QアンドA27
与格主語のこと
シンハラ語のTA格名詞と日本語



かしゃぐら通信から
「シンハラ語TA格名詞の意味的特徴」(宮岸哲也)のこと


No-29 2003-02-18 2015-Nov-02


 「シンハラ語TA格名詞の意味的特徴」という論文(宮岸哲也)に、シンハラ語のニパータtaの考察が掲載されています。宮岸さんはここでtaを日本語の係助詞「~は」と比較されていてシンハラ語ファンには大変興味深い内容です。シンハラ語のニパータを日本語の助詞と比較した論文として始めての試みでしょう。『かしゃぐら通信』読者の皆さんにも一読をお勧めします。

 その論文はシンハラ語のtaを後置させた名詞が主語になる事例を集め、批判的に検討したものです。『かしゃぐら通信』の「ニパータと助詞」で扱っているtaの事例は「場所、方角、時間などを指し示す」という説明に留まっていて、ta の付く名詞が主語になるという文法説明には触れていません。宮岸さんの論文を興味深く読ませていただきました。
 ここでは、論文の中で挙げられたTA格名詞のシンハラ語例文の中から、『かしゃぐら通信』らしく「食」にこだわったものを選んで、与格主語ではないもうひとつの理解のし方があるのではないか、という事をお話します。
 「食」にこだわれば、やはり、「バダ・ギニイ!」、「腹、減った」です。『熱帯語の記憶』をお読みの方は、「バダ・ギニイ」の語源からその類似語までを知っておられるでしょうが、ここでは論文にそったお話をします。

 Charles.Carter の「シンハラ語=英語辞典/1965/M.D.Gunasena/Colombo」には、
     タ   ニパータ(助詞) ~に/~へ/~にあっては n.  It is the termination for the dative case

とあります。
この dative case がシンハラ語でසම්ප්‍රදන විභක්තිය サンプラダーナ・ウィバクティヤ、訳せば「与える態」となるのですが、つまり、これは格文法の「与格」のことで、dative case「与格」 の termination 「接尾辞」である、というわけです。
 ここで言うTermination はシンハラ語でනිපාත ニパータ と呼ばれるものです。ニパータの存在は屈折語の文法になじまないのか、「接尾辞」と一括されて雑多に扱われ、ニパータはずいぶんと肩身の狭い思いを強いられています。しかし、図らずもこの論文が を日本語の係助詞「~は」と比較しているように、シンハラ語のニパータもまた「助詞」であって、シンハラ語の文を作る上で大切な品詞たっだ、という事があらためて確認できます。

マタ バダギニイ maTa baDaginiyi の場合

 論文の中で「maTa  baDaginiyi」が「私は 空腹だ」と訳されています。 maTa (私に)という与格名詞が badaginiyi (空腹だ)の主語になっています。
 さて、この「maTa  baDaginiyi」の訳ですが、baDaginiyi という単語を解釈してみると、少々中身が変わります。
 
    maTa   baDaginiyi
    私(与)   空腹だ [私は空腹だ]

  baDaginiyi は baDa (腹)と gini (火) のニ語に分けられる合成語で、本来は名詞。「腹」と「火」を結び付けて「空腹状態」を表現するシンハラ語の想像力には感心させられます。この合成語の語末に yi を添える事で形容詞化(あるいは動詞の活用語尾-カラナワの代わりにもなる)しているのです。
 この baDagini という名詞は bada-ginna または saa-ginna が本来のかたちで、この名詞は 「~がある」を示す thibenava という動詞を伴って使われます。つまり、baDaginiyi は badaginna thibenava が元の語形で、「空腹 - ある」が本来の形です。
 「空腹がある」という表現に主語をつけるとすれば、「私には-空腹がある」、あるいは「私は-空腹がある」となりますが、「私は-」の形はシンハラ語では取りにくいようです。なぜなら「ある」の主語は「私」ではなくて「空腹」だからです。シンハラ語の存在を表す動詞には二つの種類があります。「生きているもの」には innava 、「生命のないもの」には thivenava を用います。
 ですから、maTa   baDaginiyi は、
    maTa  baDaginna  thivenava.
    私に   空腹が     ある。
が、本来の形です。 
 「空腹がある」
 「だれにあるのか?」
 「私に」
 私に、ですから、これは与格そのものです。maTa  baDaginiy の場合、一見、maTa が主語のように見えてしまいますが(つまり、与格主語)、それは先にも触れたシンハラ口語に特有の yi の使い方によるものです。yi の使用によって thibenava が省略されるのです。

 シンハラ構文は動詞さえ不動の位置にあれば、他の単語は文の中で移動が自由ですから、
maTa  baDaginna  thivenava を、baDaginna maTa thivenava と言い換えることができます。つまり、「空腹が-私に-ある」という文の配列がここに浮かんで来ます。
    baDaginna maTa  thivenava
     空腹が   私に   ある。
 シンハラ語も日本語も、「空腹」という単語を主語に置いても無理はありません。「私」という人称を主語としなければならない、とがんばる言語ではないのです。maTa を与格主語とするのは、この例文の場合、適当ではないと思います。


必要を表現するオーナoonaの場合

 「バダギニイ」のように少し込み入った単語は特殊だと思います。
 「必要」の項目で「与格名詞を主語とする」例として、
     maTa   ee   pota  oona  una
     私(与)  この   本  必要  だった [私にはこの本が必要だった]
が挙げられています。
 oona unaa は oona venava の過去形で、「必要に-なる」という動詞です。この例文は少し複雑なので、これを簡単にして maTa meeka oona に変えて話を進めます。oona は oona venava / oona karanava と同じように動詞として使われます。
    maTa   meeka   oona ---- a
   私に(与)  これ  必要です。(私にはこれが必要です)
 「バダギニイ」でお話しましたが、シンハラ文は文末の動詞を動かさなければ、ほかの句は前後の移動が可能です。
 ですから、この文は、
   meeka   maTa   oona ---- b
   これは   私に  必要です。
 ともなります。文型としてはこちらのほうが自然に流れていますから理解しやすいでしょう。
 ここでの主語は maTa です。meeka は主題であって主語ではない。maTaは与格をとる主語です。「シンハラ語の必要表現」が「与格名詞を主語とする」というルールが当てはまります。
 
 この論文は、シンハラ語のニパータを、かなりはっきりと意識して日本語の助詞と比較し、その対応の様相を事例豊かに細かに検討してます。ご一読をお勧めします。


TA格名詞の翻訳例
『伊豆の踊り子』(川端康成)の以下の会話文がシンハラ語に訳されるとき、TA格主語が使われています。訳はアーリヤ・ラージャカルナーによるもの。

原文
 「そうかねえ。この前連れていた
子がもうこんなになったのかい」 

シンハラ文

හැබෑට ම, මීට ඉස්සර එක්කර ගෙන ආපු පොඩි කෙල්ලට මෙච්චර ඉක්මනට මේ තරමට ම ලොක් වුණා ද?

そうかねえ。     この前         連れていた           子が        もうこんなに (速く、   こんなに) 
大きく なったのかい(?)

この文例の場合、日本語では主格主語(子が)が、シンハラ語では与格主語として扱われている。ここでは状態の形容を表す述語の「なる」」がTA格の主語を導いている。

*このq-a-27 は『かしゃぐら通信』khasyaReportからのコメントです。