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七章 大正・昭和の変動
1 変る農村と軍需産業化 top
市域に伸びる鉄道
明治末期から昭和初期にかけての約三〇年間は、鉄道をはじめとする主な施設が次々と設けられ、現在の府中市域のワク組がほぼできあがった時期である。
産業革命によってその基盤を確立した日本資本主義は、第一次大戦を契機に急速に発展し、社会構造のうえに様々な変化をもたらしたが、産業構造の面では、農業に対し工業の優位を決定的なものにした。
そして工業化に伴う人口の都市集中か顕著になったが、こうした傾向はとくに日本の首都東京において著しく、一九二〇(大正九)年の国勢調査によると、東京市の人口はすでに二〇〇万を突破して二一七万余となっていたが、そのうち東京生まれの者は九二万余の四二・五パーセントにすぎず、残りの五七・五パーセントすなわち一二五万余の者は他県出身者であった。
こうした東京への人口集中は、必然的に郊外への市街地拡大と周辺部の人口増加をもたらし、市部を中心に大東京圈が形成されていった。
府中市域への鉄道の敷設と大規模施設の開設は、こうした東京市の膨張に基づくものであった。
すでに一八八九(明治二二)年八月には、前章で述べたように甲武鉄道の新宿〜八王子間が開通しており、これが三多摩と東京を結ぶ大きなパイプとなっていたが、府中市域に直接関係する最初の鉄道は、一九一〇(明治四三)年六月、国分寺〜下河原(南町五丁目)間に開通した東京砂利鉄道(のちの国鉄下河原線)である。
この鉄道はその名のとおり、多摩川の砂利の採取・運搬を目的に計画されたもので、のちには客車の常時運転も行なわれたが、武蔵野線の開通と共にその存在意味を失ない、一九七六(昭和五一)年九月に廃線となった。
ついで大正期に入ると、京王電気軌道が調布・府中・八王子方面の発展をみこして鉄道を敷設し、一九一六(大正五)年一〇月には新宿〜府中間が開通した。
所要時間は約六〇分、運賃はおとな片道三六銭(大正末)であった。
この現在の京王線の開通により府中市域は初めて都心部と直結されるようになり、その後の発展の大きなステップとなった。
なお府中から西は、玉南電気鉄道という別会社により鉄道の敷設が行なわれ、一九二五(大正一四)年三月に府中〜東八王子間が開通、その後両会社は合併して二八(昭和三)年五月に新宿〜東八王子間か直通するにいたり、こんにちの京王線の原型が完成したのである。
一九二二(大正一一)年六月、武蔵境〜是政間が全通した多摩鉄道も、多摩川の砂利の採取と輸送を主目的とした鉄道であったが、二七(昭和二)年四月に西武鉄道に買収され、現在では西武多摩川線と改称されている。
また南武鉄道(のちの国鉄南武線)も、当初は多摩川の砂利の採取・運搬を主目的として川崎〜大丸(稲城市)間の敷設が計画されたが、青梅地方の石灰石を立川経由で直接川崎の工場へ運搬したいという浅野セメントの要望もあって、結局立川まで延長されることとなり、一九二九(昭和四)年一二月に全通したもので、太平洋戦争中の四四(昭和一九)年に国有鉄道となり現在にいたっている。 |

南武鉄道の開通 開設後言もない府中本町駅
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東京から来た諸施設
このように府中市域を通る鉄道の多くは、首都東京の膨張による建設用の砂利の運搬等を当初の目的として敷設されたことが特色である。
一方多磨霊園・東京競馬場・府中刑務所などは、人口の集中によって狭くなった東京市内からいわば追出されて、府中市域へ移ってきたものである。
東京市は、飽和状態となった市内の墓地整理のため、郊外に大規模な公園墓地の造成を計画、多磨・小金井両村にまたがる三〇万坪(約九九ヘクタール)の地を買収して造成工事に着手し、一九二三(大正一二)年四月に開設したのが多磨墓地である。
多磨墓地は一九三五(昭和一〇)年に多磨霊園と改称されると共に、敷地も拡張され、現在では三〇万余の霊が眠っている。

開設直後の東京競馬場 |

明星実務学校の開校 |
また東京競馬倶楽部の目黒競馬場も、周囲の都市化により大正末年には手ぜまとなったため、いくつかの移転先を物色したのち、結局自然条件にめぐまれた府中への移転となったものであるが、これは歳入の増加をみこんだ府中町が町をあげて誘致運動を行たった結果でもあった。
一九一六(大正五)年には大国魂神社の南裏ハケ下の地二四万坪(約七九・三ヘクタール)の買収がほぼ終了、三二(昭和七)年三月には一周二一〇〇メートルの新競馬場の建設が始り、翌年一一月に竣工、同月一八日に第一回のレースが開催された。
このほか、巣鴨刑務所が、府中町民の賛否両論のうずまくなかで府中への移転がきまり、一九二四(大正一三)年九月に起工、一〇年余ののち三五(昭和一〇)年三月に完成をみている。
またこの時期には産業の発展に伴い各方面からより高度の教育への要望が高まり、各地に上級学校が設けられた。
府中町においても、一九〇九(明治四二)年四月、高等小学校卒業者を対象に修学年限二年の北多摩郡立農業学校(のちの府中農蚕学校、現在の都立農業高校)が設置されたが、二三(大正一二)年には明星実務学校(明星学園)が、さらに三五(昭和一〇)年には駒場の東京高等農林学校(現在の東京農工大学)が府中に移転し、東大農学部の演習林を切開いて建設された新校舎で授業が開始された。
こうしてこの時期に、現在府中市域にみられる大規模施設は、その後まもなくして進出する大工場をのぞき、一通り出そろったのであるが、これらはいずれも市域の辺陬(へんすう)地区を造成してつくられたものであり、以後市域の景観は一変することとなった。
地主制と小作人
江戸時代後期にたり、農村においても商品経済が普及すると、農民層の分解がすすみ、貧窮化した農民は自らの土地の所有権を失って小作人となる一方、富裕となった農民はそれらの土地を集めて耕作させ、そこから小作料をとる地主となっていった。
明治時代に入り、こうした地主層は地租改正さらに一八八〇年代の不況をへて一層進展し、全耕作地のうち小作地のしめる割合は一八八四(明治一七)年の三五・五パーセントから、八八(明治二一)年には三九・五パーセント、一九〇八(明治四一)年には四五・五パーセントへと増大した。
当時地主は、全収穫物の五〇〜七〇パーセントにもおよぶ高い小作料を現物で徴収しており、一〇〜三〇町歩(約一〇〜三○ヘクタール)の耕地を所有していれば、その地代だけで、ゆうゆう生活することができたといわれる。
なお府中市域の多磨村の一九一四(大正三)年の小作地の割合をみると、水田は全体の七六・八パーセット、畑は七五・四パーセントをしめており、じつに全体の四分の三が小作地という有様であった。
こうした封建的な地主・小作の関係は、小作農の生活向上を妨害すると共に、農業の近代化の妨げとなり、農村の停滞の大きな原因となったのである。
このような苛酷な地主制の下で呻吟(しんぎん)していた小作人たちが、一致協力して地主に対抗し、条件の改善を迫る“小作争議”は早くからみられたが、それらの多くは不作や災害の時に一時的な小作料の減免を求める程度のものにすぎなかった。
しかし大正期に入ると、こうした小作争議は地主対小作という階級闘争の形をとり、小作農たちは組合を結成し、組織的で幅の広い農民運動を地主に対して展開するようになった。
三多摩最初の農民組合
そこでつぎに、府中市域における地主制と農民運動の一端をみていこう。
一九二一(大正一〇)年一二月、府中町多磨村小作組合が結成されたが、これが三多摩における最初の農民組合であった。
この組合結成の契機となったのは、同年一〇月に起った小作争議であった。
当時芝間地区と下河原地区(共に現在南町)の小作人たちは、おりからの不作のため小作料の減免を求めて団結し、府中本町の矢部甚五を代表として、その年の小作料を一俵につき一斗の割で減免するよう地主側に要求した。
これに対して地主側は、一俵につき四升まで引くことに同意したが、それ以上は譲歩せず、以後問題は紛糾するところとなった。
結局、この一件は、府中の新聞記者団が仲裁に入り、双方の中間をとって一俵につき七升五合引きということで落着となったが、小作人たちはこれを機に組合をつくって団結することをきめ、一二月一日結成にこぎつけたのである。 |

矢部甚五
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この小作組合は、その「小作組合申合規約」によると、事務所を会長の矢部甚五宅に置き、小作人と自作兼小作人によって組織し、農事の改良・発達、地主と小作人との協調を主眼として、小作条件の当不当を審議し、その改善をはかり、生活の安定を期することを目的とするものであった。
この目的を達成するため、
@地主が不当な小作料の引きあげをした時は一致協力して適切な対策を諧ずる、
A天災等により減収の場合は、地主に対して小作料の引きさげ交渉をする、
B耕地にかかわる橋・道路の修覆、堀さらに排水等を完全にする、などを行なうことを定めている。
会員は府中町と多磨村是政を中心に四八〇名であった。
この小作組合の結成とその活躍の影響は小さくなく、その後、北多摩郡の保谷村(保谷市)中神村(昭島市)、南多摩郡の小宮村・由木村(共に八王子市)・鶴川村(町田市)・多摩村(多摩市)などの村々に、あいついで小作人による農民組合が結成され、一九二六(大正一五)年にはこれらが合同して三多摩農民組合か結成された。
三多摩農民組合は、会長に府中O矢部甚五を選び、耕作権の確立、小作料の軽減、自転車税・荷車税の撤廃、不在俎主に特別税付加、農業債務の処理、電灯料の値下げ、生活必需品の消費税の撤廃等を政策にかかげて活動を行なったが、まもなく北沢新次郎・平野力三らを中心とする全国組織、全日本農民組合同盟に加盟した。
さて、三多摩の農民組合運動の指導者矢部甚五は、一九二四(大正一三)年六月、立憲農民党の推薦を得て北多摩一区から東京府会議員選挙に立候補し、さらに二八(昭和三)年二月には日本最初の普通選挙である第一六回衆議院議員選挙にも日本農民党の公認候補として立候補し、無産政党候補としておおいに健闘したが、残念ながら当選することはできなかった。
その後甚五は、東京競馬場の誘致にあたっても、小作地を失う農民の補償問題に配慮しつつその実現に尽力しかが、実現のメドもたたない一九二九(昭和四)年一二月、四七歳の若さで急逝したのである。
死後一年たった一九三〇(昭和五)年一二月、農民組合員と友人同志により、その業績を顕彰した記念碑が、菩提寺である本町の安養寺境内に建立された。
繭から野菜へ
一九二九(昭和四)年一〇月二四目、ニューヨーク・ウォール街の株式大暴落に端を発した大恐慌は、翌年三月以降本格的に日本経済を巻きこみ、昭和恐慌として日本全体を不景気のドン底に落しこんだが、なかでも深刻な打撃をうけたのは農村であった。
それはなによりも農産物価格の暴落という形で農業経営を直撃したのである。
すなわちこの恐慌の間、一般に米価は二分の一、繭価は三分の一にまで低落して、農民経済は未曾有の窮乏状態となり、“米と繭”に依存する日本農業は構造的危機におちいったのである。
このため東北の農村では娘の身売りや欠食児童が続出したり、各地で役場吏員や教員の俸給不払いが発生するなどの問題が生じた。
しかも米や繭といった農産物価格にくらべ、肥料・農具といった工業製品の価格はさほど低落せず、農業・工業両製品間の価格差は一層拡大して農家経営の負担を増大させた。
また不況による企業労働者の解雇による労働市場の減少は、多数の帰農者を生み、農村には過剰人口が集中して、恐慌は農家経済を破滅状態へと追いこんだのである。
市域の多磨村の場合、米と繭の価格の動きは右のグラフのとおりである。
すなわち農産物総価額の推移をみると、昭和に入ると徐々に低下しはじめ、二九三二(昭和七)年には二〇万三〇〇円(指数六〇)にまで落ちこむ。
翌年にはややもちなおすものの恐慌前の水準(一九二六年)には達せず、三四(昭和九)年には再び低落し、その後三年ほど数値は不明であるが、三八(昭和一三)年には水準(指数二一七)をこえている。
米と繭(春繭)の価格の動向もほぼ同様であるが、この二者の低落は他の農産物よりかなり顕著であった。 |

農産物価額の動き
1926 (大正15)〜38(昭和13)年の指数。
(『府中市史』より)
戦後は合成繊維の発達で、繭の需要がなくなった。
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とりわけ繭の凋落ぶりははなはだしく、一九三四(昭和九)年のドン底期には恐慌前の四分の一という有様であった。
そして農産物総価額が恐慌前の水準をこえた一九三八(昭和一三)年になっても、繭価は恐慌前の五割がやっとという惨状であった。
こうした状況のなかで、多磨村の農民は様々な努力をかさね、経営維持につとめたが、そのひとつが栽培作物の転換であった。
右の棒グラフは、同村における主要農産物構成比を恐慌前(一九二六=大正一五年)と恐慌後(一九三八=昭和一三年)とで比較したものである。
これをみると繭(養蚕)が四二パーセントから二二パーセントへと大幅に後退したかわりに、蔬菜類が急増し、またわずかながらも畜産の増加がみられる。
すなわち、多磨村ではこの恐慌を機に、“米と繭”から“米と繭と蔬菜”へと農業経営の転換が行なわれたのである。 |

主要農産物の変化 農村恐慌前後の
多磨村における農産物構成比の比較。
(『府中市史』より)
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そしてこれは不況からの脱出策であると共に、東京市という大都市をひかえた近郊農業への転換でもあった。
なお、同村の恐慌期における窮状の一端は、その村税納税率の低下にも現れている。
すなわち、一九二七(昭和二)年に八一・三パーセントであった納税率は年をおって低下し、三一(昭和六)年には五九・六パーセントまで低下して村政に大きな支障をきたすようになったのである。
これに対して多磨村では、翌年から各地区ごとに納税組合を設立して納税につとめ、まもなく滞納の減少に成功している。
こうした農村恐慌に対し、政府も一九三二(昭和七)年八月、いわゆる“救農議会”とよばれる第六三臨時議会を開くなどその対策を検討し、米価対策・負債整理対策・時局匡救(きょうきゅう)事業の三つを打出し農村経済復興をはかったが、十分な効果はあがらなかった。
こうして日本は、これ以後、農業を主とした未曾有の昭和恐慌からうけた大きな打撃による国民生活の疲弊・窮乏を解決するすべがないまま、その打解の道をひたすら近隣のアジア諸国への軍事進出へ求めていくことになるのである。
町の軍需工場化
日本は昭和恐慌による国民の窮乏化を背景に、軍部を中心に海外侵略への道をすすみ、一九三一(昭和六)年九月には“満州事変”、そして三七(昭和一二)年七月には“盧溝橋事件”を誘発してついに日中戦争へと突入し、国内は戦時体制下に入った。
これに伴い府中市域をはじめとする三多摩へも軍事施設や軍需工場が次々と進出し、地域の様相も大きく変化することとなった。
三多摩への軍需工場の進出は、従来機械工業の中心地である東京市の大森・蒲田、川崎・横浜などの京浜地区が、軍需産業の発展によってしだいに飽和状態になるにつれて、昭和の初め頃からみられるようになった。
ことに一九三五(昭和一〇)年以降になると、立川の陸軍航空工廠(こうしょう=国の工場)をはじめ、陸軍火薬廠(稲城市)・陸軍技術研究所(小平市)などの陸軍の技術関係諸機関があいついで開設され、大工場の移転・設立もあって、三多摩は兵器工場地帯化していった。
たとえば、一九三七(昭和一二)年には昭和飛行機株式会社(昭島市)・東京航空計器株式会社(狛江市)・中島飛行機株式会社(武蔵野市)、三八(昭和一三)年には航空化学工業株式会社(武蔵野市)、そして三九(昭和一四)年には東京自動車工業株式会社(日野市)がそれぞれ設立開業、それに付随して設けられた下請工場は数千を数えるという状態であった。
こうした動向のなかで、府中町の軍需工場化もすすんだのである。
府中町への軍事関係施設進出の皮切りとなったものは、一九三八(昭和一三)年に設置された陸軍燃料厰(のちの米軍府中基地、現在の航空自衛隊府中基地)である。
これは陸軍が航空機や自動車の燃料や潤滑油を確保するため設置した六一町歩(約六〇ヘクタール)にわたる燃料センターであった。
そして同じ年、株式会社日本製鋼所武蔵工場(日鋼町)の建設が始り、一九四〇(昭和一五)年五月に操業が開始された。
この工場は当初から軍の管理工場として成立し、生産する兵器の設計から生産管理まですべて軍の指示のもとに行なわれた。
当初は中型戦車の生産を行なっていたが、一九四三(昭和一八)年からは中型高射砲の生産へと転換された。
当時従業員は五〇〇〜六〇〇人であったが、のちには徴用された人々や動員学徒などが加わり、大平洋戦争末期には三〇〇〇人をようする大工場となっていた。
日本製鋼所についで一九四〇(昭和一五)年には東京芝浦電気の府中工場(東芝町)が設置され、翌年四月から操業が開始された。
その敷地は府中町と西府村にまたがって約一六万坪(約五三ヘクタール)にもなり、電気機関車・電鉄用品・電熱装置などの生産を行なった。
一九四三(昭和一八)年にはその車輛製造部門が分離されて東芝車輔製造所となったが、翌年一月には共に軍需会社に指定されて国の管理下に入った。
同年一一月の従業員は三五〇〇名、これに女子挺身隊・動員学徒・徴用者・府中刑務所の受刑者等を加えると総員は五三七〇名に達した。
一九四一(昭和一六)年一一月には、工場用地七万坪(約二三ヘクタール)を確保して日本小型飛行機株式会社(晴見町)が設立された。
ここでは軍の管理工場として大型グライダーの生産と飛行機の部品の試作を行ない、四〇〇〜五〇〇名の従業員をようしていたが、のちにはやはり徴用や女子挺身隊を加え一三〇〇名ほどに増加した。
このように大規模工場が隣接して設置された結果、戦争末期、府中町にはあわせて一万二〇〇〇〜三〇〇〇の工業従事者をかかえる一大工業地区が形成され、さらにその社宅や寮の建設とあいまって町の性格もいっきょに変貌をとげることとなった。
大正末年に七四八八(戸数一四九八)であった人口も、一九三五(昭和一〇)年には一万〇六五六(戸数二一八四)、四〇(昭和一五)年には一万六一四五(戸数二八二六)、そして四四(昭和一九)年には二万一五七八(戸数三六三〇)へと急増している。
これに伴い、多磨村の人口も一九三六(昭和一一)年の五九七〇(戸数九八七)から四四(昭和一九)年には七九六八(戸数一四二五)に、また西府村も同じく二五八九(戸数四二〇)から三七三九(戸数六九九)へと増加している。
なお戦時下には、一般の企業も軍需生産に転換を命じられ、ゴムひもや飾りひもを生産していた府中町の西野屋製紐(せいちゅう)工場も落下傘用のひもの生産に転換し、その子会社の府中細幅織物株式会社では防毒マスクの生産を行なった。
また多磨村押立の小勝花火店礼やはり軍の管理下に置かれ、花火のほか軍関係の火薬の生産を行なった。
日常生活への統制
戦争の拡大と長期化に伴い、日常の社会生活のなかでも、戦時体制の強化が必要とされた。
そこで一九三七(昭和一二)年、政府は国民精神総動員運動を起こし、国民精神の統一をはかったが、さらに翌年にはより徹底した措置として、戦時統制の基本法である国家総動員法を制定した。
これにより政府は労務・物資・賃金・物価・施設など国民生活の全般にわたり、議会の誤認なしに統制・徴用できることとなった。
そしてこれ以後、国民生活のあらゆる面で統制が急ピッチですすみ、軍需品の優先的確保がはかられた。
すなわち、軍需産業には輸入資材や資金が集中的に割当られ、一九三九(昭和一四)年には国民徴用令により一般国民も軍需産業に動員されるようにたった。
一方民吉品の生産や輪入はきびしく制限され、中小企業は強制的に整理されていった。
そして国民に対しては“ぜいたくは敵だ”というスローガンのもとに生活のきりつめが強要された。
一九三八(昭和一三)年六月、国内向けの綿製品の生産・販売が禁止され、翌年からは大豆・味噌・食肉・青物・木炭など、統制をうける生活必需品が急増し、四〇(昭和一五)年には砂糖・マッチの切符刊かしかれた。
さらに一九四一(昭和一六)年には主食である米が配給制となり、ついで衣類も切符制となった。
これらの統制は、町村常会・部落常会そして隣り組という隣保班を通じて行なわれ、生活の隅々までその徹底がはかられたのである。
また農村については、一九四〇(昭和一五)年から米の供出制が実施されていたが、四二(昭和一七)年二月には食糧管理法が制定され、生産物の供出や生産資材の配給等、国家管理がいよいよ強化され、食糧の増床がはかられたが、労働力の不足や生産資材の不足のため、生産はむしろ減少し、食糧難は深刻となっていった。
いまここで、一九四四(昭和一九)年の府中町事務報告書から戦争末期の生活の一端をうかがってみょう。
まず、町の主な行事をみると、一月一日は大国魂神社で各種団体・各町内会・隣り組等が参加して新年町民奉祝会、二月一一日は同じく紀元節奉祝会、このとき飛行機の献納運動が提案されて満場一致で決定、九月に“武蔵府中号”が海軍省に献納された。
三月一八日から二二日までは府中町御聖蹟会議室(宮町一丁目の明治天皇行在(あんざい)所内)で第三回総力戦講座を開講、四月二九日は天長節祝賀式、九月二一日から一〇日間は各町内会・隣り組は調布飛行場に出勤して第一回軍事作業勤労奉仕、出場人員は九八四名であった。
一〇月三〇日は明治節にあたり全町九戸は清掃運動実施、一一月二三日は大国魂神社で新穀感謝祭、一一月二〇日から一〇日間は調布飛行場へ第二回軍事作業奉仕、出場人員は八五五名。
そして一二月八日は、太平洋戦争開戦の大詔奉戴日として、警防団・町内会等が連合して防空待避壕構築整備作業を実施している。
また、一九四一(昭和一六)年四月から、小学校は国民学校と改称されたが、府中国民学校のこの年の業績報告をみると、五月三〇日には学校工場を開設して小型飛行機の部品製作を開始した。 |

隣り組の消防隊(宮西町)
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八月五日から二五日にかけては東京の赤坂区乃木小学校の児童二〇五名の集団疎開をうけいれている。
九月一日には高等科二年の男子生徒九五名が陸軍燃料本部に、一一月二一日には高等科二年の女子生徒加西野屋製紐工場に、また一一月三〇日には高等科一年の男子生徒の半分が新潟鉄工の工場に、それぞれ通年で勤労動員の命令がくだっている。
このほか生徒は主として食糧の生産・増産のために様々な協力をさせられたが、三月一三日から二二日までのベー万六〇九〇人が麦踏みに、また四月一九日には医薬用の空ビン回収(三二五〇本回収)に、六月二日には草木灰集め(一五一貫余)に、七月六・七日は水田のズイムシ駆除作業に、七月六日から二○日には堆肥用の草刈り(三〇〇〇貫)に、それぞれ従事している。さらにこの一か年のうちに、桑皮二〇五〇貫、軍用草一四一〇貫、ドングリ三〇七五貫、茶の実一六○貫、乾燥甘藷蔓四七六貫等の供出を行なっている。
一般人の徴用や勤労奉仕もあいつぎ、この年の国民徴用令による応召者は九九名、女子挺身隊への応召者は四三名、まよ調布町東部第一一五部隊への勤労奉仕は三回、あわせてのべ九六三名におよんでいる。
また一月二八日と四月一〇日には金属回収も行なわれ、警鐘台七基分総トン数一三トン余、他に銅五六キロ余が回収されている。
2 戦後復興と都市化 top
敗戦から復興
無条件降伏という悲惨な現実をかって経験したことのない日本国民として、この冷厳な終戦による人心の動揺は著しく、物資の欠乏と共に道徳は全く乱れ、巷には流言蜚語がしきりに飛び、混乱の中にアメリカ軍は九月に進駐し、府中においては陸軍燃料廠(しょう)跡に司令部を置き、MPは私達のような家まで家宅捜索に何回も来た。
靴をはいた土足のままで畳の室を歩き廻ってば、掉で天井をつつき、天井裏に刀剣でも隠しているのではないかと調べているらしかった。 |
府中町の医師黒田要氏は『終戦後の府中町と私』で当時の状況をこのように話している。
府中市域はさいわいに戦災をまぬがれたため、他の被災地のような住宅難にみまわれることはなかったが、人々は戦争中を上まわる食糧難に苦しんだ。
一番困ったのはやはり食糧であった。実際、終戦後の食糧難はひどいものだった。
終戦前よりかえって終戦後の方が主食等の配給が悪くなって、路傍の草まで食べた人は沢山あった。
従って到るところ栄養失調者ばかりで気分が衰え、駅のホームで電車を待っている間も立っていることがつらく、大部分の者はしゃがんで待っていたものだ。
……私のところは外科が専門なのに、それでも全患者の三割ぐらいは栄養朱調症の患者だった。(同書) |
このため、各家庭の主婦はリュックサックを背おい、付近の農村地帯に米・芋・野菜等の買出しに出かけたが、一方においてヤミ物資が横行し、一部の者は暴利をむさばり、ふところをこやしていた。
さて、戦時中軍需品の生産を行なっていた府中の各工場も、いっせいに民需品生産への切換えをはかった。
このうち日本製鋼所には一九四五(昭和二〇)年九月連合軍が進駐し、同工場敷地の四分の三を接収してここを米軍の兵器廠(しょう)として使用した。
ついで翌年一一月にはビクターオート株式会社を設立させ、軍の車輛の修理を行なわせることとなった(一九六一年閉鎖)。
そして日本製鋼所府中工場自体は、脱穀機・石油機械の生産を行なっており、一九四九(昭和二四)年の従業員数は四〇七名であった。
また日本小型飛行機株式会社は終戦の年の一〇月、府中製作所と改称して、かっての飛行機部品の生産から、家具等の各種木製品の生産へと転換をはかったが、一九四九(昭和二四)年に解散した。
東芝電気府中工場と東芝車輛府中工場は、もともと製造品が日本製鋼所のように純武器ではなく、電気機器と車輛であったため、事業の切換えは比較的容易に行なわれた。
戦後の復興計画に乗って生産も順調にすすみ、一九四九(昭和二四)年には前者は一〇六七名、後者は一四七七名の従業員をようするまでになった。その後ドッジラインの実施により、各企業とも合理化が促進され、両工場でも大幅な人員整理が行なわれたが、翌一九五〇(昭和二五)年になり東芝電気は東芝車輛を合併するところとなった。
一九四九(昭和二四)年の「府中町工場一覧」によると、
@機械器具製造工場が前記の四社のほか三一、従業員はあわせて六一八三名、
A紡績・木製品関係工場が日吉紡績工場・西野屋製紐所ほか一一、従業員はあわせて一一七名余、
B食品関係工場が武蔵製粉・共同産業ほか一一、従業員はあわせて一六五名となっている。
このように戦災をまぬがれた府中町では、その工業は比較的早く復興し、生産も一応の軌道にのったものと思われ、町の職業別人口をみても、一九四八(昭和二三)年の国勢調査によると、工業人口は全体の三九・四パーセントをしめ、農業人口の一二・パーセント、商業人口の七・八パーセントを大きく上まわっている。
しかし工業生産が本格的に復興し成長へと向かうのは、やはり朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)による軍需景気をまたねばならなかった。
新しい地方自治
こうした戦後の混乱から復興への過程で、一方では占領軍の指導のもとに日本の民主化が強力に推進され、各方面にわたり大規模な改革が行なわれていった。
それはまず軍隊の解体、戦争責任の追及と戦争協力者の公職追放、弾圧法規の廃止等による軍国主義・国家主義の払拭(ふっしょく)にはじまり、財閥解体・独占禁止等の経済面での民主化、そして六・三・三制の教育制度の導入や労働組合の結成促進等におよぶもので、その基本精神は一九四六(昭和二一)年一一月三日公布された日本国憲法に凝縮されたのである。
府中市域においても、一九四七(昭和二二)年四月には、初めて自治体首長の公選が行なわれ、府中町長に森谷森三氏、多磨村長に糟谷蜜氏、西府村長に松村敬一郎氏が当選して新たな地方自治の第一歩をふみだした。
また従来とかく国家権力の手先として国民の人権を蹂躪しがちであった警察と消防は、共に国家から独立した自治体独自の運営による機関として発足し、学校教育の面では戦争下の国民学校が小学校と改称されたほか、新設された修学年数三年の新制中学校も、当初は小学校の校舎を借り、二部授業という形ではあったが曲がりなりにもスタートした。
またこうした学校をはじめ教育を監督する行政機関として、町村長から独立した教育委員会が設置されたが、その委員はやはり公選によって選ばれることとなった。
これらのうち、自治体による警察や消防の運営は、経済的基盤の弱さのためその維持が困難となったためまもなく廃止され、教育委員の公選制も、政治色が濃くなり弊害が著しくなったという理由で中止となり、町村長による任命制となった。
このように若干の試行錯誤を繰返しながらも、戦後の民主化は占領軍の強力な指導もあって徐々に国民の間に浸透していった。
農村の民主化
このような一連の戦後の民主化政策のなかで、農村の社会構造、そして農民生活に根本的な大変革をもたらしたのが農地改革である。
農地改革は、政府が地主からその小作地を強制的に買収し、それを安価で小作人に売りわたして自作農の創設をはかったもので、それは江戸時代後期以来日本の農村に支配的であった半封建的な地主制――とくに寄生地主制(小作農民から小作料を取るだけで、自らは耕作しない地主)――に終止符を打つ画期的なものであった。
この農地改革は、そもそも劣悪な条件下に生活する小作農民層が、全体主義下の日本の軍隊や、日本資本主義の底辺にいた低賃金労働者を生み出す基盤であると考え、その基盤を除去しようとする占領軍の日本民主化の意図から実施されたものである。
しかし、すでに第一次大戦以後、小作農による農民運動は活発となっており、戦時下においては食糧増産の見地からの小作農の耕作権保護の動きは、伝統的な地主制をつき崩しつつあった。
さらに戦後の食糧難は、戦時下にもまして食糧増産を必要たらしめ、このことが実際に農地を耕作する農民の地位を安定させ、生産意欲を喚起する必要にせまられていた。
こうして農地改革は、占領軍の意図にもとづきつつも、改革の方向にプラスする様々な当時の状態が、思いきった処置を断行された要因となったのである。
改革の実施にあたっては、まず各市町村に農地委員会を設置して、これを事業の実施機関とした。
委員会は小作農5・地主3・自作農2の割合で構成され、委員は公選であった。
改革の対象となった土地は、不在地主が所有する全貸付地、また在村地主の場合は保有地一町歩(約一ヘクタール)をこえる貸付地で、これを政府が強制的に買収して、その土地を耕作する小作農に売りわたされた。土地は農地のほか宅地や採草地なども相当と認められた時は買収されたが、山林は対象外とされた。
その買収価格は、水田は賃貸価格の四〇倍、畑は四八倍で、反あたり価格は全国平均で田七六〇円、畑四五〇円となっており、ほとんど無償に近い低価格で行なわれた。
こうして全国にわたって実施された農地改革は、一九五〇(昭和二五)年夏には一応完了し、改革前に全耕地の約四〇パーセントをしめていた小作地は一〇パーセント以下となり、小作農家戸数も二七パーセントからわずか五パーセントヘと減少するという成果をあげたのである。
市域の農地改革
さて、市域の多磨・西府両村の場合をみると、両村とも一九四六(昭和二一)年一二月二一日に農地委員の選挙が行なわれてそれぞれ一〇名の委員が選出され、会長には本多新平氏(多磨村)と士方平右衛門氏(西府村)が就任している。
こうしてスタートをきった両村の農地委員会は、まず買収計画を作成することから始めたが、それには村内の耕地の一筆ごとの面積・所有者・耕作者・作付状況等の詳細か調査が必要であり、これらの調査には各部落から選ばれた部落補助員があたった。
当時の両村の農耕地の所有状況をみると、多磨村では村内総耕地面積が三三二町歩(約三二九ヘクタール)、そのうち自作地は九八町歩(約九七ヘクタール)、小作地は二三四町歩(約二三二ヘクタール)で、小作地のしめる割合は七〇パーセント、一方西府村は総耕地面積二九九町歩(約二九七ヘクタール)、自作地九九町歩(約九八ヘクタール)、小作地二〇〇町歩(約一九八ヘクタール)で、小作地率は六七パーセントであった。
両村における農地改革は、一九四七(昭和二二)年七月、不在地主の農地買収から開始され、一部の地主の抵抗など若干のトラブルがあったものの、多磨村では五〇(昭和二五)年三月、西府村では同年七月には完了をみた。
その結果、多磨村ではニー七町歩(約二一五ヘクタール)、西府村では一七八町歩(約一七六ヘクタール)が地主の手から小作農に解放され、多数の自作農が誕生したのである。
小作地の解放率は多磨村で九三パーセント、西府村で八九パーセントであった。
こうして府中市域においても、江戸時代以来支配的であった地主制は解体して、とかく一部の地主によって牛耳(ぎゅうじ)られがちであった古い村は、経済的にも、身分的にも自由で独立した自作農による新しい民主的な農村へと変貌をとげたのである。
また戦時中、戦時強制団体として上から設立させられた各村の農業会も、一九四八(昭和二三)年ごろには解散し、これに代って、「自由の原則」[農民の主体制の確立]「生産事業の強化」「行政監督の制限」の四原則をかかげ、“耕作農民による自主的協同組織”を目ざす農業協同組合が成立したのである。
このように、戦後の農村は従来とは全くよそおいを新たにして出発したのであるが、米作を中心とし、家族の集約労働による小規模経営という基本的性格は変ることはなかった。
このため、その後の経済成長期においては、商工業との生産性のギャップはますます拡大し、農業経営はゆきづまりをみせるのであった。

初期の市議会風景 1955 (昭和30)年ごろ。 |

府中市の中心部 昭和30年代。
周辺部への市街化がはじまる直前の風景。 |
市制施行と人口の膨張
戦後、民主化の重要な柱として行なわれた地方制度の改革により、市町村は大幅な自治権を獲得することとなった。
それに伴い各自治体の重要性はとみにまし、その行政能力の向上が強く要望されるようになった。
政府は、自治体の行政の能率化と経費の節減をはかるためには、町村規模の拡大が必要ごとし、町村合併促進法を公布した。
この法律は一九五三(昭和二八)年一〇月から五六(昭和三一)年九月までの三か年の時限立法であり、全国の町村の数をほぼ三分の一にへらそうとするものであった。
そこで府中町では、かって一九三九(昭和一四)年、両隣の多磨・西府両村と合併して府中都市計画区域を形成することに決定したといういきさつもあったので、この法律が施行されるとまもなく、両村に合併の申入れを行なったところ、両村とも全面的に合意した。
こうして一町二か村は、一九五四(昭和二九)年四月一日、対等合併し、市制を施行したのである。
合併後、旧府中町役場を市庁舎とすると共に、旧西府村役場は西部出張所、旧多磨村役場は東部出張所にそれぞれあてられた。
ちなみに、合併前の一九五三(昭和二八)年現在で、府中町は人口三万二三五九(世帯数七二八一)、多磨村は人口一万〇三六〇(同二〇五三)、西府村は人口六三四七 (同一〇九八)で、人口比は六六対二一対一三であった。
市制施行後の府中市は、おりからの日本経済の高度成長のもと、首都東京の人口膨脹によるべッドタウン化と、大規模工場進出により、都市化が急速に進展し、それに伴い農業は大きく減退していった。
いま市制施行以後の人口の動向をみると、一九五四(昭和二九)年の市制施行時五万〇二〇九であった人口は、一〇年後の六三(昭和三八)年には倍増して一〇万を突破、六八(昭和四三)年には一五万をこえ、二〇年経過した七四(昭和四九)年には一八万に達した。
その後一九七〇年代の後半に入るとその増加率はにぶり、以後毎年一パーセント前後の増加率となり、市制三〇周年をむかえた一九八四(昭和五九)年に二〇万に達したのである。
産業都市と生活都市
この間、農家数は一九五四(昭和二九)年の一三四五戸から、八一(昭和五六)年には七二二戸とほぼ半減したが、とくに専業農家にいたっては五六七戸から一〇分の一以下の四三戸となっており、市全体の人口にしめる農家人口の比率は、八一年ではすでに二パーセントを割っている。
また一九五四(昭和二九)年に八七七・四九ヘクタールあった耕地面積も、八一(昭和五六)年にはその三分の一以下の二八三・二四ヘクタールに減少し、農家は、従来の米穀中心農業から、果樹・花卉・植木・椎タケ等の栽培や販売など、都市化に応じた農業経営へと転換をはかっている。
これにくらべると商工業の発展は著しく、商店数は一九五四(昭和二九)年の七四五から、七九(昭和五二)年には三二五六へと四・四倍に、従業者数もこの間二〇〇五名から一万三〇九五名へと六・五倍に増加している。商店のなかでは卸売りと飲食店の増加が目だち、前者は一九八一(昭和五六)年で三八〇、後者は九七四となっており、共に市制施行時の一〇倍を上まわっている。
こうした商店の増加は、主として市内の昼間・夜間の人口の増加に伴うものであるが、工業の発展は工場誘致など、市の積極的な運動に負うところが大であった。
すなわち府中市は、一九五八(昭和三三)年四月「東京都府中市工場設置奨励に関する条例」(一九六六年三月までの時限立法)を公布して優良工場の誘致につとめ、その結果、サントリービール武蔵野工場(一九六三年)・五藤光学研究所(同)・日本電気府中事業所(一九六四年)などの大工場が府中に進出し、工業都市化が大きく進展したのである。
こうして市制施行当時(一九五四年)工場数六五、従事者数五一一一人であったものが、一九八〇(昭和五五)年には工場数四一三、従業者数二万二一七一名まで増加をみせた。
この間、一九六一(昭和三六)年二月には府中市商店連合会と府中市工業会を母体として府中市商工会が創立され、さらに七〇(昭和四五)年四月にはむさし商工会議所の発足をみた。
さて、市制施行後二〇年間、毎年大幅に増加をつづけた人口・商店、そして工場も、一七七〇(昭和四五)年代の半ばをすぎるとようやくその増加率がにぶり、以後は横ばいないし漸増といった状態が続いている。
それは日本経済全体の高度成長期から低成長安定期に移行したのと符合するものでもあるが、一方において、市としても、ゆとりある町づくりをめざして大型団地の進出を抑制するなど、独自の措置を講じたためでもあった。
この頃になると、がっての高度成長時代の“ツケ”すなわちマイナス面が社会の各方面で顕在化し、とくに公害や自然破壊が大きな問題となり、人々は改めて自らの周囲に目を向けるようになった。
そしてこの間に失われたものの大きさを痛感すると共に、残された自然や文化遺産の大切さをしみじみと認識するようになった。
こうした思いは、古い歴史をもち、ゆたかな自然にめぐまれながら、急速な都市化をとげた府中市の住民においては、一層痛切であったにちがいない。
一九に○年代も半ばをすぎると、住民のこうした意識、そしてそれに基づく要望をうけ、市としても“住みたくなる町”さらには“安らぎのある町”を標語としてかかげ、経済活動と生活環境の調和のとれた町づくりにつとめるようになった。
そしてこれを実現すること――すなわち将来への町づくりが、市民全体の課題であろう。
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