俺は、ブル。 佐久間學

(20/7/23-20/8/13)

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8月13日

STRAVINSKY
The Rite of Spring
久石譲/
東京交響楽団
EXTON/OVCL-00719(hybrid SACD)


一般的には「ジブリ」の音楽を作った人として知られている作曲家の久石譲さんは、最近では指揮者としても活躍しています。そのことは、こちらの彼の著書の中でも語られていましたね。そこで印象的だったのは、指揮活動を行うにあたっての彼のとても謙虚な姿勢でした。あくまで本職は作曲家なので、指揮についてはまだまだ勉強が必要だ、みたいなことを書かれていたような気がします。
その後、どのような経緯があったのか、2016年に国内のオーケストラの首席奏者級のメンバーを集めた「ナガノ・チェンバー・オーケストラ」というオーケストラが結成されて、久石さんはその音楽監督に就任、そこでペルトなどの現代曲と一緒に長野市でベートーヴェン・ツィクルスを敢行、そのライブ録音はCDにもなりました。観光地以外でもその演奏が聴けるようになったのですね。
その間、2019年には、そのオーケストラは「フューチャー・オーケストラ・クラシックス」と名前を変えましたが、現在はブラームスのツィクルスに取り掛かっているようですね。
そうなると、もはや作曲家の片手間仕事とは言えなくなってきて、多くの人がその演奏を聴くようになるのですが、それを聴いた人の評判が耳に入るようになってきます。そこでは、彼の指揮ぶりがとても素晴らしいという評価であふれています。なんでも、「ベートーヴェンはロックだ」というコンセプトでの、かなりテンポの速いベートーヴェンが感銘を与えているようですね。
ちょっと興味があったので、ネットにあったブラームスの「交響曲第1番」がメインのコンサートのライブ映像を見てみました。前曲はペルトの作品と、久石さんの3つのホルンのための協奏曲の初演でしたが、そこでは、チェロ以外の演奏家がすべて立って演奏しているのですね。ファーストの2プルト裏には会田莉凡さんの姿も見えます。それはまるで、クレンツィスの指揮する「ムジカエテルナ」のような感じです。ただ、その「本家」の方は演奏中に体を動かしたりメンバー同士が顔を見合わせたりしていてとてもリラックスしているのですが、この「エピゴーネン」の方はとてもお行儀がよくて、なんとも居心地が悪そうな感じでした。
そのブラームスは、信じられないほど速いテンポの序奏から始まるのには、驚きました。なんでも、そのテンポ設定は「古典音楽を現代的に演奏する」という、非常に分かりやすいコンセプトから生まれてきたものなのだそうです。なぜテンポを上げると現代的になるのかはよくわかりませんが、聴いている人に「なにか違う」と思わせることだけは間違いありません。
そんな久石さんが、自分のオーケストラではなく、東京交響楽団を指揮したコンサートの模様がCD(いちおうハイブリッドSACDですが、サラウンドでは聴けません)になりました。そこで演奏されているのが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」です。演奏時間は34分ですが、それ1曲しか入っていないという贅沢な仕様です。もっと贅沢なのは、その音。このレーベルは音の良さでは定評がありますが、そんな中でもこれは様々な条件が見事に合致して、素晴らしい音に仕上がっています。トゥッティの時の厚みのあるサウンドはもちろん、入り組んだオーケストレーションでも、普段はまず聴こえてこない楽器、コールアングレ(最上さん?)とかバス・クラリネット、アルトフルートがとてもクリアに聴こえてきます。もちろん、ピッコロなどはどんな時でも浮き上がっています。
ただ、そんな華麗なサウンドに酔いしれているうちに、こんな心地よい「春の祭典」って、あんまり面白くないね、という気になってきます。なんか、あまりに整いすぎているんですよね。テンポはそれこそメトロノームのように正確で、途中で伸びたり縮んだりすることはありません。変拍子が続いても、それでエキサイトすることはありません。
きっと、こういうお上品でのっぺりとした音楽が、久石さんが目指す「現代の音楽」なのでしょう。

SACD Artwork © Octavia Records Inc.


8月11日

BEETHOVEN
Serenade
Luisa Sello(Fl)
Bruno Canino(Pf)
Myriam Dal Don(Vn)
Giuseppe Mari(Va)
DYNAMIC/CDS 7886


イタリアのベテラン・フルーティスト、ルイザ・セッロの新しいアルバムは、2020年の2月28日と3月10日に録音されました。ベートーヴェンの「セレナード」を、オリジナルのフルート、ヴァイオリン、ピアノの三重奏と、後にピアノとフルートのために作曲家自身が編曲したバージョンとが一緒に収録されています。その間には、ピアノ協奏曲第4番の第2楽章を、テオバルト・ベームがフルートとピアノに編曲した物も演奏されています。
彼女の年齢が正確に何歳なのかは全く分かりませんが、ガッツェローニに師事したというような経歴を見ると、かなりのものになっているはずです。それでも、この前の2019年に録音されたアルバムでもなかなか楽しめましたから、「まだ」大丈夫だと思って、聴いてみました。
ただ、今回のレーベルは、音のひどさでは定評のあるDYNAMICですから、一抹の不安はあります。残念なことに、その不安は的中、最初のピアノ伴奏版はそれはもう信じられないほどのおぞましい音でした。フルートは、いったいどんなことをしたら、こんなひどい音になるのか分からないほどのひどさです。聴こえてくるのはほとんどがノイズで、フルートがフルートであるために必要なものが全くそこにはないのですからね。ミヤザワの楽器を使っていると大々的に謳っているのですが、こんな音を聴いたら、誰もこのメーカーの楽器を買おうとは思わないでしょうね。おそらく、このエンジニアは美しいフルートの音を聞いたことがないのでしょう。
ピアノにしても、年代物のスタインウェイということですが、ここではとてもキンキンとした出来損ないのフォルテピアノみたいな安っぽい音しか聴こえてきません。
まあ、セッロのフルートも、とっくにピークは過ぎているのでは、という気がしないでもありません。変奏曲の細かいパッセージなどは、もう指が付いて行かないようです。そして、ピッチはかなりアバウトですし、歌い方も雑、さらに致命的なのはブレスの短さです。正直、聴いていて辛くなるような演奏でした。
ところが、後半のトリオ版になったら、その音がガラリと変わっていました。何があったのかと思ったら、2月と3月では録音会場が変わっていましたね。音響が変わったのと、当然編成が違うのでマイクアレンジも変わったのでしょう。それだけのことで、フルートの音はそれまでの「雑音」から、「フルート」に変わりました。場所が変わってもエンジニアは同じですから、この人には何のポリシーもないということでしょうね。
この2つの「セレナード」は、他の楽器が変わってもフルート・パートは全く同じものなのでは、とお思いになるかもしれませんが、実際は細かいところで違っています。このセッロおばさんは、ピアノ伴奏版を録音した10日後にトリオ版を録音したのですが、どうもその間の切り替えがうまくいかなかったようで、トリオ版で、ピアノ伴奏版にしかない音符を吹いていたりしましたよ。それは、先ほどの変奏曲の楽章(4曲目)の第2変奏なのですが、その同じ曲のコーダでも、同じような間違いをしています。
つまり、トリオ版の楽譜では
ですが、ピアノ伴奏版では
ということで、赤枠の中のフレーズがトリオ版ではその後ろのフレーズ、そしてピアノ版ではその前のフレーズと同じになっているのです。そこを、おばさんはやはりトリオなのにピアノ伴奏のフレーズで演奏しているのです。
ところが、実はこのトリオ版の楽譜は、どうやら印刷ミスのようなのですね。初版の楽譜ではピアノ版と同じだったものが、なぜかブライトコプフが印刷した時にこんな風に間違えられたようなのです。ですから、ランパルやゴールウェイなどの心あるフルーティストは、この部分はしっかり「ピアノ版」で演奏しています。
もしかしたら、このおばさんも、そういうことを知っていたのだ、という可能性もないわけではありませんから、責めないで

CD Artwork © DYNAMIC S.r.l.


8月8日

SHOSTAKOVICH
Symphony No.13 "Babi Yar"
Oleg Tsibulko(Bas)
Kirill Karabits/
Popov Academy of Choral Arts Choir(by Alexei Petrov)
Kozhevnikov Choir(by Nikolai Azarov)
Russian National Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 618(hybrid SACD)


男声合唱をやっている方々にとって、オーケストラとの共演の機会は非常に少ないのではないでしょうか。なんたって、男声合唱とオーケストラ(+ソリスト)という編成の曲は、そもそもそれほど多くはありませんからね。
とりあえず思いつくのはブラームスの「アルト・ラプソディ」、ブルックナーの「ヘルゴラント」ぐらいでしょうか。あとはシベリウスの「クッレルヴォ」というのもありますね。ちょっとコアになりますが、ベルリオーズの「レリオ」の中にも、男声合唱だけで歌われる曲があります。このあたりになってくると作品自体が演奏されることが非常に稀になってきますが。
ただ、オペラの中のナンバーなどでしたら、よく演奏されるかもしれません。ここにはワーグナーの作品がたくさん用意されていますからね「タンホイザー」の「巡礼の合唱」や「さまよえるオランダ人」の「水夫の合唱」などは、一度はオーケストラと一緒に歌いたいと思っている人はたくさんいるはずです。ただ、それもなかなかコンサートとしてはメインとはなりえない辛さがありますね。
ショスタコーヴィチが1962年に作った「交響曲第13番」は、そんな、普段はオーケストラとの出番はあまりない男声合唱が、最初から最後までしっかり歌い続けるという、とても珍しい作品です。
交響曲としては全部で5つの楽章からできていて、演奏時間はトータルで1時間ほどかかります。そこでは、エフゲニ・エフトゥシェンコという人の書いた5つの詩が、それぞれの楽章のテキストとして使われています。それらの詩は、書かれた当時は「反体制」というスタンスをとっていた(後に、変節して「変態性」と詰られます)詩人が、様々なシチュエーションを設けて、その中から、巧妙に体制を批判するという入り組んだ構造を持っています。
最初の第1楽章に登場する詩が、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺事件を扱った「バビ・ヤール」というタイトルだったので、それがこの交響曲全体のタイトルとなっています。その他の楽章に使われた詩は、それとは全く関係のない、例えば第3楽章は、食料を買うために商店のまえで列を作って並んでいる女性たちに寄せる思い、さらにそこから暗に湧き出る反体制の思いが語られるものです。
ショスタコーヴィチは、そんな、言ってみれば取り留めのないテキストを逆手にとって、彼ならではのアイロニーを存分に音楽として昇華させているように見えます。今回の新しい録音では、このレーベルならではの卓越した録音に、サラウンドによる壮大な音場も相まって、そんな音楽をとても分かりやすいものとして聴かせてくれているのではないでしょうか。妥協することなく押し寄せる厚ぼったいオーケストレーションの波は、あくまでポジティヴにこの詩人の一途な主張を盛り上げているようですが、そこにはこの作曲家ならではの錯綜した視点(あるいは本心)までも感じられることでしょう。
ここでのバスのソリスト、オレグ・ツィブルコも、あくまで堂々とした迷いのない素晴らしい声で、その「ことば」によるメッセージを力強く伝えてきます。そして2つの合唱団の合同演奏による男声合唱は、そのメッセージをアジテーションとして盛り上げることに全力を傾けているようです。そのために、ここでは彼らはほとんどユニゾン、あるいはオクターブ・ユニゾンでしか歌ってはいません。時には音程さえもなくした「語り」になっているところもあります。
そんな、とても重苦しいダークな合唱に徹しているのだと思っていると、先ほどの第3楽章では、最後になんと「アーメン終止」でしっかりハーモニーを作っていましたよ。その時の歌詞は、エフトゥシェンコの詩には出てこない「アーミン(ロシア語のアーメン)」でした。
こういうことをやっているショスタコーヴィチは、本当に油断できない作曲家だと、改めて思わせられます。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


8月6日

MOZART
Sinfonia concertante KV 364, Symphony in G minor KV 550
Gordan Nikolič(Vn)
Richard Wolfe(Va)
Netherlands Chamber Orchestra
TACET/S 236hybrid SACD)


これまでモーツァルトの「交響曲第35番、36番」と、「ヴァイオリン協奏曲第1番、5番」の2種類のアルバムをリリースしていたゴルダン・ニコリッチとオランダ室内管弦楽団の最新アルバムは、「協奏交響曲」と「交響曲第40番」というカップリングでした。35番とか5番、40番が好きなんですね(それは「5の段」)。
この3枚は、ほぼ1年おきにリリースされていたのですが、録音されたのは全て2017年の2月です。おそらくこれだけの曲を、集中的に数日間で録音してしまったのでしょう。以前のアルバムで、その録音風景をご紹介していましたが、それが全部のアルバムのブックレットの裏表紙になっています。そこで演奏されていたのが「協奏交響曲」でしたから、最後の最後になってやっとその写真で演奏されていた曲が聴けることになったわけです。
このセッションでは、この写真のように演奏者がマイクを囲んで円形に並び、それぞれがお互いの顔を見合わせながら演奏するというスタイルで録音されていました。その結果、出来上がったマルチチャンネルのSACDでは、リスナーがその真ん中のマイクの位置に座って、まわりで演奏されている楽器に取り囲まれている、という音場が出来るとされています。
ところが、これまでの2枚を聴いた限りでは、どうもそんな「楽器に囲まれている」というサラウンド感があまり感じられませんでした。常々愛聴している「2L」レーベルの、やはり同じように演奏者がマイクを囲んで録音しているものだと、それはもうリアルそのものの存在感が周りに漂っていることを体験できますから、そのあたりのノウハウがこのTACETレーベルでは不足しているのではないか、という気がします。
それは、やはりこの写真でも見えるマイクのセッティングの違いなのでしょうね。2Lはほとんどワンポイントですが、こちらはそうではないようですから。
その写真で見る限り、「協奏交響曲」(もちろん、ヴァイオリンとヴィオラのための曲の方です)でのソリストはすぐそばで演奏しています。それが、この録音では、ヴァイオリンはほぼ真正面ですが、ヴィオラはほぼ左側、2つの楽器は真ん中からほぼ90°のへだたりがあるように聴こえてきます。それだけ離れているので、それぞれの奏者が弾いているパートはもうはっきりセパレートされて聴こえてきますから、なかなか興味深い定位ではあるのですが、こんなに距離が有ると何か落ち着きません。というか、本当は現実通りに、真正面にほんの少しだけの角度で定位していて欲しいと思ってしまいます。ただ、ヴィオラのウルフという人がとても上手なのは、よく分かります。
この写真で特徴的なのは、ファゴットがチェロの間に座って吹いているということですね。それは、この曲にはファゴットのパートはないからです。つまり、ここでのファゴットは「通奏低音」という立場で参加していたのでした。ですから、いくら耳を澄ませても、このファゴットはチェロやコントラバスに隠れて全く聴こえては来ません。
それが、「交響曲第40番」になると、そこではちゃんとパートが2人分与えられていますから、これはもうしっかり聴こえてくるようになります。さらに、前の曲にはなかったフルートとクラリネットも加わって、管楽器のパートは充実してきます。そうなってくると、フロントの弦楽器とリアの管楽器という配置が効果を現してきて、それぞれのセクションのやり取りを存分に楽しめるようになります。これは、聴いていてなかなか興味深いことでした。
そこで吹いているフルートは、以前のアルバムではトラヴェルソのように聴こえたのですが、今回改めて聴いてみると木管のモダン・フルートを、ビブラートを全くかけないで吹いているようでしたね。いずれにしても、モーツァルトならではのかわいらしさはよく表れていました。
ただ、弦楽器の音が、なにかざらついていてあまり美しくないのは、以前のアルバムとは変わりませんでした。

SACD Artwork © TACET


8月4日

NIELSEN
The Mother
Adam Riis(Ten), Palle Knudsen(Bar)
Andreas Delfs/
Danish National Vocal Ensemble
Philharmonic Choir(by Morten Heide)
Odense Symphony Orchestra
DACAPO/6.220648(hybrid SACD)


ニルセンの「母」という作品の名前を知ったのは、30年以上前、ゴールウェイのニルセン・アルバムが新しくリリースされた時でした。そこには、フルーティストの定番、フルート協奏曲や木管五重奏曲の余白に、3曲の小さな曲が収められていたのです。それはハープとの二重奏「霧が晴れてくる」、ヴィオラとの二重奏「信仰と希望が戯れている」、そしてソロの「子どもたちが遊んでいる」というタイトルのそれぞれ2分程度のかわいらしい曲たちでした。それは、そのアルバムのメイン曲の、とても難易度の高いフルート・パートに比べたらなんとも吹きやすそうで、とても親近感が湧いたものです。

それらは、フルートのレパートリーとしては確固たる地位を占めていたことをその後知ることになるのですが、それが入っている「母」という劇音楽については、何の情報も得られませんでした。それもそのはず、現在進行中のニルセン全集の刊行の一環としてその全曲が初めて出版されたのは、2007年の事だったのです。
もちろん、それまでは録音もなかったのですが、デンマークのレーベルDACAPOが今年の1月から2月にかけて世界で初めての録音を行いました。それが今回のアルバムです。
この作品が作られたのは1920年。その年には、かつてはデンマークが保有していたもので、長年ドイツ領となっていたユトランド半島の南部、シュレスヴィヒ・ホルスタイン地方の一部が、デンマークに返還されるというおめでたいことがありました。国中がそのために多くの祝賀イベントを行った中で、王立劇場はガラ・パフォーマンスとして音楽劇を上演することを決定しました。その台本は有名な詩人のヘルゲ・ローデが書き、それに、当時はデンマーク随一の作曲家となっていたニルセンが曲を付けることになったのです。
そんな名誉なことですが、ニルセンは最初はそのオファーを受けることをためらっていたのだそうです。なんでも、そのような作品ではよく知られた愛唱歌や、愛国的な歌をその中に取り入れなければいけませんが、ニルセンは「僕にはそんなことはできないし、やりたいとも思わない(相性が悪い)」と劇場側に言ったのだそうです。それに対して劇場はギャラを大幅にアップし、さらにリハーサルには立ち会わなくてもよいという条件を出したので、結局ニルセンは引き受けることにしたのだそうです。
ただ、作品はなかなか完成せず、一部の曲のオーケストレーションは他の作曲家に任せることにして、初演が行われたのは1921年になってからの事でした。
この物語は、デンマークを「母」、新しく返還された領地を「息子」に例えて、おとぎ話のような体裁で進められていきます。そこで登場するのが、テノールが歌う「吟遊詩人」とバリトンが歌う「太鼓持ち」という2人のキャラクターです。吟遊詩人が歌ったことを太鼓持ちがまぜっかえす、といったシーンもありますが、正直そのプロットはよく理解できません。なんせ、昔話だったものがいきなり現代(1920年の)のパブにタイムスリップしたりするのですからね。
それでも、その領土返還を祝う気持ちは、音楽からはたっぷり伝わってきます。フィナーレで初めて登場する合唱が、朗々と歌い上げる6番から成るシンプルでキャッチーな歌は、間違いなく当時の人々を喜ばせたことでしょう。
先ほどのフルートのソロが出てくる曲のコンテクストも、なんとなく理解できました。これを吹いていたのはここで演奏しているオーデンセ交響楽団の首席フルート奏者のルネ・モストという人です。ゴールウェイとはまた違った味のソロで、ローカルな色が出ていたのでは。さらに、それ以外にもフルートが大活躍する曲もたくさんあって、楽しめました。
ただ、これはこのレーベルの看板エンジニアのプレベン・イワンの録音なのですが、これまでのSACDでは聴けたはずのとびぬけたクオリティがここにはなかったのは残念でした。

SACD Artwork © Dacapo Records


8月1日

DURUFLÉ/Requiem
PARRY, STANFORD/Choral Works
Imogen Morgan(Org)
Will Sims/
Durham Cathedral Choir
PRIORY/PRCD1232


今年の1月に録音されたというデュリュフレの「レクイエム」の最新盤です。この曲の新録音はどんなものでも聴いてみる、というのが基本的なポリシーなので、サブスク(NML)で見つけた時にはさっそくCDを購入しようと思ったのですが、なぜか、このレーベルのサイトでもまだ紹介されてはいませんでした。もちろん、国内のショップでは何の情報もありません。最近はそんなこともあるようになっていたのですね。そんな、いつリリースされるか分からないものを待っているわけにはいかないので、そのストリーミングをチョイスです。
このサイト、最近では、かなり音質的にグレードが上がってきているような気がしますが、ヘッドフォンで聴くと低域のノイズがかなり気になります。まあ、スピーカーで聴く分には、それほど遜色はありませんけどね。
普通はブックレット等も見ることができるのですが、これにはそれがありません。したがって、演奏家のプロフィールなどは全く分かりません。調べてみると、ここで演奏しているのはイングランド北東部の街ダラムにある大聖堂の合唱団のようでした。その編成は、女声パートは女子も含めた児童合唱、そこに大人の男声が加わっています。
ここで演奏されているデュリュフレは、もちろんオルガン版でした。ただ、クレジットされているのはそのオルガニストだけで、普通この曲では必要なバリトンとメゾ・ソプラノのソリスト、そして、このオルガン版には欠かせないチェリストの名前がありません。まあ、そのあたりの事情は、聴いていくうちにおいおいわかってくることでしょう。
まずは、「Introit」の出だし、テナーのパート・ソロによるテーマに注目です。ここを聴くだけでその合唱団の力量がほぼ分かってしまうという恐ろしいところなのですが、この合唱団はなんとも不思議なアプローチをとっているようでした。それは、はっきり言って「ヘタ」でした。というか、なんとも無気力で無感情な歌い方でした。それは確かに、普通の合唱ではあまり褒められたものではありませんが、ここではなにか別の方向性が感じられるのですね。
しばらくすると、その「正体」が分かってきました。ご存知のように、この作品は「素材」としてグレゴリオ聖歌を使っています。このテノールが歌っているテーマも、グレゴリオ聖歌そのものです。それを、今まで聴いてきた演奏では、そのメロディをあくまで20世紀の音楽として歌っていました。ですから、そのユニゾンにはおのずと20世紀風の「表現」が加えられていたのです。ところが、ここではそうではなく、あくまでそれをグレゴリオ聖歌そのものとして提供している、という姿勢をとっているのです。ですから、それを現代人の耳で聴くと多少だらしのない演奏に聴こえていたのですね。
ただ、そこに女声のハーモニーが入ってくると、もはや20世紀の音楽として成立してしまいますから、それ以降「グレゴリオ」が実際に顔を出すことはありません。ただ、冒頭にそんなショッキングなことをやったために、聴くものはとても斬新な演奏としての印象を、最後まで持ち続けることができるのです。
そして、この合唱団はヴィシー政権から第3帝国に対するプロパガンダとして委嘱されたというこの作品の出自を明らかに意識しているのでは、と思えるのが、曲の中で何度となく登場するクライマックスでの緊張感あふれる演奏です。確かにこれは、とても聴きごたえのある演奏でした。
バリトンとメゾ・ソプラノのソリストは、おそらく合唱団員が務めていたのでしょう。とくに「Pie Jesu」でのソリストは、確かな熱い思いが伝わってくる素晴らしい歌唱でした。ただ、ここでのチェリストの名前はどこにも見当たりません。
カップリングに、イギリス近代音楽の始祖とされている、ヒューバート・パリーの「告別の歌」とチャールズ・スタンフォードの「青い鳥」という無伴奏合唱曲が演奏されています。

CD Artwork © Priory Records Ltd.


7月30日

LAMENT
Works by Hagen, Asheim, Nordheim
Hans-Kristin Kjos Sørensen(Perc)
Grete Pedersen/
Norwegian Solists' Choir
Ensemble Allegria
BIS/BIS-2431-SACD(hybrid SACD)


このサイトではくまなくご紹介してきたBISレーベルからのペーデシェン指揮のノルウェー・ソリスト合唱団は、今年になって「CORO」というアルバムをリリースしたばかりなのに、もう新作の登場です。どちらも2018年から2019年にかけて録音されていたもののようですね。ノリにノッてる、という感じです。なんたって、ノルウェー
今回は、ノルウェーの現代作曲家3人の作品集です。1975年生まれのラーシュ・ペッテル・ハーゲン、1960年生まれのニルス・ヘンリク・アスハイム、そして1930年に生まれて2010年に亡くなったアルネ・ヌールハイムという、いずれもその名前も、そして作品も全く聴いたことのない方々です。
まずは、この中では一番若い作曲家、ハーゲンの「ラメント」です。この録音で打楽器を担当しているソーレンセンの委嘱によって2015年に作られました。合唱に打楽器とエレクトロニクスが加わります。
3つの部分から出来ていますが、最初の部分はまず電子音なのか、あるいはバスドラムなのか判然としない低音のうなりから始まります。そこに入ってくるのが、澄み切った声の合唱。最初は単音を伸ばしていたところに、別の音が加わってきて、まるでリゲティの「ルクス・エテルナ」のような静謐なクラスターが展開されます。そのうち、そのクラスターが次第にテンション・コードっぽくなってきて、さらにほとんど長三和音プラス6度のようなとても聴きやすい響きに変わっていきます。
次の部分は、それとは対照的に、まるで雷鳴のような激しいSEの中で、男声が叫びまくる、という音楽です。
そうなると、期待通りに次の部分では穏やかな音楽が戻ってきます。それは、確かな安らぎを与えてくる、とことん美しい響きでした。そこに、とてもキラキラした音色のガラス片か金属片かは分かりませんが、それを叩く音が、サラウンドで聴いているとリアの音場いっぱいに広がって響き渡ります。
次のアスハイムの作品は、サーミの言葉で「Muohta」というタイトルです。これは「雪」という意味なのだそうですが、この曲ではさらに英語で「Language of Snow」というサブタイトルが付いています。これは、この合唱団の委嘱で2017年に作られたばかり、合唱に弦楽合奏が加わっています。
この曲では、全部で18個の様々な雪の状態を現すサーミの言葉を元に音楽が作られています。なぜか、全体はハイドンのオラトリオ「四季」に対するオマージュなのだそうで、初演の時にはその「夏」に続いてこの曲が演奏されたのだそうです。確かに、この曲の始まりは、とても穏やかな、まるで雪がしんしんと降り積もるような情景を描いたまさにハイドン的な音楽です。しかし、そこで油断すると、その後の展開には付いていけなくなってしまいます。それは、合唱とストリングスがまるで喧嘩をしているような、特殊奏法のバトルなのですからね。時折、ジョン・ケージあたりの偶然性を取り入れているのでは、とさえ思えるほどの、おそらく演奏者に任されている即興性のようなものを感じることもできます。「スキーに適した雪」みたいなところでは、スキーヤーでごったがえすゲレンデが眼前に広がります。
最後の「オーロラ」は1984年の作品、その前年に亡くなったキャシー・バーベリアンの想い出のために、という注釈があります。確かに、その、超絶技巧を誇った現代音楽のエキスパート・シンガーを彷彿とさせる、まさに「現代音楽」のテイストに満ちた部分から音楽は始まりますが、途中で「語り」が入ってくるあたりから、ほとんどミニマル・ミュージック、あるいはヒーリング・ミュージックのようなピュアな世界が前面に出てきます。そこでは、果てしなく続くコラールと、テキストの朗読という2つの世界が多層的に存在しているのですが、それぞれがサラウンドの音場によって空間的にも別の世界であることが強調されています。
この曲には、4人のソリストも登場しますが、テノールは日本人のメンバーの辻さんです。

SACD Artwork © BIS Records AB


7月28日

TCHAIKOVSKY, GULDA
Cello Concertos
Jakob Spahn(Vc)
Stephan Frucht/
Orchestra Academy of the Bayerisches Staatsorchester
HÄNSSLER/HC18016(CD, BD-A)


まさかこのレーベルからBD-Aが出るとは思いませんでした。もちろんサラウンド対応です。
かつてはここも何枚かマルチチャンネル対応のSACDを出していましたが、最近ではもはや完全に見限っていたようですから、今回のBD-Aもおそらくこれっきりで終わるような気がします。ジャケットを見ても、いかにもものすごい音が入っているぞ、と言わんばかりのインパクト溢れる画像ですからね。ちなみに、ここにはヘッドフォンがありますが、これはヘッドフォンで聴くための「バイノーラル」ではなく、きちんとした多くのスピーカーによって再生されるためのフォーマットで録音されたものです。
そして、そのフォーマットも、「AURO-3D」と「Dolby Atmos」という、最先端のサラウンドの規格でした。これを理想的な形で再生するためには、スピーカーが12個必要になります。つまり、古典的な「5.1」のサラウンドでは、フロントに左、中央、右、リアに左と右、さらにサブウーファーと、6つのスピーカーを用意(もちろん、それを駆動するアンプも6系統)するだけでよかったのですが、次第にその音場を精密にするために、まずはリアとフロントの間の左右に2つ追加して「7.1」にしたかと思ったら、今度は垂直方向の位置感を表現するために、4つのハイト・スピーカーが追加されました。つまり、「3D」になったのですね。それが、「11.1」の「AURO-3D」と「Dolby Atmos」です。ただ、このスピーカー群は、ハイト・スピーカーを別にして「7.1.4」と呼ばれることもあります。
こうなると、システム自体の呼び名も、単に平面的(二次元)に周りを囲む「サラウンド」ではなく、もっと上から下まで音に浸れることを現すために「イマーシヴ」という表現に変わりました。そうやってグレードが上がることによって、払うお金も膨大になってくるのは忌わしいですね。
でも、ご安心ください。この世界では、身の丈に合った再生に適応できるように、しっかり下位互換が保たれていますから、「11.1」のものでもちゃんと「5.1」のシステムで再生することができますからね。そもそも、そのようなシステムは巨大なスクリーンを備えた映画館の広大な空間で、迫力のあるリアルな音を体験するために開発されたものなのですから、そんなものを一般人の住宅事情の中で再現させること自体がナンセンスだとは思いませんか?
ここで演奏しているのは、バイエルン州立歌劇場のオーケストラのソロ・チェリスト、ヤコブ・シュパーンです。1983年生まれ、2011年から今のポストを務めています。曲目は、フリードリヒ・グルダのチェロ協奏曲と、チャイコフスキーの「ロココ変奏曲」と「アンダンテ・カンタービレ」、グルダはオリジナルですが、チャイコフスキーはバックが木管五重奏と弦楽三重奏になっています。演奏は、この歌劇場の「オーケストラ・アカデミー」という、26歳以下の若い音楽家が2年間の講習を受ける機関の受講生たちです。
グルダの曲は、オーケストラではなく、ブラスバンドの編成です。それはジャズのビッグバンドと、クラシックの管楽器セクションという2面性をもっていて、その2つの要素を持つこの作品に対応しています。そのどちらの面でもしっかりとしたエンターテインメントを追求した名曲です。
ここでは、演奏家はフロントに定位していますが、その次の「ロココ」では、真ん中のソリストのまわりを5人の管楽器が囲むという配置になっています。リスニングポイントはソリストの位置ですから、それぞれの管楽器の息遣いまで、しっかり味わえます。この曲は、こういう編成でもなんの不自然さもなく楽しめますね。
「アンダンテ」は、ソリスト以外はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成、2つのチェロの役割がはっきりしています。それにしても、これらのメンバーはみんな上手ですね。
もちろん、ここにはBD-Aだけではなく普通のCDも入っていますからね。

CD & BD Artwork © Profil Medien GmbH


7月25日

MOZART y MAMBO
Sarah Willis(Hr)
Havana Horns
José Antonio Méndez Padrón/
Havana Lyceum Orchestra
The Sarahbanda
ALPHA/ALPHA 578


ベルリン・フィルのホルン奏者、サラ・ウィリスのリーダー・アルバムです。コロナとは関係ありません(それは「ウィルス」)。ここではモーツァルトの協奏曲と一緒にキューバの音楽、マンボやサルサも演奏しています。
サラはアメリカ生まれ、ロンドンやベルリンでホルンを学んだ後、1991年にベルリン国立歌劇場のホルン奏者に就任し、さらに2001年にはベルリン・フィル史上初めての金管セクションの女性奏者となります。
彼女は、ベルリン・フィルの映像ではホルンセクションの紅一点として非常に目立っていましたが、演奏以外にもMCとして登場することもあり、お堅いベルリン・フィルのメンバーの中では異彩を放っていますね。
そんな彼女はキューバ音楽も大好きで、2017年には実際にキューバを訪れたこともありました。そして、首都ハバナの街中になんとモーツァルトの像があることに気づきます。
なんか、とってもユニークなモーツァルト像ですね。これを見て、この国の人たちは、マンボだけではなく、モーツァルトのことも大好きだったことに彼女は気づきます。そこから、こんなアルバムのアイディアが沸き起こってきて、2020年にキューバのミュージシャンたちとのコラボレーションが実現することになりました。
まずは、キューバのクラシックのミュージシャンたちがとてもレベルが高いことに、彼女は注目しました。そんな人たちのオーケストラが彼女のバックを務めたモーツァルトのホルン協奏曲は、それを見事に知らしめてくれるものでした。なによりも、リズム感とテンポ感がとても素晴らしく、とても軽やかで開放感のあるその演奏は、まさにモーツァルトの資質とピッタリ合致しています。
そんな中で、サラのソロは、カデンツァの中にその前のトラックで聴こえていた「マンボ」の中のフレーズを織り込むという、ノリノリのことをやっていましたね。
その「マンボ」というのは、マンボの王様と言われたペレス・プラードが作った「エル・マンボ」です。それを、ここでは4人のパーカッションと、なんと15人のホルン奏者によって演奏していたのです。最初に音だけ聴いた時にはブラス・バンドのように聴こえたのですが、その後、写真などで全員がホルンだと分かった時には驚きましたね。絶対トランペットやトロンボーンだと思っていたものが、全てホルンで演奏されたものだったのですからね。
今回新たに、モーツァルトのテーマをもとに作られたマンボ・ナンバーもここでは披露されています。正直、先ほどのスリリングなオリジナルの協奏曲(K.447)を聴いた後では、これらはどっちつかずの中途半端なもののように感じられます。そのテーマは、終楽章のロンドのテーマなのですが、6/8だったものを6/8+4/6という変拍子にしたりしているものですから、いまいちノレなくて。
このアルバムはセッション録音で作られたものなのですが、実際には同じ時期にライブも行っていました。そのライブでの録音で最後に入っているのが、かつて日本の双子デュオ「ザ・ピーナッツ」がカバーしていた「ピーナッツ・ベンダー」です。これももちろんオリジナルはキューバ音楽ですね。
これが、お客さんを前にして、メンバーがとことんノリまくっているすごい演奏でした。テーマはサラのホルンとトランペットがメインでとっているのですが、そのバックでオーケストラのメンバーでしょうか、ヴァイオリンやフルートが合いの手を入れているのが、まず素敵です。そして、何度かリズムが変わっていくうちにソロのパートになだれ込みます。まずは、サラが殆どトロンボーンかと思えるようなジャジーなソロを披露した後に、先ほどのフルート奏者がピッコロですさまじいソロを聴かせます。そうしたら、今度はヴァイオリンのソロですよ。それらが終わるたびに盛大な拍手がわき起こります。さらにトランペット、ピアノと続き、最後は他の楽器(トゥッティのヴァイオリンまで)も加わっての大団円です。超楽しいですね。

CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music


7月23日

BULL
Stage of Life
Annar Follesø(Vn)
Wolfgang Plagge(Pf)
Eun Sun Kim/
Norwegian Radio Orchestra
2L-159-SABD(BD-A, hybrid SACD)


最近読んだ小説で、イギリスの作家ポール・アダムが書いた「ヴァイオリン職人と消えた北欧楽器」というのがありました。
基本的に推理小説で、主人公であるクレモナのヴァイオリン製作者が殺人事件の捜査を行うという設定での3冊目の作品となっています。これらの小説の特徴は、その殺人事件の捜査の周りでの、本題とはあまり関係ないような蘊蓄のひけらかしが、長々と語られるというパーツが頻繁に登場するということです。このシリーズの2作目では、それはパガニーニについての蘊蓄だったのですが、ここでは、殺人事件の発端となったのがノルウェーの民族ヴァイオリン「ハルダンゲル」ということで、このノルウェーの作曲家、オーレ・ブルが登場するのですよ。
名前だけは聞いたことがありましたが、その生涯などは全く知らなかったので、グリーグが音楽をつけたイプセンの戯曲「ペール・ギュント」のモデルになった人だというのには、俄然惹かれるものがありました。あんな破天荒なことをやった人物が実際に居て、しかもそれが音楽家だったというのですから、驚きました。いや、音楽家が破天荒なのは、別に珍しいことではありませんね。でも、コンサートで儲けた巨万の富をもとに、アメリカに土地を買って、そこにノルウェーから移民を呼び寄せたなんてエピソードは、音楽家にしては壮大すぎます(このプロジェクトは結局大失敗に終わります)。
もちろん、実際にその作品を聴いたことはありませんでしたが、この小説の中で、「ノルウェーのパガニーニ」とか、「グリーグと並ぶノルウェーの国民的英雄」とまで語られているので、いつか聴いてみたいと思っていたら、タイミングよくこんな超高音質のアルバムがリリースされました。
この「2L」はノルウェーのレーベルですから、これまでにも当然ブルのアルバムは出していました。それは2010年にリリースされた「ヴァイオリン協奏曲集」でした。今回はその時と同じソリスト、アンナル・フォレソーのヴァイオリンと、同じオーケストラ、ノルウェー放送管弦楽団によって、同じ会場で録音されています。ポパイの好物ですね(それは「ホーレンソー」)。
その会場は、このレーベルではおなじみのさる教会です。その時のオーケストラの配置がブックレットにあります。それによると、マイクはソリストにはサブマイクが立てられていますが、オーケストラはサラウンド用の11本のマイクがひとまとめになったアレイだけ、それを囲むようにヴァイオリン群の向かいに低弦と管・打楽器が並んでいます。ソリストもヴァイオリンの向かい側です。面白いのは、木管では最前列にファゴットがいて、その後ろにフルート・オーボエ・クラリネットが1列になっていることです。
こういう、古典的な編成のオーケストラをこのレーベルで聴くのは初めてでした。それは今まで主に聴いてきた合唱と同じことで、個々の楽器も、全体としてのオーケストラも、同じように解像度の高い、温かみのある存在感で迫ってくるという驚異的なものでした。そして、その中からひときわ際立った存在感でソロ・ヴァイオリンが聴こえてきます。これはもう、それこそ松脂の粉が飛び散っているのが分かるほどのリアリティあふれるサウンドです。
そんな環境で味わうブルの音楽は、そのけた外れのヴィルトゥオーシティを存分に味わえるものでした。ある時はとんでもないハイノート、ある時はダブル、またはトリプルの重音と、息つく暇もなく押し寄せてくる名人芸には感服するしかありません。ロッシーニの「セミラーミデ」序曲の主部のテーマがロンド主題として使われているのはサプライズだったのでしょう。
この中には、ピアノ伴奏だけのものもあります。そのピアノはベヒシュタインなのですが、聴きなれたスタインウェイとは全然ちがう温かみが感じられる音色でした。その伴奏でとてもシンプルなかわいらしいメロディを奏でるヴァイオリンも、素敵です。

BD & SACD Artwork © Lindberg Lyd AS


おとといのおやぢに会える、か。



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