QアンドA21
 レプチャ-語も日本語と同じだ、と聞いたことがあるのですが…


インドの北で話されているレプチャ-語が日本語に似ているという話を聞いたことがあります。とんでもないデマだったそうですけど、シンハラ語の日本語説もその類いではないんですか。
 


No-22 2004-07-10/2006-01-28 


その類いかどうか分かりませんが、レプチャ-語とシンハラ語には何の関係もありません。『万葉集の謎』(安田徳次郎)はレプチャー語を日本語と結びつけた本ですが、著者の安田さんはレプチャー語の辞書を頼りに単語を集めて日本語と較べていましたね。結構,面白かったと言う記憶があります。でも、あれ、会話の実践には何の役にも立ちません。
 私の「シンハラ語は日本語とそっくり!」という話は、基本的にレプチャー語起原節とは異なります。それは私のシンハラ語会話術はすでに実践済みだからです。1983年から今に至るまで、スリランカの片田舎や都会でわたくし流のシンハラ語を使ってみてそれが間違いなく通じています。実践から生まれたのが『熱帯語の記憶』や、『CD版シンハラ語の世界2004』で、それが今回の本に繋がりました。すべてはシンハラ語を話すための資料です。日本語の使用者ならだれもがシンハラ語を話せる。しかも日本語感覚で話せる。これは実用書なんですね。
 ところで、このところシンハラ語の研究者が増えました。そこでシンハラ文について能書きを云々することも出てきました。そうしたシンハラ語理論はホームページ『かしゃぐら通信』に掲載してあります。検索の窓に『かしゃぐら通信』か『丹野冨雄』と入れればホームページにたどり着きます。ご利用ください。
 なお、安田さんのレプチャー語研究と同じ部分があります。それは実際に私の耳で確かめたシンハラ語の単語以外にシンハラ語の辞書から日本語っぽい響きの単語をも抜き出していると言うことです。ただしこれもシンハラ人にいちいち確認しています。辞書に載っている単語は必ず信頼できるという訳ではないからです。

参考/ シンハラ語ですが、そのルーツに関してこんな一説があります。→「シンハラ語のルーツ」/『ラーマーヤナとインド・アーリア人の社会、-インドとセイロンの場合-』から S.C.De 1976 Ajanta Publications(要約)

 …シンハラ語は、結局のところ、インド系アーリア人のプラ-クリット Prakrit 方言の2種から派生したのもである。

 タミル語はドラヴィダ系の言語(方言)だが、多くの単語をサンスクリットから借用しており、また、実に多くのサンスクリット文化を吸収している。
 クリシュナスワーミ・アイヤンガル博士は彼の著書『インド文化に寄与する南インド』のなかでこう指摘する。南インドのブラーフマニズムは前仏教的な色彩を帯び、シヴァ、バラデーワ Baladeva 、クリシュナ、そして、ブラーフマニヤ即ちカールティケーヤへの信仰はきわめて早い時期から行なわた。また、アーリア人がインドの北部で抑圧された時、彼らの格好の逃げ場となったのも南インドであり、それ故に南インドは太古からオーソドックスなブラーフマニズム( Vaidic , Pauranic ) が定着していた。だから、南インドは基本的にアーリア人の文化を引きつぎ、時折、紛れもなくアーリアの顔が出てくる。アーリア文化は南インドの構造の中に組みこまれているのである。タミル語の伝統はシヴァに対する語彙に現れ、南インドに招かれたアーリア人アガスティヤ Agastya によって作られた文法で構成されている。

仏教はヒンドゥ教の1派である。ヒンドゥ哲学の一つサーンキャ Smkhya 派の流れによって作られたのが仏教である。ヒンドゥ教と仏教には固有の反目 inherent antagonism というものはない。仏陀はヒンドゥ教の人々にとってウィシュヌの十の化身のうちの一つに過ぎない。大乗仏教は小乗仏教とパウラーニック・ヒンドゥの混合した形態に過ぎない。スリランカではブッダの偶像がヒンドゥ教の神ウィシュヌ・ガネーシャ・カールティケーヤ・ウィビーシャナと共に一つの寺院の中で並んでいる。
 BC104年にワラガム・バーフ王がダンブッラに建てたデーワ・ラージャ寺(ウィハーラ)はその一例で、ドナルド・オベーセーカラは『セイロン史素描』に、S.M.ビューローBurrows は『セイロンの埋もれた都市』にそのことに触れている。仏教はブラーフマニズム(バラモン教)と同様にヒンドゥ教の一宗派と見なされるのである。
 後のマハールシ・デウェンドラナータ・タゴール Maharshi Devendranatha Tagore , リベレンド・ケシャワチャンドラ・セン Reverend Kesavachandra Sen 、そしてあの偉大なラウィンドラナータ・タゴール Ravindranatha Tagore らは、その卓越した理解者とされている。
 仏教文学の傑作はサンスクリット語(例えばアシュワゴーシャ Asvaghosha の叙事詩やドラマ)とパーリ語で書かれ、これら二つの言語はシンハラ語に、その文学に決定的は影響を与えた。

 当初、アーリア人のインドには三つの言語があった。言語というよりは三つの方言(地方語)といった方が正確かも知れない。
 その一つはウェーダ語で、これは聖職者の言葉となった。
 二つ目は広く流布した文語表現で、この文語表現の中でもパーニニ Panini の文語には不規則性がなく、このパーニニの文語が後にサンスクリットの叙事詩に用いられ、プラーナ Puranas に使われ、クラシクス Classics つまり、後のカーウヤ Kavya にも現れることになった。 
 三つ目は会話語で、そこに現れる口語の日常表現がまた、様々なプラ-クリット語を生んだ。
 様々なプラ-クリット語というのは、マーガディ、つまり、パーリ語であり、口語体のマーガディ Magadhi 語であり、演劇文学のことばアパバラムシャ Apabharamsa (プラ-クリット語にAbhiras などの慣用語句を加えたもの)である。これらが後に、ベンガリ語、ヒンディ語、グジャラーティ語、マハーラーシュトリ語、シンハラ語に分化してゆく。そして、このような多様な展開をもたらした外的な要因は、ウールナー Woolner によれば次の三つの理由があげられている。
 ①経済的欲求とその努力の結果。
 ②亜熱帯気候の穏やかな影響
 ③アーリア人が接触を持った非アーリア人の言語の影響
 
 パーリ語はおそらく、マーガディ語のもっとも初期の形を残しているだろう。マーガディ国はアーリヤワルタ Aryavarta を侵略した後に東に進んだアーリア人が話し、書いていた言葉である。P.B.バパト Bapat は1928年のインド史季報の中で音韻、文法、語彙の各項目からパーリ語がアルダマーガディ Ardhamagadhi より上位にあることを示した。パーリとい言葉そのものは「聖典の詩篇」を意味するパータリから派生した。パータリはパータリプトラまたはパーリボトラ Pataliputra / Palibothra の短縮形である。パーリはパータリプトラ、即ち古代パトナ Patna の言語だった。
 
 現代シンハラ語はエル Elu 、つまり、古シンハラ語から発展し、古シンハラ語はサンスクリット語、ウィジャヤシンハとその配下たちの話したマーガディ語、仏教を伝えた僧たちの使うパーリ語(仏教聖典語)、そして、通常の文学などにその起源を持っている。また、スリランカ先住民の語彙を吸収していることも疑いはない。
 ベンガリ語はマーガディ語とサンスクリット語の影響をその語彙に受けている。以下はベンガリ語とシンハラ語に共通する語彙である。 

ベンガリ語 シンハラ語 英語
Vaata Vaataya air
Valaahaka / megha Valaakula / megha cloud