活元運動とは

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

《その4》

無意識の声に耳を傾ける

   

小林幹夫 『別冊宝島220 気で治る本』
「野口整体における気の研究」より

 人間は、さまざまな観念や知識によって裡の要求を曇らされている。睡眠は八時間以上とらなくてはという強迫観念が自然の睡眠要求の訪れを待てない生活形態をもたらす。食事は日に三度という先入見が、食欲のないからだに過剰な栄養物を送り込む。入浴は夜という習慣が、朝、緊張の要求に応じて入浴するという発想を見失わせる。浅い睡眠や栄養の過剰は現代人の常態であり、それに伴う数々の疾病は、固定した観念や不自然な生活習慣に対する無意識の防衛反応にすぎないのである。

 ここには、意識によって無意識が抑圧されるという人間の原初的な疎外の構図が、さしあたって踏襲されている。

 

「他の動物に比べて意識で生活するという面が人間の特徴になっている。だから自分に背かなくてはならなくなる。/意識教育の過剰、今後、教育を意識にだけ行なって行けば、行って行く程そういう反発は起って来る。」(『月刊全生』1972年7月号)

  

 しかし、整体法は、コスモスとしての知識や理性を否定し、カオスとしての本能や無意識を肯定するという短絡した立場をとらない。無意識にこそ生命の自然な秩序が現れ、意識はその秩序の一構成要素とみなされる。意識が色濃くなりすぎたときは、意識を休めて心身を無意識に任せればよい。「意識を閉じて無心に聴く」。ここに無意識の運動神経を支配する錐体外路(すいたいがいろ)系の体育、活元運動が提唱されるのである。本能の動きは、頭の強ばりを解きほぐし、四肢五体に弾力をもたらす。意識は無意識が何を要求していたかを識る。「裡の要求」が運動をリードし、運動の洗練は感受性を高め、「裡の要求」をよりクリアに純化して意識に伝える。運動が鎮まり、からだの内奥から新たな要求が湧き起る時、人は静かに意識的生活に帰っていけばよい。

 活元運動は狂騒的なエネルギーの解放でもなければ、神秘な「霊動法」でもない。それは確固として意識の覚醒下に行われる。活元運動は正確には無意識の運動ではなく、治療法や健康法ですらない。その本質は、むしろ、鎮められた心が、躍動するからだの音楽に耳を傾け、今自らが本当に要求するものを見極めようとする感受性の訓練である。意識が、無意識と対話を繰り返すなかで、真に働く場を得るための、高度に洗練された文化の行為である。

 「愉気」や「活元運動」をはじめとする整体の基礎的な諸技法は、その型こそ違え、いずれも気を練り、澄ませ、「裡の要求」に敏感な身体の育成と、その要求に順った自然な生活の達成を究極の目標に置く。ここに整体法が治療術や民間療法ではなく「体育」の技法であることの根源がある。整体法における気の特質の根本は、このように、気が「裡の要求」と結びつけられ、単なる治療の手段ではなく、生の豊饒化の基礎とみなされていることである。気に敏なからだとは、生を輝かすのに必要な行動を識るからだ以外の何者でもない。