三浦半島の歴史 P12  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P12

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 横須賀市 「横須賀市史」 三浦市 「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 文芸社 「三浦半島通史」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(明治時代U) ;横浜の歴史(明治・大正時代A)

(])明治時代B [暮らしと風俗] 明治新政府の体制下に入った三浦半島も海外文化の影響を受けて人々の暮らしも大きく変わりました。 海に囲まれ風光明媚で温暖な気候に恵まれた半島は逗子、葉山などに別荘が建てられ海水浴も盛んにな りましたが、一方では次第に戦争の暗い影もしのびよってきます。

 <文明開化と人々>
 横須賀では1907(明治40)年前後からそれまでの暮
らしが大きく変わりました。西洋の科学技術を輸入
した電話(1905年)、電灯(1907年)、水道(1908年)、乗
合自動車(1913年)などの営業が始まりました。
 電話や電灯の利用は横須賀造船所では、すでに明治
10年代に行なわれていましたが、この時期ようやく
民間でも出来るようになり人々は文明開化の恩恵を
直接受けることになりました。
 また1909(明治42)年から1914(大正3)年までの横須
賀公正新聞の広告欄からは食生活や娯楽の面での洋
風の普及がうかがわれます。1909年の広告には夏季
の食べ物としてアイスクリームやミルクセーキ、清
涼飲料水としてサイダーやジンジャエール、オレン
ジの名が見えます。
 1914年の広告にはクラオン魔法器というものが掲
載され現代の魔法瓶に近いものが売られ、その他牛
乳や肉類の広告も数多く見られ食生活にも西洋風の
物がかなり広がり和洋折衷の生活をおくっていたこ
とがわかります。

 <逗子と別荘>
 避暑地、避寒地として逗子が世に知られるようにな
ったのは次の三つの点と言われます。
 一つはいち早く逗子に外人の別荘が置かれたこと
です。 欧米人は風光が美しく、気候温暖な逗子の地
に目をつけ主に新宿海岸の広大な土地を一時に買い
入れ、そこに住宅や庭園を築きました。
 二つ目の理由は1889(明治22)年の横須賀線の開通
と逗子停車場の設置です。鉄道の開通が実現すると
逗子は外国人や政治家、実業家の別荘地として急速
に開かれていきました。このころ丸 富次郎は横須賀
線の開通により逗子が避暑地や避寒地として発展す
ることを確信し、田越川のほとりに旅館「養神亭」を
開業しました。養神亭には徳富蘇峰、蘆花兄弟をはじ
め国木田独歩、寺田寅彦、石黒直悳などの有名人が訪
れ徐々に避暑客を増加させていきました。
 逗子発展の第三の理由は「不如帰(ほととぎす)」の
影響です。徳富蘆花は養神亭の筋向いにあった雑貨
店「柳屋」の一間にこもって小説「不如帰」を執筆しま
した。逗子を舞台にしたこの小説が1900(明治33)年
に初版を出すとベストセラーを続け、この小説を読
んではるばる逗子を訪ねる人が跡を絶たなかったと
いわれます。
 逗子や葉山が夏の避暑客で賑わうようになると19
06(明治39)年逗子駅は改築され、本通りには商店街
も形成され、1912(明治45)年逗子海岸で初の海開き
が行なわれ、本格的な海水浴場として知られるよう
になりました。

 <海水浴場の賑わい>
 日本最初の海水浴場は1887(明治20)年に大磯で開
かれたと言われますが、それと同じ頃逗子や葉山で
も海水浴が始められていたようです。イタリアのマ
ルチーノ公使やドイツのベルツ博士もしばしば葉山
に来遊し、葉山や逗子は保養地として最適の地であ
ることをて知人らに紹介していました。そのため逗
子や葉山には外国人の別荘が建ち始め、これらの欧
米人は夏になると海水浴を楽しんでいました。
 1896(明治29)年の新聞記事によると海水着をつけ
た婦人や児童が逗子の海岸で海水浴をしている様子
が伝えられ、海辺の民家では居間の半分を避暑客に
貸し、夏の間の農家の稼ぎになっていたようです。
 1907(明治40)年頃になると海水浴の流行にのって
三崎も避暑地として知られるようになり、蒸気船に
乗って多くの人が訪れるようになりました。そのた
め岬陽館や三崎館などの旅館は夏になると避暑客で
溢れました。なかでも明治末から大正時代にかけて
二町谷は避暑地ブームで、どこの家も客でいっぱい
となり浜は海水着をつけた人たちで賑わいました。
 
 <逗子開成中学と横須賀中学>
 明治20年代(1887〜)の後半から小学校への就学率
が著しく上昇し、これに伴って中学校への進学者の
数も増加してきましたが、三浦半島に本格的な中等
教育機関として1903(明治36)年に私立の逗子開成中
学が誕生しました。
 逗子開成中学は東京開成中学の分校第二開成中学
として開校しましたが、1909(明治42)年には東京開
成から独立して「逗子開成中学」となりました。
 1908(明治41)年には横浜、小田原、厚木に次ぐ県下
四番目の公立中学校として第四中学(のちの横須賀
高校)が開校しました。初代の校長に就任したのが、
松下村塾の吉田松陰の甥にあたる吉田庫三で第一期
生の入学試験に合格した90名の生徒たちにより新し
い中学校はスタートしました。

 <明治時代の運動会>
 日本独特の学校行事ともいわれる運動会は日清戦
争当時、政府の戦意高揚を高める政策によって急速
に小学校へ普及していきました。日露戦争の頃には
学校の代表的な行事に定着し、祝日の行事と抱き合
わせで行なわれることが多くなり祝祭日に教職員、
児童を登校させて御真影への拝礼、教育勅語の奉読、
祝祭日の意義などについての校長訓話、式歌斉唱な
どの儀式を行なうになりました。当時の児童や生徒
の服装からも厳粛な行事の続きといった感じがあり
ました。

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チョンマゲ姿の人力車の車夫も洋服姿 の人物もいる明治30年代の写真 (郷土出版社・セピア色の三浦半島 より)
ラウダー邸(図説・三浦半島の歴史 より)
逗子に最初に出来た外人別荘で敷地は3000 坪以上あったといわれます
岬陽館 (郷土出版社・セピア色の三浦半島 より)
窓からは釣り糸を垂れ釣りが出来る海水浴 旅館でした。

<ベルツ博士とマルチーノ公使>
葉山は御用邸をはじめ別荘や高級住宅 が多く、煙突のないところと言われます。 この特色ある町づくりに大きく影響を 与えた二人の人物がいました。それは駐 日公使マルチーノ(イタリア)とベルツ博 士(ドイツ)です。 1887(明治20)年頃、両氏は葉山の地をし ばしば訪れ気候が温暖なことや風光明媚 なことから自ら別荘を建築するとともに 世に広く、葉山が絶好の休養地であるこ とを知らせました。1889(明治22)年には 横須賀線が開通し、葉山には名士の別荘 が続々と建てられ、1904(明治37)年には 葉山御用邸が竣工し名実ともに葉山は別 荘地となりました。 1936(昭和11)年にはベルツ、マルチーノ 両氏の遺徳を偲び森戸神社境内に顕彰碑 が建立されました。
ベルツ、マルチーノ両氏の顕彰碑 (葉山町・森戸神社境内)
1908(明治41)年、第四中学校の開校式 の時の記念写真(図説・三浦半島 の歴史 より)

1902(明治35)年鴨居尋常高等学校の 運動会、天長節(11月3日)の儀式後に催 された運動会で女生徒たちは袴姿とな っています (郷土出版社・セピア色の三浦半島 より)
略 年 表
明治時代(続き) 1900 徳富蘆花の「不如 帰」「自然と人生」が 民友社から出版さ れる。 三崎・浦賀間の馬 車開通 1901 柏木田の遊郭で水 兵数百人が騒動を 起こす。 久里浜海岸でペリ ー提督上陸記念碑 除幕式挙行。 三崎町入船大火、 538戸焼失 1902 泉鏡花、9月まで病 気療養のため桜山 の農家の離れに滞 在する 1903 私立逗子第二開成 中学校(逗子開成中 学校の前身)池子東 昌寺を仮校舎に開 校。 豊島村、町制を施 行して豊島町とな る。 横須賀海軍造船廠 は横須賀海軍工廠 となる 1904 三浦郡奨兵義会創 立。 桜山の鈴木医院、 出征兵士家族の無 料診療を始める。 要塞砲兵連隊に動 員令がくだる。 横須賀線田浦駅開 設。 1905 浦賀船渠(株)、海 軍省より初めての 駆逐艦の建造を受 注。 横須賀で日露講和 条約反対説明会開 かれる。 愛国婦人横須賀支 部設立。 葉山の鈴木三郎助 、鈴木製薬所を設立 ヨードの製造をは じめる 1906 東郷平八郎大将を 新宿浜に迎え、凱旋 を祝し地引網、競馬 などを行なった。 日露戦争凱旋記念 式典が三崎小学校 で挙行。 横須賀町と豊島町 が合併 1907 横須賀町、市制を 施行。 衣笠公園開園。 浦賀船渠(株)でス トライキ。 横須賀電灯(株)が 市内に電機供給開 始。 神奈川県立第四中 学校(県立横須賀中 学の前身)設立認可 大滝町商店街生ま れる。 1908 「横須賀案内記」、 「三浦繁盛記」、「三 浦大観」が発刊され る。 県立第四中学校開 校。 三崎町大火、200 焼失。 走水を水源とする 市水道、初めて332 戸に給水開始 1909 大滝町、若松町で 大火、600戸焼失。 「不如帰」百版を 重ねる。 三崎・長井間の馬 車開通。 1910 走水神社境内に弟 橘比売命の記念碑 除幕式。 旭常設館(活動写 真館)設立。 白秋初めて三崎に くる。 逗子開成中学校の ボートが江ノ島沖 で遭難し、12名の犠 牲者を出す 1911 大爆風雨、三浦半 島各地で被害 1912 湘南自動車(株)が 逗子で開業。 逗子最初の海開き が行なわれる