ーファミリー版ーよこはまの歴史13

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P14

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 数研出版 「新世界史】ほか 関連サイト;かねさはの歴史(昭和から平成へ)

…(]V)昭和から平成へ(太平洋戦争終了後〜現在)…



 戦後の横浜はアメリカ軍による占領、接収と人口の急増による公害問題などに悩まされながら東京都に
次ぐ日本第二番目の大都市になりました。二十一世紀を迎えて今、巨大都市と化した横浜の魅力ある地域
づくりを目指して官民一体の努力が続けられています。
 
 第二次大戦後長期にわたった米ソ両陣営の冷戦も二十世紀終わりには終結しましたが、各国の経済格差
や民族や宗教の違いによる紛争やテロも増え、世界人類の真の平和への道のりは遠いようです。(図・第二次
世界大戦後の主な戦争・紛争)

世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

【大 戦 後 の 世 界】
 第二次世界大戦後、世界は東の共産主義陣営と
西の自由主義陣営とに分かれて激しく対立する
一方、アジア、アフリカなどの第三世界の台頭が
ありました。しかし第三世界は先進国との経済
的格差を容易に克服することが出来ず、南北問
題が発生します。

 <国際連合の成立>
 国際連盟が第二次世界大戦を防げなかった反
省から連合国の間では、大戦中から新しい平和
機構の設立が計画されていました。
 1946年4月から6月にかけて連合国の代表が参
加してアメリカのサンフランシスコで会議が開
かれ、国際連合憲章が承認され、10月には国際連
合が成立しました。

 国際連合憲章(部分)
 
  われわれの生涯のうちに再度、言語に絶する悲哀
 を人類にもたらした戦争の惨害から、きたるべき世
 を救うこと、および基本的人権と人間の尊厳および
 価値と、男女および大小各国の同権とに関する信念
 を再確認すること(中略)を決意して、これらの目的
 を達成するために、われわれの努力を結集すること
 を決意した。
  大戦後には戦争によって大きな被害を受けた イギリス・フランスに代わって被害の少なかっ たアメリカが資本主義諸国をリードするように なり、マーシャルプランなど西欧諸国の復興の ため援助を送りました。 一方東ヨーロッパはソ連の援助の下に、独立を 獲得した国々がソ連を中心に社会主義国家を形 成していきました。この結果、東西陣営の対立が はじまり、それはやがて冷たい戦争と呼ばれる ようになりました。 <ソ連のベルリン封鎖> 戦後ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ 連の四カ国によって分割して占領され、ソ連が 占領した東ドイツにある首都ベルリンも分割管 理されました。(ドイツとベルリンの分割管理図) 東西の対立が激しくなる中で1948年ドイツを 西ヨーロッパの一国として復活させようとした 西側三国はその第一歩として西側占領地区での 通貨改革を行いましたが、ソ連は西ドイツの新 通貨がベルリンに入るのを阻止するため、西ベ ルリンに通ずる交通路を遮断しました。西側三 国は食料、燃料、医薬品などの必要物資の大規模 な空輸作戦でこれに対抗、緊迫した状況が続き ましたが、翌年5月ソ連が封鎖を止め、危機は避 けられました。 しかしドイツの分裂は決定的となり1949年9月 西ドイツにドイツ連邦共和国が成立、10月には 東ドイツにドイツ民主共和国が成立しました。 <朝鮮戦争> 日本の支配化にあった朝鮮は日本の敗戦によ ってその支配から脱しましたが、北緯38度線を 境として北をソ連、南をアメリカが占領統治し たことからドイツと同じく東西対立の場となり ました。 このため朝鮮は南北に分裂したまま独立する ことになり、1948年南朝鮮に大韓民国が、北朝鮮 に朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。 その後も統一をめぐる対立から南北の間にし ばしば武力衝突がおこり、1950年6月には全面戦 争(朝鮮戦争)になりました。韓国はアメリカ軍 を主力とした国連軍の支援を受け、北朝鮮は中 国の支援を受け激しい戦いが繰り広げられまし たが、やがてソ連の提案により1953年板門店で 休戦協定が成立しました。 <中華人民共和国の成立> 日本の侵略下にあった中国は日本の敗戦とと もに解放され平和がやってきましたが、国民党 と共産党が再び争いをはじめ、1946年には農民 や労働者の支持を得た共産党はアメリカの支援 を受けた国民党を破り、1949年中華人民共和国 を成立させ、蒋介石の国民党は台湾に逃れまし た。 中華人民共和国は地主制度を廃止して農民に 土地を分け、銀行や大企業を国有化、国家主席の 毛沢東はモスクワに行き、1950年ソ連と中ソ友 好同盟相互援助条約を結び、社会主義陣営に属 することを明らかにしました。 <アジア・アフリカ(バンドン)会議> 大戦後、独立したアジア諸国の中に米・ソいず れの陣営にも属さず第三勢力として力をあわせ ようとする動きが起りました。これを指導した のはインドのネール首相やインドネシアのスカ ルノ大統領でした。 1955年4月アジア・アフリカ会議がインドネシ アのバンドンで開かれアジア・アフリカの29カ 国の首脳が参加、反植民地主義、民族主義、人種 差別の撤廃、各国の相互協力などをうたった平 和十原則が発表されました。また第二次大戦後 にはアフリカでも民族独立の動きが強まり、特 に1960年には17カ国もの国が独立し、この年は アフリカの年と呼ばれました。 このようにアジア・アフリカ諸国の勢力も次 第に強まり、欧米諸国のみが世界を動かす時代 は終わり新しい時代になっていきました。 <キューバ危機の発生> キューバは米西戦争の結果1898年にスペイン から独立しましたが、その後もアメリカの保護 におかれ経済的にもアメリカ資本の支配下にあ りました。国内では貧富の差が激しく、一部の大 地主や資本家が特権階級として政治、経済、社会 の特権を独占していました。 1959年急進的な民主主義者であるカストロは パティスタ独裁政権をゲリラ戦で倒し、革命に 成功しました。アメリカはキューバ革命がラテ ンアメリカの反米運動を刺激することを恐れ、 キューバと国交を断絶、ソ連がキューバへの援 助をはじめました。 1962年ソ連はキューバにミサイル基地を建設 しようとしましたが、アメリカ大統領ケネディ はミサイルの搬入を阻止するためにキューバ海 上を封鎖、アメリカとソ連の間に全面衝突の危 機が生まれましたが、ソ連のフルチショフはミ サイル基地撤去の見返りにケネディからキュー バ不可侵の約束をとりつけて世界戦争の危機は 回避されました。 <中 東 戦 争> 西アジアのパレスチナには第二次大戦中から ユダヤ人の移民が激増したためにもとから住ん でいたアラブ人との間に対立が強まりました。 1948年ユダヤ人はパレスチナに国を建てイス ラエル国家の成立を宣言、アラブ諸国連盟はこ れに反対して第一次中東戦争がおこり、イスラ エルの勝利に終わりましたが対立はその後も続 き、1956年に第二次、1967年には第三次の中東戦 争がおこりました。第三次中東戦争でイスラエ ルはシナイ半島を占領し、そのため多くのパレ スチナ難民が生まれました。 1973年の第四次中東戦争ではアラブ側の産油 国がイスラエル友好国へ原油を輸出することを 禁止し、原油価格を4倍にしたためオイルショ ックが発生、世界中に大きな衝撃を与え、エネル ギー問題への関心が高まりましたが、イスラエ ルとパレスチナやアラブ諸国との対立は今も続 き世界情勢に大きな緊張を与えています。

 ユダヤ人とパレスチナ

  パレスチナはユダヤ人の故郷の地でしたが、約2千
 年前ローマ帝国によってユダヤ国家が占領され、ユ
 ダヤ人は各地に離散していきました。
  ヨ−ロッパにも多くのユダヤ人が住んでいました
 がイエスを殺したのはユダヤ人であったという烙
 印などにより、キリスト教世界の社会機構から締め
 出され、キリスト教徒には禁じられている金融業や
 高利貸などに進出せざるを得なくなり、人々の憎悪
 の対象となり、ゲットー(強制的に隔離された場所)
 への居住など大変差別的な扱いを受けていました。
  19世紀末民族主義の風潮が強まるとユダヤ人の中
 にもシオニズム運動が高まりましたが、第一次大戦
 中イギリスはユダヤ人資本家の協力を得ようとシオ
 ニズム運動の支持を約束、「バルフォア宣言」によっ
 てパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを承
 認、第二次大戦後の1948年にイスラエル国家が建設
 されましたが、「フサイン・マクマホン協定」で独立ア
 ラブ国家の樹立を約束された先住のアラブ人との間
 に対立が生じ、深刻な国際問題となりました。
   (関連サイト・バビロンの捕囚ユダヤ人の迫害パレスチナ問題)
  <ヴェトナム戦争の終結> フランス領インドシナでは第二次大戦中から 独立運動が続けられ1945年ホー・チ・ミンによっ てヴェトナム民主共和国が成立しましたが、再 びインドシナを支配しようとするフランスとの 間に対立が高まり、1946年インドシナ戦争が始 まりました。戦争は1954年のジュネーブ休戦協 定で休戦となりヴェトナムは北緯17度を軍事境 界線として二分されました。 アメリカは南ヴェトナムに軍事や経済の援助 をして反共産主義体制を強化しようとしました が、南ヴェトナム政府の独裁的な政治に国内の 反発が強まり、1960年北ヴェトナムの支援を受 けて南ヴェトナム解放民族戦線が結成され内戦 が始まりました。 1946年以降アメリカは解放戦線への北からの 兵士、物資の補給路を断つために北ヴェトナム に爆撃(北爆)を開始しましたが、解放戦線と北 ヴェトナムはソ連、中国の支援を受けて根強く 抵抗を続けましたが、アメリカ国内にもヴェト ナム戦争反対運動が高まり、アメリカは北爆を 停止、ヴェトナムから撤退しました。 アメリカの援助を失った南ヴェトナムは1975 年に降伏、翌年南北ヴェトナムはヴェトナム社 会主義共和国として統一されました。 <南北問題の発生> アジア、アフリカ、ラテンアメリカ等の発展途 上国と西欧、北米、日本などの先進工業国との経 済格差が拡大する中で、1970〜80年代には原油 価格の大幅な引き上げに成功した産油国のほか にブラジルや韓国など工業化に成功した地域(N IES)が登場しましたが、非産油発展途上国の経 済的困難は更に大きくなり、膨大な対外債務を 抱えて国際金融の不安要因となっています。 更にアジア、アフリカの後発発展途上国(LDC) では自然災害などによる農業不振から餓えに苦 しみ、部族間、種族間の内戦を避けて難民となる 人も多くなりました。 【現 代 の 世 界】 米ソ両陣営の冷戦は、20世紀末に終結し、ソ連 は崩壊、アメリカだけが超大国としてそびえ立 つようになりましたが、科学や技術の急速な発 達の結果、世界のグローバル化が進み、それに伴 って宗教、民族、文化などの相違による紛争や摩 擦も増大しました。そしてアメリカによる世界 の一極支配にも限界があることが明らかになり 、ヨーロッパ統合の進展や中国の台頭などの要 因を含みながら、世界は新秩序を模索していま す。 <東西冷戦の終結> ソ連では1980年代前半の頃になると経済は停 滞し、国民の生活水準は低下、特権階級のみが権 力を振るい、国民全体のモラルも低下しつつあ りました。1985年に共産党書記長となったゴル バチョフはペレストロイカ(改革)の合言葉のも とにソ連の経済、政治の大規模な改革に乗り出 し、外交面ではアフガニスタンからソ連軍を撤 退させました。 1989年地中海のマルタ島で開かれた米ソ首脳 会談で東西冷戦の解決と新時代の到来が宣言さ れ世界は冷戦終結へと向かいます。
<マルタ島での米ソ首脳会談> 左はブッシュ米大統領、右はゴルバチョフソ連最高会議 議長(数研出版・新世界史より)
<中国の天安門事件とその後の経済発展> ソ連の平和共存路線への転換により次第にソ 連と対立するようになった中国は、国内では大 躍進運動の調整に反対する毛沢東らによって おこされた文化大革命収束後の、1989年6月、第 二次天安門事件がおこり中国政府は人権抑圧と して国際的非難を浴び、海外からの資金調達が 凍結されるなど大きな経済的打撃を受け、中国 では1992年開放政策と共産党支配を両立させる 社会主義経済の概念が採用されました。 ケ小平は経済成長の加速を進めましたが、199 7年ケ小平の死後、江沢民総書記(国家主席を兼 任)が指導力を強め、高度成長路線を定着させ ました。しかし経済成長に伴って地域間の格差 や失業者の増大などが問題化しています。

 文化大革命
 大躍進運動の失敗後、国家主席を退いていた毛沢東
は調整政策を採って経済の漸進的な復興を進めてい
た劉少奇、ケ小平らを「資本主義の道を歩む実権派」と
批判して、1966年から紅衛兵(学生主体の政治組織)を
動員して大衆運動により権力を取り戻そうとしまし
た。これに国防大臣の林彪が指揮する人民解放軍が加
わり、各地で「造反有理」(反逆には必ず道理がある)の
スローガンのもとに戦いが繰り広げられ、政治的迫害
や職場、学校、地域内でのつるしあげ行なわれ、社会は
大混乱に陥りました。
 1969年4月には中国共産党大会が開かれ林彪が毛沢
東の後継者に指名されましたが、林彪は71年9月謎の
死を遂げ73年にはケ小平が復活、76年の第一次天安門
事件と毛沢東の死亡により江青(毛沢東夫人)ら四人
組が逮捕されて動乱の10年は終わりました。
 中国共産党は1981年に文化大革命を正式に否定する
と同時に毛沢東の誤りも認めましたが、文化大革命は
社会に混乱をもたらしただけでなく中国経済の停滞
を招くことになりました。
<ドイツの統一> ドイツでは1989年11月のベルリンの壁の崩壊 ののち通貨の統合により経済面の統一が実現、 90年10月東西ドイツの統一が実現しました。 統一によってドイツはヨーロッパ最大の国家 となりましたが、国内経済は旧東ドイツ地域を 抱え込んだことによるマイナス効果が大きく、 高い失業率に悩まされました。 98年の総選挙でシュレーダーを首班とする「社 会民主党」と「90年連合・緑の党」との連合がつく られましたが、経済の低迷が続き、2005年9月の 総選挙では女性のメルケル党首が率いる「キリ スト教民主・社会同盟」に敗れました。
<ベルリンの壁崩壊>ハンマーを使って壁を叩き 壊そうとする市民(数研出版・新世界史より)
<ソ連の崩壊とロシア連邦> ソ連では1991年8月ゴルバチョフの改革路線に 対してヤナーエフらの保守派がクーデターをお こしましたが失敗、各共和国の独立の機運は高 まり連邦全体を結び付けていたソ連共産党は解 体し同年12月ロシア連邦共和国を中心にウクラ イナ、ベラルーシは独立国家共同体(CIS)の建設 を推進し、旧ソ連の十一の共和国がCISを結成し たのでソ連邦は消滅しました。 ソ連邦消滅後のロシア連邦共和国もまた多民 族をかかえて広大な領土を持つ連邦国家でした がエリツインとプーチン両大統領のもとで民主 主義と市場経済への転換が図られましたが旧共 産主義勢力の抵抗、チェチェン紛争など前途は なお険しい道のりです。 <超大国アメリカ> 冷戦終結とソ連の崩壊、国内の景気拡大の中で 、1990年代以降のアメリカは経済的にも軍事的 にも超大国となりました。 1988年の大統領選挙で当選した共和党のブッ シュは冷戦に終止符を打ち91年の湾岸戦争で 勝利を収めましたが、アメリカ国内の経済が低 迷を続けたために1992年の大統領選挙では民主 党のクリントンに敗れました。 クリントンは経済成長を持続させ財政と国際 収支の"双子の赤字"に悩む経済の再建に力を入 れ、アメリカ経済は長期にわたる繁栄を見せま した。 クリントンのあとをついだブッシュ政権の時、 同時多発テロが発生、アメリカの世論、外交、内 政は甚大な影響を受け、ブッシュ大統領は「テロ との戦い」を最重要課題に掲げるようになり、イ ラクへ派兵しましたが、戦争の長期化に対する 国民の不満が高まっています。 <アフリカの人種・民族対立> 南アフリカの少数白人政権は第二次世界大戦 後、アパルトヘイトによって白人の社会的、経済 的特権を維持する目的で人種差別政策をとり、 これに対する国際世論の非難を無視して南アフ リカの政府は隔離政策を続けましたが、国内に も反対運動が高まり、91年6月アパルトヘイト関 連法を廃止し、マンデラが黒人初の大統領に選 出されましたが、21世紀に入っても人種による 経済的な格差は存在しています。
<アパルトヘイト> 国民の80%以上を国土の13%の土地に住まわせ、市民とし ての権利を奪った状態に置く人種隔離政策。公共施設の 利用も区別されました。(数研出版・新世界史より)
アフリカでは第二次大戦後ヨーロッパ諸国の 植民地支配から脱して多くの独立国家が生まれ ましたが、その後も内戦や民族紛争に苦しんで いる地域は多く深刻な食用危機やエイズ被害が 広がっている国も多く、2002年にはアフリカ連 合(AU)が発足しアフリカの統合強化を目指して います。 <混迷する中東世界> イラクでは1979年以来大統領の地位にあった サダム・フセインはバース党(社会主義政党)を 基盤に独裁政治を行い91年の湾岸戦争後もクル ド人やイスラム教シーア派の蜂起を弾圧し、国 連による武器査察に対しても拒否、非協力の態 度をとりました。2002年に米大統領ブッシュに よってイラン・北朝鮮とともに「悪の枢軸」と非 難され、03年には大量破壊兵器の保有疑惑など に米英軍の攻撃を受け、フセインはアメリカに 拘束されましたが、その後も米英軍に対するテ ロが頻発し、イラクの治安回復と復興は難航し ています。 パレスチナではユダヤ人と先住アラブ民族と の長い間の対立(コラム・パレスチナ問題)の後1993 年にイスラエル首相ラビンとPLO議長アラファ トの間で相互承認とパレスチナの暫定自治樹立 について合意に達しましたが、2000年からパレ スチナ過激派による自爆テロとイスラエル軍に よる武力の応酬が再び激化しました。 その後2005年8月イスラエルのガザ撤退が実現 しましたが依然として和平の行方は不透明です <ヨーロッパ統合の前進> 第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパは世界 政治や世界経済への影響力を著しく低下させ、 ヨーロッパを統合して米ソ超大国に対する発言 力を強めヨーロッパに恒久的な平和を確保する ことが必要となりました。 1967年、ヨーロッパ 経済共同体などを統合してヨーロッパ共同体(E C)ができ市場統合が図られ1993年にはヨーロッ パ連合(EU)が発足、99年には単一通貨ユーロが 導入され、統合の深化と拡大が進められていま す。

 <占領軍の進駐と接収>
 太平洋戦争の終結により横浜は占領軍の日
本上陸の玄関口となりました。
 1945(昭和20)年8月30日マッカーサー元帥は
厚木に降り立ち、大部隊は厚木から横浜へ進
駐しました。米軍は物資の補給基地として横
浜港をフルに使うこととなり、大半が戦争に
よって破壊され、残っていた僅かの港湾施設
も占領と同時に全部占領軍に接収されてしま
いました。
 占領軍の緊急接収、緊急退去命令により、市
民は中心部から周辺地域へ、隣接の町村へと
移動、戦災と接収の二重苦にあえぐことにな
リました。
<進駐軍の横浜上陸>1945年9月2日第八軍の主力
部隊の一部は横浜港から上陸を開始しました
(米国立公文書館蔵)
関内の焼け跡や山下公園にはカマボコ兵舎 が立ち並び、山手方面の住宅94戸も接収され ました。 ホテルニューグランドはマッカーサーが宿 泊しその後は将校宿舎に、開港記念館は婦人 将校宿舎にあてられ、伊勢佐木町はアメリカ 一色になりました。 市街地の中心部にある高層ビルは殆ど接収 され、山下公園や根岸競馬場など15ヶ所の公 園や緑地も接収されました。

 横浜と接収

 横浜の接収は全国(沖縄を除く)接収土地面積の70
%、建物の61%にも上りましたが、特にその6割が継続
的接収であったことが東京その他の地域との大き
な違いでした。
 中でも関内地区、横浜港という横浜の心臓部を接
収されたため、横浜経済ははぼ完全に麻痺し、戦災、
接収という相次ぐ被害によって経営上の基盤を失
った資本は市街へ流失し、残った地元資本は大きな
打撃を受けました。
 松信泰輔氏(有隣堂社長)は
  「敗戦後は沖縄に次いで日本で一番大きな被害
  を被り日本の再建の犠牲になったのは横浜だ
  と思います」
 と述べています。
接収中の野沢屋(横浜市図書館蔵))
<接収下の生活> -あふれる失業者- 戦争により工場が1465工場から826工場に減 った横浜では終戦により、外地に行っていた 軍人や軍属が復員し、一般人も帰国してきた ので町には失業者が溢れました。 住む家もなく野宿する路上生活者が3千人を 超えたと言われます。町には浮浪者や浮浪児 がたむろして、衣食住の不足は人々を苦しめ ました。 -どん底の食生活- 特に食料の不足は深刻で人々はサツマイモ やカボチャのつる、ドングリの実など食べら れるものは何でも食べ、食管法に違反するこ とを知りながら農家に買い物に出かけました が、物々交換が多く焼け残った衣料などはみ んなイモに化けたのです。 -ヤミ市の出現- この頃各地にヤミ市やかつぎ屋が現れまし た。市内のヤミ市の中で最大の規模だったの が桜木町駅に近い野毛のヤミ市でみかん、い もなどの食料品、おでん、すいとんなどの飲食 物、そのほかの日用品が所狭しと並べられ、大 変な賑わいとなりました。
野毛のヤミ市(横浜市・横浜の空襲と戦災より)
<戦後の改革> アメリカ軍の進駐が一段落すると占領軍は 非軍事化、民主化のための措置を指令しまし た。治安維持法の廃止、特高警察の解体、政治 犯の釈放や労働組合結成の自由、男女平等な どの指令を次々と出しました。 この中にあって横浜では1945(昭和20)年末 までに東京瓦斯、池貝自動車、横浜交通など53 の労働組合が誕生、組合員は57500人に達し、 労働運動は急速に発展して10月の日本鋼管鶴 見造船所や1946年の東芝の大争議がおこりま した。 市民の生活は失業、衣食住の不足、インフレ の進行でドン底状態にあり、1946年5月1万人 の市民が隠匿物資や食料の即時放出を叫んで 野毛山で食料メーデーを行いました。 -改革を進めた立法- 1947年には主権在民、戦争放棄、人権尊重を うたった新憲法が制定され、これにそって教 育基本法、学校教育法、地方自治法などが作ら れ民主化への道を歩みます。また農地改革が 横浜市でも実施されましたが、農地を解放し た地主は8116戸(不在地主3304、耕作在村地主 4350戸)で、これを買い受けた農家は12074戸 と農地改革により小作農家は減少し、自作農 家は大幅に増加しました。 <接収の解除> 横浜市は市の復興のためには接収を解除し てもらうことが先決であるとして1951(昭和 26)年8月市長を中心に横浜市復興会議を設置 、市内外の政財界が一丸となって政府や与党、 アメリカ軍関係者に市民運動として強力に働 きかけしました。 その結果対日講和条約が発効した1952年以 後、大桟橋、ホテル・ニューグランド、税関ビル 、山下公園などの接収が解除され1955年2月に は土地面積の3分の1、建物面積の2分の1が元 にもどりました。その後も返還交渉は続けら れ、結局1986年4月までに土地の67%、建物の85 %が解除されましたが、なお小柴貯油施設、上 瀬谷通信施設、横浜ノースドック、池子住宅地 区など10ヶ所の米軍基地(527万u)が残され ました。(小柴貯油施設は2005年12月返還され 残りは7ヵ所476万uとなりました) <復興への道> 横浜が復興のきざしを見せたのは高島埠頭 が返還された1952年頃からでした。折柄の朝 鮮動乱による特需景気に沸く日本経済ととも に横浜経済も立ち直りを見せ、山之内、大桟橋 、新港の各埠頭をはじめとする接収解除も本 格化、敗戦直後には戦前の6割に減った人口も 1952年には戦前のピークを上回りました。 横浜港の外国貿易量は1957年には戦前を上 回り、輸入品では戦前に多かった食料品に代 わり石油が第一位となり、金属、鉄鉱石、石炭 等が増加、輸出品も生糸に代わり鉄鋼、車輌、 機械類等の重工業品が増加して、以後京浜工 業地帯の復興、発展とともに横浜港は工業港 としての性格を急速に強めていきました。 <横浜の発展> -国際港都建設法の公布- 1950(昭和25)年、国際港都建設法が公布さ れ横浜は国の援助の下に港湾の拡張、高速度 鉄道、大緑地帯、産業地帯、住宅地帯の整備・ 実現が計画されるようになりました。 -大臨海工業地帯の造成− 1955年に着工された鶴見区大黒町地先埋立 ては6年間に80ヘクタールの工業用地を造成 し、ここに東京電力、日東化学、アジア石油、 大洋漁業などが進出、1963年には山下埠頭は 10バースというわが国最大の大埠頭に拡張 され、1965年には臨港鉄道が新港埠頭から延 長されました。埋め立ては更に進められ1959 年根岸線の建設と根岸湾埋め立てが開始さ れ埋立地364ヘクタールには日本石油精製、 東京瓦斯、東京芝浦電気、石川播磨重工など のほか155社の中小企業が進出しました。
-産業基盤の整備- 1963(昭和38)年からは本牧埠頭造成と本牧 岬埋立がが実施され342ヘクタールの埋立地 には日産自動車、三菱重工業、三井物産、日本 通運や65社の中小企業が進出しました。 さらに1969年からは60ヘクタールに及ぶ金 沢地先埋立が開始されました。(関連サイト・金沢 海岸の埋立) 土地、水、電力、道路などの産業基盤の整備 によって重化学工業を中心に横浜市の工業 地帯化は飛躍的に進み、1955年に10万人だっ た工場従業員数は1970年には25万人近くま で増え、工業生産額は15年間に11倍に増加し ました。 -人口急増と乱開発- 重化学工業の急速な進展と東京のベッドタ ウン化という二つの要因が重なり急増した 人口は、1968年には200万を突破し、全国第三 位となりました。人口の急増に伴い1960年頃 から私鉄、国鉄の沿線で小規模で無秩序な宅 地開発が進められ、そこに進出した工場によ る公害問題が深刻化していきました。 <都市問題の発生> 横浜の都市問題は公害から始まりました。 公害は自動車排出ガス、光化学スモッグ、水 銀中毒、ヘドロなどと多様化、ゼンソクに苦 しむ市民も増加しました。 ゴミ問題は1958年頃から始まりましたが、 ゴミの量は1963年以後は急激に増え、「使い 捨て」時代の到来によりゴミの急増は異常な 状況になりました。 交通事情も悪化、交通網の整備は緊急課題 となり1964年の東京オリンピック前後に第 三京浜、東名などの高速道路が完成しました が、横浜市内では一般道路整備が遅れたため 交通事情は悪化する一方でした。 <変わる横浜> 第二次大戦前の横浜は東京の玄関口として 発展した港湾工業都市でしたが、戦後の復興 、朝鮮戦争特需などにより工業が著しく発展 して労働力が集まり人口が急激に増加しま した。 東京や横浜の中心部へ通う人たちが増える 住宅地が次々と開発され、住宅都市としての 役割が生まれてきました。住宅が増加するに つれて野菜、果実などの栽培を中心とする横 浜の農業は衰退し横浜市内の耕作面積は196 0年頃から急速に減少していきました。 漁業の最盛期は1957(昭和32)年頃で魚類を はじめノリなど当時6億円の収入がありまし たが、海岸線が埋め立てられ工場群と港湾施 設の増加とともに漁業専従者の数は著しく 減少しました 商業は発達し商業都市としての性格を帯び るようになり、また海外の諸都市とも友好都 市の提携を結び文化交流を行なうなど国際 都市としても発展していきました。 -繁華街の移り変わり- 横浜の繁華街の代表的なものとしては戦前 からの歴史を持つ伊勢佐木町、元町、中華街 やターミナルとして発展を遂げてきた横浜 駅周辺と、横浜の新都心としての発展が見ら れる新横浜駅周辺、副都心としての開発が進 んでいる上大岡をはじめとする地域、新しい 街の開発として現在着々と建設が進められ ているみなとみらい21地区があります。 *伊勢佐木町<関連サイト・関外の発展・・・・江戸時 代の豪商、吉田勘兵衛良信が埋め立てて造成 し吉田新田となったこの地に1874(明治7)年 、伊勢佐木町が誕生しました。その町名の由 来は町の開発に努めた伊勢屋文蔵と佐々木 次平の名をとったものとされています。明治 ・大正・昭和の三代にわたりショッピングと 食べ物、映画、演芸の街として賑わいを見せ ました。関東大震災や第二次大戦、連合軍の 接収などで町の勢いは衰えましたが、1952 (昭和27)年以後は接収が解除され再び商店 街として甦りました。 *元 町<関連サイト・山手と元町の形成・・・・開港当 時、旧横浜村の住民が山手のふもとに移住し し、やがて「元町」と呼ばれるようになりまし た。その後ここの住民たちが山手地区に居住 する外国人から習い覚えた技術を生かして、 外国人相手の商売を始めたことが商業地と しての始まりで、パン屋、家具店、洋品店など 異国情緒漂う商店街として発展しました。 その後関東大震災や外国商館の東京移転や 第二次世界大戦によって一時衰退しました が、1955(昭和30)年以後、全店の軒先を後退 させて歩行者空間を広くしたり、電線を地中 に埋めて歩道のデザインを一新するなど努 力を重ね、1985年には約230店舗が軒を連ね る現在の姿になりました。 *中華街 横浜港が開港されるとアメリカ人やイギリ ス人たちは日本との貿易を行なうため漢字 によって筆談のできる中国人を伴ってやっ て来ました。やがて横浜と香港・上海に定期 航路が開設されると独立して貿易を営む中 国人商人や西洋建築、ペンキ塗装、洋裁、西洋 料理などさまざまな技術を持った中国人も 横浜に来るようになり、居留地の一角に集ま り住んで次第に中華街を形成していきまし た。現在も多くの中国人が暮らし約190軒の 料理店をはじめ食材店、雑貨店など500あま りが集まり横浜を代表する場所の一つとし て人気を集めています。
中華街
*横浜駅周辺 横浜駅の西口と東口の発展の経過は大きく 異なります。 西口の発展は戦後砂利や石炭の置き場とし て使われていた土地を、相模鉄道が買収して 1956(昭和31)年、その子会社がここに名店街 を開いたことをきっかけに始まりました。 今ではデパート、ホテル、駅ビルなどの近代 的なビルが次々と立ち並び多くの買い物客 で賑わっています。 東口は本来横浜駅の表玄関でしたが、戦後 接収地であったことや地盤の問題などの理 由から西口に比べ発展が遅れました。1985年 にできたそごうデパートを拠点に再開発が 進み買い物に訪れる人の数も増えています。 *新横浜駅界隈 1964(昭和39)年東海道新幹線が開通しJR(当 時国鉄)横浜線と交差する場所に新横浜駅が 誕生しました。その後区画整理事業や幹線道 路の開通などが進み1989(平成元)年には横浜 アリーナが完成、以後大規模な総合病院の開 設、ショッピングセンターを併せたホテルの 開業などもあり横浜の新都心としての姿を整 えつつあり、サッカーのワールドカップ開催 などが行なわれたわが国最大級の横浜国際総 合競技場も完成しました。 *みなとみらい21地区 ―後 記― <新しい都市づくり> 横浜市は人口の急増によって計画的な開発 の必要性を生じ、1965(昭和40)年に六大事業 として「都心部強化」「港北ミュータウン建設」 「金沢地先埋立」「高速鉄道(地下鉄)建設」「高 速道路網建設」「横浜港ベイブリッジ建設」の 構想を発表、現在までに横浜ベイブリッジの 完成や市営地下鉄の開通、港北ニュータウン の建設、金沢地先の埋立による地域開発など が完成しました。 −みなとみらい21− 「都心部強化事業」にもとづき「よこはま21世 紀プラン」が計画され1981(昭和56)年に「みな とみらい21事業(都心臨海部綜合整備計画)と して発表されました。この目的は横浜の都心 部の関内・伊勢佐木町周辺と横浜駅東口周辺 の結びつきを強化するもので横浜駅と桜木町 駅にはさまれた臨海部の埋立地76ヘクタール と埠頭や三菱重工横浜造船所の跡地110ヘク タールを合わせた総面積186ヘクタールに未 来都市の建設が進められ、すでに横浜国際平 和会議場、ランドマークタワー、横浜美術館な どが完成しました。
みなとみらい21地区
−交通網の整備− 1972(昭和47)年に市内で始めての地下鉄が 上大岡−伊勢佐木町間に開通1989年には新杉 田−金沢八景を結ぶシーサイドラインが開通 し、横浜を首都圏の中核都市とするための交 通網整備が進められています。 −五つの副都心と港北ニュータウンの建設− 横浜の五つの副都心ではその周辺地区の特 性を生かした街づくりが進められています。 京浜工業地帯にある鶴見駅周辺では産業施 設と居住施設、国の行政機関の誘致を図るこ と、二俣川・鶴ヶ峰駅周辺では両駅周辺の市街 地再開発事業を中心として研究機関との関連 を強化すること、戸塚駅周辺では道路網の整 備や交通ターミナル機能の強化を図ること、 上大岡駅周辺では超高層ビルと区民文化施設 の充実が図られています。港北ニュータウン は面積2530ヘクタールに人口30万人の商業や 文化機能を強化するなど新しい都市の実現を 目指しています。 −ゆめはま2010プラン〜新開国都市宣言〜 1994(平成6)年には多くの市民の意見や要望 等を基に市民と市が一体になって将来の望ま しい市民生活や街づくりの提言が行なわれ、 長期ヴィジョンにまとめられ、市民生活のす べてにわたり豊かさを実現しようとする「ゆ めはま2010プラン〜新開国都市宣言〜」とし て発表され、そこには2010年頃の望ましい暮 らしが営まれている横浜の街の姿が描かれて います。 (完)

1945.8
 アメリカ軍
が横浜に進
駐
1946.3
 戦後初めて
の生糸が輸
出される
  〃5月、野
毛山で食料
メーデーが
行なわれる
1947.5
 新学制(六・
三制)施行に
より横浜市
で新制中学4
3校スタート
 横浜国際劇
場が開場
1948.4
 新制高校が
発足
 〃5月、金沢
区が誕生
1949.3
 日本貿易博
覧会が反町・
野毛山公園
で開かれる
1950.10
横浜国際港
都建設法が
公布される

1953.10
 アメリカ極
東陸軍司令
部が横浜税
関ビルから
座間へ移転
する


1957.6
 アメリカ軍
が岸根基地
を開設する
1958.5
 開港100年
祭が開催さ
れる
1959
 根岸湾海面
埋立の工事
着工
 大国町埋立
完了
1964.10
 新幹線新横
浜駅が開業
する
1969.7
 本牧ふ頭、
産業用造成
が完成
 〃10月、港
南・旭・緑・瀬
谷区が発足
1970.9
 横浜市など
と日本鋼管
の間に公害
規制の合意
が成立

1972.3
 横浜市電が
全廃される
 〃12月、横
浜市営地下
鉄の上大岡・
伊勢佐木長
者町間が開
通
1973.4
 根岸線が大
船まで全通


1976.9
 横浜市営地
下鉄の横浜.
上永谷間が
開通



 
1983.11
 "みなと未
来21"事業着
工

1985.3
 横浜市営地
下鉄の新横
浜・舞岡間が
開通する
1986.11
 栄・泉区発
足


1989.3
 市政100周
年・開港130
周年記念「横
浜博覧会」開
催



1993
 ランドマー
ク完成、開業



1998
 横浜国際総
合競技場が
オープン



2002
 FIFAワール
ドカップサ
ッカー決勝
戦他開催
  〃
 横浜市の人
口、350万人
を超える

2004
 みなとみら
い線(横浜−
元町・中華街
)が開通



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