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二章 中世の八王子
1 鎌倉幕府の成立と八王子
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武蔵七党
平安後期、武蔵国を本拠に「武蔵七党」と呼ばれる武上団が起った。
もっともこの数字は多数を意味しており、必ずしも七集団と限定しない。
八王子から多摩丘陵一帯の横山党、日野を中心とした多摩川・浅川流域の西党、武蔵村山から狭山(さやま)周辺の村山党、さらに埼玉県域の丹(あるいは丹治)党、児玉党、猪俣党、野与(のよ)党の七党をあげるが、野与党・村山党の代わりに南武蔵都築郡地方の都築(つづき、綴)、熊谷市北埼玉郡騎西町を中心とした私市党を入れる説があるのはそのためであり、また、『立川市史』はこれに秩父党を加え「武蔵十党」ともいうのである。
党とは、一族一門を中心とした集団をさすが、先祖の多くは武蔵国の長官(武蔵守)やその次官(武蔵介)、あるいは守(か)介(すけ)といった、正員を補佐する権守(ごんのかみ)・権介(ごんのすけ)であった。
都でうだつのあがらぬ藤原摂関家以外の貴族、皇族たちの中には、富を求めて東国ヘ下向する者がいた。富とは土地である。
国司在任中は職田(いきでん)が支給されたし、開墾した空閑地や牧などを私有地化することも可能であった。
そして、任期満ちても都へ帰らず、その地に土着する場合が多かった。
在任中、手に入れた土地や牧の所有権を確保するためである。貴族としての姓も捨てた。
代りに、土着した第二の故郷の地名などを名乗った。
わが横山党も本来は小野氏、それがいわゆる多摩の横山の横山をとって一族の姓としたのである。
小野氏といえば小野諸興(もろおき)。小野牧の別当、すなわち管理者である。
散位(位だけあって官のない者)小野諸興が小野牧の別当に任命されたのは九三一(承平一)年、小野牧が私牧から勅旨牧に編入された年である。
その頃、武蔵四牧中、最大の貢馬を誇った立野牧の二倍にあたる四〇頭を貢納した小野牧は、武蔵最大の牧といえた。
私たちは、この事実の背景に別当たる小野氏の勢力増大といった情勢に気づくのである。
朝廷は、九三九(天慶二)年、小野諸興を権介に昇進させた。武蔵国の国司の補佐役となったのである。
この頃、平将門の乱が起った。
平将門の乱と八王子
九三九(大慶二)年、平将門は公然と立って、常陸の国府を攻めた。これを天慶(てんぎょう)の乱という。
平将門の兵わずか一〇〇〇が、国府軍三〇〇〇を破った。
将門の乱も、はじめは一族間の内約であった。やがて将門が武蔵権守、興世王(おきよおう)や介の源経基(つねもと)と足立郡司の武尚武芝(たけしば)の争いに介入して大乱となった。
「凶猾(きょうかつ)党ヲナシ、群盗(ぐんとう)山ニ満ツ」「強盗峰起シ、侵略尤(もっと)モ甚(はなは)ダシ静カニ由縁ヲ尋ヌレバ 皆僦馬(しゅうば)ノ党ニ出ヅ」といわれた武蔵国を含む関東西部地方。
僦馬とは本来、馬の背で都へ貢納物を運ぶ運送業者である。
彼らが蜂起し、貢納物を奪い、ついには民衆の集団的反抗の中核になった。
東国の秩序はまったく失われ、国府の力は地におちた。国ごとにおく検非違使(けぶいし)を武蔵国には特に郡ごとにおいたが、乱れた治安をもとに戻すことはできなかった。
こうした背景のもと、平将門の乱は起った。
いたずらに税ばかり収られる“角のない牛”のような農民にとって、将門は一種の英雄であった。
八王子市恩方(おんがた)地区の力石には将門明神社があり、将門についての伝説があるので紹介しよう。
天慶の乱のおり「将門卮うし」という知らせに駆けつけようとして、槍をしごいてやってきたある人がいた。
しかし将門討死と聞き、その槍を投げ捨てた。
その渕が「ヤリ小渕」であり、あきらめて馬をひんまわし(引返し)で家に戻ったので、そこに「ヒンマワシ」という地名がついたというのである。
さて、天慶の乱を平定したのは東国の豪族、藤原秀郷(俵藤太)や平貞盛であったが、武蔵権介小野諸興も、武蔵介源経基を助け、平将門誅伐に協力した。
朝廷は、地方豪族を利用して、地方豪族を討たしたのである。
そして、藤原秀郷は今まで中央内族が専有していた国司(下野守)に登用される。
恩方の「ヤリ小渕」や「ヒンマワシ」の名も、このような中央貴族の懐柔策にのった地方豪族に対する失望の声とみることができるかもしれない。

横山氏供養塔(元横山町妙薬寺)
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横山党略系図
(横山党には椚田・田名のほか
多くの支族があるが、
本文関係以外は省略した)
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横山党
武蔵七党中、最大の規模を誇った横山党の開祖は平安初期の学者として知られる参議小野篁(たかむら)七代目の子孫小野孝泰(隆泰)である。
孝泰は武厳守として下向、八王子周辺を開墾。
四年の任期満了後にここに土着した。 孝泰の子が小野義孝(義隆)で武蔵権守(または権介)となり、横山姓を名乗った。横山氏という名の初見である。
その時期は九三〇〜九四〇(承平・天慶)、つまり平将門の乱あたりとされている。
また、小野牧の別当小野諸興と横山義孝の存在がぽぼ同一時期であることから、小野諸興が横山義孝を名乗ったのでけないか、との推測が生まれるのである。
この横山氏の居館はさだかではない。
元横山町の八幡八雲神社境内が「横山党根拠地」に指定され、近くの妙薬寺には「横山氏供養塔」が建つ。確証はないが地名から推してこの周辺が描山氏の発展に重要な意味を持っていたのであろう。
横山氏は代を重ねることに土地を拡大していったが、税を免がれるため、私営田を名目上藤原氏に寄進した。
そしてその頃、現在の八王子市東部から日野市一帯にかけて存在したと推定される摂関家の所領=船木田荘の荘域に入った、と考えたい。 |
この船木田荘の実際の経営権を握っていたのは、いうまでもなく横山氏などの土豪であった。
彼ら土豪は名目上、荘園に組み込まれた自墾地を中心に自己の名をつけ名田とし、みずからは名主と呼ばれた。
横山荘はすなわち、横山氏の名田である。名主は治安の乱れと共に自衛のため武装する。武士の発生である。
こうして各地に散在した一族が団結して武士団の成立となる。横山党もその一つである。
八王子かいわいでいえば、船木田荘の荘内(横山荘も含まれている)で武士団となったといってよいであろう。
横山氏三代目の経兼は、前九年の役(一〇五一〜六二)にさいし一族を率い、源氏の棟梁、源頼義の軍にはせ参じた。
敵将、安部貞任の首級を獲たというのはその時である。以後、横山党は歴代、源氏の与党となった。
保元の乱(一一五六年)では、横山党をはじめとした武蔵七党系の面々が源義朝方の主力を占めるほどであった。
しかし、平治の乱(一一五九年)で義朝が敗れると平氏の政権が成立。武蔵国もまた平氏知行国の一つとなった。
平知盛・知重・知章などが武蔵国の国司であったが、いわゆる遥任(ようにん)国司で武蔵国には赴任していない。
従って、現地の支配は在庁官人たる在地土豪に任されていた。すなわち、平氏支配下といえども、在地の武蔵武上団は着実に力を養っていたのである。
平氏は京にいて、藤原氏の政治をほぼ踏襲しており、武士としての新しい立場からの政治機構や政策の創造はなし得なかった。
平氏は、一方では武力をたのみ横暴な所業も多かったから、朝廷・貴族・社寺といった古代勢力との軋轢も起った。
また、平氏以外の武士、なかでも源氏への圧迫には厳しいものがあった。こうして平氏政権は、一族以外のあらゆる勢力を敵にまわすことになった。
一一八〇(治承四)年四月、源頼政のすすめで後白河上皇の皇子、以仁王(もちひとおう)は平氏討伐の檄をとばし、諸国の源氏の蜂起を呼びかけた。
以仁王、頼政は結局敗死したが、各地に散っていた源氏の決起を促すこととなった。
伊豆の流人、源頼朝が立ち上ったのもその年八月のことであった。
事態を静観していた横山党・西党などの武蔵武士団も途中から頼朝軍に加わり、その活躍には目覚ましいものがあったといわれる。
たとえば、横山時広は義経軍に従って出陣したが、鴨越(ひよどりごえ)の合戦での力戦の様子は『平家物語』巻九「坂落しの事」に載(の)る。
これを始めて三浦、鎌倉、秩父、足利党には猪股、児玉、野井與、横山、西党、綴喜(つづき)党、総じて私の党の兵(つわもの)ども、源平互に乱れあひ、をめき叫ぶ声は山を響し、馳せ違ふ馬の音は雷の如く、射違ふる矢は雨の降るに異らず。
或は薄手負うて戦う者もあり、或は引っ組み、さし違へて死ぬるもあり、或は取っておさへてむをかくもあり、かかるるもあり、いづれ隙ありとも見えざりけり。 |
鎌倉幕府と横山党
頼朝は平氏を滅した一一八五(文治元)年、後白河上皇に接近して頼朝に反旗をひるがえした弟義経、および平氏残党の追捕(ついぶ)を口実として国ごとに総追捕使(そうついぶし、後の守護)を、荘園・公領には地頭の設置を朝廷より許された。
そして一一九二(建久三)年、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府をおき、政権の根拠地とした。
こうして、江戸幕府が終るまで七〇〇年に及ぶ武家政治が始まったのである。
幕府権力の基盤は、将軍頼朝と主従関係にある関東御家人であったから、特にその身分を尊重した。
すなわち、御家人の土地領有権を保証(安堵)し、勲功があれば新たに所領を与え、また有力御家人を守護その他に任じた。
これらの御恩に対する奉公、いわゆる御家人役勤務が義務づけられていた。
横山党の横山時広は軍功により、横山圧の所領を安堵されると共に、淡路国の守護に任じられている。
また、横山氏の女を母とする梶原景時は、南多摩郡旧元八王子村に所領を与えられた。
元八王子梶原の八幡神社は、梶原景時が鶴岡八幡宮を勧請したと伝える(『新編武蔵風に記稿』)。
西党の平山季重は同郡旧平山の地を、横山氏の一族の椚田氏も同郡旧横山村椚田の地を保証されている。
こうして、八王子周辺地域は、頼朝政権の所在地である鎌倉の防衛基地の一つともなった。
鎌倉街道
政権の所在地鎌倉へ向かう幾筋かの古道を鎌倉街道とか、鎌倉往還、鎌倉みちなどと呼ぶ。
「いざ鎌倉」というとき軍用路線としても利用され、沿道に著名な古戦場や伝説を残している。
主道は、次の三ルートを指す。いずれも幕府にとっての最重要地である武蔵国を通過している。
すなわち、
@鎌倉から小山田(町田市)、関戸、分倍河原(府中市)、恋ケ窪(国分寺市)、久米川(東村山市)を経て上州へ向かう上ノ道(このうち府中辺までを武蔵大路ともいう)、
A鎌倉から鶴見(横浜市鶴見区)を通って下総・上総(千葉県方面)へ出る下ノ道、
Bこの両道のほぼ中間を走り、府中で上ノ道に合する中ノ道。
八王子市域を通る鎌倉街道はこれらメインルートからはずれていたが、町田市辺で上ノ道(武蔵大路)に接続していた。
各地に伝承する鎌倉街道も、このようにどこかで鎌倉脇道とか、枝道(しどう)、そして主道につながっていたものであろう。 |

鎌倉街道略図
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八王子に残るものとして次のルートが有名である。
秩父より一路南下して白岩、軍畑(いくさばた)・柚木・平井をへて市域の戸沢・松本・弐分方(にぶかた)、裏宿、三軒在家、大戸そして町田市木曽、鶴間から武蔵大路に通じるこの道は、上ノ道の枝道であり、鎌倉街道山の道とも呼ばれる。
たとえば、上川町の戸沢峠。
国電八王子駅北口から川口まわり、に五日市街道行きのバスに乗り、上川町の日向または山守で降りる。
戸沢から川口川を渡ると戸沢峠へ出る。この戸沢峠を通る小径のことを地元の人は、畠山道と呼んできた。
ちなみに、武蔵国を通る上ノ道にも畠山重忠にまつわる伝承が多い。
国分寺市恋ヶ窪にある東福寺かいわいの重忠と遊女夙妻(あさづま)との悲恋を物語る傾城(けいせい、遊女)伝説などはその代表的なものであろう。
さて戸沢峠から南へくだれば、馬込、松木といった字名(あざな)をもつ美山町へ出る。
松木は馬継ぎ、つまり伝馬の交代地、中継地であったという。
馬込(まごめ)は交代のための馬を追い込んでいた所と古書や地元はいい伝える。
美山町から北浅川にかかるあたりに上宿、裏宿といった「宿」の名のつく地名が残っていることや、当時、宿泊施設としても利用された中世寺院がこの道に沿って分布していること、さらに、鎌倉わきみちのこと、戦国時代のおだわら道との関係については、羽鳥英一氏の諸研究を参照されたい (朝日新聞社『多摩の歴史散歩』)。
和田合戦と横山氏の滅亡
頼朝政権下で沈静していた幕府内の権力抗争は、頼朝の死と共に表面化するが、このことは八王子周辺に直接、深刻な影響を与える。
北条氏の画策による、侍所の所司梶原景時や武蔵武士団の重鎮畠山重忠の謀殺といった歴史的事件が起る。
このうち、わが八王子市に重大な影響を与えたのが、侍所別当和田義盛が挙兵して敗死するという、一二一三(建保元)年の和田合戦である。
義盛の妻は、横山時広の妹である。横山氏は当然のように和田氏に味方した。
だが、結局は敗戦。横山時広の子、時兼は同族の藍原・椚田(くぬぎだ)・田名(たな)等一族三一人と共に、その郎従を従え非業の死を遂げた。
平安中期に興って以来、武蔵武士団の雄としてその名をはせていた横山党は名実ともに滅亡し、所領(横山庄)は新たに北条氏の政策協力者であった政所別当大江広元に与えられた。
この年を境に、横山氏から大江氏へと領土が代った横山庄の範囲を「荘園志料」にみてみると次の通りである。
「建保元年(和田合戦の年)の記文に出づ、柚木領内松木、大沢、上柚木、下柚木、中山、堀之内、越野、中野、大塚、落合十村、由井領内本郷、八王子横山十五宿、千人町、元横山、新横山、子安、散田、山田、上椚田、下椚田、小比企、片倉、小山、上相原、中相原、下相原、寺田、大船、上長居三十四村を横山荘という。」(『八王子市史』下巻) |
なお、大江広元には六人の子があり、それぞれ父の領地を継いだが、二男時広は横山庄と山形県長井庄を継承し、長井氏を名耒った。
のちに広園寺開基となる長井道広の祖である。
八王子市に関係が深いのは横山党と西党である。
西党では由井氏、平山氏など和田合戦に参加したが、川口氏は参加せず家運を保ったという。
それどころか、室町時代にいっそう繁栄し、室町期応永年間(一三九四〜一四二七)には経済力にものをいわせ写経事業に貢献するまでになっている。
いま、八玉子市川口町にある川口小学校東側の通称「老いせぬ台」が川口氏居館跡と伝える。かって、この地下上り礎石と思われる大きな石が発掘されたことなとがら、ここを川口氏居館跡と考えたい。
2 室町幕府と八王子 top
鎌倉幕府の滅亡以降
鎌倉幕府の執権として政権を握った北条氏は、元寇の後、極端な財政難に陷った。
また、元寇の功にもかかわらず幕府から恩賞を与えられなかった御家人の間には、北条氏に対する強い不満がくすぶっていた。
この時、後醍醐天皇を中心とする宮中貴族は政権の奪回をねらい、討幕の計画をたてていた。
これに呼応した河内の土豪楠木正成(くすのきまさしげ)、有力御家人の足利尊氏、新田義貞らによって一三三三(元弘三)年、幕府は滅ぶ。
こうして後醍醐天皇を中心とした公家政治は、一時的に復活した。これが建武の新政である。
しかし、これはみせかけの公家政治ともいえた。
鎌倉幕府は滅亡したが、守護・地頭などの武家勢力は健在であり、守護たちは領国内のあらゆる武士を自己の系列下に組入れようとしていたし、また、北条氏に代わる新たな棟梁を求めていたのである。
このような情況に対する認識不足のままスタートした天皇宮中貴族中心の建武の新政が永続するはずはなく、足利尊氏の反乱によりわずか二年あまりの短命政権で終った。
後醍醐天皇は南の吉野へ走り(南朝)、新たに武家社会の統一を目論(もくろ)んだ尊氏は京都に別の天皇(北朝)をたてた。
こうして約六〇年に及ぶ南北朝時代が始った。
鎌倉府の設置
一三三八(延元三=暦応元)年、足利尊氏は京都の二条高倉に幕府を開いた。
南朝との対抗上、幕政の根拠地を京都に置かざるを得なかったのである。
しかし、有力守護・地頭・土豪らの支配強固な関東を無視できず、鎌倉に幕府出張所とも、幕府の分身ともいうべき鎌倉府(関東府)を設置し、関八州や甲斐・伊豆一〇ヵ国を統轄・支配させた。
この鎌倉府の最高責任者を関東管領とか鎌倉御所(のちに鎌倉公方、以下公方と呼ぶ)といい、尊氏の次男基氏をあてた。
また、一族の上杉憲顕を執事(のちに関東管領、以下管領と呼ぶ)として公万を補佐させた。
将軍はこの関東一〇ヵ国(武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房・甲斐・伊豆)に対して、守護の任命、幕府所領の知行権以外のすべての政務は鎌倉公方に任していた。
このように鎌倉府が大きな権限を持っていたことは、やがて鎌倉公方が京都の将軍家と対立、肉親の争いにまで発展する原因ともなった。
一方、鎌倉府管轄下の関東には鎌倉以来の諸豪族がそれぞれの領地を掌握しており、勢力浸透を狙う鎌倉府とは対立・拮抗を繰返すこととなる。
さらに、鎌倉府内部の確執もあって、関東の政治状況はいよいよ複雑の度を加えていくのである。
上杉禅秀の乱
上杉氏は、それぞれ鎌倉における居宅の所在地に因んで山内、犬懸(いぬがけ)、扇谷(おおぎや)、詫間(たくま)の四家に分かれていた。
これら四家は同じ上杉氏とはいうものの一枚岩ではなく、しばしば対立し、骨肉相食(は)む暗闘を繰返すのである。
一四二八(応永二二)年、犬懸家から出た上杉氏憲(法名禅秀)は犬懸家家人の所領没収問題で公方足利持氏と争って管頷職を辞任。持氏は後任にこともあろうに犬懸家のライバル山内家の上杉憲基をあてた。以後、犬懸家の禅秀と山内家の憲基、公方持氏はことごとに対立する。
また、京都でも将軍職をめぐって兄義持(将軍)と弟義嗣の争いが起っていた。
戦術上、義嗣は鎌倉公方持氏に不満を持つ禅秀に謀反を働きかけた。一方、禅秀は、鎌倉公方職をねらっている公方の叔父足利満降に働きかけ味方に引きこんだ
一四一六(応永二三)年、ついに上杉禅秀・満隆は公方持氏・関東管領上杉(山内)憲基を襲撃した。
これが上杉神秀の乱である
この乱が単なる鎌倉府内部の権力争いで終らず、関東の大乱となったのは、この争いに将軍の弟、鎌倉公方の叔父、さらに千葉氏ら姻戚筋にあたる守護大名クラスの豪族が加わったからである。
不意の襲撃により、足利持氏(公方)、憲基(山内)は鎌倉から駿河方面へ敗走したが、将軍の弟、義嗣も関係した一大事件とみた京都は、駿河の守護今川範政、越後の守護上杉房方らに出兵を命じ、これを支援させた。
このため、初戦では勝利した顯秀方もついに敗れ、一四一七(応永二四)年一月、氏憲(禅秀)は鎌倉へ敗走し自殺することとなる。
さて、この時武蔵の土豪・小領主層はどう対応したであろうか。
一揆(いっき)の動向
この頃関東各地に散在していた群小土豪は、かっての血縁的な党のまとまりから、地縁的な性格の強い一揆という仕組みへと編成替えしつつあった。
一揆とは揆(みち、ばかりごと)を一にするという意味から、一致団結した地方小領主の集団を指す。
一五世紀はじめ、応永の頃の関東地方の一揆には白旗一揆(上野)、武州南一揆(武蔵)、上総本一揆(上総=かずさ)などが署名である。
大領主に成長し得なかった武蔵七党系の多摩土豪たちは離合集散を重ねつつ、いくつもの一揆を結成したようである。
多摩地方で活躍したのに武州南一揆である。
武州南一揆とは南武蔵の一揆であり、武蔵国の南部一帯に分布した群小武士の集団である。
平山参河(みかわ)入道や梶原美作守らを頭目として、由井・河口・立川・山川・師岡の諸氏もこのような地域的集団に加わっていた。
彼ら武州南一揆の連中は、はじめ氏憲(禅秀)方についた。しかし形勢不利とみるや、たちまち公方側に寝返った。
このようなかわり身の早さこそ一揆輩の身上であったが、「一所懸命の地」を守るためには止むを得ぬ行動であった。
一揆について『太平記』も「軍(いくさ)ノ勝負ニ附テ或ハ敵トモナリ、或ハ御(味)方卜モ成ベシ」と記している。
この禅秀の乱で南一揆の頭目格、平山参河入道・梶原美作守は鎌倉公方持氏のもとでの功による恩賞として、炭・油を除く「政所方公事」を五ヵ年間免除された。
公事とは年貢・労役以外の負担を指す。
ここでは租税となる現地の生産物のことであろうが、具体的な品目はわからない。
とにかく「政所方公事」の五ヵ年間免除を拡大解釈した武州南一揆は、船木田荘の年貢まで当時の領主(東福寺)へ上納しなくなった。
あいつぐ戦乱は、船木田荘を歴史から消し去っていくのである。
武蔵守護代大石氏
この戦乱で南一揆を組織して禅秀方と戦ったのが武蔵守護代大石氏である。
大石氏としてはこれら一揆を押えるよりは、むしろ泳がせながら利用するといった形をとっていたふしがある。
たとえば、南一揆による船木田荘の横領に際しても積極的に黙認したとさえ思えるのである。
大石氏は木曽義仲の子孫と伝え、信濃国大石郷の住人であった。
その大石氏が多摩の歴史に登場するのは、大石信重が鎌倉府の管領上杉氏に属し、一三五六(延文元)年、入間・多摩両郡に一三郷の地を与えられ、武蔵目代=守護代に任命されてからのことである。
以後、憲重・憲儀と一五世紀前半まで三代にわたって武蔵目代(守護代)を世襲する。
信重は管領上杉(山内)憲実のもとで守護代となったので、当然、山内派に属していた。
従って憲実の死後おこった節秀の乱には、山内=公方側についたのは自然であろう。
従って武州南一揆の変節は守護代大石氏の彫響力のあらわれでもあった。
その頃の大石氏の居館は、はっきりしない。
通説では西多摩郡二宮の地とされているが、埼玉とする説もあり、二宮説にも「二宮神社」説と「大屋敷」説があって一定しない。
一三八四(至徳一)年、信重は旧下恩方村浄福寺裏山に城を築き(千手山城とも案下城ともいう)、ここに移った。
いま、下恩方浄福寺裏山に土塁と枡形をわずかに残している。
片倉城と広園寺
大石氏の千手山への移転後まもない一三九〇(康応二)年、大江氏の庶子家である長井道広は、横山庄内山田村に広園寺を建立し、その南方片倉の地に城を築き片倉城と称した。
広園寺境内は大江氏居館跡と伝え、従来、大江広元七代の孫、大江備中守師親の広園寺開基説、また大江師親の片倉築城説がとられてきたが、最近では長井一族の存在がクローズアップされてきた。
さらに、長井道広は大江師親の長子という説もあって、諸事にわかに決め難いのである。
なお、片倉城のその後のことであるが、長井道広の置玉の野(山形県)における対伊達戦に際しての戦死後、廃城化したという佐藤孝太郎氏の説を紹介しておく。
いずれにせよ、鎌倉府をバックとした山内上杉派の重鎮大石氏の多摩各地への勢力滲透・強化が時代の流れであったといえよう。 |

広園寺
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鎌倉府滅亡と関東混乱
その鎌倉府では内部抗争が日常化しており、また、鎌倉公方は京都(将軍職)をねらうといった複雑な情勢にあった。
こうして起った永享の乱(一四三八〜三九=永享一〇〜一一年)で敗れた公方足利持氏は翌年自殺し、鎌倉府は滅んだ。
その後、関東における足利氏の中心勢力を必要として幕府は、自殺した持氏の子、成氏を公方として鎌倉府を復活させる。
公方成氏は、やがて山内・扇谷両上杉氏と対立、一四五五(康正一)年、府中・分倍河原で戦った。
山内上杉氏に属していた大石氏もこの合戦に加わり房重は討死。緒戦における管領上杉方の大敗である。
しかし、鎌倉公方足利成氏の行動を中央政権に対する謀反とみた幕府は、駿河の守護今川範忠に、成氏討伐を命じ、かつ上杉氏を応援させた。
公方成氏は府中から、千葉氏を頼り下総古河城へと逃がれ、ここを根拠としたため以後の成氏を古河公方という。
いっぽう幕府では、将軍義政の弟政知を還俗させ関東に下した。
しかし、政知は荒廃の鎌倉を避け、伊豆の堀越(韮山)に館をつくり、関東のことにあたった。
これが古河公方に対する堀越公方である。
やがて、山内・扇谷両家も対立すると、関東は古河・堀越両公方、山内・扇谷両上杉あい乱れ、西国より一足先に戦国時代へと突入した。
さて、大石顕重はこの分倍河原合戦の三年後の一四五八(長禄二)年、千手山城を捨て高月城へ移った。
扇谷上杉氏の家宰太田資長(入道して道灌)が江戸城の築城にとりかかった翌年のことである。
大石氏の属した山内上杉氏の本拠、上野国白井城の前線を守るには、千手山城が辺境にあり過ぎていたのである。
高月城は高築、高槻とも書く。多摩川とその支流秋川との合流点のやや西寄り、加住丘陵の北部に位置している。
標高二〇〇メートル弱、東西一一〇、南北八〇メートルほどの平地が本丸跡であるが、今は何のことはない畑地で、丘陵つづきの尾根を仕切った空濠や曲輪の跡が盛時の面影をわずかにとどめている。 ここ高月城に当時の最高のインテリもたずねてきた。 |

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文化人の来遊
高月城を訪れた一人は京都聖護院の門跡で修験道の元締であった道興准后(じゅごう)であり、もう一人は禅僧の万里集九(しゅうく)である。
一四八六(文明一八)年、配下の修験の状況視察を名目として、戦乱の京都をさけた道興准后は高月城を訪れた。
この時の様子は道興准后の『廻国雑記』に詳しい。大石信濃守とは大石顕重のこととされる(「大石系図」)。
「或時大石信濃守といへる武士の館にゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閣あり、矢倉など相かねて侍りけるにや、遠景勝れて、数千里の江山眼の前尽きぬとおもほゆ。
あるじ盃を取り出して、暮すぐるまで遊覧しけるに、
一閑興に乗してしばらく楼に登る
遠近の江山分かれること幾州
落雁は霜に叫んで風飆々
白沙翠竹斜に幽かなり」 |
矢倉をかねた高楼などがあったことを物語る記述である。
翌春、再び道興は高月城を訪れている。
「野遊のついでに大石信濃守が館へ招引し侍りて、まりなど興行し子役に入りければ、二十首の歌をすゝめけるに(歌略す)……大石信濃守父の三十三回忌としてさまざまの迫修を致しけるに、聞及び侍りければ、小径を花の枝につけて贈り侍るとて
散にしは三十ぢみとせの花の春
けふこのもとにとふを待つらん」 |
大石信濃守の父とは、享徳のとき分倍河原で討死した大石房重をさすといわれるが、当時、配下に修験憎がいたと思われる。
彼らを密使や隠密あるいはいくさの祈祷などに使ったのであろう。
修験道視察も両者の関係があったからだと思われる。
いずれにせよ、関白近衛房嗣の三男で准三后の高僧である都のインテリを迎えて応接できるほど、大石氏の文化的素養が高かったことを物語っている。
禅僧万里集九は顕重の子、定重の要請にこたえ、その居館の一つに万秀亭と命名した。
さらに万里はそれに因んだ詩をつくり、画工に命してその景を描かしたという。
いわゆる万秀亭詩と、その序文は万里の著「海花無尽蔵」に載る。
道興が来たり、万里が詠んだ大石信濃守の居館がこの高月城であることの確証はない。
高月説が有力だが、ほかに滝山説、埼玉県入間市の引又の館説など諸説がある、とだけつけ加えておく。
両上杉氏の滅亡
関東は古河・堀越両公方、扇谷・山内両上杉氏の対立で収拾のつかない状態になっていた。
この頃、江戸城を築き扇谷上杉氏の家宰(かさい)として主家上杉氏の勢力拡張に献身していた太田道灌(どうかん)に思わぬ落し穴が待ち受けていた。
その仕掛人は上杉(山内)顕定であったという。
顕定は同じ上杉でも道灌の属する扇谷家のこれ以上の隆盛を喜ばず、主家に対して叛意ありとして道灌の主人である扇谷上杉定正に讒言(ざんげん)した。
暗愚な定正はこれを真に受け、相模国粕谷(伊勢原)の自己の居館で道灌を暗殺。
道灌の器量によって保たれていた両上杉氏の対立は、後北条氏の武・相進出を阻止せんとして一致せざるを得ない状態に至るまで続く。
このような関東政局の混迷は、後北条氏の関東進出を助けたことは間違いない。
この頃すでに、伊豆を平定していた後北条氏の祖、北条早雲は一四九五(明応四)年、小田原城を襲い城主大森藤頼を追放、一五一六(永正一三)年三浦氏を滅して相模を手に入れていた。
ついで早雲の子、氏綱は相模から武蔵に進出。一五四五(天文一四)年には、上杉(扇谷)定正の孫朝興の子、朝定の守る河越城を攻めた。
朝定は城を捨てて松山城に入ったので、北条氏綱は養子の綱成を女婿にして河越城においた。
勢力挽回(ばんかい)のチャンスを窺っていた扇谷・山内の両上杉は、古河公方足利晴氏と共に、北条綱成の守る河越城を包囲した。
城兵三〇〇〇に対して攻撃軍八万の大軍であったという。
一五四六(天文一五)年、わずか八〇〇〇の手兵を率いて河越城の救援に向かった氏綱の子北条氏康は、夜襲により包囲軍を撃破した。これが世にいう河越の夜戦である。
上杉朝定は乱戦の中で戦死し、扇谷上杉氏は滅ぶ。
山内上杉憲政も越後に走り、守護代長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼る。
そして、管領職と上杉の姓を景虎にゆずる。
こうして、両上杉は実質上滅び去り、関東はほとんど北条氏の支配下に入る。
すなわち後北条氏は早雲、氏綱、そして三代氏康に至って全盛期をむかえる。
大石顕重の子、定重が六〇余年間の居城、高月城を廃して滝山城へ移った一五二一(大永一)年は、ちょうど室町時代の末期、後北条氏の勢力が両上杉氏のそれを圧倒しつつあった時代だったといえよう。
そして、大石氏も定重の子、定久の代にいたってようやく衰退に向かっていた。
3 八王子城の落城 top
滝山城と北条氏照
小田原北条氏の勢力を無視しえなくなった大石定久は、北条氏康の二男氏照を滝山城に迎え、娘を配し家督をゆずった。
そして自らは多摩郡戸倉(五日市町)に隠退した。一五四六(天文一五)年の河越夜戦直後のことである。
こうして滝山城は小田原北条氏の出城(でじろ)の一つとなり、城下には横山・八日市・八幡の三宿もつくられ、小規模ながら定期市も立つようになった。
ともかく、北条氏はここ滝山城を拠点に、西武蔵における支配を固めたのである。
氏照は小田原三代の城生、北条氏康の二男として一五四○(天文九年・一〇年・一一年説もある)年に生まれ、幼名を由井源三、または大石源三と袮した。
しかし他方では北条源三氏照とも袮している。
いうまでもなく、由井は八王子周辺の豪族の名である。 |

滝山城址
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さらに後世の古文書に北条陸奥守と記しているのは、陸奥守という国司の受領名をもっていたとみられる。
氏照は「如意成就」と書いた印判状を用いている。
印判状とは花押の代りに印章をおした文書をいうのであるが、戦国期に普及し、一時に多数発給する必要がある領内の民政関係に主として使われた。
印文は「意の如くに何事も成し就げてやろう」という意気を示したものである。
氏照の支配地は滝山城と、後日移転する八王子城を中心に旧大石領の武蔵国の多摩郡西部、入間郡西部、高麗郡、新座郡さらに神奈川県下にある小野路・小山田から相原・上溝・下溝・落合に座間の付近、また東京都の品川・大崎から荏原・平塚にかけては、元来古河公方の所領であったが、これも氏照の支配下におかれたらしい。
氏照が力によって征服した上総国北部の関宿(せきやど)・元栗橋・古河から下野国南部の小山・榎本も加えられる。
それに氏照配下の横地・布施氏らの所領が各地に点在し、これらを加えれば本城小田原との連絡の要所にはほとんど所領が分布していたとみることができる。
さきの「如意成就」の印判状はとくに滝山城の北側にある五日市谷・青梅谷から飯能(はんのう)・所沢(ところざわ)の一帯、南は相模国高座郡の座間から、武蔵国久良(くらき)郡冨部(とべ、横浜市西区)に及んでいる。
北条氏が、その一門と家臣などへ諸役を賦課する必要から、諸役賦課の基準となった各人の役高を明記した一九五九(永禄二)年の「小田原衆所領役帳」によると、石井某の知行として「五貫三百文、江戸 横山分」とあるから、横山にはすでに村落が形成されていたものと思われる。
なお、この滝山城の名は北条氏の関係文書では一五七八(天正五)年までみえるが、それ以後はわずかに、一五八〇(天正八)年に滝山宿とみられるだけで文書の中から消えている。
そして、八八(天正一六)年一月の印判状には代って次に述べる「八王子において一曲輪詰取走廻べきの事」と八王子城の名が文書にあらわれてくるのである。
この滝山城最大の危機は、一五六九(永禄一二)年の甲斐武田氏による猛攻を受けたときである。
小山田信茂指揮する小仏峠からの攻撃軍を廿里(とどり)峠(多摩御陵と林業試験場の間)に迎えうった横地監物、近藤出羽守の滝山軍は潰滅し、滝山城は大菩薩峠から拝島に陣をしいた信玄・勝頼本隊の猛攻にさらされることとなった。
滝山城は落城寸前まで追いつめられたが、持ちこたえた。それだけ堅固であったのだ。
しかし、武田氏のねらいは小田原本城攻撃にあり、それも越後上杉謙信と北条氏との連携を断ち切るところにあったから三日目には包囲をとき、小田原へ転戦していったという事情もあった。
城は落城をまぬかれた。だが、この攻防は城のいくつかの欠陥を露呈した。
一つは甲州武田に対する位置の悪さであり、もう一つは城郭そのものの欠陥である。
すなわち、城の北側は多摩川に面した急岸だが、他は、殊に東はなだらかに過ぎ、射撃戦に弱かったということてある。
さらには霊山高尾への接近説などがある。

八王子城址 西の丘陵より見た山容。 |

八王子城攻撃軍が使用した抱え大砲の弾丸
(実物大、八王子城址出土、『多摩の五千年』所載) |
北条氏の滅亡
こうして独立険阻(けんそ)な八王子城を築くこととなった。
しかし、なぜ滝山城から八王子城へ移転しなければならなかったかの真の理由はよくわからない。
『新編武蔵風上記稿』は滝は「落ちる」に通ずるからなどといってこの問題をぼかしている。
移転の時期も元亀とも天正初年とも、落城近くともいわれ一定しない。
八王子城は中世の代表的山城である。
おそらく天正初年の頃から築城工事に入ったと思われるが、極めて険峻要害の城であり、居住面を重視した滝山城とは異なった特色をもっている。
城は本丸、松本曲輪、小宮曲輪、御守殿曲輪を持つ城山(海抜四五〇メートル)と城山川の流れる谷を隔てた東方の大鼓曲輪に大別できる広大な規模をもち、縄張りも複雑であり、築城にはかなりの年月を要したことは確かである。
大手は元八王子の町である。氏照はおそらく八王子城の完成をまって移転するつもりであったと思われる。
しかし、未完成のまま一五九〇(天正一八)年の落城をむかえることになったのではないかともいわれる。
八王子城の麓に八王八権現社がある。
この神社は延喜年間(九〇一〜二三)の勧請と伝えられているが、一般には別当神護寺(神宮寺ともいう)の寺号をもって、その地一帯を神護寺村とも称していた。
ところで、氏照が居城を滝山城から神護寺村の八王子城に移したとき、八王子権現社を城の守護神としたため、神護寺村はしだいに八王子村と称されるようになったのである(現在、八王子権現社は、八王子市元八王子一丁目にある)。
八王子城は、一五九〇(天正一八)年六月二三日未明から前田利家と上杉景勝の猛攻を受けた。
城主と主力を小田原城に送っていた留守部隊七、八百を中心に、農民・僧侶等合わせて数千の城方と、一万を越す攻撃軍の戦いである。
八王子城側では、城将横地監物をはじめ中山勘解由(かげゆ)左衛門、狩野一庵、近藤出羽守らが防戦に努めたが、午後には本丸もおち城兵はことごとく討死か自刃し、城中の婦女子は御守殿わきの滝壷に身を投じたのである。
そのためか城山川は三日の間、その血でまっ赤に染まったという。
この地方の小豆の煮汁でたく「あずきめし」は、血潮に染まった水で飯をたいたという落城時の先祖を偲ぶならわしである。
八王子の落城によって小田原籠城軍は大きな衝撃を受け、一〇日後には開城を決意せざるを得なくなり、七月五日、当主氏直をはじめ、氏政・氏照も城を出て降伏した。
籠城していた氏照は兄氏政と共に医師田村安清の宅で一一日、自決して果てた。
年五一歳(または五〇歳、四九歳)であった。
五代九〇年にわたり、関東において分国支配体制を誇った戦国大名の雄後北条氏は滅亡し、ここに中世は終りを告げることとなった。

北条氏照寄進状
高尾山と北条氏照
高尾山は海抜六〇〇メートルの山岳宗教の霊場である。
永和年間(一三七五〜七八)山城国醍醐山より沙門俊源が入山して飯縄権現を勧請してから関東一円にわたる信仰の中心となった。 |

北条氏照制礼 |
戦国時代になって小田原北条氏の勢力が拡大し相模・武蔵・上野・下野と関東一円に及んでいくと信仰の範囲もしだいに広まっていった。
それと共に北条氏にとって高尾山は政治的にも軍事的にも重要な位置をしめることになったのである。
高尾山薬王院有喜寺には、後北条時代の貴重な中世末期の文書が一〇点も所蔵されており、そのいずれも高尾山を保護していこうという領主の強い意志が示されている。
高尾山に関係の深い領主といえば、北条氏康・北条氏照・八王子代官大久保長安である。
ことに、氏照は滝山城や八王子城以上に高尾山の存在に高い評価を与えていたと思われる。
事実、戦国争乱のなかで信仰と防衛に基づく積極的な政策がとられている。
小仏関、案内谷(あないだに)関、椚田谷(くぬぎだだに)関と呼ばれる要塞が高尾山を取り巻くように設けられ、領主によって森林保護政策が常に行われていたのである。
薬王院文書のなかに一五七五(天正三)年に一月二日付で氏照が高尾山に椚田の土地三〇〇〇疋(ぴき)を寄附した寄進状がある。
疋は銭の単位で一般に、二五文を一疋に換算する。従って三〇〇〇疋は七五貫文となる。
しかも、この年の二月二一日には「高尾山の本尊の開帳に当って参詣人が堂場のなかで押買(売買の合意がないのに買い手が無理に買取ること)・狼籍(実力行使により不法行為をすること)・喧嘩・口論などの乱暴をすることを禁止する。
もし、これに背く者がいたならば、北条氏の掟によって厳しく処罰する」という制札を出している(前ぺージの写貞参照)。
この文面から推定すれば当時高尾山への参詣人がかなりあったことがうかがわれる。しかも重要なことは境内での行動を氏照が強く規制していることである。
氏照を中心とする家臣団の、高尾山への信仰はきわめて厚かった。かって武田信玄の猛攻を受けたとき、氏照は一心に飯縄権現を念じたことによってようやく危地を脱することができたという話も伝えられている。
滝山城から八王子城への移動は、単なる地形上の有利だけでなく、少しでも高尾山へ接近するためであったと考えられぬこともない。
この高尾山への保護政策は、次の時代の大久保長安にも受けつがれていく。
top
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