ーファミリー版ーよこはまの歴史5

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P5

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(古墳時代飛鳥時代)

…(W)古墳(大和)・飛鳥時代…


 大和地方にはじまった古墳も四世紀後半には、よこはまの地にも出現します。鶴見川や柏尾川の流域には
長さ数十メートルもある前方後円墳や前方後方墳が発見され、中からはヤマト政権とのつながりをうかが
わせる埋葬品が出土しています。

 このころユーラシア大陸の東と西ではぼ同時に内陸部からの遊牧民族の膨張圧力に動かされ、古代の帝国
秩序が崩れ中世への胎動が始まりました。 


世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

 <ローマ帝国の分裂> 
 337年コンスタンティヌス帝が死んだあとロ
ーマ帝国はササン朝ペルシアと和約を結び、メ
ソポタミアとアルメニアを譲り勢いは衰えは
じめました。
−ゲルマン民族の移動−
 4世紀後半、ゲルマン民族はアジアからきたフ
ン族に押されて大移動をはじめ375年にローマ
帝国へ侵入しました。
 はじめゲルマン人はライン川をローマ帝国と
の境界にしてその周辺に住んでおり、ローマ帝
国は砦を築いてその侵入を防ごうとしました
が、帝国の力が弱まると、とくに混乱の激しか
った西方に移動を進め、その後ローマ領内に自
分たちの国を建てました。
 ゲルマン民族の大移動はこれ以後約200年に
亘って続き、西ヨーロッパは大混乱に陥りまし
た。(ゲルマン民族の大移動−帝国の東西分裂−
 395年テオドシウス帝が死ぬとローマ帝国は2
人の子に分割統治されることになり東西に分
裂しました。
 その後ゲルマン民族の侵入が続く中で西ロー
マ帝国は混乱に陥り、476年ゲルマン人の傭兵
隊長オドアケルによって滅ばされてしまいま
した。一方東ローマ(ビザンツ)帝国はその後も
1453年迄約1000年もの長い間続きました。

 <フランク王国の建国>
 フランク族はゲルマン民族の一つでライン川
下流の右岸地帯に住んでいましたが、人口の増
加によりガリア地方(現在のフランス)に進出し
メロヴィング家のクロービスが全フランク族を
統一してブルグント、西ゴートを破り、481年パ
リを首都とするフランク王国(メロヴィング朝)
を建て王となりました。
 クロービスはローマ人が信仰していたアタナ
シウス派のキリスト教に改宗、ローマ教会に接
近し、異教徒討伐の名の下に他のゲルマン一族
を征服、他のゲルマン諸国が短命に終わる中で
九世紀まで存続し現在のドイツ、フランス、イタ
リアの起源となるなど西ヨーロッパ世界の形成
に大きな役割を果たしました。

 <イスラム世界の誕生>
−ムハンマド(モハメット)の出現−
 西アジアのアラビア半島の西岸では早くから
交通路が開け、東西貿易で栄えていましたが、七
世紀のはじめ、半島西部のメッカでムハンマド
がイスラム教を説きました。
 ムハンマドは東西貿易の中心地のメッカで生
まれ、幼い頃両親を無くし、祖父や叔父に育て
られ商人として成功しましたが、貧富の差が拡
がっていく社会の現状を悩み、アッツラーを唯
一の神とするイスラム教を唱えましたが迫害
をうけメディナへ移住(ヒジュラ)しました。
 弱者の救済と社会正義を説くイスラムの教え
の下に共鳴する人々が集まり、630年ムハンマド
は約1万のムスリム(イスラム教徒)軍を率いて
メッカを占領、ムハンマドの権威はアラビア半
島の全域に亘りました。
              (コラム・イスラム教とコーラン)
−イスラム世界の誕生−
 632年にムハンマドが死んだあとイスラム教徒
は族長選挙で後継者(カリフ)としてアブー=バ
クルを選びました。アブー=バクルが即位すると
盟友を結んでいたアラブ部族が離反し始めたの
で、アブーはこれらの離反者を討伐すると同時
にイラクやシリアなどに征服活動(ジハード=
聖戦)を行いザクロス山中の要所、ニハーバンド
の戦いでササン朝ペルシァを破りシリアに続き
エジプトも占領してイスラム世界が誕生しまし
た。

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<ウマイヤ朝の成立> 661年4代目のカリフのアリーが暗殺されウマ イヤ家のムァーウィヤが゙新しいカリフになり ウマイヤ朝を開きました。 ウマイヤ朝は代々ウマイヤ家がカリフを世襲 し領土を更に拡大します。暗殺されたアリーと その子孫がムハンマドの正当後継者と主張する 人々はシーア派(分派)を結成してスンナ派と対 立しました。(シーア派とスンナ派) <五胡十六国時代> 武帝の死後晋では帝位をめぐる争いがおこり 300年に帝室の守りとして各地に派遣されてい た8人の王族が兵を挙げました(八王の乱)。 各王はそれぞれ異民族を傭兵として利用した ため北方の異民族が中国に進出、316年晋は都の 洛陽を匈奴に占領されて滅亡し、晋王室の一族 は江南(揚子江以南の地)に逃れ東晋を建てまし た。 一方北部では五胡といわれる異民族や漢民族 の国が興亡を繰り返しましたが、そのうちの代 表的な16の国にもとづいてこの時代は五胡十六 国時代と呼ばれています。 <南北朝時代> ー北 朝ー 439年五胡の一つである鮮卑族の拓跋氏が建て た北魏によって中国北部は統一され、南の宋と 対立する南北朝時代が始まり以後北朝では五王 朝が南朝では四王朝が興亡しました。 北魏の第六代皇帝の孝文帝は名前、言葉、服装 などの中国化政策を進めるとともに均田制三 長制を実施し、荒廃した農村の復興と税収の基 礎を固めました。 499年光武帝が亡くなったあと間もなく内紛が おこり北魏は東魏と西魏に分裂しましたが西魏 は北周によって滅ばされ、北周は東魏にかわっ た北斉を併合して中国北部を再び統一しました ー南 朝ー 一方江南では東晋が約100年続きましたが政治 は乱れ宋・斉・梁・陳と短命な政権が次々と興亡 し589年には隋によって滅ばされてしまいまし た。 220年に後漢が滅んで三国の魏が成立してから 589年に隋が陳を滅ぼし中国を統一するに至る 迄の時代を魏晋南北時代といいます。
この時代には社会の混乱を背景に、北方の異民 族からもたらされた仏教が、急速にひろがりま したが、これに対して北魏の寇謙之は伝統的な 中国の民衆宗教をもとに>道教を確立し仏教に 対抗、以後道教は民衆の間に広く普及するよう になりました。 また南朝では皇帝の権力が弱かったために、貴 族が政権を左右し、詩人の陶淵明や書家の王羲 之などにより六朝文化といわれる貴族文化が発 達しました。 <隋の中国統一> 中国北部を統一した北周では外戚の楊堅が文 帝となり国号を隋とし、589年には南朝を滅ぼし て中国は長い分裂の時代を終えて再び統一され ました。 文帝は統一国家の支配を強めるために地方の 役人をすべて中央からの派遣に改め、門閥貴族 を抑えるため学科試験による官吏登用法を開始 (のちの科挙)するなどの政策をとりました。 文帝の子、煬帝は大運河を完成させ万里の長城 を修築するなどを行い、東突厥や高句麗などへ 遠征しましたが、これらは多くの農民を徴発、酷 使して行なったため高句麗遠征が高句麗の激し い抵抗にあって失敗に終わると各地で農民の反 乱がおこり、煬帝は混乱の中で殺され隋は僅か 38年で滅びました。(コラム・大運河) <唐の建国と発展> 618年太原(現在の山西省)を根拠地としていた 李淵(高祖)が唐を建国して都を長安と定めまし た。高祖の時代各地に割拠した群雄はかなりの 勢力を持っていましたが、次第に平定され第二 代皇帝の太宗によって統一が完成されました。 太宗は国内では諸制度を整備し、対外的には 630年最大の敵であった東突厥を打ち破るなど 唐の国力を伸張させました。 僧の玄奘が仏教を学ぼうとインドに向ったの もこの頃です。(関連サイト・玄奘) 太宗の子三代皇帝高宗の時代には西は西突厥 を滅亡させアラル海にいたる西域を支配下に治 め、東は新羅と同盟して高句麗、百済を滅ぼすな ど唐は世界的な大帝国になりました。 (唐の最大領域と玄奘の行程) 唐は領土内の異民族に対しては、それぞれの部 族長に唐朝の官爵(役目と位)を与え、これら諸 部族に対する統治機関として辺境に六都護府を 設置しました。 <唐の混乱> 七世紀末になると唐は内部から動揺し始めま す。 高宗の皇后となった則天武后は高宗の死後帝 位につき中国史上唯一の女帝となり、国号も周 に変え恐怖政治により反対勢力を弾圧して権力 をふるいました。 705年則天武后が死ぬとその子中宗が即位しま したが皇后の韋后に毒殺され、韋后もまた李隆 基(のちの玄宗)によって殺され、712年の玄宗の 即位によりようやく混乱は収まりました。
<朝鮮半島の統一> BC108年漢の武帝は朝鮮に楽浪郡など四郡を 置き、衛氏朝鮮を滅ぼし漢の領土としました。 以後中国の支配に対し朝鮮の諸族は戦いを続 け、四世紀初頭には朝鮮北部の高句麗(夫余族の 一派)などが楽浪郡を攻め倒し、約400年続いた 中国の支配は終わりました。 朝鮮の中部以南では百済と新羅がおこり、四世 紀から六世紀にかけて高句麗、百済、新羅の三国 が抗争しながら発展しましたが、新羅は唐と結 んで百済を攻め、百済は日本に応援を求めまし たが663年白村江の戦いで百済・日本の連合軍は 敗れ百済は滅びました。 (参考・6世紀前半の朝鮮半島白村江の戦い) 新羅は668年、高句麗をも破り朝鮮占領を図る 唐も撃退し朝鮮半島を統一しました。

 <古墳の出現>
 弥生時代に伝わった米づくりにより農耕社
会が発展し、ムラからクニへと共同生活の規
模が拡大、やがてヤマト政権を形成する権力
者たちが誕生してくると埋葬の仕方も大きく
変化して、三世紀後半から四世紀にかけて各
地に大規模な古墳づくりが行なわれるように
なりました。
 四世紀後半になると横浜でも大きな古墳が
つくられるようになりました。
 鶴見川流域の観音松古墳(港北区日吉)、稲荷
前古墳(青葉区大場町)、柏尾川流域の東野台
古墳(戸塚区上矢部)などでは長さ数十メート
ルもある前方後円墳や前方後方墳がつくられ
ました。( 関連サイト・古墳のうつりかわり)
稲荷前古墳群(青葉区)
観音松古墳の近くにある加瀬白山古墳(川崎 市幸区)も同じころつくられた前方後円墳で すが、ここからは多くの玉類や武具とともに 三角縁神獣鏡が発見されました。この鏡はヤ マト政権がつながりの出来たこの地方の豪族 や首長に与えたものと考えられており、この ことからこの頃すでに横浜から川崎の地域が ヤマト政権と強いつながりを持っていたとみ られています。 また甲冑・鉄剣・鉄刀など数多くの武具や馬 具を持つ青葉区の朝光寺原1・2・3号墳に葬ら れた人物も、近畿地方の首長や大王と関係を もった有力者だったと考えられています。
眉庇(まびさし)付兜(朝光寺原1号墳出土)
戸塚区の上矢部町富士山古墳から出土した 埴輪からは、盾をもって奉仕する人、馬や鳥 など葬られた人物を取り巻く人や物の姿を うかがい知ることができます。
人物埴輪(上矢部町富士山古墳出土)
-横穴墓- 六世紀後半から七世紀になると大きな古墳 は少なくなり、一つの地域に小さな円墳や横 穴墓が密集する群集墳が増えてきます。 横浜では三保杉沢古墳(緑区三保)、釜台古 墳群(保土ヶ谷区釜台)や七石山(栄区小菅 ヶ谷)、市ヶ尾(青葉区市ヶ尾)、矢崎山(都筑 区荏田)などがの群集墳が知られています。 横穴墓は丘陵の傾斜面を掘り抜いてつくら れ横穴式石室と同じように出入りが容易で 後から追葬も出来るようになっており、遺体 を納める玄室のほか墓前のまつりに使用さ れた副葬品などの遺物が出土しています。
横穴墓(青葉区市ヶ尾)
<古墳時代のムラ> 古墳時代のムラは数軒の竪穴住居、平地住 居や高床倉庫が一つのまとまりとなり、それ がいくつか集まって成り立っていました。 ムラには祭りの広場があり、また住居の近 くには小さな畑もあったようです。 この時代には鉄製の農具の普及、住居内の カマドの設置、須恵器という新しい器の使用 といった生活の面での変化がありました。 人々は地域の首長・ムラの長(おさ)の下で 耕地の開発や古墳づくり、祭りなどを行なっ ていたようです。
古墳時代の集落遺跡(都筑区矢崎山遺跡)
<人々の暮らし> この時代には縄文時代から長い間受けつい できた「炉」に代わって粘土や石で作った「か まど」が住居の一角につくり付けられるにな り、食物を煮るだけでなく蒸すことも加わり 食生活に大きな変化をもたらしました。 土器では日常生活の器として弥生式土器の 流れを受けついだ土師器が、祭りの器として 須恵器が使われるようになりました。 -土師器と須恵器- 土師器(はじき)は800℃くらいの温度で素焼 きの赤みをおびた土器で古墳時代から奈良、 平安時代にかけて日常生活の道具として用い られました。土師器は火に強いことから煮炊 きの容器として適していること、低温で焼か れるために燃料が少なくて済むなどの長所が あり主に日常生活に使われました。
土師器(坏・高坏・椀・拑・甕)
須恵器(すえき)は五世紀の中頃に朝鮮半島 から渡って来た技術者たちによってもたらさ れました。 この土器の特徴はロクロを使用して形を整 え、斜面に築かれた「あな窯」で1000℃を超す 温度で焼かれていることです。 土師器よりも硬く吸水性の少ない須恵器は 煮炊きのための容器としては適さず、主に祭 りの時などに使われました。。
須恵器((坏・蓋・高坏・提瓶・甕)
<ヤマト政権の支配> 日本書紀によれば四世紀の中頃武蔵の国の 豪族千熊長彦がヤマト政権にすでに服属し ており、神託(神のお告げ)によって朝鮮との 外交折衝の使いに選ばれるような関係にあ ったようです。 また五世紀のはじめ頃には仁徳天皇が茨田 の堤を築かせた時、武蔵の人強頸(こわくび) が、その人柱となったことが記されておりこ の頃すでに横浜の地にもヤマト政権の支配 が及んでいたことを窺わせますが、本格的に 東国の豪族への支配を強めるのは五世紀後 半以降のことと考えられており、日本書記に は安閑元年(534)武蔵国の国造(長官)が朝廷 に屯倉を献上した様子が記載されています。 (詳細は
こちら)
日本書紀・安閑天皇元年閏十二月是月条


4世紀
 古墳の築造
が始まる
(観音松・稲
荷前古墳)
       



5世紀
 武器・玉・鏡
を持つ円墳
つくられる
(矢上・朝光
寺古墳)
 カマドや須
恵器が出現
する



6世紀
 馬具・埴輪
を持つ古墳
がつくられ
る(瀬戸ヶ谷
・室の木古
墳)
 横穴墓群が
激増する(市
ヶ尾横穴群)
 
 武蔵国造が
橘花(橘樹)
倉樔(久良
岐)など四ヶ
所を屯倉と
して朝廷に
贈る


 









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