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小樽の光。 佐久間學
とは言っても、数では多いかもしれませんが、その演奏時間のトータルを比べると、ペッテションはかなり少なくなります。なんせ、彼の交響曲は、ほとんどが1つの楽章で出来ていて、最も長いものでもせいぜい1時間、短いものになると、最後の未完に終わった17番などは、補完、修復されて演奏もされていますが、たった7分しかかかりませんからね。 その交響曲を全曲録音した指揮者は、今のところ誰もいないようです。このSACDでの指揮者、リンドベリがその中では最もたくさんの曲を録音しているようです。というか、このオーケストラ、ノールショピング交響楽団が、レイフ・セーゲルスタムの指揮によってやはりこのBISレーベルに1992年から1997年までの間に6曲の交響曲を録音して、その後を引き受けるという形で、同じオーケストラがリンドベリの指揮によって2010年から残りの交響曲の録音を進め、今回の「12番」で全交響曲を録音した、ということになるようですね。ただ、どうやらリンドベリは、セーゲルスタムが録音していたものも自分で改めて録音しようとしているのでしょう。実際、「交響曲第7番」だけは、すでに両方の指揮者の録音が残っています。 今回の「12番」は、ペッテションの他の交響曲とは編成が大きく異なっています。この曲にだけ、オーケストラの他に混声合唱が加わっているのですよね。そもそもこの作曲家は交響曲の他には協奏曲や室内楽も作っているのですが、声楽曲はほとんど作ってはいません。この前に作ったものとしては、30年ほど前に作った歌曲があるだけなのだそうです。 この交響曲は、ウプサラ大学の創立500周年(!)のために委嘱されました。ペッテシェンは、以前は「自らの主体性を奪われる」という理由で、一切の委嘱を拒んでいたのですが、この頃には考えが変わってきたようですね。 彼が、ここで選んだテキストは、1971年にノーベル文学賞を受賞したチリの詩人で反体制の運動家、パブロ・ネルーダの長大な作品「大いなる歌(Canto general)」からとられています。この詩集は、15世紀から現代までの南アメリカの歴史をつづった大作ですが、ペッテシェンは、その中の5番目の「裏切られた砂」という詩集の3番目、「広場の死者(1946年1月28日、サンティアゴ、チリ)」というタイトルの詩から始まる9つの詩のセクションをそのまま使いました。 そのタイトルは、 1「広場の死者(1946年1月28日、サンティアゴ、チリ)」ここでは、楽章は一つしかありませんが、それぞれのテキストが始まる前に区切りが設けられています。楽譜にはそこに小節番号が付いているのがユニークですね。他の交響曲でも、そんな風に小節番号、あるいは練習番号の前後が切れ目として表示されています。 曲全体は、なにかラテン・アメリカを思わせるような、軽やかなシンコペーションのリズムに支配されています。そして、注目すべきは、ほぼ1時間の間、ほとんどテンポが変わらない、ということでしょうか。その間に、この9つの詩が合唱によって歌われます。それは、まるでコラールのようなシンプルなメロディの歌です。それが淡々と流れる中で、バックのオーケストラはそれとは全く無関係な不気味な音楽を奏でています。そのことによって、作曲家がこの30年ほど前の事件を描いたテキストから、このミニマル風の曲調によって何を伝えたかったのかは明白なのではないでしょうか。 SACD Artwork © BIS Records AB |
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ただ、このオペラの中で演奏される6つの前奏曲のうちの4つをまとめた「4つの海の間奏曲」だけは、聴いたこともありますし実際に演奏したこともありました。とは言っても、それはやたら難しいだけで、苦労をして演奏してもなにか報われないような思いが残った体験でしたね。 しかし、ここで最新の録音がサラウンドで聴けるハイブリッドSACDによってこのオペラが録音されたということになると、事情は変わってきます。ここはひとつ、その最高のスペックで聴きなおすことによって、この作品とお近づきになれるかもしれないという期待をもって、聴いてみることにしました。 とりあえず、タイトル・ロールはお気に入りのテノール、スチュアート・スケルトンですから期待はできます。さらに、合唱団の陣容がちょっとすごいことになっていました。ここでは4つの合唱団が参加しているのですが、ベルゲン・フィルハーモニー合唱団以外の3つの団体はこちらのベルリオーズの「レクイエム」を今回と同じ指揮者とオーケストラで歌っていた合唱団です。合唱指揮者もその時と同じ人、これもやはり期待大です。 予想通り、まず、それはとても素晴らしい録音でした。オーケストラの音はあくまでクリアで、曇りが全くありません。そして合唱も、ハイレゾならではの瑞々しさ、ソリストも細かいニュアンスから、力強いトーンまで余すところなく伝わってきます。さらに、サラウンドならではの音場も、しっかり前後までの広がりも含めて味わうことができます。 なんでも、この録音は、ツアーで各地をまわって確固たる演奏に仕上がったものを、そのライブではなく、改めてセッションを設定して行われていますから、マイクアレンジは何の制約もなく的確に設定出来ていたはずです。その結果、これはオペラの録音としては理想的なものに仕上がっているのではないでしょうか。 それだけのバックボーンの中で味わうこのブリテンのオペラは、やはり今までの偏見を見事に覆す、とても魅力的なものでした。おそらく、この作品はこれまでの「オペラ」というフォルムにはめ込むということは一切せず、台本が示す心情や背景をあくまで音楽的に的確な技法で語らせる、という手法をとっているからでしょう。言葉が英語ということもあって、リブレットを見ながら聴いていると、まるでミュージカルのように聴こえるところが頻繁に表れてきます。ちょっと楽天的なテイストのそのような個所は、「群衆」たちのバックで良く聴かれます。それとは対照的に、孤立無援の存在となったタイトル・ロールの音楽は、これまでの音楽劇では聴いたことのないようなシンプルで不気味なものになっています。 スケルトンの声は、まさにそんな音楽にこそふさわしいものでした。か細いファルセットで歌われるところから、あくまで抑制されたフル・ヴァイスまで、まさに変幻自在でこの役の儚さを見事に表現しています。 その相手役のエレンを歌うエリン・ウォールは、かなりドラマティック。もしかしたら、これは最終的には「群衆」に与する彼女を表しているのかな、などと考えてしまいました。 そして、合唱の圧倒的な表現力。これだけのメンバーが集まればそれは必然でしょう。これからオペラの映像を見直すことになるのでしょうが、これ以上の合唱が聴けるかどうかは疑問です。 SACD Artwork © Chandos Records Ltd |
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彼は、マーラーとも親交があって、彼の「交響曲第2番」を、やはりピアノ2台のために編曲していることはかなり知られているようです。しかし、ワーグナーの編曲に関しては、それほどの知名度はないようですね。 そもそも、この録音はここでピアノを弾いているコルト・ガルベンが、たまたま古本屋でその楽譜を見つけて存在を知ったのだそうですからね。それは、ワーグナーの多くのオペラからの一部分を1914年から1917年にかけてピアノ2台のために全部で50曲も編曲したという楽譜集でした(ブライトコプフ&ヘルテルから出版されています)。そんな膨大な仕事はとてもヘルマン一人ではできないはずですが、彼はその前に出版(やはりブライトコプフ&ヘルテル)されていたリヒャルト・クラインミヒェルという人が作ったピアノ・リダクションを元に、作業を進めていたそうです。 その中の「トリスタン」は1917年に作られ、全部で7曲が集められています。それが、ここでは演奏されています。 このガルベンという人は、とても熱心に勉強をする(それは「ガリ勉」)ピアニストで指揮者ですが、だいぶ前にこちらでご紹介した「ダイジェスト版『指環』」を作った人として記憶にありました。あの、上演には4日かかるワーグナーの「ニーベルンクの指環」を、たった1日で(それでも6時間半かかります)演奏できるように、原曲を切り詰めた人ですね。あの映像のメイキングで、彼自身がピアノを弾きながらその作業を行っているシーンがありましたが、それは鬼気迫るものだったような印象があります。 そして、ここでもう1台のピアノを弾いているのが、クリスティアーネ・ベーンというピアニストです。名前からも分かるように、この編曲を行ったヘルマン・ベーンの親族、正確には、ヘルマンのいとこの曾孫なのだそうです。 さらに、その「いとこ」はラファエル・ベーンというのですが、この編曲はヘルマンとこのラファエルによって仲間内(マーラーなども)で初演されたのだそうです。もう一点、その時に2人が使ったピアノはそれぞれの持ち物だったのですが、それを現在ではクリスティアーネが所有していて、その楽器がこの録音で使われているのだそうです。いずれも1912年に作られたスタインウェイです。 ![]() この編曲で取り上げられているのが、第1幕から前奏曲と第5場の媚薬を飲むシーン、第2幕から第1場の待ち合わせのシーンと、第2場の「愛の夜」のシーン、そして第3幕から前奏曲とそれに続く第1場、同じ場のトリスタンの「心眼」のシーン、そして第3場、最後の「イゾルデの愛の死」です。 まずは、前奏曲の、例の「トリスタン和音」がこのアンティークなスタインウェイの鄙びた音色によって聴こえてきたときには、オーケストラの響きとは全く異なる景色が眼前に広がりました。なんと言うか、ワーグナー自身がピアノに向かってこの曲を作っている姿が浮かんできたのです。これは、現代の大きなスタインウェイでは感じることはできないのではないでしょうか。 その後のシーンは、当然歌のパートもピアノで弾かれますから、その言葉の意味が直接聴こえることはありませんが、逆に、オペラを聴いていた時には歌手の声しか耳に入ってこなかったものが、ここではまわりのパートがすべて聴こえてきます。その中の様々なライトモティーフたちによって、歌詞なんかなくてもその情感はしっかり伝わってくるのですよ。これは、もしかしたら、盛りを過ぎた巨漢のソプラノが歌うイゾルデよりも、よっぽどワーグナーの思いが伝わる演奏だったのではないでしょうか。 CD Artwork © Klassik Center |
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現在の彼のポストは、「IMANI Winds(イマニ・ウィンズ)」という木管五重奏団のフルートのメンバーです。このアンサンブルは1997年に創設され、2006年にはKOCHレーベルからリリースされた「The Classical Underground」というアルバムがグラミー賞にノミネートされたことがあります。今にグラミーを受賞するかもしれませんね。 今回のアルバムは、2017年と2018年に散発的に録音された4つの作品を集めたものです。そのラインナップを見てみると、18世紀前半のバッハの「パルティータ」から20世紀末のアホの「ソロIII」まで、足掛け3世紀のスパンで作られたものが並べられています。その間には、プロコフィエフとブーレーズの作品が入ります。それで、ここでは「過去と未来との対話」というコンセプトが掲げられています。あるいは、「俺はどんな時代の音楽でも吹けるんだ」というデモンストレーションでしょうか。 演奏順に聴いていきましょう。まずはバッハの無伴奏フルートのための「パルティータ」です。これはもう、フルート奏者としては、丸裸になるわけですからかなり恐ろしい曲です。しかし、ジョージさんは、堂々たる押し出しで、自らのとても美しい音を聴かせてくれています。それは、低音から高音までむらなく磨き抜かれた、素晴らしい音です。そんな音を駆使して、とてもなめらかなバッハが作られています。この曲にはリピートされる個所がたくさんありますが、その繰り返しの時にはとても自由な(もしかしたら奔放な)装飾が施されています。それは、聴いていて心から楽しくなれるバッハです。 ただ、とても残念なことに、タンギングの時の息が、もろにノイズとしてマイクに拾われてしまっています。これはエンジニアの痛恨のミスでしょう。 その次に演奏されているのが、ピエール・ブーレーズが1946年に作ったフルートとピアノのための「ソナチネ」です。正直、この作品に関してはどのように演奏するのがあるべき姿なのかは、分かりません。しかし、ここでのジョージは、楽譜の指示に非常に忠実に演奏しているような気がします。曖昧なところが一切ないのですね。もちろん、それができるだけのテクニックの裏付けがあるということです。難しい音符と必死になった格闘している、ということがないのですよ。そうすると、難解だと思われていたこの曲から、時間の経過によってさまざまな情感が浮かび上がってくるのを感じることができます。 その次が、最も近い時代のカレヴィ・アホの1991年の無伴奏フルートのための「ソロIII」です。この曲は、技法的にはブーレーズよりもシンプルになっているのは、この間の「現代音楽」の変遷が如実に表れているためです。2つの楽章からできていますが、第1楽章では、ゆっくりとしたテンポで、ひたすらエンドレスにメロディが流れていきます。そこで使われているのが「四分音」です。つまり、半音の半分の音程まで使ってのメロディです。もちろん、普通のフルートではそんな細かい音は出ませんから、あらゆる策を講じてその1/4音のピッチを作り出さなければいけません。そんな「努力」の跡がちょっと見られるのが惜しいところですが、その結果ほとんどグリッサンドのような音の移り方が味わえることになります。 第2楽章では、その反対に忙しく動き回るたくさんの音を操らなければいけません。 そして、最後には、プロコフィエフの「ソナタ」です。この中では、もっとも「普通」なレパートリーで、これまで多くの演奏を聴く機会もありましたが、今回はどうもパッとしない仕上がりになっています。演奏が、あまりに薄味なんですよね。この曲には、もっとエネルギーが感じられる演奏の方が、好きです。 CD Artwork © Profil Medien GmbH |
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そんな環境で、このヘルシンキ室内合唱団という初めて耳にする団体の録音を聴いてみましょう。この合唱団は1962年に創設されたという歴史を誇っていますが、その当時は「フィンランド放送室内合唱団」という名前でした。おそらく、放送局がバックに付いていたのでしょう。それが、2005年には今の名前に変わっています。そして、2007年から、ここで指揮をしているニルス・シュヴェケンディークという、合唱だけではなくオペラの指揮も幅広く行っている指揮者が芸術監督を務めています。 今回のアルバムではアレックス・フリーマンという、1972年にアメリカに生まれて、のちにフィンランドに帰化した作曲家(コーラス・シンガーでもあります)による無伴奏の合唱曲が2曲演奏されていますが、いずれもこの合唱団と指揮者によって委嘱され、初演が行われている曲です。 この録音は、期待にたがわず素晴らしいものでした。スピーカーたちの間に合唱団の音像がくっきりと拡がるサラウンド感の中で、合唱団の一人一人の声がとても生々しく聴こえてきます。それは、とても潤いのある、まるでもぎたての果実のような瑞々しい音で迫ります。それぞれの曲の録音時と、その時のエンジニアは別の人ですが、そのポリシーはしっかり保たれていて違いを感じることはできません。 ただ、もう、この水準になると不満などは全く感じられないのですが、あの2LレーベルのBD-Aと比べてしまうと、若干クリアさが欠けているという気がしないでもありません。でも、それはそれで、独特のポリシーいうことで受け止められます。 タイトルとなっている「Under the Arching Heavens: A Requiem」は、フィンランド内戦(1918/1/27/-5/15)の100年後となる2018年に、この戦争の犠牲者に捧げる文字通り「レクイエム」として作られました。ここでフリーマンは、通常の「レクイエム」の典礼文を全て使うとともに、そこにさらにフィンランド、イギリス、アメリカの詩人の作品を挿入しています。そういうのが、現代の「レクイエム」なんですね。 特徴的なのは、長大な「Dies irae」を3つの部分に分け、その間に現代詩を挟み込んだという手法です。もともとかなり描写的でダイナミックなこの典礼文を、それぞれの節で様々な表現で歌わせるとともに、その間の現代詩によってちょっと変わったテイストを盛り込む、といったところでしょうか。 この曲の中では、かなりの頻度でソロの出番がありますが、それはもちろん、この合唱団のメンバーによって歌われています。そのソリストたちの声は、いずれもとても立派なもので、そもそもソリストとして十分なスキルをもった人たちがこの合唱団のメンバーとして集まっていることが如実に分かります。ただ、普通の合唱団だと、トゥッティになった時にはある程度ビブラートなどは抑制して、アンサンブルに溶け込むような歌い方に変えるものなのですが、ここではそんなチマチマしたことはやっていません。人数的にも、4パートで15人しかいませんから、それぞれのメンバーの個性ははっきり聴こえてきます。 そんな合唱団なのに、いや、そんな合唱団だからこそ、微妙に異なる音楽性が一つのものにまとまった時の、とてつもないエネルギーのようなものがビンビン発散されているのが感じられます。 もう一つの、2016年に作られた「A Wilderness of Sea」という、シェイクスピアの「テンペスト」やソネットをテキストにした作品も、聴きごたえがありました。 SACD Artwork © BIS Records AB |
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しかし、今回の彼らの新譜は、NAXOSからリリースされていました。録音スタッフは、プレヴェン・イワンですから、製作はDACAPOが行ったのでしょうが、商品としてはNAXOSになってしまいました。そもそも、DACAPOの品番の付け方はNAXOSと同じですし、ディストリビューションもNAXOSが行っているので、まあ「総代理店」みたいな感じなのでしょう。とりあえず、ジャケットのセンスにNAXOSのダサさが全くなかったので、許しましょう。 いや、ジャケットだけではなく、アルバムのタイトルもとてもNAXOSとは思えないようなハイレベルなものでした。なにしろ「... and ...」ですからね。おそらく、これはまず、ここで最後に演奏されているペルトの「And I heard a voice…」からとっているのでしょうが、それ以外の意味もありそうな気がします。 つまり、ここではそのペルトや、もう2人の現代作曲家の作品とともに、13世紀ごろに編纂されたという、イタリア、トスカーナ地方のコルトーナという丘の上の町に伝わるラウダ集に収められている曲が演奏されているからです。「現代音楽 and 中世のラウダ」ですね。「ラウダ」というのは砂漠の生き物ではなく(それは「ラクダ」)、中世イタリアの讃美歌のことです。これには決まった形があり、最初に歌われる節が何度も繰り返され、その間に別の節が入れ代わり立ち代わり歌われるというものです。歌詞は昔のイタリア語で、きれいな韻を踏んでいますが、作者も、そして作曲家も分かってはいません。 まずは、ペルトの「露払い」的な扱いで、アメリカの2人の女性作曲家の曲が歌われます。1982年生まれのキャロリン・ショウの「and the swallow」(これも「and」だ!)は、とても穏やかで美しい曲です。ひたすら流れるようなメロディと、それを彩るハーモニーが、この卓越した合唱団によって最高の響きで聴くことができます。もちろん、エンジニアのイワンも、その美しさを余すところなく伝えてくれています。 1958年生まれのジュリア・ウルフの「Guard my tongue」の場合は、もう少し尖がった、いかにもかつての「前衛音楽」の洗礼を受けたようなモードで始まります。しかし、しだいにその音楽は親しみのあるものへと変わっていき、最後の方ではきっちり短三和音と長三和音を繰り返して見せてくれたりしています。 その間に挟まったラウダは、とてもエネルギーにあふれていました。繰り返される最初の節が、そのたびに微妙に形を変えて現れるのも、意外性があります。中には悲しい曲もあるのですが、それは現代人にも通用するような情感として伝わってきます。そんな、様々なラウダが全部で6曲歌われています。 ペルトの作品も6曲です。それぞれ、ごく最近作られたものばかり、先ほどの「And I heard a voice…」はこの合唱団の委嘱で作られていて、これが初録音です。 いずれも初めて聴いた曲ですが、以前はちょっと理屈を前面に出して素直ではなかったものが、ここではもろに本心をさらけ出している、という感じがしました。もうどこをとっても純粋にロマンティックな曲ばかりです。この間の本ではありませんが、「調性」はしぶとく生き残っていたのです。 そういう作品と中世のラウダを並べて聴かせる、というのが、ヒリアーの狙いだったのでしょう。しかし、そこには一つ落とし穴があります。ここでのラウダは、まさに「現代」の歌い方で歌われています。さらに、元の楽譜を、「現代風」にリアライズして歌っているのでしょう。おそらく、かつてのラウダは、こんなスマートに洗練されたものではなかったはずです。 まあ、でも、そんな「小芝居」に騙された振りをして、「音楽は、現代も、中世も、結局おなじなんだな〜」という感慨にふけってみてください。 CD Artwork © Naxos Rights(Europe)Ltd |
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「無調」という言葉は、確かに「現代音楽」を語る時には欠くべからざるタームであったことは間違いありません。要は、シェーンベルクたちによって理論的に考案された「12音音楽」、あるいはそこから派生した「セリー・アンテグラル」などの音楽全般とほぼ同じ意味を持つ言葉である、と一般的には思われているのではないでしょうか。誤解を恐れずに言えば、それは、感覚的にはとても不自然で、一度聴いただけでは決して「楽しめる」ことは出来ない音楽です。 つまり、「無調(アトーナル)」というのは、それまでの、美しいメロディとハーモニーを持つ「調性(トーナル)」の対義語として使われていた、とーなるのですね。現在、この世で聴くことのできるポップスを含めて大多数の音楽が、この「調性音楽」です。 さらに、歴史的には、その「調性音楽」の前に「旋法音楽(モーダル・ミュージック)」というものがありました。これらを含めて、音楽は「旋法」→「調性」→「無調」という「発展」を遂げてきた、というメッセージが、その「無調」の担い手からは発せられていたのでしょう。 ところが、現実的には、その最も発展したとされる「無調音楽」は、確かに作曲家の間では派手にもてはやされ、多くの作品が世に出ましたが、それがこれまでの「調性音楽」に取って代わられることはありませんでした。というか、現在の「無調音楽」には以前ほどの勢いはすでになく、新たな「調性音楽」の時代が始まりつつあるとさえ言われています。実を言えば、「調性音楽」の前の「旋法音楽」にしても、決して絶滅したわけではなく、例えばジャズの世界では大手を振って生き延びていますからね。 というのが、おそらく世の中で普通に感じられている「音楽」の在り方なのではないでしょうか。そんな中で書かれたこの本では、そもそも「無調」という言葉、あるいは「無調音楽」などというのは存在してはいなかったのではないか、という大胆な仮説をたて、それを300ページにもわたって実証しているのです。 それは、12音によって作られたこの技法の始祖シェーンベルクの作品を検証すると、その中には確かに「調性」が認められる、という実例を示されることによって、確実なものとして理解できます。まさに目から鱗が落ちる思い、ですね。結局のところ、「『無調』も『調性』の中の一つのカテゴリー」だというところで、みんなが納得することになるのでしょう。 さらに、著者は有名無名の「現代音楽」の作曲家たちの、膨大な作品を俎上に載せて、それぞれの技法を分析していきます。これは、まさに「現代音楽」を俯瞰する壮大なアンソロジーに他なりません。それだけの広がりを持った「現代音楽」の中では、もはや「無調」などというあいまいな言葉では、何も語ることはできないことを強烈に感じさせられることは、もはや必然でしかありません。 もちろん、ここではドビュッシーやバルトークあたりも登場します。さらに、シュトックハウゼン、リゲティ、ペンデレツキなどというスターたちの音楽も語られます。ペンデレツキの最初期の作品が、しっかり「調性」の枠中に入っている、という指摘が面白いですね。でも、なぜクセナキスは取り上げられなかったのでしょう。 この中の第6章で紹介されている、ジュリアン・ロイド・ウェッバーの「メロディのない前衛音楽...が、クラシック音楽を不人気にし、その衰退を招いた。...この狂気の40年の結果として、これから傑作と呼べる作品が出てくるまでには長い年月がかかるだろう」という1998年のスピーチは、とても興味深いものです(こちらで現物が読めます)。 Book Artwork © Ongaku no Tomo Sha Corp. |
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それは、すでに第11巻で完成されていたのですが、今回は最後を締めくくるという意味で、その「関連作品」がまとめられています。このアルバムのサブタイトルは「フランツ・ドップラーの同時代の作曲家によって作られた、彼に捧げられた作品と、彼のオペラの主題によって作られた作品」というものですから、それがこの内容を端的に表しています。 そう、フランツ・ドップラー(兄)は、オペラも作っていたのですよ。なにしろ、今でこそフルートの華麗な作品を作ったフルーティスト兼作曲家、ぐらいのイメージしかないドップラーたちですが、彼らはオペラには非常に関係のある生涯を送っていたのですね。そもそも、フランツの最初の音楽のかかわりというのがオペラだったのですからね。 彼の父親のヨゼフは、オーストリア帝国の北東部の端にあるレンベルクというところで軍楽隊のバンドマスターを務めていましたが、ポーランドの国立劇場のオーケストラの首席オーボエ奏者(彼は、全ての弦楽器と木管楽器の演奏が出来ました)に就任したために、一家でワルシャワへ引っ越します。その劇場で、フランツは児童合唱のメンバーとしてオペラ・デビューを果たしたのです。 その時の指揮者が彼の音楽的な才能を見抜き、父親にぜひきちんとした教育を受けさせるように進言し、そこでフランツは8歳の時初めての楽器、E♭管のフルートを手にするのでした。それを7ヶ月練習しただけで、彼はその劇場のオーケストラをバックに、オペラの幕間に変奏曲を演奏できるようになっていたのだそうです。そして、13歳の時(1834年)には、ウィーンの楽友協会でソロ・リサイタルを開きました。 その後、ドップラー一家はブカレストに移ります。そこのオペラハウスでは、父親は首席ファゴット奏者、フランツは首席フルート奏者、弟のカールは2番フルート奏者、そして姉のエリザベートは歌手としての職を得ました。 さらに数年後は、ハンガリーのペストの王立劇場に、やはり一家で移ります。そのころから、この兄弟は指揮と作曲の勉強を始めます。後にフランツは、王立劇場から国立劇場に首席フルート奏者として移籍しますが、そこのカペルマイスターのフランツ・エルケルに勧められて、最初のオペラを上演します。フランツは全部で5曲のオペラを作りますが、いずれも現在は忘れ去られています。その頃、父親のように軍楽隊のバンドマスターだったカールは、エルケルの元で副指揮者を務めるようになります。 この頃から、毎年のドップラー兄弟のコンサート・ツアーが始まります。それはヨーロッパ中だけではなく、トルコにまで及びました。時にはフランツ・リストなども同行したのですが、その時の縁で後日フランツは「ハンガリー狂詩曲」のオーケストレーションを頼まれることにもなるのです。 やがて、フランツはウィーンのホーフオーパー(シュターツオーパーの前身)から首席フルート奏者と、バレエの指揮者のオファーを受けます。さらに、1865年にはウィーン音楽院の教授にも就任します。 カールの方は、1862年から3年間ホーフオーパーの指揮をした後、シュトゥットガルトのオペラハウスの音楽監督を30年間務めることになりました。 ということで、この兄弟は当時の大スターだったわけですね。そんなステータスの中で生まれたこれらの作品からは、そんなカール達へのリスペクト(ハンス・フォン・ビューローが作った曲までありますよ)があふれ出しているはずなのですが、例によってここでのアリマニーの情けない演奏からは、それが十分に伝わることはありまにー。 CD Artwork © Capriccio |
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その真ん中に位置するラトヴィアの場合だと、指揮者ではヤンソンス親子やアンドリス・ネルソンスが有名ですね。歌手では、エリーナ・ガランチャでしょうか。そんな国を代表する合唱団、ラトヴィア放送合唱団が、ブルックナーのモテットを録音してくれました。 ブルックナーはなんと言っても大規模な交響曲が頻繁に演奏されていますが、彼が若いころに折に触れて作ったモテットも、最近ではよく演奏されるようになっていて、CDもかなりのものがリリースされるようになりました。そのあたりの詳細は、こちらのページでご覧になってみて下さい。 2020年の3月にリガの大聖堂で録音されたこのCDは、これまで数多く聴いてきた演奏の中でもひときわ素晴らしいものに仕上がっていました。まずはそのサウンドが魅力的。いかにも大聖堂の中らしいたっぷりとした残響の中で、この合唱団の卓越したソノリテはより増幅されて、とても美しく響き渡っています。 そして、その表現力の細やかなこと。ここで演奏されているモテットなどは、言ってみればブルックナーの修業時代の産物ですから、技法的にはそれほど複雑なものは目指してはいなかったのでしょうから、これまでは、例えば少年合唱のような無垢な味を前面に出したものが多かったような気がします。実際、それらはとても美しくは聴こえてくるのですが、それだけで終わっていたようなものがなかったわけではありません。しかし、今回は全く違います。一見シンプルな音楽の中から、彼らは本気になってブルックナーの「心」を探し出して、それを実際に聴こえる形にして伝えてくれていたのです。例えば、もっとも有名な7声の「アヴェ・マリア」(XXI-20/WAB 6)だとこんな感じです。まずは女声3部で「Ave Maria」と、とてもやわらかい響きで始まります。それはもうそれだけで感動してしまうほどの美しさです。そのフレーズの最後の和音の中に、今度は男声4部がその響きをそのまま受け取って、「et benedictus」と、女声と全く同じテイストで歌い出します。その後に訪れる「Jesus」という3回のアコードの高まり、それは、まさに天に向かっての神々しい呼び声のように聴こえます。 そんな風にして、今まで聴きなれた数々のモテットが、ワンランク上がったものとして味わうことができました。 しかし、このアルバムの魅力は、それだけではありませんでした。ここには、今までほとんど聴いたことがなかったような曲もたくさん含まれていたのです。その最たるものが、先ほどのリンクにあったノヴァーク版の楽譜では巻末に「断片やスケッチ」ということで掲載されている「『グローリア』と『クレド』を欠くミサ」、いわゆる「クローンシュトルフ・ミサ」(XXI-41/WAB 146)です。これは、1843年から1844年にかけて、当時教師として赴任したクローンシュトルフという村で作ったミサですが、楽譜には空白のページが残されているので、未完に終わった作品なのでしょう。そんなレアなものを、ここで初めて聴くことができました。そして、そんな曲ですから大したものではないだろうという先入観は見事に消え去ります。最後の「Agnus Dei」などは、さりげなく転調を繰り返して、聴きごたえがあります。 ただ、そんな曲を紹介するべきブックレットで、かなりの間違いが見受けられるのは困ったことです。まず、曲名で「Libera me (F minor) (WAB 21)」とあるのは、「F major」の間違いです。WAB22がヘ短調なんですよ。いずれもほとんど録音はありません。それと、交響曲のように「第2稿」も作られたモテットもあるのですが、ここで使われているWABではそれは区別されていません。ここはきちんと、ノヴァーク版の番号を使ってほしかったですね。 CD Artwork © Ondine Oy |
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ヴィラ=ロボスは、1923年から7年間のパリでの活躍の後、1930年にはブラジルに戻り、1932年からは、政府の教育改革の一環で、音楽教育の改革を推し進めるという任務を与えられます。これは1936年まで続き、この間は、彼は作曲活動を一時中断して、この任務に没頭しました。 この間に、音楽教師たちの合唱団のために作られたのが、ここで歌われている編曲集です。有名なクラシックの曲を、混声6部(Sop, MS, Alt, Ten, Bar, Bas)のそれぞれのパートが、さらにディヴィジで細かく分かれるという多声部の合唱のために作られています。そのオリジナルの作曲家は、ヘンデルからラフマニノフまでに及ぶ多彩な面々ですが、その中でも最も多くの曲が用いられているのはバッハです。彼はバッハの「平均律クラヴィーア曲集」の1巻と2巻から、3つのプレリュードと4つのフーガを編曲しています。そして、それらは、すべてこのCDに収録されています。それらの曲の合間に、メンデルスゾーン、シューマン、シューベルト、ショパン、ラフマニノフ、マスネ、ベートーヴェンの曲が挟まれる、というセットリストです。 バッハのクラヴィーア(鍵盤楽器)の曲を合唱に編曲、ということですぐに思い出すのが「スウィングル・シンガーズ」なのではないでしょうか。彼らがジャズ・コーラスにアレンジされたバッハの作品の数々を世に問うてセンセーションを巻き起こしたのは1962年でしたが、そんなアイディアを実現させたのは、決してスウィングルが最初ではなかったのですね。もちろん、そんなことは彼らは知る由もなかったはずです。 バッハの曲は、もちろん歌詞はありませんからここでは合唱はヴォカリーズで歌っています。ただ、フーガなどの場合はそれぞれのパートが微妙に母音を変えて歌っていますから、ポリフォニーのラインがくっきり伝わってきます。そして、ついにスウィングルと同じ「ダバダバ」で歌っている曲の登場です。それは1巻の21番、変ロ長調のフーガです。そういえば、ヴィラ=ロボスは若いころはジャズバンドで演奏していたそうですね。 シューベルトの「セレナーデ」と、マスネの「エレジー」では、オリジナル通りに歌詞が入りますが、それがしっかりポルトガル語に訳されています。それだけで、ボサ・ノヴァ風のテイストが感じられますね。 編曲は、基本的にオリジナルの音符を合唱のパートに振り分けるという形ですが、ラフマニノフの前奏曲「鐘」などは、原曲にはないグリッサンドなどを使って、不思議な効果を上げています。ただ、ベートーヴェンの「悲愴」ソナタの第2楽章では、あの美しいメロディを形作るハーモニーが合唱によってとても美しく広がっているのですが、中間部以降がカットされていたのがとても残念です。 最後に収録されているのが、そんな「合唱によるオーケストラ」で培ったノウハウを動員してその10年後に作られた「ブラジル風バッハ第9番」です。この曲は弦楽合奏による形が一般的ですが、このア・カペラのバージョンも作られていました。ただ、作曲家の生前には演奏されなかったので、とてもレアなものとなっています。バッハの曲によくある「前奏曲」と「フーガ」で出来ていますが、「前奏曲」での厚ぼったい多声部のコーラスの響きは、あのクリトゥス・ゴットヴァルトを思わせるものです。そして「フーガ」では、まるでジャズのようなシンコペーションを持つ11拍子(5拍子+6拍子)のテーマが素敵です。 ヴィラ=ロボスの知られざる一面が明らかになった、素晴らしいアルバムです。これを契機に、ステージで取り上げる合唱団が出てくると、うれしいですね。 CD Artwork © Naxos Rights(Europe) Ltd |
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おとといのおやぢに会える、か。
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