三浦半島の歴史 P14  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P14

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島ーその 歴史と文化」 横須賀市 「横須賀市史」  三浦市 「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 文芸社 「三浦半島通史」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(昭和時代) ;横浜の歴史(昭和時代)

(]U)昭和時代(太平洋戦争まで) 昭和恐慌は三浦半島の経済生活にも大きな打撃を与えましたが,更に1931(昭和6)年海軍軍備制限条約の公布による横須賀 海軍工廠の人員整理があり横須賀市は大変な不景気におちいりました。 満州事変の勃発,日中戦争への突入により戦時体制は強化され1941(昭和16)年12月日本は米英などに宣戦を布告,太平洋戦 争に入りましたが,日を追って戦況は悪くなり1945(昭和20)年終戦の詔勅がラジオから流れ8月19日には連合艦隊が相模湾 を埋め尽くしました。

 <小泉又次郎と普通選挙>
 1889(明治22)年大日本帝国憲法とともに公布された
衆議院議員選挙法は国税15円以上の納税者のみに選
挙権を与えたため、翌年行われた第一回衆議院議員の
選挙有権者は全国で約45万人(全人口の1.1%)に過ぎ
ず、三浦郡の有権者は僅か311人でした。
 日清戦争後の労働争議が激化する中で、選挙権を制
限している納税額の撤廃を目指す普選運動が始まり、
1918(大正7)年の米騒動以降次第に大衆運動として組
織化されていきました。
 この時期、運動の中心に横須賀選出の衆議院議員小
泉又次郎が登場しました。小泉は議会活動を通じて普
選法案の成立に尽力、1925(大正14)年の普選法案の成
立にこぎつけました。
 この法案の成立により無産政党(労働者や農民の利
益を代表する政党)が進出,のちの社会党の発展へと
つながりました。

<恐慌の影響と満州事変の発生>
 1929(昭和4)年にニューヨークで起こった恐慌は日
本にも及び1930〜31年頃になると不況は深刻になり、
国民生活は窮乏しました。
 この不況下、1931(昭和6)年1月ロンドン海軍軍備制
限条約が公布されました。
 横須賀海軍工廠はその影響を受けて、その年の4月
には人員整理を行い1837人の退職者を出すに至りま
したが、不況下にあって再就職も難しく、また残った
従業員も賃金カットがなされ横須賀の繁華街も火の
消えたようになりました。
 このような時、1931(昭和6)年9月に満州事変が勃発
、横須賀の町も戦時体制に入り市民にも防火訓練が実
施されました。横須賀市は大軍都を目指し1933年から
1937年にかけて近隣の田浦町、衣笠村、久里浜村を合
併、さらに1943年には浦賀町,逗子町などを合併,三浦
半島の7割を占める大都市となり、やがて日中戦争,太
平洋戦争を迎えます。

<日中戦争と三浦半島>
 1937(昭和12)年7月北京郊外で日中両軍の衝突が起
こり(盧溝橋事件)、日本の軍部はどんどん戦線を拡大
し、遂に全面的な日中戦争になりました。
 軍都となった横須賀では軍需要員の急激な増員が必
要になりましたが、県内のみでは足りず東京府ほか13
県から海軍工廠に約6500人、航空廠に約1700人を募集
し、また海軍各作業所の軍事工事に必要な土木作業員
として東北6県と新潟、静岡の各県から募集した3300
人は工廠内の第六ドックの築造工事や航空廠などの
拡張工事にあたりました。
 一方戦場へは三浦半島の町や村からも農業や家業を
しながら妻や子を持つ一家の大黒柱が赤紙一枚で次
々と召集されていきました。
 南京占領を祝う提灯行列が街の夜を賑わす頃になる
と戦闘で戦死を遂げ、無言の帰還をする兵士も多くな
り、これらの戦死者は「英霊」と呼ばれました。
 三崎町は1939(昭和14)年の2月には二柱の英霊が、
5月にも二柱の英霊が帰還しました。英霊は人々の悲
しみの中に迎えられ、三崎尋常小学校の校庭では町葬
が行われました。この町葬には町長をはじめ、在郷軍
人会、青年団、警防団、大日本国防婦人会三崎支部、小
学生などの代表や町民が多数参列しました。

<戦時下の暮らし>
 日中戦争が泥沼化する中で、日本は対米英ソ戦を進
め遂に1941(昭和16)年12月太平洋戦争に突入しまし
た。
 -物価統制と耐乏生活-
 生活物資はまず軍用に充てられ、国民は不便で窮屈
な生活を強いられました。
 ガソリンの統制はいち早く実施され1938(昭和13)年
5月から配給切符制が開始されたため、木炭自動車の
開発が行はれ1939年頃よりバス、トラックの木炭化が
すすみました。神奈川県下では1939年の5月末にはバ
ス240台、トラック180台、乗用車13台の木炭ガス、薪ガ
スを利用した代用燃料車が出現しました。
 石油、ガソリンのほか燃料も不足となり横須賀市で
は薪53万束、木炭6000俵の生産が計画され、その輸送
は地元の国民学校の児童や中学校の生徒の勤労奉仕
に頼りました。
 1940(昭和15)年には国民服令が公布され、男子はカ
ーキ色の国民服と国民帽(戦闘帽)をつけるようにな
りましたが、スフ(人造繊維)が多く粗悪なものでし
た。
 1942年2月からは衣料品も総合切符制が実施され、横
須賀三浦繊維統制小売商業組合が一手に取り扱うこ
とになりました。
 -言論統制と防諜運動-
 1941(昭和16)年12月8日対米・英開戦の知らせはラジ
オの全国ニュースによって全国民に伝えられ、以後放
送も全面的な戦時体制に入り言論統制は厳しくなっ
ていきました。
 戦況の報道についてはすべて大本営陸軍報道部、海
軍報道部の許可なく発表することは出来なくなり、新
聞もラジオもトップニュースに大本営発表の成果を
大きく、損害を少なくした報道で埋め尽くされていき
ました。
 言論の統制とともにスパイの侵入や活動を防ぐ防諜
の宣伝、活動も活発となりました。
 1941年5月には全国的に防諜週間が実施され、各地区
ごとに防諜組織がつくられました。防諜連盟の浦賀支
部では小学生から防諜用語を募集して「家に戸締り、
国には防諜」「長期戦、ますます光るスパイの目」「すて
る紙くず、軍機がもれる」などが入選作になりました。
 特に軍港を抱えた横須賀では防諜宣伝が活発になる
と検閲も厳重になり、記念写真一枚撮っただけでスパ
イ扱いされることもありました。 
 -学徒動員と学童疎開-
 太平洋戦争突入後戦局が進む中で1944(昭和19)年8
月、学徒動員令が女子挺身隊令とともに公布されまし
た。横須賀市の中等学校の場合は海軍工廠や浦賀ドッ
クをはじめ日本飛行機、日本製鋼所などの軍需工場に
動員され,海軍工廠造兵部の水雷工場(船越町)や火工
工場の久木分工場(逗子市)には東北地方からも女学
生たちが動員されてきました。生徒たちはペンを兵器
製造の器具にかえて油にまみれて勤労を続けました。
 1944年6月サイパン島に米軍が上陸しB29による本
土空襲が予想される事態となり、政府は学童疎開の促
進を決定しました。横須賀では8月から学童疎開が開
始され、市内20校が愛甲郡・高座郡の疎開地に出発し
ていきました。疎開地の子供たちはいも・豆粕入り雑
炊・コーリャン等の雑穀を主食にいなごやみかんの皮
まで食べるというつらい生活を送ったことが疎開実
施校の創立記念誌などに記されています。

<中等教育の拡充>
 昭和に入ると中等教育施設はめざましい発展をとげ
ました。明治年間に設立された豊島実業補習学校が横
須賀市立実業補習学校と改称されて初めて専用校舎
(現緑ヶ丘高校の地)を使用し、その後横須賀市立工業
高校となりました。1919(大正8)年に設立された横須
賀市立技芸学校は1937(昭和12)年には横須賀市立高
等女学校となりました。
 男子の中等教育では実業教育の場は増えてきました
が、普通教育に関しては明治年間に創設された県立横
須賀中学校と逗子開成中学の二校のみであったため、
増設の要望がおこり1928(昭和3)年三浦中学校が開校
、翌年には横須賀商業高校が設立されました。
 1925(大正14)年、豊島小学校内に開校した横須賀夜
間中学校は1938(昭和13)年県に移管され、校舎を横須
賀中学に移し校名を神奈川県立明徳中学校と改称し
ました。
 
 <バスの普及と観光地>
 関東大震災以前の三浦半島では1913(大正2)年に開
業した乗合自動車が乗合馬車をおさえて半島交通の
中心となりつつありましたが、経営者も零細業者が多
かったことや、当時は道路が狭かったため4人乗りか
6人乗り自動車での運行でした。
 震災によって大きな被害を受けた横須賀市内では、
震災後の都市計画によって道路拡張と舗装化の推進
が行われ、市内の道路事情は大きく改善され、また横
浜方面と結ぶ国道31号線も1928(昭和3)年に開通する
など半島内の道路改善によって20人乗り程度の当時
としては大型のバスが運行可能となりました。
 道路網が整備されていく中で1925(大正14)年には横
須賀自動車商会と横須賀市街自動車を合同した横須
賀自動車が生まれました。その後横須賀自動車は中小
の乗合自動車会社を合同していき1932(昭和7)年には
横須賀市内の全ての乗合自動車を統合しました。
 このような合同によって資本力を強化した乗合自動
車会社によって大型バスの運行が始められました。
 一方1930(昭和5)4月に開業した湘南電鉄は鉄道事業
の不振もあって、この乗合バス事業に積極的に参入し
、同年5月には系列会社として半島一周自動車運輸商
会を設立、湘南逗子駅を起点に西海岸を三崎に至る路
線と三崎から長井、衣笠を通り横須賀中央駅、省線横
須賀駅に至る路線で乗合バスを運行しました。湘南電
鉄では1923(昭和8)年に横須賀自動車の株の大半を取
得して半島乗合バス路線の統合をほぼ完成、同時に湘
南電鉄の駅を起点に半島内の名所旧跡向けのバス路
線の開拓に努め、不振であった電鉄事業とタイアップ
することで両者の乗客増加を図ったものです。こうし
た湘南電鉄の宣伝によって桜の名所として知られて
いた衣笠公園や夏期の海水浴場として馬堀海岸、久里
浜海岸が京浜地区でその名を知られるようになり多
くの行楽客を集めるようになりました。

<本土空襲>
 B29によって東京が初めて空襲を受けた1944(昭
和19)年から本土空襲が頻繁になると、空襲警報の発
生回数も多くなり、三浦半島各地に防空壕が掘られる
ようになりました。丘陵の多い横須賀市や逗子市では
町内や隣組で横穴式の防空壕を掘り、平地の多い住宅
地では土を掘ってその上に土盛りした土壕も作られ
ました。
 追浜の夏島や鷹取などでは丘陵に迷路のように掘り
めぐらされた軍用の防空壕が作られ、飛行機の格納庫
として使われたものもありました。
 三浦半島への空襲は十数回を数えましたが、集中的
爆撃や焼夷弾投下はなく、散発的であったため大きな
被害は少なかったようですが、1945(昭和20)年2月の
艦載機による空襲では連続的に数百機が横須賀市内
を襲い死傷者もでました。
 軍は本土決戦に備え敵の上陸を水際で撃破する目的
で、各地に洞穴砲台を構築し厚いコンクリートで固め
られたトーチカを築造しました。
 このような動きの中で三浦半島の人々も本土決戦が
近いことを知りました。来襲したB29が宣伝ビラを
まき散らすようになり、学校や職場で竹槍訓練が行わ
れるようになりました。


小泉又三郎生誕の地記念碑・横浜市金沢区大道
小泉又三郎は1865(慶応元)年武蔵国久良岐郡 金沢に生まれ衆議院議員として活躍,逓信大臣 などをつとめました。前総 理の小泉純一郎の 祖父でもあります。
合併当時の衣笠村役場 (横須賀市史 より)
三崎町入船の出征兵士とその家族[1939年] (三上写真館蔵)
ガソリン不足から登場した木炭車 (図説・三浦半島-その歴史と文化- より)
防諜週間(三崎町・1941年) 三崎町防諜連盟の人々が町民に防諜を呼び かけました (図説・三浦半島-その歴史と文化 より)

<奉安殿の建設>
天皇制を中心とした国家主義的な教育を徹底さ せるため明治政府は1890(明治23)年10月に「教育 勅語」を発布し,さらに天皇の写真である「御真 影」が学校に配布されました。 学校の管理責任者はこの教育勅語や御真影の保 管が重要な任務となりましたが,関東大震災後の 1927(昭和2)年に県が示した校舎復興基準では 「御真影奉安殿ハ別棟トスベキコト」との一項目 が入り,各学校でも本格的な奉安殿の建設が始ま りました。 奉安殿の建設は多額の費用を必要としたので学 校側だけでは不充分であり,地域社会との深い連 携によって進められましたが,大津小学校では奉 安殿建設の準備として1933(昭和5)年11月から毎 月職員が5銭づづ,児童も1銭づづ貯金を始め1934 年9月には地域への協力を呼びかけ建設資金を募 り,このとき集まった資金5136円で建設に着手し ,翌年の12月に完成しました。 各学校で奉安殿が完備してくると,ますます天 皇は神格化され,また勅語の取り扱いも一段と厳 格になり,奉安殿の前では必ず一礼することが強 制されました。
奉安殿と二宮金次郎の像 1939(昭和14)年,鴨居小学校の校庭にて (鴨居小学校蔵)
疎開地で先生の話を聞く子供たち 船越国民学校-愛甲郡南毛利村で (横須賀市史より)
女子挺身隊 (目で見る三浦市史より)
<三浦の農業>
三浦農業の特色といえば,現在ではダイコン,ス イカ,キャベツが特に有名です。 ダイコンは江戸時代から三浦の特産物として一 般には鼠ダイコン(根の形がネズミの尾に似てい る)と呼ばれていました。 1902(明治35)年に三浦郡農会が発足すると農会 職員の鈴木寿一は東京の練馬系ダイコンを導入 して鼠ダイコンとの交雑改良を行い,1925(大正 14)年には三浦産のダイコンが「三浦ダイコン」と 命名されました。 スイカは1883(明治16)年に三崎町花暮にあった 青果市場の業務報告に西瓜の名が記載されてい ます。昭和に入るとスイカの栽培面積が増え始め ,1935(昭和10)年頃のなると市場でも「三浦スイ カ」の名が知られるようになりました。1941(昭和 16)年に太平洋戦争が始まると作付統制令によっ てスイカの作付が禁止されたため,昭和24年頃迄 はスイカは殆ど作られず,スイカの栽培が三浦半 島で広がるのは昭和26年以後のことです。 三浦半島で初めてキャベツの栽培が行われたの は1893(明治26)年4月のことです。現在の県立横 須賀高校の前あたりに20アールの私設試験場 が開設され,キャベツの試作が行われました。キ ャベツの栽培が本格的に行われるようになった のは,1920(大正9)年に三浦郡農会の岸 亀蔵が野 菜類の栽培指導と出荷指導を精力的に行うよう になってからです。 (参考・三浦農業の歩み)
三浦のキャベツ畑 (三浦市・初声)
終戦直前の横須賀市 市役所前の建物は強制撤去されている (図説・三浦半島-その歴史と文化- より)
略 年 表
昭和時代 1927 逗子常設館、横須 賀常設館が開業。 横須賀高等工学校 設立。 1928 天皇、走水の小原 砲台,陸軍重砲兵学 校巡視。 国道31号線(現在 の16号線)開通、追 浜から逸見まで七 つのトンネルで結 ばれる 1929 横須賀商業学校開 校。 三浦中学校設立。 逓信大臣に小泉又 次郎就任。 天皇神武寺へ乗馬 白雪で行幸 1930 三崎町営魚市場完 成。 日本海海戦二十五 周年記念海と空の 博覧会が開かれる。 湘南電鉄が浦賀、 黄金町間で運転開 始。 横須賀市立高等女 学校が県に移管さ れる。 横須賀線が電気機 関車から電車にか わる。 葉山海岸線に路線 バス開通(乗合馬車 は廃止される) 1931 横須賀、田浦連合 防護団の防空訓練 実施される。 湘南電鉄、葉山口 乗降場(のちの逗 子海岸駅)を開く 1932 軍港裁縫女学院 (湘南女子学園の 前身)開設。 田戸小学校で国難 打開の国民大会。 帝大臨海実験所付 属の水族館油壺に 開設。 中里恒子、肺結核 療養のため桜山の 農家の離れに住む 1933 衣笠村,田浦町が 横須賀市に合併。 湘南電鉄が浦賀・ 品川間の直通運転 開始。 町立三崎実科高等 女学校,三崎小学校 に併設 1934 横須賀税務署庁舎 落成 1935 日本海海戦30周年 式典。 西浦町が大楠町と なる。 三崎実科高等女学 校,城山に校舎落成 横須賀国防婦人会 発足 1936 城ヶ島大火,97戸 全焼。 国防婦人会逗子支 部結成。 浦賀港内渡船が発 動機船となる。 横須賀国防婦人会 慰問袋6千個発送 1937 久里浜村,横須賀 市と合併。 諏訪神社で国民精 神総動員祈願祭。 横須賀市飲食店組 合の女給300人,国 防婦人会結成 1938 横須賀市内中学校 報国団結成。 下士官兵集会所の 落成式。 国民精神総動員週 間の行事で,隣保会 館で賀屋蔵相の貯 蓄奨励の大講演会 1939 家庭防空群,陸軍 記念日を期して防 空訓練実施。 警防団令によって 消防組が警防団に 改められる。 久里浜に海軍通信 学校ができる 1940 砂糖,マッチなど 十品目が切符制と なる。 紀元二千六百年奉 祝式典が行われる。 横須賀市で,ぜい たく廃止連盟結成 1941 小学校は国民学校 と改称。 横須賀第二海兵団 武山に新設。 防諜週間で横須賀 市の芸妓にも防諜 講演実施。 逗子海岸で焼夷弾 の実演 1942 米空母発進のB25 爆撃機による初空 襲,うち一機逗子上 空通過 京浜電鉄(株)久里 浜線開通 三崎の遠洋漁船が 軍用に徴用される 1943 一般家庭にも最終 的な金属回収が行 われる 浦賀町,逗子町,大 楠町,長井町,武山 村が横須賀市に合 併 1944 横須賀線が久里浜 まで延長される 横須賀市内で建物 強制疎開がはじま る。 米軍機B29が横須 賀,葉山上空を通過 1945 三浦半島への米海 軍艦載機による空 襲頻繁となる。 特殊潜航艇,特殊 船艇が油壺,小網代 ,松輪の各湾に配置 される 8月15日,終戦詔書 の玉音放送。

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