ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 7

                                                参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                                  旺文社「図説日本の歴史」
                                           金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
                                                      〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                                              和田大雅「武州金沢のむかし話」
                                                               杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・E奈良時代・・・

 701年に大宝律令が完成、順次施行されて律令制に基づく中央集権の国家体制が整備され、都(平城京)には薬師寺、興福寺や東大寺などの大寺院が建設されて仏教を中心とする文化も栄え、多数の海外の文物が遣唐使によってもたらされた古代日本の黄金時代といわれる時代です。

 一方貧困な農民が数多く生まれ飢饉や流行病もしばしば起こり、公地公民制度も動揺しはじめ後期には社会不安を背景に政変が相次いで起こり784年には都は長岡京へ移ります。

        日 本  で は         
か ね さ は  で は
略 年 表


平城京遷都
 
 707年文武天皇死亡により元明天皇(文武天皇の母)が即位し、都は平城京へうつりました。都は南北約4,8キロ東西約4,3キロにもおよぶ広大なもので、万葉集に 

 「あをによし 奈良の都は咲く花の にほふがごとく 今さかりなり」

 と詠まれたように整然とした立派な都でしたが、反面多くの労働力が必要とされたため農民たちは強制的に労働にかりだされ都づくりの帰りに死んでしまうなど苦しい生活を送ります。


 <租・調・庸と労役>

 人々は口分田を与えられた反面さまざまな税を課せられました。
 
 租
は口分田の収穫高の約3%の稲をだすもの。
 
 調
はその地方の特産物などで、布や海山で採れた産物が主体でした。
 
 庸はもともと都の出て労働することでしたが、都から遠いところでは布を出して労働に代えることになっていました。

 平城京跡から出土した、調に荷札としてつけられたと思われる木簡には武蔵国から収められた品物が記載されていますが、「かねさは」の地からも海産物などが運ばれたものと考えられます。


平城宮・京跡から出土した武蔵国関係木簡
ー真ん中の木簡からは橘樹郷から茜(染料)が収められたことがわかりますー
(複製・横浜市歴史博物館蔵)

 労役の負担

 
雑徭は1年間に60日間国司の命令で人夫として国府の建物などの造営や修繕、物品の運搬などの仕事にあたるもの。

 
仕丁は50戸につき2人の割合で徴発され、都で中央官庁の雑役にあたりました。

 
兵役は21歳から60歳迄の男子(正丁)が兵士として徴発されるもので、必要な物資はすべて自己負担だったため、人々には大変な負担となりました。

 この兵士の中から衛士(えじ)と防人(さきもり)が選ばれ、衛士は都で宮殿や中央官庁の警備にあたり,防人は筑紫(福岡・佐賀)で対外的な警備にあたりました。

 「かねさは」のある武蔵の国からも防人として送られた人が詠んだ軍役のつらさや妻子との別れの悲しみの歌が万葉集に収められています。

 <弘明寺>

 741年諸国に国分寺・国分尼寺を建立する詔が出され、武蔵国には現在の東京都国分寺市に、相模国には神奈川県海老名市に国分寺が建立されました。

 これと相前後して地方の郡司たちも仏教文化を受け入れ各地の有力者に寺院建立をすすめます。

 久良郡では南区弘明寺の境内から奈良時代の瓦が発見され、かねさはのあたりにも仏教が広まっていたことがわかります。


弘明寺(横浜市・南区)
(寺伝によると721年開創といわれ横浜市内最古の寺院とされています)

<武蔵国への道>

 大化の改新により奈良の都からは地方に向けて七本の大きな道が開けました。(七道)
 各々の道に面する国々が一つの行政単位としてまとめられ、武蔵国ははじめ東山道に属しましたが、771年利便性から東海道に組み込まれ、都との往来は従来の上野国邑楽郡より南下する道から相模国から北上する道へと変わりました。


関東の古代官道


駅伝制
 

 律令国家では駅には駅家(えきか、うまや)を設置し、駅馬(えきば)を5〜20頭置いて都と国府の往来に使いました。
 郡家には5頭の伝馬を置き各国の国府や郡家との連絡に使いました。
 これを駅伝制といいますが、都の役人には朝廷から駅鈴が支給され、これを鳴らして駅馬や駅子(駅で働く人)を徴発しました。


駅鈴(玉若酢神社蔵)





 
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 奈良時代
 (710〜794)

710 平城京へ遷都
712 古事記編纂


720 日本書紀編纂
723 三世一身の法制定

740 広嗣の乱
741 国分寺・国文尼寺建立の詔発布
743 墾田永世私有令発布

752 東大寺大仏開眼
754 鑑真来朝,律宗を伝える


764 恵美押勝の乱
765 道教 太政大臣(翌年法王)に


780頃万葉集できる


784 長岡京へ遷都







和同開珎
 
 富本銭が発見されるまで、日本最古の貨幣としていた和同開珎が708(和銅1)年に作られました。
 この時代の貨幣は国家の威信を示す意味合いが強く、政府は蓄銭叙位令(お金を貯めた人には位をさずける法令)をつくり貨幣の流通を促進しました。

富本銭
 
1998年飛鳥池遺跡から出土した富本銭は日本書紀に記載の天武12(683)年の銅銭とみられます。富本とは国を富ませる本(もと)という意味で富本銭は天武天皇が律令国家の繁栄と国家支配を銅貨に刻み込んだものと考えられてます。

地方の統治
 
 当時日本の国は大きく八つにわけられ、近畿地方は「畿内」といわれ5つに分かれ地方は七道に分かれていましたが、朝廷は国を中心に全国を支配していました。(国名地図はこちら

藤原不比等の活躍

 奈良時代の政治は大宝律令によってすべて運営されることになりましたが、この大宝律令作成に参加し刑部親王を助けて完成に力をつくしたのが鎌足の次男、藤原不比等です。
 不比等は右大臣の地位でしたが実力No1といわれ、天皇家の外戚となり天皇家とも深いつながりが出来ていました。
 不比等の死後、勢力を伸ばしてきた皇族の左大臣長屋王は、729年謀反の疑いをかけられ自殺に追い込まれます(長屋王の変)。
 四人の息子武智麻呂、房前、宇合、麻呂もそれぞれ朝廷での主要な地位につきますが不比等の死後735年天然痘の流行により四人の息子達も死亡します。

国分寺と大仏の建立

 藤原氏不比等や四人の息子の死により橘諸兄の台頭とそれに反発する宇合の子の藤原広嗣の乱(身内の反乱)に衝撃をうけた聖武天皇は恭仁宮(山背国)難波宮(摂津国)紫香楽宮(近江)など転々と都を遷しますが、その間人心は動揺し政治は乱れます。
 こうした時期に天災や疫病がおこり不安な社会となったため、聖武天皇は仏教の力により政治を立て直そうとして、国ごとに国分寺や国分尼寺を、各国の国分寺の総元締めとして東大寺をつくり大仏を建立します。


天平文化

 奈良時代の文化を天平文化といい、中国の唐文化の影響を強く受けていますが、その唐文化にはシルクロードやインド洋をこえてもたらされた西アジアやヨーロッパの諸文化が入りこんでいたので、天平文化も国際的な色合いが見られます。

<記紀と万葉集>
 
古事記は712年,日本書紀は720年に完成しましたが古事記は神代(神々の時代)から推古天皇の頃まで、日本書紀は神代から持統天皇の頃までを内容としています。
 いずれも天皇が神の子孫であり、神代にさかのぼって大和朝廷の支配の根拠づけをしていますが、同じ頃作られた
風土記とともに当時を知る上での貴重な歴史書となっています。
 万葉集は奈良時代末、大伴家持らによって編纂された日本最古の歌集ですが天皇・貴族から農民や乞食にいたるまでのいろいろな身分の人の歌が含まれており「国民の歌集」ともいわれます。

<鑑真の来朝>
 
日本からの要請により唐の僧鑑真が海難や失明の苦しみに会い乍ら六度目の航海で来日し、東大寺に戒壇を設け、日本初の受戒師(戒を授け僧の資格を与える人)となり、759年唐招提寺を建立しました。

<正倉院>
 
756年頃建てられた東大寺の倉(庫)ですが東大寺大仏開眼に使われた調度品や宝物、聖武天皇の遺愛品など数多く収められておりペルシャやインド、東南アジアなどから伝わった品物も多くアジアの博物館ともいわれます。


律令制の動揺

〈逃亡する農民〉
 
大宝律令により農民たちは口分田を与えられ、自給できる程度の食糧は確保できましたが、租・調・庸の税負担や雑徭などが生活を圧迫します。
 やがて生活に困窮した農民は口分田を投げ捨てて都の貴族や地方の豪族のところへ逃げ込みます。
 大化改新で土地は一応国のものとなりましたが、それは田についてでありその他の土地についてはきまりがなかったので貴族や豪族たちは野山を開拓して田を作っていました。
 逃げこんだ農民は野山の開墾に従事し税の心配から逃れます。

〈開墾の奨励)
 
生活に苦しむ農民と土地を広げる貴族や豪族との差は大きくなります。
 一方で人口も増加、口分田も不足してきたので政府は723年
三世一身の法を、743年には墾田永世私財令を発布し田を増やそうとしますが、勢力のある貴族や寺院、豪族は逃亡してきた農民などを使って野山を切り開き、これが結局土地の公有制を崩し荘園の成立につながります。

藤原仲麻呂と道鏡
 
 転々とした都も紫香楽宮から再び奈良(平城京)にもどった翌々年に橘諸兄が死亡、その子奈良麻呂の時代になると藤原氏の中から武智麻呂の子仲麻呂(聖武天皇の従兄弟)が出てきます。
 仲麻呂は名門の出身として次第に実力をのばし大納言になっていましたが奈良麻呂が反乱の計画をたてていることを理由に奈良麻呂をたおし淳仁天皇から恵美押勝という名をもらい大師(太政大臣)となり位も正一位と最高の地位にすすみます。
 
 当時孝謙上皇の病をなおし上皇の信頼が厚かった僧の道鏡は、政治にも野心を見せます。
 これに不安を感じた仲麻呂は764年道鏡を除こうと計画しますが、逆に上皇と道鏡に攻められ殺されました(恵美押勝の乱)。
 道鏡は再び称徳天皇として即位(重祚)した上皇を後ろだてとして勢力をふるい法王となり、皇位をも狙いますが和気清麻呂らの妨害で失敗(宇佐八幡宮神託事件)、770年称徳天皇が死亡するとその勢力は急激に失われ下野国の薬師寺に移され2年後に死亡しました。
 称徳天皇のあとは藤原氏に支えられた光仁天皇が即位し政治の刷新を目指しました。