『「気」の身心一元論』

読者の声

─ 読後感想文の紹介 ─

   

第三回 「気」の身心一元論

― これからの時代を啓くコスモロジー

 三回目は、金井先生の個人指導および活元指導の会に長年通われ、ユング心理学や哲学への造詣も深い、三十代男性からの感想文です。

    

■ 藤田俊介さん(袋井市在住 34歳)

「気」の身心一元論 ― これからの時代を啓くコスモロジー

2011年12月15日寄稿

 今回の著作『「気」の身心一元論』を、前作『病むことは力』同様、とても興味深く読ませて頂きました。内容が濃すぎて、自分の中で消化できていない部分も多々ありますが、それでも自分なりに感じたものを言葉にしようと思います。
 『「気」の身心一元論』は、『病むことは力』に比べ、哲学や思想を中心に展開していてアカデミックな印象を受けました。四年程前に、個人指導で熱海に伺った時の金井先生とは、全く別人のような文章なのでびっくりしました。
 『病むことは力』は野口整体を日本の伝統文化と繋げ、今回は野口整体を哲学化したと思うのですが、その社会的、歴史的な意義はとても大きいのだと思います。野口整体の世界観の普遍性を中村天風師の哲学やユング心理学と有機的に繋げ類似点を見出すことで、より一層、学習者、読者の理解を深めていくことができる気がします。

 私は数年前から、河合隼雄氏の読者だったので、ユング心理学の特徴である「自我と自己」の関係性について関心を持っていました。河合氏は、あくまで心理学の人なので、身体論にはいかず、クライアントの無意識を知るために、「夢判断」や「箱庭療法」など、その他の手段を用いることとなります。
 夢を見ている時の意識は一種の変性意識であり、無意識の働きですから、クライアントは自身の夢によって、何らかの気づきがあります。箱庭療法も箱の中にジオラマ
(情景模型)みたいなものを心の赴くままに制作することによって、自身の無意識の表現に触れることができます。それは、あくまでユングは西洋人でクリスチャンだったので、身体論的な方法論を取らずに、無意識の中のイメージを通して、クライアントの本心に触れて、自我の修正を促していったのではないかと思います。

 ユング心理学を学んだ河合氏は、「対話」の達人でもありました。彼は自身の仕事について、「なにもしないこと」を挙げています。あえて言えば、「ただ話を聞くこと」だけです。クライアントと向かいあって会話があってもなくても、無意識の共鳴反応はあるので、河合氏がなにもしなくても(なにも話さなくても)、クライアントはなにか話したくなってくる(もしくは話さざるを得ない)ので、河合氏との対話は、自然にクライアントの自己との対話になるのだと思います。
 野口整体の愉気法は、この「なにもしないが伝わっていくもの」をより技術的に洗練させたものではないかと私は解釈しています。
金井 河合氏は自身の仕事について「相手に集中すること」「開かれた態度でいること」とも表現しています。この点に整体指導との共通点があります。)

 金井先生が野口整体とユング心理学を繋げたことは、自我と自己の関係性が「身体性」を通じてより明瞭になりました。河合氏はあくまで、集合的無意識の中で生まれる元型(アーキタイプ)が実際のクライアントを取り巻く現実でどう動くかを観察しているようです。
 自己とは、別の言い方でいえば「たましい」であり、最上級の元型です。つまり、河合氏は「現実という無意識」の中で、自我と、元型
(アニマ、アニムス、太母、老賢者など)の投影である、実際の人間関係を構成する他者との交流や対決の重要性を強調します。
 一方、野口整体ではあくまで「身体という無意識」に焦点に当て、背中を観察し、コンプレックスの解消を促そうとします。そして、その結果、人間関係がどう動くかを見ている気がします。今回、金井先生の著作を読んで思ったことは、両者の目的は同じく「自己実現」なのだから、「現実という無意識」と「身体という無意識」という認識も同じように大切なのだということです。

 金井先生の、前回と今回の著作を読んで思ったのは、突き詰めていえば、文化や伝統は、「自己」つまり「たましい」をうまく働かせるためにある、ということです。本当は、意識を構成する要素として、感覚と理性と感情があるにもかかわらず、意識を理性だけとしてしまうと、論理的に考えることだけが、何にもまして価値のあることになってしまいます。
 戦後の社会を形作ってきた近代合理主義にとってみれば、文化や伝統は全く非合理的で意味のないことのように見えます。しかし、「自己」とは人間の本体
(意識と無意識を含んだ心の中心)なので、日常生活、社会生活を司る「自我」が「自己」と分離してしまうと、さまざまな身体上・人間関係上に問題が出てきますし、なにより、この世に生まれてきた意味から疎外されて、人生が迷宮化してしまいます。多くの人が気づいていないけれども、この「自我」と「自己」の分離が現代社会を生きる人々の最大の問題であるわけです。「自我」は「自己」に根付いていなければいけません。日本文化固有の正坐も、自己実現にとってとても重要な身体技法だったのは言うまでもありません。

 『「気」の身心一元論』は哲学的な思索に満ちていますが、良い点の一つは、金井先生が野口整体をアカデミックな視点で編集しなおしたことで、整体操法を知らない人たちにも野口整体が身近になったということだと思います。
 もう一つは、西洋文明がなぜ危機に陥っているのか、そして、これからがなぜ東洋の時代なのかが理屈でわかるということです。西洋文明は自然からの離脱をその発展のダイナミズムにしてきました。だから、今、実際に世界規模で自然破壊は進んでしまっています。西洋では自然を取り戻していく方法論がないのです。
 田んぼを耕すように身体を耕して来た伝統がある東洋では、自然を取り戻す知恵と洞察に満ちています。江戸時代は完全循環型社会。自然性の回復が、身体性の自然の回復
(健康)、人間関係の自然の回復(家族)、人生の自然の回復(自己実現)、社会の自然の回復(環境)というふうにこれからの時代と社会を切り開くキーワードになっていきます。
 何百年も前にデカルトが心身二元論を提唱したように、
身心一元論がこれからの何百年かを展開させていく基本的な世界観(コスモロジー)になっていくのは間違いありません。こんなことを気づかせてくれた野口先生と金井先生に感謝の気持ちでいっぱいです。有難うございました。