ーファミリー版ー かねさはの歴史 P 6
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
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「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか
・・・D飛鳥時代・・・
政治の中枢となった蘇我氏にたいし、天皇家からは聖徳太子が出て、改革のための諸施策を行います。
太子の死後、推古天皇の皇位継承をめぐる争いののち蘇我氏が滅亡、大化改新の詔が出され支配体制の確立を目指す新しい政治へと動きだします。
大陸から仏教が伝わり飛鳥文化の花が開いたのもこの時代です。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
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聖徳太子の登場 |
崇峻天皇が暗殺されたあと、592年蘇我馬子の姪にあたる日本最初の女帝推古天皇が即位し、翌年には聖徳太子が摂政となります。 太子は601年斑鳩の宮をつくったあと翌年には冠位十二階の制度を定め604年には十七条憲法をつくり、天皇家を中心とする政治へ向けて立て直しを図ります。 <遣随使の派遣> 太子は外交面では任那の復興をあきらめ、中国との交渉を開始します。 600年に第一回の遣随使が派遣されたのに続き607年第二回目の遣随使には小野妹子を派遣し従来の朝貢外交から対等外交をめざします。 隋はこれにこたえて、裴世清(はいせいせい)を使者として妹子に随行させました。 <太子と仏教>−関連サイトー 聖徳太子はまた仏教を厚く信仰し、四天王寺や法隆寺を建て、「三経義疏」(法華経、勝鬘経、維摩経の解説書)をつくり人々に経典の講義をしました。 太子のつくった「十七条憲法」第二条にも「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり・・・」とあります。 太子の熱心な仏教興隆はやがて飛鳥文化の開花となって実を結びます。 <太子の死> 622年聖徳太子が死亡、蘇我氏も馬子の死により蝦夷の代になりますが、天皇家は推古天皇亡きあと蝦夷の意見により田村皇子が即位舒明天皇となりますが、その死後皇極女帝の時、蝦夷の子蘇我入鹿は皇位をねらう太子の子山背大兄王を襲い、法隆寺で自殺させ聖徳太子の家はとだえてしまいました。 |
久良郡の名前が最初にあらわれたのは神護景雲2年(768年)6月です。
久良郡は倭名類聚抄によると八つの郷に分かれ「かねさは」のあたりは鮎浦郷と呼ばれていました。
国には国衙、郡には郡衙(郡家=ぐうけ=とも云います)という役所が置かれました。武蔵の国の国衙は府中に置かれましたが、久良郡の郡衙の置かれた場所ははっきりしません。
<漁村と口分田> 「班田収受の法」により人々には口分田が貸し与えられます。口分田は6才以上の男子には2段(約23a)女子にはその三分の二が与えられましたが、平潟湾が大きく入り込み、丘陵が迫っているかねさはのあたりは口分田が不足し「郷土の法」によって処理されたものと考えられています。
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飛鳥時代 (592〜710) 592 推古天皇 即位 593 聖徳太子 摂政となる 603 冠位十二 階が定めら れる 604 十七条憲 法の制定 607 小野妹子 が遣随使と して隋へ ・法隆寺建立 608 小野妹子、 隋使裴世清 らとともに帰 国 610 高句麗から 僧曇徴(どんちょ う)が紙、すみ をつたえる 622 聖徳太子 死去 643 蘇我入鹿, 山背大兄王及び 一族を滅ぼす 645 乙巳の変 646 大化改新 の詔が出さ れる (7世紀中頃) 久良 岐評が置 かれる 663 白村江の戦い 670 庚午年籍 の制定 672 壬申の乱 694 藤原京へ 遷都 701 大宝律令 制定
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蘇我入鹿の横暴を見て、舒明天皇の子中大兄皇子(のちの天智天皇)は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)と相談、蘇我入鹿の暗殺を計画し蘇我氏の一族である蘇我倉山田石麻呂を味方にひきいれて645年宮中の大極殿で入鹿を殺します。知らせを聞いた父蝦夷も自殺し、ここに蘇我大臣家も滅びました(乙巳の変)。 |
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〈新政府の樹立〉 蘇我氏滅亡後、皇極女帝の弟孝徳天皇が即位、初めて年号を定め「大化」とします。 中大兄皇子は皇太子として実際の政治にあたります。 左大臣を阿部倉梯麻呂(内麻呂ともいう) 、右大臣を蘇我倉山田石川麻呂として、中臣鎌足は内臣(うちつおみ)に任ぜられ実力者として働きます。 また隋への留学から帰国した高向玄理、僧旻を国博士(政治顧問としての役職)として登用しました。 〈新政の方針〉 新政府が樹立されてまもなく、都は飛鳥から難波(大阪)にうつされました。 646年改新の詔がだされ、新政の方針が示され大化の改新といわれる新しい政治がスタートしますが、全面的に実施されるようになるのは50年後の701年の大宝律令の制定ののちのことです。
新政府の役人になったのが中央や地方の豪族ですが冠位制度を改め冠位を十二階から十九階にして、役人たちに昇進の機会を与え土地や人民を失った豪族たちの反発をおさえようとしました。 |
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白村江の戦い |
わが国で大化の改新による新政が進められていた頃、朝鮮半島では国々が対立、659年百済が新羅を攻め取ると新羅は中国の唐に助けを求め、一方百済は日本に救助を求めてきました。 日本はこれに応じ663年唐、新羅の連合軍と百済の西海岸白村江で大海戦を交えますが敗れ、百済も滅亡します。 <内外の防備> 白村江の戦いに敗れた日本では唐と新羅の侵略に対するため、朝廷としても不満をつのらせる豪族の力を借りねばならなくなり、豪族からとり上げた人民を豪族に返すことにしました。 又冠位十二階を二十六階に増やします。 一方外敵からの守りとして対馬、壱岐、北九州に防人(さきもり)を配置し、城や水城(高さ10mの濠)をつくりました。 |
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近江の朝廷 |
667年中大兄皇子は近江の大津へ都を遷し、翌年即位天智天皇となり弟の大海人皇子(後の天武天皇)が皇太子となります。 天智天皇は新しい大津宮で中断していた改革の仕事をはじめます。 〈戸籍の作成〉 班田収受の法を実施したり、租・調・庸などの税を取るための全国民の実体を把握する必要から、670年に作られた戸籍が庚午年籍といわれる日本最古の戸籍です。 〈近江令の制定〉 天智天皇は律(刑法)と令(行政法)からなる律令を整え、これによる国の政治を目指して668年近江令(律はなく令のみ)を制定しました。近江令は22巻もあったとされていますが、内容は全く伝わっておらず、これを否定する考えや後の飛鳥浄御原令のことであるという考えもあります。 〈大友皇子〉 天智天皇の弟の大海人皇子が皇太子となり次の天皇と見られていましたが、天智天皇の子大友皇子が生長するにつれ天智天皇は大友皇子に皇位を継承させようとして、皇子を太政大臣に任命し左右大臣の上におきます。 671年天智天皇の死亡により両者の対立は決定的になります。 |
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壬申の乱 |
大海人皇子は一旦吉野に逃げますが挙兵を決意、美濃へ向かい、途中伊賀や不破関などで多くの兵を集め、672年近江を攻め大津宮を占領、大友皇子は自殺、大海人皇子は天武天皇に即位します。 <浄御原宮> 天武天皇は飛鳥の浄御原に新しい宮殿を作りここで大化の改新の四つの方針を実行します。 豪族の部民の私有は再び廃止され公地公民の原則で政治は進められます。 〈八色の姓〉(やくさのかばね) 〈浄御原律令〉 |
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持統女帝の登場 |
686(朱鳥1)年天武天皇死亡により皇后が即位持統天皇となり、新しい政治を更にすすめます。 〈藤原京の建設〉 唐の長安の都を手本にして作られた藤原京は条坊制とよばれる南北を条、東西を坊という道路で区切った日本最初の首都です。 1934(昭和9)年以降数度の発掘の結果、宮殿は東西約200m、南北約600mに及ぶ大規模なであることがわかりました。 〈大宝律令の制定〉 697年持統天皇は孫の軽皇子に皇位を譲り、軽皇子は15歳で文武天皇となりました。 文武天皇は701年に刑部親王と藤原不比等に命じて浄御原律令を整備して、大宝律令を作ります。大宝律令は近江令から始まる律令編纂が完成したもので以後の日本の法律書の模範となりました。 〈遣唐使の派遣〉 遣唐使は630年に初めて派遣され669年まで6回派遣されましたが白村江の戦いで中断、7回目が701年に32年ぶりに派遣されました。 7回目からは従来の朝鮮の西沿岸を通るコースから九州を直下、奄美大島から東シナ海を渡る危険な日数もかかるコースに変わり、往来には大変な苦労をしました。 大宝律令の実施には多くの官庁や官人(役人)が必要となり、また文武天皇の時疫病が流行したため、新しい都づくりが考えられ平城の地(奈良)への移転が計画されるようになります。 |