ーファミリー版ーよこはまの歴史6

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P6

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(奈良時代平安時代)

…(X)奈良・平安時代…


 大化の改新により横浜の地も武蔵国と相模国の支配下におかれ、人々は租・庸・調などの税や兵役を負担、
律令国家に組み込まれます。
 大陸から仏教とともに伝わった火葬は横浜にも広がり、鶴見川流域などでは多くの火葬墓が見つかって
います。 

 ヨーロッパではゲルマン民族の一派が建てたフランク王国がキリスト教のローマ教会と結びついて次第
に領土を広げ、西アジアではイスラム帝国がアフリカ、ヨーロッパにまたがる大帝国となりました。  


世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

 <フランク王国の発展と分裂>
-トゥール・ポワティエ間の戦い- 
 八世紀に入るとイスラム人の勢力は北アフリ
カからイベリア半島へと広がりピレネー山脈を
越えフランク王国へも侵入してきたのでフラン
ク王国の宮宰カール・マルテルは重装備の騎兵
を中心とする軍を編成してイスラム軍に対抗、
732年トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム
軍を撃退しました。
 マルテルの死後子のピピンが父の跡をついで
宮宰となり751年にはフランク王国の王になり
カロリング朝を開きました。
-ローマ教皇領- 
 一方ゲルマン民族の一派が北イタリアに建て
たロンバルト王国の南下に苦しんでいたロー
マ教皇はピピンの即位を祝福、ピピンもこれに
応えてイタリア遠征を行いロンバルト族を討
って領土を奪い、ラヴェンナ及びペンタポリス
地方を教皇に献上(ピピンの寄進)して教皇領
が成立、東ローマ帝国の皇帝と争っていたロー
マ教皇はフランク王国との結びつきを強めて
いきました。
-カール大帝-
 ピピンのあとはその子のカールが継ぎ盛んに
外征を行なって領土を広げ、現在のドイツ、フラ
ンス、イタリアの大部分を支配下に入れフラン
ク王国はビサンツ帝国と肩を並べる強国となり
ました。 
 これを見てローマ教皇レオ三世は800年カール
大帝に西ローマ皇帝の冠を授けました。これに
よって形の上でも西ローマ帝国が復活し、西ヨ
ーロッパ世界は東ローマの勢力から離れ、フラ
ンク王国が政権を握り、ローマ教皇が宗教上の
支配権を握る独自の世界になりました。
-フランク王国の分裂-(地図はこちら)
 フランク王国では遺産の分割相続制がとられ
ていたので王の死に際してはたびたび政治が混
乱しました。
 カール大帝の死後王国の領土はただ一人の息
子、ルイ一世に与えられましたが、ルイ一世が死
ぬと三人の息子ロタール、ルイ、カール二世が争
った結果ベルタン条約が結ばれて王国は3つに
分けられることになり、長子のロタールは皇帝
の位と中部フランク(ライン川流域)及びイタリ
アを、次子のルイは東フランクを、末子のカール
二世は西フランクを獲得しました。
 855年ロタールが死ぬとロタールの子とルイ、
カール二世との間で再び争いがおこり、870年の
メルセン条約で中部フランクは東西フランク
に併合されロタールの子ルイ二世はイタリアだ
けを領有するこちになりました。
 こうした分裂と統合によりのちのイタリア、ド
イツ、フランスの基礎が作られ、やがて東フラン
クはドイツ王国へ、西フランクはフランスへと
発展します。

 <神聖ローマ帝国の誕生>
 フランク王国が分裂したのちノルマン人やマ
ジャール人の侵入によって国内は混乱して東フ
ランク王国(ドイツ)ではカロリング家が滅び、
部族を基盤とする諸侯たちの話し合いによって
ザクセン公ハインリヒ一世についで、936年オッ
トー一世が即位しました。
 オットー一世は王権の拡大とキリスト教化に
努め3次に亘るイタリア遠征を行い、962年ロー
マ教皇からローマ皇帝の位を与えられ、神聖ロ
ーマ帝国が成立しました。

 <キリスト教会の分裂>
 476年の西ローマ帝国滅亡後全キリスト教徒は
東ローマ皇帝の支配下に入りましたが、726年に
東ローマ皇帝が聖像禁止令を出すとローマ教皇
はそれに反抗して西ヨーロッパのキリスト教を
自らの支配下にまとめようとしました。
 これに対して東ローマ皇帝はローマ教皇に圧
力をかけますが、ローマ教皇はフランク王国と
の結びつきを強め、ピピンの寄進などで教皇領
が成立、1054年には東ローマ帝国が支配するギ
リシァ正教会とローマ教皇をいだく西のローマ
カトリック教会に完全に分かれました。

 <ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との
                              対立>
 ローマカトリック教会は次第に精神的権威を
高め、ローマ帝国皇帝と対立します。
 1075年ローマ教皇グレゴリウス七世は聖職者
でない者が聖職者を任命することを禁止して神
聖ローマ帝国ハインリヒ四世と対立、1077年カ
ノッサ事件によって教皇の権威が皇帝の権力を
上回ったことを示し、その後も対立は続きまし
たが11世紀末から13世紀始めにかけて教皇の権
威は絶頂に達しました。(コラム・ローマ教皇)
 
 <イスラム帝国>(イスラム帝国の領域)
-アッパース朝- 
 イスラム教徒となったイラン人の多くはシー
ア派の信者でしたが、ムハンマドの叔父の子孫
にあたるアブル=アッパースはこのシーア派の
イラン人とウマイア朝に不満をもつアラブ人の
力を借りてウマイア朝を倒し、750年アッパース
朝を開きました。
 アッパース朝はアラブ人の特権を廃止してイ
ラ人を高級役人として抜擢してあらゆる民族の
イスラム教徒を対等に扱いましたが、多くのイ
スラム教徒を統合するために少数派のイスラム
シーア派の人々は弾圧されました。
 アッパース朝第二代カリフのマンスールは大
都市バクダードをつくり、ここを都としました
がバクダードは「東西の十字路」として政治、経
済、文化の中心都市として栄え、アッパース朝
は第五代カリフのハールーン=アッラシードの
時代に黄金時代になりました。アラブ文学の傑
作といわれる「千夜一夜物語」(コラム・アランビア
ンナイト)もこの頃作られ
たものです。
 アッラシードが亡くなり、やがてアッパース朝
ではカリフの地位をめぐる争いが激しくなり、
王朝の力は弱まり領内にはいくつもの独立王朝
が出来、カリフは名目だけとなり1258年にはモ
ンゴル軍によって滅ばされてしまいました。
 -後ウマイヤ朝-
 アッパース朝の建国後、ウマイヤ家のアブド=
アッラフマーン一世は北アフリカに逃れ、756年
にはイベリア半島に渡って後ウマイヤ朝を開き
コルドバを首都としました。
 後ウマイヤ朝はアブド=アッラフマーン三世の
時に最盛期を迎えイベリア半島に加え、マグリ
ブ(エジプト以西の北アフリカ)西部の大半を支
配しました。
 -セルジューク朝-
 中央アジアの遊牧民だったトルコ人のオグズ
族の一派は次第に力を強め西へと勢力を広げて
いきました。
 1038年トゥグリル=ベクはセルジューク朝を開
き1055年にはバクダードに入りアッパース朝か
らスルタン(支配者)の称号を授けられ、西アジ
アの大半を統一しましたが三代目のスルタンが
亡くなると子ども同士の争いからセルジューク
朝は急速に衰え1194年に滅びました。 

 <十字軍の遠征>(遠征路はこちら)
 セルジューク朝は小アジアを攻め東ローマ(ビ
サンツ)帝国の領土を奪いました。東ローマ帝国
の皇帝はローマ教皇に助けを求めましたが、ロ
ーマ教皇ウルバヌス二世は皇帝権に対する優位
を確立し、東方正教会を吸収する好機であるこ
とからこれに応じ、イスラム教徒との戦いに多
くのキリスト教徒を参加させるため、この戦い
は聖地エルサレムを取り戻すための戦いである
として、1095年十字軍の結成を宣言、1096年教皇
の呼びかけにこたえフランスの諸侯を中心に第
一回十字軍が出発しました。
 第一回十字軍はエルサレムのイスラム教徒を
攻めてここを占領し、1099年エルサレム王国を
建てました。
 イスラム側も反撃を開始、領土の奪還を始めた
のでフランス、ドイツは第二回十字軍を送りま
したが失敗、1187年にはエルサレム王国はイス
ラムにより奪回され、西側はその後もほぼ200年
の間に計七回の十字軍を送りましたが失敗に終
わり、この結果ローマ教皇の力は弱まり、以後国
王の力が強まっていきました。
 こうした中で十字軍によって東方貿易や遠隔
地との貿易が発達し、特に北イタリアを中心に
都市や商業が発展しました。

 <ノルマン朝>
 イギリスではゲルマン人の一派のアングロ=サ
クソンが先住民のケルト族を討ち六世紀末に七
王国を建設、九世紀にウエセックス王が全イン
グランドとしてこれを統一、ノルマン人(ヴァイ
キング)などの異民族の侵入を防いでいました
が1066年フランスのノルマンディー公ウィリア
ムスがイギリスのアングロ=サクソン王朝を倒
してノルマン朝を建てました。
 イギリスはノルマン朝の下で次第にフランス
的な制度や文化を取り入れフランスと密接な関
係を持つようになりました。

 <プランタジネット朝>
 ノルマン朝が絶えたあとイギリスでは1154年
にフランスのアンジュー伯がヘンリ二世として
即位、プランタジネット朝が開かれました。
 ヘンリ二世はかってのフランス王妃と結婚す
るなどしてほぼフランス西半分を持ち大陸とイ
ギリスにまたがる大帝国を建設ました。

 <唐の玄宗皇帝>
 712年玄宗の即位によってようやく唐の混乱は
治まり、玄宗は意欲的に政治に取り組み唐の全
盛期をもたらしました。
 唐の都長安は繁栄し最盛期(750年頃)には人口
が百万人を超える当時世界最大の都市となりま
した。文学も盛んになり王維、杜甫、李白など多
くのすぐれた詩人があらわれました。
 一方地方では重い負担から土地を捨てて逃亡
する均田農民が増えて、農民に兵役を課す府兵
制だけでは兵が足りなくなり兵士を金で雇う募
兵制に移行しました。(府兵制と募兵制)
 国境地帯ではウィグル族など異民族の侵入も
はじまり710年には国境の防衛を強化するため
に配置した軍団の司令官として節度使が置かれ
ましたが、節度使は緊急の事態に対処するため
に軍事、行政、財政の権力を与えられ力を強めて
いきました。
 玄宗は晩年には政治に飽きて、絶世の美女とい
われた楊貴妃を妃にして政治をかえりみなくな
り、国は乱れ朝廷での実権を握った楊貴妃の一
族の楊国忠と北辺の3節度使を兼任する安禄山
が対立、755年安禄山が楊一族打倒の兵を挙げ(
安史の乱)、玄宗は蜀へ落ち延びましたが、楊国
忠と楊貴妃は逃げる途中で殺されました。
                         (コラム・玄宗と楊貴妃)

 <唐の滅亡>
 安史の乱ののち唐王朝の権力は弱まり地方で
は武将や有力者たちが独立した力を持つように
なり中央からの命令は行き届かなくなりました
 875年黄巣の乱が発生、乱は反乱軍の部下だっ
た朱全忠の裏切りによって鎮圧されましたが、
この反乱によって唐の支配は崩壊し、907年唐は
朱全忠によって滅ぼされてしまいました。

 <五代十国時代>
 八世紀始めから唐は異民族の侵入に備えて節
度使を置きましたが、節度使は次第に力を強め
藩鎮と呼ばれる強力な地方勢力を形成して半独
立化しました。
 907年唐を倒した朱全忠は後梁を建てましたが
以後華北には後梁、後唐、後晋、後漢、後周(うち
後唐、後晋、後漢を開いたのは遊牧民族の突厥族
の一派)の五王朝が交替し、地方にも節度使が割
拠して十国を建て、約50年も分裂時代が続きま
した。

 <宋の統一>
 960年最後の王朝後周の節度使だった趙匡胤は
後周の恭帝から国を譲られ皇帝に即位(太祖)、
国を宋(北宋)と改めました。
 太祖はその後10年の間に次々と各地の地方政
権を平定して、979年第二代太宗によって中国の
統一が完成しました。宋王朝は軍事、財政、政治
の権限を皇帝の下に集中して節度使の権力を抑
え、文官の官僚を重く用いて科挙の制度を改革
し皇帝自ら合格者を決定するなど独裁政治を強
めました。
 政治が安定すると商業も活発になり、宋の都の
開封は人口100万の大都市として賑わいました
が宋王朝は軍人の力を恐れ、文官を重く用いた
ため文化や経済が発達した反面、軍事力は弱く
異民族の侵入に苦しみました。

 <南宋と金>
 軍事力の弱い宋は北方からの遼(モンゴル系の
契丹族)や西方からの西夏(チベット系のタング
ート族)などの異民族の侵入に苦しみ、毎年多額
の銀や絹を贈る和約を遼や西夏と結びました。
 また役人が増えたため支出が増大して国の財
政が苦しくなったため、第六代皇帝神宗は宰相
(総理大臣)の王安石に命じて改革を行なわせま
したが、1076年王安石は反対派に敗れ宰相を辞
めさせられました。(王安石の改革)
 中国の北方では中国東北地方の東部で半農・半
牧の生活を営んでいたツングース系の女真族が
「金」国を建て1125年遼を滅ぼし、宋の都開封を
占領して宋の皇帝や皇族3千人を捕虜として連
れ去った(靖康の変)ので宋は江南に逃れ、臨安
(現在の抗州)に都をおいて南宋を建てました。

 <高麗の朝鮮半島統一>
 朝鮮半島では九世紀末になると新羅の力も弱
まり、地方の豪族たちが力を強め、やがて半島は
泰封国、後百済国、新羅の三国に分かれ泰封国の
武将の王建が高麗を建国、935年に新羅を併合、
936年後百済国を滅ぼして朝鮮半島を統一しま
した。
 高麗は11世紀頃に最盛期を迎え仏教国として
栄え、世界最古の金属活字や独特な高麗青磁と
いう陶器が作られるなどすぐれた文化も発達
しましたが、13世紀になるとモンゴル軍の攻撃
に苦しめられ、やがてその属国になりました。 
                  (コラム・高麗青磁

 <律令国家へ>
 大化の改新や壬申の乱などの豪族や天皇一
家の争いを経て、八世紀には中国の制度にな
らって天皇を中心とする政治の仕組み「律令
制度」が完成しました。
 大化の改新により、国郡制と天皇の任命した
役人による支配体制を実施することが決めら
れ、八世紀のはじめに制定された大宝律令に
より、現在の神奈川県のもととなっている相
模国と武蔵国にも国司が派遣されました。
 二つの国はほぼ境川で東と西に分かれ、境川
より東の横浜市や川崎市、東京都や埼玉県を
含む地域を武蔵国、境川の西側と三浦半島を
含む地域を相模国と呼んでおり現在の横浜市
は当時の武蔵国都筑郡、久良郡を中心として
橘樹郡、相模国高座郡、鎌倉郡にまで及んでい
ました。
<都筑郡衙> 大化改新による国郡制により国には国府(国 衙)が、郡には郡衙(家)とよばれる役所が置か れましたが、武蔵国の国府は現在の東京都府 中市大国魂神社付近に置かれたと考えられて います。 1978(昭和53)年に青葉区の長者原遺跡が発 掘され、規則正しく並んだ大きな建物の跡が 数多く発見されました。これらの建物の並び 方は平城京や大宰府、各地の国衙や郡衙など に見られる「コ」の字形の建物配置に似ており 、また遺跡からは都筑郡を示す「都」と記され た墨書土器(文字が記された土器)、硯の破片 が出土し、これらのことから長者原遺跡は武 蔵国都筑郡の郡衙の跡であることが分かりま した。
都筑郡衙想定復元模型 (横浜市ふるさと歴史財団蔵)
<ムラと官人> 古代の役人(官人)は木簡(文字を書き付けた 木札)を削る小刀(刀子)と筆が必需品であっ たため「刀筆の吏」と呼ばれ郡衙の周辺にある ムラの有力者の中には官人として郡衙で文書 を作成する仕事などについた人もいたようで す。 都筑郡衙の跡である長者原遺跡周辺の古梅 谷遺跡、藪根不動原遺跡、受地だいやま遺跡な どからは刀子や砥石、位を持つ人が着ける革 帯の飾り具、墨書土器などが見つかっていま す。
官人の七つ道具(復元) ー硯・墨・水滴(水差し)・刀子・筆・砥石・木簡ー (横浜市ふるさと歴史財団蔵)
<人々の暮らし> 律令制度のもとでは人々は「戸」という単位 にまとめられ五〇戸で一里(郷)とされていま した。「戸」は国が口分田という田を支給し、税 を納めさせるための単位として作りだされた ものです。 横浜あたりでは相変わらず竪穴住居がひろ く用いられていましたが、市内の遺跡からは 竪穴住居のほかに大型の掘立柱建物(平地式) が発見され、力のある農民が住んでいたこと をうかがわせます。 ムラの周囲には条里制によって整然と区画 された水田が広がっていました。 土器も土師器や朝鮮半島から伝わった須恵 器を古墳時代から継続して使用し、同様にカ マドも弥生時代に使われた炉に代って住居の 内部に作られるようになりました。 人々は農作業を中心に春や秋の祭り、各種の 税金を納め労役などをしながら、一年の生活 を過ごしていました。 人々に課せられた負担は租・庸・調などの税 の他に21歳から60歳までの男子(正丁)の三分 の一は兵士として軍団に入ることが定められ ており、農民にとってこれらの兵役は働き手 を奪われるだけでなく食料や弓矢などの武具 まで自己負担であったため大変な重荷となり ました。
農民の住まい(大熊仲町遺跡・緑区大熊町)
<都への道> 律令制で人々は調・庸などの税を課せられ、 それを自分たちで都へ運ぶことになっていま した。これらは先ず郡衙に集められ、次いで国 府へ運ばれそれが都へと運ばれました。 また兵役も課せられ防人として遠く九州の 大宰府へ行く者、兵士として北の多賀城など へ派遣される者もいました。 都筑・橘樹の防人が詠んだ歌が万葉集に収 められています。(詳細はこちら) こういった物資の流通や人の往来には七道 と呼ばれる官道が使われ、都からも和同開珎 などの銭や様々な品物が運ばれ、横浜で発見 される近畿地方で作られたとみられる土器も こういった道を伝わって来ました。
古代の道 (横浜周辺は図像をクリックすると拡大します)
<火葬墓のひろがり> 八世紀のはじめ仏教の影響を受けて天皇、貴 族、僧侶の間で火葬がはじまり次第に各地に 広がっていきました。 横浜市北部は川崎市とともに関東地方の中 でも火葬墓が密集している地域ですが、この 地域では平安時代のはじめから作られたよう です。「火葬蔵骨器」と呼ばれる土師器の甕に 火葬した人骨を納め、ムラはづれに埋めたも のが多く、須恵器を利用したり甕や坏を組み 合わせた例もあります。また副葬品として刀 子(小刀)などの鉄製品や銭などが納められる 場合もあり葬られたのはムラの長や役人であ ったと考えられています。
横浜周辺の火葬墓

  火葬のはじまり
日本では仏教が大陸から伝わってくるとそれととも に火葬が広まりました。 我が国で初めて火葬が行なわれたのは700(文武4)年 で、遣唐使として唐へ留学した僧の道昭であると伝え られています。 2年後には持統天皇が死去し天皇として初めて火葬 され、銀製の蔵骨器に納められました。723年に死去し た「古事記」編者の太安万侶の火葬墓が奈良県磯城郡 で発見されています。 このように火葬は天皇、皇族、貴族、僧侶から始まり、 次第に地方へ広がっていきました。
武士団の発生 ー神隠丸山遺跡ー 平安時代の後半には律令体制が崩れはじめ、 地方の豪族たちや、中央から地方に下りその まま土地を開発した役人や貴族たちが力をつ けてきます。 都筑区の神隠丸山遺跡では周囲に溝をめぐ らして整った配置を平安時代の建物跡が発見 されました。これは富豪浪人と呼ばれる有力 者の館跡と考えられています。 富豪浪人は立野牧や石川牧などの牧(軍馬を 飼育する牧場)や栄区の上郷深田遺跡から想 像れるような製鉄技術を握るとともに耕地の 開発を進め、また国府の機能の一部を担うな ど力を強めていきました。やがて彼らは土地 をめぐる争いを通じて武装し、互に結びつき を強め武士団を形成し次の時代を担うように なります。
上郷深田遺跡周辺 (かっては多くの鉱滓が出て、今でも地元の人から はカナクソと呼ばれています)
ー榛谷御厨ー 9世紀から10世紀にかけて荘園が発達して藤 原氏など中央の貴族や寺社に寄進するように なり、荘官(荘園の管理者)からも武士が生ま れるようになりますが、関東一帯にも御厨(み くりや、伊勢神宮に寄進された荘園)が出来、 1122(保安3)年現在の旭区・保土ヶ谷区の一部 にまたがる地域が伊勢神宮内宮領の御厨とな りました。 開発者は不明ですが後に小山田(榛谷)四郎 重朝が支配、重朝はのち源頼朝の御家人とな って活躍しました。




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8世紀
 都筑郡衙が
つくられる
   (長者原)
 
 掘立柱建物
が多くなる
   (東耕地)

 仏教が広ま
り火葬墓が
つおうられ
る(寅ヶ谷) 


10世紀
 927年 杉山
神社が式内
社となる

 方形館がつ
くられる
(神隠丸山)