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高校残念生。 佐久間學
まず、この曲の場合どんな楽譜を使うのか、という点が気になります。最近の録音では、かなりの頻度でベーレンライター版が使われるようになっていて、ほとんどスタンダードとなっているように感じられます。考えてみれば、この原典版がセンセーショナルにデビューしたのは1996年の事でしたから、もうすでに四半世紀も前のことになっているのですね。ですから、校訂者のジョナサン・デル・マーも、刊行当時は「気鋭の若手」という感じのイケメンでしたが、最近の写真を見るとかなりの「お爺さん」になっていたので、愕然としました。まあ、そのぐらいの年月がすでに経っている、ということなのですね。 ただ、最近の傾向として、表向きはベーレンライター版を使っているようなのに、そこで新たに取り入れられたこれまでの楽譜との相違点に、あえて従わないで演奏する、というケースも多くなっているようですね。 ここでのホーネックの場合も、おそらくベーレンライター版を使っているのではないか、という気がします。その、あまりあてにならない根拠は、終楽章の767小節目から入ってくる四重唱の歌詞です。この演奏では、まず男声が「Tochter, Tochter aus Elysium!」と歌った後、女声が「Freude, Tochter aus Elysium!」と歌い、その先ではすべてのパートが「Freude, Tochter aus Elysium!」と歌うという、ベーレンライター版だけのパターンになっているからです。そして、同じ楽章の有名なホルンの不規則なシンコペーションもそのまま演奏されています(ここは、意図的に小さく演奏されているので、ほとんど気づきません)。 ただ、最初に「歓喜の歌」のテーマが出てくるところのファゴットのオブリガートのリズムの違い、あるいは第1楽章81小節目の木管の最後の音が3度高いことなど、ベーレンライター版ならではの「変な」ところは、「まともな」形に変わっています。もちろん、終楽章の「vor Gott」のフェルマータでのオーケストラのディミヌエンドもありませんから、ブライトコプフ新版でもあり得ません。 演奏自体は、とてもアグレッシブな上に繊細というものでした。テンポはかなり速めで、第1楽章などは展開部あたりでさらにシフトアップしています。それでも、フレーズの歌わせ方はとても丁寧で、切れ目の前にディミヌエンドを付けて収めるというやり方が徹底されています。第2楽章も超高速、トリオなどはそのめちゃぶりにしっかりオーボエ・ソロは付いていけているのはさすがです。第3楽章もテンポは速くても、しっかり歌っています。 そして、終楽章、低弦のレシタティーヴォは表情がとても豊かで、しなやかさがあります。しばらくしてバリトンのソロが入ってくると、その、あまりの音痴さにたじろいでしまいます。同時に、その音場がかなり遠くに聴こえて、まるでオフステージで歌っているような感じがしてしまいます。 ![]() 合唱は、ブックレットのメンバー表では150人以上いますが、そんな大人数とは思えないほど声が揃っています。そんな、きっちりと訓練された声で、この曲にありがちなおおざっぱなところは全然なく、とても細かい表情が徹底されています。特に、スタカートが大袈裟なほど強調されていますね。「Seid umschlungen」からは本当に見事です。 サウンドは、金管が強調されてとても華やかです。サラウンドではそんな豊穣さがたっぷり味わえます。 SACD Artwork © Reference Recordings |
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今回、クレジットの面で以前と変わっていたのは、プロデューサーやソングライターとして、マシュー・コーマとダニエル・ブックという2人がメインでフィーチャーされていたことでした。これまでだと、ほとんどがメンバー5人+ベン・ブラムがそのポジションにあったのですが、ここでは彼らはコー・プロデュースという肩書になっています。ただ、もちろんそれぞれソングライティングにもしっかり加わっていますし、アレンジは全てこの6人が行っています。 その結果、全般的にメロディやコード進行はこれまでと比べてかなりシンプルになった半面、サウンド的にはこれまでと大きく変わっているような気がします。前回のオリジナルアルバムからは、メンバーが1人代わっていますが、その影響もかなり大きかったのではないでしょうか。いずれにしても、ほとんど生まれ変わったような新鮮な印象がアルバム全体から感じられるのは、とてもうれしいことでした。 収録曲は全部で11曲、前作では13曲でしたが、このぐらいの方が聴きやすいですね。 1曲目の「Happy Now」は、プロモーションの映像でおなじみの曲ですね。いきなりハンド・クラップで始まるというのは前作と同じですが、今回はまるでスティーヴ・ライヒの「クラッピング・ミュージック」のようなリズム・パターンだったのには驚きました。スコットのソロがボビー・マクファーレン風で、まさにハッピー感満載の曲です。ベースがとてもエッジの効いた音で、重厚さがあります。 2曲目の「Love Me When I Don't」では、ハーモニーのパルスが、やはりとてもエッジの効いた、まるでシンセのような音になっています。このあたりは、かなりエフェクターを使ってパーカッシブな音に変えているのでしょうね。もしかしたら、本当にシンセを加えているのかも。 3曲目は「Coffee In Bed」。これも、エッジの効いたハーモニーが際立っています。ビートボックスのパターンも、驚くほど多彩になってますね。 4曲目もやはりプロモーション映像でおなじみの「Be My Eyes」です。これはまず冒頭のほとんどエンヤ風の重厚なサウンドに圧倒されます。曲全体は、トーケンズの「ライオンは寝ている」によく似た感じ。 5曲目の「A Little Space」では、オブリガートもシンセ風に決めてますね。 6曲目の「Side」では、プロデューサーがスチュアート・クライトンに替わります。ここで、アレンジがこれまでの曲とガラリと変わり、中世音楽を思わせるハーモニーで、コラール風に迫ります。 7曲目の「Bored」は、マイナー・コードのバラード(一部「B.Y.O.B.」からサンプリング)。これ以降は、バラード風の美しいメロディの曲が並びます。8曲目の「Exit Signs」はソフトなサウンドで、クラシカルなメロディが光りますし、9曲目の「Never Gonna Cry Again」もビートは軽めです。 そして10曲目のカースティンの曲「It's Different Now」では、なんとイントロがピアノで始まります。さらに、途中からチェロも加わりますから、ア・カペラではありません。このチェロはビートボックスのケヴィンが演奏していたのでしょうか。重厚なサウンドの中のカースティンのソロは見事です。 そして、最後がアルバム・タイトルの「The Lucky One」です。ここでのプロデューサーはマーティン・ショリー、ア・カペラの原点に返ったようなコーラスのリズムをバックにソロが歌うのと、全員のホモフォニックなトゥッティが交代します。 こうして聴いてみると、6曲目の「Side」で、ビートのきいた「Side-A」から、メロディアスな「Side-B」に変わったのでは、などと思えてしまいます。 CD Artwork © RCA Records |
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ですから、今回のSACDも彼が録音を担当していることを期待して入手したのですが、ブックレットのクレジットを見ると、そこにはプロデューサーとエンジニアの名前が「シーン・ルイス」とあるではありませんか。この方はNAXOSレーベルあたりを中心に昔から手広く仕事をしていて、実際にその中のいくつかを聴いたこともありますが、これといった驚きのない、フツーの音でした。 このSACDも、やはりその音には失望させられます。弦楽器の艶がいまいちなんですよね。金管なども、イワンの場合は確実に有ったスカッと突き抜ける感じがありません。そして、ここには声楽のソロや合唱が入る曲もあるのですが、その声もなんとも平板にしか聴こえません。 まあ、録音会場の音響などもありますから一概に比較はできませんが、このレーベルに期待するクオリティでないことは間違いありません。録音スタッフの都合もあったのでしょうが、とても残念です。 それはそれとして、このアルバムに収められているのは、デンマークの重鎮作曲家(1948年生まれ)ボー・ホルテンの過去の作品3曲です。焼肉ではありません(それは「ホルモン」)。それらはすべて、これが世界初録音となります。この方は、「アルス・ノヴァ・コペンハーゲン」という素晴らし合唱団を創設されていて、最初は合唱指揮を手掛け、今ではオーケストラも指揮するようになっています。今回のアルバムの指揮も彼自身です。 最初に演奏されているのは、デンマークの国民的童話作家アンデルセン(正確には「アナスン」と発音するのだそうですね)の有名な「裸の王様」による、コンサート・オペラです。2004年にアンデルセンの生誕200年を迎えた時に作られました。これも、オリジナルのタイトルは英訳の「Emperor's New Clothes」、つまり「皇帝の新しい服」というものだったのですが、日本ではすっかり「裸の王様」が定着してしまっています。このタイトルは、「森会長は裸の王様だ」みたいに、一般的な比喩としても使われるようになっていますから、いまさら変えることはできませんね。 そんなお話が、ここではテノールとバリトンのソリスト、そして女声合唱だけで進められていきます。当然、一人で何役も受け持つことになるのですが、王様だったバリトンがいきなりト書きを語る、と言うのはちょっと違和感がありますね。テノールは2人の詐欺師担当ですが、片方の詐欺師はフランス語しかしゃべらないので、判別は出来ます。 何しろ、誰でも知っているお話ですし、音楽もとても分かりやすいので、すんなり聴くことができます。最後のシーン、王様が何も着ないでパレードを始めるあたりから音楽はとても盛り上がり、子どもが「何も着てないじゃん!」と言ってパニックになると、突然音場が広がり、リアとフロントで全く異なるリズムを奏するというカオスが出現するのが、なかなかのアイディアです。 2曲目は1995年に作られた「オーボエ協奏曲(イル・ロマネスコ)」です。ホルテンは1980年代には映画音楽にもかかわっていましたが、その時のオーボエ奏者の表現力の大きさに惹かれて、彼のためにオーボエのための協奏曲を作ろうと思っていたのだそうです。サブタイトルは「ローマ風」という意味ですが、それは、彼がこの曲を作った時にはローマにいて、その街にちなんだテーマなどが織り込まれているからです。確かに、ここでは「タランテラ」などのリズムも頻繁に現れています。ホルンセクションをバックにしたカデンツァが聴きどころでしょう。 最後は、1987年に作られた「夕暮れの歌」です。ソプラノとファゴットという珍しい組み合わせのソロで、様々な表情をもった8つの歌が歌われます。 SACD Artwork © Dacapo Records |
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これも、そんなアルバム。これからはそんなケースが増えそうなので、そういうものは最後に掲げてあるコピーライトも、「Album Artwork c」とすることにしました。 ということで、今回の「アルバム」は、小さいころからジャズに親しみ、オランダのユトレヒト音楽院でアーリー・ミュージックも学んだルーシー・ド・サン・ヴァンサンという若い(ばあさんではありません)フランスのピアニストが2016年に結成した「コレクティフ・トライトーン」というアンサンブルのデビュー・アルバムです。彼女はこのように語っています。 「コレクティフ・トライトーン」は、クラシック音楽、ジャズ、即興など、これまで私が育ったすべての影響を統合した私の心のプロジェクトです。J.S.バッハの作品にインスパイアされた「バック・トゥ・バッハ」は、バロック演奏の特殊性とジャズの特殊性を組み合わせて、それぞれの即興や装飾のスタイルを含め、独特の新しいサウンドをブレンドしています。結果として得られる新しいオリジナルのサウンドは、プレーヤー同士の相互作用、創造性、即興性を組み合わせたものです。 このアンサンブルは、ジャズのトリオ(ピアノ、ドラムス、ベース)に、サックスとヴォーカルが加わった5人編成です。そのヴォーカルのルーシー・シャルタンは、ジャズではなくクラシック、特にエマ・カークビーに師事するなど、アーリー・ミュージックの分野での研鑽を経て、ソリスト、あるいは合唱団のメンバーとして活躍しているソプラノの歌手です。 アレンジは、リーダーでピアニストの方のルーシーが行っています。それは、バッハの原曲の換骨奪胎が図られているものの、なおかつオリジナルの味もきちんと表れている、という非常に高次元のものでした。例えば、1曲目はリュートのための曲で鍵盤楽器で弾かれることも多い「前奏曲」BWV999なのですが、そこではその1小節に十六分音符が12個並んだ3/4拍子を、八分音符が6つの6/8拍子に読み替えた後、八分音符を一つ分抜いて5/8拍子にした後、ランダムに6/8拍子を挟む、といったような複雑な変拍子のリズムが使われていたりするのです。そこに、ソプラノは合いの手をヴォカリーズで入れるのですが、それに合わせてソプラノ・サックスがハーモニーを入れる、というクラシカルなこともやっています。さらに、中間部では「Herz und Mund und Tat und Leben」という、有名なカンタータ147番の冒頭のコラールを大胆にフェイクしたソロが、ソプラノによって歌われます。ソロの後半はスキャットも入って、ジャジーに迫ります。 ここでは、元ネタはカンタータでのアリアなどの他に、「ヨハネ受難曲」からのナンバーも2曲取り上げられています。まずは冒頭の合唱、これは、曲のコード進行を使った大胆なヴォカリーズの後に、合唱の「Herr, unser Herrscher」という十六分音符のメリスマを、そのままソプラノが歌います。さすが、と言うしかない正確な歌い方ですね。そして、バックはやはりその十六分音符を柔軟にシンコペートした、ノリのいいビートになっています。その後、かなりオーソドックスなピアノのアドリブ・ソロが現れたかと思うと、それに続いてソプラノとサックスがフリージャズのようなインプロヴィゼーションを展開、そして、最後はきちんとメリスマに戻って終わるという楽しさです。 かと思うと、その「ヨハネ」の最後から2番目の合唱「Ruht wohl」では、ダ・カーポの前半が、ほぼオリジナル通り(何小節かはカットされています)繰り返されるという、逆に意表を突くアレンジでした。 ヘビーなバッハ・ファンでも、そしてもちろんジャズ・ファンでも存分に楽しめる素敵なアルバムです。 Album Artwork © Paraty Productions |
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この録音のメンバーを見ると、合唱が先日の「ピーター・グライムズ」の時とほぼ同じなのですが、そこにさらにスウェーデンの「オルフェイ・ドレンガー」が加わっているので、驚いてしまいました。前回の合唱も素晴らしかったのに、さらにそこにこの「世界一の男声合唱団」が加わるのですからね。 確かに、この作品には大編成のオーケストラとたくさんのソリストの他に、やはり大人数の合唱も参加しているのでした。このSACDのブックレットにも、これがライブ録音された時のステージの模様の写真がありますが、そこではメンバーがひしめき合っていましたね。 ただ、今回しっかり聴いてみると、その合唱の出番は本当に少ないことがわかりました。全曲は2時間近くかかるのですが、その中での合唱の登場時間は、第3部に2回ある男声合唱だけのシーンは合わせて10分もありませんし、混声合唱などは最後にほんの5分ぐらいしかないのですよ。それまでひたすら待っている合唱団員は、大変でしょうね。 でも、そんな「一発」のために、彼らは最大の成果を聴かせてくれていました。まずは、オルフェイ・ドレンガーが中心になった男声合唱は、大編成のオーケストラの大音量にも負けず、しっかりと通る粒の揃った声で、1回目と2回目とでの全然異なる要求に見事に応えていました。 そして、女声にとってはここだけという最後の合唱も、しっかりと存在感を発揮していました。エンディング、それまでのAマイナーセブンスの影のあるコードから、ハ長調の三和音に変わった瞬間などは、まさに感動ものでした。 そして、ソリストたちも、みんなとても素晴らしかったですね。長丁場でも常に豊かなニュアンスを失わず、美しい声を聴かせてくれたスケルトンをはじめ、こんなロールにはもったいないようなトーマス・アレンの語り手など、みな、堪能しました。 この作品は、ほとんど「オペラ」といっても構わないような、ストーリーを持った音楽劇です。ことの発端は、スケルトンが演じるヴァルデマール王の不倫。しかし、その相手であるトーヴェは、王の妃によって毒殺されてしまいます。それを嘆いた王は、神を呪ったために絶命、配下を連れて夜な夜な不気味な徘徊を続けます。しかし、それも最後には日の光によって浄化されるのです。 そんなグロテスクな話に付けられたシェーンベルクの音楽は、極彩色のオーケストレーションを全開にしてとてもロマンティックに迫ります。それは、間違いなく西洋音楽がたどり着いた一つのクライマックスに違いないのですが、なぜか彼はその栄光を捨てて、「クラシック音楽の衰退を招いた狂気の40年」(ジュリアン・ロイド・ウェッバー)を生むことになるのですね。 この作品はぜひ生で聴いてみたいものなのですが、2019年にはなんと日本のオーケストラが3回もこれを演奏しているのですね。3月にはカンブルラン指揮の読売日響、4月にはそれにかんぶるように大野和士指揮の東京都交響楽団、そして10月にはジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団ですからね(ここにもアレンが出演していました)。もし、このころこの作品に「開眼」していたら、どれかはきっと聴きに行ったでしょうね。 SACD Artwork © Chandos Records Ltd |
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今回は、「浄められた夜」というタイトルですが、これはシェーンベルクが弦楽六重奏のために作った作品で、後に自ら弦楽合奏のためにも編曲している、おそらくシェーンベルクの曲としては最も演奏頻度の高い作品として、知られているものです。ご存知のように、これは同じタイトルのリヒャルト・デーメルの詩を元にして作られています。 それと一緒に、ここでは、シェーンベルクがウィーンでこの曲を作ったのとほぼ同じころに、遠く離れたベルリンで作られた、同じタイトルのオスカー・フリートの作品も演奏されています。そこでは、デーメルの詩がそのままテキストとして、男女二人のソリストによってオーケストラをバックに歌われている、とても珍しい曲です。 その詩は、まるでドラマのような構成になっていて、男と女のモノローグの前後に、情景描写のト書きが入っています。女は「私、妊娠しているの。でも、あなたの子ではないわ」と言うのですが、男は「そんなことは構わないさ。一緒に二人の子供として育てよう」と答えるという、とても美しい物語です。 それに付けられたフリートの音楽は、まさにドラマの音楽として、徹底的にお話を盛り上げるように作られています。前奏は、まさにラブストーリーがこれから始まることを予感させる甘〜いメロディの弦楽器に彩られています。そこで女の告白が始まると、それはかなりせっぱつまったものに変わりますが、ヴァイオリンのソロがしっかりその女の歌を支えてくれています。男の歌は、まさに寛容を絵に描いたような、とても暖かく包み込むような雰囲気を醸し出しています。ここでのスケルトンの歌はまさにハマり役、素晴らしいですねぇ。そして、エンディングは、その二人を祝福するかのようなオーケストラの盛り上がりです。それはもう、聴いていて恥ずかしくなるようなありったけの楽器による饗宴です。勝手にやってたら、と悪態でも付きたくなるようなものすごさですよ。 それと同じモティーフを、シェーンベルクは言葉をつかわないで、やはり山あり谷ありの音楽に仕上げました。そして、最終的には、やはりとても甘ったるく終わるのです。 ただ、このアルバムの最初に入っているのは、それとはちょっと毛色の異なるものでした。「テノールと大管弦楽のための音詩『熱』」というその曲を作ったのは、シェーンベルクと同じ時代にウィーンで「メリー・ウィドウ」などの数多くのオペレッタをヒットさせていたフランツ・レハールです。エルヴィン・ヴァイルという人の詩がテキストになっているのですが、それは、病院のベッドで眠っている若い兵士が、「熱」に浮かされて見ている夢を語っているのです。それは、オペレッタとは全く違ったとても「シリアス」な音楽で、どこかリヒャルト・シュトラウスあたりを思い浮かべるようなものでした。その中で、恋人とダンスをしている情景では、お得意のワルツが奏でられて和みますが、戦場のシーンでは「ラコッツィ行進曲」がとても暴力的なオーケストレーションで現れたりします。これもスケルトンのソロで歌われるのですが、最後には歌ではなく「語り」で、「このベッドの少年兵は死んだ」と言うのですよね。それは、とてもショッキングな瞬間です。 そしてもう1つのコーナーは、やはりウィーンで活躍していたコルンゴルトのオーケストラ伴奏の歌曲集「別れの歌」です。やはりスケルトンが歌ってますが、その柔らかい声にはとことん癒されます。まさに、透明さがあふれる繊細な声ですね(「透けるトーン」ですから)。 SACD Artwork © Chandos Records Ltd |
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「モーツァルトが生まれる2年前、1754年に生まれたホフマイスターは、最初は法律家を目指して勉強していましたが後に音楽家、あるいは楽譜出版業者として、ウィーンで活躍することになります。そのどちらの職業にも比類ない才能を発揮したというマルチ人間でした。作曲家としては9曲のオペラ、60曲以上の交響曲、40曲以上の弦楽四重奏曲など、あらゆるジャンルで膨大な作品を残しています。協奏曲の分野でも、有名なヴィオラ協奏曲をはじめ、フルート協奏曲だけで25曲も作っているそうです。」ここでは楽譜出版に関しては具体的なことは書かれていませんが、彼がウィーンに作った出版社からは、当時のメジャーな作曲家の作品が数多く出版されていました。そしてその他にも、老舗出版社のブライトコプフ&ヘルテルの牙城であったライプツィヒに、共同経営という形でもう一つ楽譜出版社を作っていました。それが、現在の「ペータース」という出版社の起源となっていますから、彼の業績は今日までしっかり継承されているのですね。 ただ、彼の作曲家としての業績は、今やほとんど忘れ去られてしまっているようです。彼のオリジナルの作品が、それこそ同時代のモーツァルトのように頻繁に演奏されるということは、決してありません。先ほどの引用の時点では、そこで演奏されていたフルート協奏曲が「世界初録音」でしたが、それから7年以上経った今日でも、彼の作品が実際に録音されることは稀なようです。ですから、今回イギリスのSOMMレーベルで、こんな「ホフマイスターの魔法のフルート」というタイトルの全集が企画されたのは、とてもうれしいことです。これが「第1巻」ということで、もちろんすべてが世界初録音の曲ばかりなのですが、その後にも続々このシリーズがリリースされるようになれば、いずれはこの作曲家の全貌をしっかりと音によって知ることができるようになることでしょう。 このように、わざわざフルートに限ってのシリーズが始められたのは、ホフマイスターがこの楽器に多大の愛着を持っていて、非常に多くの作品を作ったり、他人の作品をこの楽器のために編曲したりしていたからです。それらは、主にアマチュアの演奏家がこぞって演奏していたことでしょう。特に、ホフマイスターのこの楽器を華やかに聴かせるためのスキルはまさに職人的で、演奏者にとっては自分の腕をひけらかすにはもってこいだったはずです。その一例として、モーツァルトのオーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲(ヘ長調)を、管楽器をフルートに変えて編曲したもの(ト長調)では、第3楽章のこんなパッセージを、 ![]() ![]() しかし、この中で唯一短調で作られた最初に演奏されている四重奏曲は、そんな表面的なものを超えた確かなパトスを感じることができます。 それにしても、その曲のタイトル(楽器編成)を間違えてしまったジャケットは、ちょっとお粗末です。せっかくの貴重な音源が、なんともったいないこと。 ![]() CD Artwork © Somm Recordings |
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ここでは、5人の作曲家の6つの作品(変奏曲とセレナータが3曲ずつ)が演奏されています。その中で知っている作曲家はたくさんのオペラを作り、フルート協奏曲も有名なサヴェリオ・メルカダンテだけです。しかし、ここで演奏されている「フルートと弦楽四重奏のための、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』からの『Là ci darem la mano(お手をどうぞ)』による変奏曲」は聴いたことがありませんでした。誰でも知っているテーマの変奏ですが、途中でゆっくりと、しかも短調に変わった変奏が現れ、その後をきちんと長調で元気のよい変奏で締めくくるというのもお約束です。その、最後に現れるオクターブの応酬は、かなりの難度の高さです。 「フルート、クラリネット、弦楽四重奏のための序奏と変奏曲」を作ったピエトロ・ボッテジーニという人は、ラストネームだけは知っていました。それはジョヴァンニ・ボッテジーニという、コントラバス奏者で作曲家だった人です。ピエトロはそのジョヴァンニのお父さんで、こちらはクラリネット奏者兼作曲家でした。ですから、この曲も自分でクラリネット・パートを吹くために作ったのでしょう。「序奏」でまずクラリネットの技巧的なソロが出てくるあたりが、まさに自分の楽器のために作った曲ならではです。もちろん、フルートのパートも同じぐらいに技巧的で聴き映えがあるように作られています。ここでも、「変奏曲」では終わりから2番目の変奏が短調でゆっくりしているという定石を踏まえたものです。 もう1曲クラリネットが加わっているのは、フルーティストでフルートの教則本なども著わしているカミッロ・ロマニーノという人が作った「2つのヴァイオリン、ヴィオラ、フルート、クラリネット、チェロ、コントラバスのためのセレナード(セレナータ)」です。この時代の「セレナータ」というのは、多楽章形式の室内楽のことで、この曲も楽章は1つしかありませんが、途中で何度も曲調とテーマが変わっています。ここでは、2つの管楽器と同様にヴァイオリンもイニシアティブをとっていて、華麗なソロが何度も現れます。 フィレンツェで、親類縁者が音楽家という家に生まれたエジスト・モセルは、オーボエ奏者でフルートも吹く作曲家です。彼が作った変奏曲は、フルート・ソロを弦楽五重奏と2本のホルンが伴奏するという編成で作られています。流れるようなメロディのテーマは当時のオペラの中から取られたもので、やはりアダージョの部分は短調ですし、そのあとは「ポラッカ」という3拍子の舞曲で終わります。 唯一2曲のセレナータが演奏されているジョヴァンニ・トーヤという人の生涯は、ほとんど分かっていません。こちらはきちんと4つの楽章で出来ているフルートと弦楽四重奏のためのニ長調とト長調のセレナータですが、ニ長調の曲の最後の楽章で弦楽器の3拍子のピチカートをバックにフルートが甘い歌を歌うのは、かつての、窓の下から恋人にささげた歌という「セレナード」本来の意味が反映されているのでしょう。 普段はおそらく金の楽器をつかっているマンギは、ここでは木管のフルートを使って、これらの屈託のない曲にぴったりの、明るい音色と軽やかなテクニックを披露しています。そこからは、いかにもイタリア人らしい歌心が存分に伝わってきます。幾分ピッチがアバウトなのは、慣れない楽器のせいなのでしょう。 CD Artwork © Amadeus Arte |
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そして、それに続いてシューマンの交響曲も、全曲録音してしまいました。2018年には「第2番」と「第4番」、そして、2019年には今回の「第1番」と「第3番」です。 それぞれ、録音されてほどなくリリースされていたのですが、前回のメンデルスゾーンと今回のシューマンでは、その形態がかなり変わっていました。前回は全てハイブリッドSACDと一緒にBD-Aも入っていて、24bit/192kHzのハイレゾがサラウンドで聴けたのですが、今回はそれがなくなっています。さらに、前回は一部は映像BDもあって、ライブ映像も見ることができたのに、それもありません。まあ、SACDでもサラウンドは聴けるのですから、ぜいたくは言えませんが、やはり音そのものが全然違いますからね。これで、コンスタントにBD-Aをリリースしているレーベルは2Lだけになってしまいました。とても残念です。 メンデルスゾーンでは、初演の時の再現ということで、弦楽器が立って演奏していた映像が見られましたが、シューマンではそのようなサプライズは別にないようです。ただ、今回のラインナップでは、それぞれの交響曲には「春」と「ライン」というサブタイトルが付いているはずなのに、少なくともジャケットやレーベル面、そしてバックインレイには、そのような表記は一切ありません(ブックレットにはあります)。ブライトコプフの原典版では、それぞれカッコつきで(Frühlinks-Symphonie)とか(Rheinische)と表記されています。 ![]() ![]() もちろん、商業的な録音やコンサートでそのような主張が通るケースはまずありません。兵庫県ですね(それは「有馬温泉」)。 ガーディナーのシューマンと言えば、彼がまだARCHIV(DG)のアーティストだった1997年に一気に録音した交響曲全集がありました。その中では「第4番」は初稿と改訂稿の両方を録音していましたし、とても珍しい「ツヴィッカウ交響曲」まで聴くことができました。もちろん、オーケストラはピリオド楽器のオルケストル・レヴォルショネール・エ・ロマンティークでしたね。 それと、今回の録音を比べてみると、曲全体の演奏時間はどちらもほとんど変わっていません。実際に聴き比べた時のテンポ感も、まず同じような感じです。弦楽器も、今回はモダン・オーケストラですがビブラートはかけていないようで、似たような響きになっています。ただ、木管楽器の音の輪郭は、今回の方がよりシャープになっているでしょうか。 全体の表現では、前回は確かにあったはずのキレの良いパッションが、多少ユルいものに変わっているような気がします。たとえば、「1番」の冒頭のトランペットのファンファーレなどでは、前回は迷いなく吹かれていたものが、今回はちょっとした「溜め」が感じられたりします。同じように「3番」の第2楽章でも、今回は前回はやっていなかった楽譜の指定以外の箇所でのリタルダンドがあったりします。 ただ、もう1曲収録されている「マンフレッド序曲」は、今まで聴きなれたものとは一味違う悲壮感のほとばしりが強く感じられました。 SACD Artwork © London Symphony Orchestra |
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その「<無調>の誕生」では、かなり専門的なアプローチがなされていて、難解なところが何回も出てきていましたが、今回の本はそれに比べるとかなり「くだけて」はいます。というか、ここでは音楽の事だけではなく、それを取り巻く時代的な背景や、同時代の美術、文学といった、芸術全般を俯瞰しながら論を進める、という手法がユニークです。それによって、おそらく音楽にはそれほど詳しくない芸術愛好家に対しても、とてもやさしい作り方になっています。逆に、音楽以外にはそれほど知識のない人にとっては、全く知らない「芸術家」の名前の羅列に戸惑うかもしれませんね。 ですから、基本的に、これまでの音楽史を踏襲したようなものですから、その間の事象についての目新しさは特にありませんが、それと同時進行で世界情勢が語られることによって、説得力は倍化しています。最も分かりやすいのが、第一次世界大戦によって劇的に減ってしまったオーストリア(ハプルブルク帝国)の領土を示した地図です。これを見るだけで、それまでの宮廷中心の音楽の凋落は納得できてしまいます。 さらに著者の筆致が冴えわたるのは、最後のあたり、まさに今私たちが生きている時代の音楽に対する客観的な分析でしょう。特に、「1968年」を一つの切断面と考える、という史観には、強烈に賛同してしまいます。確かに、言われてみれば、このあたりで「現代音楽」は新たなフェイズを迎えたような気がします。 その後で紹介されている「あの頃は前衛的でなければ許されない雰囲気があり、自分もいやいやそんな曲を作っていた」という作曲家の証言は、重みがあります。 ただ、「無調」という言葉が平然と登場しているのには、最初に挙げた「<無調>」を読んでしまったものにとっては違和感を禁じえません。おそらく、著者は、執筆時には刊行されていたはずのこの本を読んではいなかったのでしょう。 もう一つ、そもそもこの書籍のサブタイトルが「闘争しつづける『芸術』のゆくえ」なのですから、この「芸術」という言葉に対しては確固たる取扱いが求められるはずなのですが、そのような配慮が感じられないのが気になります。著者は最初の章で、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ヴァレーズの作品が初演された時の騒動について述べていますが、そこで「その時の聴衆は『芸術』を聴きに来たが、それは『芸術』ではなかったので怒った」と言った後、シェーンベルクの言葉として「『芸術』は民衆のためのものではない」という言葉を紹介しています。この2つの文脈の中で、「芸術」という言葉の意味が微妙にズレているのですね。この齟齬は、最初に「聴衆は「『芸術』を聴きに来た」と言ったことで生じています。そもそも、当時の聴衆が聴きに来たのは、「芸術」ではなく「嗜好品」、あるいは「娯楽」だったのではないでしょうかね。 まあ、この辺は「無調」同様、著者の意識の甘さのせいにして片付けましょう。第2章の「『レコード』を発明したのはエジソン」というのも、そんな甘さのなせる業、第5章のしょっぱなに出てくる「トラトニウム」も単なる誤植なのでしょう。でも、第7章で紹介されているリゲティのオペラは、やはり「大いなる死」ではなく、「グラン・マカーブル」と言ってほしかったですね。 Book Artwork © Chuokoron-Shinsha, Inc. |
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さきおとといのおやぢに会える、か。
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