ーファミリー版ーよこはまの歴史7

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P7

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(鎌倉時代)

…(Y)鎌倉時代…


 源頼朝が鎌倉に幕府を開き、横浜の地にも新しく力をもった武士たちが登場します。鎌倉に近い横浜では
幕府の手により開発が進められるとともに、鎌倉の仏教文化が伝えられ、鎌倉道が発達しました。

 アジアではモンゴルが大帝国をつくり、ヨーロッパでは教会の勢力が衰える一方、王の力が強くなります
が、イギリスの模範議会やフランスの三部会など市民勢力の伸張も見られるようになります。  


世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

[北・東アジア]

 <モンゴルの統一>
 中国が北部に金、南に南宋と分かれていた頃、
北方のモンゴル高原ではテムジンがモンゴル諸
部族を統一してチンギス=ハン(太祖)の称号を
受けて、モンゴル帝国が誕生しました。
 チンギス=ハンは「千戸制」により中央集権的な
支配を固め、モンゴル軍を率いて1221年にイス
ラムのホラズム朝を、1227年には西夏を滅ぼし
強力な遊牧国家を作りました。 
 チンギス=ハンが死んだあと第3子のオゴタイ
=ハンがクリルタイ(族長会議)で推されて即位
、太宗を名のり、南宋と共同して金を滅ぼしまし
た。
チンギス=ハンの長子ジュチの子バトゥはヨー
ロッパ遠征に出発、ロシアに侵入し主要都市を
次々と攻略したほか、その一隊はポーランド・ハ
ンガリーに侵入して1241年ポーランドのワール
シュタットでドイツ・ポーランド連合軍を破り、
ヨーロッパ世界に脅威を与えました。
 やがてオゴタイ=ハンの死によりモンゴル軍は
帰国を始めましたが、バトゥは対立しているグ
ユク(オゴタ=ハンの長子)が即位しようとして
いる事を知り、そのままロシアに留まってキプ
チャク=ハン国を建て、その後ロシアは長くモン
ゴルの支配下に置かれました。
 グユクが死んだのち即位したモンケ=ハン(憲
宗)の弟、フラグは西アジアに遠征してアッパー
ス朝を滅ぼして、イランを中心にイル=ハン国を
建国しました。
 1259年には約30年にわたって抵抗してきた高
麗も屈服して、モンゴル帝国は東は中国北部か
ら西は西アジア・ロシアにわたる大帝国になり
ました。(モンゴル帝国の最大領域) 
 
 <モンゴル帝国の分裂> 
 チンギス=ハンの死後、皇位をめぐる争いが激
しくなり、4代目のモンケ=ハンが急死した後、フ
ビライ=ハン(世祖)が遠征先で正式の族長会議
にかけずに即位すると末弟のアリクブカとの間
に戦いがはじまり、更にオゴタイ=ハンの孫のハ
イドゥも挙兵して、フビライに抵抗、これによっ
てオゴタイ、チャガタイ、キプチャク、イルの四
ハン国はそれ迄の属国的立場から脱して分離独
立、モンゴル帝国はフビライ=ハンの宗家(本家)
と四ハン国に分裂しました。
<フビライの元建国> ハイドゥを中心とするオゴタイ、チャガタイ、 キプチャクの三ハン国に対抗するためにフビラ イは中国全土の支配を目指し、1271年に都を大 都(現在の北京)に移して国号を中国風に元と改 めました。 フビライはその間も南宋への侵略を続け1279 年これを滅ぼして元による中国全土の支配が完 成しました。 元の領土はフビライのとき最大となり、日本へ の遠征(コラム・フビライの日本遠征)も試みましたが 鎌倉武士の奮闘と暴風雨のため失敗しました。 フビライは少人数のモンゴル人で多くの中国 人を支配するためモンゴル人第一主義をとり、 中央政府の要職や地方行政機関の長をモンゴル 人が独占しましたが、圧倒的多数を占める中国 人を支配するために色目人を利用しました。 都は大変賑わい、道路も整えられ駅伝制がつく られイタリア商人の子として生まれたマルコ= ポーロは元の上都(現在の内モンゴル自治区)を 訪れ、フビライに仕え、帰国後「東方見聞録」を口 述しました。 (コラム・マルコ=ポーロと東方見聞録) [西アジア] <オスマン帝国> 1194年セルジューク朝が滅びたのち、1258年チ ンギス=ハンの孫フラグの率いるモンゴル軍が バクダードを攻め落とし、これまで形の上だけ でも続いていたアッパース朝も滅び、フラグが 現在のイラン、イラクを中心とした地方にイル= ハン国をつくりました。 トルコ族の一派のオスマン家はオスマン一世 の祖父のときに、モンゴル軍に追われて小アジ アのアナトリアに移住して1299年に族長オスマ ン一世の下にオスマン帝国をおこしました。 帝国はやがてヨーロッパとアジアにまたがる 大帝国になります。

  トルコ系諸族
トルコ語と同系の諸言語(チュルク諸語)を話す諸 部族のことで原住地は定説がありませんが、紀元前 3世紀末にはモンゴル高原北部を中心に遊牧民とし て活躍していたことが知られています。 6世紀半ば頃、アルタイ山麓から起った突厥が中央 アジアをおおう大帝国となり、その後同じトルコ系 のウィグル族、キルギス族がこれに代わったのち、 モンゴルの圧迫を受けトルコ系諸族は10世紀以後 は西アジア方面での活動が盛んになりました。 トルコ系諸族の一派だったオグズ族が西方へ移動 し、11世紀に入るとイラン領内に侵入してセルジュ ーク朝を開き、13世紀にはアナトリアまで移動して きたオグズ族の別の一派がオスマン帝国の基礎を 築きました。 10世紀末には中央アジアのトルコ系諸族の一部が イスラム教に帰依し、その後トルコ系諸族の大部分 はイスラム化し、イスラム社会の形成に大きな影響 を与えました。
[ヨーロッパ世界] <イギリスのマグナ=カルタ> -マグナ=カルタの制定- イギリスではヘンリ二世のあとリチャード一 世についで、ジョン王が即位しましたがフラン ス王との戦いに敗れ、ノルマンディをはじめフ ランス本土にあったイギリス領の殆どを失い、 国内の貴族たちの反乱を招くことになり、ジョ ン王は譲歩して1215年貴族たちの要求するマグ ナ=カルタ(大憲章)に調印しました。 -模範議会の開催- ジョン王のあとをついだヘンリ三世は大憲章 を無視した政治を行なったため1265年イギリス の貴族たちは騎士や市民の代表を含めて議会を 開きました。これが模範議会といわれるもので、 イギリス議会の起源となりました。 その後イギリス議会は高位聖職者と大貴族、騎 士と市民がそれぞれ合同して会議を持つように なり、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制議 会として成長することになります。 <フランスの三部会> -カペー朝- フランスの地ではフランク王国が分裂して出 来た西フランク王国がフランスの原形となりま した。 987年ユーグ=カペーがカペー朝を開きました が諸侯の勢力が強く、王領も北部を中心とする 狭い地域に限られておりカペー家のフランス統 一は妨げられていました。 -三部会- 1180年フィリップ二世が即位しイギリス王ジ ョンとの戦いなどを通じて王領地を拡大しまし たが、1285年即位したフィリップ四世は更に王 権を強めようとして、戦費調達のため聖職者へ の課税を強行したことからローマ教皇と衝突し たためフランス支配層の支持を得ようとして、1 302年パリに聖職者・貴族・市民の代表を集めて 三部会を開き、その支持を得て翌年ローマ教皇 のポニファティス八世をローマ郊外のアナーニ に監禁しました(アナーニ事件)。 <教会勢力の衰え> 王権の伸張とローマ教会の堕落により教会の 力は衰えはじめます。 -教皇のバビロン捕囚- アナーニ事件ののちフィリップ四世はフラン スのボルドー出身の教皇クレメンス五世を南フ ランスのアヴィニョンに移しました。以後7代69 年に亘って教皇はアヴィニョンにとどまり、事 実上フランス国王の監視下に置かれました。こ れを古代ユダヤ人が新バビロニアに連れて行か れた「バビロンの捕囚」にちなんで「教皇のバビ ロン捕囚」といいます。 (参考・バビロンの捕囚とユダヤ人) -教会の大分裂(大シスマ)- 1377年ローマ教皇グレゴリウス十一世はアヴ ィニョンからローマに帰りました。翌年教皇が 亡くなったためイタリア人のウルバヌス六世が 教皇に選ばれるとフランスは対立する教皇クレ メンス七世をアヴィニョンにたてました。 以後1417年まで教皇がローマとアヴィニョン の二ヶ所に並び立つことになり、教会の力は一 層衰えました。

 <鎌倉幕府の御家人>
 壇ノ浦(山口県)で平氏を滅ぼした源頼朝は
1192(建久3)年鎌倉に幕府を開き、武士による
政権が始めて東国に生まれました。
 頼朝は土地を仲立ちとして武士たちと「ご恩
と奉公」の主従関係を結びました。
 この関係を結んだ武士を御家人といいます
が、横浜あたりの御家人には鴨志田氏、馬場氏
、石川氏、都筑氏、荏田氏、長田氏などを名乗る
武士がいましたが、現在でも横浜の地名にそ
の名をとどめています。
横浜の源氏御家人
<畠山重忠> 有力な御家人であった畠山重忠は源頼朝か ら非常に信頼されていた東国武士で、現在の 埼玉県を本拠地としていました。 畠山氏は平安時代以来、武蔵の国衙に対して も影響力を持った秩父一族を代表する豪族で したが、1205(元久2)年子息重保と北条時政の 娘婿の平賀朝雅との対立を背景として、武蔵 国への進出を目指す時政の策略によって武蔵 国の二俣川で殺されました。 この事件の後、時政の子義時は武蔵国に勢力 を伸ばし執権政治を強力に進めるようになり ました。
畠山重忠の首塚(旭区・鶴ヶ峰本町、重忠の首が 愛甲三郎によって斬られ祀られたところと伝えら れています)
<鎌倉幕府と横浜の開発> 鎌倉幕府にとっては合戦があった場合、戦に 参加した武士に対して恩賞として与える土地 を確保する必要がありました。 畠山氏滅亡の1年半後の1207(承元1)年北条 時房は武蔵守(長官)となり、地頭たちに武蔵 の開発を命じましたが、本格的に開発が行な われたのは、のちの延応・仁治年間(1239〜42) で、それまでにはなお諸豪族と戦わなければ なりませんでした。 横浜市内では1239(延応元)年小机郷鳥山等 の荒野が北条氏の手によって開発されまし た。1241(仁治2)年には近隣の武蔵野が開発さ れ多摩川から用水が引かれましたが、大変大 規模な工事だったと伝えられています。 <東漸寺と鎌倉幕府> 磯子区にある東漸寺は名越北条氏の北条定 長によって建立され、桃渓徳悟(宏覚禅師、建 長寺開山の蘭渓道隆の高弟)によって開かれ ましたが、周辺は景勝地であったため鎌倉五 山の禅僧たちが好んでこの地に来遊し、詩を 作ったり学問を論じました。 この中には無学祖元、一山一寧、東明慧日、東 里徳恵といった高僧もおり鎌倉での政治、宗 教、文化活動の疲れを癒すため、鎌倉に近い風 光明媚なこの土地を訪れたのです。 釈迦堂にある梵鐘は称名寺鐘や相模国分寺 鐘や円覚寺鐘などの名鐘を残した物部国光の 作といわれ、国の重要文化財となっています。
東漸寺釈迦堂(横浜市磯子区)
<北の守りー証菩提寺ー> 栄区の証菩提寺は石橋山の合戦(1180=治承 4年)で、大庭景親に攻められた源頼朝の命を 救い戦死した佐奈田義忠を追悼するために建 立されましたが、金沢から円海山にぬけて続 く金沢道の脇にあり、鎌倉の東北すなわち鬼 門にあたるため鎌倉の守りとしたものと考え られています。 洗練された阿弥陀三尊像があることでも知 られていますが、源氏滅亡後は北条氏が直接 管理し、その後は足利氏の祈祷寺となりまし た。
阿弥陀三尊像(証菩提寺蔵)
<鎌倉道> 鎌倉に幕府が開かれ武家政権が誕生すると 東国の政治、経済、文化の中心となる鎌倉に向 う道が新たに整備されました。 この道は鎌倉道と呼ばれ鎌倉を目指す武士 だけでなく庶民、文化人、宗教者など様々な人 が往来する道として、また中世の都市鎌倉を 支える物資輸送の道として大きな役割を果た していきます。 鎌倉に隣接する横浜には「上の道」「中の道」 「下の道」と呼ばれる主要道が通り、道の要所 には宿駅が設けられ、道の両側には多くの家 が軒を並べて賑わいましたが、室町時代には 鎌倉幕府の滅亡とともに衰えました。 また海の玄関口として六浦湊が開かれ鎌倉 を支える主要な港となりました。(
関連サイト)
横浜周辺の鎌倉道


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1192
 源頼朝、征
夷大将軍と
なり鎌倉に
幕府を開く 


1205
 畠山重忠が
北条時政の
陰謀により
二俣川で殺
される


1233
 鎌倉将軍家
が平子経久
に平子郷内
石河村を安
堵する

1239
 小机郷鳥山
などが開発
される

1241
 朝夷奈切通
しが開かれ
る


1260
 この頃称名
寺がつくら
れる


1275
 この頃金沢
文庫ができ
る






1333
 鎌倉幕府滅
亡