八王子へ、(4)横浜→八王子。
 一八八四(明治一七)年、甲武馬車鉄道が神奈川県と東京府の知事に開業免許の申請を出した。
 当初は馬車鉄道であったが、その二年後汽車鉄道に変更された。
 その頃、生糸商人として著名な原善一郎らも、八王子〜川崎間の武蔵野鉄道を計画、申請したので、両者は競争の形になったが、結果的には甲武鉄道が認可された。
 一八八八(明沢二)年三月、正式に甲武鉄道株式会社(株主として八王子の有力者が参加)が発足し、六月から鉄道敷設工事が始まったが、新宿〜立川間二七キロメートルをわずか一〇か月という短期間で完成し、翌八九(明治二二)年四月一一日に営業を開始した。
 これは小金井堤の花見客をあてこんだからであるという。

 立川から八王子までは、多摩川の鉄橋架設工事という難工事があったが、それを無町乗りこえて、さらに四か月後には八王子まで開通した。
 同年八月一一日、新装なった八王子駅で盛大な祝賀会が催された。
 多くの見物人が集まり、祝賀会場の招待客には西洋弁当とビール一本が出された、と田沼久吉老人は回顧している。
 停車場の位置は現在の都立繊維工業試験所と東京都八王子合同庁舎付近で、駅の構内は広く、第百生命の裏あたりまであった。
 汽車の出現でこれまで八王子−東京間を走っていた馬車は、当初は汽車に負けじとせりあったが、所詮は文明の産物である汽車には太刀打ちできなかった。 一時代の役割を終えた馬車は甲州街道から姿を消していった。
 甲武鉄道は、この後一九〇三(明治三六)年に八王子−甲府間に中央東線を完成し、一九〇六(明治二九)年一〇月には国有化された。


明治時代の八王子駅構内

 甲武鉄道が国有化された前年の五月、横浜鉄道株式会社に正式に鉄道の敷設免許状が下付された。
 生糸貿易商原善三郎ら一三人によって最初の申請がなされて以来一一年の歳月が流れていた。
 発起人は四〇名で、そのなかには村野常右衛門や柚木村の井上隆治など旧自由党員も加わっていた。
 許可されたことについては、私鉄ではあるが必要な時期に国有にすることができる、という付帯条件と沿線地域の経済的発展・公共性が強調されていた(『町田市史』下巻)
 工事は一九〇八(明治四一)年八月に竣工、九月には営業を開始した。
 しかし成績はあまりはかばかしくなく、営業不振の会社の救済ということを含めて一九一七(大正六)年一○月に国有化された。
 陸上交通の整備という点から架橋工事をみると、一八九七(明治三〇)年には浅川に架けられた八王子の代表的な橋が誕生している。
 一九〇〇(明治二三)年に荻原橋、翌年に浅川橋、そして一九〇五(明治二八)年には大和田橋がつくられた。
 萩原橋についてはその橋の名が示すように企業家萩原彦七の名は忘れられない。
 かって明治一〇年に製糸工場を設け二○年代、三〇年代と成長してきたが、資本主義の荒波にはかてず一九〇一(明治三四)年には片倉製糸に工場を明け渡した。
 その前年に彼は寄付金を募って萩原橋を架けた。
 現在の橋の位置より二〇〇メートルほど上方で木橋であったが、架橋を記念した石碑が今も残りている。

 東京府編入
 一八九三(明治二六)年四月一日、三多摩は神奈川県から東京府に編入された。
 この時、編入に反対していた三多摩の自由党は、川口村の壮上を主体に奇妙なデモを敢行した。
 『三多摩政戦史料』によると、自の麻上下(かみしも)を着し、「三多摩院殿花蓮人姉霊位」と書いた四尺五寸の大枚の位牌を掲げ、六人で柚をかつぎ、四〇人の不具者に臭気を放つぼろをまとわせての行進であった。
 このデモの意味は三多摩の東京府編入は三多摩を不具者にし貧弱にしてしまう、という表現であった。
 川口村を出発したデモ隊は、大和田橋を渡り八王子町に入って編入賛成派の町長平林定兵衛の家の前にとまった。
 平林の側も壮士を集めて防備を固めていた。一触即発の危機にデモ隊の一人が制止して事なきを得た。
 デモ隊は小宮村を経て加住村に入り、編入賛成者青木鎮郷宅に土足で乱入して鬱憤(うっぷん)を晴らした。
 三多摩の東京府編入問題の歴史は古い。明治のはじめから、神奈川県に属していた三多摩はいくたびか編入問題に搖れていた。
 一八七三(明治六)年、府知事大久保一翁は、玉川上水の「沿岸諸村編入願」を大蔵省に提出した。
 これは実現をみなかったが、一八八一(明治一四)年一一月に東京府知事松田道之は「玉川上水縁官有地上水敷地ニ組込之義ニ付伺」を政府に提出し許可された。
 一八八六(明治一九)年になると、西多摩郡と北多摩郡の移官要求が府知事と警視総監の逮署で内務大臣に申請された。
 二郡移管は以後東京府の姿勢につらぬかれている。だが、この要求も結局は陽の目をみないで終った。
 ところがその年の夏、コレラが発生し、西多摩郡長渕村でコレラ患者の汚物を多摩川で洗ったという誤報が広がり騒ぎを大きくした。
 玉川上水の水は宮中でも使用していたために、宮内省は内務省へ厳重な取締りを要請した。
 これと並んで玉川上水の上流の保安林にも関心が寄せられていた。
 これとは別に東京府への移管については政治問題がからんでいた。
 三多摩といえば自由党の根拠地であったが、大阪事件後、南・西多摩を主体にした石坂・村野らの多摩の自由党は、北多摩郡を主体にした吉野泰三の派とはっきりとわかれていた。
 吉野は北多摩郡正義派を結成し、北・西多摩郡の東京府編入を支持した。
 これに対して多摩の自由党は不気味な沈黙を守りつづけていた。
 一八九二(明治二五)年、神奈川県知事内海忠隆は、北・西多摩郡に南多摩郡を含めて東京府への移管を表明した。
 神奈川県から三多摩全体を移管することを要求したのである。
 同年九月、それを受けて富川府知事は三多摩移管を内務大臣に上申した。
 内海県知事は三多摩は民情風俗が同一であり、甲州街道や甲武鉄道によって東京と結ばれている点をあげている。
 だが、本音は神奈川自由党の処理にあった。三多摩を東京府に移譲することによって神奈川自由党を弱め、改進党が制圧している東京府に移して三多摩の政治勢力を少数勢力にするためであった。
 一八九三(明治二六)年二月一八日、第四国会の会期がつまってきた時、突然三多摩の東京府移管の法案が政府案として提出された。
 自由党は反対を表明した。三多摩においては自由党と正義派がはっきりと対立した。
 自由党の傘下にあった南多摩の町村では町・村長と助役が総辞職を決定した。
 しかし法案は二月二八日に衆議院を通過、貴族院でも賛成多数で成立した。
 三月六日法律第一二号が公布されて三多摩の東京府への移管は四月一日より実施されることが決った。
 三多摩の東京府編入直後に、編入問題については八王子において三多摩壮士による反対はあったが、結局は定着して、三多摩自由党はむしろ「押し通る」の異名をもつ自由党の領袖、星享(ほしとおる)と組んで東京府議会での活動がいろいろな意味で注目されるようになった。

 日清戦争と玉組の悲劇
 日本は朝鮮を軍事的政治的に支配するために清国と対立していたが、一八九四(明治二七)年七月二五日、豊島(ほうとう)沖の海戦で戦争に突入し、遅れて八月二日に宣戦布告をした。
 ここに日本と清国の両国は朝鮮半島を舞台にして激しく戦闘をくりひろげていった。
 全国各地に出征兵士を送る情景がみられたが、八王子駅頭においても人波が続いた。
 「前に寄り集ひし人々及び後より出で襲り来りし人々頗る夥しくさしも広き境内も人の山なす許り」と八王子の住人島村粛々は新聞に投稿している。
 彼は続けて次のように記している。

 待つ間もなく新宿発の汽車皈(かえ)り来たり いよいよ入営の人々は軍用と貼附せる二つの室へどやどやと乗込み 見れば職人と見ゆる人あり商人農者及び村役場の書記と見ゆる人あり 各其職こそ違へ思は同じ感慨を胸に湛へざるなし……

 見送りの人々に応えて「彼等は強て徴笑」をしつつ訣別の言葉はただ「何分よろしく頼む」という短い言葉であった。
 そうした光景のなかに、島村は戦争のために引きさかれていく夫婦の別れをみた。

 ……其妻なるべき婦人は二十七八歳にてもあるべし 髻を丸髷に結びたるが一人の婢女(はしため)に嬰児(えいじ)を負はせ 列車内の男に向ひ手巾(ハンカチ)もて暗涙を拭ひつつ何か囁(ささや)けり 男なる人口年齢三十を一つ二つ越しけんと思はる顔色凄愉として在りけるが 態と笑を含みつつ何事かいいけるは 定めし後事を託するなるべし 而して無心なる嬰児は父母を見でたゞ笑ふのみ……

 八王子町では八王子町愛国議会が組織された。応召将士やその家族を後援するためであった。
 第一回精算表によると、第一師団予備近衛出兵者三三名に送別金として一人三円あて九九円を渡し、家族に対しては一四名に一円から四円、計四〇円を扶助料として支給している。
 日清戦争は正義の戦いとして清国打倒の気慨は国民の間に満ち満ちていた。
 三多摩壮士は、一八九二(明治二五)年の選挙で激しい弾圧を受けたが、日清戦争には森久保作蔵を頭取として軍夫の集団玉組を結成した。
 全国から応暮した軍夫は、二〇歳から五〇歳までの爵壮年でその数四三二人、このうち一六○人(全体の三七パーセント)が多摩の出身者であった。
 八王子市域からは八王子町三八名、川口村九名、元八王子村六名、由井村四名、小宮村一二名、恩方村二名、浅川町六名、由木村三名の計八〇名である。
 森久保に率いられた玉組は後備歩兵第一連隊に属し、一八九五(明治二八)年三月一五日に佐世保を出航し、二三日に膨湖島に到着した。
 ところが船中で疫病が発生して大混乱におちいっていた。
 玉組では一六日から死者が出はじめ、二一日には一日で三〇人が死亡するという今では考えられない悲惨な有様になった。
 玉組の死者の総計はなんと一〇〇人、八王子市域では八王子町の一〇人を最高に一二人が犠牲になった。
 日清戦争の兵士の戦死者が八王子市域の合計一七人で、それを五名も上回る数であった。
 いかに大きな悲劇であったかがわかる。膨湖島は日清戦争中最大の死者を出したところとなった。
 日清戦争は九か月ほどで日本の勝利におわり、平和が甦えった。
 一八九五(明治二八)年四月一七日、日清講和条約が調印された。
 一一月、南多摩郡長原豊穣は、郡下の各町村長を委員長にあげ、みずからは委員総長となって南多摩郡凱旋祝賀会を組織した。
 この祝賀会の事業は、凱旋祝賀会の挙行、征清従軍者の慰労、それに招魂碑の建設と招魂祭の施行であった。
 招魂碑は八王子町字上野に建てられることになり、翌九六(明治元)年三月に完成した。
 表には「報国忠魂之碑」と大きく書かれ、裏面には「碑面六大字参謀総長彰仁親王殿下書以賜之嗚呼死者之栄亦足矣 明治二十九年三月武蔵国南多摩郡有志者建之」と刻まれた。
 同年四月一五日、桜花爛漫と咲き乱れている時、南多摩郡の出征軍人を主賓に式が行われ、出征軍人には木盃と慰労状が渡された。
 以後、毎年四月一五日に招魂祭が行われ、八王子の例祭となった。藤森公園が開かれたのもこの時である。

 新自由党と三多摩壮士
 一八九二(明治二五)年二月、第二回衆議院総選挙が行われた。この選挙で政府は民党(自由党)を激しく弾圧し、いわゆる選挙大干渉が行われた。
 多摩では民党は官憲とたたかい、史党の吉野泰三と激しく敵対していた。
 投票前日の一四日、八王子駅頭での民党のいでたちは人々の目を見はらせた。
 石坂昌孝と瀬戸岡為一郎を擁立した多摩の自由党は、森久保作蔵をはじめ小林儀兵衛(浅川村)、井上貞作、横溝弥市(大和田村)、内藤武兵衛(同)、乙津良作(川口村)、秋山林太郎(同)など総勢三八名が白鉢巻をし、襷(たすき)をかけ、仕込み杖を携え、あるいけステッキ・棍棒・ピストルを持った異様な姿でに立ちふるまっていた(須長漣造日記)
 総選挙の結果は完全に自由党が勝利を収めた。
 川口村をはじめ八王子周辺の各村々では民党への支持は圧倒的であった。
 ところが、総選挙が終って半月たった三月三日の夜、八王子の本町で高利貸をしていた伊藤治兵衛の一家が、何者かに斬殺され、そのうえ放火された。
 官憲は犯人を自由党員と断定、逮捕し追究したが、結局は迷宮入りに終った。
 選挙干渉、そして伊藤治兵衛殺しの容疑、続いて起った三多摩の東京府への編入問題、特に編入問題は三多摩自由党の勢力をそぐために仕組まれたといわれている。
 この時、吏党の吉野野泰らは積極的に賛成して多摩自由党と対立した。
 両者の埋めることのできない深い溝はいろいろな場面にあらわれていた。
 鶴川村(現町田市)で起った吉野系の医師大須賀殺しに続いて、一八九四(明治二七)年に浅川村で串田儀八殺しが起った。
 浅川村の村会議員選挙の時、吉野泰三の幹部であった串田儀八が、浅川の芋畑で自由党の壮士によって深手を負わされ、串田はその場で自決したという。
 一八九二(明治二五)年、九三年、九四年と多摩の自由党は話題をまいたが、九五(明治二八)年には前述のように日清戦争に軍夫を結成して玉組として従軍し、多くの犠牲者を出した。
 戦後、自由党の内部は戦後経営で紛糾していた。「官民協力」を主張していた森久保作蔵らは政府に協力をすることを主張した。
 自由党の大会は混乱し、政府提携派は自由党から脱党するに至った。
 中心は三多摩の政治家であった。彼らは新たに政党を結党することにした。新自由党である。
 結党大会は一八九七(明治三〇)年二月二八日、芝の紅葉館で行われた。
 「殊に三多摩郡地方より出席せし人々は甲武鉄道列車借切りで、一千五百名或は七百余名と二回に出京し、飯田町停車場より隊伍をなして紅葉館へと押寄たり。其紛装は何れも揃ひの大黒帽を冠り、多くは草鞋(わらじ)穿き尻端折(しりはしより)なりし」と朝日新聞は報じている。
 村野常右衛門のメモによると、この時八王子市域からは川口村一〇〇人、加住村六〇人、八王子町五〇人が参加したという。
 また別の村野メモによると三多摩壮士の動員名簿には、八王子町三三〇、横山村六一、浅川村二四、元八王子村四七、恩方村三〇、川口村五二、加住村六四と記されている。 八王子市域は、村野常右衛門や森久保作蔵のもとに三多摩壮士の主体を形成していたわけである。
 以後森久保は、計画的に三多摩の青年や壮士を東京府・市の巡査・教員・電車運転手・車掌・市関係職員・役員に就職させ、東京市会に自由党の権力を樹立しようと計画した。

 八王子大火
 一八九七(明治三〇)年四月二二日、のちに八王子市の”大焼け”と呼ばれる大火が発生した。
 その日は朝から風が吹き雨雲が低くたれこめて、時折り雨がふっていた。
 午後から晴れ渡ったが、風は一段と激しさを増してきた。不連続線が通過して気圧の配置が変ったのであろう。
 その風にあおられて午後三時四〇分頃、大横町より出火した火はまたたく間に隣家に燃え移り、飛び散る火の粉は風に運ばれて妙薬寺と関谷座に飛火した。
 大横町の火元と、それに飛火した二か所から燃えあがった火は烈風に身をまかせ、まるで生きている悪魔のように町中を東につっぱしっていった。
 この間わずかに一五分、新町の端まで行きつめた火は浅川に阻まれて止まると思われたが、それを飛び越えて大和田に飛火した。


明治30年、八王子大火の絵(『風俗画報』140号)

 その頃、風の向きが変って火は逆の方向に転じ横山・八口・馬乗へとなめるように家々を焔のなかに包みこんでいった。
 かくて八王子は四時間ほどで燃えつき焼野原と変ったのである。
 焼失地域は大横・八幡・小門・本町・南新・天神・南・寺町・三崎・横山・元横山の大部分・旭・東・明神・新町の全部、その他大和田村の一部である。
 焼失戸数は消防庁の調査で三三四一戸、当時八王子町の戸数は約五三〇〇戸であったので、焼失は全戸数の六六パーセントにあたっている。
 被害総額は一二一万四五〇円であった。
 それにしても焼失した地域が八王子の中心部を含んでいたために重要な機関の多くが灰燼に帰した。
 焼失した重要な建物は、東京地方裁判所、八王子区裁判所・郵便電信局・郡役所・町役場・収税所・警察署・八王子小学校・高等小学校・私立小学校・鴻通銀行・武蔵銀行・劇場清水座・関谷座・妙薬寺・金比羅神社・天王森等である。
 このような建物と並んで、町の有力者も多く家を失った。
 成内治一郎・山上十郎左衛門・谷合弥七・谷合弥八・嶋村孫一郎・西岡義平・北浦権平・平林定兵衛・柴田弥一・吉田忠右衛門らである。
 なかでも分限者として知られ、文化にも造詣の深かった谷合弥八の嘆きは人の目をひいた。
 谷合家は明治一〇年代に二度明治天皇の行在所となった。
 弥八はそのことを上もなく名誉と考え、天皇の玉座となった部屋には家人の出入りを禁じ、三大祭日にはその部屋を清めて遥拝の式をおこなっていたという。
 人的の被害も多かった。死者四二、負傷者二二三人(『東京消防庁史稿』)を数え、罹災者の数は一万人に及んだ。
 死者のなかには溺死がいたが、これは火に追われ井戸に飛びこんで死んだ者である。
 罹災者には救助の手がのべられた。炊出しは萩原製糸場の蒸気機械を使い、三〇分で一俵の米を炊出した。
 甲武鉄道では罹災者向けの義捐品は無料とした。天皇・皇后からは救恤金として金四〇〇〇円が下賜された。
 第七十八銀行からの三〇〇円をはじめ義損金も続々と届けられた。代議士森久保作蔵らは罹災民救助事務所を設け義捐金を集めた。
 大火から一か月後、「東京府八王子町大火一ットせぶし」が刊行された。
  ひろいむさしで なもたかき
  はちをゝじまちの たいかにて
  きくもあわれな はなしさよ
にはじまって二〇番までで、八王子大火のすべてを歌いこんでいる。

 赤痢大流行
 一八九七(明治三〇)年四月に伝染病予防法が公布された。
 法定伝染病(コレラ・チフス・赤痢・ジフテリア・発しんチフス・天然痘)は猩紅熱・パラチフスを加えて八種類となった。
 くしくもその年の夏、八王子をはじめ周辺の村々では赤痢が大流行し、人々を恐怖のどん底におとしいれた。
 町の六割余を灰燼に帰した三〇年大火の直後のことであったが、流行の徴候はすでに前年にあらわれていた。
 一八九六(明治二九)年一〇月警視庁の二人の検疫官が南多摩郡下の町村を巡視した。
 その時の報告によると、八王子町の患者は三七人で、内容は全治二〇、死亡八、未治九であった。
 南多摩郡下では一村を除いてすべて赤痢の災害に見舞われていた。
 当時、八王子の纈山にあった八王子町の避病院は粗末の一語につきた。
 建物は「仮小屋ニ類シ殆ンド病院ノ体裁」はないという施設であった。
 病室は六畳二間に八畳一間で、患者は床板の上に藁を敷き、その上に布団を敷いて寝るという状態であった。


南多摩郡私立衛生会雑誌
(第1号)

 常雇いの主治医も薬品もなく、医者は病院が町から離れているために隔日に一回往診するという程度で、備えつけの薬らしいものといえば石炭酸と生石灰という消毒薬だけであった。
 町の衛生状態にも問題があった。特に下水道は不備で不潔を極めていた。
 果して翌一八九七(明治三〇)年、大火に見舞われたあと赤痢は猛威をふるった。
 その勢いは前年の比ではなく、八王子町では三一四人が罹病し、九六人が死に、由木村では一七六人中八二人が死んだ(死亡率各三〇、四六パーセント)。
 南多摩郡長原豊穣は「至急予防凖備に関する緊急指令」を発して事態に対処した。
 一八九八(明治三一)年四月には八王子町に伝染病隔離病院の設立位置が決まり、一九〇〇(明治三三)年に伝染病予防法にもとづいて伝染病隔離病舎が建てられた。
 現在の八王子市立台町病院の前身である。
 赤痢大流行により伝染病に対する関心がたかまり、一九〇一(明治三一)年六月には南多摩郡私立衛生会が発足した。
 郡長・警察署長・医師・町村有志で編成された半官半民の組織である。
 会は伝染病のなかでも主に赤痢対策をめざし、その年の一〇月には「南多摩郡私立衛生会雑誌」第一号を発刊した。
 医師の組織は一八九二(明治二五)年一月八王子医会がつくられたのをはじめとする。その後変遷を経て、一九〇六(明治三九)年一一月、医師会規則が制定されたのを機に、これにもとづいて○八(明治四一)年七月、南多摩医師会として誕生、発足し、全国的組織に組入れられていった。

 八王子織物同業組合の設立
 祖製濫造防止をかざして一八八六(明治一九)年に八王子織物組合がつくられ、事業の一環として染色講習所が設立されたが、その効果はただちにあらわれた。
 一八九〇(明治二三)年、第三回内国博覧会が東京で開催された時、八王子織物は優秀な成績を収めた。「八王子織物は実に同会の主位に居れり、之を明治十八年東京共進会の出品に比すれば、実に著しき進歩をなせし」ものと審査員は賛辞を惜しまなかった。

204
 一八九三(明治二六)年には米国世界大博覧会に出品した荻島信吉・中村宗三郎らは賞牌を受けた。
 このような華やかな活動とは別に一八九四(明治二七)年には五二会の八王子支部がつくられた。
 織物仲買商の久保田喜有衛門が支部長となり、機業者を会員にして織物の粗製濫造の防止に立上がった。
 五二会は、在来産業の育成のために著名な前田正名を会長とした全国的な組織である。
 明治二〇年代も日清戦争が終って平和を迎えたころに織物の需要が急速に高まっていった。
 一八八七(明治二〇)年の八王子織物の売上高を一〇〇とすると、九三(明治二六)年は二五〇、九九(明治三二)年はなんと一二一〇と約一二倍に上昇している。
 異常なまでの躍進であり、八王子織物は国内において西陣・桐生についで第三位の地位を確立し四位との差を大きくひき離したのである。
 ところで、機業地は一八九七(明治三〇)年を境にして一大転換を迎えた。
 同年四月、重要輸出品組合法が発布され、この法律にもとづいて各地の機業地では、新たに仲買商と機業家が一体になって組合をつくり、粗製濫造防止をめざしていったからである。
 八王子においては九八(明治三一)年、本格的にその問題に取組んでいった。
 きっかけは一八九八(明治三一)年一月一一日、集散地問屋の京都呉服商栄組合より八王子織物の仲買商に次のような申し出があったことによる。
 すなわち八王子織物に「丈尺著シク短縮シ中ニハ実際実用ニ適セザル品往々有之為ニ営業上甚ダ迷惑ヲ蒙」っている。
 そのため丈尺を決めるので、もしこれに「満タザル短尺ヲ発見致候バ……恚ク返却可致」と強い態度で織物組合の仲買商に迫った。
 これに対し八王子織物仲買商たちは直ちに仲買商の中から八王子織物改良委員を選出し、八王子織物の「興廃ニ関シ不容易件ニ付」として改革に収組んでいった。
 仲買商からは荻島信吉をはじめ七人、機業家から峰尾善治郎以下七人が発起人となって、八王子市場傘下の織物生産地一府一県六郡四九か村を包含した八王子織物同業組合を結成することになった。
 組合は一八九九(明治三二)年五月に認可され、七月から事業を開始した。
 組合員三八七〇人、機台九三〇〇台、男子従業員六八八人、女子五三六〇人を数えた。
 組合の目的は、仲買商と機業家が一体になって八王子織物の粗製濫造を防止することにあったが、当初は一部の機業家から、責任が機業家だけに転嫁されたとして猛烈な反対が起っていた。
 ところで、明治三〇年代に八王子機業を支えていた機業労働者はどのような労働条件のもとに生産活動に従事していたのであろうか。
 政府は工場法立案準備のために工場労働者の実情を調査したが、その成果は一九〇三(明治三〇)年『職工事情』として刊行された。
 八王子の機業労働者も調査の対象にされたが、それによると、労働者の数は総計一万二三六(男工一九四四、女工八二九二)で、二〇歳以下が半数を占めている。
 労働時間は一二、三時間から一七、八時間で、三月から九月までは午前五時から午後八時まで、一〇月から二月までは午前六時から午後九時までである。
 労働者は主に桂庵(けいあん)と呼ばれた仲介業者によって紹介された。
 しかし、しばしば不正が起ったので、機業者により「八王子町機業職工取扱合資会社」がつくられた。
 雇入れは大体三年季か七年季で、賃金は三年季が二六円前後、七年率で四〇円前後であった。

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 その後、三分の一から半分は前借金の形で親が受けとっていた。
 織物工場の構造は粗末で「換気不充分なるを以て場内には嘔吐(おうと)を催すべき一種の臭気あるを常とす」という不衛生な設備であった。
 寄宿舎あまた問題があり、「甚だしきは畳を敷かずに板間に薄縁を敷」いて間に合せており、なかには工場の一部を寝所にするところもあった。
 殊に寝具に至っては甚だ不潔であった。
 織物女工による生産は、一日平均普通女工で二丈以下、六日に一疋(二反)とされた。
 彼女たちの口から流れる機織り唄は、織機の音をリズムに淡い願いをこめて歌われていた。

 日露戦争
 北清事変(一九〇〇年)をきっかけにロシアは満州や朝鮮北部に進出してきた。
 この口シアの南下政策と、大陸進出を目差した日本とが衝突し、一九〇四(明治三七)年二月一〇日、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争はここに開始された。
 八王子町では二月に第一回の動員令がくだった。
 三月一日、予備役三八名は、日の丸の小旗がうちふられるなかを八王子駅から出発した。
 この時、八王子駅頭に集まった町民の有志は、町役場楼上に集合して八王子町奨兵義会を組縅した。
 会員数八六〇余名で、会長には町長柴田栄吉(後に平林定兵衛)、副会長は助役の加藤英文と収入役の横山英一がえらばれ、幹事五人、審査員一六人バ評議員六一人が決められた。
 みな八王子の名士である。奨兵義会は応召者の送迎・家族の賑恤(しんじゅつ)・戦病死者の葬祭等に従事した。
 このようななかに一九〇四(明治三七)年中に八王子町で四一回もの勣員令がくだり、一一九人が応召した。
 緊迫した状況は周辺の村々においても同じであった。川口村では在京軍人会出兵者家族救護会が住民全部で組織された。
 家族援護会は応召者の家族の困窮をなくすためにつくられた組織で、月掛で会費が集金され、その資金から六〇歳以上の者には月に一円、一五歳以下の者には月五〇銭を補助し、農作業については組内で無料奉仕をすることがきめられた。
 出征兵上に、家族について後顧のうれいのないようにという配慮でなされたものである。
 戦争の動向は逐一新聞や号外に報道された。五月一日、日本軍の第一軍は朝鮮より鴨緑江を渡り清国の九連城を占領したが、八王子ではこれを祝って旗行列が行われた。
 翌一九〇五(明治三八)年五月二七日の日本海海戦における勝利は、三〇日に号外で知らされた。
 敵艦隊全滅、敵司令官降伏というニュースに国民は酔いしれた。
 八王子市の町でも旗行列を行い、三多摩壮士小島力次郎は奨兵義会を代表して挨拶をした。

 八王子町における動員令は一九〇四(明治三七)年の四一回に続いて〇五(明治三八)年には三四回に及んだ。
 南多摩郡全体では両年に満州の戦場に二二〇〇人が送られた。
 兵士から家族にあてた手紙には、戦争の模様や中国人の生活の様子がことこまかに記されている。
 日露戦争のうちで旅順の攻撃はもっとも激しかった。
 戦地からの手紙によると、加住村だけで六人もの戦死者を出したほどである。
 日露戦争は、日清戦争とちがい、近代戦争のため犠牲者の数も圧倒的に増加した。
 戦死者は右表
が示しているように八王子市域全体で日清戦争時の六・五倍であった。
 戦死者の葬儀には尚武会が各村ごとに活躍している。
 日清戦争の時、軍夫で五組を組織し、頭取として活躍した森久保作蔵は代議士として戦線を視察し、一九〇五(明治三八)年三月には川口小学校で視察報告会を開催している。
 郡下の各村々を同じような形で回ったのであろう。

 日露戦争は日本海海戦で軍事上の勝利は決定した。
 一九〇五(明治三八)年七月、アメリカのポーツマスで講話条約が締結された。
 その一か月後の八月一〇日から一九日まで、八王子局等小学校で戦利品の展示会が行われた。
 会期中に三多摩出身者で日露戦争戦病死者の遺影が一堂にかざられ、参列者に深い感動を与えたという。
 展示会の観覧者は二万五六五四人、一日平均なんと二八五〇人であった。
 戦争が終わると、出征した兵士が続々と帰還してきた。
 八王子の停車場には凱旋歓迎事務所が設けられ、村々では凱旋祝賀会が行われた。
 それと並んで戦病死者追悼会が各町村で挙行された。
 八王子町では一九〇六(明治三九)年三月二一日の彼岸の中日に極楽寺で行われた。
 同年一一月、日露戦争による南多摩郡内の戦死・戦病死者二一四名のために建碑並びに弔魂祭が上野町の招魂場で挙行された。
 一万人もの参列者のため会場は立錐の余地もなかったが、「諸員森厳静粛トシテ些(いささか)ノ混雑」もなかったという。

 在郷軍人会と青年会
 一九〇六(明治二九)年四月、日露戦争の凱旋祝賀会が各地で開催され、南多摩郡では忠魂碑の建設運動がすすめられている時、帰還兵六八名が八王子軍人団の創立総会を横山町撚糸市場で開催した。
 八王子軍人団はその年の五月に、八王子の全町を一五区に分けて連絡の組織をつくり、一一月には万林亭で第一回総会を催した。
 このように自然発生的にいち早く動きだした在地の在郷軍人会結成の動向に歩調を合わせるかのように、軍においても上からの在郷軍人の組織づくりが始まった。
 その年の内に麻布連隊区司令官の名で町役場に通達と「軍人団組織之趣旨書準則」が達せられた。
 これにもとづいて一九〇七(明治四〇)年五月、八王子軍人団は八王子在郷軍人団と改称し、規模を拡張、設備を改革することにした。
 八王子市域においては在郷軍人団の結成は町村単位で行われた。
 川口村在郷軍人団の「団則」によると、
 「本団の目的ハ軍人精神ヲ維持シ協力互ニ交誼ヲ厚ウシ艱難相救ヒ且ツ軍事学術ヲ講究シ而シテ地方尚武心ノ発達ヲ計ルヲ以テ目的トス」
 とうたい、団員の除名、総会の要旨・日時・場所は連隊区司令官に届け出る、というように常に連隊との関係が重視されている。
 こうした在郷軍人の組織を必要とする社会的背景は何であったのだろうか。
 日露戦争後、陸軍はロシアの報復にそなえて軍備大拡張を計画した。
 海軍は海軍で、満州の利権をめぐる問題でアメリカを仮想敵国と考えて大建艦計画をたてていた。

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 ことに陸軍の計画は兵力を一挙に倍増する、というものであったので、それは労働力を社会から引き抜くことになり、資本主義にも農村にとっても多大の影響をこうむることであった。
 そこで陸軍は兵役制度を現役在役年限三年を二年に縮小せざるを得なかった。
 この現役在役年限の縮小と戦時下動員の予備兵力確保にそなえたのが在郷軍人会であったのである。
 一九一〇(明治四二)年、帝国在郷軍人会が正式に発足すると、全国各地に散在していた在郷軍人団はこのもとに一律に再編成された。
 すなわち軍の師団管区と連隊区にそれぞれ連合支部と支部とを置き、地方行政単位で、郡には連合分会、市町村には分会、大字には班を置くごとになった。
 同年一一月、八玉子在郷軍人団は帝国在郷軍人会八王子分会としてスタートをした。
 八王子市域の村々の在郷軍人団もそれぞれ分会として再発足し、全国的組織の中に再編成されていった。
 ついで一九一二(明治四五)年六月には、南多摩郡が連合して南多摩部連合会が発足した。

 以上のように、日露戦争後に在郷軍人会の組織づくりは急速にすすめられた。
 これと並んで在郷軍人会は青年団と密接な関係をつくっていった。
 青年団が注目されるようになったのは一九〇五(明治三八)年、日露戦争のさなかであった。
 伝統的地方青年団体は社会改革の担い手として、青年会または青年団に改められ、日露戦争後に全国的なつながりをもつようになっていった。
 在郷軍人会はこうした青年団を「同体一心」の関係としてとらえ、さらに「児童に及」ぼし、軍隊の思想を普及させようとした。
 八王子市域では青年会の組織は多くみられる。
 一八九一(明治二四)年九月に設立された大塚青年会をはじめとして、文部省の通達が出される以前に一九の団体が成立しており、その後一九一〇(明治四三)年までに一二組の青年団がみられる。 すでに一八九八(明治三一)年二月、八王子招魂社で、松田正久や星享などを招いて三多摩郡青年会の発会式が行われていることは注目されよう。


青年団の制服
(前列右の4人と後列右の2人、軍帽の者は現役兵士、大正頃か)

 ただ青年団は農村部が主体で、八王子町は一九二一(大正一〇)年まで待たねばならない。
 これらの新しい青年団によると、かっての青年団のような「実業ハ全然度外視サレ空理空論ヲ重ンジテ集会毎ニ口角泡ヲ飛バシ以テ快トセル」時代は過ぎさって、もっぱら実業に精を出す時代にかわっていた。“口角泡ヲ飛バシ”の時代とは自由民権期の青年たちの組織を暗に批判したものであろう。
 一方、学校教育をみると、一九〇〇(明治三三)年に「学校令」が改正され、新たに「小学校令」が公布された。
 それにより尋常小学は四年に統一され義務教育になると共に、二年制の高等小学はなるべく尋常小学校に併設することにして、義務教育の延長にそなえた。一九〇七(明治四〇)年に義務教育は四年から六年に延長された。

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 こうして義務教育・青年団・徴兵・在郷軍人会を人生の歩みのコースにのせると軍事教育が貫徹することがわかる。
 この一貫した軍国主義教育のコースは、もちろん明治から大正・昭和へと引きつがれていくのである。

 横川楳子(うめこ)と明治後半期の学校問題
 女性の地位が軽視されていた明治の時代に、八王子において女子教育に注目し、その学校をつくり、そして教育に専念した先覚者がいた。
 横川楳子である。横川楳子は、一八五三(嘉永六)年一月、父高徳、母新の長女として横川村に生れた。
 家は代々千人同心で、父は明治のはじめ学区取締となり、兄光義は佐馬太郎と名乗り熱血の士であり、幕末各地で志士と交流、期待されていたが、一八七九(明治一二)年に三三歳の若さで早世した。
 楳子はお茶ノ水の東京女子師範に進み一八七八(明治一一)年に卒業し、一八八四(明治一七)年に父の死にあい家督を相続することになった。
 横川楳子が女子教育を目差し、それを実現したのは一八九二(明治二五)年、三九歳の時であった。
 天神町に幼稚園と同時に女子校を設立した。八王子女学校がそれである。幼稚園も八王子においては草分けであったという。
 女子校は、幸先よくスタートし、一八九四(明治二七)年には生徒増で二階を増築した。
 しかし間もなく不景気を迎え、まさに閉校という危機に直面したが、後援会を組織して苦境を切り抜けたという。
 横川楳子は日露戦争後、戦勝記念事業の問題が起った時には完全な高等女学校の建設を訴えた。
 たまたま八王子に府立高等女学校設立問題が提起されたが、楳子は率先して土地・建物の寄付を申しでた。
 一九〇八(明治四一)年四月、府立第四高等女学校(現都立南多摩高校の前身)が発足した。
 このかげには楳子の寄付によりその基礎ができたことを銘記すべきであろう。
 楳子は一九二六(大正一五)年一月三日、七三歳で死去した。
 ところで、明治後半期に、八王子教育界で耳目を集めたのは私立有喜学校の八王子町移管であった。
 有喜学校は一八七四(明治七)年、機業家折田佐兵衛により折田学校として発足した。
 当初は横山宿にあったが、後に馬乗宿に移った。一八九七(明治三〇)年の大火で焼失したため、一時、十日市場の観音寺に移ったが、一八九八(明治三一)年に高尾山から木材の寄付を受け、現在の第三小学校の場所に建設した。
 校名もその時に高尾山の講名をとって有喜学校と変えた。しかし経営難におちいり公立移管問題が起ったが、学校と町の双方から賛否百出し、長い間紛糾した後、一九〇六(明治三九)年に町移管に決着した。
 有喜学校が町へ移管されて間もなく、町立小学校の校名の改正が行われた。
 八王子尋常小学校は第一小学校、多賀尋常小学校は第二小学校、有喜学校は第三小学校と呼ばれるようになった。
 八王子の小学校のナンバースクールはここに開始されたのである。

 明治末期の町名変更
 江戸時代、八王子は十五宿にわかれていた。十五宿とは、新町・横山宿・本宿・八日市宿・寺町・八幡宿・八木宿・横町・本郷宿・久保宿・島之枋宿・小門宿・上野原宿・馬乗宿・子安宿の一五である。

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 明治になると、このうち久保宿と島之坊宿が消え、それにかわって久島町が誕生した。
 久保宿の久と島之坊宿の島をとったものであろう。現在の日吉町にあたるところである。
 一八七二(明治一五)年に、宿からすべて町の呼称になった。それに千人町・元横山町・元子安町・新横山町の四町が加わり、町数は合計一八になった。
 ところが明治の末年にもなると飛地が生れて地名は複雑をきわめた。
 地主が土地を購入し、登記する際に自分の居住地の名称をそのまま用いたためといわれている。
 例えば馬乗町は横山と八日市の南裏にあったが(現在の南町・天神町・中町・小門・三崎の一部)、その他現在の大横町や平岡の各所に分散していた。
 一九一〇(明治四二)年、時の町長平林定兵衛は「大字名ハ全町処々ニ飛地アリ支障尠ナカラズ、因ッテ大字地番ヲ改称」することにふみきった。
 審議の後、東京府に提出され、一九一二(大正元)年八月に町名変更は許可され、一〇月一日より施行された。
 それにより新たに二九町名になったが、それは次の通りである。
 明神町 子安町 新町 東町 旭町 三崎町 中町 横山町 元横山町 本町 八日町 南町 寺町 万町 上野町 台町 天神町 南新町 小門町 八幡町 八木町 本郷町 大横町 平岡町 元本郷町 日吉町 追分町 千人町 田町
 新町名施行で、馬乗と久島の二町名が消えていった。
 馬乗は歴史的な地名である。道の両側に代官屋敷があり「毎日門前にて乗馬稽古などありしゆえ、土人おのずから馬乗のある所というよりこの名は起れり」という(『武蔵名勝図会』)
 小門町の東端から東に一本の道が延びて長崎屋の前に達しているが、江戸の初期には、その道の両側に代官屋敷が並んでいたことを馬乗の地名は証明している。

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 歴史的に由緒ある馬乗の地名は一九一二(大正元)年に姿を消してしまった。

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