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一章 原始・古代の八王子
1 原始の八王子 top
八王子のあけぼの
八王子市は東京祁の西郊にあり、地形的には関東山地に接する部分に位置している。
そしてまた、ここは、関東山地より大きく東南に東京湾にのぞむ所までのびている、多摩丘陵の付根部分を占めている。
加えて、多摩丘陵のいずれにもみられない盆地状の地形を呈していることも特徴的である。
こうした地理的景観が、八王ヰの歴史を形づくるひとつの大きな要素になっているのである。
では、私たちの住む街は、一体いつ頃から人々が生活するようになったのであろうか。
一九七一(昭和四六)年二月、ひとつの小発掘が行なわれた。
八王子市郷土資料館に届けられた黒曜石製のみごとな石器が端緒であり、谷地川の支流矢萩(やはぎ)川の右岸に位置する八王子市谷野町寺前(てらまえ)遺跡がその現場である。
この発掘によって、八王子市で最初の旧石器時代の遺構が関東ローム層の中から明らかにされた。
出土した石器の大部分は、動物の皮を剥いでそれをなめす道具と考えられている掻器(そうき)で占められていた。
私たちのイメージは、この遺跡が“狩猟によって捕獲した獲物の解体場所”でかたまった。
そばには獲物を蒸し焼きに料理した礫(れき、小石)が集積されていた。
この寺前遺跡の年代は、今から約一万三〇〇〇年前と考えられている。 |

寺前遺跡出土の石器(黒曜石製の掻器)
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この調査以前にも、こうした旧石器時代に属すると考えられる石器は、数多く知られていた。
たとえば、大栗(おおくり)川に沿った由木(ゆぎ)地区、谷地川下流の大谷地区、湯殿川右岸の小比企(こびき)丘陵などで単独に出土している。
しかし残念なことに、その生活実体、つまり遺構ないしは出土層位など不明の採集品である。
このほか、椚田(くぬぎだ)町・石川町などでもナイフ形石器が発見されており、市内における人々の活動はこの頃から胎動し始めたようである。
もうひとつの重要な発掘調査がある。
一九七三(昭和四八)年八月、国道一六号線バイパスの建設に伴って行なわれた、大谷町下耕地(しもごうち)遺跡である。
それは、細石器文化という、旧石器時代では最終末に近い遺構・遺物であった。
これによって、断続的ではあるが、今からおよそ一万五〇〇〇年前から一万二〇〇〇年前まで、人々の足跡を迫える旧石器時代の遺跡が、八王子に存在したことを確認できたわけである。
旧石器時代人の生活は簡単な小屋がけながらイエを作り、それも数軒程度のまとまりをもっていたようである。
イエの中には炉のような施設はなく、生活の主体はもっぱら戸外であったらしい。
寺前遺跡にもあったように、火を受けた痕跡のある礫のまとまりが数多く点在している。
焚火(たきび)に石を放り込み、充分に加熱してから取り出して並べ、その土で肉を焼くといった調理法があったのではなかろうか。
このほか、最近の研究では、多数の石片を接合してもとの原石にまで復原し、石器の製作技法を明らかにしたり、この接合関係を通して道具の動き(人間の動き)を探ることまで行なわれている。
また、他の科学分野の力をかりて、多角的視点から研究が行なわれている。寺前遺跡や下耕地遺跡の年代がおよそわかるのも、実はこうした諸科学の成果によるものである。
しかし、火山灰(関東ローム層)が酸性上壤であるために、有機質の物体はいっさい腐蝕して残っていない。
旧石器時代人がどんな獲物をとり、どんな植物を利用したのか、家族構成・狩猟の方法など多くの問題は未解決である。
さすらいの狩人
土器の発明は人類の成しとげた画期的なできごとであるが、世界史的にみて、その発生は一様でない。
高度な文明の発生地であるメソポタミアでさえ、今から約五〇〇〇年前にようやく土器が登場する。
ところが、極東の日本列島では、約一万年以前に土器は発明され使用された。
土器が登場することによって、人類の歴史は大きく変った。世界史的には新石器時代となり、日本においては縄文時代となるわけである。
縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に分けられた。
その年代は、草創期の開始が今から一万一〇〇〇年より後であり、晩期の終末は、当地方の場合今から二〇〇〇年前頃であるので、およそ一万年の間縄文時代が続くことになる。 |

八王子市とその周辺のおもな縄文時代遺跡
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さて旧石器時代にわずかな遺跡を残しただけの人々は、縄文時代に入っても依然としてかすかな足跡しか印していない。
それどころか、草創期の確実な遺跡は今のところ皆無である。
しかしこの時期の石器である尖頭器(せんとうき)が市内各所でみつかっているので人々の動きがあったことは事実である。
続く早期には、その前半の遺跡は少なく後半に多くなる。この早期後半の遺跡はいくつか発掘されているので、その中の代表的な例を紹介しておこう。
前にものべた大谷町下耕地遺跡である。
遺跡は谷地川に向かって舌状に張り出した台地上にあり、やや北向きに傾斜している。
発掘は道路幅のみであって遺跡の全体をつかんだわけでけないが、土族八基、炉穴七基などの遺構と共に土器・石器が出土した。
土器は直径一メートルの円形に掘られ、深さ二〇センチはどのものから、一・五メートルのものまで様々である。炉穴とよぶ遺構は長径二〜三メートルの舟形の土壙である。この一方から外へ向けて煙突状の穴を開けている。火を焚いた痕跡として、焼けた土が厚く堆積しており、煙突の壁面は高熱を受けて焼けている。
この炉穴から完全にちかい土器がみつかっているので、火にかけて使用したことは明らかである。
こうした内容をもつ遺跡は、市内の丘陵上でよくみつかっている。大谷地区では北大谷遺跡、椚田(くぬぎだ)丘陵では椚田第V遺跡が発掘調査された代表例であろう。
火を使用した痕跡だけあって、住居がないというのはどのような生活であったのだろう。
おそらく、彼らは狩猟活動を行ないながら、転々と移動をくり返す生活であったと思われる。
土器がわずかしか出士しないのは、持去るために残されなかったと希考えられよう。
こうしたさすらい人の生活が展開されたのは、今から約七〇〇〇年ほど前の頃のことである。
家とムラ
縄文時代の前期という時期は現在の気候よりよりさらに温暖であり東京湾は今よりかなり内陸部にまで入り込んでいた。
温暖な気候はまた植生を変える。
その前までは、広く日本列島は寒冷地型の針葉樹林が覆っていたが、この頃から北へ後退し、本州はカシ・シイ・ナラ・ブナなどの広葉樹林にとってかわっていった。
この結果、これらの樹林帯が生み出す植物性食相は、縄文人の重要な食物資源となったのである。
生活様式は移動から定住へと当然変ってくる。
前期の初め頃から住居がつくられ、それらがまとまったムラを形成するのは、こうした背景がある。
八王子にはこの時期の遺跡はまだ少ない。しかし、今後さらに発見される可能性はある。
多摩川に面した平町の台地上、台町御所水遺跡、椚田第V遺跡は数少ない調査例である。
これらの調査によって、前期の前半の住居は方形、後半は円形であることがわかった。
しかし、ムラの搆造がわかるような調査例がないため多くのことは不明である。
集落遺跡のほかに、この時期には狩場と考えられる遺跡がある。
これは山の斜面に多数の落し穴をしかけるもので、イノシシなどをとらえる目的があったと考えられている。
調査されたのは、湯殿川上流寺田町寺田No3遺跡である。 ここからは、長径二メートル、幅一メートル前後で、深さ二メートルぽどの小判形に掘られた落し穴が多数みつかった。 各穴の中央には、尖った丸太を差し込んでいたと思われる小穴が開いている。
イノシシが落ちた場合、底に脚がつかないようにし、跳躍力を奪って仕留めやすくしたものであろう。
こうした狩場がムラのまわりにいくつかあり、ムラの成員多数が勢子(せこ)と仕留人に分かれて作業したことを想像できる。 |

下寺田遺跡の落し穴遺構
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豪華な土器の時代
縄文時代中期は、ますます植物性食糧に比重が大きくなっていた時代てある。
また、芸術品に近いまでに手のこんだ豪華な土器が盛んにつくられる。
この地力は生活の安定と充実を暗示する。さらにまた、ひとつの土器型式の分布圏が狭くなってきている。
八千子にはこの時期の遺跡はきわめて多く、しかも大集落である遺跡が大半を占める。
今、発掘調査が行なわれたうちの代表例だけとってみても、谷地川流域では宇津木向原遺跡、川口川流域の犬目中原遺跡・宮田遺跡、北浅川流域の楢原(ならはら)遺跡、湯殿川流域では小比企向原遺跡・椚田第V遺跡などがあげられ、小規模の遺跡については枚挙にいとまがない。
そこで、宇津木向原遺跡を取上げてこの時代の生活を描いてみよう。
宇津木向原遺跡は、谷地川と八王子盆地の間に東走する大谷丘陵上にある。
一九六四(昭和三九)年三月から、中央高速道八王子インターチェンジ建設のための事前調査が行なわれた遺跡である。
今日では、そこから発見された、弥生時代木の方形周溝墓を伴う聚落遺跡としての方が著名である。
縄文時代中期の遺構は、住居址一九、配石三、變棺(かめかん)一、土擴墓などである。
住居址のうち中期の中葉(勝坂期)が五軒、残りは後半期(加曽利E期)に属する。
未発据部分があるが、おぼろげながら次のことがわかる。
まず、中期中葉になってから台地の中央部に住居が建てられる。
これは結果として五軒であるが、一時期に二〜三軒であろう。
東側を広く発掘しているがこの時期の住居がないことから西側の未発掘部に多くの住居がかくされている可能性が強い。
続いて中期後半には一四軒の住居が建てられるが、この配置は東側二軒を別にして、発掘区の中で内側寄りに片寄って弧状を描く。
この時期も間違いなく未発掘部に住居があり、全体として環状の集落になると考えてよい。
東側にある一軒と東端で発掘された住居は、また別の一群を構成するものであろう。
そしてこの時期も住居の重複がみられることから、一時期ではなく二〜三回の建替え、移動が行なわれたことがわかる。
中期後半には住居の形も非常に整ったものが多くなり、壁際に据られた周溝の施設、南側の出入口施設、炉の形態など構造の変化も現れてくる。
変っているのは、この期の住居には、入口部の床下に甕を埋めてある点てある。
この埋甕(まいよう)の性格については、今日ほぼ幼児型棺という意見でかたまっている。
踏まれれば踏まれるほど精霊がよみがえるという原始呪術(じゅじゅつ)と深くかかわりあっているのである。
これと関運するのは、集落のはずれに埋葬してある大形變棺である。
おそらくこれは幼児を葬った埋葬施設であろう。
また甕棺と並んで二個の土擴(どこう)があり、これも墓壙(ぼこう)と考えてよいものであった。
さて、以上のような構造をもつ宇津木向原の集落は、椚田第V遺跡の中期集落と少なからず共通するところがある。
棚田第V遺跡も全掘したものでけないが、直径約一七〇メートルのほぼ環状の集落であり、中期中葉頃開始され、中期後半には実に多くの住居が建てられる。
また、集落の外縁には人形甕棺が埋設され、類似する点が多い。
ただ、中期後半には人々の頻繁な移動があったらしく、住居が何度も建て替えられ、何軒もの住居が重複している。
しかし、これは移動回数の多寡(たか)の問題であり、本質的な相違をあらわす現象ではない。
この八王子盆地の北と南に位置する集落が多くの点て共通しているのは、とくに偶然ではなく、先に挙げた中原・楢原・小比企向原・宮田遺跡なども、部分的に明らかにされている内容から推して、ほぼ同樣の構造を持つと考えてよい。
このように、中期中葉から後半期にかけて、八王子盆地をとりまく丘陵上や、盆地内の河岸段丘上には、かなりの人口を擁するムラが点在しており、互いに有機的関係をもっていたとみられる。
このムラとムラとの距離は、最も近接している椚田第Vと小比企向原で約一・五キロメートル、宮田と犬目(いぬめ)中原で約二キロメートルである。
もう少し範囲を広げてみると、多摩丘陵や武蔵野台地ではほとんど同じ現象がみられる。
しかし、それより海岸地帯にうつると様相は一変する。海岸に近い地域では、漁撈活動を主とする独得な文化がみられ、多くの貝塚を残している。
八王子市域を含む多摩地方では、縄文時代全期間を通して、遺跡の分布密度が最も濃密なのは、この中期である。正確には、その後半期の中葉までである。
こうした現象が何に起因するのか、学会でも多くの論争がある。
先にも述べた生活の安定と充実は、管理された植物栽培による、原始農耕によってもたらされたとする“縄文農耕論”である。
この説には多くの傍証があり、反論もある。ここではそのいくつかについてふれてみたい。
縄文中期でもっとも卓越する石器は石斧(せきふ)である。
これはその名の示す通り、オノとしての機能を不本意のうちにイメージづけられているが、立派な土掘り具である石鍬(くわ)である。
また、よく分析検討していくと、打製石器の中には、鎌や除草器具の機能をもつものもある。
また、石鏃の減少は、この中期にみられる最も顕著な現象である。はなはだ狩猟的でない様相ともいえよう。
広葉樹林帯の中で育つ食物は多数ある。
木の実はドンダリ・トチ・クルミ・クリといった堅果類、ワラビ・ユリなど草根類も貴重な食糧であった。
ドングリやトチの実は渋抜きをしなければ食用にならない。クズから澱粉をとるのに技術がいる。
しかし、こうした加工と調理法についても、彼らは熟知していた。
石皿や磨石が盛行するのはこのためであると考えられる。
こうみてくると、広葉樹林帯のもたらす潤沢な食糧は、確かに、中期文化の高揚に大きな役割を果たしたといえよう。
しかし、縄文農耕存在の可否についての結論はまだでていない。
科学の進歩は、植物遺体の研究に多くの光明をもたらしている。
今後、こうした科学の援用によって結論が出される可能性もあろう。
ここでは、現象として、豊かな自然に恵まれ、余力をさえ感じさせる文化内容をもった、縄文時代中期という中期を頭に描いておこう。
中期末からまた気候が寒冷化してくる。豊かな森林は徐々に列島の南へ後退しつつあった。
宇津木向原遺跡では、この頃にあたる時期にも人々の生活の跡がみられるが、これまでの竪穴住居と違って、配石址三個所だけがみつかっている。
椚田第V遺跡でも、同時期に敷石住居三基を含めて、配石や埋變などの遺構が存在する。
これは人口が減少したことを示しており、劣悪になった自然環境と密接な関係をもつと思われる。
呪術と信仰
こうした変化に、縄文人たちはおそれと共に再び豊かな生活を願ったにちがいない。
この頃から縄文時代晩期にかけて、土偶(どぐう)に代表される呪術的遺物が増加する。
残念ながら、八王子には後・晩期の遺跡が少ないため具体例を示すことができない。
八王子で最も古い土偶は、中期初頭の西野遺跡例である。
それ以降、小比企向原・楢原・椚山第V遺跡など、中期中葉から後半にかけての集落址から発見されている。
多くは女性像である。このため、こうした土偶に地母神的な信仰をみる意見もある。
手足の欠損した例や、身体の一部のみの例示多いので、形代(かたしろ)として用いられたものもあろう。
写実的な形をもつ代表例として、宮田遺跡出土の子供を抱く母親像がある(図版参照)。
地母神信仰のみならず、それ以上に宮田人たちの愛情を感じさせる土偶である。
土偶のほかにも、たとえば、土器に飾られる文様や人面を模した把手なとがら、彼らの呪術的世界を垣問見ることができる。 |

宮田遺跡の土偶“子供を抱く母親像”
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文様の中には蛇体文が多い。このほか、爬虫類と類推される動物文様もよく登場する。
冬には地下にもぐり、春の息吹きと共に蘇生するものたちへの驚きと、みずからの立場をおき替えた、祈りの気持をこめて飾られた文様であろう。
土偶は女性像が圧倒的だが、石棒は男性を象徴している。
やはり地母神的な信仰の対象と考えられており、多くは立てられていた。
原位置で出土した例が少なく、きわめて性格の不明な点が多い。
ただ時期的には、中期の中葉には集落共同の広場に立てられていたものが、その後半になると竪穴内に持ち込まれていることが判明している。
敷石住居
縄文時代の中期末葉から後期初頭にかけて出現する敷石(しきいし)住居址は、その構造からして特異なものである。
八王子においては、古く狭間町峰開戸(みねかいと)から発見されている。
このほか、湯殿川に沿って椚田第V遺跡、小比企山王台遺跡、北野小学校校庭遺跡などがある。
ついで浅川、川口川流域には船田遺跡、西中野遺跡、甲の原遺跡、戸沢土遺跡などがある。
このほか単独で発見されたものは数多くあり、石が敷きつめられている特徴が幸いして、比較的調査されている例が多い。
文字通り住居の床に扁平な石を敷きつめたもので、初期には炉の周囲にだけ敷き、やがて全面に敷きつめるようになる。 |

船田遺跡の敷石住居
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住居の平面形も入口部が狭く、突出した柄鏡形をとるものが多い。また、船田遺跡や椚田第V遺跡の調査例から、敷石住居だけでなく、配石遺構やそれに伴う埋甕などが一体となっている。
従って、調査された発掘区の中は石が累々としている景観が広がることになる。
敷石住居が、住居かどうかの疑問はまだ解決されていない。
これまでの、地面を掘りくぼめた土の床に、なぜ石を敷くようになったのかよくわかいていない。
また、配石址についても、その石の下や間に上擴があり、埋樊が埋設されている点などから、墓地と考えられる要素が大きい。
これらの遺構からは石棒や特殊な土製品が出土する。
北野小学校校庭遺跡や西中野遺跡では、住居の奥に石棒があった。
このことから、宗教的儀式に用いた家とする見解もある。そうすると、この時期の一般的なすまいは皆無になってしまう。多くの疑問が残されたままである。
石を多用したこの期の文化は、中部、関東に広範にみられる。そして、いずれも呪術的な重苦しさをもっている。
換言すれば、気候の寒冷化に伴って、悪化する生活環境を祈りの中に解消しようとする表われであろう。
敷石住居も縄文後期前半には終わる。その後半期から晩期を通じて、市内の遺跡は激減の方向をたどる。
中期の遺跡が丘陵、台地上に占地していたのと対照的に、この期になると、そのほとんどが低位段丘上に移動する。
そして、石錘(せきすい)などの遺物が増加するなど、はなはだ漁撈的な文化内容をもってくる。
多摩地方では小さな支流河川流域よりも、多摩日本流筋の方に遺跡が存在する。
青梅市喜代沢遺跡や、調布市下布田遺跡などはその著名な例である。
生産活動の基盤が、引続き漁撈にあったと考えられる。
八王子市域においては、縄文時代晩期はほとんど人が住まない所であったか、あってもきわめてわずかで、痕跡を残すほどではなかったようである。
2 古代の八王子 top
農耕文化の流入
最近、北九州地方で、縄文時代の末葉における、縄文具耕の存在を裏付ける資料が出土したという報があった。
それがほかならぬ北九州地方であることから、水稲農耕の技術をたずさえて、大陸から人門集団示渡来してきたという説はぽぼ動かないものになった。
こうして日本における農耕文化は始まった。弥生時代である。
稲忤技術は急速に広がり、弥生時代の前期には伊勢湾沿岸にまで達している。
これから東日本への波及は一呼吸おくように停滞した。
多くの研究者は、縄文時代における、西日本と東日本の文化の基盤の相違を大きな理由としてあげている。
すなわち、東日本には縄文時代の強固な伝統が残され、新来の文化を容昜に受付なかったというのである。
しかし、細々とした弥生文化の流入はあり、東海から相模湾沿岸沿いに東進し、あるいは中部高地に遡上していった。
関東地方における最古の弥生文化の遺跡は、生活址は少なく墓地が多い。
再葬墓とよばれる東日本の縄文時代晩期から引続く葬法である。
このように、最初の弥生式土器は、保守的な性格をもつ葬制の中にまず見出されるのである。
この時期は、弥生時代はすでに中期にはいっており、西暦紀元頃かそれより五○年は経ないと思われる。
八王子市内におけるこの時期の遺跡は、最近その例を増しつつある。
最初の発見は北浅川右岸の叶谷(かのうや)町である。
水道管埋設時に出土した土器は、まぎれもない当地方最古の弥生式土器であった。
その後、分布調査によって石川町にもこの期の破片が発見され、椚川第V追跡では再葬墓そのものが、同じく、同一丘陵の西寄りからは耕作中に再葬墓らしいものが発見されている。
縄文時代晩期にあれほど過疎状態にあった八王子にも、徐々に人々の動きが戻ってきた。
それも、新しい文化を受入れてからのことである点が注目される。
しかし、こうした動向も持続せず、その後に続く遺跡はほとんど発見されていない。
集落の発展
市内に弥生時代の集落址が現れるのは、その後期中葉である。
しかしその前にも、大谷町の春日台遺跡から磨製石斧が発見されており、弥生中期後半に小規模な集落があった可能性もある。
また、台町御所水遺跡では、後期前半の久ヶ原式土器を出土した住居址が発見されており、これが集落を構成するものであれば、この時期までは遡る。
ともあれ、現在までのところ本格的な集落を形成する時期は、弥生時代後期中葉である。
その消長を追ってみると、短いが激動の時代であったことがわかる。
まず盆地北半では、谷地川流域右岸の大谷台地上に大きな遺跡群がある。
今かりにこれらを総称して大谷遺跡群としよう。 |

八王子市とその周辺のおもな弥生時代遺跡
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この中には、宇津木向原、大谷向原、桜並(さくらなみ)、春日台などの大形集落址が半径五〇〇メートルぐらいの円内におさまっている。
これらの盛期は弥生時代末葉である。
この遺跡群から流域沿いに約二キロメートルほど西には、後期中葉頃の鞍骨山(くらぼねやま)遺跡がある。
続いて盆地内に入った川口川流域では、その左岸に広大な甲の原遺跡群がある。
その中には、戸板女子短大構内遺跡のような墓地をもつような集落もある。
また右岸では、山王林(さんのうばやし)・原屋敷などの集落がある。
盆地南側では、最近まで大きな集落址は発見されていなかった。
ところが、一九六八(昭和四二)年、長房町船田遺跡で小規模ながらひとつの集落址が調査され、続いて湯殿川流域で椚田第U遺跡が発見されて、大谷台地に匹敵する規模の集落が明らかになった。
湯殿川流域では、もうひとつ小比企丘陵上にもこの時期の土器の散布がみられ、集落の存在が予想される。
船田遺跡は後期中葉、引田遺跡は末葉の時期である。
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鞍骨山遺跡の住居址(左)と出土土器(右) |
弥生時代の生活
当時の住居は地面を掘りくぼめた竪穴住居であり、その平面形は円・楕円・隅円方形とバラエティーがある。
おおむね円から方形に近づくほど新しい時期のものである。
住居中央よりやや壁寄りに炉があり、入口は悌子で出入りした様子でその梯子穴がある。
上屋構造がわかる資料は今のところない。
弥生文化の特徴というべきコメ作りは、水田址等が発見されておらず不明な点が多い。
しかし、宇津木向原や椚田第U遺跡から炭化した米が出土しており、稲作の存在は確実である。
また生産用具についても不明であるが、静岡県登呂遺跡・大阪府四ツ池遺跡例などから、木製のスキ・クワなどが使われていたのだろう。
そして、石庖丁のような収穫具が出土しない点から、すでに鉄製の道具を使用していたとも考えられる。
石器は、加工具としての磨石のようなものはあるが、中期後半を境にして関東地方では消滅する。
機織りは、土器底部に残る布疽から裏付けられるだけである。被服と共に装身具もある。
石製の勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・ガラス製の小玉、土製の玉類があるが、こうした装身具をつけられる者はかなり限られた人物であった。
このほか、彼らのもっとも日常的な什器(じゅうき)として土器がある。
土器には壺・甕(かめ)・鉢・高坏(たかつき)・坏(つき)などがあり、貯蔵用に壺、煮炊き用に甕、食物を盛る道具に高坏・坏が用いられた。
このように、用途による形態の分化が進むのも、弥生時代の特色のひとつである。
階層のめばえ
有名な中国の史書『醜志倭人伝』や『後漢書東夷伝』に記された「倭国大乱」は、卑弥呼(ひみこ)のことはさておき、実在の事件であることが判明しつつある。
大防湾沿岸を含めて瀬戸内海沿岸では、弥生時代中期後半に、高地性集落と呼ばれるきわめて防衛的な性格をもった集落が出現してくる。
また弓矢・槍といった戦闘的な遺物が出土することから、この時期(二世紀後半)が異常な社会状勢であったことが推測できる。
土地争いや水利権の掌握に端を発した、ムラとムラの坑争がしだいに大規模化していった樣子がうかがえる。
この過程を経てムラからクニヘ再構成されていくのだが、まさに動乱の世紀といわれるのは、このことを指している。
さて、こうした緊張状態は畿内・瀬戸内地方のみでなく、どうやら関東地方にも及んでいたらしいことが、最近の調査こわかってきている。
もっとも、西日本のような規模の大きなものではなく、せいぜいひとつの河川流域のまとまりぐらいのものである。
横浜市朝光寺原遺跡や大塚遺跡は、ともに大環濠を有する防塞的な性格をもった集落であった。
この他、独立丘陵上に占地する多くの聚落の存在や、また、この時代から後、集落の全住居が火災にあって廃絶していることが多い事実などから、もっと広い範囲で、ムラ同上が争う状況を想定することもできる。
八王子盆地では、時期的にそれより後に形成される集落遺跡が多く、緊張の余波を見出すことはできない。
しかし、決して平穏であったわけではなく、貧富の格差の発生や社会的階層の芽ばえが急速に進んでいったのである。
こうした現象を鞍骨山・船田・宇津木向原・椚田第U遺跡でみてみよう。
鞍骨山遺跡は、丘陵端部に占地する一八軒からなるムラである。その中に一軒の大形住居がある。
こうした大形住居の性格については、ぽぼムラ内で中核的な役割をもつ者が現われてきたと理解してよいだろう。
またこの集落では、各住居から特殊な土製の模造品が出土しており、各住居毎に室内祭肥が行なわれていたと考えられている。
船田遺跡ははぼ同時期に営なまれたムラで二群一八軒からなり、一軒の大形住居がある。
この大形住居からは銅鏃(どうぞく)が出土した。
またこのムラでは、後述する方形周溝菜。基が存在する。
宇津木川原遺跡は時間的幅があり、後期中葉頃にも大規模なムラを形成している。
しかし大規模化するのは後期後半から末であり、全体としてはに九五軒の住居がつくられている。
全掘すればさらに数を増すだろう。
そして墓地としてまとまった四基の方形周溝墓と、単独の方形川清墓一基が発見されている。
注目されるのは、ムラの中の一住居から出土した小銅鏡(こどうきょう)であり、関東地方ではきわめて稀有な例である。
椚田第U遺跡は弥生後期末葉から始まり、古墳時代初頭まで続く大きなムラである。
発掘途中で最終的な数はつかめていないが、住居は一〇〇軒をこえるであろう。
そして、合計三四基の周溝墓群が災落の南側につくられている。
この墓地は、台地縁辺にあって溝を共有しているグループと、台地内に入った場所で、規模の差が著しいグループ、そしてそれぞれ独立して超大形化した一群とに分けられる。
椚田第U遺跡の分析は今後に残された課題であるが、宇津木向原遺跡と共通する部分が多く、またその不足を補う資料にめぐまれてしる。
さて、この四つの集落の中心的な時期をとらえていけば、鞍骨山−船田−宇津木向原・椚田第Uと編年されるであろう。
ところで、ひとつの集落(ムラ)が何軒で構成されていたといってもこれは発掘結果である。
たとえば、鞍骨山は一八軒あるが、これは一時期、同時に存在した住居の数ではない。
古代においては、一軒の住居は一家族という核家族的な図式はあてはまらない。
少なくとも、二〜三住居に分住するような大家族であった。
しかしまた、この大家族が単独で農業生産活動を行なうことはまだ無理であった。
そこで、この二〜三家族の協業が必須であったのである。この単位集団を世帯共同体と呼んでいる。
こうしてみていくと、鞍骨山集落の場合は一ないし二の世帯共同体からなるムラであり、船田遺跡は二つの世帯共同体がそれぞれ存在していると考えられる。
そして、宇津木・椚田第Uなどは、多数の世帯共同体がまとまった姿なのである。
つぎに、これらの世帯共同体の長、すなわち家長はどのような力をもっていたのかという問題がある。
これを解く鍵は墓制にある。家長層が特殊になってくるにしたがい、一般の世帯共同体員とは違った葬られ方が出現してくる。
すなわち、一辺が一〇〜二〇メートルの溝で区画され、低い封土をもつ墓(方形周溝墓)に手厚く埋葬されるのである。
こうした視点から、もう一度四つの集落をみてみると、まず鞍骨山ては、大形住居が存在することから、この集団を統率する者の存在が予測される。
しかし実証できる遺構・遺物はない。
そして、各住居に普遍的にみられる祭祀遺物から、祭祀行為が構成員個々で行われ、統一的ではなかったことを物語っている。
まだ世帯共同体の家長の権限は弱かったとみられる。
ところが船田遺跡では、方形周溝墓という特定個人を葬むる墓がつくられ、その溝に底部を故意に打ち欠いた美麗な土器を置いて墓前祭を行なっている。
また大形住居の住人は銅製の鏃(やじり)をつけた矢をもち、おそらくこれを誇示したであろう、
すなわちこのムラでは、最も有力な指導者(客長)の死に際して新しい墓制をとり入れ、そのムラの祭祀行為は墓前の葬送儀礼(そうそうぎれい)に統一されていった。
それをとり行なったのは、次に銅鏃の矢を受けつぐ者であったろう。
ここでみられる指導者(家長)像は決して政治的指導者とはいえない。
むしろ祭祀的行為をみずからとり行ない、農作業をとりしきるといった人物であったと思われる。
そしておそらく、この時期までの稻作は、小さな谷戸水田を利用するような規模の小さなものであった。
宇津木向原遺跡の盛期には、いささか構造が異なってくる。
それは、さきにみたように、大谷台地にはかなり密生していくつかの集落が同時に存在する。
当然耕地の拡大を余儀なくされた。この開拓は多数の人々の共同作業を必要とし、数は多ければ多いほどよかった。
この開発の結果、大人口を養うことが可能となり、谷地川に面する各小谷の可耕地は、すべて水田化されていったと思われる。
この遺跡の報告書では、時期別の軒数が明らかにされていないが、住居群の分布が、発掘区の中で少なくとも四群以上はみられることから、四世帯共同体のまとまりがあるとしてよいだろう。
もちろん、集落全体ではさらにその数を増すだろう。
次に墓地をみると、四基の方形周溝墓があり、それと対峙する西側にやや規模の大きな一幕の方形周溝墓が存在する。
また報告書では明言していないが、その二つの墓地の間に環状の溝状遺構がある。
椚田第U遺跡で発見された円形周溝墓に類似する遺構である。
すると、これも墓の可能性がでてきたわけである。
さきに、こうした周溝墓に葬られた者は、世帯共同体の家長層であると説明した。
その葬られ方に差異が生じてきたのである。
群集してつくられる周溝墓群と、単基独立してつくられる周溝墓の差である。
単独のものが住居を破壊してつくられていることからみて、後出的な要素をもっている。
集合墓地から、単独で規模を大きくし、権力を誇示する形への変化と受けとれる。
こうした宇津木向原遺跡における権力構造の変化を裏がきするものとして、さきにも記した小鍋鏡がある。
この住居は時期的に集合墓と関係があり、またこの住居を含む住居群のまとまりを、円形周溝墓が切ってつくられていることから、時間的に先行するといえよう。
この小銅鏡こそ、この集落においてかつてない方法で行なわれた、祭祀に重大な関連を有するものである。
おそらく船田集落における墓前祭以上の、統一的な祭祀行為であったろう。
これをとりしきった者は、今までの概念をこえて、ようやく祭政一体の指導者像をあらわしてきたと思えるのである。
しかしどうしてこの重要な小銅鏡が残されたのであろうか。
それはつまり、こうした祭政一体の体系が否定されたからにほかならない。
このムラには、もっと強力な政治的権力をもつ指導者が出現したと考えるべきであろう。
この新たな指導者にとっては、もはや旧態依然とした祭祀的指導形態は必要でなかった。
関東地方でも珍らしい銅鏡は、こうした理由から一竪穴住居の中に残されたのではなかったろうか。
権力を増大した指導者は、その出自の世帯共同体と共に、ムラにおける影響力を強めていったと思われる。
その反映として、単独の方形周溝墓や、円形周溝墓を残したと考えてよいだろう。
椚田第U遺跡も、墓地の様相から推定すれば、集合墓から単独墓へと変遷していくらしい。
しかし不思議なのは、集合する周溝墓の数は、宇津木向原よりも圧倒的に多いことである。
確かに住居数が多いことから、世帯共同体の数も比例して多いことが考えられよう。
しかしむしろ有力家長層ばかりでなく、他の家長群も葬られたとするのが正しいのではないだろうか。
周溝墓群の中にわずかづつ規模の差があるのはそのためであり、次の段階になると、規模の差の著しい周溝墓群に変化する。
これはまさに、有力家長層の抬頭である。宇津木向原遺跡もともに、その終末は激しい階層分化の過程を呈していく。
この動向は、やがてくる支配と被支配の社会構造へのまさに胎動であったのである。
関東を含む東国では、弥生時代と古墳時代の境はまだ明らかにされていない。
弥生式土器と古墳時代の土器(土師器=はじき)の変化が漸移的で区切りがつかないこと、高塚古墳の発生が、先進地域の畿内と半世紀以上ずれていることによって、一律に区分できないためである。
宇津木向原遺跡や椚田第U遺跡の終末期が、古墳時代に入っているかどうかも実は明らかではないのである。
しかし、ここでは西暦四世紀代に起った出来事と理解しておくことにしよう。
先進地域の畿内地方では、確実に古墳が発生している時期である。
古墳の築造
古墳時代に入ると、関東各地に大規模な集落が出現する。
同時に、狭い谷戸田経営ではなく、大河川の形成した広い洪積地が水田耕地として開拓されるのである。
八王子市域を含む多摩地方では、この時期(五世紀)の集落遺跡はまだよく調査されていないが、埼玉県五領(ごりょう)遺跡は、この時期の代表的な遺跡である。
集落は河川の自然堤防上に占地しており、その前面の沖積地を耕地化している様子がうかがえる。
多摩川流域でも、その中・下流域にかけて、沖積地に進出した集落がいくつか認められる。
しかし調査が不充分でその全体を明らかにした例はまだない。
ところが、この地域は早くから大形古墳が築造され、有力首長層が抬頭したところでもある。
従って当然、それを支えた集落が存在したはずである。 |

八王子市とその周辺のおもな古墳時代遺跡
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こうした首長層は弥生時代末葉にみたムラの指導者層をたくみに統一しその政治的手腕をもって抬頭してきたのである。
そして広範な支配力をもって、新たに農業共同体を編成し直していったと思われる。
そしてその支配体系は、強固に貫徹されるようになった。
ここに、ムラの時代からクニの時代への変貌をみることができる。
神奈川県川崎市南加瀬にある白山古墳は、関東地方最古の古墳と考えられている。
全長八七メートルにおよぶ前方後円墳で、四世紀後半から五世紀初頭にかけて築造された。
また、対岸の東京都大田区田園調布にある宝莱山古墳は、全長一〇〇メートルもある前方後円墳で、これも白山古墳と同じ頃の築造とされている。
この両古墳の被葬者こそ、多摩川流域の農業共同体のうえに君臨した首長であった。
この権力の維持の過程には、被支配者層からの搾取という収奪行為があったと思われる。
反面、首長の強大な力は、農業共同体(ムラ)の統合と、それによってもたらされる協業規模の拡大によって、今までにない農業経営が可能となった。
多摩川中・下流域では、これらの古墳群のあと五世紀後半にかけて、亀甲山古墳と丸山古墳と一〇〇メートル級の大前方後円墳が続く。
そして、等々力(とどろき)大塚古墳、狛江亀塚古墳などの大円墳が、六世紀初めまでに築造されている。
これは、首長権が次々にこれらの被葬者にひき継がれていったことを物語っている。
一方、多摩川の上流域では、こうした大形古墳はみられないことから、完全に下流域の支配の中にくみこまれたとみることができる。
八王子市域では、この時期の集落としてはわずかに船田遺跡があげられるだけである。
一六軒からなるムラであるが、二時期に変遷した。およそ五世紀前半代であろう。
武蔵国造の内乱
『日本書紀』安閑元年の条に伝える武蔵国造(くにのみやっこ)の継承紛争の記証は、最近の考古学的研究によって、単なる伝承にとどまらないことが明らかになってきている。
安閑紀の内容はおおよそ次のようなものである。
武蔵国造笠原直使主(あたいおみ)と同族小杵(おぎ)は武蔵国造の地位を争い、小杵は上毛野(かみつねぬ)君小熊に援助を頼み、一方、使主は大和朝廷と結んで闘った。
この結限、小杵は敗れ、自らの地質を朝廷に屯倉(みやけ)として没収された、というものである。
ここに現れた屯倉は朝廷の直轄地であり、武蔵国内に四ヵ所おかれたが、このうち三ヵ所までが、多摩川流域および鶴見川流域の周辺にある。
従って、敗れた小杵(おぎ)の地盤はこの地域であったと考えられる。
他方の勝者である使主(おみ)の地盤は、『和名抄』に笠原郷の地名が残されている埼玉県荒川中流域とされており、ここには、多数の後期型前方後円墳を含む埼玉(さきたま)古墳群が存在している。
この古墳時代後期における埼玉古墳群の興隆は、その頃を境に大形古墳の築造を停止してしまう多摩川、鶴見川下流域の古墳群の衰退と表裏をなしている。
安閑元年は西暦五三四年にあたるが、この六世紀前半は、まさに両地域の古墳群の形成の変化期に符合している。
つまり、大形古墳の被葬者を、武蔵国造職につくような有力首長と考えれば、安閑紀に記された内容は、実在した事件とみることができよう。
とくに、争乱後の措置としてとられた大和朝廷の屯倉の設置は、多摩川下流域を含む南武蔵に、以後有カな古墳がみられなくなることの最大の原因となってくる。
それは朝廷が、東国進出の足場として強力な直接支配を行ない、在地の皇族の抬頭をおさえたことを意味する。
武蔵国造の争いは、大和朝廷と毛野(けぬ)国をまき込んでいるように、一国の問題ではなかった。
この七年前には九州で磐井(いわい)の反乱が起るなど、全国的に不安定な時代であった。
それは、大和の継体朝成立の過程、そして継体死後の欽明朝成立までの混乱が大きく影響しているのである。
さて、安閑紀の記事は、多摩地方が、最初に書かれた歴史の中に登場してくる重要な事件であった。
つまり東国の小地域が、中央の支配体制の中に意識されはじめたわけである。
これ以後中央の正史に、しばしば多摩地方が現れてくるが、そのほとんどは、渡来人に関する事柄である。大和朝廷は屯倉の設置にあたって、有能な渡来人を多数移住させ、経営にあたらせたものと思われる。
鉄製農具の普及と大形集落
武蔵国造をめぐる内紛を含む全国各地の内乱、抗争は、表面的には権力争いであったが、背景には、五世紀末からにわかに抬頭をはじめた強力な農民層(家父長的世帯共同体)のつき上げがあった。
古墳時代後期すなわち六世紀に入ると、これまで停滞的であった各地の集落の内部に活発な動きが現れてくる。
そのひとつの要因は、鉄製農具の普及による農業生産の飛躍的のびである。
五世紀後半に日本に伝えられた大陸系の農具のなかで、刃先がU字形をした鉄刃を取付けたクワ・スキは、この頃には東日本にも現れてくる。
強靭で性能の良い農具は、開墾・耕作に威力を発揮し、耕地の拡大、生産の増大につながっていった。
もうひとつの要因は住居構造の変化である。五世紀末に発生した竈(かまど)は、今までの炉を中心とした住伺構造を変え、厨房を完成させた。
必然的に生活内容を向上させていったといえよう。
こうして集落は爆発的に膨張をつづけ、一部は丘陵奥地にまで広範な進出をするようになっていったのである。
多摩川流域でもこうした現象はみられ、六、七世紀の集落遺跡は、丘陵上、河川の段丘など至る所にある。
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中田遺跡の竪穴住居址(左)とその復元住居(右) |
このうちの代表例として、中野町中田遺跡を取上げてみよう。
中田遺跡は川口川左岸にあり、弥生時代中期から平安時代まて一四二軒の住居址が発掘された。
このうち七六軒が古墳時代後期に属し、この集落の中心をなしていた。
七六軒をさらに細かい時期に分けていくと、六世紀代に三八軒、七世紀前半に二三軒、後半に一五軒となる。
徐々に縮小していくことがわかる。六世紀代の三八軒は大きく三群にわかれており、それぞれの中で二九二回の建て替えが行なわれている。
床面積が一〇〇平方メートルをこえる大形住居か中央に六軒あり、他の群を圧倒している。
おそらくムラの中核的な役割を担っていたものであろう。また、こうした大形住居からはクワ・カマなどの鉄製農具が出土しており、さらに須恵器も保有している。
これらのあり方からみていくと、一時期に大形住居を中心として、三〜五軒の単位が三群の中に継続して営なまれていったことがわかる。
この単位は世帯共同体であるが、かってのそれとは異なり、労働力の豊富さ、鉄器などの所有が顕著であることなどを含めて、充分に経済力・政治力をたくわえた世帯共同体に成長している。
古代史のうえから、この抬頭をはじめた世帯共同体を、家父長的世帯共同体(家父長家族)とよんでいる。
家父長権と群集墳
中田集落の六世紀代にみるように八王子市内の集落の広範な広がりは家父長家族の急激な台頭によるものであった。
この家父長家族が多数まとまれば大ムラになる。長房町船田遺跡は六、七世紀に約二〇〇軒の住居が営なまれており、拠点集落であった。
また、ひとつの家父長家族がムラを形成する場合は、おおむね分村による派生集落であって、この時期の遺跡の大半を占めている。
大谷町西野や椚田町椚田第V遺跡の古墳時代集落などは、よくその特徴を示している。こうした小規模の農業経営単位が自立できるのは、鉄製農具と進んだ技術の獲得があったからに他ならない。
このような家父長家族のもつ経済力は、やがて古墳時代前期から続いてきた支配体制をもゆるがすような政治力となってきたのである。
ところで、四世紀後半頃から東国に進出した大和勢力は、在地の豪族たちを征服・懐柔しながら支配体制のかかに組み込んでいったが、この最大の恩賞は、身分の保障と共に、古墳の築造を認めたことてあった。
これは、在地でそれぞれに体系化されていた支配機構を、その首長層を取込むことによってそっくり掌握できることを意味している。
さきにみた武蔵国の国造幟は、大和政権の支配機磅の制度であり、その中身は、在地偸族の支配体系を利用しかものである。
ところが、この支配体制に重大な変更をおよぼすような別の力が抬頭してきたわけである。
大和政権は、もはや地方の有力首長層を掌握するだけでは、内在する社会的諸矛盾に対処することができなくなってきたのである。
在地の首長層も混乱し、大和朝廷も動揺せざるをえない。
こうした背景から、反乱・内紛などの諸々の事件がひき起こされたのである。
さて、六世紀前半の社会情勢についてみてきたが、八王子地域ではどうであろう。
中田・船田遺跡にみるように大災落の形成が進み、家父長家族の拍動、充分な余剰生産物による経済力の備蓄などがある程度裏付けられた。
しかし、この余剰生産物を手段にした階層分化は、この八王子盆地を含む多摩川上流域地方では全く表出していない点が注目される。
その重要な意味を考える前に、再び視野を広げてみよう。
六世紀に抬頭した家父長的世帯共同体の長、すなわち家父長層は、その経済力を背景にして、政治的な権力を握るまでになった。
大和政権は、このあなどりがたい力に対して、かつて有力首長層に与えたような、古墳造営の許可を通して、その直接支配にのり出すのである。
これが、六世紀代に顕著な群集墳と称される中小古墳の大規模な形成につながっていくのである。
それは、墓域を定めたひとつの丘陵上に、多くて一〇〇〇基、少なくても十数基にのぼる古墳が群集する形てある。
この造営の時期は、六、七世紀に限られていることが特徴である。
この造営主体はかなり広範な勢力を想定でき、その対象となるのは、この頃抬頭してきた家父長家族であることは疑いない。
そして、その被葬者は家父長権を握った家父長であろう一〇〇〇基をこえるような群集墳は畿内にしかないが、東国各地でも、一〇〇基をこすような例はいくつかある。
そこで問題となる多摩川流域についてみると、その下流域に、前期型の古墳にまじって、いくつかの古墳群が形成されている。
もっとも発達したこの期の群集墳として、太田区田園調布の荏原古墳群がある。
この古墳群は、消滅したものを含めて、約五○基ちかい中小円墳が集中している。
しかしながら、多摩川下流域や鶴見川下流域の、六、七世紀群集墳の規模はそれほど大きくない。
これは、武蔵国内の内乱のあと、大和朝廷の直轄統治による強力な支配に原因しているようである。
とくに多摩川上流域はそれが顕著で、全くこの時期の古墳群は存在しない。
おそらく、八王子盆地を含む周辺地帯のムラは、内部的に階層が生じ、政治力のある家父長が出現していたにせよ、なお強力な支配のもとに屈服させられていたと考えられる。
この支配機構は、前述したように、大和朝廷による屯倉の設置にあるわけだが、この運営にあたって、渡来人のはたした役割に大きかった。
家父長層を直接掌握したのも、この渡来人の朝廷宮人である可能性が強い。
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北大谷古墳の墳丘と石室 |
八王子市大谷町の丘陵上にある北大谷古墳は直径二〇メートルの円墳であり、七世紀の築造と考えられている。
その内部には、長さ一〇メートルにおよぶ複式の玄室(げんしつ)をもつ横穴式石室がある(図版参照)。
この横穴式石室の構築法は、朝鮮半島の様式を踏襲したものとされており、この墳墓が、渡来人の奥津城(おくつき)であることを示している。
おそらく、この被葬者こそ、大和朝廷の屯倉管理者として、この地方をおさめた人物であったろう。
六世紀代に大規模化していった集落は、七世紀に入ると徐々に縮小していく。中田遺跡で具体的にみられた現象であるが、これはそのまま、周辺地域にもあてはめることができる。
この原因は、著しい階層分化の結果から、小集団に分かれていったためであろう。
新たな家父長家族の自立を急速にうながしていったものと思われる。
これらは、やがて大和朝廷の個別支配へとつながっていき、中央集権的な律令国家体制へと向かっていくのである。
多摩の横山
多磨の歴史は古い。記録の上でも大化の改新や万葉集の昔にさかのぼる。
『万葉集』巻二十の中に、武蔵国豊島郡の椋椅部荒虫(くらはしべあらむし)の女房宇遅部(うちべ)の黒女(くろめ)が詠んだ歌に次のような歌がある。
赤駒を山野に放ちと(捕)りかねて 多摩の横山かしゆかやらむ |
この歌はいかにも広漠たる山野を彷彿させるものがあるが、ここでいう「多摩の横山」とは、現在の八王子市域の一帯をいう。
もっとも横山という地名については、江戸時代に八王子千人同心組頭植田孟縉の著書『武蔵名勝図会』によると「西より東へ南北を横に亘(わた)り出たる山ゆえ、古より横山という名の古き山なるべし」とある。
つまりこの地域の地形の特色をもって地名化したとしている。
さらに同書には「横山というべき山は横山庄の内なる高尾山、小仏嶺などより聳え出て、東の方へ横山庄の中に横たわり、南は相原、小山を限り、杉山峠、遣水(やりみず)峠へ亘り、由本郷へわかれ出て都筑の岡へ連り、玉川の辺に至れるまで、凡そ七、八里か程も亘り出た土山なり」と、その範囲にもふれている。
また、この横山は横淳(よこぬ)またはのちに横野とよんだ地域ではないかという説がある。
律令時代の幕あけ
六四六(大化二)年に発布された詔は、世にいう大化の改新として有名であるが、その信憑性(しんぴょうせい)については現在論争の争点となっている。
しかし、いずれにせよ、天皇を頂点とする中央集権国家を宣言したことは重要であった。
この前半には、早くも東国への国司が派遣されている。
この国司の役割は、旧来からの国造を監督し、造籍・校田・武器管理等を目的としていた。
これによって国造制支配を徐々に解体し、公地公民を原則とした人民の個別支配が始まったのである。
武蔵国の成立はこの頃であるが、令制による行政区画か定まるのはまだしばらくかかる。
しかし、国府が、大和朝廷の直轄領である多氷(摩)屯倉の中におかれている点は注目される。
おそらく、この地域は、改新行政のもっともやりやすい地帯であったわけである。在地勢力の全くない地域であったのであろう。
さて、この国府が現在の府中市にあったことは、北方の国分寺・国分尼寺の存在から明らかである。
しかし、政庁を中心とする国衙建物群の所在ははっきりしていない。
ところが、最近のあいつぐ発掘調査によって、部分的ではあるが、種々の建物群が発見され、国庁関係と目されるものも出てきた。
それ以外にも国衙に集中する掘立柱建物、竪穴住居などが多数検出されている。
奈良・平安時代の、律令政治の中心地として発展した古代地方都市の姿が想像される。
八王子市内には、こうした都市集落の存在は今のところ考えられず、すべて農村集落である。
七世紀後半代では、中田・船田集落の縮小化がめだち、大規模な拠点集落がなくなるかわりに、盆地内のそこここに小さな集落が点在するようになる。
この散在していった集落と律令制とが、どのようにかかわっているのか、今のところ不明であるが興味ある問題である。
ところで、おそくも七〇二(大宝二)年には、各地に施行されたと考えられる律令制的な村落支配体系は、基本的には人民の戸籍を作成し、それによって、能率的に租税を取立てる制度であった。
この末端機構はどうなっていたのであろうか
令制の地方制度は、大宝令までは国(こく)・評(ひょう)・里(り)制が、それ以降は国・郡・里制がしかれた。
具体的に表わすと、武蔵国多摩郡(評)〇〇里となるわけであるが、七一五(霊亀元)年には、里は郷と改称され、その下に里がおかれる郷里制がしかれた。
しかし、この制度は短命で、七四〇(天平一二)年には末端の里は廃止され、郷のみに戻されている。
ここでは名称のいかんにかかわらず、七世紀後半以後の郷(里)制について、考古学的に解明できる部分について考えてみよう。
さいわいなことに、東国のこの頃の戸籍帳が正倉院に残っている。
もっとも近い例として、葛飾・足立郡(現東京都)に属する大島郷が挙げられるが、当時は下総国に属していた。正式には「下総国葛飾郡大島郷戸籍帳」であり、七二一(養老五)年のものである。
この戸籍帳によれば、大島郷は甲和(里)・仲村(里)・嶋俣(里)の三里で構成されている。
この三つの里は一部欠落があるが、甲和里四四戸(四五四人)、仲村里四四戸(三六七?人)、嶋俣里四二戸(三七〇人)であり、大島郷全体では、少なくとも一三〇口、一一九一人の人口を有していたことになる。
注目されるのは、五〇尸一里制の中で、少なくともこの数値に近い編成がなされていることである。
これが完全でないのは、おそらく、当時の自然村落を行政単位に改めたことによるためであろう。
令制によれば、一里は五○戸と規定され、以後この単位は基本的に踏襲されている。
重要なことは、今我々が、発掘調査によって具体的に杷握できるのは、一里五〇戸とされる範囲の中のまたわずかな部分にしかすぎない。
ここにいう一戸は、はたして一軒の住居をさすのであろうか。
これについては、様々に研究がなされている。
たとえば、大島郷の戸籍帳に記される一戸の人数は、四二名から四名までと大きな幅がある。
これは、何戸か集まった郷戸(ごうこ)とそれ以外の房戸(ぼうこ)の人数が記載されているためである。
従って、郷戸の平均人数は二三人、房戸は七〜八人というのが大島郷の戸籍帳からえられた平均値である。
しかしながら、戸籍上の最少単位である房戸の数値についても、七世紀後半から八世紀代の平均的な竪穴住居一軒の構成人員としては多過ぎる。
やはり、二軒程度の居住者を合わせた数とみるのが妥当であろう。
従って郷戸は、住居の規模が変らないならば、四〜六軒が集まったものをさすのであろう。
これを具休的に証明するためには、大島郷の所在地とされる江戸川右岸の地を発掘してみればよいわけであるが、現在は市街地となって、それができないのが惜しまれる。
八王子市内の集落遺跡は、八世紀代に入るとやや活発化してくる。
おもなものでは、川口川流域に中田遺跡を中心として右岸の山王林遺跡、さかのぼって、北浅川との間に形成された段丘上に、楢原遺跡東方の土器散布地があり、盆地南側には、湯殿川流域に下守田遺跡、小比企丘陵上の土器散布地などがある。
土器散布地には、おそらく良好な集落遺跡が存在するものと思われる。
このほか、川口川左岸の甲の原地域にも遺跡の存在する可能性が強い。前代(七世紀後半)にくらべると、かなり集中した集落形成の様相がうかがえる。
さいわいにして、この時期には二つの考古学的収穫がある。ひとつは、前述した中田遺跡の調査によって、ほぼ完全に当時の一単位の集落を明らかにしたことである。
もうひとつは、寺田町下寺田遺跡の調査によって、住居内から出土した須恵器が、遠く岐阜県の美濃須衛窯(みのすえよう)のひとつから搬入されたものであり、その考証から八世紀前半代のものとわかったことである。
下寺田遺跡出土の須恵器は、古代の手業生産品の流通と交通路の問題も提起したが、それ以上に、下寺田遺跡と同型式あるいは、それに前後する型式の土器を出す遺跡の年代を明らかにしたことは重要であった。
集落の形態がととのっている中田遺跡の例から、八世紀のムラの実体をさぐってみよう。
中田集落は下寺田集落よりはやや遅れて、八世紀中葉頃に開始された。住居は二九軒あり二時期にわかれる。
、時期は、およそ半数の一五軒程度であったと推定される。
この住居群は大きく四群にわかれており、中央群が大形住居を含む大構成をとっている。
これをさきの大島郷戸籍からみちびかれる戸の構成と照らし合わせて検討すると興味深い。四群のうち、住属規模や出土遺物などを考えると、郷戸の構成をとるものは二群であり、他は房戸にすぎなかったとみられる。
つまり、郷戸二、房戸二の計四戸が、中田襲落の令制上の編成であると仮定できよう。
ところで、九三〇(延喜八)年頃編纂された『和名抄』によれば、多摩郡に川口郷の名前がみえ、中田遺跡を含む川口川流域がそれに措定(そてい)される可能性が強い。
仮りにそうだとしても、中田遺跡の集落はわずか四戸ほどであり、一郷五〇戸の規定に合致させるには、中田規模の集落が五〇個以上まとまらなければならないことになろう。
川口川流域のみならず、さきに挙げた諸遺跡をすべて含めても、なお足りないほどの広範な地域が、一郷であったとみられるのである。
令制の制度はこのようにして各地に施行されていったが、組織されたムラの人民から、どのように税を取立てたのであろうか。
当時の税制は、変動があるがおおむね次の通りである。
人民は六歳になると戸籍にのせられ口分田(くぶんでん)の班給を受けた。
このみかえりに、租・庸・調の納税が課せられたのである。
口分田は良民男子に二反、女子にはその三分の二、賤民にはそのまた二分の一以下が与えられた。
これからの税は、まず地租として一反につき二束二把(約三升)が課せられる。
これは当時の収穫高が平均七二束であったから、比較的軽いものであったと思われる。
しかし、この平均値は上田の場合であり、これより出来高の少ない田や、天候などの要素もくわえれば重くもなかった。
庸は京の雑役にしたがうものである。京より遠隔地においては、別の方法によって代替されていた。
調は地方産物を貢献するもので、多岐にわたっている。
ここ十数年来にわたる平城宮とその官衙(かんが)のあいつぐ発掘から、荷の付け札(木簡)が多数発見され、その内容が知られるようになった。
以下のように、律令で人民を「編戸の民、調庸の民」として体系づけたのである。
武蔵国分寺の造営
七四一(天平一三)年の聖武天皇の発願による諸国国分寺創建の詔は、当然武蔵国にも課せられた事業であった。
天皇の直詔である以上、これは政策的な側面をもっていた。
つまり、当時全国に蔓延していた疫病による民の病弊を、仏教によって守る目的があったのである。
とはいえこれは表向きであって、背景には、公民の乱れを国分寺造営に向って統一する、護国教化の思想であった。
武蔵国分寺の場合、寺域は、少なく見積っても南北五町半、東西八町の規模があり、諸国総国分寺、奈良東大寺の方八町に次ぐものであった。
現在では測りしれないほどの大規模な事業であったが、これは武蔵国ばかりではなく、全国の国分寺造営についてもいえる。
朝廷は、再三にわたり工事遅延について催促し、新たな施策をうち出した。つまり造行費用の拡大である。
これが直接的に、八王子を含む多摩川に影響したことは想像に難くない。
また、朝廷は地方富裕層の私財寄進を、その者に位を与える施策をもって臨んでいる。
従ってこの背後にある事実は、富豪層とそうでない階層が存在したことを明瞭にしている。
こうした富豪層の抬頭について、考古学的に明らかにすることはできない。
ます、富豪層の住居はもはや竪穴ではなく、高床式の建物であったと考えられるからである。
また、一般の農村集落に居住区があったか否かもはっきりしない。この点ては、発掘調査は不充分である。
ところで、この正文化された事実のなお背景にはいったいどのようなことがあったのであろうか。
武蔵国分寺の完成は、私豪層の瓦の寄進状況から、新羅郡創設以前、すなわち、七五八(天平宝字二)年より前であったと考えられる。
つまり、新羅郡の川名瓦が国分寺から出土しないことを根拠にしている。
おそらく民衆にとっては、七重の塔を中心として建ち並ぶ唐風の伽藍は、異様な風景と眼に映ったことであろう。
この国分寺造営の大事業につぎ込まれた労働力と経費は、すべて民衆によるものであった。
さきにみた国家が規定する租・庸・調の課役に加えて、当時は、国司の裁量にまかされていた雑徭(ぞうよう)と出挙(すいこ)の役割があった。
雑徭は年間六〇日、各国々の公共事業の労役に従うものであり、出挙とは農民が官稻を播種期に借り、収穫時に利子をつけて返済するものである。
国分寺造営にあたって、この制度がフルに活用されたのである。
出挙は、最初任意であったのが、強制的な貨付けにかわり、その利率もきわめて高いものであった。
しかもこれは、財政の悪化を理由に恒常的になっていった。
国司層は、これを利用して財産をふやすなどの不正を行なうようになった。
倍加された雑徭や公出挙(くずいこ)によって、農民の負担は急激に増大していった。
また、公出挙の返納ぶつかないために、本貫地(戸籍に登録されたた地)から逃亡する民まで出てくるのである。
一方、朝廷が郡司クラスに与える職分田や寺院・神社などへ認めた広大な封戸によって、一般農民へ班給する口分田が不足しはじめる。
そして、政府が次々とった施策(三世一身の法、墾田永世私財法)はいずれも失敗し、かえって有力豪族や大寺院の私有地をふやす結果になってしまった。
そして、そこへ浮浪民、逃亡民が流れこんでいき、もはや国家の統制のとれない民として埋没してしまうのである。
武織国分禁創建の八世紀中頃を境にして、律令制度は土地政策から破綻がめだつようになるのである。
八世紀末から九世紀にかけて、すなわち平安時代に入った頃の八王子は、依然として農村集落が点在するところであった。
彼らの住居は前代のように竪六住居であり、ムラの構造も大きく変っていない。
しかし、中田・船田遺跡の平安時代集落のように、一集落に一棟の倉庫を設ける例がでてきており、集落全体の収穫物がそこにおさめられたと考えられる。
従って、住居は自立的に収穫物を獲得することはなく、集落全体の生産・管理に移行していたとみられる。
この背景に、外部からの強力な支配を垣問みることができる。
すでに力を弱めていた九世紀代の令制によるものとみるよりは、この頃しばしば正史にみえてくる寺院の封戸に関係があるように思える。
もうひとつの変化は、こうした比較的規模のある集落のほかに、人里離れた山間奥地に、わずかー、二軒の住居が営まれる例がふえてくる。
これは、六世紀代の農業経営が可能な単位とちがい、それよりもさらに零細な農民である。
こうした住居の発掘例はまだ少ないが、鞍骨山遺跡や多摩ニュータウン内の山間地の調査によって、いくつか明らかにされている。
また、高尾山塊の尾根筋にも発見されている。彼らは国家の収奪をのがれて、あるいは、富裕層の手からも離れるように、山間の地に生活を求めていったと考えられている。
須恵器の生産と官牧
武蔵国分寺の造営は、在地の手工業生産にも大きな影響を与えた。
そのひとつは、屋根にのせる瓦の生産である。
新技術を要求される瓦生産は、渡来人系工人の指導によるところが多かったと思われる。
これに動員されたのは、日常什器(土師器)を作っていた在地の工人たちであった。
武蔵国では九世紀初頭前後を境にして、食器は須恵器に転換していく。
瓦生産を終えたあと、在地工人たちは、器としては堅く水漏れしない須恵器の坏や甕を作り出すのである。
市内の南に横たわっている丘陵地内の谷口、谷奥には、この瓦や須恵器を焼いた窯跡群が数多くある。
それは町田・多摩・稲城市にかかり、南多摩古窯(こよう)群と総称されている。
現在分布調査が進んでいて、市内に属するものだけでも約四〇基にのぼる。
このほとんどは、純粋に須恵器窯として操業されており、瓦を併焼する窯もわずかにみられる。
とくに集中しているのは、国道一六号線の御殿峠を中心とした、半径約二キロメートルの範囲である。
その操業年代は、九、一〇世紀に中心をおき、八世紀にかかるものはわずかである。
従って、国分寺創建時には、ここの地域の窯址は瓦生産を行なっていなかったと思われる。 また、市内には、盆地北縁の丘陵地に、もう一個所瓦窯址がある。
谷野町谷野瓦窯址である。この窯が平安時代の操業である。 では、両窯外で実際に生産された瓦は、どこで使われたのであろうか。
この点に関しては、『続日本後紀』にみられる八三五(承和二)年炎上の武蔵国分僧寺・七重塔を、八四五(承和一二)年に、男装郡の前大領壬生吉志(みぶきし)福正が、その再興を願い出たという記事が注目される。 |

南多摩窯群の分布および瓦の供給経路
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福正は前大領とあるように、男衾(みぶすま)郡の郡司をつとめた人物であるが、七重塔再興を寄進するほど財力を保持していたらしい。
再興七重塔は発掘調査によって、一辺五九尺と創建よりもはるかに規模が大きく、その瓦量も膨大であったとみられる。
この再建瓦は、北武蔵に分布する諸窯からの生産・供給という意見がある。
しかし、それのみではなく、南多摩・谷野窯の生産瓦も使用されていたと考えてよいであろう。
こうした瓦生産を発端にして、須恵器の生産が活発化する。
九、一〇世紀の農村聚落の什器類は、煮沸形態の變などを除いて、すべて須恵器によって占められるほど普及する。
須恵器窯の操業は、多くの薪を使用するため、とうてい個人の力では行なえず、おそらく郡司層の統治の下にあった専業集団によるものであったと考えられる。
そして、製品の配給も郡司の手を経ており、国府・国分寺等への納入のほかに、農村集落へは当然、売りつける形で供給されたと思われる。
従って、壬生古志福正のように、郡司層の富の集積は大きかったとみなければならない。
南多摩窯址の製品は武蔵国にとどまらず、境川をこえて相模国にも流布している。
これは、同じ丘陵地内で相模国の専業集団も窯業を営んだものか、あるいは、さきの武蔵の工人たちが私的に配給したものか興味ある問題である。
一〇世紀まで、谷戸の各所から盛んに煙をあげていた窯の操業は、一一世紀に入ると衰退気味になり、以後一二世紀までは続かないようである。
それを裏書きするように、この頃から、集落遺跡の須恵器製品が減少し、再び赤焼きの土師器にもどっていく現象がみられる。
この原因はまだよくわかっていないが、美濃・瀬戸地方からの灰釉(かいゆう)陶器の流入などによる嗜好の変化も一因であろう。
こうした須恵器生産について、文献資料はほとんどふれていない。日常雑器ゆえの扱いからかもしれない。
それに反して、同し多摩丘陵を利用した、古代牧の記事は二、三みられる。
広く東国は、大和朝廷の官牧が各地におかれ、馬の飼育が盛んに行われた。
馬が軍事・運輸の両面で、きわめて重要な役割をはたしていたからである。
とくに、信濃・甲斐・上野・武蔵に多く集中していた。
武蔵国では、こうした牧がいつごろ成立したのか不明であるが、私牧も含めて、令制の時代には確実にあったものと思われる。
九二七(延長五)年の『延喜式』には、武蔵に四つの勅旨牧が制定される。
すなわち、石川・小川・由比・立野のそれであるが、この他に、檜前(ひのくま)・神崎の二牧があり、官牧であった。
官牧、勅旨牧とも、宮廷用の牛馬を飼育することは同じであったが、勅旨牧は、宮廷に貢進する手続きが異ったとされている。
勅旨四牧のうち、小川牧は多摩郡小川郷(現西多摩郡秋多町)、由比牧は、同じく多摩郡内に、立野牧は都筑郡立野郷(現横浜市港北区)にそれぞれ比定するのが有力である。
由比牧は、八王子市内の弐分方町周辺とされているが確証はない。
しかし、ここには「牧堀の土手」という伝承をもつ土手状遺構が残されていて、可能性はある。
九三一(承平元)年には、小野牧が勅旨牧に編入され、別当とよばれる牧の長官に、小野諸興(もろふさ)が任命される。
小野牧は多摩郡小野郷内といわれ、現在の町田市北部から八王子市由木地区にかけての多摩丘陵内である。
これらの牧から、毎年貢馬される数は、さきの『延喜式』によれば、由比・小川・石川の三牧で三〇頭、立野牧二〇頭とされている。
一牧の放牧数では、立野牧が大きかったようである。
小野牧は、後の記録に四〇頭とみえるから、さらに大きかったと思われる。
この地域内にある町田市鶴川遺跡H地点からは、馬をつなぐ場所と思われる柱列址が発掘されているなど、牧址を裏付ける資料がある。
さて、こうした牧における馬の生産は、一方で東国武士団を生む素地となっていった。
小野牧の別当小野氏は、のち武蔵七党とよばれる横山党の発生につながっていく。
やがて、同族を組織する中世武士団の萌芽は、この頃からみられるのである。
しかし、それを支えた農村集落の自立発展は思いのほかゆるやかで、武上団成立の基盤とはなりえなかった。
関東をまき込み、朝廷を震駭(しんがい)させた九三九(天慶二)年平将門の乱も、大きな変革をもたらさす中世への転換は、これよりさらに二世紀以上を要するのである。
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