整体とは
いつ、どこででも
活元運動が発動している
状態である
野口晴哉
活元運動は「自己との対話」である。
「天心」による気の感応は生命の共振(レゾナンス)
活元運動により、
「気」を活性化して
潜在生命力を喚起する
金井省蒼 『月刊MOKU』2005年2月号
「心を考える」は流行でしかない より
野口先生が亡くなって今年で三十年になります。この間に、野口整体はさまざまな解釈がされて、治療・教育などの分野で変遷がありました。その中で私は、一直弟子として整体指導を継続してきましたが、「潜在意識」を重視し、「整体を保つ生き方」を指導することに専念してきました。それは私が、青春時代に感じた「どう生きればいいのか」という疑問を、今も追い続けているようなものでもあります。
自らの社会的使命を感じ、西熱海町で会を設立して八年になりますが、こちらにはさまざまな方が訪れています。他の整体には身体の不調を訴えてくる人が多いと思うのですが、うちの場合は心の悩みを抱いている人が多いのです。その中で積極的な人は「いかに生きるか」という基準を求めてくる人が増えています。
ただ、最近では、軽度のうつ的状態の人が多く見受けられます。現代人は考えすぎなのでしょうか、ストレスがかかりやすい社会なのでしょうか。みなさん、不安や怒りといった感情から身体が固まっています。
軽度のうつ状態だと身体にまだ動きが見受けられますが、症状がひどくなると、身体に動きがなく、固まっています。
私の整体指導では身体の裡の動きを誘導していくので、重度のうつの人を観るのは非常に難しい面があります。重度のうつは思考も身体も動きが止まっているからです。
「裡」の動きがある人は、病人ではありません。私はこの会に来る人を患者とは呼びません。整体であるということは、裡の動きがあり、それを感じることができるということですので、この範疇に入る人を対象に指導をしています。
このような人が増えてきた大きな原因の一つに、現代では多くの人が自分の頭の中だけで直面する問題を判断しようとしている、ということがあります。その結果、どうしてよいか分からなくなっているのです。意識の中だけでぐるぐるしていて、無意識の世界(身体)を識らないために大変狭くなっているのです。
野口先生は、意識がつかえて、分からなくなったら
「意識を閉じて、無意識に聴く」
と言われ、「活元運動」を励行されたのです。
活元運動は別名「動く禅」とも呼ばれ、瞑想法なのです。無意識の声に耳を傾け、「裡の要求」に敏感になることが目的で、決して「神秘な霊動法(れいどうほう)」といったものではありません。
全力を発揮するには裡の要求に順(したが)うことが大事であり、これには「活元運動」を行ずることが必要です。
活元運動とはクシャミや欠伸といったような、体がひとりでに動いてしまう、生理学で言う「錐体外路系(すいたいがいろけい)運動」を訓練する運動なのですが、別名「密教的易行道(いぎょうどう)」と呼ばれ、「禅定」に近づくを容易にする行なのです。
動く坐禅
活元運動をしている人を見ていた人が、「動く禅」だと言いました。坐禅がだまって坐って、動かないものと決めている人が多いので、動く禅と言ったのでしょう。
道元禅師の『普勧坐禅儀』には、体を動かし乍(なが)ら統一に入る禅の方法が説かれております。人間の心は余分なエネルギーを蓄えている限り、そのイライラはなくなりません。体を動かし乍ら統一する方が自然です。そういう意味で、活元運動を入定に至る方法として使うことは良き考えです。
活元運動を行なっていると、いつの間にか心は統一してきます。統一しようとか、入定しようとか余分な考えは捨てて、ただ活元運動を行なうことがその秘訣です。裡の要求で無心に動く、その自然の動きの中に統一への道があるのです。
心は心のはたらきで動く他に、筋緊張によって自動的に働いてしまう性質を持っているのです。それ故歩き乍ら考えたり、考え乍ら話をしていると、手や体をいろいろと動かしてしまうのです。それ故筋の張弛を無視して心を静めようとしても、逆現象を生ずることが多いのです。寧(むし)ろ余分に硬直している筋を弛め、過度緊張の筋を柔らげる方が心は静かになり易いのです。
そう考えると、活元運動によって心を澄ませてゆくということは間違っておりません。意識して動かすことより、無意識に動く活元運動の方が適していると申せましょう。