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一章 原始・古代の府中
1 府中のあげぼの top
その位置と地形
東京都府中市は、広大な武蔵野の台地の南端に位置し、面積は二九・八六平方キロ、東西約八・七五キロ、南北約六・七キロ、東流する多摩川を南境とし、さらにその南(稲城市・多摩市・日野市など)には一段高い多摩丘陵が西から東へと川にそうようにつらなっている。
府中市域の地形は、古い時期に多摩川の作用によってつくられた河岸段丘により、北から南へ階段状に大きく三つの部分にわかれている。 |

市域の地層断面図(『府中市の歴史』より)
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それらは武蔵野段丘・立川段丘そして多摩川の沖積低地(河流などによって土砂が堆積してできた平地)である。
このうちもっとも高い武蔵野段丘は、府中市域では北端の武蔵台地区の一部が含まれるのみであるが、この段丘面は北へ三鷹市・小金井市・国分寺市方面につづき、いわゆる武蔵野台地といわれる広大な台地を形成している。
市域では標高は八〇メートルほどであり、段丘の崖の高さ(立川段丘面との比高)は一〇メートルほどである。
その南側の立川段丘面は、市域全体の約三分の二をしめており、ここには道路・鉄道・官公署・工場・学校など府中市の主要施設が設けられ、市のあらゆる活動の中心舞台となっている。
この段丘面は市の西端で標高七〇メートル、それより七キロほど東の東端部で標高四〇ノートルと、西から東へ傾斜しており、南北の幅は二・五キロほどとなっている。
この平坦な段丘面で例外的に特異な地形は、東部にある浅間山(せんげんやま、浅間町・若松町)である。
前山・中山・堂山の三阜(さんぷ、三つの岡)からなるこの浅間山は、もっとも高い所で標高八〇メートルあり、周囲の段丘面との差は三〇メートルほどである。
この山は、元来多摩丘陵の一部であったものが、古多摩川やその他の河川によりその周辺がけずり取られ、孤立丘となって残ったものといわれる。
この立川段丘の崖の鳥さはし七〜八ノートルあり、その下、つまり南側が多摩川の沖積地である。この低地は市域の約三分の一をしめ、現在ではその大半が住宅地となってしまったものの、以前は都下有数の水田地帯であった。
なお、この立川段丘と沖積地との間に、青柳段丘とよばれる小段丘が、上流の立川市から国立市にかけて分布しているが、府中市内ではほとんど認められない。
この立川段丘の崖線(ハケ)にそって、かっては数多くの水泉地が分布し、その豊富な湧水は飲料水に、また農業用水に用いられ、東部の車返(くるまがえし)地区(白糸台)ではワサビの栽培も行なわれていたほどであるが、現在ではわずかに清水が丘二丁目、西府(にしふ)町一丁目付近にみられる程度である。
さて、このような府中市の大地に、いつごろ、どのようにして人間のいとなみがはじまったのだろうか。府中市域を中心に、その痕跡を追ってみよう。
旧石器人類の足跡
我々の遠い先祖がいまだ上器のつくりかたを知らなかった時代、この時代を一般に無土器時代あるいは先土器時代とよんでいる。
そしてこの鳥獣の狩猟と食用植物の採集によって生活していた無土器時代の人々については、彼らの主要な道具である石器の分布により、かろうじてその足跡を知ることができる。
現在まで東京都内で集中的に無土器時代の石器が発見されているのは、武蔵野台地を侵触して流れる石神井(しゃくじい)川をはじめとする河川にそう台地の縁辺と、武蔵野段丘の南縁(すなわち国分寺崖線)上であり、いずれも一般には“赤土”と総称されている関東ローム層のうちで、もっとも新しい立川ローム層からである。
この立川ローム層は地表下数一○センチから約三メートルの深さにあたり、約一万年前から三万年前の間に形成されたものと考えられている。
発見される石器は、石斧(せきふ)・掻器(そうき)・ナイフ形石器で、上層の新しい時代のローム層からは細石器や尖頭器が出土している。
市内では現在までに武蔵台二丁目(都立府中病院内・根岸国立(くにたち)病院南側)、若松町四丁目(浅間山南斜面)、本宿(ほんしゅく)町一丁目(西府文化センター西側)、白糸台五丁目(都市計画道路二・二・一二号線)などからこの時代の石器が発見されているが、一九八一(昭和五六)年五月から六月にかけて調査された武蔵台二丁目の都立府中病院内遺跡からは、約三万年前と推定されるローム層から多数の石器類が発見され、注目を集めている。
これらの石器は、石を打ち欠いてつくられた粗製の石器(打製石器)で旧石器とよばれ、この時代を旧石器時代ともいう。
ただし、これらの石器をつくり、使用していた人々の生活の具体的なようすは、府中市域のみならず、日本列島全体についても十分に知られていない。 |

旧石器出土の遺跡
都立府中病院内遺跡での発掘風景。
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さて、長い無土器・旧石器の時代ののち、日本人が土器をもつようになるのは約一万年前からのことである。
最初に、縄目の文様のある土器で代衷される蝿文土器の時代が約八〇〇〇年つづくが、この縄文時代とよばれる時代は一般に草創期・早期・前・中期・後期・晩期の六期に大別されている。
この時期になると、企国的に遺跡や遺物も多様になり、人々の生活のようすも、かなり具体的に知られるようになるが、府中市域では縄文の全期間にわたって一様に遺跡や遺物が発見されているわけではない。
市域の縄文文化
縄文時代も早期になると、無土器時代からの過渡期を脱して独自の発展をするが、屋内に尹をもち、規則的な柱穴の掘りこまれた竪穴住居が普及するのは前期(約六〇〇〇〜四〇〇〇年前)になってからで、それと共に土器の形態も、野外用の尖り底から屋内用の平底に変化する。
そして竪穴住居がいくつか集まって、集落といえるほどのまとまりを示すようになる。東京都内に貝塚を伴う集落があらわれるのも、この時期である。
縄文文化は中期に最盛期をむかえ、日本列島各地でおびただしい大集落跡が発見されているが、東京地方は八ヶ岳山麓を中心とする甲信地方から関東地方西部にかけて分布する勝坂式土器(多摩丘陵の南に位置する相模原台地の勝坂で発見された土器の様式を標準とする土器)の分布圈に属しており、当時この地方が中部山岳地帯との密接な関連において発展したことを示している。
この中期の遺跡から出土する遺物の特色として、土掘り用と思われる打製石斧や、木の実の粉砕・製粉に用しられたと考えられる石皿・磨石が数多く発見されている。
このことにより、木の実や球根・地下茎といった植物性資源の供給に食生活の大きな比重がかかっており、それらの加工と貯蔵により食生活を安定させ、多くの人口をやしなうことができたものと考えられている。
しかしこの地方の縄文時代の遺跡は、中期の後半をピークにして、後期になると全般的に減少し、その生活様式も山の幸による内陸的な狩猟と植物採集から、海の幸に生きる漁撈へと変化する。
そして晩期になると、内陸・海浜を問わずその遺跡はますます減少し、気候や植生の変化もあって、限られた天然資源の採集のみに依存する日本列島の原始社会は行きづまりをみせるようになる。
さて、府中市域の縄文時代の遺跡は、中期を中心に早期から後期にわたっており、国分寺崖線と立川崖線にそって分布している。
まず早期の遺跡としては若松町五丁目の前山遺跡(浅間山ぞい)があり、焼けた礫群と共に茅山(かやま)式土器が出土している。
前期のものは現在まで発見されていないが、中期になると東京競馬揚内(日吉町)・市立第五小学校付近(本宿町一丁目)・武蔵台二丁目・清水が丘一、二丁目・白糸台五丁目など遺跡内放は多く、深鉢個平浅鉢型の土器そして打製石斧・石鏃・磨石・石皿等の石器類が出土している。
後期の試跡としては、市域地北端の野川ぞいの都立武蔵野公園遺跡(多磨町三丁目)があり、一九六四(昭和三九)年の調査で後期初頭の竪穴住居址二軒と環状の石組遺構が発見され、堀之内I式といわれる土器、そして磨製石斧等の石器類が出土している。
また京王線東府中駅東側(清水が丘一丁目)からは市内で初めての後期初頭(約四〇〇〇年前)の敷石住居址がほぼ完全な形で発見されている。
なお晩期の遺跡は、今のところ市内からは発見されていない。 |

敷石住居址 縄文後期の竪穴住居
(清水が丘一丁目)
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市域未発見の弥生遺跡
紀元前三〇〇〜二〇〇年ごろ、ちょうど縄文晩期に相当する時期に大陸から伝えられた水田稲作農業を基礎とし、鉄器・青銅器をもつ先進的な弥生文化が北九州に出現した。
この新しい農耕文化により、縄文晩期にいきづまっていた採集中心の生活は打開され、日本列島の社会は新たな段階へと入った。
この文化は、弥生式土器によって代表され、北九州から中部地方にいたる西日本一帯に急速に伝播するが、関東地方へ波及したのはかなり遅れ、弥生時代も中期の初め頃にあたる紀元前一世紀頃であった。
東京都内においても中期の後半(紀元後一〇〇〜一五〇年ごろ)になると、荒川や多摩川の沖積地にそった台地上などに点々と弥生の集落がみられるようになった。
これら集落は、いずれも台地上に竪穴住居を建て、台地の下の湿地を切り開いて水田耕作を営んだが、貝塚を伴う集落も少なくなく、この時代の人々が水田農業と共に縄文時代以来の狩猟・漁撈もあわせ行なっていたことがわかる。
このような弥生時代の集落は、多摩地域においても、宇津木(うつぎ)遺跡・中田(なかだ)遺跡・船田遺跡に代表される八王子市域を中心に、町田市・日野市・調布市等にその遺跡が確認されているが、府中市ではいまのところ発見されていない弥生時代は、三世紀の後半から四世紀の初めにかけて古墳時代へと移行する。
前方後円墳に代表される初期の古墳は、大和朝廷の権威のシンボルであり、その勢力伸長と共に地方へも伝播したと考えられている。
すでに弥生時代には溝をめぐらした小規模な墳墓(方形周溝墓など)が盛んにつくられていたが、西日本に発生したこの大規模な古墳(土を高く盛って築いた高塚古墳)は、四世紀後半から五世紀はじめには関東から東北南部にひろがり、各地に古墳が出現する。
いくつかの小古墳
南関東でもっとも古い古墳がつくられたのは、相模川下流の平塚付近と多摩川下流の横浜市日吉、および都内大田区田園調布付近であり、これらの古墳が大河川下流の沖積平野の農業生産力の発展を背景としてできたものであることを物語っている。
そして巨大な古墳の出現は、その地に強大な権力を有する支配者が存在したことを意味している。
東京の古墳は、多摩川下流の台地上を中心として、その上流と浅川にそっと地域、荒川の低地(足立区)、芝(港区)と上野台(台東区)の各地に点在する。
このうち多摩川流域の古墳は、大田区田回調布の蓬莱山古墳(四世紀後半・全長一〇〇ノートル)と砲甲山古墳(五世紀前半・同上)の両前方後円墳を中心とする社原台古墳群、世田谷区喜多見町の喜多見古墳群、さらにその上流の狛江古墳群がよく知られている。
さらにさかのぼって中流域では、日野市に七ッ塚古墳群、秋川市に瀬戸岡古墳群があり、支流の浅川流域には多摩市和田に稲荷塚・臼井塚古墳、その対岸の日野市万蔵院台の古墳群等がある。これらのうち四〜五世紀の初期の古墳はいずれも下流域にあり、川をさかのぼるにしたがい規模亀小さく、時期も新しくなっている。
府中市内では大規模な古頃はみられず、立川段丘南縁部に高倉塚・天王塚・山王塚(ともに分梅町一丁目)、首塚(美好町三丁目)等の墳墓と思われる塚があるものの、その年代や被葬者等は不明である。
なお、市立郷上館には、かって国鉄常武線敷設工事のさい、分梅(ぶばい)町一丁目の塚から出土したと伝えられる鉄製の直刀五振球収蔵されているが、これらはその様式からみて古墳時代後期の後半のものと推定されている。
また最近の発掘で、市内東部の白糸台地区でも古墳の存在が確認されているが、いずれも七世紀ころの小規模なものである。
このように縄文晩期から弥生時代にかけて遺跡が全くみられなかった府中市域には、古墳時代に入っても大規模な古墳や集落跡示みられず、やがて七世紀後半には武蔵国の中心となるこの地も、国府設置以前はむしろ周囲より開発のおくれた辺鄙な地域であったものと推察される。 |

高倉塚(分梅町一丁目)
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2 武蔵の国府 top
武蔵国造
日本列島の社会は三世紀から四世紀にかけて古墳時代に入るが、この頃になると各地に多数の土豪族が出現し、それらのうち有力なものは他の小豪族を従え、地域の支配者としての地位を築いていった。
こうした地方の支配者たちも、大和朝廷の勢力が浸透するにつれて次第に服属してその支配下に入ったが、彼らの地方の首長としての地位は従来どおりみとめられ、いぜんとして地域の人民の上に君臨していた。
このように、大和州廷に服属し、その地位をみとめられた地方の小王国の首長が国造(くにのみやっこ)である。
こうした国造の支配する領域もやはり“クニ”とよばれるが、それらはのちの律令制下の“国”の中に三つから四つ含まれる程度の規役の小さいものであった。
のちに武蔵国となった地域には、『先代旧事(くじ)本紀』という記録の中の「国造本紀」という一巻によれば、无邪志(むぎし)国造・胸刺(むなさし)国造・知々夫(ちちぶ)国造の三国造がいたということになっている。
しかし胸刺国造の名はこの本のみにみられ、『古事記』『日本書紀』そして『古語拾遺』といった他の書物には全くみえない。
このことから、胸刺と无邪夫はほんらい同一のもので、あやまって重記されたものであろうとする意見が有力である。
しかし、大化以前の武蔵国の古墳の分布とその変遷からみて、この両者を別のものと考える意見もあり、これにもうなずくべき点が多い。
というのも、武蔵国内で大型古墳が密集しているところは、荏原(えばら)台古墳群を中心とした多摩川下流域と、北部の埼玉(さきたま)古墳群を中心とした荒川中流域であり、前者が胸刺国造、後者が无邪志国造のそれぞれ墳墓と推定されるからである。
また『日本書紀』安閑(あんかん)天皇元(五二四)年の条には、武蔵国造笠原直使主の同族の小杵(おぎ)が上毛野君(かみつけのきみ)小熊と結んで使主を倒し、国造の地位を奪おうとした時、使主が大和朝廷に訴え、その力によって小杵を圧倒して国造の地位を守ったが、使主はその返礼として横渟(よこぬ、横見)・橘花(橘樹)・多氷(たひ、多摩)・倉樔(くらす、久良)の四か所の屯倉を朝廷に献上したという伝承が記されている。
この笠原直の根拠地は埼玉古墳群に近い鴻巣(こうのす)市笠原であり、朝廷に献上した多摩・橘樹・久良の屯倉はいずれも南武蔵の多摩川流域にあり、本来は小杵の支配地であったと思われるところから、西北部の秩父地方を別にして、やはり武蔵には南北二つの勢力が対峙していたことが推察されるのである。
この「安閑紀」の伝承は、南北武蔵の勢力の対立が、大和朝廷と結んだ笠原直使主に代表される北武蔵の勢力の勝利に帰し、秩父をのぞく武蔵の大半が北武蔵の国造によって統一されたことを意味するものと解釈されている。
このことはまた、南北武蔵の古墳の盛衰からもほぼ裏づけられる。すなわち、蓬莱山・亀甲山・等等力大塚・加瀬白山等の古墳に代表される多摩川下流域の古墳群は、五世紀前半をピークとして五世紀末を境に急速に衰えをみせるのに対し、北武蔵では逆にこの頃から古墳が巨大化し、六世紀に入ると武蔵最大の行田(ぎょうだ)市二子山古墳が生まれ、七世紀前半まで引続き巨大な前方後円墳が造営されるのである。
武蔵国多摩郡小野郷
六世紀から七世紀前半の日本は、大和朝廷による全国支配がいちおう達成されたものの、朝廷内部での諸豪族開の対立、朝鮮半島での新羅(しらぎ)の進出に伴う国際関係の緊緊迫もあって、混乱がつづいた。
こうした中で、国政の改革を目ざしていた中大兄(なかのおおえ)皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)等を中心とした人々は、六四五(大化元)年蘇我氏を打倒し、天皇を中心とする中央集権的な官僚国家の樹立に着手したのである。
その新国家の模範とされたのか中国の隋(ずい)・唐(とう)の律令制度であった。
このいわゆる“大化の改新”以後、公地公民を基本理念とし、二官八省の中央官制、国郡里の地方制度、租庸調(そようちょう)の税制等の整備がすすめられ、七〇一(大宝元)年には大宝律令が判定され、律令制国家はほぼ確立されたのである。
この一連の改新により、全国は新たに六〇の国に区分され、国の下には郡(こおり)、郡の下には里(さと、のちに郷と書く)という地方制度が設けられたが、この過程でかって尤邪志(むざし、胸刺を含む)・知知夫(ちちぶ)両国造の支配した地域も合併され、新しく武蔵野の国誕生した。これは現在の東京都と埼玉県のほぼ全域、それに神奈川県の横浜市・川崎市を加えた地域に相当する広大なものであった。
さてこの武蔵国がいつごろ成立したかは明らかではないが、史料の上では『日本書紀』天武天皇一三年(六八五)の条に「武蔵国」とみえるのがはじめといわれる。
しかし他の周辺諸国の例からみて、大化の改新からさほど遠からぬころと考えられる。
また国名は、元来「无邪志」と書き、のちに「武蔵」という佳字にあらためたものと思われ、その読み方も奈良時代の『万葉集』では“ムザシ”であるが、平安時代の『和名抄』になると“ムサシ”と清音になっている。
古代の武蔵国は、諸国を大・上・中・下の四等級にランクづけしたうちの大国に格づけられており、平安時代中期につくられた『延喜式』という法令集によると、武蔵国の郡は二一郡を数えるが、これは陸奥国の三五郡につき全国では第二位である。
このうち高麗郡は七一六(霊亀二)年に、また新羅(しらぎ)郡は七五八(天平宝字二)年になって新たに設置された郡で、当初はなかった。
なお南部の東京都と神奈川県地域に相当する郡についてみると、多摩郡には喜多見・狛江(こまえ)古墳群、荏原(えばら)郡には荏原台古墳群、豊島(としま)郡には芝丸山や上野台の古墳群、橘樹(たちぱな)郡には日吉(ひよし)・加瀬古墳群、都筑(つつき)郡には稲荷塚古墳群、そして久良(くらき)郡(久良岐)には帷子(かたぴら)川・大岡川中下流域の古墳群というように、それぞれ古墳群がみられ、それらを造営した豪族のかっての支配領域が、そのまま律令制の郡へと移行したことが指摘されている。
この郡はいくつかの「里」によって構成されていたが、その里は奈良時代の七一五(霊亀元)年に「郷(さと)」とあらためられた。
多摩郡には、小川・川口・小楊・小野・新田・小島・海田・石津・狛江・勢田の一〇郷があり、府中市域はこのうち小野郷に属したものと考えられている。
また各国には、それまでの地方の豪族であった国造に代って、中央から国司とよばれる地方官が下向し国務を執行したが、大国である武蔵国の国司には、長官である守(かみ)が一人、次官である介(すけ)が一人、その下に大掾(じょう)一人・少掾一人、大目(さかん)一人・少目一人の四等官と、さらに書記である史生(ししょう)三人が任命されたが、ほかに国博士や国医師も派遣されたものと思われる。
そしてかっての国造クラスの地方豪族は、郡の役人である郡司に任命され、国司の下で郡の支配にあたったのである。
国府と国庁
このような中央から派遣された国司が国を統治する役所が国庁(国衙(こくが)ともいう)であり、その国庁の所在地として計画的に建設された都市が国府である。
従って国府は一国の中心であり、ここにはその地方の行政・軍事・交通・宗教・文化などの諸機能が集中していた。
万葉の歌人大伴家持(おおとものやかもち)が越中国(富山県)の国司としてその国庁を「大君の遠の朝廷」とうたったように、国庁はいわば地方の朝廷であり、国府はその国の都ともいうべきものであった。
このように一国の中心である国府は、国内統治そして中央との連絡の上からも、交通の便のよい地で、しかも水害等のおそれのない安穏の地で、背後に防禦的な地形を背負う南面の地が喜ばれた。
また国府の経済的基盤となる肥沃でよい沖積平野をひかえ、膨大な物資の輸送のための河川にのぞんだ地が選定されることが多かった。
さて武蔵の国府は多摩郡の府中に置かれた。府中の地は地理的には武蔵国の中心からは遠くはずれ、著しく南に偏している。
また当時武蔵国は東山道に属していたから、都からの官道は信濃国(長野県)から上野国(群馬県)にいたり、そこから北武蔵を南下して府中に達し、再び同じ道を北上して下野国府(栃木県)へ向かうという順路であり、交通路としては大変不自然であり、はなはだ不便でもあった。
これは国府設置にあたって、当時いまだ隠然たる勢力をもっていた北武蔵の旧国造の根拠地を避け、早くから屯倉等により朝廷の勢力が扶植されていた南武蔵の多摩の地を選び、旧勢力にわずらわされることなく国府を経営し、同時に北部・中部武蔵の繁栄を奪い、旧国造の勢力をそごうとする律令政府のねらいによるものと考えられる。
国府の形態については明瞭な規定はなく、くわしいことは不明であるが、全国各地の国府の調査がすすむにつれ、次第にその概要が明らかになりつつある。それによると、国府域は六町ないし八町四方(一町は約一〇九ノートル)程度が多く、域内は一町ごとの整然とした碁盤目状に区画されており(条坊制)、その中央の北ないし南よりの部分に二町四方ほどの国庁域が位置し、その区域は水路や土塁により他と区切られていたといわれる。
山口県防府市の周防国府跡は、こうした都市プランをいまに残す数少ない例である。
また国府の中心をなす国庁域について心近年発掘調査がすすみ、近江国府(滋賀県大津市)・伯耆国府(鳥取県倉吉市)・下野国府(栃木県栃木市)・出雲国府(島根県松江市)等、次々とその遺構が明らかになりつつある。
これらのうち、武蔵の北どなりの下野国府についてみると、国府域は八七〇メートル(約八町)四方と推定され、その中心部の築地塀をめぐらした九〇メートル四方の敷地に国庁の建物跡が発見された。
調査の結果、その中央部に前殿(二六・四ノートル×九メートル)、その東西両側に脇殿(五・四メートル×四四・八メートル)、前殿の南端に南門(三メートル×九・六ノートル)が配置されていたことが確認されたが、前殿の後方(北側)にも大規模な正殿の建物跡があるものと推定されている。
また近江国府でもほぼ同様な建物配置の遺構、が発見されており、こうした朝堂院(朝廷の止庁)形式とよばれる建物の配置が国庁の標準的なパターンではなかったかと推察されている。
武蔵国庁の所在地は
さて国府と国庁の一般的な構造は以上のとおりであるが、それでは武蔵国の場合、それらは府中市域のどこにあったのであろうか。
そもそも“府中”という名称自体、“国府の中”という意味の一般的な言葉が、平安時代末期頃から地名化したもので、府中市の歴史にとって武蔵国府の解明は、市名そのものの発祥にかかわる大きな課題である。
このため、国府の中心である国庁の所在地については、現在まで様々な立場から推定が行なわれてきたが、その主なものはつぎの五か所である。
@御殿地(本町一丁目)−国鉄南武線府中本町駅東側の台地。
A坪宮(片町二丁目〜本町一丁目)−市立第三小学校付近。
B京所(宮町二丁目〜三丁目)−大国魂神社境内とその東側一帯。
C高安寺(片町二丁目)−曹堂宗高安寺境内。
D高倉(美好町三丁目〜分梅町一丁目)−京王線分倍河原駅西側の台地。
これらは主として地名・地形、そして出土品を検計して推定されたもので、いずれも決定的な根拠を提示することはできなかった。
その後、一九七五(昭和五〇)年八月に府中市遺跡調査会が発足して、以後精力的な発掘調査が行なわれ、武蔵の国庁の位置についての解明も大きく前進することとなった。まず前記五か所のうち、@御殿地とA坪宮は、国庁の立地という点から不適当と考えられ、残りのBCDについて次々調査が行なわれた。
その結果、C高安寺とD高倉地区からは、それぞれ多数の竪穴住居址を主とする建物址が発見され、数多くの土器・鉄器等の出土をみたが、国庁らしい建物の遺構を確認することはできなかった。
ところが、B京所地区については、一九七六(昭和五一)年から七八(昭和五三)年にかけ、大国魂神社境内とその東側の合せて四か所の調査が行なわれ、奈良〜平安時代の掘立柱建物址が数多く検出され、おびただしい布目瓦や塼(せん、土をかためて焼いた建材の一種)が出土した。
そしてそれらのうちの数棟は規模も大きく、一部には礎石(そせき)や土壇(どだん)らしきものを有するものもあり、有力な官衙の建物址と推定された。
またこの区域には奈良時代後半以降、個人の住宅である竪穴住居址がみられず、こうした点からも、ここが国庁域として確実視されることになった。
しかし、調査区域は京所地区のごく一部にすぎず、建物の配置や庁域の範囲等のくわしいことはいまだに不明である。
今後の調査が待たれるが、国庁推定地が市街地の中央部という事情もあり、その解明には相当の困難が予想される。
国府には国庁内の諸官衙のほか、様々の付随施設があり、現在ではそれらが国府解明の大きな手がかりとなっている。 |

国庁の一部と推定される遺構
大国魂神社結婚式場敷地
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それらのうち重要なものとして、まず国分寺と国分尼寺があるが、これについては別に項をあらためて述べよう。
また当時、武蔵国内にまつられていた諸神を一か所に合祀した惣社(そうしゃ、御社)そして六所宮は、大国魂神社(宮町三丁目)として現存しており、国府八幡宮も八幡町二丁目に鎮座している。
このほか、非業の死をとげた者の怨霊(おんりょう)をなだめるための御安会の盛行と共に設置された御霊社も大国魂神社に合祀されており、国府の政印と倉庫の鍵をまつる印鑰(いんやく)社は本町二丁目の坪宮と推定され、国衙の建物の守護神をまつるといわれる守公(しゅこう)神社は、現在大国魂神社境内に末社となっている宮乃売(みやのめ)神社かと考えられている。
このような宗教上の施設のほか、国立の学校である国学、軍事施設である軍団、そして数多くの倉庫等があったものと思われるが、それらの所在地はわかっていない。
武蔵国分寺
大化の改新からほぼ一〇〇年ほど経過した七世紀の前半になると、国の根幹をなす律令体制もようやくいきづまりをみせ、天平の頃には大地震・悪疫・飢饉等の災異があいつぎ、社会不安が増大し、七四〇(天平十二)年九月には藤原広嗣(ひろつぐ)の乱が起って、朝廷の動揺は頂点に達した。
こうした情況のもと聖武天皇は、鎮護国家の教えである仏教を全国にひろめ、国家の危機を救おうと意図し、七四一(天平一三)年国分寺建立の詔(みことのり)を出し、国ごとに僧寺として金光明四天王護国之寺、尼寺として法華滅罪之寺の建立を命じたのである。
武蔵の国分寺の遺跡は、府中市の中心部から約二キロほど北の国分寺市西元町二丁目にある。
武蔵国の場合、僧寺・尼寺が東西に南面して並び、東西九〇〇メートル、南北五五〇メートルという広大な土地を画しているが、僧寺の寺域はその中央北よりに約三町半四方(約三八五ノートル四方)、尼寺の寺域は南西によって約三町半四方(約三八五メートル四方)の大きさをもっている。
一般に、国分僧寺の寺域は二町四方といわれているので、武蔵の僧寺の三町半四方という規模は破格の大きさをもつといえよう。
僧寺の伽藍(がらん)配置は、南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、その左右に僧坊があり、 |

武蔵国分寺址(国分寺市西元町)
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東南に離れて塔があるいわゆる東大寺式であるが、門と金堂・講堂を結ぶ中軸線が、寺域の中心よりもかなり西によっていること、そして塔が金堂からひどく離れていること等が特異な点といわれる。
さらに寺域の背後にある段兵が寺域の一部として取りこまれ、その段丘上に北院という廓が設けられていることも特色となっている。
またこの国分寺址からは、現在までおびただしい量の布目瓦が発見されているが、その軒丸瓦や軒平瓦の文様の種類が豊富で変化に富むことは、奈良時代の寺院のうちでも抜群であり、なかには高句麗や百済・新羅等の明らかに渡来人の瓦工の手になると思われるものも数多くみいだされる。
さらに郡名・郷名・人名等をヘラ書きしたり、押印したりした文字瓦が多いこともこの国分寺の特色とされており、当時武蔵国内に存在した二〇郡のすべての郡名の瓦が発見されている。
これらの事実は、全国でも最大規模をもつこの武蔵国分寺が、多くの渡来人の技術、そして国内二〇郡の民衆の富と労働力を総動員して建立されたことを物語るものであろう。
国府の町並と生活
一九七五(昭和五○)年八月、武蔵国府の解明という大きな目的をもって「府中市遺跡調査会」が発足した。
以来、意欲的な発掘調査が行なわれているが、現在まで市域の地下から、竪穴住居址が約九〇〇軒、掘立柱建物が約二五○棟検出されている。
この竪穴住居は国府に居住する一般庶民の住居、また掘立柱建物はその大部分は官衙施設であり、一部は上級官人の住居と考えられている。
このようなおびただしい遺構は、主として西は高安寺(片町二丁目)西側の谷から、東は国府八幡宮(八幡町二丁目)境内東側までの東西一六町(約一・七キロメートル)、北は桜通りから南は府中崖線までの九町(約一キロメートル)の区域に分布している。
しかしこの一六町×九町という区域全体が国府域なのか、あるいは八町四方ほどの国府域があり、その外側に町並みがひろがっていたのか、現在のところ明らかではない。
地面に礎石を置かず、直接穴を掘って柱を立てる掘立柱建物址は、これまでの調査面積から考えると、全体では数千棟にも達するものと推定されている。
大きい建物は約六メートル×一〇メートル(三間×五間)、小さいものは二・五メートル×四・四メートル(一間×二間)ほどであり、もっとも多いものは四・五メートル×七メートル(二間×三間)程度の規模のものである。
また地面を五〇〜一〇〇センチほど掘りさげて床面とする半地下式の住居である竪穴住居址は、大きいもので約七メートル四方、小さいもので約二メートル四方ほどであるが、三〜四ノートル四方で壁に一個のかまど(竈)をもつ形式が一般的である。
当時の人々の使用していたもので現在まで残っているものの大部分は土器類であるが、火災にあってそのまま放置された住居址数軒からの出土品から検討すると、当時の一軒分の使用士器は、水甕(かめ)一個、煮炊(にたき)用甕二〜三個、坏(つき、椀形の食器)五〜六個というのが普通であったようである。
竪穴住居址 |

まいまいず井戸(寿町) |
このような竪穴住居址は、国府域全体では数万軒にのぼると思われるが、これは三〜四〇〇年間にわたって建てられた総数であり、一時期では数千軒と考えられ、最盛期の武蔵国府の人口は概算ではあるが一万人をこすものと想定されている。
なお、寿町一丁目からは、かたつむりの形をした“まいまいず井戸”が発見されて、古代国府の住民の生活の一端が知られることとなった。
この井戸は帯水層の近くまでラセン状におりていき、そこで方形の井戸枠のなかから地下水を直接くんだもので、井戸枠は二重の木枠からなり、雨水が直接井戸のなかに入らないように工夫されていた。
この井戸は平安時代の初期に開削され、その後半にはすでに埋められてしまったものと考えられるが、ここから米やウメ・モモ・瓜など二〇種をこえる植物の種子、魚・貝・小動物の骨、さらに“国”と墨書された土器などが発見された。
条里地割り
さて、古代の耕地は、郡単位に条里制という一町四方の碁盤目状の土地区画が施行され、開発が行なわれたといわれる。
こうした条里遺構は大和(奈良県)や近江(滋賀県)を中心とした近畿地方に顕著に残っており、一般に関東地方ではその痕跡がうすいといわれるが、それでも各国府を中心とした地域には比較的大規模な遺構が残っていると指摘されている。
この武蔵の国府においても、国府のすぐ南に隣接する是政(これまさ)地区を中心とした条里遺構が早くから知られていた。
ここでは左の地図のように、その北部の立川段丘のハケ下の部分でかなり明瞭な痕跡をとどめていたが、一九三三(昭和八)年の東京競馬場の開設によりその地割りは消滅してしまった。 |

条里の痕跡
東京競馬場開設以前の同敷地内にみられる条里地割り。
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市域ではこの是政地区のほか、市域東部の白糸台四〜五丁目から押立町一丁目・小柳町二〜三丁目付近にかけての水田、そして是政地区の西どなりの本町二〜四丁目と矢崎二丁目付近の水田にも、わずかではあるがその痕跡がみとめられる。
また多摩川をこえた日野市落川(おちかわ)付近に七条里遺構とおぼしき痕跡があり、これらはいずれも同一の条里区画の一部と考えられる。
こうしたことから、武蔵国府が置かれた府中市を中心とする多摩川の沖積地の水田地帯には、かっては広範囲にわたり条里制が施行されたが、多摩川の氾濫や流路の変更等により、その大半が消滅し、わずかに是政地区ほか一部にのみその跡が残存したものと考えられる。
3 律令制下の武蔵国 top
国司と庶民
さて、律令体制によって、地方の各国は中央から派遣された役人である国司によって統治されたことは先に述べたが、この国司の職掌は非常に広範で、国内の戸籍・耕地・租税・倉庫の管理から軍事・警察・交通・訴訟・祭祀など、あらゆることがらにおよんでおり、その権限は強大なものであった。
そのため、郡の役人である郡司が土地の有力者のなかから任ぜられて終身制であったのに対し、国司がその強大な権限により地方に勢力を扶植(ふしょく)することを防ぐために任期を限り、令の規定では六年であったが、その後四年に短縮された。
武蔵の国司として最初に史料にあらわれるのは、七○三(大宝三)年七月に武蔵権守に任命された引田朝臣祖父(ひきだのあそんおおじ)であり、以後『続日本紀』等の出史により、九世紀後半までの国守についてはその名を知ることができる。
しかしなかには藤原雄田麻呂(百川)や高倉福祐といった、中央で重要な官職についている者が兼務することもあった。この場合、彼らは実際に武蔵国府には来ず、在京のまま武蔵守を袮するいわゆる“遥任(ようにん)国司″であり、任官の目的は国司としての膨大な収入を得ることにあった。
また定員以外の“員外(いんがい)国司”そして臨時の代理という名目で本官以外に役職をつくる“権官”(ごんかん)という制度もあったが、これらはいずれも国司としての収入をめあてに官職の増加をはかった制度である。
さて、一方律令制下の一般の公民は、公地公民の原則にもとづき、国家から一定の田地(口分田)を班給され、それに対して租・庸・調をはじめとする様々の課役を負担した。それらの負担は、税として物を納める“課”と、労役をつとめる“役”とに大きくわけられるが、このうち公民を苦るしめたのは過重な労役であった。
まず課についてみると、班田に課される税が租で、これは現物の稲で納めたが、これが地方の国衙の財源となった。また公民の男子に課されるのが調とその副物で、絹や布などその地方の特産物を納めたが、これは中央政府の財源となった。
つぎに役は、まず公民男子を対象とした年間一〇日の労役が庸で、通常は労務の代りに一定の布を納めたが、これも中央政府に納入された。別に年間六〇日を限り国司の使役に従事するのが雑徭(ぞうよう)であり、さらに調を都へ運ぶ運脚をはじめ、兵士・仕丁(しちょう)としての徴用などが公民男子に課せられた。
令制によると、成年男子はその約三分の二が兵士として徴用され、軍団に配属されたが、これら兵士の中から一部は衛士(えじ、一年)として都に、一部は防人(さきもり、三年)として九州に送られ警備にあたったのであ
る。
『万葉集』巻二〇には、七五五(天平勝宝七)年二月、筑紫(北九州)につかわされた諸国防人(さきもり)の歌一〇〇余首が収められているが、そのうち一二首は武蔵国出身者の歌であり、家族を故郷に残して遠く九州に旅立つ防人たちの心情がよく表現されている。
このほか、凶作にそなえて一定の粟・稲を国衙にたくわえておく義倉(ぎそう)や、春に稲を貸して秋の収穫時に五割の利息をつけ返却させる出挙(すいこ)も、実際には強制的に行なわれ、公民の大きな負担となった。
こうした、ことに公民男子を対象にした過重な課役が、彼らを逃亡・浮浪に追いやり、ついには公地公民にもとづく班田収授の制度自体をいきづまらせ、次第に律令制自体を弛緩させていくこととなったのであった。 |

多摩川万葉歌碑 『万葉集』巻20におさめられた
東歌の一首。(狛江市中和見)
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渡来人による開発
古代の南武蔵の開発にとって忘れてはならないのが、朝鮮半島から日本列島に渡ってきて各地に定住した、いわゆる渡来人の活動である。
とくに比較的未開の新天地に新たに設置された武蔵国府の建設とその後の経営にあたっては、彼らのもつすすんだ大陸の技術がおおいに発揮されたものと想像される。
国府の置かれた府中市域の東方にあたる狛江(こまえ)市は、律令時代の狛江郷であるが、ここは高麗人とよばれた北朝鮮の高句麗系の渡来人が定住し繁栄した土地である。現在、狛江市には大小一〇〇基にのぼる古墳群があり、その主墳ともいうべき亀塚古墳は全長四八メートルの帆立貝式前方後円墳で、大陸色ゆたかな副葬品で注目されているが、これは五世紀末の高句麗系豪族の墳墓と推定されている。
また狛江に隣接する調布市の深大寺には、白鳳仏として名だかい金銅釈迦如来像が安置されているが、この関東最古の寺院といわれる深大寺も、狛江に住む渡来人の豪族によって建立されたものと考えられている。
このように狛江の地には、すでに五世紀の後半には高句麗系の渡来人が住みつき、一大勢力を形成してしたが、彼らと朝廷との深い関係を考えると、その首長はあるいは多摩の屯倉の管理者的な存在ではなかったかと推察される。
そして七世紀の後半、府中に国府が設置されるにさいしては、狛江に根拠を置く渡来人系豪族が大きな役割りをはたしたものと思われる。
さて、文献にあらわれた渡来人来住の記録は、六八五(天武天皇一三)年百済の僧俗男女二三人を武蔵に移住させたというのがはじめて、つぎに六八七(持統天皇元)年新羅の僧俗男女二二人、さらに六九〇(持統天皇四)年にも新羅の韓奈来許満(からのならこま)ら一二人が移住してきている。
これらの時期はちょうど武蔵国府の建設期にあたっており、しかも僧尼といった当時としては最高の知識人が中心であったことを考えると、これらの移住が辺境の地に新しいすすんだ知識を移入し、律令制にもとづく国府経営を根づかせようとする中央政府の政策によるものであったことがうかがわれる。
そして第三波ともいうべき移住は、律令制が軌道にのった奈良時代、八世紀前半である。すなわち七一六(霊亀二)年、駿河・甲斐・相模等の七か国の高麗人一七九九人を集めて、武蔵の多摩郡と入間郡の中間の地に移住させ、高麗王若光(じゃっこう)を郡司として高麗郡を設置、さらに七五八(天平宝字二)年には新羅からの渡来人七四人を豊島郡と足立郡の中間の閑地に移住させ新羅郡を設置している。
このように、この期の移住は集団による植民であり、新しい郡が設置されるほどの大規模のものであった。
そしてこれには唐帝国の進出と、それと手を結んだ新羅の発展により、朝鮮半島における力のバランスが崩れ、六六〇年に百済が、六六八年には高句麗がそれぞれ滅亡し、多数の難民が日本に渡来したという背景があった。
彼らが移住した地は、いずれも水田耕作に適さず、従来の技術では開拓がおよばない未開の荒野であり、政府はこうした原野に畑作農業・牧馬・養蚕・機織り・鍛冶・窯業等のすすんだ技術をもつ渡来人集団を移住させることにより、その開発をはかったのである。
こうして、それまでほとんどかえりみられなかった武蔵野台地の原野や関東山地よりの丘陵地帯も、次第に新たな生産地帯として生まれ変わっていくことになったのである。
東山道から東海道へ
律令制度によれば、日本全国は畿内と七道に区分されていた。
畿内は大体現在の近畿地方であり、七道とは都から各地方に向って走る七つの幹線道路にそった国々のグループで、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の七つであった。武威国はこのうち信濃国(長野県)・上野国(群馬県)・下野国(栃木県)等と共に東山道に属していた。
この東山道の幹線道路はのちの中山道のルートとほぼ同じで、都からの連絡の使いも、近江・美濃を通り信濃を経て上野に入った。
そして上野(こうずけ)国新田郡からとなりの下野(しもつけ)国足利郡は目と鼻の先であり、直進すればわずかの距離であったが、この間に武蔵国が入ったため、いったん上野国新田郡から急に南に折れて武蔵国に入り、一路南下して武蔵国府に着き、連絡の用をすますとまたもとの道を引き返し、今度は下野国足利郡へ入るというわけで、武蔵への道は全く余計な支線のような路線となっていたのである。
このように、武蔵国が信濃や上野・下野を通る東山道に所属させられたのは、古墳時代以来武蔵国の中心が北部の荒川中流域にあり、上野や下野との密接な関係のもとに発展してきたことを物語るものであろう。 |

東海道・東山道と国府
(『東京都の歴史』より)
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ところが国府が府中に設置され、渡来人等の協力もあって南武蔵の開発がすすむと、南どなりの相模(さがみ)、東どなりの下総(しもうさ)との交流がひんぱんとなり、相模から南武蔵を径、下総へ向う新しい東海道ルートが次第に成立していった。
これにはまた、武蔵東部(大宮台地)と下総西部(下総台地)との間に深く湾入して大きな湿地帯を形成していた“埼玉(さきたま)の入江”が陸地化して後退したことも、大きな背景となっていた。
こうした東山道ルートでの不便と、新しい東海道ルートの形戊による情勢の変化、つまり東海道を通れば相模の夷参(いさま、座間市内)からわずか数駅で武蔵国府を通り下総国府へ達することができるという往還の便が認識され、武蔵国は七七一(宝亀二)年一〇月、あらためて東海道への転属がみとめられた。
大国魂神社の起源
国府に関連する宗教上の施設として、先に国分寺・惣社(そうしゃ)・六所宮(ろくしょぐう)・国府八幡宮・守公(しゅこう)神社等をあげたが、ここではこれらのうち国内の諸神社の総元締ともいうべき惣社と六所宮についてみていきたい。
というのも、府中市には、かっての武蔵惣社六所宮である大国魂紳仕が、全国でも有数の規模で鎮座し、現在でも広い信仰を集めているからである。
惣社は総社あるいは奏社とも書かれるが、国司が国内の諸社を巡拝する労を省略するため、国内の諸神社の祭神を一か所に合祀したものであり、六所宮(六所神社)は一之宮から六之宮までの国内の有力な六神社を一か所に合祀した神社である。
ともに似たような性格をもつ官制の神社であるため、両社が一緒になっている国も少なくない。 |

大国魂神社拝殿
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このうちとくに総社については、ほとんど各国の国府に設けられていたようで、その多くが現存している。
しかし総社や六所宮は、国分寺と異なり、その設置年代や制度についての記録がなく、いつごろ設けられ、どのように運営されたのか明らかでない。
総社という名が文献にはじめてみえるのぱ、平安時代後期の一〇九九(承徳三)年の平時範の日記『時範記』、そして六所宮の名は鎌倉時代の『吾妻鏡』であるといわれる。
これらのことから、総社は平安時代の中期ごろ、また六所宮は平安時代末期頃に成立したものと考えられている。
さて武蔵国の総社・六所宮である府中の大国魂神社は、現在中殿に大国魂大神・御霊大神・国内諸神、そして東西両殿に一之宮小野神社・二之宮小川神社・三之宮氷川神社・四之宮秩父神社・五之宮金鑽(かなさな)神社・六之宮杉山神社の六社の祭神を合祀している。
この神社は、そもそもは武蔵国の国魂をまつる社として国府内に創建されたものと思われ、それが各国に総社の制度が設けられるようになると、この社が武蔵の総社となり国内諸神を合祀するようになったものと考えられる。
一方、国司の神拝とは別に、一之宮・二之宮といった国内の主要神社は、早くから国府に参集して国府の祭祀を行なっていたと思われるが、こうした神社が六所としてまとめられ、武蔵においては国府内の総社となっていた大国魂神社の相殿ないし境内の別棟に合祀され、現在みるような形になったものと推定される。
しかし後世になると、律令制の衰微、国府の衰退に伴い、国司奉幣の意味が減少して総社はたんなる名称となり、この神社も六所宮としての祭祀が中心となっていった。
在地豪族の抗争
律令制による古代国家石成立後二〇〇年、九世紀中葉(平安時代中期)になると、都での華やかな王朝文化の開花とはうらはらに、地方においてはその基本であった公地公民制か後退、中央の貴族・社寺そして在地有力者による私的土地所有がすすみ、律令制度は次第に弛緩(しかん)していった。
これにつれて行政は乱れ、治安は悪化の一途をたどった。
このため政府は各国に検非違使(けびいし)を置き治安維持にあたらせたが、八六一(貞観三)年武蔵国にはとくに郡ごとに一人の検非違使が設置された。
その理由は「凶猾(きょうかつ)党をなし、群盗(ぐんとう)山に満つるを以てなり」(『三代実録』)と記されており、当時武蔵国内の治安がきわめて悪かったことがわかる。
ここで“凶猾”とか“群盗”といわれた者は、いわゆる一般にいう盗賊ではなく、各地にようやく勃興してきた在地の有力者、土豪・豪族たちであった。
彼らは律令体制からはみ出し、しかもそれを底辺で崩しつつあった新しい勢力であった。
一〇世紀に入ると、こうした動きはいよいよ著しくなり、豪族同士の武力による争いが頻発するようになった。
九一九(延喜一九)年五月には、土着して勢力をたくわえていた武蔵国の前の権介の源仕(みなもとのつかさ)が武蔵国府を襲い、官の建物を焼き払い、官の財物を奪うという事件が起こっている。
すでに国府自体が襲撃の対象となるほど東国の治安は乱れていたのである。
そしてこの事件から二〇年、こうした東国の混乱を象徴するかのような一大事件が発生して、中央政府の心胆を寒からしめたが、これが平将門の乱である。
平将門は桓武平氏系の土着豪族のひとりで、父は鎮守府(ちんじゅふ)将軍平良持であった。
彼の一族はいずれも上総・下総・常陸などの国司をつとめたのも、その地に根をおろし勢力を張っていた。
将門は若いころ、都にのぼって摂政藤原忠平の家人となっていたが、父の遺領である下総国の豊田・猿島・相馬の各郡を支配していた。
しかしこの周辺には将門には伯父にあたる平国香・良兼・良正らの所領が混在しており、所領をめぐって一族間の争いがたえなかった。
この所領争いのなかで、九三五(承平五)年二月、将門は伯父の国香と常陸の豪族源護の三子を殺害して将門の乱が勃発し、この一族間の争いがやがて将門による関八州制圧という大乱へと発展するのである。
平将門と豪族たち
こうして平将門が一族とのあいだで各地で争乱をくりかえしていたころ、武蔵国内でも在地土豪と国司とのあいだで衝突が起こっていた。
それはかっての武蔵国造の後裔(こうえい)で足立郡司であった武蔵武芝と、国司(権守)興世王(おこよおう)と介の源経基(つねもと)との争いである。
これは国司の管内巡見をめぐっで国司と郡司とが対立、武力対峙となったものである。
将門は、九三九(天慶二)年この紛争に介入することとなった。
武蔵国府へ乗りこんでの将門の調停は、武芝と興世王の和解にまてこぎつけることができたが、ささいなことから介の源経基が疑心を起して都へ走って朝廷に訴えたので、将門もやむなく下総へ引きあげた。
その後興世王は、新任の国守百済王貞連と不和になって将門のもとに身をよせ、以後、彼は副将格で将門と行動を共にすることとなる。
つぎに将門は常陸国の住人藤原玄明(はるあき)をたすけ、玄明と対立していた常陸介藤原維幾を常陸国府(石岡市)に破り、常陸国印と不動倉の鍵を奪った。
それは同年一一月のことであり、この一時点で将門の国家権力への反逆が明確となったのである。
こうして勢いに乗った将門は、さらに上野・下野の国府を占領して国司を追放、みずから新皇と号して除目(じもく)を行ない、関東諸国の国司を任命した。
その後将門は根拠地である下総に引きあげたが、翌九四〇(天慶三)正月になると、長駆して伊豆・駿河をも襲っている。
しかしこの頃が彼の絶頂期であり、翌二月一四日には、常陸大掾(だいじょう)平貞盛と下野押領使藤原秀郷(ひでさと)との戦いに敗れ、将門は下総国幸島(さしま)郡で戦死、つづいて興世王は上総で、また藤原玄明は常陸でそれぞれ殺され、三月にはすべて平定されたのである。
この将門の乱は、ほぼ同時に西国に起こった藤原純友(すみとも)の乱とあわせ、承平・大慶の乱とよばれるが、その六年にわたる戦乱のほとんどは地方豪族間の私闘に終始しており、暴走して国府を襲撃し謀叛という事態にいたったものの、それも私闘の延長線上に位置づけられる性質のものである。
乱は地方豪族によって起こされ、地方豪族によって平定された。これにより、中央政府の無力と地方豪族の実力、そして地方政治の乱れが露呈されたのである。
しかし朝廷はみずからの無力もまた地方豪族の成長をも、いっこうに認識することかく、王朝文化の栄華にひたり、一方地方豪族もみずからの力を認識せず、自分一個の勢力を拡大し養うことに汲々として |

秀郷稲荷(高安寺境内)
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いるのが実情であり、武士団として力を結集して新しい時代をうち立てるまでにはいたらなかった。
こうしてこの後も東国はしばらく従来どおりの状態がつづいたのである。
なお、市内宮西町一丁目の称名寺は、将門の乱当時の武蔵介であり、武芝と対立して将門の介入をまねいた源経基の館跡といわれている。
また片町二丁目の高安寺は、乱平定の功により従四位下に叙された“俵藤太”(たわらとうた)藤原秀郷が武蔵守であったときの館跡と伝えられ、現在でも境内の西南端には秀郷稲荷がまつられている。
牧と武士
将門の乱によりその存在と実力がようやく社会の表面に出てきた地方の豪族たちは、その後平安後期を通じて、次第に武士として成長していった。
しかし彼らはたんに武力のみでその勢力をのばしていったわけではなく、やはりよって立つ基盤が必要であり、それらにより彼らはみずからを権威づけ、その行動を正当化したのである。
彼らの権威のよりどころは、まず国家権力の末端である国衙・郡衙であり、さらに中央の権門・寺社を本所とあおぐ荘園、また軍馬を産しやはり中央権力とつらなる牧(まき、牧揚)であった。
檜『延喜式』によると、武蔵国では兵部省所管の官牧として檜前(ひのくま)馬牧と神崎牛牧があり、左右馬寮所管の官牧として石川・由比・小川・立野の四牧があげられており、これらは不呈御料の牧であったのて“勅旨牧”(ちょくしまき)とよばれていた。
このうち檜前馬牧は豊島郡浅草に、神崎牛牧は牛込にあったと想定する説が有力であるが、この二牧についてはくわしいことはほとんどわかっていない。
馬寮所管の四牧からは、毎年九月一〇日に国司の検印と台帳の登録をうけた貢馬(こうば)が京都へ貢進(こうしん)されたが、その数は立野牧が二〇匹、その他三牧で三〇匹、あわせて毎年五〇匹であった。
四牧の所在地については、石川牧についてははっきりしないが、小川牧は秋川市小川、由比牧は八王子市二分方町付近、立野牧は横浜市港北区の地とされている。
しかしいずれ心確定的なものでぱない。
そして、その後さらに武蔵国では小野・秩父両牧が勅旨牧に指定された。
小野牧は九三一(承平九)年、秩父牧はその二年後のことである。
秩父牧は秩父郡石田牧と児玉郡阿久原牧をもあわせた大きな牧の総称で、毎年八月一三日に貢馬二〇匹を、小野牧は毎年八月二〇日に貢馬四〇匹を貢進することになり、秩父牧の別当には散位(さんに)藤原惟条(これただ)が、また小野牧の別当には散位小野諸興(もろおき)がそれぞれ任命されたのである。
小野牧の所在地は小野郷で、府中市の近辺と思われるが、その位置はわからない。
しかし年四〇匹という多くの馬を貢進した牧であるから、よほど大きな牧であったのであろう。
武士の時代ヘ
さて、これら武蔵の牧と武士との関係を、いわゆる武蔵七党によってみていきたい。
党というのは同系の家からわかれた数十の小族が同族的に結合した武士団で、平安時代末期の一二世紀頃から史料にあらわれ、次第に活発な活動を展開し、鎌倉時代にもっとも発達をみせた。
そうした党の代表的なものである武蔵七党は、野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西の七党だとも、野与の代りに私市(きさい)をいれた七党だともいわれ一定していない。
まず野与党は、上総介平忠常の子孫から出、南北埼玉郡に勢力を得、上野・下総にも勢力をのばした。
村山党もまた忠常の子孫で、多摩郡の村山・狭山方面一帯を本拠とした。
横山党は小野氏の子孫で、八王子一帯の横山の地を本拠とし、小野牧の別当としてこれを管理した。
猪俣党も元来横山党と同族で、児玉郡猪俣を中心に、お礼に大里・比企・児玉の諸郡にひろがった。
丹党は多詒比(丹治)氏の末裔といい、秩父郡石田牧の別当として、秩父・児玉・入間にわたり勢力をはった。
また児玉党は常陸国の丈部氏の子孫といい、武蔵にくだって児玉郡を本拠とし、秩父の阿久原牧を管領したといわれる。
西党は目率氏から出たといい、先祖が武蔵守となり、また子孫は在庁官人(国庁に勤務する下級官吏)として山比・小川等の牧を管理し、日野・関戸・立川など、武蔵国府の西方一帯を本拠としたためその名が起ったといわれる。
私市党はその系譜は明らかでないが、やはり土着した国司の子孫と袮し、北埼玉郡の騎西町を根拠地とした。
このように、彼らのほとんどが国司の子孫と袮しており、しかもその多くが牧と関係をもっており、関東における武士の興起に、牧が重要な役割りをはたしたことをはっきりと物語っている。
国衙に、荘岡に、そして牧によって、次第にその勢力を拡大した在地の領主層は、たびかさなる戦乱を経過していくなかで、御恩と奉公によって強固な主従関係で結ばれた本格的な武士団へと成長していった。
彼らははじめは中央の摂関家等の貴族に“侍”としてつかえ、その警護等にあたっていたが、徐々にみずからの力を自覚し、ついに源平両氏をその棟梁(とうりょう)とあおいで、その下に郎党・家人として結集するにおよんで、ついに歴史の表面に浮上し、天下は武士の世となったのである。
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