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テル・ミー。 佐久間學
いずれも「名曲」として非常に有名な作品なのですが、それらが作られたのは1806年と1935年なのでその間には130年もの隔たりがあります。当然作曲様式も変わってきますから、同じく「有名」とは言われても、その度合いにはかなりの差があるはずです。実際、まさにクラシカルの代表作であるベートーヴェンの協奏曲は誰が聴いてもすぐにそのメロディに酔いしれることはできますが、ベルクの場合は常人が1回聴いただけではとうてい「酔いしれる」というレベルに達するのは困難です。 とは言っても、このベルクの作品は、そのような音楽としてはかろうじて「普通の」コンサートのレパートリーとして親しまれています。ですから、出来るものならベートーヴェンと同じほどの親近感が持てるようになってみたいものだと、こんなカップリングのCDを聴いてみることにしました。 ここでヴァイオリンのソロを演奏しているのは、オランダのヴァイオリニスト、イヴォンヌ・スメウラースです。一見若そうな外観ですが、実年齢は分かりません。というより、この外見から、とても颯爽としたキレのよい演奏を期待して聴き始めたら、なんともジジくさい(いや、女性ですが)もっさりとした弾き方だったので、ちょっと驚いてしまいましたよ。 オーケストラの導入は、なかなかカッコいいものでした。録音会場が教会のようなところなのでしょう。とても豊かな残響でゴージャスなサウンドが楽しめますし、テンポもきっちりとしていて心が高鳴ります。 ところが、そこにヴァイオリンのソロが入ってきたとたん、その景色は一変します。彼女の演奏は、一つ一つの音、そしてフレーズの中のそれぞれの音をとても大事にしていて、まるですべての音に意味を見出して、いるのではと思えるほどの、重厚なものだったのです。指揮者に例えれば、あのチェリビダッケのような、どんな細かいところもおろそかにしないタイプのような演奏なのですね。ですから、当然テンポは非常に遅くなります。ちょっと調べてみたら、今世の中に出ているどんなCDの演奏よりも演奏時間が長くなっていました。 ただ、そんな、のたくったような演奏は第1楽章だけで、2、3楽章になると、フレーズの端々にちょっとしたこだわりが感じられるだけで、テンポそのものは普通に聴くものとほとんど変わっていませんから、1楽章だけがとびぬけて「遅い」のですね。 もちろん、そんなに遅いのはソロが弾いている時だけですから、オーケストラだけのトゥッティになると、まるで憑き物がなくなったように軽やかなテンポに変わるというのが面白いですね。 そんな、まるで地べたでもだえ苦しんでいるような、まさに「Earth」たるベートーヴェンに続いてベルクが聴こえてきたときには、そこに本当に「天国」を見たような気になったのは、まんまとこのアルバムの制作者の術中にハマってしまったからなのかもしれません。 ベートーヴェンではベタベタして汗臭いと思っていたヴァイオリンは、ソロの冒頭の4本の弦の開放弦をすべて含む3オクターブにわたる12音の音列にとても艶めかしい情感を込めていたのです。そして、それが第1楽章の後半のウィンナ・ワルツのような情景に変わるころには、すっかりその音楽の魅力に取りつかれてしまいました。 第2楽章では、その音列の最後の4つの音が、バッハが教会カンタータの中で使ったコラールの冒頭と同じだということで、そのコラールがクラリネット群で演奏されたりしています。そして、そのクラリネット・パートでは、持ち替えでアルト・サックスが演奏されることもあるということで、不思議なオーケストレーションが味わえます。 そういえば、この曲には「Dem Andenken eines Engels(ある天使の思い出に)」というサブタイトルが付けられていたのでしたね。 CD Artwork © GENUIN classics |
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そんな時に、いきなりPENTATONEから、こんなアルバムがリリースされました。やっと製作者とレーベルとの利害が一致するところが見つかったのでしょうか。 久しぶりの彼らの録音は、モーツァルトのハ短調ミサでした。2018年のツアーでのレパートリーだったのでしょうね。ブックレットにはアムステルダムのコンセルトヘボウでのコンサートの写真が載っていますが、録音されたのは彼らの本拠地グルノーブルの「MC2(Maison de la culture de Grenoble)」というところで行われた演奏会のライブです。 オーケストラはもちろんピリオド楽器を使う団体です。そこで気になるのが、この曲で1か所だけソロで登場するフルートの扱いです。もちろん、現代ではそれは専門のフルート奏者がその1曲だけのために用意されるのですが、モーツァルトの時代はオーボエもフルートも吹ける奏者がこのパートを演奏していました。ですから、本当に「ピリオド楽器」とか「ピリオド奏法」にこだわるのでしたら、ここもきちんと同じ奏者がオーボエもフルートも吹く、ということを実現させるのが筋だと思うのですが、どうでしょう。当時の人は平気でそういうことをやっていたのですから、現代人に出来ないわけはありません。これは、「バッハの『ロ短調ミサ』は、全てのパートが一人ずつで演奏した」という主張より、ずっと実現可能なことだと思うのですが。 ただ、今回のミンコフスキの演奏では、声楽に関しては、より当時の事情に近いであろうアプローチを試みています。これも、常々疑問に感じていたことなのですが、この作品での声楽ソリストの扱いが、非常に偏っているんですよね。ソプラノの2人はそれぞれソロもアンサンブルもしっかり出番があるというのに、テノールにはソロはなくアンサンブルが2曲だけ、バスはもっと悲惨で、ソロなし、アンサンブル1曲というシーティングですからね。 逆に考えれば、現代の演奏会では、この曲のバス歌手は、アンサンブルをたった1曲歌うだけで(他のソリストと同じ)ギャラをもらえるのですよ。 ミンコフスキは、そんな不条理さを、ソリストは合唱団のメンバーが務める、という、バッハの作品では日常的に使われている方法で解決していました。ですから、ここでのクレジットは4人のソリストと、9人の「リピエーノ」という形で表記されています。この曲でこんな形の合唱になっているのは、初めて聴きました。実際は、ソプラノあたりはほとんど歌いっぱなしになりますから、かなりのスタミナが必要になってくるでしょうね。 そんな、コンパクトな合唱によるモーツァルトは、かなりの緊張感をもって始まりました。少人数ならではの細やかな表現が、ストレートに伝わってくる、ゾクゾクするような演奏です。しかし、やはり先ほどの危惧は現実のものになってしまいました。よくきぐと(聴くと)、後半、「Credo」あたりから、目に見えて合唱の精度が下がってきて、明らかに集中力が落ちてきたことが分かります。なんせライブ録音ですからね。やはり、ソリストはソロに専念するという従来の方法には、それなりの意味があったのですね。 あ、ここで使われている楽譜は、新全集のエーダー版ですから、「Credo」の後半や「Agnus Dei」はありません。それらを修復した「長い」レヴィン版などを使わなくて本当によかったですね。 「Et incarnatus est」だけに登場するフルートは、逆に出番までのコンディション調整がうまくいかなかったのか、とても情けない音になっていました。でも、もしかしたらこれは「オーボエも吹けるフルーティスト」を忠実に再現していたのかもしれませんね。 CD Artwork © Pentatone Music B.V. |
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とは言っても、この作品はサティの生前には演奏されたことはありませんでした。初演が行われたのは1963年のこと、ジョン・ケージと仲間たちが交代で演奏しています。どんだけ長い曲なのだ、と思うかもしれませんが、楽譜自体はたった1ページに収まってしまうとてもコンパクトなものです。 ![]() ただ、この楽譜に作曲家自身が書き込んだのは、別に「840回演奏しろ」という「指示」ではありませんでした。実際に書いてあるのは「840回演奏するためには、その準備も心構えも大変でしょうね(意訳)」といった感じのたんなる「添え書き」だったのですよ。なんたって、タイトルが「苛立ち」ですからね。サティ自身はまさか本当に840回演奏する人がいるとは思ってもみなかったことでしょう。 そもそも、このモティーフ自体も、なんか人を食ったようなところがありませんか?3つの声部からできているのですが、テーマは楽譜にあるように一番下のパートです。リズム的には、四分音符で4拍分がワンフレーズでしょうが、最後のフレーズは1拍多い5拍子になっています。そして、調性は目まぐるしく変わります。というか、ほとんど「無調」といった感じですね。それも、無理をして変な音程の跳躍を作っているような気がするほどです。 そして、このメロディの上に2つのパートが重なるのですが、1回目では一番上のパートだったものが、2回目には1オクターブ下がって真ん中のパートに変わります。そのようにして、3つのパートがすべて同じリズムのホモフォニーとして進んでいきます。そこで、それぞれの音を見てみると、全部で18個ある音符のうちの16個までが減和音になっています。残りの2つは、2番目の音が増和音、そして12番目の音が属七の和音(F7)です。 そんなへんちくりんなモティーフをただただ弾き続ける、というのがこの作品なのでしょうが、もちろんここでの小川さんは840回も繰り返しているわけはありません。「たった」142回で終わってしまいますから、CD1枚にはちょうどいい長さですね。 そして、小川さんはいやしくもピアニストですから、この無機質な音列をただ同じように繰り返すのではなく、しっかりそこに「表現」を盛り込んでいます。そもそもこの楽譜では、「Très lent(ひじょうにゆっくりと)」というあいまいな指示以外にはなんの表情記号も付けられていませんから、そのあたりは勝手にやらせていただきます、ということなのでしょう。 まずは、全体のダイナミクスが微妙に変わっていきます。そのうち、前半と後半のダイナミクスを変えたりもしています。あとは、クレッシェンドとディミヌエンドを組み合わせた「表情」を、色々な場所で試しています。そこからは、様々なフレージングが浮き上がってきていますね。 さらに、スタッカートをつけたり、全体のテンポを極端に変えたりと、ありとあらゆる変化を持ち込んで、決して退屈させられることはありません。CDという繰り返し聴かれるメディアに収録するためには、それは当然のことだったのでしょう。 1890年に作られたというエラールのピアノも、そんな細やかな「表現」に的確に対応してくれています。 SACD Artwork © BIS Records AB |
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そこでまず、その「新入団員」のチェックです。このグループの持ち味はなんと言っても紅一点のアニャ・ペッヘの伸びのあるソプラノでしょう。その声が他の男声と融合して生み出されるハーモニーは絶品です。そこで重要になってくるのが、女声と男声の橋渡しとなるカウンター・テナーの役割です。 新任のシュテファン・カーレは、そういう意味では理想的なメンバーでした。アニャに付かず離れずアルトのパートをしっかりとこなしている上に、時としてどっちがソロをとっているのかわからなくなってしまうほどの存在感も持っています。以前のメンバーはちょっとおとなし目だったので、これでワンランクアップしたハーモニーが聴けるようになったのではないでしょうか。 今回のアルバムのタイトルは「LANDMARKS」というもので、世界中から10の国を選んで、それぞれの「ランドマーク」となる作曲家を一人ずつ取り上げてその作品を紹介する、というコンセプトのようです。 そして、ここにはもう一つのコンセプトも隠れています。それは、「ポピュラー・ミュージック」と「シリアス・ミュージック」との垣根を取り払う、ということです。この2つの概念は、今では誰も使わなくなりましたが、かつては「軽音楽」と「純音楽」という言葉で呼ばれていたものです。その両者の間には厳然たる差別化があり、他者に乗り換えることは不可能だとされていました。 今でこそ、表面的にはそんな差別はなくなったかのように見えますが、根っこではまだまだそれは解消されてはいません。というか、最近では「シリアス」の方が完全に衰退しているというのが、現状なのではないでしょうか。確かに、コーンフレークは最近食べてません(それは「シリアル」)。 この「世界めぐり」のアルバムでは、最初の国カナダではレナード・コーエン、そして最後の国イギリスではスティングと、頭としっぽにともにロック・アーティストの作品を持ってきたあたりが、そんなスタンスを象徴するものでしょう。 さらに、もう一つのカテゴリーである「フォークロア」も登場します。それは、エストニアのトルミスの作品で示されます。ここで歌われているエストニア民謡を素材にした小品は、まさに「ミニマル・ミュージック」としての存在感を誇っています。 ヴェネズエラの作曲家、フェデリコ・ルイスの「ヴェネズエラのフォークロアによる前奏曲とフーガ」というのも、痛快な曲です。そのタイトル通り、伝承曲を素材にしたバッハ風の作品で、後半のフーガではメンバーそれぞれのキャラクターがはっきり聴き取れます。 初めて名前を聞いたポーランドのモルデチャイ・ゲビルティグという人は、1942年にゲットーでドイツ兵に射殺された、本職は大工のユダヤ人ですが、「シンガー・ソングライター」として知られているのだそうです。ここで歌われている豊かなメッセージのシンプルな歌は、心を打ちます。 フィンランドのマンティヤルヴィが作った2つのマドリガルは、いにしえのマドリガルを下敷きに、1曲目は変拍子で、2曲目は不気味な調性でそれぞれ「現代」風に仕上げられた傑作です。 いずれも、このグループの卓越した演奏で余裕をもって楽しめます。おそらく、現時点では演奏面でも、そしてコンセプトの面でも世界のトップを走っているアンサンブルなのだという印象を強く持ちました。 CD Artwork © Carus-Verlag |
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CDのリリースに関しては、特に「コロナ」の影響が強く表れたということはなく、いつも通りに新譜が出続けていたような印象はあります。ですから、7年後もまた多くのアルバムやボックスが登場することでしょう。でも、その頃はもうCDという形態のメディアは消滅しているかもしれませんね。 そんな中で、このHARMONIA MUNDIレーベルは、「2020/2027」というコンセプトで、その8年間の間に「記念品」をリリースするという、無理のない企画を進行中です。とは言っても、実際には2019年から2021年にかけて、主だった作品はリリースされてしまう予定ですけどね。 交響曲に関しては、今回の「第9」は「田園」に続いての第2弾です。前回はクネヒトの「田園交響曲の元ネタ」がカップリングされていましたが、ここでは同じベートーヴェンの「合唱幻想曲」が一緒に録音されています。 指揮をしているのは1977年生まれ、現在各方面でブレイク中のスペインの新星パブロ・エラス=カサドです。彼の演奏を実際に聴くのは、これが初めてです。 オーケストラはフライブルク・バロック・オーケストラ、もちろんピリオド楽器の団体です。まず、「第9」の第1楽章が始まると、その思い切りのよいテンポ設定にとても新鮮な驚きを感じてしまいました。ピリオド楽器だと速めのテンポをとることは多いようですが、これはそんな予想をも裏切るような速さです(先入観を持つのはよそう)。 ただ、最初のうちこそ、その軽快なテンポを楽しむことはできるのですが、しばらく経つとちょっとこれは困ったことになっているな、と感じ始めました。普通、いくらテンポが速くても、そこには確かな「音楽」を感じることができるのですが、ここにはそれが全くありません。なぜかと言えば、そこにはテンポの「揺れ」が全くないからなのでしょう。音楽はメッセージですから、それを伝えるためには文字で言えば「句読点」が必要です。その役割を果たしているのがテンポの揺れなのですが、それがないために結局何のメッセージも伝わってこないという状況に陥っているのですよ。この演奏は。 ですから、第3楽章などはかなり悲惨です。そこでは、ヴァイオリンが全く「歌って」いません。いや、指揮者がイケイケでインテンポの設定を崩さないので、「歌えて」いないのですよ。 そんな四角四面の演奏で第4楽章になると、そこで加わっているソリストたちの「生き生きとした表現」が、今度はこのオーケストラの中で完全に浮いてしまっています。それは、もう気持ち悪いことこの上ありません。 その点、合唱はとてもクールにオーケストラに合わせています。この「チューリヒ・ジング・アカデミーというのは、2011年に作られたという新しい団体ですが、そのメンバーはヨーロッパ中から集まったプロフェッショナルな歌手たちばかりです。ここで何度も取り上げた「ノルウェー・ソリスト合唱団」のメンバーの日本人テナー辻政嗣さんの名前も見られます。ですから、ここでの仕事ぶりもまさにプロフェッショナル、指揮者の求める音楽(と言えるかどうか)を的確に提供しています。 「合唱幻想曲」の方は、ピアニストのベズイデンホウトの演奏を聴くべきトラックです。楽器はもちろんフォルテピアノ、まるで、初演の時のベートーヴェン自身を彷彿とさせる生々しい演奏ですから、バックの「死んだ」オーケストラは全く気になりません。 CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s. |
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正確には、ハイドンは3人の「エステルハージ」に仕えています。1761年から1762年まではパウル・アントン・エステルハージ、彼が没した1762年以降1790年までは弟のニコラウス・エステルハージ一世、そして、1794年から1804年までは、「一世」の孫のニコラウス・エステルハージ二世です。 最初にエステルハージ家に「就職」した時は、ハイドンのポストは副楽長というものでした。しかし、1766年にそれまでの楽長が亡くなるとともに、楽長に「昇進」します。その年には、ニコラウス・エステルハージ一世が1761年から建設を始めていたエステルハーザ(エステルハージ宮殿)が完成します。これは、「ハンガリーのヴェルサイユ」とも言われている、オペラハウスや劇場まで備えた宮殿です。ハイドンは、1766年からニコラウスが亡くなる1790年まで1年の半分以上をここに住み込んで彼に仕えました。 ![]() ![]() さらに、今回の録音ではフルート奏者が2人いますが、おそらくその時期のハイドンのバンドには、フルーティストは1人しかいなかったのではないでしょうか。というのも、この3曲は基本的にフルートは1本、確かに「昼」などがフルート2本とオーボエ2本が必要となっていますが、その2本のフルートが出てくるところではオーボエの出番がないのですね。つまり、この頃はフルートとオーボエの「持ち替え」が行われていたのですよ。この曲の終楽章だけでフルート1本とオーボエ2本が必要になりますから、他の楽章ではフルート奏者は休んでいたのでしょう。 この3曲の中では、そのフルートが大活躍しています。ここで演奏しているイルディコ・ケルテスという人はマルチキーの楽器を使っていて、素晴らしいピッチとテクニックを披露してくれています。その他の楽器でも、ファゴットとかコントラバスに多くのソロパートが用意されています。それは、ハイドンが新しい職場に溶け込むための気配りだったのかもしれませんね。 この3つの作品はいずれも4楽章で出来ていてきっちり「交響曲」のフォルムをとっていますが、「昼」の第2楽章ではコンサート・マスターをソロ歌手に見立てて、レシタティーヴォとアリア(+カデンツァ)という、まるでオペラのような形式がとられています。 そんな、ソリスト達の名人芸が、ホールのアコースティックスを取り入れたとても美しい録音で楽しめます。 CD Artwork © note 1 music gmbh |
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生まれたのは1981年、2003年にはCDデビューを飾ります。その頃は主にORFEOレーベルからのリリースでしたが、2009年ごろからは、PENTATONEでのリリースがメインになっているようです。 それらのアルバムのジャケットは、すべて彼女の美貌を前面に押し出した、楽器を持ったポートレートで飾られていますが、今回はなんか雪原の中で寒さに耐えながら震えているような写真が使われています。さらに、ブックレットを開くと、彼女が果樹園の中で飛び跳ねていたり、湖の水面の上でブランコに乗っていたり、紅葉の樹に抱きついていたりする写真が載っています。もちろん、全て合成ですが、その4枚の写真で「四季」を表現しているのでしょうね。なかなかお茶目なアートワークです。 そう、タイトル通り、このアルバムでは、彼女はヴィヴァルディの「四季」という、超有名な作品を取り上げていたのです。それについては、彼女自身が「正直、こんなに有名で、多くの人が曲の細かいところまで知っていてもうすでに何百もの録音が出ている中に、自分の演奏を送り込むのにはためらいがありました。でも、いいんです。これは私にとっては最初の『四季』の録音なんですから。」と、開き直っていましたね。 確かに、この曲はあまりに有名過ぎて、最近ではなにか奇抜なことでもやらない限り、その存在を認めてもらえないほどの状況に陥っています。しかし、彼女はあくまで「正攻法」でこの曲へのアプローチを行い、見事にそれを聴くものに印象付けることに成功しました。 まず、彼女は、いま流行りの「ピリオド・アプローチ」(いや、最近では「HIP」でしょうか。すでに言葉自体が流行の波に呑まれています)からは完璧に距離を置いています。彼女のスタンスは、モダン楽器の可能性を存分に駆使することによって、この、手垢にまみれた曲から新たな魅力を引き出すことだったのではないでしょうか。 それをサポートしていたのが、このレーベルならではの卓越した録音です。ここからは、彼女とその仲間の楽器から、その美しさが最大限に引き出されていました。この弦楽器によるアンサンブルの録音は、何のストレスも感じることもなく、素直にそのゴージャスさに浸れるものでした。 もちろん、ソリストの細やかな表情も、余すところなくとらえられています。特に、彼女が多用しているとてつもないピアニシモからも、ここではその極限のパッションを見事に伝えきっているのです。 そう、ここでの彼女の表現の幅広さは、へたな小細工を弄することとは全く別の次元の充足感を与えてくれるものだったのです。たとえば、各協奏曲の第2楽章では、書いてある音符を装飾することが時代的には「正しい」こととされていますが、そんなことをせずに書かれてある楽譜通りに演奏しても、「現代」では、「正しくはないかもしれないが、美しい」演奏を成し遂げることができることを、ここでは実証してくれているのです。 その上で、ここではピアソラの「ブエノスアイレスの四季」の4曲を、それぞれ同じタイトルのヴィヴァルディの協奏曲の前に演奏するという粋なことをやってくれています。オリジナルは、ヴァイオリンのソロとタンゴのバンドという編成ですが、それがここでは弦楽合奏とヴァイオリン・ソロという形に編曲されています。その編曲が巧みなのと、演奏者たちが的確にピアソラの音楽にリスペクトを持っていることから、ここでは紛れもないタンゴの強烈なグルーヴが生まれています。なおかつ、「冬」での、まるでパッヘルベルの「カノン」のような味わいまで、遺憾なく盛り込まれています。 SACD Artwork © Pentatone Music B.V. |
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さらに、彼が指揮をしているオーケストラ「ムジカ・エテルナ」に関しても謎だらけ。これまでのSONYでのレコーディングではラモー、モーツァルト、チャイコフスキー、マーラー、ストラヴィンスキーなどの作品が取り上げられてきましたが、彼らはそれぞれの時代に即したピリオド楽器で演奏しているようなのですね。つまり、このオーケストラのメンバーはどんな時代の楽器でも演奏できるというスキルを持っているのです。「レ・シエクル」以外にも、そんなすごいオーケストラがあったのでした。 ただ、クレンツィスが指揮をしたベートーヴェンの「第9」の映像では、確かに管楽器はピリオド楽器でしたが、ヴァレンティン・ウリューピンという人(クレンツィス以外にもこのオーケストラを指揮する人がいたのですね)が指揮をしたときの「田園」の映像ではモダン楽器を使っていましたね。 さらに、このオーケストラは最初はノヴォシビルスクのオペラハウスのオーケストラだったものが、ある時まるごとペルミのオペラハウスに引っ越し、しかも、現在はそこも離れて独立した団体となっているのだとか。なかなか、その実体は見えてきません。 クレンツィス自身が、SWR交響楽団という「フツーの」オーケストラの首席指揮者に就任したのにも驚きました。映像を見るとヘアスタイルもフツーになっていて、あまり「カリスマ」という感じがしなくなってるんですけど。 そのクレンツィスたちの最新アルバムは、ベートーヴェンの「交響曲第5番」でした。それ1曲だけしか入っていないCDです。それだけでちょっと意表を突かれてしまいますね。ただ、価格的には普通のCDよりもお安くなっているようですから、これはいま流行りの「EP」という扱いなのかもしれません。 録音されたのは、2018年の7月31日から8月4日まで、ウィーンのコンツェルトハウスです。弦楽器は12.10.8.8.6という、低音を増員した12型、管楽器はおそらくベートーヴェンの時代の楽器でしょう。 以前マーラーの「交響曲第6番」を聴いた時には、あまりに「まとも」な演奏だったのでちょっと拍子抜けしてしまいましたが、今回はなんたってベートーヴェンの「運命交響曲」という、誰でも知っている曲ですから、少なくともアーノンクールを超えるぐらいの衝撃が与えられることを期待してしまいます。 しかし、楽譜上はいともまっとうなフツーの演奏でした。リピートも昔からの楽譜にあるものだけで、第3楽章では行っていませんし、フィナーレでホルンやピッコロが別の音を出すこともありません。 とは言っても、やはりこのチームは間違いなく彼らにしかできない音楽を届けてくれていました。それは、全体を支配するとびぬけた疾走感です。最初の楽章で例の冒頭のモティーフが何度かフェルマータを重ねて、ひとまず21小節目でファースト・ヴァイオリンだけが音を伸ばしたその最後のところで、さらにアクセントをつけて切る、という、かなり「下品」なことをやっているのですが、それこそがこの演奏全体の疾走感を象徴するものと言えるでしょう。思わず気持ちが高ぶってしまったのでしょうね。そんな、まさにメンバーたちの中から湧き上がってきたエネルギーを、指揮者が一つの方向に導いてとてつもないダイナミックレンジに増幅したものが、ここからは聴こえてきたのです。 第3楽章のスケルツォが、まるでジャズかロックのようなシンコペーションにあふれたリズムで演奏されていたように感じたのも、そんなエネルギーがなせる業だったのでしょう。 CD Artwork © Sony Music Entertainment |
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そして、オルガンだけではなく、オルガンとは切っても切れない合唱が加わっているアルバムもたくさん揃っています。オルガンと合唱が好きな方には、避けて通ることのできないレーベルです。 もちろん、オリジナルのオルガン作品だけではなく、オーケストラのための作品をオルガン用に編曲して演奏しているものも数多くあります。それこそ、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」をオルガンで弾いていたりしますから、この楽器の新たなレパートリーとしても楽しめることでしょう。 とは言っても、マーラーの「交響曲第8番」、いわゆる「千人の交響曲」までがオルガンで演奏されていることを知った時には、いくらなんでもそれは、と思ってしまいました。まあ、合唱は簡単に集めることは出来るでしょうが、この曲のオーケストラのパートをオルガンだけで演奏するなんて、まず不可能です。 なんたって、マーラーのオーケストレーションはまさに意表を突くもので、不思議な打楽器を使ったり、まず普通のオーケストラでは聴くことのできない楽器が入っていたりしますからね。ですから、このCDはまさに「怖いもの見たさ」で聴こうと思っただけのものです。 この曲をオルガンと合唱、そしてソリストのために編曲したのは、ここでもオルガンを演奏しているデイヴィッド・ブリッグスです。彼の編曲は、声楽に関しては何の変更も行っていません。ですから、当然ソリストはオリジナル通りの8人が用意されています。 そして、合唱はニューヨークの4つの合唱団のメンバーが集まりました。その人数は総勢351人だそうです。まあ、コンサートホールでオーケストラが演奏する時とほぼ同じか、ちょっと多めといった感じですね。 会場は、世界で一番大きな石造りの大聖堂と言われている、ニューヨークの「セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂」です。この合唱団が楽々祭壇のあたりに座れるほどのスペースがあります。オルガンは、指揮者の右側のバルコニーに設置されていますから、合唱団のすぐ上ですね。これも、見た目普通の教会の大オルガンの2倍の大きさがあります。 そんなラインナップで、このCDには2016年4月7日行われたオルガン版「千人の交響曲」の「世界初演」の模様が収録されています。まずは、その堂々たるオープニングでは、オリジナルと全く変わらない音響が体験できるのがうれしいですね。もっとも、その部分はほとんどオルガンと合唱だけ、オーケストラでは低音楽器が少し加わっているだけですから、それは当たり前のことなのですが。 ただ、サウンド的には十分なものがあるのですが、その合唱がかなり大味なのが気になります。特に男声が、なにか苦し気な歌い方なのですよね。というか、この録音はとても素晴らしいもので、そんな大人数にもかかわらず合唱団員の細部の声までしっかり拾ってくれていますから、そんな「聴こえなくてもいいもの」まで聴こえてしまうのかもしれません。 ソリストたちも特に女声はこれだけの合唱の中でもしっかりその声が飛びぬけて聴こえてきます。男声もテノールは見事です。バリトンはそんな中ではちょっとおとなしすぎるでしょうか。 そして、肝心のオルガンですが、やはりこの曲をオルガンだけで、というのは絶対に無理なんだ、ということを再確認させてくれたことが、最大の収穫だったのではないでしょうか。こんなものではとても集客は望めません。 CD Artwork © Zarex Corporation |
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そんな「テルミニスト」の先駆けと言われるのが、ロシア(現在はリトアニア)のヴァイオリニスト、クララ・ロックモアです。彼女は、病でヴァイオリンを断念した時にテルミンと出会い、アメリカに亡命してこの楽器の普及に努めました。 クララの録音としては、これまでにスタジオ録音がBRIDGEとDELOSから2種類、そして放送音源がROMÉOからリリースされていました。今回のCDは、それらとは全く異なる音源によるものです。 その頃、クララの伴奏をしていたのは、彼女の6歳年上の姉でやはりアメリカでピアニストとして活躍していたナディア・ライゼンバーグでした。彼女の息子、つまりクララの甥のロバート・シャーマンという人は、音楽評論家としてラジオ番組などに登場している有名人でした。そして彼は、かつて自宅でクララとナディアが演奏しているところを録音していたのですね。もちろん、アマチュアによる録音ですから、音質的には満足のいくものではありませんが、その録音の中にはこれまでには公になっていなかったレパートリーなども含まれていました。 そこで、シャーマンは、クララの伝記を執筆中だったシカゴ交響楽団の首席ファゴット奏者、デイヴィッド・マギルにこのテープを聴かせたところ、彼はこれまでのCDにはない価値を見出します。さらに、以前クララのアルバムをリリースしていたROME()Oレーベルの創設者ロン・マンナリオも、新しいCDを出すことを勧めました。 そのような経過で、今年リリースされたのが、この2枚組CDです。ここでは、そんな「宅録」とともに、クララが最後に聴衆の前で演奏した音源とか、多くの放送でのインタビューなどを聴くことができます。 もちろんレアなのは「宅録」でしょう。石川さんではありません(それは「啄木」)。ここには、1960年頃と1977年ごろに録音されたものがありました。最初は1977年に録音されたラロの「スペイン交響曲」から第4楽章の「アンダンテ」です。演奏が始まると話し声のようなものまで聴こえてきて、いかにも和やかな雰囲気が漂いますが、ピアノの前奏に続いてテルミンの最初の音が聴こえた時には、ちょっと驚いてしまいました。これまでに、クララのも含めて多くのテルミンの演奏を聴いてきたはずなのに、これはそれらとは全然格が違います。まず、音の立ち上がりがとても鮮明で、フレーズの頭が迷いなく出ているのが、この楽器の特性を考えると驚異的なことです。音の切れ目もシャープ、細かいフレーズもしっかり別れて聴こえます。そして、音の変わり目もまるで鍵盤をたたいているように正確に決まっているのもすごいことです。普通のテルミニストだと、どうしても間にポルタメントが入ってしまいますからね。 そんな、とても信じられないような精密な操作によって、ここからはオリジナルのヴァイオリンと全く変わらない表現が生まれているのですよ。 次に収録されているのは1960年に録音されたバッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲の第2楽章(ラルゴ)です。ここではなんと、2つのソロ・ヴァイオリンのパートが、しっかり2台のテルミンによって演奏されています。この楽器は、両手を使って1つの音しか出せませんから、これは「2台」の楽器を使ったのではなく、多重録音で音を重ねてあるのですね。この時代の「宅録」としては驚異的なスキルです。 3曲目のフランクのヴァイオリンソナタ全曲でも、そんなスキルが生きています。これは、1960年に録音した時には、用意していたテープが最後の楽章の途中で終わってしまったので、その部分だけ1977年に録音して、それをつなげてあるのだそうですが、その「つなぎ目」は全く分かりませんでした。 この曲の第3楽章に出てくるトリルが、ただのビブラートにしか聴こえないのはご愛嬌。彼女ほどのテクニックをもってしても、この楽器ではトリルを演奏することはできなかったのでした。 CD Artwork © Roméo Records |
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さきおとといのおやぢに会える、か。
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