活元運動とは

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

《その10》

我に気付く活元運動

金井とも子

    

『月刊MOKU』 2007年11月号
体をひらく、心をひらく 第11回
「お腹の赤ちゃんと気で繋がる」より

 野口整体、野口晴哉先生の人間を捉えた世界は病気、無病と治療によって、健康生活に結びつける狭い生き方ではありません。人間の身体に内在されている潜在力を使って命を全うして生きる「生命哲学」です。哲学というと、大変難しく日常に生きるのに、掛け離れた世界と思われますが、命の自然な要求に沿って実現し、生きとし生きていく心体の基本です。宇宙と共に息する人間の生き様そのものが「生命哲学」です。

 野口整体は基礎体力を養い、自立を持って生きる一つに、事細かに身体を研究し裏付け出来た中に指導者によって個々に整えることと、自ら行なう「活元運動」と「愉気」が柱になっております。

 人体は、背骨と腰、体に無数ある神経の働きが、心にも大きく関わりを持って命を維持しています。「体内に聖医あり」と野口先生はおっしゃっています。

 人は無意識に要求が生まれ「ふっと」感じ、心で思いを可能にしていきます。その心をリードしていく身体の働きは、意識のうちでみぎひだりに答えを出せるものは少なく、人間は体の裡に自然に働く無意識の働きを持って命を司っています。

 目には見えないけれど、感じるとあるもの無意識の働きが力となり表に出て、自らの力、即ち〈人間力〉となるのです。現代の人間は目に見えるもの、形にあるものだけ、或いは自分に分かることだけしか承認できなく、そのような生き方では心体に力みを産むばかりか心体の静けさを無くし、病むことも知識に偏り、患者のプロになるように知識を使い、依存度を自分に増やし、自らの身体に何も心配り無く生きています。生命の自然な力に目を開き、本当の自分を見出すことです。

 それには活元運動によって、人間の命の奥に無意識に働く「気の動き」を身体から呼び起こし、身体の内なる働きに気持ちを向けると無意識、無意動作の中に知識以外の働きが、身体のうちに備わっていることを感覚で感じ取れます。

 或いは、今抱えている「負」の物事が体内にある無意識に、「負」と入れてしまった気持ちの出発点になっていることが沢山あります。身体の働きは、「自己」と「自他」とあり、身体に勢いと弾力ができていれば、体内に不必要なものは出て行く働きがあるのです。

 例えば臓器移植など、(病の体に)他の人の物を入れ込んだ体は、自己のものではない為薬によって適応性を保つということをしなくてはなりません。命を保持する為に取り入れたものも、(自己の)自然な体から見るとやはり自他です。

 活元運動は、外のものを取り入れて新しくできていった運動方法ではなく、生きる身体に組み込まれている自然な命の働きです。活元運動は、その身体の働きを活発にし自力で生きるを高め「十全(じゅうぜん)に全生(ぜんせい)」していく。要するに心体を深く広く自由に使い、自分を生かしていく「生命哲学」です。生理学的な原理や詳しいことは、『MOKU9月号』の整体入門〈金井省蒼著〉(→《その8》をお読みください。ここではやり方の有無より実際の活元運動にて、無意識に起こった運動によって、要求を可能にした一人の方のお話をしていきます。

 この方は四十一歳になる方ですが、鎌倉の活元会に見えたときは受胎して二ヶ月前後の時期でした。その時の女性は目に落ち着きなく、不安な気持ちが顔や身体全体に表しておりました。

 無理もありません。最初の受胎で流産していましたので、医者から「今の受胎も保たないようでしたら、子どもはあきらめるように」というところまで追い込まれていました。

 私には、お腹に赤ちゃんがいることと、個人指導を受けている体ではないので、初めての活元運動が、心体にどのように働きかけるかを案じました。受胎しているので受け取れる体の感覚が特に大事です。

 初めての運動が終わった後、彼女の笑顔に輝きが出ていましたので、体の動きはありませんが、「無意識の心体」の動きには変化が出ていると感じました。そして二回目の活元会の時です。その人の固まっている背骨の一部に手が行きますと、そこが動き出してきたのです。体の奥で私の手を捉え、無意識に固めた心のひだが動き出し、(心体で)捉えていた悲しみ苦しみを沢山の涙となって運動が出始めたのです。

 この時私は、受胎している女性の体の本能の力を感じることになりました。涙の後、呼吸が落ち着いた頃に、腰から「気の働き」が体の上に上り始め、頭の真後ろの延髄のところで頭の気と一つになり繋がったのです。

 延髄は、人間の生き死に関わる身体の大切な場所です。母の胎内で育つのは自然なことですが、よりよく無事に育つとなると、母親の気持ち或いは、頭の中で何か囚われていきますと子に気がいかないのです。母親の気持ちは赤ちゃんにとって大変な栄養です。

 活元運動を通して、この女性の感情の閊えが取れたと見え女性の頭のもやが無くなり、赤ちゃんが大事だと思う気持ちが、お腹の子の気持ちに伝わりました。ここで、赤ちゃんと「気、心」で本当に通え合えたということを、私は感じ取り、「大丈夫よ、あなた、赤ちゃんと気でつながりました。ちゃんと生まれますよ」と私も無意識にこの言葉が口から出ていました。その時「私も同じように感じました」との言葉が(彼女から)ありました。

 この人は意識では、赤ちゃんを無事に「産みたい、産みたい」と願いながらも、自分の母親との確執に長い間苦しめられ、その苦しみを持って自分を自分で金縛りにかけて、お腹の子どもに、母親の本当の愛情がいかなくなっていました。この人の母になりたい強い思いが命の中にある、自然な要求に沿った活元運動です。その後の彼女は、日を追うごとに力強い妊産婦さんになり可愛らしい女の子が産まれました。

 今の時代は、人間の生命を感じて生きることが気薄(きうす)になり、人が混迷している社会があります。このようなときだからこそ、先生の「生命哲学」の世界を必要としています。活元運動はその命の源であるその勢いを正す方法です。活元運動を行なっている人たちは、自分の中に計り知れない力があることを自覚します。自覚はまた、力です。活元運動も愉気も人が元来持っている能力です。

 笑顔の体あり怒りの体あり、どちらも自分の体です。人間は変わっていけるのです。

 活元運動をすることが食事をすることのように、自然になり、そのことによって心体の心地良さを持って生き「活元運動」を人から人へ繋げていって欲しいと思います。

  

  

 野口晴哉 「自覚はちから」
『風声明語』(全生社)39頁より

 活元運動を行なっている人々は、自分の裡にはかりきれない程のちからのあることを自覚します。自覚は又ちからです。

 自分の裡のちからに気づかない人は、少しのことにおびえたり威張ったりして、冷静にものごとの経過を、特に自分のことだと見極められませんが、ちからを自覚した人は自ずと、その時そのように対処する構えをしております。同じ人かと思われる程異なって見えることも少なくありません。

 健康であるということはつくりあげるものではない、自然のことだというような簡単なことでも、生きるちからの自然のはたらきを知り、そのちからがあることを自覚した人でないと、平素はそういっても、イザという時には乱れるものです。自覚ということはちからです。