三浦半島の歴史 P13  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P13

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島ーその 歴史と文化」 横須賀市 「横須賀市史」 三浦市 「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 文芸社 「三浦半島通史」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(大正時代) ;横浜の歴史(明治・大正時代A)

(]T)大正時代 1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦により横須賀では海軍工廠が大きく発展し、好景気をもたらしましたが、大正デモ クラシーの高まりとともに労働運動も盛んになり、ストライキも行われました。 1923(大正12)年9月1日の関東大震災は三浦半島でも多くの人命や財産を奪っただけでなく、美しい海岸や自然をも一瞬にし て奪い去り住民の懸命の復興活動のさなか、1926年12月大正天皇が崩御され大正時代は終わりました。

 <馬車から自動車へ>
 三浦半島でも大正時代に入ると急速に自動車が普及
しはじめました。半島での最初の自動車会社は1912
(大正元)年に開業した「逗子自動車会社」で、香川悦二
郎や丸 富次郎が中心となり資本金10万で設立されま
した。開業当時は4人乗り2台と6人乗り4台の自動車で
逗子ー長者ヶ崎間の乗合は横須賀線の列車が到着す
るたびに出発しました。料金は逗子駅〜長者ヶ崎間は
50銭、逗子駅〜御用邸間は45銭でした。
 運転手は東京で経験を十分につんだベテラン揃いと
いうのも、この逗子自動車会社の自慢でした。
 次に登場するのは横須賀ー浦賀間(横須賀駅より現
在の京浜急行浦賀駅)の乗合自動車で1912(大正2)年
に自動車2台をもって開業し料金は48銭でした。
 一日の利用客も100人を超えて乗合馬車の利用客と
ほぼ同じくらいとなり、馬車の時代は終わりを告げよ
うとしていました。

<第1次世界大戦と横須賀>
 -海軍工廠の発展-
 1914(大正4)年第1次世界大戦が勃発すると日本も戦
争に加わり、横須賀の海軍工廠では工員の増員や施
設の拡充が行なわれ、その年の9月には工廠の工員
471人が工作船「関東」に乗船して出征していきまし
た。
 海軍工廠では戦艦「山城」や巡洋艦「天龍」さらには
当時世界最大最強の戦艦といわれた「陸奥」など大型
の軍艦が建造され、全国各地から集められた工員は
2万人にも達し、海軍大拡張の波に乗り飛躍的に発展
しました。
 -大戦の光と影-
 大戦により連合国からの注文が多くなり、日本の貿
易は活発となりました。三浦半島でも浦賀ドックや
海軍工廠が活況を呈し、工員・従業員の収入が増加し
、横須賀の繁華街は賑わいました。
 一方大戦中の好景気は物価の騰貴をもたらし労働
者の賃金はそれに追いつかなかったので労働運動も
活発化し1915(大正4)年横須賀軍港防波堤工事の従
業員が賃下げに反対してストライキを行いました。
 1917年の秋から翌年にかけて内地の在庫米が著し
く減少して米価が高騰し、各地で米騒動が起りまし
た。横須賀市内でも大事には至りませんでしたが、騒
動の動きが見られ警察や横須賀憲兵隊が治安にあた
りました。

 <大衆娯楽の時代へ>
 大正時代には民衆の文化も進み、大衆娯楽も充実し
ました。明治末期から東京では活弁による映画やオ
ペラ、演劇などが隆盛となりますが、横須賀の繁華街
には寄席や映画館ができて繁盛しました。下町にも
旭常設館、電気館、大勝館などの映画館ができました
 1914(大正3)年、日本蓄音機商会が初めて国産の蓄
音機をつくりましたが、それが急速に普及しレコー
ドが売れるようになりました。北原白秋が三浦に滞
在中につくった「城ヶ島の雨」のレコードがヒットし
全国各地で盛んに歌われるようになり城ヶ島へ憧れ
てこの地を訪れる若い男女が多くなったのもこの頃
のことです。(参考・北原白秋と城ヶ島
 三崎や城ヶ島に観光客がくるようになると観光土
産店なども多くなり、三崎館や岬陽館も料理旅館へ
と変わっていきました。
 
 <横須賀海軍航空隊の誕生>
 追浜に横須賀海軍航空隊が開設されたのは1912(明
治45)年6月に創立された海軍航空技術研究所によっ
て飛行機の操縦、飛行機の研究が開始され、そのため
の練習所が追浜につくられたことに由来します。
 練習所は追浜海岸の埋立地と付近の畑を整地して
南北600メートル、東西200メートルの土地を造成し、
機体格納庫一棟と海岸に滑走台等が設けられました
 1916(大正5)年4月に海軍航空隊令が発布され、追
浜に日本最初の海軍航空隊である横須賀海軍航空隊
が開設されました。開設当初は水上機が数機あった
だけと言われますが、時代とともに機数も増えてい
きました。
 以後1922(大正11)年11月に霞ヶ浦航空隊が開設さ
れるまで飛行機搭乗員の養成は横須賀海軍航空隊で
行われていました。この間1918(大正7)年6月から陸
上飛行場を造るための埋め立て工事が始められまし
た。この工事によって夏島の半分が削られ烏帽子岩
が姿を消す中で1926(大正15)年3月に陸上飛行場は
ほぼ完成しましたが、それまでは横須賀海軍航空隊
では水上機のみによる操縦訓練が行われていました。
 埋め立てた飛行場は40万平方メートルの敷地を持
ち、敷地内には飛行機を入れる巨大な格納庫、気球
格納庫や事務所、兵舎、整備工場その他倉庫など大
小60棟の建物が配置されており、南方の小丘には気
象観測所および鳩舎が設けられ、鳩舎には軍用鳩が
数百羽飼育されていました。
 太平洋戦争後は横須賀海軍航空隊の敷地は日産自
動車追浜工場とその関連施設に生まれ変わりました。

 <第一回国勢調査>
 1920(大正9)年10月1日を期して実施された第一回
国勢調査によると横須賀市の人口は89,879人で1907
(明治40)年の市制がしかれた時の人口62,876人が
1,4倍に膨れ上がり、町としての発展が続いていた
ことがわかります。
 横須賀に次いで人口の多いのが浦賀町20,372人で
その次は発展が著しい田浦町で20,180人と明治40年
の人口に比べると浦賀の人口が1,2倍であるのに対
し、田浦は約3倍に増えていますが、これは田浦地域
への海軍施設の拡充が大きな要因となっています。
 このほかの三浦半島の諸地域での人口は葉山村が
7558人、逗子町が9152人、三崎町が9864人となってい
ます。

<横須賀高等女学校>
 1899(明治32)年2月に「高等女学校令」が出されて、
中学校制度から独立した女子教育機関の充実が図ら
れるようになり横須賀でも組合組織の横須賀女子実
業補修学校が開校しましたが、海軍内部からの海軍
士官の妻としてふさわしい教育が受けられる教育機
関をという要望により、翌年3月横須賀高等女学校と
して神奈川県の公立女学校としては県立高女(のち
の平沼高校)、厚木高女に続く3番目の高等女学校が
誕生しました。
 1930(昭和5)年に深田台から浦賀町の大津へ移転し
、同時に市から県へ移管され、神奈川県立横須賀高
等女学校(現大津高校)へと改称しました。

<関東大震災とその復興>
 ー震災の被害ー
 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災により
横須賀の下町では地震と同時に大火災となり、一面焼
け野原になりました。上町から佐野に至る道筋の二階
家は一軒残らず潰れてしまいました。その壊れた家が
道をふさぎ、人々は屋根の上を通って歩くしまつでし
た。
 浦賀町では震災後まもなく同町荒巻から発生した火
はおりからの西南の風にあおられてたちまちひろが
り、荒巻、谷戸を炎に包みました。同時に浦賀船渠株
式会社から発生した火災は大ヶ谷に飛び火して築地
新町へ延焼しました。
 三崎町では大火はなかったものの数多くの民家が倒
壊、地盤の隆起によって海岸では磯石が露出してしま
い、以後海水浴客は激減してしまいました。
 逗子の被害も大きく家屋の全半壊が1900戸近くに及
び死者76名を数えました。
 ー震災の復興ー
 この関東大震災の復興はいち早く始められ昭和に
入る迄続けられました。
 この復興期に都市整備が行われたり、埋め立てがな
されたり三浦半島でもさまざまな変化が見られまし
た。
 震災前では草葺きや瓦葺き屋根の民家が多く、大地
震では瓦が落ちて怪我をする人も多かったことから
再建された民家はトタン屋根が多くなりました。
 復旧なった小学校なども地震の際にいち早く児童
が外へ出られるよう昇降口を多くしたりしました。
 横須賀の市街地では復興とともに海岸部の埋め立
てが行われました。これは海岸が隆起して浅くなっ
たこと、さらにそこをがけ崩れの土砂や倒壊した家
の残骸を捨てる場所としたからです。
 市街地の区画整理も行われましたが、海軍の意向を
強く反映して道路の拡幅がなされ格子状の道路が設
けられました。大滝町の通りの道幅は約3間(5,4m)
でしたが、15間(約27m)幅となり舗装されました。
 三崎町でも隆起した海岸部の埋め立てが行われ、昭
和5年にはその埋立地に近代的な魚市場が建設され、
三崎港への魚類の水揚げ高は徐々に増大していきま
した。

<大正デモクラシーと山田わか>
 女性の権利や地位向上を目指した大正デモクラシ
ーの中で「青踏社」を中心とした平塚らいてう、市川
房枝らとともにはなばなしい活躍をした一人に横須
賀出身の山田わかがいました。
 山田わかは1879(明治12)年久里浜村の久村に浅羽
家の三女として生まれ、実家の窮状を救うため18歳
のときアメリカに渡りましたが失敗、帰国後東京の
山田英語塾で学び、結婚後夫と外国語塾を開くかた
わら大杉栄の紹介で入社した青踏社で外国文献の翻
訳や評論を次々と発表、機関紙「青踏」廃刊後は個人
雑誌「婦人と新社会」を創刊するなど各方面で活躍、
女流評論家としての地位を固めました。
 1934(昭和9)年には母性保護法制定促進婦人連盟の
会長となり母性保護法の制定に尽力し、自らも都内
に母子寮や保育所を設け、太平洋戦争後は売春婦の
厚生施設「幡ヶ谷女子学園」を設立しました。

<大正天皇と葉山御用邸>
 葉山御用邸は1894(明治27)年に開設され、以来大正
、昭和、平成を通じて天皇、皇后をはじめ皇太子、皇太
后などが利用されていますが、なかでも大正天皇は
公務の合間を縫ってしばしば御用邸を利用され、葉
山周辺をこよなく愛されました。
 ご病気にかかられた大正天皇は1926(大正15)年8月
より葉山御用邸で療養されていましたが、病状は悪
化、それにつれて陛下平癒祈願に葉山を訪れる人も
多くなりました。11月になると横須賀港に寄港中の
軍艦「春日」の乗組下士卒300人は葉山一色海岸まで
行幸し、葉山御用邸に向かって平癒祈願をしました。
 また60歳になる老人が御用邸裏の浜で天皇の病気
平癒のために水行をしたこともありました。
 12月には天皇のご病状はさらに悪化、25日朝に葉山
御用邸で崩御され、即日御用邸において摂政宮裕仁
親王(昭和天皇)が即位され、元号は昭和となりここ
に昭和の時代が開幕しました。

中里町大通りを走る乗合自動車 -現上町2丁目付近-(横須賀市史 より)
工作船「関東」と出征兵士たち (図説・三浦半島-その歴史と文化- より)
深田観念寺(現米ヶ浜通)の映画館 「大勝館」(横須賀市史 より)
横須賀海軍航空隊の水上機班全景 (図説・三浦半島-その歴史と文化- より)
1926(大正15)年の横須賀海軍航空隊
(久保木 実編・三浦半島の百年 より)

<若山牧水と北下浦海岸>
1915(大正4)年若山牧水は病弱な喜志子夫人の 転地療養のため風光明媚な横須賀・北下浦海岸 に近い長沢に移り住み、以後1年10ヶ月あまり をこの地で過ごしました。 この間牧水は漂泊の詩人として旅を愛し、酒を 愛し、幾つかの優れた歌を残しました。 北下浦海岸には牧水夫妻の歌碑が残されていま す。 白鳥は悲しからずや空の青 海の青にもそまずただよふ 歌碑の裏側には うちけぶり鋸山も浮かび来と 今日のみちしほふくらみ寄する という喜志子夫人の歌が刻まれています。
若山牧水の歌碑 (横須賀・北下浦海岸)
第一回国勢調査員 (浦賀文化センター蔵)

大正期の横須賀高等女学校の校舎(部分) (図説・三浦半島-その歴史と文化 より)
関東大震災の被害

どぶ板通り(現本町2丁目)の倒壊家屋
(横浜市史 より)

大正初年の御用邸 (久保木 実編・三浦半島の百年 より)
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略 年 表
大正時代 1912 海軍航空技術研究 委員会(のちの航空 隊)設立 1913 浦賀・横須賀間自 動車会社創業。 三崎町に初めて電 灯がつく。 田越村が逗子町と なる。 横須賀郵便局局舎 落成 1914 第1次世界大戦 勃発 浦郷村を田浦町と 改める 1915 横須賀市開港五十 周年祝賀式開催 1916 大杉 栄、葉山の日 影茶屋で神近市子 に刺される。 追浜に海軍航空隊 開庁 1917 横須賀海浜団楠ヶ 浦に移転。 関東瓦斯(株)横須 賀瓦斯製造所を開 設。 乗合自動車が三崎 ・横須賀間に運転さ れる 1918 追浜で飛行場を造 成するために埋立 工事開始。 横須賀でも米騒動 、諏訪公園で600人 あまりの集会。 1919 さいか屋呉服店合 名組織となる。 葉山御用邸付属邸 新築。 不入斗に東京湾重 砲兵連隊設置。 三崎の魚輸送にト ラックが使用され はじめる 1920 第一回国政調査行 なわれる。 葉山分署が葉山警 察署に昇格 1921 横須賀市街乗合自 動車(株)創立。 三浦自動車(株)設 立 1922 大平自動車(株)が 湘南自動車(株)を 吸収。 諏訪公園で小栗上 野介、ウェルニーの 胸像除幕式。 臨海自動車(株)創 立 1923 三浦按針墓、国の 文化財(史跡)に指 定。 関東大震災 船越トンネル完成 1923 横須賀線複線化完 成。 三春町海岸に海水 浴場開設。 横須賀信用組合 (湘南信金の前身) 設立。 逗子信用組合設立 1925 大津の海軍練兵場 で第一回競馬会。 横須賀線で電気機 関車の使用開始。 安浦港完成 1926 追浜の陸上飛行場 完成 浄楽寺の阿弥陀三 尊像、国宝に指定。 三浦郡役所廃止。 大正天皇葉山御用 邸で崩御