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四章 宿場町、府中
1 宿駅の制度と負担 top
甲州道中の設定
領主が広大な領地を支配するには、まず交通・運輸制度を整備し、領地の隅々まで命令が行きわたり、必要に応じて迅速に兵力・兵糧(ひょうろう)を目的地まで輸送できるような体制をとることが必要である。
このため戦国大名は、それぞれ分国内に伝馬制をしき、道路や橋の整備につとめたが、徳川氏もその支配地が拡大するにつれて、三河以来の伝馬制を拡大し、関が原合戦以後は江戸を中心として全国的な規模の交通網と宿駅制度の確立をはかった。
江戸幕府の交通網の中心をなしたのは、東海道・中山(仙)道・日光道中・甲州道中・奥州道中のいわゆる五街道である。
幕府はこの五街道とそれに付属する佐屋路・美濃路など(いずれも濃尾平野の往還)の主要脇往還を道中奉行の支配下に置いて直接支配したが、それ以外の脇往還は勘定奉行の管轄下とし、全国の主要都市とそれを結ぶ大動脈としての主要交通路を押えることにより、人員の移動や商品の流通を把握しようとしたのである。
さて、五街道のひとつである甲州道中は、江戸と甲府をつなぐ幹線道路であるが、のちに下諏訪まで延長されて中山道に接続された。
甲州道中はその起点を公的には江戸日本橋としているが、江戸城の半蔵門から直線的に四谷・内藤新宿に向かっているところから、この街道を万一江戸落城のさい、甲州へ落ちのびるための軍用道路と考える人も少なくない。
甲州は徳川氏が関東入部以前から関係深い地であり、甲府城主には代々徳川氏の親藩・譜代の腹心の者を配したが、一七二四(享保九)年には幕府直轄地とし、以後甲府勤番に守らせたのである。
さて、甲州道中は、一般に江戸〜甲府間が三八宿、甲府〜上諏訪間が六宿あり、あわせて四四宿といわれる。
しかしこれには数えかたによっていくつかの説があり、四二宿とも、また三九宿ともいわれる。
五街道のひとつとはいえ、東海道や中山道にくらべ交通量は少なく、参覲交代で通行する大名も、信州の高遠・飯田・諏訪のわずか三家の小大名にすぎず、これに甲府城警固の勤番が加わる程度であった。
従って各宿常備の人馬も、東海道は人足一〇〇人・馬一〇〇疋、中山道は五〇人・五〇疋であるが、甲州道中は日光・奥州両道中とともに二五人・二五疋であった。
そのルートと一里塚
甲州道中心一八世紀後半になると、江戸地廻り経済(江戸の消費生活をささえる周辺地域の経済)の発達とそれにもとづく商品流通の増大により、ようやく往来も頻繁の度を加えるようになるのであるが、それでも東海道や中山道の交通量とは比較にならなかった。
江戸時代も末期の一八四三(天保一四)年の「甲州道中宿村大概帳」をみても、旅籠が二〇軒以上ある宿駅は、内藤新宿・府中・日野・横山(八王子)・上野原・下花咲・中初狩・勝沼のわずか八宿にすぎなかった。
こうした中で府中宿は八王子横山宿の三四軒につぎ、二九軒の旅籠をもつ大きな宿場として重きをなしたのであった。
甲州道中は一六○四(慶長九)年ごろ整備されたと伝えられるが、その後も部分的にルートの変更等が行なわれたようであり、府中市域や国立市域ではかなりの移動がみられる。
このことは、現在残されている慶長期の一里塚跡によって確認される。
すなわち、日本橋から内藤新宿(新宿区)・幡ヶ谷村笹塚(渋谷区)・高井戸(杉並区)・下仙川(調布市)・小島(同)の各一里塚を経て府中市域に入った当初の甲州道中は、現在の品川道を通って常久一里塚(清水が丘三丁目)にいたるが、ここから大国魂神社(宮町三丁目)の随神門前を通り、高安寺(片町二丁目)下を抜けて水田地帯を西走、分梅町から日新町一丁目の日本電気府中事業場内の本宿一里塚跡に通じ、ここから四ツ谷を経て多摩川を渡り、日野市の万願寺へと通じていた。
この慶長年中の古いルートが、現在都道となっている新しいルートに変更になったのは、慶安から寛文の頃(一六四八〜七三年)といわれるが、これは古いルートが低湿地を通っていたために洪水等になやまされたこと、また交通量の増加にそなえ、道路幅拡張の余地がハケ上の地に求められたことなどによるものと考えられている。 |

常久一里塚の跡
(清水が丘3丁目)
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なお、市内に残る常久・本宿の二つの一里塚跡は、現在ともに市の史跡に指定されている。
府中宿の役割り
さて、ここで甲州下栗原宿(山梨市)の一八四五〜四七(弘化二〜四)年の「先触(さきぷれ)帳」により、甲府勤番(きんばん)の侍たちが、江戸〜甲府間をどのように宿泊しながら旅したかをみて、甲州道中における府中宿の位置を考えてみたい。
まず一八四六(弘化三)年三月、江戸の昌平坂学問所の林伊太郎は、甲府徴典館の学頭に任命され甲府へ出立したが、この時は三月六日府中宿休・八王子宿泊、七日吉野宿休・犬日宿泊、八日花咲宿休・勝沼宿泊、そして九日甲府着となっている。
勝沼〜甲府間はわずか三里三四丁(約一五・五キロメートル)だから、彼は午前中に早々と甲府入りをしたようである。 「先触帳」によると、江戸から甲府へ向かう場合、途中三泊するときは、このほか、 |

本宿の一里塚 いまは日新町1丁目の
日本電気構内にその跡が残る。(『武蔵名勝|図会』)
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@江戸発〜八王子泊〜上野原泊〜黒野田泊〜甲府着
B江戸発〜日野泊〜上野原泊〜黒野田泊〜甲府着
B江戸発〜八王子泊〜犬目泊〜鶴瀬泊〜甲府着
C江戸発〜八王子泊〜野田尻泊ど駒飼泊〜甲府着
等の泊割がとられている。また途中二泊して三日目に甲府に入る場合には、八王子と猿橋に泊るのが一般的であったが、この場合は甲武国境の山道を一日一一〜一二里(四五キロノートル前後)も歩かねばならなかった。
しかし歩くことになれていた当時の人々は、この泊割をもっとも多く利用したのである。
つぎに、逆に甲府から江戸に向かう場合は、こちらもやはり甲府発〜猿橋泊〜八王子泊〜江戸着という途中二泊が圧倒的に多く、まれには犬目(上野原町)と府中に泊るという場合もあったが、こうすると甲府〜犬目間は一五里一二丁(約六〇キロメートル)もあり、かなりの無理があったものと考えられる。
途中三泊する場合は、
@甲府発〜下初狩泊〜吉野泊〜府中泊〜江戸着
A甲府発〜下花咲泊〜与瀬泊〜府中泊〜江戸着
B甲府発〜黒野田泊〜上野原泊〜府中泊〜江戸着
C甲府発〜下初狩泊〜上野原泊〜日野泊〜江戸着
D甲府発〜黒野田泊〜上野原泊〜八王子泊〜江戸着
のような泊割がとられている。
また途中四泊するスローペースのときは、黒野田(大月市)・上野原・駒木野(八王子市)・府中等に泊ったようであるが、これは特殊なケースであった。
このように甲府〜江戸間の往来は、上り下りとも八王子と猿橋に宿泊し、三日目の夕刻に目的地に到着するというのがもっとも一般的であった。
こうしてみると府中宿は、江戸日本橋から八里という近距離にあったために、江戸から甲府へ向かう場合は府中泊りということはほとんどなく、昼食に立ちよるというケースが多かったようである。
一方甲府から江戸へ向かう場合、しかも途中三泊する時には府中泊りというケースがかなり多かった。
府中に宿泊すると、翌日は昼ごろには楽に御府内(江戸市中)に入り、その日のうちに用事をすませることができたのであろう。
府中三町と宿役人
府中宿は、府中本町・番場(ばんば)宿・新宿(しんしゅく)の三町によって形成されていた。
宿駅としての業務は、この三町が交代でつとめたが、三町は行政的にはそれぞれ独立した村落であった。
三町ともその田畑は入組んでしたため、はっきりと境界を設けることは不可能であるが、その町並みの方ははっきり区分されていた。
まず木町は相州街道(小田原道)にそった町であり、現町名では本町一〜二丁目を中心に、一部宮西町の府中街道ぞいの地区を含んでいた。
ここは府中宿の中心ではあったが、町並みは甲州道中にそってはいなかった。
ついで番場宿は、けやき並木から西の甲州道中ぞいの地区で、現町名で宮西町一丁四・五丁目を中心とした町であった。
そして新宿はその反対側、すなわちけやき並木の東側の甲州道中ぞいの地区で、現町名では宮町一〜一一丁目にあたる地区である(右の地図を参照)。 |

府中宿(「府中領絵図」による)
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この三町の成立については、くわしいことはわからない。
しかし古くは番場宿は茂右衛門宿、また新宿は采女宿とよばれており、それぞれ矢島茂右衛門・五十嵐采女という人物が中心となって宿立を行ない、府中本町から分離独立したものと考えられている。
この三町の村方(農村)としての面をみると、まず本町は文化・文政期(一九世紀初期)において村高一四五五石余、戸数一八三戸で、市域内では最大の村落であり、村内に分倍・芝間・矢崎という三つの小集落(枝村)を包含していた。
番場宿は村高一〇三六石余、戸数一〇三戸、また新宿は村高九三三石余、戸数八〇戸であり、三町とも街道の南のハケ下の多摩川沖積地に水田をもち、北側の立川段丘面の台地に畑をもって農業を営んでいた。
三町にはそれぞれ名主・組頭・百姓代の村方三役とよばれる村役人がおり、村政をとり行なったが、宿駅としての府中宿にはまた別に宿役人がおり、宿の運営にあたった。
しかし、府中宿の場合は、村方の名主・組頭が、そのまま宿方の役人をも兼務していたのである。
宿駅のおもな業務は旅人と荷物の人馬による継送りであり、それを取りあつかう所が問屋場であった。
この問屋場で、こうしたいっさいの運輸業務を総括し、さらに宿駅全体の取締りにあたったのが問屋(役)であり、それを補佐してともに宿駅の経営にあたったのが年寄(役)であった。 |

高札場 この屋根の下に数枚の高札が
かかげられていた。(宮西町5丁目)
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府中宿の場合、三町で交代に人馬の継立をつとめたため、問屋場は各町ひとつづつ都合三か所あり、問屋も三名、そして年寄は一〇名であった。
そしてこの問屋は村方の名士が、また年寄は村方の組頭がそれぞれ兼務したのである。
さらに、問屋場と並んで宿駅の主要な施設として、本陣と脇本陣があるが、これも本町の名士が本陣(役)を、また番場・新宿の名斗が脇木陣をそれぞれ兼務するのが慣例であった。
しかしこの本陣・脇本陣は、その職務の性格上、必ずしも名主の兼務ということではなかった。
なお、宿役人としては、このほか問屋・年寄の指揮のもとで、問屋場で日々の人馬継立の帳簿をつける帳付、実際に人馬の差配を行なう人馬指示いたが、これら七三町でそれぞれ一六づつ、あわせて三名が交代で勤務した。
伝馬役の負担
江戸時代の宿駅に課せられた第一の任務は、いうまでもなく公用で通行する貨客を人馬によって輸送することである。
この場合、輸送義務のある区間はその宿場からつぎの宿場までの上下各一区間ずつで、その先の区間はつぎの宿場が担当するという、一宿ごとの継送りであった。
この人馬継立の負担を伝馬役といい、宿駅の負担のうちもっとも重要なものであった。
この伝馬の継立業務を行なうところが各宿の問屋場である。府中宿ではこの問屋場が三つあり、三町が交代で伝馬継立の業務を負担したことは、先に述べたとおりである。
三町交代での伝馬役のつとめかたは、月に二日が本町、残りを番場宿と新宿でつとめた。
一八五一(嘉永四)年一一月の「府中宿御伝馬日割書上帳」によると、この時には一か月のうち一日から六日までと、二一日から二五日までを本町、七日から一〇日までと、二六日から晦日(みそか)までを番場宿、一一日から二〇日までを新宿がそれぞれつとめている。
さて、府中宿は甲州道中を、西は日野宿まで(二里)、東は布田五宿(調布市)まで伝馬の継立を行なったが、このほか甲州道中と交差する脇往還の横継ぎの伝馬役もつとめねばならなかった。
すなわち北は川越街道を小川村(小平市)まで、南は相州街道を多摩川を渡って関戸村(多摩市)まで継送りしたのである。
こうした伝馬役は、一般に宿内の街道に面しか町屋敷に課せられるもので、これを負担する家は伝馬屋敷といわれ、府中宿では本町が三七軒半、番場宿と新宿が三四軒ずつに定められており、あわせて一〇五軒半の屋敷持の者、か負担したのである。
このように伝馬屋敷の数はきまっていたが、年々公用の通行は激しくなり、人馬継立は増加していったため、伝馬役の負担は年をおって過重なものとなっていった。
江戸も中期をすぎるころになると、つぎの章で述べるが商品経済の浸透等にょって、伝馬役を負担する宿内の中心的な百姓が困窮し、さらに没落するといったケースが多くなり、伝馬役を負担する基盤(伝馬屋敷所有者の経済力)が動揺をみせてくる。
たと犬は府中新宿では、一七四一 (寛保元)年に三四軒の伝馬屋敷のうち、一九軒半にあたる小前百姓一二五人が、屋敷付の田畑三一五石分を質入れして、伝馬役の負担が不可能となり、その分の伝馬役を他村からの出作り百姓に負担させようとして訴訟を起こした。
この一件は結局一七四六(延享三)年五月にたり、出作り百姓が人足六人・馬六疋分を負担することで落着している。
なお幕末の一八四三(天保一四)年には、出作り百姓の負担分は三町で大足七人六分六百、馬七疋六分六厘となっている。
助郷村二〇か村
さて、甲州道中の常備の人馬は各駅ごとに二五人・二五疋と定められていたが、実際には一定数の人馬を非常用として囲置き、その残りを立人馬として貨客の継立にあてたのである。
府中宿の場合、その囲人馬は八人・六疋であり、問屋場が実際に継立てる人馬は、一七人二九疋であった。
そしてこれを越える人馬が必要のときは、近隣の指定された村々から助人馬を出させ、おぎなったのであるが、この課役を助郷または助郷役といい、それらを負担する村を助郷村とよんだ。
助郷は最初は臨時的なものであったが、街道の交通量か増大するとともに恒常化されていった。
助郷制度の起源については、いろいろ説があるが、各街道に幕府指定の助郷不成立してくるのは一六六〇年代(寛文期)のことといわれる。
甲州道中でも早くから宿駅周辺の村々にこうした課役が課されたことと思われるが、最終的に助郷村々が固定するのは一七四六(延享三)年のことで、同年一一月に道中奉行から助郷証文が出されている。
それによると、府中宿の助郷村々ぱ、左の表のように、現在の府中・国立・小金井・国分寺・稲城の五市域にまたがる二〇か村であった。
これら村々には、他の宿駅の助郷村のように宿場から五里(約二〇キロノートル)以上も離れているといった村はなく、いずれも二里(約八キロノートル)以下であり、比較的遠い村――石田新田・青柳村・上谷保村(以上、国立市内)・百村(もむら)・大丸村(以上、稲城市内)・下小金井村(小金井市内)以外はすべて一里以内であった。
それにしても、街道の交通量の増大とともに助郷の負担は増加の一途をたどり、しかも農繁期といえども触が出て、有無をいわさぬ割りあてによる動員は、助郷村々の農民に大きな難儀を強いるものであった。 |

府中宿の助郷村
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このため助郷村々では、そのわずらわしさにたえかねて、しだいに課役を金銭で代納するようになり、宿場ではこの代金で交通労働者や農間の駄賃稼ぎの者をやとって、代役をつとめさせるようになった。
たとえば一八三九(天保一〇)年の本宿村の「助郷大馬其竍賄人用帳」をみると、この年、本宿村では府中宿の助郷として人足五三一人・馬七〇疋を、人足一人銭一四八文・馬一疋銭三〇〇文で代納しており、あわせて金一五両一分一一朱余を府中宿に納めている。
また一八五七(安政四)年の同村の村人用帳をみると、この年の本宿村の助郷関係の出費は、助郷伝馬の人足賃銭一五一貫三八四文に、助郷総代の問屋場での日〆(ひじめ)立会入用の二九貫文余を加え、あわせて銭一八〇貫五四五文とかっている。
これは村人用(村の運営経費)全体の二六・一パーセントをしめており、助郷課役の金銭による代納が村の大きな経済的負担となっていたことが知られる。
さて、街道の公用貨客の増加が宿駅の負担を増加させたことは前に述べたが、そうした場合、宿駅としては自らの負担を軽くするため、いきおい助郷村々へ負担を転嫁しようとし、ここに宿駅と助郷村々との対立という事態が発生するのであった。府中宿とその助郷村々との間にも、こうした対立関係はしばしばみられたにちがいないが、両者の抗争にまで発展したという記録は残っていない。
ここでは双方が協議して助郷人馬数の取りきめが行なわれていたようで、一八四七(弘化四)年二月には、助郷村々ぱ一年間に助郷方の負担する人馬数を、あわせて人足九〇〇〇人(馬一疋を人足二人に換算)のワク内にしてほしいという意味の申しいれを行なっており、協議の結果、これに三〇〇人をプラスした九三〇〇人ということで合意をみている。
では宿駅と助郷村々との人馬勤役の割合はどうかというと、たとえば一八三〇(天保元)年は、全体で人足一万一二九〇人・馬三〇八九疋のところ、宿場負担が人足五五五三人・馬二八七四疋、助郷村負担分が人足五七三七人・馬ニー五疋であり、宿場側か六四・七パーセント、助郷側が三五・三ハーセントとなっている。この割合はこの年にかぎったものではなく、幕末期には一般的な数値であった。この場合、助郷村の出勤はその大半肩人足であり、馬での勤役は宿方の一〇分の一にも満たなかった点が、いちじるしい特色であった。
2 宿場をめぐる社会生活 top
繁盛する飯盛旅館
一八世紀も後半になると、甲州道中心参覲交代や公用の武土たちのみならず、信州・甲甲府方面との商品輸送に従事する商人、そして身延山や富士山への社寺参詣者から物見遊山の客たちまで、往来はしだいに頻繁となり、行きかう人々もバラエティーに富むようになった。
そしてそれにつれて宿場もいつしかその性格に変化をみせるようになった。そのひとつが飯盛旅籠の出現である。
がんらい宿場には遊女を置いてはならないとされ、遊女屋は町方の特定の一画を限って許可されるのが原則であった。
しかし街道を旅する者が増加すると、旅籠では飯盛下女の名目で媚を売る女を置き、客引きの種とするようになった。
また宿場としてもそれによって客足がふえ、宿方がうるおうことを考えると、一方では風俗の悪化をおそれつつも、これに反対はしなかった。
こうして各宿場には遊女屋同様の飯盛旅籠(食売旅宿)が次々とあらわれ、宿場の風俗を大きく変化させることとなった。
さて府中宿に公認されたかたちで飯盛女をかかえる旅籠が出現したのは、一七七七(安永六)年のことであった。
はじめ大丸村(稲城市)出身の東屋甚蔵という者が、三町の宿役人の諒承をとり、さらに代官所の許可を得て新宿で開業した。 |

飯盛女郎の墓(称名寺)
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ただし、一般の平旅籠とは異なり、宿駅の伝馬勤めのほか、一年に三町へ二両づつ、あわせて六両を宿益金として差出すという条件つきであった。
また同じ年に、やはり新宿の倉田屋太左衛門が、つづいて番場宿の鉄五郎が開業したが、鉄五郎はまもなくやめてしまい、寛政期(一八世紀末)頃までは新宿の二軒だけが営業していた。
この間、飯盛旅籠は三町の諒解のうえで開業したとはいえ、その性格上当然のことながら、やがて宿場の風紀章治安にとって好ましくない問題を起こすこととなった。
そして開業から五年後の一七八二(天明二)年、廃止すべしとの意見示宿内から出るようになると、府中新宿では議定を結び、飯盛旅籠の営業について自粛を申しあわせている。
しかし申しあわせは守られなかったようで、その後まもない一七八六(天明六)年には、本町・番場宿の二町により、新宿名主と二軒の飯盛旅籠が訴えられている。
こうした宿内での反対の声にもかかわらず、飯盛旅籠は廃止になるどころか、一七九九(寛政一一)年には番場宿の覚右衛門が開業して三軒とたった。
その後、一八〇四(文化元)年八月に東屋甚蔵が内藤新宿(新宿区新宿)へ引きうつり、再び二軒となったが、また少しずつ増加したようで、一八三〇(文政一三)年の史料をみると、東屋・杉嶋屋・増田屋こ倡本屋・金本屋・越後屋・三浦屋・万年屋の八軒の名がみえる。
それ以後は、店により消長があるものの、三町あわせて八軒のまま維新をむかえたようである。
宿駅の窮乏を救う手段としてとられた飯盛旅籠の設置は、がんらい旅人の誘致策であったが、しだいに宿内や周辺の農民をおもな対象とするようになっていった。
こうして飯盛旅籠の存在は、飯盛女の人身的犠牲により、宿内外の農民等の窮乏化をともないながら、宿駅救済の一翼をになっていたのである。
市内宮西町一丁目の称名寺の墓地には、苦界に身を沈め、若くして病魔におかされ命を落した飯盛女たちと、そこに生まれた薄幸な水子(みずこ)たちのささやかな墓石が、いまもその一角に並んでいる。
市(いち)から商店へ
宿駅は交通の拠点であるとともに、周辺村々の商業の中心でもあった。
武蔵府中では、早くも南北朝時代に六所宮の五月の例大祭に市が立ったことが記録にみえるが、近吐でも六斎市(月に六回開かれる定期市)が立ち、多くの人々を集めたようである。
府中の六斎市は毎月五と九のつく日の六回であったといわれるが、これはやがて中絶し、江戸時代の後半になると、一年のうち七月一三日と一二月晦日の年二回市が立つだけになった。
こうした市の衰退や消滅は各地にみられるが、それは必ずしも経済活動が低迷したからではなく、むしろ宿場内に常設の店舗が増加し、恒常的な商品流通の拠点としての町場が形成されたため、市の必要性が減少したものと考えられる。
では府中宿内でどのような商業活動が行なわれでいたのであろうか。
一八四三(天保一四)年六月の「農間諸商名前書上帳」によると、当時府中三町で商業をいとなむ一四二軒の業種と名前が記されているが、これをまとめたものが次ページの表である。
天保末年における府中三町の戸数は四三〇軒ほどであるから、この表にある一四二軒という数字はその三三パーセントをしめている。
しかもこの数字にば大工や左官といった職人は含まれていないので、これらをいれると、なんらかの形で商工業にたずさわっていた者は、三町全体の四割を越えていたものと思われる。

府中宿の風景(『武蔵名勝図絵』)
多い旅館と飲食店
さてつぎに右の表によって、その商売の内容をみると、まず宿場のこととて旅籠(はたご=旅館)の多いことが目につく。 旅籠で煮売壱膳飯(いちぜんめし)商い、すなわち茶屋を兼ねていたものが二一軒、そして平旅籠が九軒、さらに飯盛女を抱える飯盛旅籠が八軒あり、あわせて三八軒もの旅宿が営業していたことがわかる。
つぎに専業の煮売壱膳飯商いが九軒あるが、前述したように旅籠でこの商売を兼ねるものが二一軒もあり、ほかに小間物商いを兼ねる家を一軒加えると、全体としては三〇軒を越える。
これに饂飩(うどん)・蕎麦(そば)商いの四軒をいれると、飲食店の多いことにおどろかされる。
さらに菓子商いの多いことも特色のひとつといえよう。
すなわち水菓子屋や団子屋をも含めた菓子類商いは、じつに一九軒にものぼっており、このうち一〇軒が専業、八軒がかたわら草履(ぞうり)・草鞋(わらじ)を売っており、一軒は青物商を兼ねている。 |

府中宿の商売 1843(天保14)年
「府中宿農間諸商名前書上帳」による
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このように菓子屋の多いことは、当時すでに消費水準がかなり高かったことをものがたるものであろう。
なお、この頃の府中村々の菓子屋については、つぎの章で別に紹介しよう。
そのほかでは、荒物商いが多いが、その大半は升酒(ますざけ)や小間物・塩物等との兼業である。
このほかの業種をみていくと、鍋釜・鉄物・衣類・蝋燭・筆墨・万薬種・糸綿・穀類・油・醤油から、傘・提灯・建具・旅籠等にいたるまで、宿内はもちろん周辺農村の生活必需品をまかなうに足る店がひととおりそろっており、府中宿が周辺村々の生活上の中心地としての役割りをはたしていたことがわかる。
しかし、一方において、穀物商が意外に少なく、また農業にとって不可欠の肥料を取扱う店がみられないなど、農業生産との関連が希薄であり、当時の府中宿は産業的というよりむしろ消費的な中心地という性格が濃かったと考えられる。
また茶屋や煮売壱膳飯屋、そして菓子屋といった飲食関係の店が目だって多いこと、さらに飯盛旅籠等の存在を考えると、これはあるいは宿場町としての共通の性格かもしれないが、当時の府中宿は、多分に遊楽的というか歓楽的な側面をも色濃くもった町場であったことが推察される。
なお、これより五年ほど前の一八三八(天保九)年九月の「府中宿外二五ヶ村諸商人取調書上帳」をみると、府中宿の商業をいとなむ七四軒の名がみえるが、このうち一八〇〇(寛政一二)年以前の創業はわずか二〇軒、全体の二七パーセントにすぎず、それ以外はいずれも一九世紀になってからの開業となっている。
これをみても、府中宿に商店街ともいうべき町並みが形成され、にぎわいをみせるのは、やはり一九世紀に入った文化・文政期以後のことといえよう。
宿場の財政
さてつぎに府中宿の宿財政についてみてみたい。
まず上の表は、一八四一 (天保一二)年分の諸入用勘定帳の内容をまとめたものである。
順序は逆になるが、先に払方(支出)からみていくことにする。
宿駅で、もっとも大きい負担は公用貨客の継送りである。府中宿の場合、これを一〇五軒半の伝馬屋敷所有者かっとめたのであるが、しだいに彼らは実際に人馬役をつとめることをしなくなり、農村から流れこんできた交通労働者(雲助等)を雇揚げ、彼らに代勤させるようになった。
府中宿では、八人・六疋の囲人馬をのぞいて人足一七人・馬一九疋を常備しておかねばならなかったが、この雇揚金がFで、一年間人足一人金三両、馬一疋金六両であり、あわせて金一六五両となり、全体の六割をしめている。
つぎに多いのはIで、幕府役人が公用で休泊したさいの旅籠屋への不足分補てん手当金である。
役人の休泊は無料、もしくは実際の相場の半額程度であるお定め賃銭で支払われたため、宿となった旅籠の負担は大きかったから、このように宿全体で不足分をおぎなったのである。
この分は金にして五六両(金六両三朱、銭三五一メ九二二文)にのぼり、FとIで払方の八割を越すのである。 |

府中宿の収支 1841(天保12)年の府中宿賄諸入用勘定。
天保14年「去丑年、宿賄諸入川勘定帳」(菊池家文書)より作成。
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というのも、公用貨客の継送りと休泊というこの二つが、近世宿駅制度の基本業務であったからである。
さて宿駅では、こうした入用に必要な金銭をどのようにして集めたのであろうか。
それが賄元金の欄の記載である。賄元金は取立金つまり収入にあたるもので、@Aはともに人馬役をつとめた者の報酬の一部を問屋場がピンハネしたもの(刎銭=ハネセン)、またBはあとで述べるが信州や甲州から江戸へ商品を送り出す私的運輸業者である中馬や、近くの村々から荷物をつけ送る小荷駄馬から、一頭につきいくらかを口銭(通行料)をとり、それを宿の助成にあてだものである。
そしてCが全体の七四パーセントをしめる立人馬と帳付・馬指の抱給金の負担分であり、これは一〇五軒半の伝馬屋敷保有者と一部の出作百姓の負担になるものであった。
この伝馬屋敷保有者から取立てる一一三両余のうち一〇五両は、御伝馬宿助成御貸付利益金の利息として年々下渡されたため、実際に取立てたのは残りの八両余であった。
この御伝馬宿助成御貸付利益金というのは、府中三町と出作百姓が、伝馬役勤仕の助成にしようと、年々積金し、あわせて一一五〇両余を幕府の馬喰町御貸付役所へ預けおき、毎年その一割を利息としてさげわたされたものである。
つぎにDは、宿内の八軒の飯盛旅籠から三両ずつ御伝馬助成として取立てるものであり、Eは宿内の旅籠屋二九軒から御用宿賄足銭として旅人一人につき銭何文かずつ(五文あるいは八文といわれる)取立てたものである。
このように府中宿では、一八四一(天保二一)年には、宿入用の大半をしめる立人馬の抱給金については、すでに御伝馬宿助成御貸付利益金という制度によって、その大半をまかなう態勢ができていた。
そしてその残りは、問屋場での人馬賃銭の刎銭(ピンハネ分)、中馬や小荷駄馬からの口銭、飯盛旅籠からの上納金、旅籠からの御用宿賄足銭(まかないたしせん)の取集め等でまかなってしたのである。
こうしてみると、これらはいずれも公用による休泊・運輸の負担を、一般旅行者や商品へ転嫁したものであった。
そしてこの年に差引二四両一分余の不足が生じたが、この不足分は宿内の百姓から高割で取立てている。
増大する中馬(ちゅうま)輸送
さて、荷物を輸送する場合、江戸時代の宿駅制度によれば、ある宿場からとなりの宿場を越えてその先の宿場に直接荷を送ることは禁じられていた。
そのため、二〜三里(一〇キロメートル前後)ごとに設けられた宿場で一々荷物をつけかえ、そのたびに駄賃と口銭を払わなけ牡ばならず、しかも公用の荷物が優先するから、民間の荷物は多くの時日を要することとなった。
荷物のつけかえは荷に損傷を生じ、また時日の遅れは新鮮さを第一とする青果物等にとって商品価値を大きくそこなうものであり、さらに宿場ごとの口銭や刎銭はいたずらにコストを引きあげるものであった。
このように近世の宿駅制度は商人荷物の輸送にとってははなはだ不備なものであり、しかも商品経済の普及により商品流通が増大するという事態に応じうるものではなかった。 |

府中宿絵図
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これに対して、数頭から十数頭の馬に荷をつけて一連の綱で結び、これをひいてはとんとノンストップで目的地まで付通すという輸送方法があみ出された。
これが中馬である。
中馬は、その地形上物資の輸送を多くの牛馬による陸送にたよらざるをえず、しかも宿駅制がさほど整備されていなかった信州を中心に発達した。
最初は農民の小規模な駄賃稼ぎであったが、しだいに専業の運輸業者となったものである。
商品経済の発達とともに、一七世紀後半以降、広く普及し、一八世紀に入ると、その通行量は甲州道中だけでも日々五〜六〇〇〇駄に達し、宿駅の運送機能をはるかに凌駕するようにだったのである。
さて、先にも述べたように、物資の輸送は、公的には街道の宿駅を利用することがたてまえであり、各宿場も商人荷物の輸送によって収益をあげ、公用による宿財政の圧迫をしのいでいたのであるから、中馬の出現は、宿駅にとってはその財政をおびやかす脅威であった。
しかも中馬は宿継ぎにくらべて運賃が安く、荷傷みが少なく、かつ迅速に運べるものであるから、宿継ぎの荷物はしだいに中馬へと流れていくことになり、当然のことながらここに中馬と宿駅との争いが生じてくるのである。
府中宿においても事態は同様であり、中馬業者との間に、なん度とかくトラブルが起こり、訴訟にもちこまれたことも少なくなかった。
一七八五(天明五)年のそれは、信州・甲州方面の中馬稼ぎ人たちの差配をしていた内藤新宿の宇右衛門・吉右衛門の両人が、府中宿から甲州石和(いさわ)宿までの甲州道中二六か宿の問屋を相手どり、宿場側の中馬輸送の妨害について訴えたものである。
中馬と宿場とのトラブルは、一七世紀後半から各地にみられたが、すでに一六七三(延宝元)年の裁許(判決)で中馬による輸送がある程度公認され、以後は訴訟のたびに制限つきではあったが、それが慣行として追認されていった。
商品経済の普及による物資流通の拡大が目にみえて進行するなかで、旧態依然とした宿継ぎによる輸送は、すでに量的にも、また時間的にも、こうした事態に対応できるものではなかったからである。
従って宿場側としては、中馬一疋につき何文という口銭をとることを条件に、中馬の通行を認めざるをえなくなっていた。
この訴訟も、
@内藤新宿から布田宿までは中馬一疋につき口銭二文、
A府中宿から石和宿までは各宿ごとに一疋五〜七文の間でたがいに協議して口銭を定める、という裁許かくだり、落着したのである。
この出入りからわずか三年後の一七八八(天明八)年八月にも、八王子横山宿で中馬稼ぎをしていた九右衛門が、甲州の荷主から請負ったブドウ・ナシ・カキ等の商品荷物を府中宿で不当に差押えられたとして、府中宿の問屋三人を相手どり訴え出ている。
これに対し府中宿側は、九右衛門が駄数や口銭をごまかすため抜け道を通って商品を輸送するなどの不正を行なっていると反論した。
これは結局内済となったが、この時期にはすでに中馬による輸送は公然と行なわれており、その是非は論外であり、ここでは問題はたんに口銭の確保ということ以外には出ていない。
このように一八世紀後半になると、中馬による輸送はもはや既成の事実となり、物資輸送の主流をしめるようになっていた。
そしてこれ以後も中馬と宿場との抗争はつづき、一八七二(明治五)年の宿駅制度廃止にいたるのであるが、宿場側の退潮はおおうべくもなかった。
府中馬市の盛衰
さて最後に、直接宿駅の業務とは関係ないが、府中宿にとって忘れてはならないのが馬市である。
府中の馬市は戦国時代から江戸時代の初期にかけては、伝統ある馬市として名だかく、戦火のいまだおさまらぬ当時にあっては、関東でも有数の重要な軍馬の供給地であった。
そして関が原合戦や大坂の陣では、この府中の馬市で買いあげられた軍馬がおおいに活躍したと伝えられる。
この馬市は、府中六所宮の参道であるけやき並木の両脇の二条の馬場を会場としたようである。
六所宮の例大祭の行事のひとつである五月三日の“駒競べ”の日からはじまり、九月晦日まで五か月にわたって開催された。
馬市には南部(いまの岩手県地方)・仙台・宍戸などの各地から、有力な馬喰(馬商人)が数多くの良馬を引いて集まり、諸大名や旗本・御家人らの買いあげも盛んに行なわれたようである。
そして江戸幕府自体、毎年府中馬市のたびに御厩方の役人を派遣し、将軍の召し馬をえらんで買いあげるのを慣例としていた。
これはかって府中で買いあげた軍馬によって大坂の陣に勝利したことにちなむ吉例で、“府中御馬御買上の儀”とよばれた。 |

府中の馬市(『続・桑都日記』)
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しかしこうした格式高い府中の馬市も、しだいに衰運をみせ、やがてその使命をおえるときがきた。
戦乱がおさまり、軍馬の需要がへり、馬は武家の交通や儀礼用に使われるのみとなった。
また江戸の発展とともに浅草の藪の内と麻布十番に馬車が立つようになると、諸大名や旗本の馬の買いあげも、江戸市中でまにあうようになった。
江戸の馬市が盛んになるにつれ、府中の馬市は衰微し、しだいに良馬が得られなくなっていったのである。
そして一七二二(享保七)年、幕府恒例の“御馬御買上の儀”も府中から離れ、江戸城西ノ丸下で行なわれることになった。
その後も府中の馬市では、一〇年ほどの間は農民や商人用の小荷駄馬の売買が細々と行なわれていたが、これもやがて衰退してしまった。
しかし、府中での御用馬の買いあげはなくなったものの、大坂の陣以来の吉例としての儀式だけは残り、その後も毎年一一月には馬口労(ばくろう)頭の一人が府中に派遣され、神前において馬の地牽きが行なわれた。
馬市が廃絶してからほぼ半世紀後、府中宿はかっての馬市の盛時に思いをはせ、その再興運動をはじめた。
すなわち一七八〇(安永九)年七月には惣代名主七右衛門の名で馬市再興願いが出された。
しかしそれはかってのような長期にわたるものではなく、月六回の六斎市で、とくに武士のみを相手とするものではなく、百姓・町人用の小荷駄馬を中心とするものであるが、できうれば武州はもちろん、関東一円の中心的馬市にまで仕立てたいというものであった。
この願いは八王子宿からの横槍や、新規の仕法についての公儀(幕府)のクレームにより難航したが、一七八五(天明五)年になってやっと許可かおり、武蔵・上野・下野等六か国の馬口労(ばくろう)を集めて取りきめが行なわれ、馬市は再開された。
しかし府中宿の期待にもかかわらず、再興された馬市はかっての隆盛をとりもどすことはできなかった。
馬口労も馬もあまり集まらず、そのうえ様々な不正取引きが続出し、わずか数年を出ずして再び中絶の憂き目をみなければならなかった。
もはや府中の馬市は、安価な小荷駄用の馬を扱う地方の小馬市としてさえ存続することは不可能となっていた。
しかし府中宿の馬市に托す夢はこれで消えさったわけではなかった。
中絶のあと数年すると、また再興を出願して再興するが、これもまもなく中絶した。
以後、寛政・天保・安政と五度にわたって再興と廃止をくりかえしたが、長くつづくことはなかった。
それでも府中宿の馬市再開と、七社による宿場の繁栄への期待はやまず、なおも一八六六(慶応二)年になっても再興運動は続けられたが、みのらぬまま幕府の崩壊をむかえたのである。
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