スリランカ・フォーラム2000/11/11(スリランカ大使館)
日本語とシンハラ語の単語対応 
 「体を表す言葉の比較」   丹野冨雄     

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【内容抜粋】

 司会のディニルさんから紹介を受けた丹野です。ここへ来る前に、ディニルさんと喫茶店で話をしました。「今日はどんな話をしようか?」 二人で考えました。なるべく,身近な単語を較べることにしました。シンハラ語の身体を表す単語。日本語の体を表す単語。それらの二つを較べます。

 
 さて、どこから始めましょうか? 頭からか、足からか? 足の下ですか? はい、承知しました。足元から始めましょう。そして,段々に体の上に上がって行きましょう。

 この黒板の左側に、私が日本語のひらがなで身体を表す単語を書きます。ディニルさんには、黒板の右側に、シンハラ語でその単語を書いてもらいます。彼がその単語を書いたら、シンハラ語をで読んでもらいます。私も、例えば、平仮名で「あし」と書いたら「あし」と読みます。そうすれば、日本人にも、シンハラ人にも、それらの単語の実際の音が聞き取れます。日本語とシンハラ語の音をよく聞き取ってください。
 では、「足の下」から始めましょう。

       

あし と アディ
 先ほどは「足の下」から始める、と言いましたが、ここに書いたのは「あし」だけです。シンハラ語では「アディ」と言います。ディニルさんが書いたシンハラ語の2文字は「アディ」と読みます。
 これらの発音は、よく似ていますね。「足」と「アディ」です。でも、発音が少し違いますね。「あ」の音は同じです。でも、「し」と「ディ」が違います。意味も、少し違います。なぜならば、シンハラ語の「アディ」は、日本語で言う「足の下」を意味します。正しくは、「足の裏」という意味がシンハラ語のアディにはあるのです。日本語の「足」は、”腿から下・脚の全体”を指します。でも、シンハラ語の「アディ」は”踝から下の部分”を意味します。また、”足の裏”をも、意味するのです。足の全体はカクルと言います。日本語は、脚と、足首から先の部分を合わせて「足」と呼びます。しかし、シンハラ語では『足の下』を アディ と呼んでいるのです。先ほど、私は、「足の下」から始めてくださいと言われました。実は、その時、私は内心喜びました。それは、シンハラ語の「アディ」という単語が、日本語の「足の下」を意味しているからです。

 
 日本語に「踏み分け道」という言葉があります。これを、シンハラ語では「アディ・パーラ」と言います。「パーラpa:ra」は「道」のことです。「アディ」は”足の裏”ですから、「アディ・パーラ」は「足の裏で踏んで作った道」という意味が込められていることになります。日本語では、「踏み分け道」は「足で踏み固めた道」という解釈をします。ですが、シンハラ語では「足の裏で-」という正確な言い方をします。シンハラ語は、そうした几帳面な言語なのです。

  ひざ と ヒサ
 「足」から、すこし上に上がリましょう。「膝」という部分があります。「膝」はシンハラ語で「ダナヒサ」と言います。ディニルさんに発音していただきましょう。皆さん、聞き分けられますか。「ひざ」と「ダナヒサ」。ぜんぜん、似ていない? まぁ、慌てないでください。
 シンハラ語の「ダナヒサ」は、「ダナ」と「ヒサ」の二つの単語が結びついてできた言葉です。「ダナ」は外来語です。スリランカのシンハラ語で外来語と言った場合には、まず、パーリ語を思い浮かべてください。シンハラ語にはパーリ語の影響が沢山あります。この「ダナ」もパーリ語です。意味は「膝」です。「ダナ」の後に付いている「ヒサ」も「膝」を意味します。この「ヒサ」は、日本語の「膝」ととても似ています。そう思いませんか? これがシンハラ語としての「膝」なんです。ですから「ダナ・ヒサ」は「膝・膝」と言ってることになります。

 正確に言えば、「ヒサ」は「骨と骨とが接合する部分・グリグリした部分」を言います。この意味を日本語の「膝」にぴったりと合います。シンハラ語には「ウラヒサ」という単語もあります。「ウラ」は「肩」のことです。つまり、「ウラヒサ」は「肩の部分で、骨と骨が合わさる部分」という意味があるのです。これは肩先を意味します。でも、困ることに、肩先の間接を言い表す単語が日本語にはありません。これでは二つの単語を較べようがありません。
 「肘」という単語があります。これは「ヒサ」や「膝(ひざ)」に近い発音の単語です。「肘」はシンハラ語で「ワラミタ」と言います。これは日本語の「肘」とまったく似ていません。
 先ほど、「ウラヒサ」の「ウラ」は「肩」を意味すると私は言いました。シンハラ語では「カラ」「カンダ」という単語も「肩」を意味します。なんとなく似ています。


はら(腹) と バダ
 「腹」はシンハラ語で「バダ」と言います。聞いているとなんとなく似ています。しかし、シンハラ語の「バダ」は濁音です。この単語を覚えるには、「はら」を「ばら」と濁らせて言ってみることです。すると、シンハラ語の「バダ」に、より発音が似てきます。
 「はら」と「バダ」。似たような子音のHとBの後にAが並びます。ゆっくりと「ら」と「ダ」の音を、交互に発音してみるとわかるのですが、RとDを発音する時は、舌が上の口蓋に接触して、それから音を出しますね。口蓋に舌が付く時、舌の形が反るのがD音。反らないのがR音です。その違いが分かりますか。実は、D と Rには、それだけの違いしかないのです。

て と アタ
日本語の「手」は、昔、「た」と言いました。「て」とは発音しません。「手綱」の「た」、「手折る」の「た」。「手」は「た」と言ったのです。では、この「た」という音は「手」の古い単語でしょうか。はい、そうなのです。でも、それよりもっと古い形があります。「あた」という単語です。『古事記』に「八咫の鏡」という神器が出てきます。これは「やたのかがみ」と読むのではなくて、「やあたのかがみ」と読みます。『古事記』の編集者が注意書きで、そう言っています。ですから、「て」の古形は「た」、更に、その古形は「あた」ということになります。これは、シンハラ語の「アタ」と同じ発音です。『古事記』の頃までに歴史を遡ると、日本語の「手」はシンハラ語の「アタ」と同じ単語だったのです。
 古語辞典で「あた」を引くと、「あた」には「古代の長さの単位」と言う意味があります。親指と中指までの長さを「あた」という単位で呼びました。シンハラ語の「アタ」も、日本語の「手」と同じように、「手を広げた長さ」をも意味します。今でも、「アタ・デカイ」(手を広げた長さ・二つ分)などという言い方をします。「八咫(やあた)」は「手を広げた長さ・八つ分」という意味です。これはシンハラ語と同じなのです。でも、この言い回しは現代の日本語にはありませんから、言ってみれば、シンハラ語は日本語の古語で会話をしているということになるのです。

け(毛) と ケサ/ケス/ケー
 上半身を表す単語や顔の部分の単語のことをもっとお話したいのですが、時間か無くなってしまいました。申し訳ありませんが、それらの単語は『熱帯語の記憶』をお読みいただいてフォローしてください。では、頭の天辺に行きましょう。「熱帯語」の本で話した「頭・あたま」という単語のこともお話したいのですが、時間がありません。
 日本語の「毛」。これはシンハラ語で「ケサ」「ケス」ケー」と言います。ニ音節目が揺れて「サ」や「ス」となります。 sa , s という形です。一本の「毛」なら「ケサkesa」。纏めて何本もある時は「ケスkes」という単語になります。ニ音節目はこうして揺れます。でも、一音節目めの「ケ」は動きません。変わらないのです。この「ケス」というシンハラ語が日本語の「ケ」と結びつきます。ディニルさんが発音してくれる「ケス」の発音を聞けば、すぐに納得できると思います。
 日本語では「毛」を「け」と言うけれど、「毛」は「髪」とも言う。、そう思うかもしれません。そうです、「髪」という単語も「ヘアー」を表します。でも「髪」は頭の天辺にある「毛」だけを言います。「髪」は「上(かみ)」で「髪」の意味ではなかったのではないか。そういう推測ができます。ヘアーは、やはり、「け」なのです。

 身体の単語を較べてきました。どう思いますか。ディニルさんが話すシンハラ語の声と、私の日本語の声とがまったく同じだったり、あるいは、微妙に違ったりしていることに気付きましたか。
  一つだけ、追加します。今までお話したのは単語のことだけでした。でも、日本語とシンハラ語は文の並べ方、構文も同じなのです。特に、話し言葉の構文はまったく同じです。それは日本語の助詞-シンハラ語で言うところのニパータ-が同じであるということに大きな理由があります。文の作り方については、またの機会にお話させていただきます。

 今日、私がお話した単語の対応は体の単語だけです。この他にも、沢山の単語が日本語とシンハラ語では対応します。ですから、あなたがスリランカへ行ったときには簡単にシンハラ語が話せます。シンハラの方は、今、暮している日本で、日本人を相手にしてシンハラ語を試してみてください。日本人はその単語が理解できるはずです。日本とスリランカには、言葉の障害はありません。これらの二つの国の言語文化はとても近いのです。
 アジアの国々はとても近い関係にあるんです。でも、千年、二千年の歴史が経って、アジアの国々は互いに遠くなってしまった。言葉の歴史で考えると、千年なんて短い間の出来事なんですけど、私達は昨日や今日の出来事に捕らわれています。シンハラ語は、私たち日本人には馴染みが薄い言語です。それはシンハラ語を私たちが知らないからです。シンハラ語を知りましょう。アジアの言語文化を、もっと勉強しましょう。ありがとうございました。           (大意要約)