活元運動とは

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

《その8》

自発的に生きる

 

金井省蒼 『月刊MOKU』 2007年9月号
野口整体・実践入門講座9
「自発的に生きる」(改訂版 V10)

心に鈍い〈鉄人〉

 五十代のスポーツ施設に勤める男性が、「十年ほど前から、心身の不具合に悩んでいる」と、整体指導を受けたことがありました。取締役である彼は、施設でのインストラクターでもあり、トライアスロン(鉄人レース)を長くやっているほどのスポーツマンで、一見、筋肉質でがっちりとしている、という体つきでした。
 私は、彼のそういった「表の顔」を観ながらも、彼には何らかの「不満がある」ということを感じていました。
 これは、彼の表面的な風貌や、表向きの仕事振りからではなく、その人の裡
(うち)を観るという「気」の感覚で感じたことです。
 しかし、「鬱病、自律神経失調症」に悩んでいるという彼に、「会社の人間関係に悩みがありますか」と尋ねると、「別にない」と答えました。
 話はそこで終え、体の観察に入りました。
 そして、私が体に触れながら「社長はどんな人?」と聞くと、「ワンマンで、私はこき使われている」と言い出して、それで、「あ、そうか、人間関係か」とやっと自分で気がつくというような状態でした。彼は、自分の心に鈍く、こころを訴えるのが不得手だったのです。

 

心が動いていない

 整体指導の序となる観察を終え、本番での「うつ伏せでの背骨の観察」に入りました。
 彼の腰椎の様子からは、「意欲」というものが感じられず、「自発的な心が動いていない」ことを感じ取ることができました。昔から、物事に身を入れて打ち込むことを「本腰を入れる」とか、「腰を据える」と言いますが、彼の腰はそれとは対極的な状態にありました。
 特に、仰向けでの「お腹」を観たとき、全く弱々しいのです。「肚がない」という感じがよく分かり、私は「彼は仕事をやらされているな」と直感しました。
 昔の人は、決断すると「これで肚が決まった」といって行動に移ったものですが、この「肚」の力によって生きるということが「自発的」なのです。
 「背骨は人間の歴史である」という野口先生の言葉がありますが、背骨には「生きてきた歴史」が刻まれており、私は彼の背中に、「心の虚」を観たのです。

 

心の病と自発性

 問題なのは、彼の場合、社長がどれほどワンマンかということよりも、仕事をする上で、彼の「心が動いていない」ことです。もちろん言われたことはこなしているようですが、そこに「感情が伴い」、心が動いている感じが全く観受けられませんでした。
 指示されたことをやるにしても、それを受けて、「よし、やろう!」というように自分の心が動けば自発的な行動となります。しかし、私が観たところ、彼の頭(顕在意識)は動いていても、心は動いていませんでした。
 「心の動き」とは意識してのものではなく、「意識以前」の心が動かないということです。

 背骨の観察から、幼い時の家庭環境について尋ねてみたのですが、彼には、子どもの時から、家族内のいざこざの中、「心の動き」を止めることで、自分を守ってきた過去がありました。彼自身「自分は心が弱い」と言っていたのですが、それをスポーツで体力をつけ、弱い心を堅固にしようとしたのです。しかし「トライアスロンをやること」ができても、彼の心は未だ動かず、錆付いたままでした。
 野口先生の「背骨は人間の歴史である」という言葉は、「どのような心で生きてきたかが背骨にあらわれている」ということです。
 顔の表情、体の表情、無意動作には、意識に上らない、意識して訴えることの出来ない深層的な思いが表れています。いわば体中が「表情筋」であるとも言えるでしょう。
 訴えることの出来ない心、要求は筋肉だけではなく、骨にも現れています。
 多くはすでに無意識化されて自覚は少ないが、体の歪みは情動によるもので、「体が動きを無くしている」という原因は情動による硬張りです。それを整体指導者は受け取っているのです。今の情動を深く捉えればその人の過去も分かる。過去があって、今の情動がある。そこを愛と理解を持って、受け取るということから相手に弛みが起こる。そして動きへつながって、その人が再生していくのです。

 彼は幼いころの「心の動き」が止まったまま、またはトラウマを抱えたまま成長したのですが、四十代になって、その潜在意識化された心と意識との葛藤が表面化したのが「欝病」なのです。
 抑え込まれた怒りといった情動が、自分の内奥から意識を突き上げる。また、それをさらに意識で抑え込もうとする。鬱の人は、こういった意識と無意識との葛藤を、それこそ無意識に行っているのです。
 現代では、こういった問題を抱える人は、「欝病」という診断を下されないまでも、数多く見受けられます。
 ここからが大事なのですが、心が健全に働くようになるためには、意識と無意識とのズレ(イコール体のゆがみ)を正すことです。それには無意識の情動を理解することから始まり、やがてコントロールできるようになることが必要です。

 

自律神経とお腹

 新聞記者を経て、青年期までの虚弱体質を自ら克服した経験を踏まえ、著作活動に専念された櫻木健古氏は、著書『太ッ腹をつくる本』(ぱるす出版 1975年)で次のように述べています。

 

第二章 生命力の中心は腹にある

(前略)
 自律神経とか潜在意識(深層心理)というような言葉は、いまではもはや学者の専門用語ではなくて、日常会話にさえよく使われる常識語になってしまっている。自律神経失調症という言葉を知らない人はいないだろうし、夢と潜在意識との関連も、だれもが常識として知っているところだ。その自律神経や潜在意識の発するところ、その根はどこにあるかというと、これらが腹にあるのである。
 生命現象は生理、心理ともに、根源的には自律神経(植物性神経)によって、支配、運営されているが、その自律神経の大元、いわば司令部のような場所が、太陽神経叢
(そう)である。ヘソ(臍)の裏がわあたりに群がり、細かい無数の神経の先端が、放射線状にヘソをとりまく形になっている。ヨガが、生命活動の根源を太陽神経叢においていることは、周知のところだ。生命の総司令部がヘソの奥にある、というのである。
 植物にたとえて言えば、太陽神経叢は、いわば神経系統の〈根〉である。この根から脊髄という〈幹〉が出ている。その先端に脳髄という〈枝〉があるのである。こういう形になっている。腹が根で、頭は枝葉にすぎないということだ。
 潜在意識とは、これをつきつめてより深くとらえれば、〈魂〉ということになる。「魂は腹に宿る」ということであり、それゆえに昔の日本人は、魂の宿る場所として腹を重視したし、自決するときにも、ここを切ったのである。魂の座であるからこそ、腹を生命の中心としたのである。

    

 このように、「お腹」と潜在意識との関わりは密接であり、頭は動いても「肚」がない彼は、潜在意識の働きが悪く、心理的、生理的にも不活発な状態にあると言えます。

 

スポーツと自律神経

 スポーツのレベルにもさまざまな段階があり、一流と言われる人達ほど錐体外路系が優位の運動で、初心者はほとんど全ての動きが錐体路系の運動です。
 トライアスロンは走る、泳ぐ、こぐという日常の基本動作がメインの競技です。おそらく、競技者の中にも滑らかで無駄の無い外路系の動きと、硬く、ぎこちなく、力んだ錐体路系の動きの選手が混ざり合っていることでしょう。
 そして、この男性は間違いなく後者だったと思います。長距離、長時間を競う競技の一流選手で、体格のいい人はいません。筋トレによって作られたがっしりした体で、体表に近い表在筋主体を使い、ガシガシと力強く走り、ザバザバと水飛沫を大きく立てて泳いでいたことと思います。背骨周りの深部筋をメインに使い、表在筋の力が抜けた、軽やかでしなやかな動きではなかったと思われます。
 しかし、このように競技者のレベルに段階があるとしても、西洋式の体操や運動は、基本的に自律系の器官との関係は考えられていません。
 心理面からいえば、このことは、西洋の身体訓練法には情動つまり感情とか本能のはたらきをコントロールする考え方がない、ということを示しています。
 心の深部である潜在意識は、自律神経の働きや、無意識に行う運動と関係があります。ですから、筋肉を鍛えて意識的に体を動かすことでスポーツをする人は、表面上、活動的に見えても実は、「奥の心が動かない」ということが十分あり得るのです。

   

錘体外路系運動

 「心に対して」は、まずは強くするというのではなく、自分の「心に目覚める」ことが大切です。「心が動き出すこと」で「心を感じる」、という順序により「心の自発性」を識り、やがて本当の「自身の力」を取り戻さなくてはなりません。心はこころで気づくことが肝要で、「心が動く」ためには、意識的な随意筋運動では無理なのです。
 生理学的に不随意筋というと、心筋と平滑筋のことを指しています。これらは、心臓の拍動や消化管の蠕動運動といった内臓の機能を司る筋肉で、自律神経により調節されています。一方、随意筋は横紋筋、つまり全ての骨格筋のことを指し、現実には困難だと思われますが、医学的には骨格筋は全て意のままに動くとされています。このように、意識で自由になる随意筋的な働きを錐体路系と呼び、無意識で行われる運動を「錘体外路系運動」と呼んでいます。
 冒頭で紹介した男性について、「心が動いていない」と書きましたが、それは、取締役ができるほど意識は発達しており、同時に随意筋運動も得意ではありますが、幼い頃の家庭環境の影響により、「情動」の働きが悪いのです。
 心の「動き」の主体である情動は、自律神経の働きや無意識に行う運動と深い関係がありますが、現代社会では、意識(大脳新皮質)的生活に偏るため、無意識に行われる錘体外路系の働きが悪くなることが多いのです。

   

活元運動の原理

 野口整体では、個人指導のほかに「活元運動」というものがあります。これは「体という無意識」と「意識」との対話を深めていくものです。

 「心の動き」の主体である感情は、意識して分かるものの、勝手に動いてしまうので、多くはそれに振り回されるのです。
 特に怒りや不安の感情が「ふっ」と起こると、無意識に身体に力が入り、硬くなります。これを「無意緊張」と言い、この「感情=無意緊張」を滞らせていると、身体の「偏り疲労」となり、熟睡を妨げることにもなります。
 「大泣きしたら心がすっきりした」ということがありますが、感情は体の運動とつながれば、消滅するのです。
 それを意識的に図るのが、野口整体で行われる「錘体外路系」の訓練である「活元運動」です。心身の偏りを自ら直そうとする運動が無意識に起こってきます。
 意識がありながら心が静まっている(瞑想)状態で、無意識が優位になることから「錘体外路系運動」が発動するのです。このことで、感情や無意識のはたらきと意識を統合する力を養っていくことができます。
 活元運動は、感情エネルギーの発散から始まり、後には「感情力」の育成に進むことができます。
 活元運動で、自身の「裡の力を振作」し、心の動きを取り戻す。それが「自分を取り戻す」ということです。
 活元運動は、本物になるまでには腰の鍛錬(中心軸を作る)と積み重ねが必要ですが、続けることで、自分に対する信頼を培うことのできる「行」であると思います。
 活力を失っている感のある今の若い世代に、活元運動により「気」を活性化し、潜在生命力を喚起していただきたいと念願しています。