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六章 明治期の府中

  1 近代的制度と民衆 top

 神奈川県下に入る

 戊辰戦争によって旧幕府勢力を倒して江戸を占領した維新政府は、一八六八(慶応四)年閏四月には政体書を公布し、太政官(だじょうかん)を中心とする政治組織の基本を明らかにした。
 その結果、旧幕府領には府と県が置かれ、それぞれ知府事(ちふじ)・知県事(ちけんじ)という長官によって支配されることになり、旧幕時代からの藩の領地についても強い統制が加えられるようになった。
 しかし、天皇を頂点とした中央集権体制をめざす新政府にとって、封建的な割拠体制は早急に克服されねばならぬ課題であった。
 この目的にそって、一八六九(明治二)年、各藩主がその版図(領地)と戸籍(領民)を自発的に朝廷に返還するかたちをとって“版籍奉還”が行なわれ、全国の土地・人民はみな法制上朝廷=新政府の支配下に属することとなった。

 さらに一八七一(明治四)年七月、新政府は薩長土三藩一万の兵を集め、この武力を背景に廃藩置県を断行した。 版籍奉還で藩知事となっていた旧藩主(大名)を東京に集め、代って中央から新たに知事を派遣して、ここに旧来の封建制度による土地・人民の支配組織は、名実ともに廃止されたのである。
 さてこの過程で、府中市域の大部分は、まず一八六八(慶応四)年六月、武蔵国に任命され九三人の知県事のひとり松村忠四郎の管轄下に、そして中河原・四ッ谷の丙村は江川太郎左衛門が知県事をつとめる韮山県の管轄下に所属するが、これらは単にそれまでの幕府の代官とその支配地を名称変更しただけのものであった。
 そしてまもなく松村忠四郎に代って古賀一平が武蔵知県事となるが、版籍奉還にさいしてその管轄下の宿と村は一八六九(明治二)年二月に品川県となり、市域の宿・村は県下二四の番組のうち、第八・九・一○番組の所属となった。
 前に述べたように一八七一(明治四)年七月に廃藩置県(最初は全国で三〇二県)が実施されたが、それに伴い同年一一月には大規模な府県の統合が行なわれ(三府七二県)、とくに関東地方では七一府県が一府一一県にまとめられた。
 このとき韮山県と品川県はともに廃止となり、市域の宿・村もその一部は一旦、入間県に所属したものの、一八七二(明治五)年一月にはすべて神奈川県の管轄下となった。
 府中市域をはじめとする多摩地域がなぜ神奈川県となったのかは明らかでないが、八王子を中心とする生糸・絹織物地帯を開港場の横浜に直結させようとする意図によるものと考えられている。
 これ以後多摩地域は、一八九三(明治二六)年四月に東京府に編入されるまで、一二年間にわたり神奈川県の一部を構成したのである。


里程標 品川県当時、
甲州街道に立てられたもの

 北多摩郡役所
 一八七二(明治五)年、各県の下には大区小区制がしかれ、全国的に県―大区―小区という地方行政区画のラインが打ちだされた。
 神奈川県でも一八七四(明治七)年六月には大区小区制が採用され、県下を二〇の大区と一八二の小区に区画し、府中市域はその第一〇大区に所属することとなった。
 しかしこの大区小区制は、戸籍作成上便宜的に設けた戸籍区をそのまま行政区に転用したもので、長い間人々の生活共同体となっていたかっての町や村といった地域社会を無視した、多分に上からの画一的・人為的な区画であった。
 このような地方の実情を無視した一方的な行政制度の下で、学制・徴兵制・地租改正といった近代化や富国強兵政策が上から強行されたため、地方農民の不満・反発が強まり、各地で騒擾や一揆が続発するところとなった。
 そこで政府は、内務卿大久保利通の上申をうけ、一八七八(明治一一)年七月、三新法を公布し、地方自治制度は新しい時代へと入ったのである。
 三新法とは、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の三つを指すもので、これにより部分的ながら住民の地方政治への参加が認められ、伝統的な旧町・村・郡、が行政区として復活されることになった。また一八八〇(明治一三)年四月にはさらに区町村会法が公布された。
 新制度によって、地方行政区画は府県―郡(区)―町村となり、郡には郡長(官選)、町村には戸長(民選)が置かれることとなった。
 これに伴い神奈川県下は一区一五郡に区画されたが、多摩郡は区域が広いため三郡に分割された。
 こうして一八七八(明治一五)年八月には、西多摩郡役所が青梅町に、南多摩郡役所が八王子横山宿に、そして北多摩郡役所(郡長砂川源五右衛門)が府中番場宿に、それぞれ開庁している。
 なお、府中駅に設置された北多摩郡役所は、当初は番場宿一〇六番地の矢島九兵衛氏持家(宮西町四丁目)であったが、一八八二(明治一五)年八月には高安寺(片町二丁目)に移されたようで、その後八五(明治一七)年になって現在東京都府中合同庁舎のある場所(宮西町一丁目)に郡役所庁舎が建設された。
 また町村会法・府県会規則により、それぞれ町村会・府県会が正式に発足した。これらは議事や権限等において様々な制限が付されていたが、地方民衆の政治参加が公認された意義は大きかった。すなわち、制限つきながらも、地方民衆の政治参加は民衆を政治的に覚醒させ、民衆の権利を自覚させることになり、政治への強い関心を喚起させる契機となった。

 府中駅と戸長役場
 府中市域でも旧来の宿・村のうち、東部地区の車返村ほか七か村、西部地区の本宿村ほか二か村がそれぞれ独立した行政村にもどった。
 中央部の府中宿(本町・番場宿・新宿の三町)では、すでに一八七一(明治四)年社領上知(じょうち)の結果、かっての六所宮(大国魂神社)の社領であった八幡宿がこれに加わり、四か町の連合体となっていたが、八〇(明治一三)年一月には四か町が正式に合併して府中駅と改称し、さらに同時に西どなりの屋敷分村がこの府中駅と合併した。こうして府中駅は戸数七七五、人口三八七九の町として発足したのである。
 その後政府は、地方における民権運動の高揚と町村の戸長・議員の政党化という事態を憂慮して、地方行政への締付けを強めると共に、国家財政の立てなおしと軍備拡張を目的とする増税を徹底させるため、町村役場の機能を強化する方向へ向った。
 このため一八八四(明治一七)年には連合戸長役場制度が実施され、ほぼ五町村五〇〇戸をもって一戸長役場の区域とし、事務に練達した官選戸長の下に職務能率の向上がはかられた。その結果、北多摩郡では二一七町村が二一の戸長役場に、また三多摩全体では三六〇町村が五五戸長役場に連合された。
 府中市域の町村をみてみると、すでに合併している府中駅が単独で戸長役場を設置したほか、次のような三つの連合組合村が結成された。
 すなわち、本宿村・四ッ谷村・中河原村と国立市に属する谷保村・青柳村が谷保村外(ほか)四か村組合(戸長役場谷保村)を、上染屋村・下染屋村・是政村・小田分村・常久村・車返村・押立村が調布市域の飛田給村と共に上染屋村外七か村組合(戸長役場上染屋村)を、そして人見村が小金井市域の村々と小金井村外六か村組合(戸長役場小金井村)をそれぞれ結成したのである。
 その後政府は、一八九〇(明治二三)年の国会開設にそなえ、国内の地方自治制度の確立を急ぎ、八八(明治二一)年市制町村制を、また九〇(明治二三)年府県制郡制を公布し、永続的な地方体制を固めることになるが、この八四(明治一七)年の改正は町村情勢の激化に対応した応急的・一時的な改革であり、町村制への過渡的な対応措置であった。

 地租改正という増税
 発足まもない明治新政府にとって、なによりも急務は財政の安定であった。

 財政の安定はとりもなおさず安定した歳入の確保であり、そのためには当時経常収入の八〇パーセント以上をしめていた地租(土地にかかる税)の改正をはかることが必要であった。
 そこで政府は、一八七一(明治四)年に田畑の作物の“勝手作り”(自由に栽培すること)を認め、翌年には田畑の永代売買の禁を解いて、旧幕府時代の田畑に関する封建的な制限を撤廃したのち、七三(明治六)年七月から地租改正事業にのりだした。
 その要点は、
@課税の基準を収穫高から地価に変更する。
A税率は豊凶にかかわらず地価の一〇〇分の三(村費は一〇〇分の一)とする。
B納入は物納をあらためて金納とする。
C納税者は土地の耕作者でなく、地券を交付された土地所有者とする。
の四点てあった。


地券 府中駅字万蔵庵の畑地の地券

 この改正によって政府は毎年一定した金納の地租を確保することが可能となり、財政は安定するところとなったが、そもそも地価の算定が従来の歳入を下まわらないようにとの方針のもとに行なわれたため、農民の負担はむしろ増加した。
 しかも古くからの入会地(一定の村落の農民が利用権をもっている共同利用地)や所有者不明の山林原野等はすべて官有化されたため、これらを利用していた農民への打撃は大きかった。
 また田畑の所有者には地券が発行され、その所有権を法的に保障したため、地主の権利は強固となり、地主制は一段と進行することとなった。
 こうした状況のなかで各地ではげしい農民一揆が起こり、政府もやむなく一八七七(明治一〇)年一月、税率を地価の一〇〇分の二・五に下げざるをえなくなった。
 府中市域を含む神奈川県下においては、一八七四(明治七)年三月から八〇(明治一三)年九月にかけて地租改正事業が実施されたが、県全体の地租決定額は、旧租の六六万五〇〇〇円余にくらべ八四万四〇〇円余、税率がさがって二・五パーセントとなっても七〇万三〇〇〇円余となっており、大幅に増加している。
 このうちいちじるしい増税となったのは畑の方であり、畑地の多い多摩地域の農民にとっては大きな負担増となった。
 市内の四ッ谷村では、改正前の一八七一(明治四)年の地租を一〇〇とすると、改正後の七八(明治一一)年のそれは一四九と、約五割もの増税になっており、このため村内では北部の地味の悪い土地を手放す者も少なくなかったといわれる。

 初等教育とその負担
 近代国家の建設は、国民の知識・教養の向上に負うところ大であり、それには国民教育の普及・発展が必要であった。
 このため政府は、一八七一(明治四)年に文部省を設け、翌年八月には学制を頒布(はんぷ)してフランスの教育制度に範をとり国民教育の確立をはかった。
 それは、教育は身分や男女の別なく、すべての人が等しくうけるべきものであり、しかも教育は国家のためだけでなく、自らの身を立て産をなすためのものであるという実学的教育理念をかかげ、国民皆学を目ざしたものであった。
 府中市域においても、翌一八七三(明治六)年になると九つの小学舎が設けられ、近代的学校教育がスタートすることとなった。
 しかし当時、学校の設立とその維持は各町村の負担であったため、経済的にも時間的にも、まったく新たに学校を設立することはむずかしく、ほとんどは旧来の寺子屋や私塾(しじゅく)をそのまま模様がえしただけのものであった。
 それはまた、神奈川県としての方針でもあった。
 まず中部地区の府中宿では、本町の原田塾が成蹊(せいけい)学舎に、また新宿の里見塾が至誠学舎となり、それそれ公立学校として発足したが、一八七五(明治八)年六月にはこの両校が合併して府中学校となって安養寺(本町一丁目)を仮校舎として授業を行なった。
 この府中学校が現在の市役所の敷地(宮西町二丁目)に新校舎を建設し、安養寺から移転したのは一八八五(明治一八)年四月のことである。
 つぎに西部地区の四か村には、従来から石坂塾(屋敷分村)、関塾・畠山塾・内藤塾(本宿村)、三左衛門塾(四ッ谷村)等の私塾や、玉川寺(四ッ谷村)・法音寺(中河原村)等の寺子屋があり、庶民教育が行なわれてきたが、学制と共に石坂塾を前身として一八七三(明治六)年五月育幼(いくよう)学舎がスタートした。
 この育幼学舎は翌年五月に本宿村の正光院(住吉町三丁目)に移り、一八七五(明治八)年には小野学校と改称したが、村落間の事情から、翌年には一部が分離して本宿学校として独立した。
 しかし二校を維持することはむずかしく、一八七八(明治一一)年には両校が合併して奇秀学校の開設をみたが、その二年後、こんどは四ッ谷村が分離し四ッ谷学校が分立するという状態であった。
 さて、東部地区八か村で一八七三(明治六)年に成立した小学校は六校であった。
 是政(これまさ)村は有隣学舎を宝性院(是政二丁目)に開設、常久(つねひさ)村と小田分村は共同で常久学舎を常久寺(若松町一丁目)に開設、人見村と上染屋(そめや)村も共同で弘道学舎を人見村の幸福寺跡(若松町四丁目)に開設、そして下染屋村は知新学舎、車返(くるまがえし)村は啓蒙学舎、押立(おしたて)村は明倫学舎をそれぞれ開設した。
 これらの学校は一八七五(明治八)年には県の指導で校名を変更し、いずれも村名を冠することとなったが、その後は村落間の利害の対立等もあり、いくたびかの合併・分離を繰返しつつ、しだしに統合へ向かった。
 この当時、寺院を仮校舎として使用するにしても、生産力のとぼしい村人が独力で小学校を維持することは並大抵のことではなかった。
 上染屋村と人見村が共同で設立した弘道学舎の場合、両村の地主五人が、あわせて五反歩(たんぷ)の畑を提供し、そこに桑五〇〇本を植えつけ、茶の木二五○間をまきつけ、その収入で経費をまかなったといわれる。
 苦難のほどが察せられよう。


府中郵便取扱所 旧本陣の建物を利用したもので、
中央出入口の左側に窓口が二つみえる。


西南戦争戦没者碑(調布市上石原)

 国家による近代化
 こうして明治政府により地方行政制度が整備され、学校教育をはじめ近代的制度が次々に導入され、実施されると、府中市域の町村にも新しい施設が設けられ、人々の生活もしだいに変貌していった。
 一八七二(明治五)年三月には番場宿に郵便取扱所が開設され、矢島九兵衛が取扱役に任命された。
 矢島家(宮西町四丁目)は信州屋という屋号をもち、幕末には府中宿の本陣であった。
 この郵便取扱所は一八七五(明治八)年になり、府中郵便局と改称された。
 また府中駅に当時邏卒(らそつ)とよばれた巡査がはじめて置かれたのは、品川県時代の一八七一(明治四)年六月のことであるが、八王子警察の巡査屯所(とんしょ)が番場宿神戸(こうど、宮西町二丁目)に開設したのは翌年一二月のことであった。
 さらに一八七九(明治一二)年には、洋館二階建の八王子警察署府中分署の新庁舎が大国魂神社境内の東北隅に完成して、周辺三三か村を管轄することとなった。
 そして一八七三(明治六)年一月、国民皆兵の原則のもとに徴兵令が布告されると、満二〇歳に達した成年男子は徴兵検査をうけ、三年間の兵役に服さればならなかった。
 こうして旧武士階級だけではなく、農工商の一般庶民から徴兵されてつくられた新しい軍隊は、早くも一八七七(明治一〇)年の西南戦争に派遣され、士族の反乱軍の鎮圧にあたったのである。
 調布市上石原の西光寺には、この西南戦争で戦没した神奈川県第一〇大区の人々の招魂碑が建てられているが、そこには府中市域から従軍して戦傷死した五人の名が刻まれている。

  2 地域文化と文明開化 top

 六所宮の神仏分離

 明治維新は王政復古というかたちをとって実現したが`幕末の倒幕運動において、その思想的支柱となった考えかたは、平田派国学者を中心とする復古神道であった。それは神秘的な神代信仰を主とする復古主義と、儒教・仏教を極端に排斥する国粋主義に立つ思想で、彼らを中心とする勢力は祭政一致をめざし、神道の鼓吹につとめた。
 そして王政復古が実現すると、彼らはまず長年の念願であった神仏の分離を主張し、新政府は一八六八(慶応四)年三月、「太政官達」として神仏判然令を出し、古代以来の長い伝統をもつ神仏混淆(こんこう)を禁正した。
 政府の神仏判然令は、単に神社から仏教色を一掃させようとしたものであるが、一旦この命令が発せられるや、長い間僧侶の下位におかれて憤懣やるかたない神官たちのいきどおりが爆発し、各地で仏像・仏具等の破壊、僧侶への迫害、寺塔への放火等が行なわれ、神仏分離は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)へとエスカレートして仏教界は深刻な打撃をうけることとなった。
 さて当時は、府中六所宮も両部神道と袮して神仏混淆であり、境内には本地堂・護摩堂・阿弥陀堂(鉄仏堂)が建ち、主要な神事のさいには、七人の社僧が拝殿内の般若(はんにゃ)席において大般若経を転読することを例としていた。
 しかし、幕末期の神主猿渡容盛は、平田派国学の影響をうけて復古神道に共鳴し、早くから神仏分離が重要なことを主張し、内々で祭式等の改革をすすめていた。
 こうしたおりの一八六八(慶応四)年三月、維新政府から神仏分離の布告が出されると、六所宮でもさっそく仏教色排除の作業が開始された。
 すなわち同年七月、まず社僧が復飾(ふくしょく、僧侶が俗人にもどること)して社人(しゃじん)となり、境内にあった本地堂・護摩堂・阿弥陀堂の三宇(う)が破却され、内部にあった木像仏六体・大鉄仏一体・大般若経一部、それに仏具・銅器類大小三〇品は社外に取りのぞかれた。
 これらのうち木像仏は社人の手に移ったが、のち神社にもどされ、うち五体の藤原仏は現在文部省の重要美術品に指定されている。
 また鉄製の阿弥陀如来坐像は、一旦は安養寺(本町一丁目)に移されたといわれるが、そののち善明寺(本町一丁目)に引きとられ、これも一九一三(大正二)年四月に国の重要文化財に指定された。
 なお、本地堂等の古材はしばらく社地内の林のなかに積んでおかれたが、最後には社人の薪となり、大般若経は他の経巻と共に売りはらわれてしまったといわれる。
 このように六所宮では、維新後いち早く神仏分離が行なわれ、社頭から仏教色が一掃されたが、この神社ではもともと神主を中心とする神官が圧倒的に優勢であったこともあり、その実施はほとんど混乱もなく行なわれた。
 そして一八七一(明治四)年一一月、府中六所宮は大国魂神社と改称された。
 なお府中市内には、江戸時代の後期、六所宮関係の末社等をのぞき四二の神社が存在したことが知られるが、そのうち実に半数以上にあたる二二社が、寺院の所有ないし管理下にあった。そして神仏分離の結果、これらもすべて寺院から切りはなされ、その性格を一新したことはいうまでもない。

 分倍のキリスト教
 さて明治政府は、さらに天皇制国家の確立をめざし、神道の国教化をすすめていったが、キリスト教に対しては、江戸幕府時代と同じく、相変らず禁止の方針をつづけた。
 しかしこれが西ヨーロッパ諸国の強い抗議をうけるところとなったため、政府は条約改正交渉における悪影響を考慮し、一八七三(明治六)年キリシタン禁制の高札を撤去し、以後その布教を黙認するようになった。
 キリシタン禁制の高札が除去されたその年の一〇月、府中宿にキリスト教(プロテスタント)の二人の伝導者がはじめて姿をあらわした。
 その一人は、府中市域の分倍出身の小川義綏(よしやす)で、彼は知友の奥野昌綱と共に府中新宿の比留間(ひるま)七重郎の家をたずねたのである。
 小川義綏は、一八三三(天保四)年、分倍(府中本町の枝村。現、分梅町)の農民小川藤四郎の長男として生まれたが、ゆえあって二歳のとき江戸に移り、一度は武士の養子となったが病弱のため縁組解消となり、三〇歳のとき洋学修業をこころさして横浜へおもむいた。
 そして、そこでキリスト教改革派の宣教師バラと知りあい、まもなくその紹介でアメリカ人宣教師タムソンの日本語教師となった。
 この間、タムソンからキリスト教の教えをうけ、当時まだ禁制であった一八六九(明治二)年三月に受洗し、信仰の道に入ったのであった。
 その後一八七二(明治五)年二月には、仲間の信徒と共に教派をこえた「日本基督(キリスト)公会」を設立してその初代長老に選ばれたが、これは日本人による初めてのキリスト教会であった。
 翌年、キリスト教禁制の解除と共に、公会は公然と活動を開始し、義綏は奥野と共に日本人によるプロテスタントの最初の農村伝導をこころみたのである。
 二人は上総(かずさ)・下総(そもうさ、千葉県)方面から干住・引又・府中・八王子にかけて廻村し、四八〇名余の人々に説教したといわれる。
 府中では一〇月二三目、新宿の比留間家、そして翌二四日に分倍の小川来助家で説教を行なったが、比留間家での伝導に臨席した大国魂神社の神官猿渡盛孝は、住民らが感激して説教に聞きいっているありさまをみて危機感をいだき、さっそく県庁の役人に建白書を提出し、対策を要請している。
 その後、義綏らは三沢村(日野市)を経て八王子に向かい、そこで説教を行なったのち、一〇月二八日に横浜へ帰ったと伝えられる。

 府中の民権家
 薩長を中心とする藩閥政権の専制に対する一部不平士族の不満に端を発した民選議院設立の運動は、おりからの欧米帝国主義列強の脅威の下で、天皇中心の強力な中央集権国家の建設を急ぐ明治政府の急激な近代化と富国強兵策の強行によって過大な犠牲をしいられていた民衆の不満・反発と結びつき、維新以来の西欧の自由主義・民主主義思想の浸透を介して、広く農民層まで含めた国民運動、いわゆる自由民権運動となっていった。
 これに対し政府は、ついに一八八一(明治一四)年一〇月一二日、「明治二三年」を期して国会を開設すると約束するにいたり、ここに民権派は自由党・立憲改進党を結成してこれにそなえた。
 三多摩地方においても、一八八〇(明治一三)年頃から民権運動が活発となり、各地で学習会・講演会・懇親会等が開催され、様々な政治結社も結成されていった。
 当時府中には北多摩郡役所が設置されており、北多摩郡の政治的中心であったこともあって、三多摩民権運動のひとつの拠点となり、数多くの政談演説会や政治集会が催された。
 たとえば一八八〇〜八四(明治一三〜一七)年の五年間に、北多摩郡ではあわせて三五回の民権集会が開かれているが、そのうち一八回は府中で開催されたものである。そして府中で開催される場合、そのほとんどが片町の高安寺が会場であった。
 さて、こうして各地に結成された民権結社も、しだいに大きな組織へと結集されていき、一八八一(明治一四)年に入ると北多摩郡に自治改進党、西多摩郡五日市に学芸講談会、そして南多摩郡の武相懇親会と、郡単位の三結社が出そろい、同年一一月には数郡にまたがる県レベルの融貫(ゆうかん)社の結成へとすすんだのである。
 このうち北多摩郡の自治改進党は、一八八一(明治一四)年一月一五日、府中の高安寺に六九名を集め結成式を挙行しているが、党の規則(総則)によれば、そのめざすところは「人民自治ノ精神ヲ養成シ漸ヲ以テ自主ノ権理ヲ拡充セシノントスル」もので、自治・自主の確立をめざしている。
 しかし「漸ヲ以テ(ゆっくりと、少しずつ)」とあるとおり、穏健的性格のものであったらしい。
 党員名簿に連なっているものは一四四名で、だいたい各村の戸長・副戸長クラスの村の有力者であった。
 地域的には府中を中心に北多摩南部に集中しており、野崎村(調布市)の吉野泰三や上石原村(同)の中村克昌(かつまさ)が指導者であった。
 さて原町田(町田市)で結成された融貫社は、一八八二(明治一五)年六月の集会条例の改正により、その活動を著しく制約されることとなった。
 そのため自由党への接近を強めることとなり、翌七月にはその指導者石坂昌孝が同志二〇名と共に自由党に入党、以後三多摩から入党者があいつぎ、一八八四(明治一七)年五月の党員名簿によると、南多摩八七名、北多摩三九名、西多摩二二名の党員が確認される。
 こうして三多摩地域は自由党の有力な基盤となっていった。
 なお、府中市域からは、原田鋭(府中駅)・小川慮亮(同)・市川貴四郎(四ッ谷)・松本弁次郎(本宿)・石井半蔵(人見)・田中伝太(同)の六名が入党している。
 こうした民権運動の高揚も、政府のはげしい弾圧によりその政治活動を封じられると共に、おりからの経済不況によって運動の支持基盤が動揺したことや、帝国主義時代という国際環境のもとでの国権論の抬頭といった不利な状況が重なり、しだいに精彩を失い、さらに各派が相互に非難中傷しあうといった醜態を演じ、国民の信望を失って衰退していった。

 新聞の普及から出版へ
 さて、明治も一〇年代に入ると、三多摩にも新しい文化の息吹きがしだいに浸透し、北多摩の中心府中駅にも、出版・印刷を業とするものがあらわれ、地域文化も大きく向上することとなった。
 渡辺寿彦(ほぎひこ)が府中新宿で成文舎渡辺印刷所を創業したのは、一八七八(明治一一)年四月、彼が三〇歳の時で、八王子の柴田印刷所とならんで三多摩で最初の印刷所であった。成文舎は役場や学校からの注文をおもな業務としていたが、やがて中央の各新聞の取次販売をも行なうようになった。
 当時三多摩地方はいまだ交通不便で、中央の新聞も容易にみることができず、かといって郵便送りするときは費用の点でむずかしく、わずかに村役場で閲覧できる程度であった。
 そこで渡辺は、三多摩の民衆が正確な知識を得て社会の動静を正しく把握するためには、都下の新聞をより多くの人々に読ませることが緊要と考え、新聞販売にのりだした。彼は板垣退助の主宰で星亨(ほしとうる)が統率する『自由新聞』と『絵入自由新聞』を選んで販売し、人々は狂喜してこれをむかえたという。


渡辺寿彦

 彼は自らも草鞋がけで配達して歩き、一軒のために一里も迂回することもまれではなかったという。
 『三多摩政戦史料』一九二四年刊)によると、三多摩の人士が一般に政治に興味をもち、おおいに活躍し、天下の視圧を聳動(しょうどう)せしむるにいたったのも(いわゆる多摩の自由民権運動をさす)、渡辺寿彦の功に負うところ大であった、と述べられている。

 さらに明治一〇年代の後半(一八八〇年代)になると、渡辺は出版活動をも開始した。
 このうちでもっとも有名なものは、あとで述べる地方雑誌『武蔵野叢誌』の刊行であるが、そのほか一八八三(明治一六)年二月には原田真一編『修身口述題言』、同年七月には木村新之助編『明治金玉集』、翌八四(明治一七)年八月には『甲州武田三代写記』、同年三月にはイギリスの政治小説の抄訳である『一滴千金憂世(うきよ)の涕涙(なみだ)』を出版している。
 これはエドワード・キング著『ジェントル・サヴェジ』を、夢柳居士(こじ)こと宮崎富要が翻訳したもので、『絵入自由新聞』に連載されたものである。


『一滴千金憂世の涕涙』表紙に「渡辺寿彦編輯」とある。

 渡辺寿彦は、このような活動からも明らかなように、自由民権運動の活動家でもあり、一八八二(明治一五)年五月一〇日の府中駅における演説会には、のち大正期に憲政擁護運動で中心的な役割りを演じた木堂(ぼくどう)犬養毅(いぬかいつよし)と共に演者をつとめている。
 また一八九〇(明治二三)年、吉野泰三が北多摩正義派という政治集団を結成したときも、その首唱者の一人として名をつらねている。

  『武蔵野叢誌(そうし)』の発行
 三多摩におけるジャーナリズムのさきがけともいうべき『武蔵野叢誌』第一号が、府中駅の成文舎から発行されたのは、一八八三(明治一六)年一〇月七日のことであった。
 その第三号の記事によると、この雑誌は比留間(ひるま)雄亮・本田定年・木村新之助の三人が発起人となり、西森武城(たけき)に編集を依頼して刊行されたことが明記されている。
 発起人の三名は当時いずれも北多摩郡役所の書記であり、西森もこの年その御用掛となっている。
 また発行元である渡辺寿彦の成文舎も、当時は郡役所関係の印刷をおもな業務とする印刷所であった。
 このように『武蔵野叢誌』の編集は、北多摩郡役所の書記グループが主体となり、友人知己の協力を得て実行したもので、多分に北多摩郡役所の機関誌的性格をもつ雑誌であった。


『武蔵野叢誌』創刊号表紙

 事実、そのなかのニュースに相当する雑報記事を地域的に分類してみると、全体で一四二件のうち、七二パーセントにあたる一〇二件が三多摩関係の記事であり、そしてその三分の二が北多摩関係の記事である。
 さらに北多摩関係の記事六七件のうち、約半数の三二件が府中関係のものとなっている。
 雑誌の内容構成は、何度か変遷をとげたものの、ほぼ論説・雑報・文芸・官令公報・広告からなっており、内容的には当時の一流新聞と大差はなかった。
 しかし『武蔵野叢誌』の場合、「文苑」欄(漢詩文・和歌・俳句)と「拍手一笑」欄(狂詩・狂文・狂句・都々逸(どどいつ)等)が異常に大きく、この二つの欄で紙面全体の約半分をしめているのが特色であり、いわば新聞と文芸雑誌を折衷したような性格になっている。
 こうした文芸面の重視は、やはりその編集人である西森武城の嗜好にもとづくところ大であったと思われる。
 西森武城とは、のちに明治二〇年代(一八九〇年頃)になり、滑稽文学の世界でおおいに活躍する痩々亭骨皮(そうそうていこっぴ)道人(どうじん)のことである。
 彼は伊予国(愛媛県)温泉郡の出身で、上京後成島柳北の『朝野新聞』の記者を経て、服部撫松の『東京新誌』そして滑稽諷刺雑誌として名高かった『団団珍聞』に入って活躍し、一八八一(明治一四)年、ゆえあって府中へ来住して比留間家に厄介になっていたようである。


骨皮道人こと西森武城右側の人物。
(『寓意諷諌当世滑稽文庫』より)

 多摩の論客たち
 西森は府中には六年ほどおり、一八八六(明治一九)年の暮れには東京へ移住、翌年共隆社から刊行された『滑稽独(こっけいひとり)演説』により滑稽文学の作家としてデビューをかざった。
  彼は府中在住中、一八八一(明治一四)年八月一八日には、高安寺で自ら会主となり、政談演説会を開催するなど、政治活動も行なっていた。
 さて、『武蔵野叢誌』の論説欄は高汐豊三(鳴門)が担当したが、その欄の投書家のうち第一の論客は大久保常吉であり、本誌のおもな論説はほぼこの二人の手によるものである。
 高汐豊三は府中八幡宿の出身で、一八七〇〜七一(明治三〜四)年には名主をつとめたが、その後は家督をゆずり、定職ももたず筆硯(文筆活動)に従事、八三(明治一六)年頃には府中義塾という私塾を開いて子弟に英学・漢学を教授していたようである。
 高汐は、[会議ノ尚ブ所「名論二非ズシテ公論ニアリ」「夫婦の間は睦敷を要す」二戸長論」「通俗演義の文章は社会に要用なり」等を執筆しているが、穏健なイギリス流自由主義、空論を避け実利を重視して官民の調和をとなえるなど、彼の思想は福沢諭吉=慶応義塾の立場に近卜ようである。
 一方の大久保常吉は小金井村の出身で、一八八二(明治一五)年八月、本田定年(谷保)・中村重右衛門(上石原)らと共に自由党に入党しており、北多摩郡下ではもっとも早い入党者の一人であった。彼は各地の政談演説会で弁士として活躍したが、一時服部撫松の主宰する『江湖新報』に在社したといわれる。そして編集人の西森とは滑稽仲間であった。
 大久保常吉は『武蔵野叢誌』には、「新聞論」「団結論」「社会改良ノ時運ヲ説(とい)テ故山(こざん)ノ友人ニ告グ」等の論説を寄稿しているが、これらは政府のはげしい弾圧と経済界の不況の下で、民権家が“民衆の自由と幸福の獲得”という本来の目的を忘れて四分五裂し、あまつさえ私利私欲に走りがちな情況をうれえ、国会開設を前に民権陣営の結束と政治思想の培養の必要を訴えたものである。

 筆禍事件と廃刊
 明治政府は、当時自由民権運動の高揚に対し、徹底的な言論・出版の取締りをもってのぞんでおり、少しでも政府に批判的な新聞・雑誌は次々と弾圧をうけ、休刊・廃刊に追いこまれていった。
 『武蔵野叢誌』も、その出発の時から、新聞紙条例の改正にあい、八か月ほど発刊がおくれたが、その後も官憲のいわれなき弾圧に苦しむこととなった。
 すなわち、一八八四(明治一七)年二月には、同年一月一五日発行の第七号の附録「笑門福来出放題広告」のなかに、“猥褻(わいせつ)の文辞”があり、新聞紙条例に抵触するとして、持主兼印刷大渡辺寿彦と編集人西森武城は各二〇円の罰金を課され、原稿二枚が没収された。
 そしてこれを機に西森は編集人をおり、伊藤伊之助かこれに代ったのである。
 しかしこれは取締りをのがれるための方便であり、その後も実際の編集には西森があたっていたようである。


筆禍事件の記事(『武蔵野叢誌』第25号)

 ところが『武蔵野叢誌』は第二五号にいたり、筆禍事件をひき起こして廃刊となるが、その直接の原因となったのは、雑説欄に掲載された日野の佐藤俊宣(勢之)の「日東家伝勅命丸」と題する戯文であった。
 それは朝廷を家伝の丸薬にたとえた戯文で、渡辺紀彦氏の指摘によると、一八六八(慶応四)年の反官軍派による江戸市中の落書「苛法錦旗勅命丸」を若干手直ししたものといわれる。
 この佐藤俊宣の戯文は、手本にした落書にくらべると、はるかにおだやかなもので、反政府的要素はほとんどみられないが、国家存立の根源を天皇に求め、その神格化・絶対化をはかりつつある明治政府の立場からすれば、皇室を売薬にたとえること自体がすでに不敬行為であった。
 結局、持主兼印刷人の渡辺寿彦と編集人の伊藤伊之助、そして執筆者の佐藤俊宣の三人は皇室に対する不敬罪で処罰され、同誌は発行停止となったのである。
 こうして『武蔵野叢誌』は一八八四(明治一七)年一一月三〇日発行の第二五号をもって廃刊となった。
 創刊号の発刊が一八八三(明治一六)年一〇月七日であるから、わずか一年と一か月という短命であった。
 その後、四半世紀を経た一九〇九(明治四二)年三月、月刊の文芸雑誌として復刊するが、すでにかっての覇気と生彩はなく、しだいに俳句の専門誌と化し、翌年一月の第三巻一号からは、発行所も府中の武蔵野叢誌社(成文舎内)から川越の千草会へ移り、俳句同人誌となってしまった。
 そして以後、この復刊『武蔵野叢誌』がどうなったのか、何号まで継続したのか、残念ながら知ることはできない。

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 町村制と地方自治
 明治政府は一八八一(明治一四)年一〇月、国会開設を要求する自由民権運動のうねりの前に、ついに九〇(明治二三)年を期して国会の開設を約束するにいたり、またそのときまでに憲法を判定することを明らかにした。
 そしてただちに伊藤博文を中心として憲法制定の搴倚にとりかかったが、同時に国内諸制度の整備を急ぎ、きたるべき憲法制定・国会開設にそなえ、万全の体制をしいたのである。
 その一環として内務大臣山県有朋が力を入れたのが、地方制度の整備であった。すなわち一八八八(明治二一)年四月に市制・町村制、九〇(明治二三)年五月に府県制・郡制を公布、従来の三新法の根本的改革を行なった。
 市制・町村制は、その理由書によると、地方の“自治と分権”の原則を実施しようとするもので、市町村に独立した自治体(法人)としての地位と、自らがその区域内を統治する権限を付与するものであった。
 このように市制・町村制は、日本の地方自治史上画期的なものであったが、それは市町村に一定の自治と権限をもたせて育成をはかり、近代的国家建設に必要な様々な国の業務を肩代りさせようとするものでもあった。
 このため市町村は、自治体としての固有の事務のほか、徴税・徴兵・戸籍など膨大な国家の委任事務とその経費の負担に耐えうる機能を備えるため、大規模な町村合併が不可避となった。
 こうして市制・町村制の施行にあたり、全国的に未曾有の町村合併が行なわれたが、内務省の合併基準によると、三〇〇戸〜五〇〇戸を一町村とするもので、一八八八(明治二一)年末に全国にあった七万二三四の町村は、合併によって翌年末には一万五八二〇町村に整理されたのである。
 神奈川県内でも、一三八三町村が三二〇町村に統合され、実に四分の一以下にへったのである。

 市域は一町二か村に
 この結果、府中市域では、従来の一駅一一か村が、合併により府中駅・西府村・多磨村の一町二か村となり、以後一九五四(昭和二九)年四月にこれらが合併して府中市が誕生するまで、六五年間にわたり、この体制がつづくのである。
 このうち市域の中央部にあたる府中駅は、一八八〇(明治二一)年に四か町(本町・番場宿・新宿・八幡宿)と屋敷分村が合併しており、それがそのまま町制をしいて府中駅となったもので、のち九三(明治二六)年に府中町と改称している。
 つぎに西部地区の西府村は、先に一八八四(明治一七)年谷保村(国立市)に役場を置く五か村連合が結成されたが、そのうち東半分の本宿・四ッ谷・中河原の三村が合併したものである。


明治末期の府中町 宮町1丁目の甲州街道風景

 また東部地区の多磨村は、上染屋村ほか七か村組合のうち、飛田給(とびたきゅう)(調布市)をのぞいた七か村(上染屋・下染屋・押立・常久・小田分・是政・車返)と、小金井村ほか六か村組合のうちの人見村が合併したものである。
 この一町二か村の合併成立当時のくわしい状況は、資料がなくほとんど不明であるが、少しあとの時期の資料によると、府中町は戸数八三五・人口四六六四で、町税総額は一六九一円余(一八九五年)、西府村は戸数三〇〇・人目一九四三で村税総額は五二四円余(一八九四年)、多磨村は戸数五二八・人口三八八〇で村税は一三六二円余(一八九五年)となっている。
 新しく成立した町村では、さっそく一八八九(明治二二)年四月に町村会議員の選挙が行なわれ、市域内の一町二か村ともそれぞれ一二名ずつの議員が誕生し、この新しい町村会議員によって町村長の選挙が行なわれ、初代の府中町長に比留間雄亮、多磨村長に糟谷新三、西府村長に内藤清兵衛がそれぞれ当選し、それぞれ町村議会の議長をも兼任した。
 なお当時は、議員の選挙権を有する者は、二年以上その町村に居住する二五歳以上の男子で、地租または直接国税二円以上を納める者に限られるという制限選挙であった。さらに選挙人は納税額により一級と二級にわかれ、それぞれ半数ずつの議員を選出するという等級選挙制がとられていたが、これは資産家の政治的優越を保護するもので、いわゆる地方名望家による町村支配を容易にするものであった。

 再起する民権派
 一八八四(明治一七)年一〇月の自由党解党以後沈滞していた自由民権運動は、一八八七(明治二〇)年、言論の自由・地租軽減・外交の回復の三つを内容とする三大事件建白を契機に、大同団結運動として久しぶりに盛上がったものの、首唱者の後藤象二郎が入閣したことにより反政府運動としての意義を失ない、まもなく沈静化してしまった。
 しかし、国会開設をまじかにひかえ、各地の民権勢力は様々な内部矛盾と政府の弾圧にもめげず、政党の再編をめざして積極的な政治活動をつづけていた。
 自由党の有力な地盤であった三多摩地域においても、石坂昌孝(鶴川村野津田。現、町田市)・村野常右衛門(同)・森久保作蔵(七生村。現、日野市)等が中心となり、旧自由党勢力の組織化にあたった。
 これに対し、吉野泰三(野崎村)を中心とする北多摩郡では、かって一八八一(明治一四)年一月、一四四名の有志により自治改進党が結成されたのであるが、石坂らにひきいられる南多摩の自由党勢力に同調せず一線を画していた。
 それは、北多摩の独自性を主張するローカリズムという一面もあったが、吉野を中心とした人々の合理的・現実的そして保守的な政治姿勢が、南多摩の石坂を中心とした急進派とは肌合いを異にしていたことも事実であった。
 このため両者は指導者間の個人的な反発も手伝い、しだいに対立的様相を帯び、吉野一派は反自由党的な方向へと向かうこととなった。
 吉野を中心に比留間雄亮(府中駅)・内野杢左衛門(蔵敷村)・指田忠左衛門(上河原村)等の人々は、一八八九(明治二二)年九月、府中駅において北多摩正義派という結社を結成、「会員相互ニ交通親愛シテ以テ本邦ノ公益ヲ計ル」ため活動を開始したが、この結社に結集した北多摩の首唱者の人々は、地区別にみれば右の表の通りであった。

 正義派対自由党
 吉野は当初は“正義派”ではなく“中正派”という名称を考えていたようであるが、それは特定の党にとらわれず中正の立場に立って政治活動を行なおうとする意図からであった。
 しかし、石坂昌孝を中心とした旧自由党勢力と対抗する以上、その性格はおのずと反自由党的にならざるをえなかった。
 そもそもこの正義派の結成自体が、翌年にせまった衆議院議員選挙にむけての反自由党勢力の結集と、吉野を立候補させるための地固めであった。
 そして正義派結成から一〇か月後の一八九〇(明治二三)年七月、第一回衆議院選挙があり、吉野泰三は同派を背景として神奈川県第三区から立候補した。
 定員二名の同選挙区には、旧自由党系の石坂昌孝(南多摩)・瀬戸岡為一郎(西多摩)と吉野泰三の三名が立ったが、吉野は圧倒的声望をもった石坂にはもちろん瀬戸岡にも敗れ、落選となった。
 当時旧自由党系勢力は、南多摩を中心に西・北両多摩においてもいぜんとして根強く、北多摩正義派ははるかに非力であった。
 一八九二(明治二五)年の第二回衆議院選挙は、政府による悪らつな大干渉が行なわれたことで名高いが、吏党(りとう、明治政府を支持した政治勢力。民党に対する呼称)として政府側に立った吉野はやはり落選、同年三月には彼は北多摩正義派をひきつれて国民協会に入会したのである。
 この国民協会は政府が第二回衆議院選挙敗北ののち、西郷従道と品川弥二郎を中心として、民党に対抗するために結成させた御用政党であった。
 こうしてかっては自由民権の旗のもとに立上った北多摩の有志たちも、しだいに右傾化し、わずか一〇年後には“政府党”の名にあまんずる存在となったのである。
 吉野泰三はその後、三多摩が東京府へ編入されたあと、東京府会議員となったが、一八九四(明治二七)年三月、三たび衆議院選挙に出馬するが、やはり落選、二年後五六歳で世を去った。
 一方、三多摩の旧自由党勢力は、その後再興した自由党の中核となって第二回衆議院選挙で勝利をおさめ、さらに一八九七(明治三〇)年の新自由党結成に大挙して参加するなど、三多摩壮士をようして政界で活躍するものの、やはりしだいに支配体制に吸収され、それをささえる基盤へと変質していった。


正義派首唱者の人数
「北多摩郡正義派規約」より

 移管問題の発端
 三多摩地域は一八七二(明治五)年以来神奈川県管轄下にあったが、玉川上水による分水を府民の飲料水としている東京府は、玉川上水とその水源である多摩川上流流域の管理を強く要望していた。
 そして一八八一(明治一四)年には玉川上水流域村々の東京府移管を、さらに八六(明治一九)年には北多摩・西多摩二郡の移管を企てたが、いずれも神奈川県の反対で実現しなかった。
 しかし、同年夏、西多摩郡長淵村(青梅市)でコレラ患者の汚染物を玉川上水上流の多摩川に投下するという事件が起こるにおよび、各方面に飲料水汚染の恐怖がひろがり、大きく問題化することとなった。
 これを機に、三多摩の東京府移管問題は急速に具体化し、以後神奈川県知事の賛同もあり、内務省によって移管は積極的に推進されていった。
 こうして一八九三(明治二六)年二月、神奈川県および東京府の境域変更の政府案が発表され、ただちに第四回帝国議会に提案されたのである。
 これより先、一八九〇(明治二三)年には、北多摩郡の有志三八名が「北西多摩郡管轄替建白」を行なったが、これは吉野泰三を中心とする北多摩正義派を主体とする人々によるものであり、そのうち一五人は府中駅の者であった。
 その内容は、甲武鉄道(国鉄中央線の前身。新宿〜八王子間の開通は一八八九=明治二二年)開通後は両郡は横浜よりも東京との関係の方が密接であること、また玉川上水と多摩川の管理についても、東京府へ編入した方が管理の方法・手続き等の面で便利であることなどの理由から、東京府への移管を要望するというものであった。このように府中駅を中心とした北多摩では、早くから東京府移管賛成の態度を表明していたのである。
 さて、一八九三(明治二六)年、三多摩の東京府移管案が発表されると、賛否両論が起こり、これが政治問題とがらんで騒然となった。
 というのも、当時三多摩は自由党の強固な地盤であり、これを東京府に移管するごとに神奈川県下の自由党勢力の大半をそぐこととなったからである。
 そのうえ東京府では改進党系が圧倒的に強く、三多摩の自由党勢力がこのなかに入ると数の上からも勝ち目がなく、その政治力が低下することも歴然としていた。
 こうした事情から、三多摩の自由党勢力はこぞって移管案に反対し、それに対抗する改進党と反自由党系は賛成にまわったのである。
 また地域的にみれば、南多摩郡に反対派が多く、北多摩郡と西多摩郡では賛成派が強かった。

 東京府下に入る
 東京府の「神奈川県下西北南ノ三郡ヲ東京府ニ管轄更替スルノ要領」によると、移管の理由はもっぱら東京府民の水源涵養と確保の必要を説き、それに付随して三多摩と東京との運輸交通上の便を説いたものであった。
 一方の反対側の理由はといえば、
 @三多摩と東京とは民情・風俗がちがうこと、
 A水源問題は必ずしも境域変更という方法をとる必要がないこと、
 B三多摩を神奈川県から分離すると地租で五分の一、人口で四分の一の減少となり、県にとって大きな打撃となること、
 C神奈川県と東京府とでは地方税の負担に差があり、移管すると三多摩人民の負担が重くなること、などであった。
 これに対して賛成者側の理由は、
 @風俗人情のちがいは、三多摩と神奈川県の他の各郡との間でも同様であり、地勢的にぱ東京府と三多摩は甲州街道にそっているから利害が共通している、
 A水源管理の件は、先にコレラ騒動もあったように、現状では安心できない、
 B神奈川県にとっては、三多摩からの収益はさほど大きくなく、むしろ多摩川治水費の負担の方が大きい、
 C地方税全体は両府県とも大差なく、町村税はむしろ神奈川県の方か重い、
 D最近、三多摩と東京府との物産流通の発展は著しく、とくに甲武鉄道開通以後は、横浜よりも東京との関係が密である、などの諸点であった。
 確かに玉川上水の水源管理という理由だけでは、わざわざ三多摩を東京府に移管する必要はないように思われるものの、首都東京の著しい発展、そして甲武鉄道の八王子までの開通は、三多摩と柬京との間をいっそう密接にしたことは事実であろう。
 そして一八九三(明治二六)年二月二八日、第四帝国議会の閉会まぎわになって、この三多摩移管の議案は上呈され、賛成一三三・反対一一〇・欠席五七で議会を通過した。こうして同年四月一日、三多摩は東京府へ移管されたのである。
 三多摩では、これに抗議して多くの町村で役場閉鎖がつづき、変更地域検分と民情視察のため三多摩をおとずれた東京府知事富田鉄之助に対し、様々ないやがらせが行なわれたという。

 明治の村の生業
 明治初年以来、政府の殖産興業策による手あつい保護のもとに成長をとげてきた日本の産業は、明治二〇年代(一八八〇年代)に入ると、蒸気機関等を動力源とする機械制工場が発展し、綿糸紡績等の軽工業から、やがて重工業部門においても産業革命が進行し、生産は飛躍的に増大した。

 こうした日本における産業革命は、一八八七(明治二〇)年頃にはじまり、日清・日露の両戦争を経て、一九〇七(明治四〇)年頃にはいちおう完了するといわれている。
 では、この時期の府中市域における産業の状況はどのようであったろうか。商工業を中心に簡単にみてみたい。
 明治になっても府中市域のおもな産業はもちろん農業であり、住民の大部分は農民であった。その農民が農業のあいまに商業をいとなみ、あるいは職人渡世をおくっていた点は、江戸時代と変るところがなかったが、士農工商という固定的な身分制が撤廃された以上、もはや農間余業といった言葉は無意味となった。
 いまや農民は、いかなる作物を栽培することも、どんな職業に従事することも自由であった。
 まず、一八八一(明治一四)年の上染屋村の商工業をみると、商業は酒類小売一・米穀小売―・質屋一・菓子小売一・笊小売―・醤油小売二・竹類小売一・飲食店2の一〇人、職人は豆腐製造一・石細工一・桶類二・大工二・植木一・木挽八となっており、商工業従事者の数といい、その職種といい、江戸時代末期の状態とほとんど変っていない。
 つぎに、この上染屋村ほか七か村が合併してできた多磨村の一八九六(明治二九)年の商業従事者の状況は右の表の通りである。
 同村の商業従事者は飲食店関係を含めて一二四人、これに工業従事者二七人をあわせると一五一人(戸)である。
 当時の同村の戸数は五三〇戸であるから、商工業従業者は全体の二八・五パーセント、つまり三割弱にあたっている。
 商業従事者のなかでも薪炭(しんたん)・青物・荒物・酒類の小売と繭(まゆ)・生糸の仲買が多く、明治になって養蚕(ようさん)が急速に普及してきている状況がうかがえる。
 工業の方は、漉返紙(すきかえし)製造7・桶職5・豆腐製造3・竹細工旅籠製造3・碓製造2・車製造1・鉄器製造2・炭製造1・提灯製造1・石工職1・鋳掛師1といったようすで、工業従事者といっても、いずれも旧来からのいわゆる職人である。
 押立村を中心に漉返紙の製造が多いのが注目されるが、その他には目新しい工業はみられず、旧幕府時代以来の農村の状況がたもたれている。


多磨村の商業 1896 (明治29)年

 業種の多い府中町
 さて、同じく一八九六(明治二九)年の府中町の商工業についてみると、ここでは一般の商業従事者が二四七、料理屋が七、飲食店が二八、湯屋が二、そして工業従事者が一〇六となっており、あわせて三九〇人(戸)にのぼっている。
 当時の府中町の戸数は八三五戸であるので、この町では全体の四六・七パーセントが商工業に従事していたことになる。


松本旅館の宿泊人名帳
(秋元良夫氏蔵)


府中町の手工業者 1826(明治29)年

これは純農村であった多磨村と比較するとはるかに高い商工業従事率となっているが、この町ではすでに江戸時代末期に農間渡世が四割を越えていたものと思われ、その意味ではこの三〇年間でさほど大きな変化はなかったといえよう。
 一〇六人の工業従事者の内訳は右の表の通りであり、その種類の多いことは、府中が周辺村々の生活の中心的地位にあったことを物語っている。
 しかしその実体をみるとやはりほとんどが旧来からの職人であり、近代工業とよぶべきものは数少ない。 なかでは先に紹介した渡辺寿彦の活版印刷や、撚糸業・藍玉製造等が注目される。

この撚糸業は大正期に入るとさらに盛んとなり、府中町では八軒に増加するが、藍玉製造はまもなくドイツから人造藍の輸入が始まったため衰退へと向かう。
 府中町と多磨村の一八九六(明治二九)年当時の商工業の状況は以上のようなもので、維新後ほぼ三〇年を経過した段階でも、その経済生活にはさほど大きい変化はみられない。
 一般にこの時期の農村は、都市の近代産業の発展をささえる基盤として、いわばその発展の犠牲となり停滞をよぎなくされていたのであり、農業に基礎を置いていた府中市域も、この段階ではさしたる生活構造の変化もなく推移していたのである。
 こうした状況は、日本の産業革命がほぼ終了するといわれる明治四〇年代以降になると、政府の様々な施策の効果もあり、農村社会もようやく活発な動きをみせるようになり、府中町においても株式会社府中銀行をはじめ会社組織の企業もあらわれはじめ、経済活動は活性化していくこととなる。

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