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三章 近世前期の府中
1 徳川氏と六所宮 top
新しい頷主と村々
一五九〇(天正一八)年七月、後北条氏の滅亡後まもなく、徳川家康の関東移付が発表され、八月一日家康は旧領である三河・遠江(とうとうみ)・駿河・甲斐・信濃の五か国を離れ関東へ移り、江戸を本城とした。
これは“江戸御打入り”とよけれ、のちの徳川氏の覇権確立にとって重要な画期をなすものとして、後々までも幕府に銘記される事件となった。 |

家康の礼状 六所神主あて。(大国魂神社蔵)
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古くから各地で旧暦の八月朔日には秋の収穫を祈る“八朔(はっさく)の祭り”が行なわれていたが、江戸時代には、家康の関東入部(自分の領地に入ること)を記念して祝う意味もあり、八朔の行事はことさら盛大に行なわれた。
府中の六所宮(ろくしょのみや)でも、徳川氏との関係は浅からぬものがあり、毎年八月一日には“八朔の角力”が行なわれ、境内は多数の群衆で雑踏したことが記録されている。
なおこの大国魂神社の八朔の角力は、明治以後も引続き行なわれ、現在でも市内外の多数の素人力士が土俵で力をきそいあい、観客を楽しませている。
六所宮は、家康の関東入部の翌一五九一(天正一九)年一一月、五〇〇石という武蔵国では最大級の社領を家康から寄進されるなど、徳川家の手あつい保護をうけていた。
のち関が原合戦のおりには、将軍の命令により日夜戦勝の祈願を執行した。
戦後、その祈願成就の功により、表参道に二条の馬場が寄進され、けやきの苗が補植されたといわれるが、これが現在みられる国の天然記念物 「馬場大門けやき並木」である。
その後も、一六〇六(慶長一九)年には大久保長安を奉行として六所宮の本殿をはじめ諸末社までの社殿が造立されたが、これも関が原戦勝の祈願成就によるものかもしれない。
さらに一六一四(慶長一九)年の大坂の陣においては、神主猿渡左衛門佐が召され、再び戦勝祈願の厳命があり、神主はさっそく陣中の家康に祈願守護の扇子を送りとどけている。
これに対し家康は陣中から御礼の書状を出したが、この時の家康の黒印を押した武蔵六所神主あての書状は、現在、大国魂神社の宝物毆に社宝として保管されている。
家康の放鷹(ほうよう)
このように府中六所宮は、入部当初から徳川家康の崇敬をうけていたが、このほか府 中の地は放鷹を通じて、家康と関係深い土地でもあった。
飼いならした鷹を山野に放って鳥獣を捕えさせる放鷹(鷹狩・鷹野ともいう)は、古くから行なわれていたが、日本では中世の武土の間で盛んとなった。
元々は鍛錬と娯楽とをかねた行事であったが、戦国時代以来、領内の民情や敵状を探ろうとする政治的な性格が加わるようになった。
家康は戦国武将のうちでもとくに放鷹を好んだひとりで、生涯を通じての放鷹の回数は一〇〇〇回を越えたと伝えられる。
家康は江戸城居住中はもとより、将軍職を秀忠にゆずり駿府(静岡市)に移った一六○七(慶長一二)年以降も、武蔵をはじめとする関東の野に出向いて放鷹を行なっており、武蔵府中へもしばしば立寄っている。 |

府中御殿の跡地 左上の台地上が御殿地で、いま本町1丁目。
台地下の水田はいまの矢崎町・日吉町。(『武蔵名勝図会』)
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たとえば、一六○八(慶長一三)年九月一二日、そして一一(慶長一六)年一一月一四日には、家康は駿府から関東に放鷹にでかけ、府中で秀忠と会見している。
そしてこうした場合に、宿泊あるいは休憩に使用されたのが府中御殿であった。
この府中御殿の跡地は、国鉄南武線府中本町駅の東どなりの“御殿地”あるいは“御殿山”といわれる高台(本町一丁月)で、『武蔵名勝図会』には、「六所社地より僅かに隔てたる西の方にて丘陵の上なる平担の地これなり。いまは広さ二町歩許。東北は六所の社地并(ならび)に府中町家に続き、西より南の方へかけて水田の地、また玉川の流れを眼下に望みて崖岸の高さ三丈ばかりもあるべし。玉川向うは百草(もぐさ)、一の宮、関戸、大丸あたりに続きたる山々を眺望する佳景の勝地なり」と述べられている。
府中御殿
この地に府中御殿が設けられたのは、徳川家康の関東入部とほぼ同時期であり、一五九○(天正一八)年七月二〇日、小宮領大久野村(西多摩郡日の出町)の四郎左衛門という番匠(大工)がその作事(工事・普請)を命ぜられている。
この四郎左衛門は、北条氏照に作事普譜をもってつかえ、永一貫七〇〇文の地を恩給されており、徳川氏入国以後は、この府中御殿のほか、江戸城や川越御毆、八王子横山町の御鷹部屋等の普譜をつとめたといわれる。
その家に伝わる古文書によれば、一六〇一(慶長六)年三月、二一(元和七)年一一月、そして四〇(寛永一七)年にも、府中御殿の作事をおおせつけられたことが記録されている。
府中御殿は一六一七(元和三)年、前年死去した家康の霊柩(れいきゅう)が久能山(くのうざん)から日光に遷座するさい、三月二一日にここに到着して丸一日逗留しており、その後も徳川家の遊猟にしばしば使用されていたが、四六(正保三)年一〇月の府中本町の大火で類焼し、御殿は残らず灰燼に帰し、周囲をめぐっていた古木・大木もことごとく焼けて焦土となったと伝えられる。
以後、再建されることなく、原野のまま放置されてしたが、一七二四(享保九)年になり、開墾されて陸田(畑)となり、その後はわずかに地名を残すのみとなった。
さて、当時の御殿なるものは、将軍家の遊猟のさいの宿泊所・休憩所であると同時に、江戸をたずれる諸大名の送迎や接待用の施設としての役割りもあり、その意味で同じ時期に存在した御茶屋とも似かよった性格のものといわれる。
『新編武蔵風土記稿』には、当時の武蔵国に、こうした御殿が二三、御茶屋が一〇ほど記載されている。
丸山雍成(やすなり)氏によると、これらは交通施設の未発達な江戸初頭に設立され、一六三五(寛永一二)年の参覲交代制の実施と、それを契機とする幕府の宿駅制度の整備と共に、しだいにすがたを消し、その機能は本陣に引きつがれていったと推定されている。
武蔵府中においても、その跡地である“御殿山”から南方多摩川へ向かう道は、一般に“御茶屋街道”とよばれている。これは、やはり府中御殿が御茶屋的性格をあわせもっていたことを物語るものであろう。
家康の関東経営
徳川家康が新たにあてがわれた関東の領地は、武蔵・伊豆・相模・上総・下総の六か国で計二四〇万石で、このほか近江・伊勢・遠江・駿河などにあわせて一一万石の在京賄(まかない)料が与えられた。
家康は入部と同時に榊原康政(やすまさ)を総奉行として家臣団の知行割にとりかからせ、後北条氏時代の多くの支城には一万石以上の上級家臣を配置し、徳川氏の直属常備軍(旗本)を構成する一万石以下の小身の家臣を本城である江戸に近接した地域に集中させた。
また徳川氏の直接の経済基盤である蔵入地(直轄地)は、総石高の約四割にあたる一〇〇万石にものぼり、しかもそれらの人部分を江戸の近辺に集め、直臣(じきしん)団の知行地とあわせて、江戸を防衛するという政治的機能を発揮できるよう、たくみに配慮したといわれる。
そして入部後まもなく検地を行なって、領国の土地・生産高そして農民の把握につとめたが、長い間の後北条氏支配のあとということもあり、最初から強引なやりかたはせず、在地の状況に則した現実的な方法をとり、民心の掌握につとめた。
また一方で、江戸を領国の政治・経済の中心にしたてるため、商工業者の誘致と城下町の整備につとめ、着々と関東領国の支配体制をかためていった。
家康は一五九八(慶長三)年の豊臣秀吉の死後、五大老の筆頭として諸大名をリードしたが、九九(慶長四)年閏三月、次席の前川利家が死ぬと、ほとんど独裁的な力をふるうようになった。このため石田三成ら豊臣系大名との対立がいよいよ深まり、両者は一触即発の状況となった。
こうしたたかで同年九月、石田三成を黒幕として、大野治長・土方雄久らが大坂城中で家康の暗殺を企てるという事件が発覚、当時五奉行のひとりであった浅野長政もこの事件に連坐するところとなった。
大野・土方両名は流罪となったが、長政は直接関与した形跡もなかったため、その分国である甲州へ閑居という処分になった。 しかし長政は翌一〇月、武蔵府中へ来て隠棲(いんせい)したのである。
それは、長政が自領の甲州ではなく、家康の領地内の江戸に近い府中において謹慎するごとにより、家康に対してことさら恭順の意をあらわそうとしたものといわれる。
長政は一六○○(慶長五)年九月の関が原合戦には、子息平長と共に徳川方として出陣しているので、府中に隠棲していたのは、せいぜい半年ほどのことと考えられる。 |

浅野長政隠棲の跡(白糸台五丁目)
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この浅野長政隠棲の跡地(白糸台五丁目)は都の旧跡に指定されており、かっては当時の土塁等が残されていたが、現在では整地され幼稚園となっている。
なお、この地の所有者である平田家は、当時長政に従ってきた浅野家の遺臣の末裔といわれる。
市域の村戸知行割
徳川家康は関東入部後、ただちに家臣の知行割を行なったが、前に述べたように、その基本方針は、
@徳川家の直接の経済的基盤である蔵入地(直轄領・天領)を江戸近辺に集中すること、
A家臣の配置は小禄の者(旗本クラス)を江戸近辺からせいぜい一夜泊りの範囲に置き、大身の者(大名クラス)を遠方の要地に配置すること、の二点てあった。
これは徳川氏の本拠江戸城下の需給を安定させると共に、一朝有事のさいにそなえて、江戸城の兵糧と常備軍を確保するためといわれる。
こうした方針で知行割が行なわれたため、江戸をようする武蔵国では、とくに蔵入地と、直臣である旗本の知行地が多いのが特色である。
しかもこうした旗本等への知行地の与え方は、一人につき一か所にまとめて与えることはせず、何か村かに分けて与えるのが一般的であった。
そのためさほど大きくないひとつの村が何人もの領主に分けて与えられること(分給・相給)もめずらしくなかった。
このような複雑なかたちをとったのは、江戸周辺において領主権を細分して特定の領主に強い権限をもたせないようにすると共に、一方において、支配下の農民が団結して領主に反抗することを困難にするためと考えられている。いずれにしても、多摩郡の場合、全体で三一九か村のうち二一五か村が複数の領主の相給となっている。
さて、つぎに府中市域各宿村の支配状況をみてみると、右の表のとおりである。
これによって、正保年間(一六四四〜四八年)の府中市域全体の村高(米の生産高の合計)からみると、幕府の代官の支配する幕府領が全体の七八パーセントをしめ、旗本知行地が一〇パーセント、寺社領が一二パーセントであった。
幕府領は、当時の市域の一六か村のうち一四か村をしめており、そのうち中河原村だけが代官高室百三郎の支配地で、残りはすべて代官野村彦太夫の支配下にあった。 |

府中領の村と領主 押立村のみは世田ヶ谷領。
正保年間(1644〜48年)の「正保田園簿」による。
領主名の(代)は幕府直轄領で代官支配地、
(知)は旗本知行所、(寺)は寺領、(社)は
社領である。
六所明神領はおもに八幡宿に集中していた。
(『府中市史』より)
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幕府領一四か村のうち、半分の七か村が一給の村であり、五か村が旗本領との相給、残り二か村にわずかずつではあるが寺院領が入組んでいた。
またこれらのほか人見村と押立村は全体が旗本領、八幡宿は六所宮の社領であった。
村々の地頭たち
ここで市域内の当時の私領主(地頭)について簡単にふれておきたい。
まず押立村一九一石余と、常久村のうちに一七〇石余を領地としていた旗本高林氏は、今川氏の庶流といわれる。
初代の市左衛門吉利が徳川家康につかえ、一五九一六文禄元)年武蔵府中に三六〇石余の地を与えられ、あわせて府中領の代官となった。
彼は江戸時代における府中領初代の代官であり、その墓は二代弥市郎吉次の墓と共に市内片町の高安寺にあり、市の旧跡に指定されている。
二代弥市郎吉次は加増をうけて五一〇石余の知行取りとなり大番組頭をつとめ、三代弥市郎利春は御徒組(おかちぐみ)の頭や書院番などを歴任、数度の加増をうけ家禄は二〇〇〇石を越す大身の旗本となった。
その千弥一郎利之も御書院番・小十人組番頭・下田奉行・御先鉄砲頭などを歴任したが、彼の代の一六九八(元禄一一)年、いわゆる“元禄の地方直し”によって知行替えとなり、四代一〇〇年つづいた押立・常久両村の支配に終止符を打った。
小田分村のうち一一〇石の地を知行していた神谷氏は三河出身の旗本で、初代九郎左衛門政利が家康につかえ、次の伝十郎政直の代に関東にきて多摩郡内に三〇〇石の地を与えられた。 |

高林吉利の墓(高安寺)
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そして二一六○一(慶長六)年に跡をついだのが八郎左衛門政成で、家禄は加増されて五二〇石、大番に列し、のち三四(寛永一一)年に飯倉八幡宮の造営奉行をつとめている。
その千直重も大番をつとめ、また小普請奉行にもなっている。小田分村における神谷氏の知行はその後も幕末までつづいた。
人見村の領主山中氏の初代は吉久と袮し、甲州武田の家臣であったが、武田氏滅亡後は召しだされて家康につかえた。
二代吉正も父と共に家康につかえ、御巣鷹役となり甲州にいたが、一六四七(正保四)年に没している。
その子吉長も、次の義久も御手鷹師をつとめている。しかし山中氏の人見村支配は吉長の代で終ったものと思われ、延宝年間(一六七三〜八一年)には旗本の青木氏がこれに代り、幕末にいたっている。
なお、府中新宿で七五石余を知行した窪田善九郎、そして車返村内でわずかではあるが知行地をもつ原権左衛門・中村弥左衛門そして窪田助之丞の四名は、いずれも八王子千人同心頭である。
2 検地と農民の負担 top
二つの検地帳
戦国大名がみずからの領国の支配を確固たるものにするためには、まずなによりも領国の土地と人民をしっかりと把握し、そこからの貢租を確保しなければならない。
そしてそのために実施されたのが検地であった。
検地をはじめて全国的に組織的に行なったのは豊臣秀吉であった。
秀吉は一五八一六天正一〇)年、山崎合戦の直後の山城国の検地を手はじめに、翌年から畿内・北陸・四国・九州・東海・東北と、支配地の拡大に応じて次々と検地を実施していったが、こうした秀吉による一連の検地は太閤検地とよばれる。 |

初期の検地帳 右は1590 (天正18)年の、左は1594
(文禄3)年の、それぞれ常久郷検地帳。(吉野岩吉氏蔵)
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太閤検地では、土地ごとにその年貢負担に責任をもつ百姓を確定して検地帳(水帳)に登録したが、その場合、できるかぎり実際に田畑を耕作している農民を年貢負担者として登録する方針をとった。
こうして、これまで多くの従属的農民を支配してきた土豪的農民等による中間での搾取をみとめず、“一地一作人”の原則をつらぬいた。
この政策により、中世以来の土地についての複雑な権利関係が清算され、検地帳に記載された作人(名請人)は、その耕作権が保護され、小農民として自立することとなった。
こうして中欧の荘園制やそれにもとづく農民支配の仕組は消滅し、検地帳に登録された封建的小農民を主体とする近世の村落が成立するのである。
さて、徳川氏は関東入部後まもなく、一五九〇〜九一(天正一八〜一九)年に検地を実施し、わずか四年後の九四(文禄三)年にも再び検地を行なっており、新領地の正確な掌捉をはかった。
さいわいなことに府中市域においては、この二度にわたる徳川氏の初期検地の貴重な水帳が残っており、当時の検地のありさまや村落の様子をうかがうことができる。
それらはいずれも市内若松町一丁目の吉野岩吉氏所蔵(現在は市立郷土館保管)の常久郷の検地帳であり、ともに市の郷土資料に指定されている。
まず天正の検地帳をみると、この時の検地は家康の関東入部のわずか一か月後の九月一五目から一九日にかけて、甲州衆の河西総右衛門を奉行として行なわれている。
その結果、常久郷の田畑はあわせて二七町六反歩余であったが、そのうち七町五反歩余、すなわち全体の三割(水田については四六パーセント)が「不作」となっており、戦国末期の農村の荒廃のさまが推測される。
そしてここには五八人の耕作者の名がみえるが、いずれも名前の上に「田村分」を記されており、彼らが田村という大物になかば隷属した百姓、すなわち分付(ぶんつけ)百姓であったことがわかる。
このようにこの時点では、いまだ田村という有力者が常久郷において得分(とくぶん)権を有していたのである。
この田村氏についてはくわしいことはわからないが、『府中市史』は、六所宮の社家のひとりである田村氏ではないかと推定している。
つぎに文禄の検地帳をみると、耕地は水田が一六町九反歩余、畑が一三町九反歩余であり、ここでは田村氏の名はないが、やはり一九人の百姓が分付主として登場し、その下に分付百姓三七人の名がみえる。
なお、この常久郷の二つの検地帳は、わずか四年のちがいにもかかわらず、そこに記載されている農民の名前が合致するのはごくわずかであり、水田の増加も検地による打出し(定まった村高より多い石高)とは考えにくい点もある。
あるいはこの検地帳は同じ常久郷でも異なった地域を対象にしたものかもしれない。
従って両者を単純に比較することはできない。
幕府による検地
以上、豊臣政権下で、徳川家康が関東領国に実施した検地の一端を市域においてみてきたが、一六〇三(慶長八)年に江戸幕府が成立して徳川氏が政権をにぎってからも、幕府はあらためて検地を施行し、その支配をかためようとした。
すなわち江戸幕府は、新田開発等による農村の変貌や元和偃武(えんぶ)後の農民統制の変化、さらに家臣団の知行直し等との関連で広範囲の検地を実施した。
なかでも関が原合戦直後の一六〇四(慶長九)年の検地は、“辰之御繩”といわれ名高いが、府中市域でつぎに検地が行なわれたのは三五(寛永二一)年のことであった。
この寛永の検地は、小金井市や調布市域の村々でも実施されており、市域周辺では広範囲に行なわれたと思われるが、市内では四ツ谷村と下染屋村にこの時の検地帳が残っている。
さて、幕府は寛永末年の全国的飢饉による農村の荒廃を契機に、その財政的基礎である年貢を確保するため、その負担者である小農民の自立と経営維持をはかる方針をいっそう徹底し、そのため農民の経営や生活の細部にわたって干渉を強めたが、そうした基本方針は一六四九(慶安二)年に出された検地条令および“慶安の御触書”に集約された。
前者は適正な検地の実施を要求し、検地役人の恣意的な農民使役を禁止、さらに分家した次男、三男の耕地を検地帳に登録して彼らを自立させ、年貢の負担者にとり立てる方針をかかげている。
後者は全三二条からなり、小農民の自給経営を維持させるための農業技術面の指導と、衣食住をはじめとする日常生活の細事にいたるまでのきびしい統制と勤勉の強制を内容としたものであった。
慶安御触書の主旨と検地条令の基調をふまえ、全国の幕府領に実施されたのが寛文・延宝期(一六六一〜八一年)の総検地であった。
一般に関東の幕府領は寛文期に、畿内幕府領は延宝期に総検地が行なわれたといわれるが、府中をはじめとする武蔵の平野部では延宝期に実施されている。
市内では、現在府中三町ほか七か村にこの時の検地帳が残されているが、幕府領の村々では代官の中川八郎左衛門・野村彦太夫の手代衆により、一六七八(延宝六)年二月から四月にかけて実施されている。
また旗本高林弥市郎の知行地押立村では、翌年六月に高林氏の家臣三人が派遣されて検地しており、車返村の千人同心原半左衛門の給地では、中川・野村両代官の手代各一名と原氏の家臣一名の三名が立ちあって、他の幕府領と同時に検地をしている。
この延宝の検地帳の内容と寛永の検地帳の内容とを、両検地帳がともに残っている四ッ谷村と下染屋村について比較してみると、それまで土豪的な大百姓の下に隷属していた農民が、新田の開発等を契機にみずから土地を保有し、しだいに自立して本百姓となっていった状況がはっきりと現れている。
こうした傾向はもちろん市域のほかの村々でも同様であり、市域の延宝検地帳を集計してみても、新田が土地全体の三分の一をしめており、寛永検地からの四三年間に積極的な新田開発が行なわれ、新しい耕地を入手して小農民が次々と自立していったさまが十分うかがわれる。
このように延宝の総検地は、近代的な村落形成の上で大きな画期をなすものであり、市域においては、その後元禄から享保期(一八世紀初頭)に部分的に新田の検地が実施されるものの、明治にいたるまで大規模な検地は行なわれることはなかった。 |

寛永の検地帳
下染屋村御縄打帳(糟谷正之氏蔵)
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つまり市域の村々は、この延宝検地によってほぼ確定したのである。
田畑への年貢
封建領主が、土豪的な農民の下で使役されていた隷属農民の自立を促進し、さらに慶安の御触書(おふれがき)のような統制を加えて、自立した小農民の経営の維持をはかったのも、それは結局はみずからの財政の基礎である年貢収入を確保するためにほかならなかった。
一般に江戸時代の農民が負担した年貢は、大きく正租と雑租にわけられる。正租とは田畑にかかる基本的な租税のことで、本年貢あるいは本途物成とよばれた。
領主は検地によって田畑の面積と石盛(年平均収穫高)を調査し、村全体の石高、つまり村高を決定すると、その村高の何割何分というように税率(免)を乗じて貢租米(年貢米)の高をきめた。
こうしてきめられた年貢は、年貢割付状(免状)とよばれる文書で村ごとに通知され、村では村役人がそれを村内の各農民にその持高に応じて割りあてて徴収し、期限内に領主に納入させるのである。
納入は二〜三度におけて行なうのが普通で、そのたびに小手形が渡され、完納するとそれと引換えに年貢皆済目録が発行され、いっさいが完了するのであった。
また雑祖とは、田畑以外にかかる租税で、それには山林・原野・河海などの用益に課せられる小物成(こものなり)、商工業・漁業等に課せられる冥加・運上、その石高に応じて賦課される高掛物、河川の大普譜などの大きな出費のさいに特定の国を指定して課する国役金、そして助郷や普請役といった労働力を徴発する夫役等があった。 |

年貢割付状 1637 (寛永14)年、府中新宿の割付状。
(比留間一郎氏蔵)
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さて、府中市域でもっとも古い年貢の割付状は、一六一五(元和元)年の府中茂右衛門宿(のちの番場宿)のもので、現物は失われて伝わらないが、一八〇九(文化六)年、大田蜀山人(しょくさんじん)のあらわした紀行文『玉川披砂(ひしゃ)』にその全文がかかげられている。
それによると田畑あわせて高三〇七石九斗五升五合の耕地のうち、この年は旱魃で高七二石余の分が“かれ田”であり、収穫のあったのは残りの高二三五石余の地であった。
そしてそこからの取米は一四五石余、ほかに新田と卯(う)の改出し分(卯年に新たに年貢賦課の対象地となったもの)があわせて五石余あり、年貢米の合計は一七一石三升五合とたっている。
この年貢高は村高の五割六分にあたっており、かれ田をのぞいた普通の田畑の免率(年貢率)は、実に六割二分の高率となっている。
かって豊臣秀吉は、年貢率を二公一民、すなわち生産高の三分の二と定めたが、この元和の茂右衛門宿の年貢もほぼこれに準じたものであることがわかる。
つぎに、やはり府中三町のひとつである新宿には、一六三七(寛永一四)年の年貢割付状(比留間一郎氏蔵)が残っているが、これは新宿全体のものではなく、八王子千人同心頭の窪田善九郎の知行分の割付状であり、畑方のみである。
全体の石高は七五石三斗五升五合(反別一四町三反六畝一三歩)であり、それに対する年貢高は永(えい)一一貫七五九文、これを玄米になおすと二九石三斗九升八合となり、免率は三割九分、ほぼ四公六民になっている。
ここに出てくるつ「永」というのは、中世に主として流通した中国の明代の永楽銭からきた別称で、江戸時代当時実際に通用していた貨幣ではなく、いわば計算用の単位であった。そしてその時の相場に関係なく、つねに永一貫文=金一両と換算されることになっていた。
年貢の割付状には、つねにこの[永」が用いられていたが、農民が実際に納入する時には、関東では金貨と銅貨で納めたのである。
この新宿の場合も、永一一貫七五九文を、金一一両三分と銭三六文で納めたのである。なお、この割付状によると、畑の反あたり納永は、上畑一〇〇文、中畑八〇文、下畑(げばたけ)六〇文、下々畑(げげばたけ)四〇文となっており、畑の年貢としては後世に比較してかなり高率となっているのが注目される。
府中の瓜
徳川氏が関東に移り江戸を本城と定めて以後、将軍家の各種の“召上り料”の上納地が、江戸周辺の農村・漁村に設定された。
それらは特定の村に対し、高級で新鮮な野菜・果物・魚類等を栽培・採集させ、特別に将軍家用として上納させたもので、一般の年貢とはまた性格を異にしたものであった。
そうしたものとしては、東京湾ぞいの品川・芝金杉(しばかなすぎ)等のいわゆる“御菜八ヶ浦”の鮮魚、葛飾郡隅田村の野菜、柏木の成子の真桑瓜、さらには小金井の栗、多摩川の鮎等が知られているが、武蔵府中の真桑瓜もそうしたもののひとつとして名高かかった。
なぜ府中が真桑瓜の上納地に選ばれたのかははっきりしないが、府中周辺の多摩川ぞいの砂質土壌の田地が、その栽培に適していたうえ、早くからこの地が府中御殿を拠点とした将軍家による鷹狩や鮎漁とならび瓜畑での遊宴の地となっていたことが考えられる。
府中に御瓜田が設置された年代ははっきりしないが、一六一七(元和三)年にはすでに設けられていたようである。
当初は美濃国(岐阜県)の上真桑村の百姓二人が毎年二月初めに府中に来て御用瓜の栽培を行ない、上納の用をすませて八月末には帰るのを例としていたが、やがて瓜作人たちは府中と美濃との遠路の往還をきらい、府中に住みつくようにたった。
やがて瓜作人はこの美濃国の二人に、大和国(奈良県)の百姓一人が加わり、あわせて三人になった。 |

府中の瓜畑
(「武蔵府中国府台勝概一覧図」)
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ところが一六九一(元禄四)年になり、前年の瓜の出来が悪くて上納数が不足したため、これが瓜作人たちの怠慢によるものとされ、彼らは御役御免となった。
そこで府中三町の農民のうちから瓜作りの上手なもの三名が選ばれて瓜作人に任命され、以後岩次郎・甚五左衛門・所左衛門の三名の家の者が代々世襲することになったのである。
このことは、すでに元禄のころには、府中の農民の間に瓜の栽培が普及しており、しかも将軍家に献上するにたえうる品質のものをつくれるほど、その技術はすすんでいたことを物語っている。
御瓜田は、府中三町と是政村のうちから上田八反歩が選ばれ、毎年田を代えて栽培されたが、一七一七(享保二)年には二反歩にへらされた。しかし一七四〇(元文五)年には瓜の早作り試作地(促成栽培試験地)として一反歩ふやして三反歩となったが、一八三七(天保八)年になり、さらに大御所様(前将軍の家斉)への献土用として一反歩が増加、結局四反歩となった。
この瓜田からの瓜の上納数は、一七一七(享保二)年に江戸本丸へ二〇〇〇個、丙ノ丸へ五〇〇個という数字が残っているが、他の年は明らかでない。
しかし文政年間(一八一八〜三〇年)の『新編武蔵風土記稿』には、毎年七〇〇〇顆(か)とあり、さらに一八三七(天保八)年には大御所用として一五〇〇個の増作りを命ぜられており、幕末に上納数は八〜九〇〇〇個にのぼったものと考えられる。
こうした尨大な御用瓜の栽培と上納は、たんに瓜作人のみの仕事ではなく、地元の府中三町や是政村はもちろん、実に周辺三五か村の様々な負担によって行なわれたのであった。それらは肥料をはじめ、瓜の下に敷くワラ、瓜田の囲い、さらには番人足にいたるまで多岐にわたっていた。
一八四〇(天保一一)年の「府中御前栽組合村々諸色人足賃書上帳」によると、一か年に三五か村の組合村が負担する諸色(色々な品物)は、下肥一八石八斗七升七合、灰二〇石六斗六升六合、小麦殼二四二束、槍葉七四乗七分、蓋藁九五乗三分、摺縄一二八房半、藁菰八五枚、そして人足四〇二人、廻り囲い三一五間半、銭一一〇貫四二四文とあり、これを各村が村高に応じて負担したのである。
このように御前栽瓜の上納は、年貢や甲州道中の助郷役のほか、さらに周辺の農民に負担を強いるものであったが、特産品の少ないこの地方の農村に瓜の栽培をひらめ、農業技術の水準を高める作用をおよぼしたことも事実であろう。
鷹場村々の負担
徳川家康は戦国大名のなかでもとりわけ放鷹(ほうよう)を好み、府中周辺をはじめ広く関東の地でしばしば鷹狩りを行なったことは前に述べたとおりである。
二代秀忠もこれをうけつぎ頻繁に鷹狩りを行なったが、その放鷹の場所(御鷹場・御留野・御拳場などという)は、ほとんど江戸の近辺が中心であった。
三代将軍家光の一六二八(寛永五)年一〇月、幕府ははじめて江戸近郊の鷹場を指定し公告したが、それは沼辺・世田谷・中野・戸田・平柳・淵江・八条・葛飾・品川の九領にわたるもので、大体江戸から五里(約二〇キロメートル)以内の地域であり、幕府領・私領(大名領・旗本領・寺社領など)の境界に関係なく一円の土地であった。
ついで一六三三(寛永一〇)年二月には、尾張・紀伊・水戸の御三家にも鷹場が与えられたが、その地域は将軍家の鷹場の外側で、およそ江戸から五里と一〇里(約四〇キロノートル)の間であった。
このうち尾張徳川家の鷹場は多摩・入間・新座の三郡にわたり、北は川越近くから南は小金井・国分寺、東は志木の引又、西は福生・拝島にいたるほぼ二〇キロメートル四方の広い地域で、一八六か村もの村々が含まれていた。
鷹場の制度は、その後五代将軍綱吉の代の一六九三(元禄六)年一〇月、生類憐みの令によりいったん廃止となったが、吉宗が八代将軍となると事態は一変して、武を鍛錬するに好適な放鷹はいち早く復権し、一七一七 (享保二)年五月には御三家の御鷹場も復活された。
なお、この享保初年の鷹場の再興とその後の再編は、他方において、江戸周辺の知行地の分散・入組による錯綜した支配体制を補強しようとする政治的なねらいをもつものであったと考えられている。
さて、府中市域では、市域の北部を東西に走る横街道(現在の学園通り)を境とし、その北側のわずかの地域が尾州家の鷹場であり、その南側の市域の大半が捉飼場(とりかいば)となっていた。
捉飼場は取飼場とも記され、鷹の訓練や鳥類の調達のために設けられたもので、将軍家や御三家の鷹場の外側、江戸からおよそ一〇里内外の地に設定された。
この捉飼場は幕府の若年寄配下の鷹匠頭の支配下にあったが、一七一七(享保二)年八月には鷹部屋が千駄木(文京区)と雑司ヶ谷(ぞうしがや、豊島区)の二か所に設けられ、鷹匠たちは両組にわけられて、それぞれに鷹匠頭が置かれた。
そして武蔵国埼玉郡・葛飾郡・足立郡一帯が千駄木の、また相模国から武蔵国川越領・大里郡・幡羅郡・加美郡にかけての一帯が雑司ヶ谷の御鷹部屋の管轄となっていた。
この両組の管轄する捉飼場は、村高にしてあわせて五三万五〇〇〇石の地域であったといわれる。 |

尾張藩鷹場の標柱
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時代はくだるが、文政年間(一八一八〜三〇年)の史料によると、府中市域は雑司ヶ谷の御鷹部屋の内山七兵衛組捉飼場に属していたが、当時府中領の野廻り役(鷹場の管理・監視を職とし、郷鳥見ともいう)比留間民八(府中新宿)の管轄下の捉飼場の村々は、府中・国立・調布の三市にまたがる二八か村となっている。
さて捉飼場も鷹場のうちであることには変りなく、そのなかの村々も鳥獣魚類等の保護のため、様々なわずらわしい禁制があったが、そのほとんどすべてが農民の利益と対立し、農業にとって妨げとなるものであった。
そしてこのような禁制は、捉飼場に指定された村々のみならず、その外縁の村々、たとえば府中周辺でいえば、佐須村・金子村(以上調布市)、日野本郷・宮村・万願寺村・下田村・新井村・石田村・三沢村・上落川村・下落川村・百草村(以上日野市)、一ノ宮村・関戸村・蓮光寺村(以上多摩市)等においても適用されたのである。
数々のわずらかしい禁制のほかに、さらに少なからぬ負担が農民に課せられた。
それは捉飼のさいの手伝人足、鷹匠や鳥見役人の宿賄い、そしてケラやエビヅル虫等の鷹の生餌の上納、さらには江戸城内の蚊遣用の杉の葉や松葉の上納まで様々であった。
幕末になるが、市内本宿村の一八五七(安政四)年の村入用帳によると、これら鷹場関係の入用が年に金三朱と銭四八貫文にのぼっている。
そして封建領主の“鍛練”に名をかりた結局は“あそび”にすぎない放鷹のための、こうした農民への多大な負担と制限は、幕末の一八六七(慶応三)年四月七日、鷹場が廃止されるまでつづいたのである。
幕閣をゆるがした秣(まぐさ)場騒動
さて江戸中期の元禄・享保期(一八世紀初期)の府中市域に、突如として一大事件が勃発し、それが幕閣をゆるがすほどの騒動に発展した。
これがいわゆる“秣場騒”である。
秣場とは当時の農村で欠くことのできない肥料である刈敷(かりしき)や、牛馬の飼料を刈取る原野である。
府中市域の北端、小金井・国分寺両市との境界には、武蔵野の雑木林がひろがり、周辺農民の秣場として共同の入会地となっていた。
事件はこの秣場の利用をめぐる争いから始まったのである。 |

秣場騒動 下小金井村の訴状写し(河内武氏蔵)
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すなわち一七一五(正徳五)年七月六日・七日の両日、是政村(府中市)の百姓・人足ら八〇人ほどが馬五〇疋ほどをひきつれ、下小金井村(小金井市)に押しいり、粟(あわ)・稗(ひえ)・竹木・草などを刈取った。
そこで下小金井村では、さっそく翌日代官雨宮勘兵衛に訴えでると、こんどは是政村はさらに上染屋・下染屋・車返・人見の各村と徒党をくみ、馬三〇〇疋、人足一五〇〇人が弓・槍・なた・まさかり等をもって押しよせ、スギ・ヒノキ・雑木など目通り(目の高さ)二尺五寸から八寸(約七、八〇センチノートル)まわりの木を五万七〇〇〇本ほどを找取り、さらに畑の秋作物までを踏みあらすという暴挙に出たのである。
この五か村はいずれも府中市域東部の村落であり、当時人見村が旗本青木氏の知行所であったほかは、すべて幕府の直轄地、すなわち天領であった。
それにしても、一五〇〇人もの人足が弓や槍といった武器をもち、ホラ貝を吹ならして下小金井村になだれこむというのは、泰平の世にあってば信じられない事件であり、そのエネルギーにもおどろかされるが、それほど秣場というものが当時の農民にとっては必要不可欠のものであり、その利権の喪失が大きな打撃となるものであったのであろう。
当然のことながら、下小金井村はこれを代官所に訴えたが、五か村のうち人見村が旗本知行所ということで、訴訟は幕府の評定所で取扱われることになった。
三か月後の一一月四日に裁決があり、事件の頭取である是政村の平六・半之丞ほか一名が流罪、四人が追放、五か村からは過料三〇両を徴して、被害者である下小金井村に下付されることがいいわたされた。
事件はこれでいちおう落着となったが、翌年正月一一日、江戸湯島から出火した火事は大火となって伝馬町の牢も類焼し、この事件で島送りになるのを待っていた是政村の平六・半之丞の二人は逃亡してしまった。
その後、評定所のこの事件の処理について、老中の政治顧問であった有名な儒者新井白石らから批判が起こり、幕府内部で大きな問題となった。
その結果、四月二二日、この事件の担当者勘定奉行伊勢伊勢守貞教(さだのり)は「御目見遠慮」をおおせつけられ、評定所の留役五人が「役儀召放ちのうえ逼塞(ひっそく)」という処分となって、府中の秣場騒動は勘定奉行の処分にまで発展したのである。
なお、この秣場騒動の発生の社会的背景としては、やはり新田開発による耕地拡大と、それによって秣場が減少したことがあげられよう。
耕地が拡大すればするほど秣場の必要性はますであろうし、新たに開発された耕地を手にいれて自立していく小農民たちも、その再生産を維持するため秣場の利用権を要求することもまた当然のなりゆきである。
こうして秣場の減少に対して秣場の需用が増大し、これが村落内部、さらに村落と村落との間の緊張をまねき、騒動を生む背景となったものと考えられる。
事実この元禄から享保期にかけて、関東各地で広く入会地をめぐる紛争が起こっていることが報告されている。
3 すすむ新田開発 top
押立村の新田
江戸幕府も開幕以来一〇〇年ほども経過すると、政治・経済などの各分野で様々な変化、そして矛盾――すなわち財政窮乏や綱紀の乱れなどが現れ、幕府や各藩はこうした変化に対して新たな対応をせまられることになる。
八代将軍徳川吉宗による“享保の改革”は、こうした状況をふまえ、幕府の支配体制を再編し、強化することをめざしたものであった。
多岐にわたる政策が実施されたが、当面の課題は、なんといっても財政の再建であった。
このうち農村に対しては、年貢の安定的増徴のため定免法を実施し、さらに積極的には、新田即発を奨励して耕地の拡大をはかった。
とくに、従来は開発がむずかしかった幕府領・私領の入組んだ地域や、私領の地先などに残されていた未開墾地をおもな対象とし、それまで禁止されていた商人資本による開発、いわゆる町人請負新田をも公認するなど、開発を奨励した。
その結果、新田の開発は目ざましく、全国各地に新田が成立し、広大な武蔵野台地にも開墾の鍬が入り、八〇か所ほどの新田村小誕生した。
さて、そこで、享保の改革にさいしての新田開発奨励が、府中市域の農村にどのように影響したかを、押立村を例にとってみてみよう。
押立村は市域のはずれの東南端に位置し、多摩川をはさんで北岸に本村、そして南岸に向嶋という飛地があり、これは現在では稲城市(稲城市押立)に属している。
そして東どなりは調布市であり、市域内では唯一の世田谷領に属する村であった。
以前に述べたように、押立村は一五九一六文禄元)年二月、となりの常久村の大部分と共に旗本高林市左衛門吉利の知行地となって、一六九七(元禄一〇)年まで一〇六年間にわたり高林氏の支配下にあり、翌年から幕府領となって幕末にいたっている。 |

武蔵野新田開発割渡書
(河内武氏蔵)
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幕府領となった年の押立村は、多摩川北岸の押立本村(高一五〇石余、反別一四町八反歩余)、そして南岸の向嶋新田(高四一石余、反別一〇町三反歩余)が中核であり、ほかに府中領車返村のうちに原新田(高二元石余、反別四一町余)とよばれる畑だけの新田をもっていた。
この村では、のちに武蔵野新田世話役として活躍する川崎平右衛門定孝が名主として村の指導にあたっていたこともあり、享保期には積極的な新田開発が行なわれたのである。
まず、早くから開発が行なわれていた押立本村と向嶋新田内の高外見取地が一七三三(享保一八)年に高入り(村高にくり入れること)して寅(とら)高入新田となり、ついで三六(元文元)年には現小金井市域内の飛び地に高二七石八合の武蔵野新田が誕生した。
ここは林畑と野畑のみの新田であった。
さらに多摩川南岸の向嶋新田につづく河原芝地二二町歩余石開墾され、これも一七四三(寛保三)年には川原新田となり、四八(寛延元)年に高入りした。
このように押立村では享保期に三つの持添新田が生まれ、あわせて高二九石八斗一合、反別三三町三反七畝一八歩が村高に加わったのである。
増える年貢
この押立村に年貢の定免制示施行されたのは一七二三(享保八)年のことである。
そこでまずそれ以前の押立村の本村と向嶋新田の年貢をみてみると、次のようなものであった。
まず御料所(幕府領)となった一六九八(元禄一一)年は、水田の本年貢である取米(年貢として上納する米)は本村と向嶋の合計が一〇五石五斗七升四合であり、前年にくらベー○石余の減少となっており、高林氏時代の年貢徴収とほぼ同じ水準となっている。
ところが翌一六九九(元禄一二)年は風損で取米合計はわずか一五石四斗、一七〇〇(元禄一三)年が旱損(かんそん)で三五石四斗七合というように、以後元禄末から宝永年間(一七〇四〜一一年)にかけては、打ちつづく災害により、年貢賦課の対象となる田は、水田の総反別の半分ほどになってしまい、年貢取米も本村・向嶋分あわせて三〇石平均となってしまう。
しかし享保の初年になると、元禄・宝永期の洪水による川欠分もしだいに減少して水田の回復がみられ、取米も徐々に増加をみせるのである。
さて一七二三(享保八)年に代官岩手藤左衛門により卯(う)年から未(ひつじ)年まで五か年の定免が実施されたが、この年の本村の年貢取米は四〇石三升六合、向嶋新田は二二石五斗一升三合、あわせて六二石五斗四升九合である。
そしてその前年の本村・向嶋分の取米合計が六一石九斗三升であるのをみると、押立村の場合は、前年ないし二、三年前の年貢取米をそのまま定免の基準にしたことがわかる。
それは、元禄末から宝永にかけてのどん底から村々がしだいに回復し、正徳から享保に入ると年ごとに取米が増加している事実をふまえ、過去一〇年の平均をとるということをせず、過去数年間でもっとも取米の多かった前年ないし前々年の年貢高を基準として定免を実施したのである。
また原新田の畑方の本年貢(取永=とりえい)をみてみると、ここでは一〇貫文の定免になっているが、前年の一七二二(享保七)年以前一〇か年の平均取永が六貫文であるのを考えると、大幅な免上(めんあ)げといえよう。
この永一〇貫文という取永のきめかたは、大幅に減少した宝永・正徳・享保初期の取永を除外し、二〇年も前の元禄年間の水準を採用したことになる。
下畑の反あたり取永をみると、一七二二(亨保七)年に永二〇文であったが、定兔となった翌年は永四四文、つまり二・二倍となっている。
このように、押立村の事例をみても明らかのように、定免制は年貢率の引上げをもって実施されており、明らかな年貢増徴策であったことがわかる。
川崎平右衛門と新田村々
享保改革の一環としての新田開発奨励策にもとづいて、武蔵野の原野ではいっせいに開発が行なわれ、次々と新田村落が誕生していった。
そして一七三六(元文元)年には新田村々に検地があり、まがりなりにも年貢賦課地として一本立ちをしたのである。
しかし開発後まもない新田村々をとりまく環境はきびしく、その生活は不安定であった。
検地をうけたわずか二年後の一七三八(元文三)年には、早くも大凶作にみまわれ、成立まもない新田村々は壊滅の危機に瀕したのである。
当時約八〇か村にのぼる武蔵野新田の農家は一三二〇軒であったが、この飢饉のさいに、とくに救助を必要としない程度の家はわずか九軒にすぎず、どうやら百姓としてやっていけそうなものが二六軒、あとはことごとく食いつないでいくのもむずかしいほどの状態にあったといわれる。 |

川崎平右衛門肖像画
(川崎昌登氏蔵)
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これを知った幕府は、新田村々の復興にのりだしたが、それには在地の事情にくわしく、実務にも通じた、いわゆる“地方巧者”を登用することが、ぜひとも必要であった。この時、この大役にふさわしい者として白羽の矢を立てられたのが川崎平右衛門定孝である。
川崎平右衛門は、一六九四(元禄七)年、武蔵国多摩郡押立村(押立町)に生まれた。
家は小田原北条氏の家臣を祖先とする旧家で、平右衛門も村の名主をつとめていた。
彼は若いころから農業に熱心で、積極的に新田の開発を行ない、また私財を投じて近郷の貧民を救ったこともしばしばであったといわれる。
さて、支配代官上坂安左衛門が、武蔵野の開発を推進した大岡越前守の指示をうけ、押立村の平右衛門宅をたずねて新田の農民救済について相談したのは一七三八(元文三)年のことであった。平右衛門は上坂の意をうけ、さっそく窮民の救済に奔走し、翌年二月にはその功により銀子一〇枚を下賜され、苗字帯刀を許されている。
そして同年八月には南北武蔵野新田世話役に抜擢され、正式に新田村々の復興を委任されたのである。
武蔵野新田世話役となった平右衛門がまっ先に行なったのが、各農家の実態調査であった。
彼は新田農家を見まわり、暮しかた・反別・開発耕地の状況・植付状況などを調査し、貧富の差によって仁・義・礼・智・信の五段階にわけ、各々救済策をたてた。
また下役の高木三郎兵衛や矢島藤前に見まわらせ、食料や肥料の保有量、農事の勤怠を調査し、精励な者には褒美(ほうび)を与え、不精者は叱るなどした。
そして谷水堀・田用水・溜井などの普請を行なって農民に収入の道を開いた。
このようにして新田村はしだいに定着していくが、平右衛門はさらに農民の生活の安定のため、様々な施策を行なっている。
すなわち飢饉にそなえて、収穫ののち大麦・小麦・粟・稗・はと麦などを相場の一〜二割まして買上げて村ごとに貯蔵させたり、金肥の豆粕・干鰯を一括購入して安く農民にわけ与えたり、さらに染料の紫草、薬用槓物のシャクヤク・からみ大根などの換金作物の栽培を奨励、また屋敷の防風林として杉・檜・松・栗等を植えさせたりしたが、このうち栗はのちにこの地方の名産になった。
しかし彼はこのように殖産興業の面のみでなく、とかくうるおいのとぼしい新田農民たちのために、大和の吉野山から桜の苗を取りよせ、玉川上水のほとりに植え、農民たちの慰安といこいの場所とした。
これが有名な小金井の桜堤である。
幕府代官に出世
川崎平右衛門は、このような多年の武蔵野開発の功により、一七四四(延享元)年七月には大岡越前守支配下の支配勘定(三〇人扶持)となり、関東のうち多摩川筋ならびに武蔵野新田三万石の支配を命じられた。
さらに一七四九(寛延二)年には、美濃国(岐阜県)本巣郡に支配替えとなり、四万石の幕府領を支配、翌年本巣郡の本田陣屋に赴任したが、平右衛門の任務は主として美濃の輪中地帯の治水であった。
台地上の水の乏しい武蔵野から、全く情況が正反対な洪水になやむ輪中地帯への転勤であったが、平右衛門はつねに農民の立場に立って、その生活の安定を第一とする姿勢でもってのぞみ、ここでも困難な治水事業をなしとげ、輪中地帯の農民に大きな福音をもたらした。
なかでも長良川本流の逆流を防ぐための五六閘門(岐収県本巣郡穂積町)の設置は、周辺一二か村・九〇〇戸の農民と八〇〇町歩におよぶ田畑を水害から守ることができたといわれる。
そして平右衛門のたてた排水処理のための「五六川悪水堀の設置目論見」や“揚田”の奨励は、日本土木史の上でも高い評価を得ている。
川崎平右衛門の美濃での活躍は一二年ほどにおよぶが、この間一七五四(宝暦四)年七月には正式に幕府代官に任ぜられており、ときには飛騨郡代や美濃郡代の一時的な“跡預り”役などもつとめている。
その後、平右衛門は一七六二(宝暦一二)年石見国(島根県)大森代官に任ぜられ、さらに六七(明和四)年四月には、勘定吟味役となり、あわせて石見銀山奉行を兼務することとなった。
こうして平右衛門は、一介の農民から幕府財政をつかさどる勘定所の要職にまで昇進をとげたのであるが、そのわずか二か月後の同年六月六日、江戸で七四歳の生涯をとじた。墓は市内押立町の竜光寺にあり、現在都の旧跡に指定されている。
平右衛門の死後、彼の活躍した各地に、彼を敬慕する農民によって報恩塔章供養塔、さらには神社までが建てられ、長くその徳がしたわれた。
すなわち、榎戸新田の妙法寺(国分寺市北町三丁目)には武蔵野新田八二か村の農民が関東郡代伊奈半左衛門とならび平右衛門を顕彰した報恩塔があり、中藤新田の観音寺(国分寺市内町二丁目)と関野の真蔵院(小金井市関野町二丁目)には供養塔が、また小平市の海岸寺には小金井桜樹碑が建てられている。
さらに武蔵野新田関係では、川崎平右衛門の研究者である渡辺紀彦氏により、三角原陣屋跡(埼玉県入間市鶴ヶ島町)、そして坂戸市関間の浅間神社境内の「川崎大明神」の石碑等が確認されている。
また美濃においては、本巣郡穂積町の野田新田と別府花塚(べっぷはなずか)にそれぞれ川崎神社があり、同町の興禅寺では、毎年平右衛門の命日には現在でも町長をはじめとする多数の人々により法要がいとかまれている。
享保の改革では、人材を登用して勘定所機構の整備と農村支配機構を強化することが重点的政策のひとつとして上げられている。
その特色は勘定所における職務の専門分化ということであり、それだけに幕府領の開発や農政の推進には、豊かな経験をもった多くの郡代や代官の登用が必須の条件であった。
川崎平右衛門定孝の登用とその活躍は、まさにこうした幕府の政策に十分かなったものであったことは、その異例の昇進がなによりも雄弁に物語っている。
また、一方において、これほどまでに農民から敬慕されたということは、農民の立場に立ったその行政姿勢が広く共感をよんだからでもあるが、それと共に農民の心に反権力意識を喚起させなかった巧みな行政手腕によるものであろう。
異色の神道家徧無為(へんむい)
川崎平右衛門定孝の治績は以上のようなものであるが、これとほとんど同時代にこの府中市域においては、さらに二人の注目すべき人物が出て、それぞれ大きな業績を残している。
ひとりは徧無為と号した神道家の依田伊織(よだいおり)、そしてもうひとりは画家の関良雪である。
依田伊織は木姓は五十嵐氏、諱は貞鎮、通称は定右衛門、一般には徧無為という号で知られている。 彼は一六八一(延宝九)年三月一二日、府中本町の旧家五十嵐家に九男として生れた。
彼は早くから神道・儒教・仏教の三教一致の思想に共鳴し、父母に孝養をつくしつつ三教を兼学していたようである。 |

依田伊織像(善明寺蔵)
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一七一三(正徳三)年三月、はじめて『大成経』という書物四四巻に出あい、翌年三月にはその残部二八巻を入手すると、たちまちそれを尊信し、その熱烈な信奉者となるにいたった。
以後、彼はその一生をひたすらこの『大成経』の祖述と普及につとめたのである。
この『大成経』という経典は、江戸時代前期の延宝年間(一六七三〜八一年)、黄檗(おうばく)宗の僧潮音(ちょうおん)が、志摩国(三重県)伊雑宮(いざわのみや)の神官永野采女(うのめ)と相談して、聖徳太子の作と袮して偽作刊行したといわれる神道書であり、神儒仏一致と聖徳太子信仰を特色とするものであったが、伊勢神宮を誹謗するものとして当時禁書となっていた。
しかしその三教一致思想、聖徳太子の偉大性の高揚、それに神道に欠けていた体系的な経典であるという点において、その後心伊織のようにこの書に共鳴するものが少なからずおり、各方面で根強く信奉されて卜た。
依田伊織は父母の死をみとったのち、一七二一(享保六)年府中から江戸谷中に移るが、それ以後はもっぱら『大成経』の祖述に専念し、『未然本紀註』(一七二八年)、『神教経箋』(一七三一年)、『先代旧事本紀箋』(一七三三年)、『神道大宗』(一七五一年)等四〇年にわたりおびただしい著述をあらわすと共に、各地におもむき、神儒仏一致の思想を説いたのである。
こうした伊織の努力により、この思想は広く普及し、一般庶民はもとより、諳大名のなかにも『大成経』を信奉して伊織に教えを乞う者が少なくなかった。
これらのうちには、上州沼田の城主黒田直邦とその孫直亨、長州の毛利重就、下総(しもうさ)佐倉の堀田正亮、丹波園部の小出英智らがいるが、伊織の門に連なる者は四〇〇余名にのぼったといわれる。
この間、伊織は一七四五(延享二)年には、生家である五十嵐家の家財を投じて善明寺(本町一丁目)を移転・改建している。
一七六四(宝暦一四)年三月一七日、八七歳で死去し、善明寺の父母の墓のそばに埋葬された。
墓は現在都の旧跡に指定されている。
絵師関良雪(せきりょうせつ)
つぎに関良雪は、府中六所宮の社家鹿島田和泉正常の子として一七〇三(元禄一六)年に生まれた。
本名は常麻呂といい、左内と称したが、のちに東岳道人・自然斎と号している。
はじめは、鹿島田左内の名で神職として六所宮に勤仕していたが、一七四五(延享二)年八月、四二歳のとき、ふとしたことから事を起こして所払いとなり、以後江戸へ出て上野寛永寺の子院に寓居し、絵画に専念するようになったらしい。
良雪はやがて東叡山(寛永寺)の絵所(所属の絵師)となり活躍するが、多摩地区で専門の絵師となったのは、この良雪が最初といわれる。
彼は了月和尚について絵を学び、「牧渓・雪舟に倣いて水墨画を善くす」とか、「(狩野)尚信の遺風を興す」とか評されているように、牧渓や雪舟の系統をひく水墨画を得意とする一方、江戸初期の狩野派をも学んでいた。
現在、彼の作品としては、府中市本町の鹿島田盛英氏蔵「良雪自画像」(市の重宝)、同美好町の村上タキ氏旧蔵(現、市立郷土館蔵)の「布袋・鶴・亀」三幅対、同宮町大室政右氏蔵「人物図」、そして所沢市山口観音堂天井の「雲龍図」等が知られているが、作品はあまり多くない。
関良雪は、すでに一七五一(寛延四)年には、上野の輪王寺宮の口ぞえで府中の実家への出入りが許されていたが、そのまま江戸にとどまり、それから二〇年たった七〇(明和七)年に府中へ帰り、妙光院(本町一丁目)境内の旧西福寺跡に隠居し、七六(寧水五)年八月一五日に七三歳で没した。
墓は妙光院墓地にある。
なお、江戸時代後期の多摩を代表する絵師である関戸村(多摩市関戸)の相沢五流は、関良雪の弟子といわれる。 |

関良雪自画像
(鹿島田盛英氏蔵)
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