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五章 近世後期の府中

 1 六所宮とその祭礼 top


徳川家康の社領寄進状(大国魂神社蔵)

 五〇〇石の社領
 府中六所宮は一五九一(天正一九)年一一月、徳川家康から社領として五○○石の地を寄進された。
 これは徳川氏が関東へ入部した翌年のことであった。


六所宮の社領

 この五〇○石という社領は、当時としては武蔵国内では最大級のもので、同じ武蔵国の代表的な神社である大宮市の氷川神社の社領が三〇〇石、秩父市の妙見宮(秩父神社)が五七石、御嶽神社(青梅市)や神田明神(都内千代田区)が三〇石であったのをみれば、いかに大きなものであったかがわかろう。
 この五○○石の社領のほとんどは府中領の八幡宿という村落、すなわち現町名でいえば八幡町と緑町、そして宮町二〜三丁日と日吉町の一部にあたる地域であった。
 左の地図によって具体的にみると、六所宮境内の東に接して神主邸があり、その南側ハケ下が御供田(神前にそなえる米を収穫する田)、さらにその東ヘハケぞいに社領の水田がひろがっていた。
 社領の畑は、甲州道中の北側の台地上にあり、ケヤキ並木の東側が府中三町との入組みの畑、小金井街道から東が一円の社領畑であった。
 また神社境内の左右に社中すなわち社家・社僧の屋敷が並び、神主邸に接して京所という地区に小役人(社役人)の屋敷があった。
 このほか、八幡宿から南へ少し離れた是政村にも一部社領があり、飛地となっていた。
 こうした神領の総反別(耕地面積)は、延宝の検地帳によると一一二町二反歩余(約一一二ヘクタール)で、このうち水田はわずか一六パーセントにすぎず、八〇パーセント近くが畑であった。

 社領農民の負担
 五〇〇作大社領は、あとで述べるように、神主以下の神職に配分されており、彼らは社頭の神事に勤仕することを職務としながら、一方において社領内の支配層として神社の運営にあたったのである。
 五〇〇石のうち、その約六割は神主領であり、これに禰宜(ねぎ、一家)・社家(しゃけ、四家)・社僧(七寺)からなる社中の分をあわせると全体の九割をこすが、これを社領内の約七〇戸の農平が耕作していた。
 さてこうした社領の農民の負担はどのようなものであっただろう。
 全体の六割をしめる神主領についてみると、まず一六五八(万治元)年の「年貢取立帳」によると、当時農民のおさめる年貢は、米・もち米・金銭のほか、麦・春米・ごま・大豆・荏(え)・粟・蕎麦・小豆・ぬか等がみえ、その多様さにおどろかされる。
 上納品目は、あわせて一二種類にのぼっており、野菜をのぞき田畑作物のほとんどを網羅している。
 そしてこれらは米・金銭以外は卜ずれも定額(量)となっており、どの百姓も同じ筮をおさめている。
 これが享保期(一七一六〜三六)年になると、神主領でも定免制が採用され、納高欧米一九八俵余(一俵三斗五升入)と金一〇両・銭五〇貫文ほどとなっているが、やはりこのほか大豆・大麦・荏・ごま・小豆・粟・そば・ぬかの八品目が加わっている。
 その後、こうした雑穀類は種類・量ともしだいに減少するが、餅米・大豆・大麦・荏・小豆・ごまの六種の現物納は幕末までつづいた。
 また、神主領の兔率(年貢率)は、その初期の史冊がなくてわからないが、享保期には田方が五六・九パーセント、畑方は四一・七パーセントであり、私領のつねとして、周囲の幕府領の村々の率よりはいくぶん高いものであった。
 神主領にかぎらず社領の農民には、このほか神社あるいは神主のために様々な労役が課されており、この点が他の幕府領の農民とは大きく異なるところであった。
 たとえば一八三五(天保六)年を例にとると、神主出府(江戸に行くこと)のさいの駕籠人足や鑓持ち、婚礼荷物の運び人足等の御伝馬人足として六〇人と馬五疋、神主邸のくねゆい(垣根づくり)や井戸掘手伝・米搗・佐官手伝等の本役人足として一六四人、御供田の種まきや田草とり・稗ぬき・畔ぬり等の内役として八八人、神社の行事にともなう神楽殿懸げや形代流し、そして天水桶水汲み等の御宮役人足として一〇四人、月二回の御掃除人足として一四五人、座頭の手引きや病人の手助け等送り物人足として三一人、そして薪木の運送等のための馬役扣(ひかえ)が五九疋であり、あわせてのべ五九二人・馬六四疋が課されている。
 そしてこのほか五月の大祭には多くの農民が警備人足として動員されるのを常としていた。
 このように六所宮社領は、神主を中心とする神職によって運営される神社を領主とあおぐ特殊な状況のもとにあるため、すでに他の幕府領や大名・旗本領の村々ではとうにみられなくなってしまった米以外の多種類の現物による年貢の上納、そして年にのべ五〇〇人をこす様々な労役負担といった中世の在地領主にみられる課役が、江戸時代を通じて色濃く残っていた。

 神職と社僧
 では近世の府中六所宮は、どのような人々によって運営されていたのであろうか。
 まず神社の代表者はいうまでもなく神主である。
 これは代々猿渡(さわたり)氏が世襲し、神領五〇〇石のうち、三一九石余という圧倒的な配当高をしめていた。
 神主猿渡氏の下に禰宜(ねぎ)・社家(しゃけ)・社僧があり、社中と総称されていたが、それらは次のとおりである。

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  禰宜 織田氏     高三六石七斗八升六合
  社家 佐野氏     高一二石四斗六升八合
  ”  鹿嶋(島)田氏  高二三石四斗二升六合
  ”  中善寺氏     高一一石四斗一升八合
  ”  田村氏      高 四石八斗七升
  社僧 惣行寺     高一一石二斗五升三合
  ”  明王院      高 八石四斗
  ”  円福寺      高一八石二合
  ”  花光院      高 七石九斗
  ”  妙法寺      高 八石八斗九升七合
  ”  安楽院      高 六石五斗二升二合
  ”  泉蔵寺      高 七石二斗五升一合
 このうち神主につぐ立場にある禰宜(ねぎ)の織田氏は、当時は神主猿渡家の分家であり、中世以来の織田氏が退転(中絶すること)した跡役をついだものである。
 次の社家は別名庁官ともいい、かっての国衙の・在庁官人の系譜をひくといにわれ、古い家柄をほこっていた。
 社僧は七か寺あり、惣行寺が一蕩(先任の僧)としてもっとも格式が高く、以下明王院・円福寺・花光院・妙法寺・安楽院という序列があり、泉蔵寺は「配巻」という肩書で、以上の六か寺より一段下位に置かれていた。


江戸後期の六所宮(『武蔵名勝図会』)

 これら七か寺は独立した寺院ではなく六所宮を離れて単独で仏事等を行なうことなく、あくまで神社付属の社僧として神前で祈祷を行ない社務にたずさわったのであるがいずれも府中本町の天台宗安養寺の末寺であった。
 この安養寺は六所宮の別当寺ではなく、直接六所宮の社務や神事に関与することはなかったが、社僧七か寺の本寺であったから、当然これら社僧の任免権をもっていた。
 このため社僧の身分支配やその配当地の物成(収穫あるいは年貢)の処分については、神主の管理権と抵触することがあり、事実しばしば争論を起こしたのである。
 なお安養寺は神主はじめ禰宜・社家(二家をのぞく)の菩提寺でもあった。
 これら神主・社中に対しては、次に述べる小役人や社領百姓にその掟証文等のなかで繰返し繰返し“無礼なきよう”命じており、支配者層として明確に身分的差別を設けていた。
 この社中の下に小役人(神人・社人ないし社役人ともよばれる)がおり、やはりわずかではあるが配当地をもらい、様々な定められた役目をはたしていたが、それは右の表のとおりである。


六所宮の社役人

 これによれば小役人は二八名であるが、役名やその員数等が史料によってかなり相違があり、そのうえ一人で数役をかねることもあり、必ずしも一定したものではなかったようである。
 なお『新編武蔵風土記稿』では三五人と記されている。
 このうち御膳番(ごぜんばん)兼神楽(かぐら)役と炊役、そして八乙女(やおとめ)役までの者は、年中のほとんどの神事に勤仕するいわば常勤に近い下級神職であり、社領内に居住し、幕末の一八六三(文久三)年には平目の帯刀も許された。
 なかでも御膳番兼神楽役の五人は、京都の吉田家(吉田神道の宗家)の許状もうけており、れつきとした神職であった。
 これ以外の小役人(社人)は、社領内の者も若干いたが、大半は府中三町とその周辺諸村に居住する農民であり、年に一度大祭のときに、所定の役をつとめるだけで、いわゆる神職ではなかった。
 しかし農民とはいえ、いずれも由緒ある旧家のもので、土地の有力者である場合が多かった。


六所宮の本殿三殿相殿造り

 社殿の造営
 起源は古代にまでさかのぼり、武蔵有数の大社としての由緒と格式をほこる府中六所宮は、歴代領主の帰依をうけ、手あつい保護の手が加えられてきた。
 しかし史料がとぼしいため、残念ながら古い時代の社殿の造営等について、くわしく知ることはできない。
 ただ一一八六(文治二)年五月に、源頼朝の命により、当時武蔵守であった平賀義信を奉行として本殿以下の諸殿舎が造営され、一二三二(寛喜四)年二月には鎌倉幕府の命で武藤資頼が奉行となり拝殿の修覆が行なわれたことが『吾妻鏡』等の記録にみえる。
 その後、近世に入って慶長年間(一五九六〜一六一五年)に、徳川家康の命により大造営が行なわれた。
 有名な大久保長安を奉行として行なわれたこの造営は、一六○六(慶長一一)年三月に竣工しているが、この時造営された殿舎については、さいわいこの神社に残された古絵図によりかなり具体的に知ることができる。


六所宮の境内 江戸後期の殿舎配置。
(「天保5年絵図」による)

 それによると、現在随神門とよばれている門は、当時は朱塗り瓦葺きの楼門であり、それを入ると左手に太鼓を打つための鼓・楼、右手には瓦葺きの三重塔がそびえていた。
 正面には三間×六間の朱塗りトチ葺きの拝殿があり、その奥に幣殿、そして最奥部に瑞籬(みずがき)にかこまれた三つの正殿が並んでいた。
 中央の本宮正殿は三間×三間の朱塗りの檜皮(ひわだ)葺きで唐破風(からはふ)がついていた。
 東西の正殿は唐破風こそないが規模は全く同じであった。
 そしてこれら神域の土手を越えた左手(東側)には、六所宮の本地仏を安置した本地堂と、八基の神輿をおさめた神輿舎があり、大門と東西の横大門のそれぞれ左右の、あわせて六か所には阿良波婆伎(あらはばき)とよばれる随神像が宮の守りとして設置されていた。
 このように慶長の造営図からみた六所宮の社殿はまことに壮麗なものであり、当時武蔵随一の社領をほこった大社にふさわしい堂々たるものであった。
 そしてさらに一六一七(元和三)年には本殿の西側に東照宮が建立され、威容に花をそえたのである。
 しかしこの慶長の造営の些麗な殿舎も、四〇年後の一六四六(正保三)年一〇月の府中本町の大火により類焼し、一宇も残さず灰燼に帰したのである。
 そしてそれから二〇年ほどたった六五(寛文五)年一一月、四代将軍家綱によりようやく再興が命ぜられ、久世大和守広之を奉行として着工、六七(寛文七)年三月に竣工をみた。
 この寛文の造営は慶長のそれとは様々の点て様相を異にしているが、かなり省略されていることは否定できない。
 まず、楼門は随神門となり、左手の鼓楼、右手の三重塔はともに再興されなかった。
 拝殿と幣殿はまとめられてひとつの建物となり、瑞籬にかこまれた三つの正殿もひとつにされて三殿相殿造りとなった。
 東照宮はほぼ同じ位置に造営されたが、この時は本地堂は再建されず、のち元文期(一七三六〜四一年)になって、社僧の懇請により建立された。
 このように寛文の造営は慶長のそれにくらべかなり簡略化されたものであったが、この時のものが、現在にいたるまでの社殿配置の基本となったのである。
 そして現在みられる大国魂(たま)神社の本殿は、何度か修理は経たものの寛文造営時のものであり、都の重宝に指定されている。
 その後江戸時代においては大規模な造営は行なわれず、一七二五(享保一〇)年一一月、八二(天明二)年三月、一八四一(天保一二)年七月、四九(嘉永二)年九月、六七(慶応三)年四月と、五回にわたり部分的な修覆が行なわれ、この間、護摩(ごま)堂・鉄仏堂・鼓楼・松尾社等の殿舎堂宇(どうう)が付加されていった。

 くらやみ祭り
 近世の六所宮では、三月一〇日の春季臨時祭、六月二〇日の季子(すもも)祭り、七月七日の帷子(かたびら)祭り、八月一日の八朔(はっさく)角力等、年中をとおして数多くの神事・祭礼が行なわれたが、その中心となっていたのは、いうまでもなく五月五日の例大祭である。
 六所宮の例大祭は、古代の国府祭に由来するといわれる伝統ある祭礼で、四月二五目の品川海上での禊祓(みそぎはら)いに始まり、五月一日の御鏡磨神事、同三日夜の競馬式を経、五日夜の八基の神輿の渡御をメインエベントとし、翌日の御田植神事をもって終了する一連の神事の総称である。
 五月五日の神輿の渡御は、現在でこそ昼間(午後四時)に行なわれているが、一九五九(昭和三四)年以前は午後一〇時〜二時頃に行なわれたものである。
 まず、一之宮から六之宮そして御本社の順に七基の神輿が、神社の神幸門を出て参道を北上、二之鳥居のところで甲州道中に出、灯火を消した暗黒の宿場の道を西にすすみ、北門から御旅所(宮西町五丁目の角にある)に入る。
 これとは別に御言宮の神輿が一基、随神門のところから西へすすみ、相州街道に出て北上、御旅所の東門から入って七基の神輿に合流する。
 そして寅の上刻(午前三時すぎ)、太鼓を合図に御旅所を出発、出御と同じコースをたどり、今度は一斉に灯火をともして昼のように明るい宿中を通り、神社へ還御したのである。
 このようにこの祭礼は、八基の神輿がすべての灯火を消した暗闇のたかを渡御するため、“くらやみ祭り”とよばれて名高く、当日の府中の宿は、近在の村々からはもちろん、江戸や所沢等各地から集まった群集でうまったのである。

 祭りの夜のにぎわい
 いま一八一八(文政元)年の『遊歴雑記』という地誌をみると、著者の十方庵敬順は、祭礼当日の府中の町の有様を、次のように述べている。

 ……されば三日より、府中の駅の入口は勿論、横町々々をはじめ西の出口にいたるまで、壱軒々々の門に花笠のごと地口(道路に面した部分)の行灯(あんどん)を掛、又ところどころに、大幟(おおのぼり)を建、あるひは鳥居の灯籠などを張板に作り、又家々の軒には蘇枋の色よき提灯をいくつとなく吊るして、一同に黄昏より灯し火点し、又社内には惣門より本社まで長さ二町余の間、両側の明間なく左右にならべ建い高提灯は、村々の名をしるして昼のごとく、又神前及び社内の隅々、神主・社家・社僧の住居の門内、口々小路々々まで数千万億の提灯には、蟻(あり)の這(はう)までも見えて、辺鄙の陌駅(宿場)といひながら、仰山に賑やかな事目驚して、此地の一壮観たり、実も御当家代々由緒あるも理りならん……
 十方庵はこのように、まず町のいたるところに立てられた無数の提灯と、蟻のはうまでみえるほどの明かるさを述べ、町のにぎやかさと壮観なるさまにおどろいている。
 そして神輿の出御のさまは、「いざ牛御輿の神行ぞといふ程こそあれ、内心外も更に灯火を消て暗夜の如く、人ひそまり返りて、咳一つするものなく、各々息を殺せり」と述べ、灯を消した真っ暗な中を、供奉のものもひっそりと人がいないかのように進んだようで、「唯瑤珞(ようらく、瓔珞)の音するを以て神行ぞと推察するばかり」であったという。
 これに対して還御は、
 既に三の矢声の時太鼓を打いたすを相図として、一切の提灯に火を点ずる程こそあれ、駅中家 家の軒はいふも更に、供奉の提灯・松明・かがり火・高張をはじめ、宿内の灯籠・懸行灯数千万 億一同に火を点じて俄に昼のごとし、その時供奉の神人・警固の輩一同に鯨波をあげ、出御の最初に引替ていさましく、エイサエイサと懸声して、本社へ還御あれば、短夜の頓(やが)て程なく東雲(しののめ)とはなりにけり。


くらやみ祭り(『武蔵名勝図会』)

 と述べられているように、府中の町は暗闇が一転して光明となり、無数の提灯の灯にうずもれたのである。
 こうした有様は『江戸名所図会』や『武蔵名勝図会』の六所宮の祭礼の汲みても十分うかがいうるところである。それらに描かれているのは、神輿をとりまくおびただしい群衆と無数の高張提灯のすがたである。こうしたことからこの祭は、一方で“提灯祭り”とよばれたが、それは“くらやみ祭り”をちょうど逆の面でとらえた呼称であった。

 六所宮参詣の貴顕たち
 府中の六所宮は、武蔵有数の大社として上下の広い信仰を集めていたが、とくに古くから武家の間で尊崇が厚かった。このため江戸に居を構える貴顕(きけん、身分の高い人々)が、あるいは遊猟のおりに、あるいは遠馬のみちに、しばしば参詣するところとなった。ここではそうしたいくつかの例を簡単に紹介してみたい。
 まず一八三〇(文政一二)年閏三月には御三卿のひとつである田安家の若君右衛門督(うえもんのかみ)斉荘の参詣があった。彼は一一代将軍家斉の一一男として生まれ、三歳で田安家の養子となったもので、のちに尾張徳川家をついだ人物である。
 田安斉荘は、閏三月一九日の早朝、甲州道中を通って神社に到着、内陣で拝礼してから神主邸でしばらく休んだのち、中河原・一之宮(多摩市)をへて百草(もぐさ、日野市)の松蓮寺で眺望を楽しみ、帰途再び六所宮の神主邸で休息、布田(ふだ)宿(調布市)で昼食をとり、夕方帰館したのであった。
 一行は騎馬によるもので、前駆が二騎、三騎目が斉荘で、あとに一二〜三騎家来がつづいたという。
 この時神主猿渡盛章は祈祷札と双生竹を献上、さらに子息容盛と共に和歌を一首ずつ献上ている。
 なお、この田安斉荘の六所宮参詣の模様は、随行した近習のひとり土居清健により『武野紀行』としてまとめられている。


田安斉荘の参詣 そのようすを
記録した書留。(大国魂神社文書)

 田安家の参詣は、その後一八五六(安政三)年三月一八日にも行なわれたが、そのときは先の斉荘が尾張徳川家を継承したあとをうけて田安家をついた第五代の慶頼によるものであった。
 この時は神主邸が御膳所となったため、前日の夕刻に田安家から御膳所長持三掉・御膳水三荷が運びこまれ、その晩には泊りこんだ御膳方が長持を開き、魚類や野菜等を取りだして料理にとりかかるという大がかりなものであった。
 その前々日の三月一六日には、幕府老中の一行の突然の参詣があった。それは当時幕閣の中心として幕末の難局に対処していた老中首座の阿部伊勢守正弘(備後福山藩主)を筆頭に、老中・若年寄・御側御用取次・寺社奉行・大目付・江戸町奉行・勘定奉行らのそうそうたるメンバーで、実に一〇〇騎にのぼる大集団であった。彼らは小金井の桜見物の途次、六所宮に参詣したもので、一行は神主邸で近くの宿屋から取りよせた幕の内仕立の笹弁当で昼食をすませ、早々帰城している。
 このほか一八四三(天保一四)年三月一二日には、天保改革で名高い老中水野越前守忠邦が、やはり幕府の要人たちをひきつれて参詣している。この時も遠馬で小金井の花見にきた途中に立ちよったものである。
 武家以外では、一八二四(文政七)年七月二七日に、時宗の遊行上人が諸国巡遊の途中、この六所宮に参詣し、多くの僧侶をひきつれて幣殿で般若心経を三辺、念仏を一〇辺となえ、法楽を行なっている。
 遊行上人の一行は、一〇万石の大名の格式をもち、婀国にさいしては人足五〇人・馬五〇疋を徴発することができる伝馬朱印を与えられていたが、それだけに権威をかさにきるところもあったとみえ、六所宮の社中も一行の態度に憤慨した様子が記録されている。
 こうした貴人の参詣は、六所宮としては大変名誉なことではあったが、その陰にはおびただしい数の家臣や役人による下見や検査があり、そのたびに沿道の宿村に対して、細々とした指示や禁制が出されており、関係各宿村とくに社領八幡宿の農民にとっては大きな負担となったことはいうまでもないことである。

 国学と和歌と医学
 近世の府中六所宮は、前に述べたように上下の広い信仰を集めた精神的な拠占であったが、一方において文化活動の一拠点として、近世後期の地域文化の向上に大きな役割りをもはたしたのである。
 そしてその中心的役割りをになったのが神主の猿渡(さわたり)氏、とくに猿渡盛章(もりあきら)とその子容盛(ひろもり)であった。
 猿渡盛章(一七九〇〜一八六三年)は、六所宮の神主であると共に、小山田与清(ともきよ、号は松屋)門下の国学者であり、『神代仰談』『新撰総社伝記考証』等数多い著作を残している。
 また歌人としても活躍したが、その作品は『縱(もみ)の下草』二巻にまとめられている。
 盛章は一方国際情勢にも強い関心をいだいており、一八五三(嘉永六)年ペリーひきいるアノリカ艦隊が来航して開国をせまると、その年の一二月二三日、寺社奉行安藤長門守あてに外国船渡来についての上書を提出し、自らの意見を上申した。


猿渡盛章像(猿渡盛文氏蔵)

 その主旨は、現今の国際情勢から判断して開国はやむなしとする開国論であったが、そこには海外情勢についての適確な認識がみられ、外国人を夷狄(野蛮人)視してキリスト教を邪教視する当時の国学者・神官にありがちな偏見を強く排する開明的なものであった。
 この盛章の子が容盛(一八一一〜八四年)で、彼も早くから父の薫陶をうけ国学の道にすすみ、やはり与清の門に入り、父と共に松門十哲のひとりに数えられた。
 『武蔵総社誌』『総社或問』等の著作があるが、土谷ともいうべき『万葉通』(一名『万葉提要』)は焼失して伝わっていない。

 歌人としても名高く、その歌集『樅の下枝』は佐々木信綱編『明治各家家集』(『続日本歌書全集』一一)に抄録されている。
 この容盛も時局に敏感であり、一八五八(安政五)年正月と二月の二度にわたり、水戸の烈公(徳川斉昭)に建言書を上呈、開港後の目本の歩むべき道について自らの意見を開陳している。
 彼は思想的には平田篤胤に私淑し、その復古神道に共鳴していたことから、建言書の内容もわが国固有の大道の興隆と国体護持ということが中心であった。
 容盛はこのなかで、明治維新に先がけて神祇官の再興・山陵の復古・一世一元制・神仏分離などの政策を提唱している。
 このように猿渡盛章・容盛さらにその子の盛愛(一八四三〜一九〇五年)とつづく三代の神主は、いずれも国学をおさめ和歌に長じており、六所宮は府中を中心とした周辺の人々の文化活動の中心的役割りをはたしたのである。
 現在、後裔の猿渡盛文氏の邸内(宮町三丁目)には、盛章・容盛・盛愛の三人の業績をたたえる歌碑が建てられている。
 なお、この六所宮からは、幕末から維新にかけて二人の高名な蘭医が出ている。
 ともに禰宜の織田家(猿渡氏の分家)に生まれた兄弟で、兄は猿渡研斎、弟は伊東貫斎といい、二人ともオランダ医学を学び、日本有数の名医となって活躍、西洋医学の普及につとめた功績は高く評価されている。


猿渡氏三代の歌碑
(宮町3丁目猿渡家邸内)

  2 変貌する村々 top

 村の生活の変容

 徳川将軍家を頂占とする強固な幕藩体制のもと、ゆるぎないと思われたその封建社会も、一八世紀後半になると様々の面でひずみが生じ、またゆきづまりが生じるようになった。
 そして当時の社会を根底においてささえていた農民の生活も、しだいに変容をとげていった。
 本宿村のうちの小野宮(住吉町)の人で、国学者で歌人でもあった内藤重喬(しげたか)は、数え年七六歳になった一八三七(天保八)年、自ら見聞した様々のことを子孫に伝え、いにしえをしのぶよすがにせんものと、『避暑漫筆』と題する随筆集を書き残したが、そこには当時の村々と農民の生活が手にとるように描かれている。
 ここではこの『避暑漫筆』によって、農民生活の変貌のすがたをみてみたい。
 重喬は、


内藤重喬『避暑漫筆』

 ……享保のころより宝暦の末まで(一八世紀前半)は、人々の住居はさして大きなつくりのものはなく、とかく質素にして、家造りは大風を恐れて低く、天井のある家はまれで、床も竹の簀の子にワラを敷いたくらいであった。
 ……ところが天明・寛政(一八世紀末)のころより追々世間があらたまり、家造りは棟高く、二階屋もでき、天井のない家は少なくなり、床も磨き板とし、畳も琉球表や備中早嶋表を用いるまでになった。
 そして昔は風呂桶とか農具の唐箕といったものは、村に一つか二つしかなかったが、いま(天保期)はいずれの小百姓もそれぞれもつようになった。

と、まず住居の変化を述べ、さらに食事についても、

 食事のことは、昔は分限(身分や財力)に応じ米・麦・粟等を用いたが、野菜の類はけっして美味なものは用いず、一代一度の婚礼たりとも、ありあわせの大根・午房・にんじん・里芋・切昆布、魚は塩鰹・千鮭・干鱈、焼物は塩鰯ぐらしですませたが、寛政・文化の頃(一八世紀末〜一九世紀初頭)より追々おごりに移り、いま(天保期)では葬礼・法事などには、前述の品々の他に椎茸や干瓢(かんぴょう)・あぶらあげ等がつくようになった。
 大体、青物・干物とも、くわい・蓮根・鉄・長芋等はこの地になく、江戸に行かなければ手に入らなかった。
 それが寛政頃より八王子に八百屋というものができ、文化年中に府中宿にもでき、いま(天保期)ではいずれの貧家でも相応の料理をするようになった。

と、格段に食生活が豊富になったことを書き記している。

 村の菓子屋
 次に興味深いこととして、村の菓子屋について記しているところがある。
 菓子というものは、宝暦・明和頃(一八世紀中ごろ)までは、オコシ米・タンパス飴などというもの以外になく、饅頭は八王子・五日市に砂糖なしの大饅頭のみあり、本饅頭は江戸以外にはなかった。
 それが寛政の初め頃(一七九〇年頃)より、あちこちで砂糖入りの饅頭をつくりはじめるようになったのである。
 また、せんべいも、この辺では押立の菓子屋で砂糖なしのせんべいを売っていたくらいで、柿にはみられなかったが、天明の頃(一七八〇年代)、府中六所明神前の岩田屋で、“翁せんべい”と称して、砂糖の少し入った不手際(ふてぎわ)のせんべいを始めたところ、これがおおいに流行、以後泊追金米糖・阿留平糖そのほかの上菓子を売る店ができ、いま(天保期)では干菓子・餅菓子・鍄袋入り折詰などのりっぱな菓子を自由に入手できるようになった。
とあって、府中の村々にも菓子屋がすでにでき、菓子を買うだけの消費生活の向上があったことが知られる。
 また、衣服も目だって華美となっており、「髪を結うときも、昔はビナン桂という木をきって水にひたしておき、その水をもってくしけずり、ワラのみご(ワラシペ)にて結ったものが、いまでは油をつけ、元結には紙捻を使うようになった」と述べている。
 このような衣食住における生活水準の向上とならび、芝居や歌舞伎といった昔では考えられなかった娯楽や遊戯が盛んになったことも、農村生活の変容を象徴的に物語るものであった。

 明和・安永の頃(一八世紀後半)は、世間は追々驕奢つのり、村々にても多勢の人を集め芝居や歌舞伎そして人形浄瑠璃が興行されるところとなったが、それらは関戸村(多摩市)の相沢氏、小野宮の内藤氏、真光寺村(町田市)の榎本氏、押立村の川崎氏、石田村(日野市)の土方氏、日野宿の佐藤氏、柴崎村(立川市)の中島氏らが頭取となって行なわれたのである。
 しかしこうした類はやがて追々衰えていったが、いまではこれらに代り、茶の湯・立花・蹴鞠といったものが流行、公家のまねをし、あるいは江戸に出て大家の末席に連らなるなどしている有様は、まさに僭上(せんじょう)というべきであり、ついには家産を傾ける者が多い。

 このように重喬(しげたか)は、一八世紀後半の安永・天明頃から、府中周辺の村々でも農民の生活が目にみえて変容し、享保ごろとは比べものにならないほど華美になったことを指摘している。
 ここには村々の生活の余裕が衣食住だけではなく、文化的活動の分野にもひろがっていた様子を読みとることができる。

 関東取締出役と組合村
 このような状況は、農村の経済事情の変化によりもたらされた生活の変容であるが、領主側からみればそれは身分をわきまえぬけしからぬ仕業であった。
 江戸初期の質朴な風俗は失われ、風紀は乱れ、身のほどわきまえぬぜいたくが横行……というように、領主層にとって農民たちの当時の有様は風俗の紊乱(びんらん)としか映らなかった。
 幕府はたびたび触書等を出し、農村のとかく華美になりがちな風潮に歯止めをかけようとしたが、たんなる触書やとおりいっぺんの取締りで時勢は変るべくもなかった。
 農民の生活向上の一方で、こうした経済状況の変化についてゆけず没落する農民も少なくなかった。
 耕地を失った彼らの一部は、あるいは都市に流入し、あるいは各地を流浪し、無宿人や博徒と化していった。
 府中周辺では、博徒の親分として小金井小次郎が有名であるが、府中本町の田中屋万吉は小次郎の親分筋にあたるヤクザといわれる。
 また幕末における府中宿とそのもよりの村々における博徒を調べた書上帳によると、先の小金井の小次郎をはじめ、本宿村の牛五郎、上染屋村の金二郎、小田分村の茂吉ら一三名の名がみえており、府中宿周辺でもかなりの博徒が徘徊していたことがうかがわれる。
 こうした治安の乱れをおさえるため、幕府は一八〇五(文化二)年に関東取締出役を設け警察機能の強化をはかった。
 出役は俗に“八州廻り”とよばれ、無宿者や犯罪者の追跡逮捕にあたっては、幕府領・私領の区別をとわず関八州を廻村することができる権限を与えられたのである。

 さらに一八二七(文政一〇)年には関東全域に対し「御取締筋御改革」という四五か条からなる法令を発し、これにもとづき組合村の結成を命じたが、これは村方において、出役への協力体制を確立することをねらったものである。
 組合村は、旗本領・大名領・幕府領を問わず、地理的にまとめやすい隣接した村々四〇と五〇か村をまとめて大組合とし、さらにそのなかに各村の大小・村高に応じて二千六か村の小組合を結成させたもので、村々の連合体である。
 大組合で中心的な村を寄場といい、その名主を寄場役人とし、他の村々から小惣代・大惣代が選ばれた。
 彼らはたえず関八州取締出役と連絡し出役の廻村取調べに当っては村方の動静を逐一報告しなければならなかった。
 府中周辺の村々は、甲州道中府中宿を寄場として大組合村を編成したが、それらは府中・国立・稲城・小金井・国分寺の五市にまたがる二六宿村(府中宿と二五か村)であった。
 関八州取締出役の設置と組合村の編成は、村方の動静に対する警察的支配を強めることに直接の目的があったが、実際にはそれにとどまるものではなく、経済的な問題にもかなり広く手をひろげている。


府中寄場組合の村々
白ヌキ文字の村は府中市域外の村々。

 そしてそれも、たんに村方の治安とのかかわりで取扱っているだけでなく、農村における経済的変貌の実態をつかみ、その新たな動向をいも早く察知して、幕府の支配の体系に組入れようとするものであった。

 本宿村の農間渡世
 農民生活の変容や風紀のゆるみ、さらには治安の乱れ等、一八世紀後半になって表面化してきた社会の変貌は、いずれも農村での商品経済の展開によってもたらされたものである。

 江戸時代の農民生活においては、原則的には村落における生活・生産必需品の大部分が自給自足であったが、農業技術が進歩し、肥料として刈敷や人糞のほか干鰯や糠を使うようになり、害虫の駆除に鯨油の使用がすすみ、新しく千歯こきや唐箕といった農具が用いられるようになると、農民はそれらを通じて必然的に商品・貨幣経済のなかにまきこまれるようにたった。
 こうして、貨幣のもつ魅力が農民をとらえることになる。
 このため農民は、積極的に換金作物を栽培するようになり、さらに一歩すすんで農業のかたわら商売をいとなんだり、あるいは職人となる者もでてくる。
 これを農間渡世といっている。
 ここで、府中市域における農間渡世の様子を、一八二七(文政一〇)年の本宿村を例にとってみてみると右の表のとおりである。
 職種を商業・職人・農村小工業・他(馬宿)の四つに区分してみると、やはり商業に従事するものが多く、全体の約半数をしめている。なかでも農村のこととて手っとり早い青物商が多く、九人もいる。
 ついで多いのは居酒屋で五人。
 この五軒の居酒屋のうち開業年代のもっとも早いのは一七四七(延享四)年の開業でありこれはおそらくこのあたり一帯を通じても古い酒屋のひとつに入ろう。
 あとは一七九九(寛政一一)年、一八〇六(文化三)年、一七(文化一四)年のそれぞれ開業となっている。
 一般にこのあたりで商売をいとなむものは、一九世紀に入ってから始めたものが多く、髪結の二軒、質屋の三軒もともに化政期の開業である。
 職人は一六人いるが屋根葺きが五人で多く、つぎは鍛冶屋である。
 なお、農村の小工業ともいうべき業種の従事者は五人と少ない。
 ここで注目すべきものは馬宿、すなわち中馬の宿である。とかく宿場と紛争の絶えなかった中馬の宿が、府中宿とは目と鼻の先の本宿村にまとまっていたのは興味あることである。
 表では馬宿は六軒であるが、居酒屋渡世の者の兼業をいれると、あわせて七軒である。
 そしてこの七人のうち六人までが村役人で、うち二人は組頭、残り四人は百姓代というように、いずれも村の有力者であった。


本宿村の農間渡世 1827 (文政10)年の
農間渡世一覧。
(『府中市立郷土館紀要』第2集より)

 在郷商人糟谷家
 以上、本宿村での農間渡世の様子をみてきたが、次に同じ甲州道中ぞいにあり、本宿村とは反対に市域の東端にあった下染屋村の場合をみてみょう。
 時代は本宿村より少しくだるが一八六七(慶応三)年八月の史料によると、この村では当時四六軒の農家のうち、実にその六割にあたる二八軒が農間になんらかの余業を営んでいる。
 このうち七軒は職人、一二軒が商業ないし小工業であるが、薪(まき)渡世が四軒、炭渡世が一軒、材木渡世一軒、そして樵夫(きこり)が二人、木挽(きびき)が二人おり、木材関係の業種が多いのが目立つ。
 本宿村と同じくここにも馬宿が一軒あり、質屋が二軒あるが、いずれも兼業である。


糟谷家の門 下染屋村(白糸台3丁目)

 そしてこの村で注目されるのが、名主で質屋をいとなむ糟谷兵右衛門である。兵右衛門は質屋のほかに雑穀・荒物・酒造・醤油造り・油絞り等手広く商売しており、村内外に二〇〇石余の田畑をもち、さらに江戸の麹町や内藤新宿にも地所を所有するという、多摩地方行数の在郷商人であった。
 その質屋営業の規模はけたはずれの大きなもので、一八二七(文政一○)年の調査によれば、当時の年平均質取引額は金五四九〇両余と銭五一九四貫文余であった。
 しかもそのほとんどが、自分は元質屋として近村の送り質屋に融資しており、こうした兵右衛門の下につらなる送り質屋は二八か村三六軒におよんだといわれる。
 また兵右衛門は、天保の飢饉にさいし、あわせて二五〇〇両もの大金を村内外の窮民に施した篤志家としても知られている。
 このように府中市域においても、江戸時代の後期になると多くの農民が農間余業に従事しているばかりでなく、そのなかには糟谷兵右衛門のように、多摩地方有数の在郷商人にまで成長するものも現れたのである。

 増大する農民格差
 農村に商品経済が浸透し、農民が年貢である米をつくるだけでなく、市場で換金できる小商品の生産者として、また農間に商人や職人として経済活動を行なうようになると、農民の間に貧富の差がはっきりとあらわれてくる。
 このため、富裕となって土地を集積して地主化するものと、貧窮化して田畑を手ばなし小作人となるものとが現れた。
 こうしてそれまで村の中核をなしていた中農層が上下に分解するようになって、村内のこれまでの秩序がしだいにくずれていった。
 こうした状況は、村内における農民の土地の持高が、農民の階層分化に従って変っていくところによくあらわれている。
 たとえば下染屋村の一七二五(享保一〇)年と一八三五(天保六)年のそれを比較してみると、まず享保期(戸数四二)には四〇石以上の土地をもっている者がなく、七石から四〇石までの者一九人(四五・二パーセソト)がこの村の中堅農民であった。
 そして五石未満の零細農民は一八人(四二・九パーセント)であった。
 これに対し天保期(戸数四六)になると、一〇〇石以上が一人、七〇石以上が二人出現し、この三人で村全体の四四・五パーセントの土地をしめるようになった。
 そして七石から四〇石の中堅農民が一三人(二八・三パーセント)に減少し、これと対照的に五石未満の零細農が二八人(六〇・二パーセント)と全体の六割をこえている。
 このように下染屋村でも、村の中核をなす中農層が上下に分解していったことがよくわかる。

 また右の表は、一七八三(天明三)年三月の府中新宿の土地持高別階層構成をあらわしたものであるが、こちらの方は下染屋村の場合より状況ははるかに極端になっている。つまり九九人の農民うち、七石未満の零細農が八〇人で全体の八割をこしており、しかもそのうち二〇人が無高(むだか)である。
 そのうえ上位三人はずばぬけており、三人で村全体の三分の一を所持している。ここでは中農ともいうべき七石から二〇石台の農民がわずか一六人、全体の一六・二パーセントにすぎない。
 こうしたなかで、一八〇七(文化四)年、府中新宿の問屋・名主をつとめていた比留間七右衛門は、新宿の小前百姓(小規模な百姓)八四軒について、一軒一軒その由緒を調べあげたところ、わずか三〇年ほど前の延宝検地の時点を基搴にしても、それ以前から居ついている百姓はわずか三軒、検地のとき新たに縄請けし以後ひきつづき居住しているものでも一三軒にすぎず、残りの六八軒すなわち八割はそれ以後分地辛出百姓として新宿の百姓となったものであったという。
 そしてこの新宿ほどではないものの、各村でも旧来からの家格と経済力とが一致しない状況が徐々にひろがり、すでに村内が旧秩序ではおさまりきれない事態へとすすんでいった。


府中新宿の階層 
1783 (天明3)年における持高別の階層構成。
無高のうち2名は旅籠屋(店借・地借各1)。
(『府中市史』より)

 村の“民主化”闘争
 そしてこのころ各地でみられた村方騒動、すなわち村役人(主として名主)と小前惣百姓との紛争は、こうした一連の動きのなかで起ったものである。
 この種の紛争は、多くの場合、名主(または一部の村役人)の不正を追求するという形をとって始まり、その大部分は村役人の専断に歯止めをかけるという結果に終っているようである。
 このような動向を経て、村役人はしだいに小前一同の同意なしに村政を運営することができなくなっていった。
 この傾向は名主の選任にもおおいに影響し、名主の世襲制も享保ごろ(一八世紀前半)からしだいにくずれていった。
 名主が退役したときの跡役の決定も、惣百姓の入札つまり投票できめるところが多くなった。
 さて、府中市域の農村でも、名主が惣百姓により不正を追求され交替させられたという例も数件記録されている。


木砲   幕末の世盾不安にさいし、在郷商人
糟谷家でそなえた木製の大砲。(糟谷家蔵)

 たとえば下染屋村では、一七四〇(元文五)年に惣百姓が名主の年貢米金勘定の不正を追求して訴訟となり、名主が交替させられている。
 そして一七六八(明和五)年からは年寄役が年番(一年交替制)で名主をつとめることとなった。
 さらに一八〇〇(寛政一二)年には、その年番名主が定役(交替なし)であると主張したことから惣百姓と対立したが、やはり名主は老衰という理由のもとに退役させられた。
 そしてその跡役については惣百姓による直接投票制(入札)が行なわれ、新しい名主が選ばれている。
 また府中新宿でも、一八一二(文化九)年四月、名主が宿内の百姓五五人から、年貢勘定等について訴えられ、同年一一月に名主役を退役しており、そのあとはやはり組頭五人による月番(一か月交替)名主制となっている。
 こうした村役人をめぐる紛争は、府中市域においては他に本宿村や番場宿・八幡宿等でも起こっており、それぞれ一時的には村内に混乱と無秩序をもたらしたようであるが、大勢は“民主化”の方向へとすすんだのである。

 武州一揆と村方の動揺
 以上みてきたように、江戸時代も後期になると、村落社会が変質して幕府の支配体制が動揺をみせ、しだいに破綻をみせるようになった。
 そして慶応期(一八六五〜六八年)に入ると、横浜開港や第二次長州戦争、これに不作が加わり国内経済は混乱して物価高が人々の生活を圧迫した。
 この生活苦に原因する武州世直し一揆は、一八六六(慶応二)年六月一三日、武州秩父郡上名栗村(埼玉県入間郡)から始まった。
 村中の穀物を喰いつくし、坐して餓死を待つよりはと蜂起した農民は、飯能河原に集結、「世直し」と書いた大旗を押立て、飯能村の穀屋四軒を打壊したのを手はじめに、野田・扇町屋・下藤沢(以上、入間市)・所沢と、質屋・高利貸・穀屋等の在郷商人の家々を打壊し、一四日の未明にはその勢力は一万人余にふくれあかっていた。
 一揆勢は所沢から三手にわかれ、一手は田無村に向かい久米川を経て、一五日大岱(おんた、東村山市)・柳久保(東久留米市柳窪)で打壊したが、代官所役人と下田半兵衛指揮の田無農兵隊の手万鎮圧された。
 別の一手は安松(所沢市)から引又(志木市)へと向かったが、大和田町(新座市)で高崎藩兵に鎮圧された。
 そして残りの一手は、入間川村(狭山市)に引きかえして夜をあかし、五日には広瀬(狭山市)・飯能・大河原(以上、飯能市)を経、居村付近で解散した。
 またこれとは、別の名栗勢は一五日に青梅を打壊し、そこで二手にわかれ、一手は新町(青梅市)・箱根ヶ崎(西多摩郡瑞穂町)・福生・拝島(昭島市)・宮沢(同)を経、さらに日野・八王子方面へ向かおうとしたが、築地の渡し(昭島市・八王子市の間の多摩川の渡し)で、粟の須・日野・駒木野の農兵隊と八王子千人同心により鎮圧された。
 他の一手は、青梅から二俣尾・沢井・御岳(いずれも青梅市)を経、大久野(西多摩郡日の出町)をまわり五日市へと向ったが、これも一六日に五日市農兵隊の手で鎮圧された。
 上名栗村に始まったこの武州世直し一揆は、以上のように府中市域には直接波及することなく終った。
 しかしこれは、市域がその発生地から遠く、市域に波及する以前に各地の農兵隊等により各個鎮定されてしまったからである。
 市域の村々もけっして安定してしたわけではなかった。それどころか、こうした一揆・打壊し・騒擾等は、いつでもきっかけさえあれば起りうる危険性をはらんでいたのである。
 事実、この武州一揆の起こるわずか二〇日ほど前の五月二四日には、府中新宿の表店借家人五〜六〇人が天神山(宮町三丁目)により集まり、本町の角屋茂七が近郷で買いつけた米を横浜へ輸送するのを阻止しようと、是政河岸でこれを差留め、さらに角屋を打壊そうとするさわぎが起こっていた。
 この時は、宿内の大店の商人が、彼ら一人につき米一升・引割(麦)一升・金二朱ずつをほどこすことて、かろうじてなだめ押えることができたが、そのさい、角屋自身については不明であるが、新宿の柏屋は四〇両、土屋は五〇両を出金している。
 また、この新宿の借屋人騒動か一応おさまってまもない六月八日、本宿村でも村の有力者が名主宅に集まり、村内外の不穏な空気を察し、未然に事態を防ごうという意図のもとに、村内の困窮人に対し、一人につき白米一升と引割一升をほどこす相談を行なった。
 そして一四日、この日はおりしも一揆勢が飯能・所沢辺でもっともはげしい打壊しを行なった日であるが、名主宅で清兵衛が一○両、治右衛門が四両、折右衛門が四両を出金してほどこしが行なわれたのである。
 村内の困窮人は一五〇人ほどであるが、当時の人別(村の人数)は八一三名(一八五〇年)ほどであるから、困窮人は村の二割弱に達していたことがわかる。
 市域ではこのほか是政村で米一升ずつ、下染屋村では一軒につき金二分二朱ずつほどこしたことが記録されている。
 そしてこうしたことは、神奈川や羽田辺までも同様に行なわれたといわれる。

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