マコロン受難曲。.... 佐久間學

(16/8/2-16/8/23)

Blog Version

8月23日

British Music for Harpsichord
Christopher D. Lewis(Cem)
NAXOS/8.573668


こちらこちらで、チェンバロという楽器についての様々な問題を投げかけてくれたクリストファー・D・ルイスの、NAXOSへの3枚目のアルバムです。1枚目では「ヒストリカル」、2枚目では「モダン」の楽器を演奏していたルイスですが、ここではなんとその2種類の楽器を同じアルバムの中で弾き分けています。おそらく、今までにそんなことをやった人はほとんどいないのではないでしょうか。ということは「ヒストリカル・チェンバロ」で演奏されていた曲に続いて、「モダン・チェンバロ」で演奏された曲が弾かれているのですから、その違いはどんな人にでもはっきり分かるということです。なにしろ、この楽器は非常にデリケートですから、会場の響きやマイクのセットの仕方で音が全く違って聴こえてしまいます。その点、このアルバムでは、おそらく全く同じ条件でその2種類の楽器を聴き比べることができるはずですからね。
ここで使われている楽器は、「ヒストリカル」は1638年に作られたリュッカースのフレミッシュ・モデルのコピー、「モダン」は1930年代に作られたプレイエルです。さらに「おまけ」として、1曲だけヴァージナル(1604年に作られたリュッカースのミュゼラー)で演奏されたトラックも加わっています。
まずは、レノックス・バークリーの2つの作品がモダン・チェンバロで演奏されます。彼がチェンバロのための曲を作るきっかけとなったのが、オクスフォード大学時代に同室だったヴェレ・ピルキントンというおせち料理のような名前(それは「クリキントン」)の友人でした。彼はアマチュアの音楽家で、みずからチェンバロを弾いていましたから、彼のために何曲かのチェンバロ曲を作ったのです。「ピルキンソン氏のトイ」というのは、バロック時代のチェンバロ曲のタイトルとして使われた「トイ」をそのままタイトルにした、いかにもバロッキーな舞曲、「ヴェレのために」は、もう少しモダンなフランス風のテイストを持った作品です。これらが作られたのは1930年ごろ、まさに伝説の楽器チェンバロが、モダン・チェンバロという形をとって復活したころですね。バークリーはこの楽器にいにしえの時代を感じながら、「モダン」な曲を作ったのでしょう。その楽器の音は、まさに「新しい」、言ってみれば「文明的」な音がしていました。
それに続いて、ヒストリカル・チェンバロによるハーバート・ハウエルズの「ハウエルのクラヴィコード」という曲が聴こえてきた時には、誰しもが「これが同じチェンバロか?」と思うはずです。その繊細な音の立ち上がり、鄙びた音色、まさにこれこそが昔からあったチェンバロそのものの響きです。ただ、ちょっと気になるのが、マイクアレンジ、あるいは録音レベルの設定、まるで楽器の中に頭を突っ込んで聴いているようなあまりに近接的な音場です。ですから、これでも明らかにモダン・チェンバロとは異なる音であることはしっかり分かりますが、もっと適切な録音方法であったならば、その違いはさらに決定的なものになっていたことでしょう。
この作品は、20年以上にも渡って書き溜められた20曲から成る曲集ですが、ここではその中から13曲が抜粋されて演奏されています。それぞれには、まるでエルガーの「エニグマ変奏曲」のように作曲者の友人などの名前が実名(エルガーの場合は匿名)でタイトルになっています。サーストン・ダートとか、ジュリアン・ブリームといった、我々にもなじみのある名前も登場するのには親しみが感じられますが、作風はとても生真面目でとっつきにくい面がありますね。全体のタイトルにあるように、この曲集は本来クラヴィコードのために作られたものです。ですから、その雰囲気をと、最後のトラックでは1曲目だけヴァージナルで演奏されています。しかし、これもやはりマイクが近すぎるために、この楽器の本当の味が分からなくなっているのが残念です。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


8月20日

GRIGORJEVA
Nature Morte
Conrad Steinmann(Rec)
YXUS Quartet
Paul Hillier/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Theatre of Voices
ONDINE/ODE 1245-2


エストニア・フィルハーモニック室内合唱団の新しいアルバムが出ました。指揮をしているのが、かつての首席指揮者のポール・ヒリアーです。彼がそのポストにあったのは前任者のカリユステから引き継いだ2001年から2007年まで、意外と短かったのですね。2008年からはダニエル・ロイスが後継者になったというところまでは知っていましたが、2014年からはラトヴィア人のカスパルス・プトニンシュという人に替わっているのだそうです。
今回のアルバムは、エストニアの作曲家ガリーナ・グリゴリエヴァという、初めて名前を聞く人の作品集です。6曲収録されているうちの5曲までが合唱曲、あとの1曲はリコーダーのソロのための作品です。1962年にウクライナに生まれ、1992年からエストニアに住んでいるというグリゴリエヴァは、写真で見ると名前に似ず(ガリグリゴリ)とてもソフトな感じの女性です。
それを聴く前に、このCDにはエンジニアとしてプレベン・イワンの名前がクレジットされていたのには驚いてしまいました。まさか、このレーベルで彼の名前にお目にかかれるとは。デンマークのDACAPOレーベルでの数々の名録音ですっかりファンになってしまったこのエンジニア、特に合唱にかけては裏切られたことはありませんから、とても楽しみです。そこで、まずCDで最初の曲を聴き始めたのですが、録音会場が教会だったために、ものすごい残響を伴った音でした。もちろん、それはイワンの狙ったことなのでしょうが、そんな残響の中でもくっきりと浮かび上がってくる合唱はとても魅力的でした。ただ、やはりCDの限界も見えてしまいます。なぜSACDにしなかったのでしょう。確かに、このレーベルでは最近のリリースを見ると以前SACDで出していたアーティストでもCDになっていたりしますから、もうSACDには見切りをつけたのかもしれませんね。なんともったいない、と思ってさるハイレゾ配信サイトを見てみたら、ちゃんと24/96のハイレゾ音源がリリースされているではありませんか。せっかくの録音なのですから、CDで聴くのは時間の無駄、即刻ハイレゾをダウンロードしてしまいました。ハイレゾ音源は、もちろんCDとは比べ物にならない、素晴らしいものでした。合唱の声の瑞々しいこと、残念ながら、これだけはCDで味わうことはまずできません。HARMONIA MUNDIのように、CDでリリースしたものでも、自社のサイトでハイレゾ音源を無料でダウンロードできるようなところもあるのですから、他のレーベルもそれを見習ってほしいものです。
そんな、最高のコンディションで聴くことが出来たグリゴリエヴァの作品には、写真で見る外観からは想像できないようなエネルギッシュな音楽が詰まっていました。最初の「Svjatki」という、ロシアの暦でクリスマスの時期を表わす言葉をタイトルにした6曲から成る曲集は、彼女の学生時代から追及していたテーマ、民族的な素材を、そのまま使うのではなく彼女の語法で再現するという手法が結実したものです。そこからは、大地に根付いた叫びと同時に、懐かしさのようなものがじわじわと感じられてきます。女声合唱だけで歌われる曲でも、とても暖かい情感が聴かれます。
次の「Salva Regina」という、弦楽四重奏と4人の重唱による作品は、うって変わってペルト風の作風が前面に押し出されたものです。最近の曲では、この路線が貫かれているようで、最後に収録された2012年の作品「In paradisum」などは、まるでバーバーの「Agnus Dei」(つまり、弦楽のためのアダージョ)のようなテイストです。男声だけによる2011年の「2部作」なども、静謐の極致。地を這うようなベースの凄いこと。しかし、2008年に作られた3曲から成る「Nature Morte」の1曲目では、まさに「現代音楽」という尖がった手法が見られるのが、興味深いところです。
さらに、ルネッサンス・リコーダーによる「Lament」では、信じられないような超絶技巧が満載、エンターテインメントとしての味さえ感じられます。

CD Artwork © Ondyne Oy


8月18日

MENDELSSOHN/Symphonien 1 & 4
WIDMANN/Ad absurdum
Sergei Nakariakov(Tr)
Jörg Widmann/
Irish Chamber Orchestra
ORFEO/C 914 161 A


昔からなじみ深いレーベルの一つ、ORFEOですが、久しぶりに手にしてみたら、レーベルが間違っているのではないかと思ってしまうほど、ジャケットのデザインが変わっていました。かつて、アール・デコ風に統一されていた装飾が、いつの間にかなくなっていたのですね。
演奏している人たちも、トランペットのナカリャコフ以外は全く知らない名前でした。オーケストラの名前を見て、最初はイランのオーケストラだと思ってしまったぐらいですから。もちろん、これは「アイルランド」の室内オーケストラです。ただ、同じアイルランドの団体で、これによく似た「New Irish Chamber Orchestra」という名前は聞いたことがあります。ゴールウェイがベルリン・フィルを辞めてソリストになっても、まだRCAとのアーティスト契約が結ばれていなかった1974年に、一緒にモーツァルトのフルート協奏曲を録音した団体です。
しかし、実はこれは今回の「Irish Chamber Orchestra」とは全く同じオーケストラでした。1963年に創設されたこのオーケストラは、1970年から1995年までは、さっきの「New」が頭についた名前だったのだそうです。現在では正団員を22人、常トラを16人抱える編成で、コンサートマスターが指揮を行ったり、さらに2人の指揮者が「パートナー」となって演奏会や録音を行っています。ここで指揮をしている「Principal Guest Conductor / Artistic Partner」という肩書を持つイェルク・ヴィドマンはクラリネット奏者、さらには作曲家としても活躍している方です。
このCDは、ヴィドマンとこのオーケストラによるメンデルスゾーンの交響曲全集として計画されている3枚のうちの1枚目ですが、そのどれにもヴィドマンの自作がカップリングされている、というのが、ユニークなところです。ここでは、ナカリャコフをソリストに迎えて、2002年に彼のために作られた「Ad absurdum(耳障りなように)」というタイトルの小協奏曲が演奏されています。
メンデルスゾーンのふたつの交響曲に挟まれるような形でマスタリングされている(録音時期は全部の曲が違っています)この作品は、まさにナカリャコフの超絶技巧を誇示するために作られたようなものでした。ヴィドマンの作曲の師はヘンツェやリームだということで、どんだけ退屈な音楽なのかと覚悟して聴き始めたのですが、そんな先入観は完全に覆される、最後までとても緊張して聴いていられる刺激的な作品でした。
最初にいきなり出てくるのが、まるでかつてのペンデレツキかと思われるような弦楽器の軋み、それに乗って、ナカリャコフの無窮動が始まります。それは彼の得意技の「循環呼吸」によって、1分45秒も全くノンブレスで演奏されていたのです。まさに無休動。そのバックでオーケストラはとても難しいシンコペーションを打ち込んでいますし、フルートに至ってはそのナカリャコフ並みの早いパッセージを弾かされるのですから、大変です。このあたりは、まるでジャズ・バンドでプレーヤーがアド・リブのソロを取っているような感じ、ティンパニの壮大なソロなどは、まさにドラム・ソロに匹敵するものです。
終わり近くになって、さらなるサプライズが待っていました。なんだか、デジタル・キーボードのような音が、それまでのテンポをさらに上回る「速弾き」を始めたのです。それはとてつもないスピード、まるでナカリャコフのソロさえもあざ笑うように鮮やかなフレーズを正確に演奏しています。ライナーを読んでみたら、それは「バレル・オルガン」であることが分かりました。穴の開いた紙をハンドルで動かして音を出す、いわゆる「ストリート・オルガン」ですね。これだったら、いくらでも早く弾けます。
メインのメンデルスゾーンも、なかなか意表をつく表現があちこちに出没していて、楽しめました。ただ、特に「1番」で弦楽器の音がとても曇った精彩のない響きなのは、エンジニアがサイモン・イードンなので期待したのに、完全に裏切られてしまいました。

CD Artwork © ORFEO International Music GmbH


8月16日

MOZART
Die Entführung aus dem Serail
Jane Archibald(Konstanze), Norman Reinhardt(Belmonte)
Misha Schelomianski(Osmin), David Portillo(Pedrillo)
Rachele Gilmore(Blonde), Christoph Quest(Selim)
Jérémie Rhorer/
Le Cercle de L'harmonie
ALPHA/ALPHA 242


以前、モーツァルトの交響曲のアルバムなどで、とてもセンスの良いピリオド楽器の演奏を聴かせてくれていたジェレミー・ロレルとル・セルクル・ド・ラルモニーという黄金コンビが、ついにモーツァルトのオペラを録音してくれました。とは言っても、これはその交響曲のようなセッション録音ではなく、2015年の9月にパリのシャンゼリゼ劇場で上演されたもののライブ録音です。それも、レーベルによる録音ではなく、放送局が録音した音源がそのまま使われています。おそらく、本番だけのテイクで、編集もされていない、本当の「ライブ」なのでしょうね。同じピリオド楽器のスターたち、ヤーコブスやクレンツィスはきちんとセッションで納得のいくまで手をかけているというのに。
もう一つ気になったのは、このオーケストラをロレルとともに創設したコンサートマスターのジュリアン・ショヴァンの名前が、オケのメンバーからは消えていることです。彼は2015年の1月に「ル・コンセール・ド・ラ・ロージュ」というアンサンブルを新たに作ったために、このオーケストラから去っていってしまったのです。
そんなことを知ったのは、全曲を聴き終わってからでした。今までのアルバムが本当に素晴らしかったので、とても期待してこれを聴きはじめたのですが、なにかが違います。序曲からして、なんのサプライズもないどこにでもあるような平凡な演奏です。別に平凡が悪いというわけではありませんが、今までの彼らの演奏には確かな「意志」が感じられる瞬間が必ずあったものが、ここではそれが全く見当たらなかったのですね。そんなはずはない、と、あちこち検索してみたら、そんな事実が分かったということです。この「脱退」と演奏の間にはなんの因果関係もなかったんだったい、と思いたいものですが・・・。
さらに、この録音を聴いていまいちノレなかったのは、ベルモンテ役のテノールのせいです。このノーマン・ラインハートというアメリカ人は、テノールというよりはバリトンのような、低いところで共鳴させているような声ですから、かなり重めの音色、さらに歌い方もかなり重々しいのでこの役を歌った時に大方のリスナーを満足させることはできないのではないでしょうか。なんせ、序曲が終わって最初に声を出すのがこの役ですから、それで自ずとこのオペラ全体のテイストが決まってしまいます。そこにこの声が出てくるのは、ちょっと辛いものがあります。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のアンダンテ楽章に酷似した15番のアリア「Wenn der Freude Tränen fließen」なども、とても繊細なオーケストラの前奏に続いて、この力の入り過ぎた歌が出てくると、がっかりしてしまいます。あくまで、個人的な感想ですが。
コンスタンツェ役のソプラノも、やはりちょっと重めでコロラトゥーラなどは悲惨ですが、その他のキャストは善戦しているのではないでしょうか。ブロンデ役のギルモアも、ペドリッロ役のポルティロもなかなかいい味を出していますし、オスミン役のシェロミャンスキーも、この役にはもったいないほどの知的な歌い方で、なおかつ粗野さを表現するというすごいことをやっていました。冴えないと思われていたオーケストラも、彼のナンバーのバックでは見違えるような生き生きとした姿を見せていたような気がします。セリム役の語りの人は、ちょっと甲高い声で、ほとんど威厳が感じられません。ルックス的にはかなり堂々としているのでしょうが。
対訳を見ていて、第3幕が第3場から始まっていることに気づきました。楽譜では第1場と第2場としてセリフだけのシーンがあるのですが、ここはカットされるのが慣習なのでしょう。他の録音や映像でも、ほとんどカットされていました。ここだけセリフがある「クラース」という人(セリムの家来?)の唯一の出番なのに。

CD Artwork © Alpha Classics/Outhere Music France


8月13日

MELARTIN
Traumgesicht, Marjatta, The Blue Pearl
Soile Isokoski(Sop)
Hannu Lintu/
Finnish Radio Symphony Orchestra
ONDINE/ODE 1283-2


シベリウスが生まれてから10年後の1875年に、現在はロシア領となっているカレリア地方のカキサルミで生まれたのが、エルッキ・メラルティンです。正直、このあたりの北欧の作曲家にはそれほどなじみがありませんから、この人の名前も今まで全く知りませんでした。それが、CDを出せば必ずチェックしていたハンヌ・リントゥとフィンランド放送交響楽団とのONDINE盤でこの人が取り上げられていたのと、さらに、その曲目の中に「マルヤッタ」というタイトルがあったので、俄然興味が湧いてきました。
実は、最近シベリウスの「交響曲第3番」に関していろいろ調べる機会があったのですが、その時に、同時に作曲を進行していた「マルヤッタ」というタイトルのオラトリオのことを知りました。結局それは完成には至らなかったものの、そこで用いられていたモティーフがこの交響曲の中で「再利用」されているということで、同じ素材がこのメラルティンの作品ではどのように扱われているのかを知りたくなったのですね。
「マルヤッタ」というのは、フィンランドの長編叙事詩「カレヴァラ」の最後に登場するエピソードです。なんでもマルヤッタという名前の少女が野に生えていたベリーの実を食べたことで男の子を出産し、その子がそれまでの王だったヴァイナミョイネンに替わって王となる、というような話なのだそうです。もちろん、それはキリスト教の要素がこの民話にも影響を及ぼした結果なのだ、と説明されています。
シベリウスの場合はその物語の中の「救世主の誕生」や「受難と死」、そして「復活」といったモティーフが、交響曲第3番の中に反映されているのだ、とされています。
それがメラルティンの場合は、ソプラノ・ソロとオーケストラのための、15分にも満たない曲に仕上がっていました。それは、まるでアニメのサントラのような、情景描写に主眼を置いた音楽のように思えます。冒頭からカッコーの鳴き声の模倣が聴こえるのは、確かにマルヤッタがカッコーと語り合うシーンと呼応しています。テキストはもちろんフィンランド語ですが、対訳の英語でそのあらましは理解できます。それによると、ここでは先ほどの「受難」や「復活」といった場面は登場せず、いきなりヴァイナミョイネンが現れて、カンテレを男の子に手渡して去っていく、といった情景で曲が終わっているようでした。シベリウスの場合は3つの部分から成る大オラトリオだったと言われていますが、それに比べるとずいぶんコンパクトな感じがしてしまいます。音楽も常に明るく、耳にすんなり馴染むものでした。
アルバムには、もう2曲収録されています。まずは、「マルヤッタ」の少し前に作られた「Traumgesicht」というドイツ語のタイトルが付いたオーケストラのための作品です。「夜の情景」といった意味でしょうか。サンクト・ペテルブルクでの、アレクサンドル・ジローティの指揮するコンサートのために作られたものです。これは、ヨーロッパ音楽の伝統をそのまま受け継いで、あえて民族的な要素は取り入れていないような作風です。オーケストレーションもとても色彩的な響きを重視していて、ほとんど映画音楽のような派手な作りになっています。そんな中で、それぞれのエピソードが何の準備もなしに唐突に登場するというあたりが、サプライズとしての面白さになっています。時々聴こえてくるドビュッシーのようなモーダルなテーマが、隠し味。初演後に何度か演奏された後はすっかり忘れ去られていたものが、2013年にリントゥとフィンランド放送交響楽団によって81年ぶりに甦演されたのだそうです(もう疎遠ではありません)。
もう1曲のバレエ曲「青い真珠」は、海を舞台にしたおとぎ話。作曲家の晩年の作品で、まるでチャイコフスキーのバレエ曲のようなキャッチーな作品です。最後から2番目の「ヴェールをかぶった魚」というナンバーが、ファンタスティックで素敵です。

CD Artwork © Ondyne Oy


8月11日

VERDI
Requiem
Herva Nelli(Sop), Fedora Barbieri(MS)
Giuseppe di Stefano(Ten), Cesare Siepi(Bas)
Arturo Toscanini/
The Robert Shaw Chorus(by Robert Shaw)
NBC Symphony Orchestra
MEMORIES/MR2482


ヴェルディの「レクイエム」では極めつけの名盤と言われてきた、1951年1月27日にカーネギーホールで行われたNBCの公開録音によるトスカニーニ指揮のNBC交響楽団の録音は、本来はラジオ放送のためのものでした。そこでNBCによって設置されたマイクから独自に録音を行ったRCAは、リハーサルと本番の演奏から編集をして、レコードとしてリリースします。それは、全世界でリリースされましたが、今ではもちろんCDによっても何種類かのものが発売されています。さらに、わざわざイギリスでプレスされたLPを使って板起こしを行い、CD化されたものも、日本で作られていたりします。それを、以前こちらで聴いていましたね。
トスカニーニの演奏は、最晩年の1954年ごろになると最初からステレオで録音されたものも出てきます。ただ、この「レクイエム」のころはまだそんなことはとても無理な時代でしたから、これは当然モノーラルで録音されたものです。
それが、突然こんなヒストリカルのレーベルから、この有名な録音の「World Premire Stereo Recording」というものがリリースされました。しかし、このCDから得られる情報は、そのクレジットが黄色い文字でレーベルのマークの前に横たわっているだけで、それ以外のことは何も書いてありません。
ところが、なぜかこのCDを販売している日本の代理店が作った「帯」には、「偶然にもマイクが二か所に同時に立っていたので、それを合成してステレオ録音が出来上がった」というようなことが書かれています。レーベルが公開していない情報を、この代理店がなぜ入手できたのか、という点で、まずこのコメントは信用する気にはなれませんが、それ以前に、全く別のマイクで、別のレコーダーに録音されたものを使って録音されたもので「ステレオ録音」を実現させるなんてことが、いかに技術が進歩したからといっても可能だとは到底思えないのですけどね。
逆に今の時代、かつてのモノーラルの録音をステレオに作り直すなんてことは、とても簡単なのではないでしょうか。いや、現実に、かなり昔からそういう技術はありましたからね。EMIの「ブライトクランク」などはかなり良くできた「疑似ステレオ」だったはず、それは、今のテクノロジーをもってすれば、さらに「本物らしい」「疑似ステレオ」を作ることなど、わけもないはずです。
そんな、最初から疑いの目をもって聴くというのは良くないことかもしれませんが、なにしろこの業界はこんなふうにあてにならないことばかりですからそうせざるを得ません。この「レクイエム」、オリジナルに比べるととても耳あたりが良くなっていて、確かに楽器群やソリストの定位もはっきりしていますから、リアル・ステレオのように聴こえますが、逆にその定位がはっきりしすぎているのが怪しいんですね。一番よく分かるのは、「Dies irae」のバスドラム。これが、はっきり右の端から聴こえてきます。こういう音場にするためには、ほとんどバスドラムだけで1本マイクを使う必要があるはずです。「偶然同時に立っていた」マイクが、バスドラの真ん前にあったなんてありえません。オリジナルでも、この楽器の音は際立っていますから、これだけを抽出して右チャンネルに振り分けるのはとても簡単だったのではないでしょうか。
それと、全体的に低音がオリジナルよりも大幅に減衰しています。これは、もしかしたら楽器を振り分ける際の位相がうまく合わなくて、低音が打ち消しあってしまった結果なのではないでしょうか。
いずれにしても、レーベルはこの録音の出自について、自ら説明を行う責任があるはずです。絶対に誰にも信用されないようなデマで飾るのは最悪です。
最後の拍手だけは、なぜかモノーラルになっています。これは、この前で、「もう一つのマイク」の音がなくなっていたと思わせたい小細工にしか聴こえません。モラルを疑います。

追記1:
実は、このCDは、別の音源の海賊盤のようでした。オリジナルのテクニカル・ノーツが見つかりましたが、それによるときちんとしたものであるようですね。

追記2:
この「修復」を行った方は、過去にこんなところで有名になっていたそうです。だからと言って、彼の仕事を鵜呑みにすることはできません。

CD Artwork © Memories Excellence


8月9日

音楽する日乗
久石譲著
小学館刊
ISBN978-4-09-388499-0


「『日乗』って?」と、まず思ってしまいました。音楽をでっちあげるんじゃないですよ(それは「捏造」)。「日常」の間違いなのか、あるいは、もっと気取って「日譲」だったのか。とは言っても、なんせ一冊の本のタイトルですから間違いなんてありえません。あわてて国語辞典を引いてみたら、しっかりこの言葉がありました。「日乗=日記」なんですって。ということは、このタイトルは「音楽する日記」となるのでしょうが、そうなると日本語としておかしくないですか?実は、この本は同じ出版社の「クラシックプレミアム」という雑誌に、隔週で連載されていたエッセイを集めたものなのですが、その時のタイトルは「音楽的日乗」でした。これならきちんと意味が成立していますし、ほのかに「日乗」と「日常」とを絡めたような味さえも感じられますね。それが、「的」を「する」に変えただけで、どうしようもなくへんちくりんなものになってしまいました。
著者は、一連のジブリのアニメのサントラやテーマ音楽で多くのファンを持っている作曲家です。今回の著書では、巻末に30ページにも渡ってその「作品」のリストやディスコグラフィーが掲載されていますが、それは膨大な量。そのような「作家」としてだけでなく、彼は実際にピアニストや指揮者として、時にはシンフォニー・オーケストラとともにステージに立っていたりします。なんでも、そのようなコンサートは、チケットが発売されるやいなやソールド・アウトになるという、まるでAKBやジャニーズのようなアイドル並みのファンを獲得しているというのですから、すごいものです。これは、そんな著者の日常を綴った「日乗」なのでしょう。
通常、そのような読み物は、実際に本人が執筆するのではなく、インタビューのような形で本人が語ったことを、ライターさんが原稿に起こす、といったような形で雑誌には掲載されるのでしょう。ただ、ここでは「著者」はそのような部分と、実際に自分の手で原稿を書いた部分とがあることと、それがどの部分であるのかをきちんと明記しています。今時珍しい「正義感」にあふれた人なのでしょう。
ただ、そうなってくると、ご自分で書かれた部分での「粗さ」がとても目立ってしまいます。別に著者はプロのライターではないのですから、だれも文章の美しさなどは期待していないのですが、やはり「久石譲」という名前を背負っている文章としては、それなりの内容のクオリティは期待されています。毎回の原稿は2000字程度でしょうか、そんな決して多いとは言えない字数のなかで、半分近くを原稿が書けない言い訳に費やしているのを見るのは、とても辛いものがあります。ここは、きっちり「プロ」の手を借りて、多くの人に読まれても恥ずかしくない程度のものにはしておいてほしかったものです。いきなり「今の若い者は」みたいなジジイの説教が現れるような駄文は、誰も読みたいとは思わないはずです。平均律の話をするときに「1オクターブは上のラ(440Hz)から下のラ(220Hz)を引いた220Hz」などととんでもないことを言い出したのには、言葉を失いました。この人、ほんとに音楽家?
とは言っても、やはりこれだけのキャリアと人気を誇る作曲家ですから、そんな駄文のなかからでもなにがしかの知的な閃きを探し出すことは不可能ではありません。たとえば、「ユダヤ人」に関する彼の視点。これは、常々疑問に思っていたことが、少しは氷解するきっかけにはなったかもしれません。それと、きちんと「理論はあとからついてくるもの」という認識を持っているのは、さすがですね。
仙台に住んでいるものには、彼が作ったこの地方の電力会社のCMの音楽を聴けるという特権があります。1日に何度となくテレビから流れてくるその音楽は、とことん陳腐で退屈なものでした。なぜこんなものを恥ずかしげもなく公に出来るのか、この本を読んで少しは分かったような気がします。

Book Artwork © Shogakukan Inc.


8月6日

THOMPSON
Requiem
David Hayes/
The Philadelphia Singers
NAXOS/8.559789


ランドール・トンプソンという名前の作曲家など、初めて聞いたのでは、と思っていたら、実はこちらですでに彼の作品を聴いていました。そこで取り上げられていたのは「Alleluia」という無伴奏の合唱曲でしたが、それを初めて聴いた時には、言いようのない新鮮な感じを持ったことを憶えています。とても深いところで心に訴えるものを持った、「本物」の音楽です。
もう一つ、彼はあのバーンスタインの先生だった、ということで知られています。ただ、巷間(たとえばWikipediaとか、それをコピペしたと思われるこのCDのインフォ)、「レナード・バーンスタインはハーバード大学での生徒の1人であった」とされている情報は誤りです。バーンスタインはハーバードを卒業した後、カーティス音楽院のオーケストレーションのクラスでトンプソンに師事していたのですから。
そんな、他人に「管弦楽法」を教えるほどのスキルがあり、自身の交響曲もいくつか作っているトンプソンですが、彼は主に合唱作品の作曲家としてアメリカでは広く知られています。とは言っても、実際にその作品を聴く機会はほとんどなく、この1958年に作られた「レクイエム」も、これまでに部分的に録音されたものはありましたが、全曲録音としてはこのCD(録音されたのは2014年)が世界で初めてのものとなります。
20世紀以降に作られた「レクイエム」では、もちろん伝統的なテキストによる作品もたくさん作られてはいますが、それにはあまりこだわらないもっと自由な形式のものもあります。例えば1962年のブリテンの「戦争レクイエム」では、オリジナルのラテン語の典礼文の他に、別の現代詩人の詩が用いられています。もっと時代が近い1985年のジョン・ラッターの作品でも、やはりそのような自由詩が挿入されています。しかし、このトンプソンの「レクイエム」では、そのタイトルの由来ともいえる「Requiem aeternam」というテキストすらもどこにも見られなくなっていました。彼が用いたテキストは、すべて英訳された聖書からの引用だったのです。
これはなかなかユニークな発想ですが、過去にそんな例がなかったわけではありません。それは、これより1世紀近く前、1868年に作られたブラームスの「ドイツ・レクイエム」です。したがって、このトンプソンの「レクイエム」は、誤解を招かないように「アメリカ・レクイエム」とでも言った方がいいのかもしれませんね。
もちろん、トンプソンが選んだ聖書のテキストは、ブラームスのものとは何の関係もありません。彼は、彼自身のインスピレーションに基づいて言葉を選び、再構築しているように見えます。そして、それらのテキストを、2つの無伴奏の混声合唱に振り分けたのです。そこで彼は、「第1コーラス」を、愛する人を失って悲しみにくれる「嘆きの合唱」、「第2コーラス」を、その人たちに死者の永遠の安息(これが「Requiem aeternam」)を信じさせて慰めを与える「信仰の合唱」と位置づけ、それぞれの合唱の「対話」という形で音楽、あるいはそこで描かれる「ドラマ」を進行させているのです。
そのような作曲家の意図を最大限に表現するために、演奏家と録音スタッフはそれぞれの合唱の性格を際立たせるように細心の注意を払っています。特に、録音面では、2つの合唱をそのまま録るのではなく、「第2コーラス」にはリバーブを深めにかけて、「第1コーラス」との距離感がはっきり分かるようにしています。
それだけの準備に応えられるだけのとてつもない力を、この、デイヴィッド・ヘイズが指揮をしているフィラデルフィア・シンガーズは持っていました。その芯がある音色と、完璧なハーモニー、そしてポリフォニーにおける目の覚めるようなメリスマ、それらが一体となって、この「レクイエム」は確かな命を吹き込まれ、言いようのない感動を引き起こすことになったのです。録音も超一流、機会があればぜひ24/96のハイレゾ音源で聴いてみて下さい。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


8月4日

ja, vi elsker
Tone Bianca Sparre Dahl/
Schola Cantorum
Ingar Bergby/
Forsvarets stabsmusikkorps
2L/2L-104-SABD(hybrid SACD, BD-A)


少し前に出たアルバムですが、とても興味のある内容なので、取り上げてみました。これがリリースされたのは2年前の2014年、その時は、このレーベルのあるノルウェーでは憲法制定200年をお祝いする行事で賑わっていたのだそうです。1814年5月18日に制定された憲法によって、ノルウェーは民主国家としての歩みを始めたのでした。魚料理がおいしいですよ(それは「民宿国家」)。
それにしても「200年」というのはとてつもない長さです。アメリカ合衆国憲法の「230年」には負けますが、ヨーロッパでは最古の成文憲法なのだそうです。もちろん、この間には何度も(400回とも言われています)改正が行われて、現在の形になったのだそうですが、最初に出来たときの理念が、その改正によって失われることは決してありませんでした。ノルウェーの国民は皆この憲法を愛していて、毎年その制定の日には国中がこぞってお祝いに参加しているのだそうです。
これは、翻ってたった70年しか経っていない「日本国憲法」の扱われ方と比べてみると、なんだかとてもうらやましいような気になってきます。「憲法記念日」という名前の祝日にはその憲法に反対する人たちが集まって気勢を挙げたりしていますし、その音頭を取っているのが、政権与党なんですからね。
以前、この国の機関に属する団体の音楽隊の入学要綱を見たことがありますが、そこには受験資格として「日本国憲法を遵守する者」という項目がありました。これだけ見ると、日本国憲法を遵守しないどころか、それを根幹から改正(いや、改悪)しようとしている人には、この音楽隊に入る資格がないということになります。つまり、日本人としての資格がないものとみなされるのでしょう。この国の政権は、そんな人たちの手にゆだねられているのですよ。そんな中では、憲法記念日を盛大にお祝いしようなどという機運が盛り上がるわけがありません。
ノルウェーの人たちは違います。このレーベルのスタッフも、おそらく子供のころからそのような自国の憲法に対しての愛着を持っていたのでしょう。それが200周年という晴れがましい記念日を迎えるということになれば、心の底からそれをお祝いしようという気持ちになるのは当然です。いつもは、なんともマニアックでとっつきにくいアルバムを作っているモーテン・リンドベリは、ここではそんなポリシーをかなぐり捨てて、誰でもいとも気安く共感できるような素敵なアルバムを届けてくれました。
まず、ここでは野外で演奏されることを念頭に置いて吹奏楽団がメインを務めています。まるでハリウッド映画のイントロのような派手なファンファーレに続いて合唱が歌い出したのは、「God Save the Queen」と全く同じメロディの曲でした。イギリスの国歌として広く知られていますが、そのメロディ自体は17世紀頃に作られた(作曲者不詳)のだそうですね。ノルウェーでも、これは「国王の歌」として親しまれています。
その後は、ほとんど聴いたことはありませんが、とてもキャッチーな行進曲系の曲が続きます。演奏している吹奏楽団は一応「軍楽隊」ということですが、かなりのハイレベル(もちろん、厳格な入団試験があるのでしょうね。そこには「憲法を遵守」する人だけが入れるのでしょう)、その辺の「ブラスバンド」のような荒っぽさは皆無です。と、突然聴いたことのある曲が始まったと思ったら、それはグリーグの「十字軍の騎士シーグル」からの「忠誠行進曲」でした。4本のチェロで演奏されるはずのテーマがサックスで吹かれているのがお茶目ですね。なんだか、全く別の曲みたいに聴こえます。
最後はもちろんノルウェー国歌「われらこの国を愛すJa, vi elsker dette landet」で締めくくられます。わが国では、「国歌」さえも偉い人に強制されて無理やり歌わされるものになってしまいましたが、こちらはそんなことはありません。ノルウェー人のように、自然に「国を愛せる」ようになりたいものです。

SACD & BD Artwork © Lindberg Lyd AS


8月2日

BACH
Markus-Passion
Ulrike Eidinger(Sop), Ulrich Weller(CT)
Samir Bouadjadja(Ten), Lars Eidinger(Nar)
Peter Uehling/
Ensemble Wunderkammer
COVIELLO/COV 91605


バッハの「マルコ受難曲」の新しい録音が出ました。ある意味、この作品は単なる「素材」のようなものですから、それをどのように扱ってきちんとした曲にまとめるかというのは演奏家の裁量に任されているようなところがあります。ですから、新しい録音であれば、まずそのあたりの、この作品を演奏するにあたってのコンセプトが問われることになるのです。
今回の演奏者は「アンサンブル・ヴンダーカンマー」という名前の団体です。全く聞いたことのない名前ですがそれもそのはず、結成されたのは2014年という、つい最近のことなのだそうです。ただ、その時の形はこのような受難曲を演奏できるほどの規模の大きな(合唱も、このアンサンブルに含まれています)ものではなく、たった4人で集まって作られたごく小さなアンサンブルでした。その4人のピリオド楽器の演奏家たちの名前の中で、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者が「サラ・パール」という名前だったのに、ちょっと反応してしまいました。同じような名前のガンバ奏者がいたはずなのに、と記憶をたどってみると、それは「ヒレ・パール」というかなり有名な人でした。調べてみると、「サラ」はこの「ヒレ」の娘さんなのだそうです。以前やはりヒレが娘さんと共演していたアルバムでは、「マルテ」という子だったようですから、ヒレの娘さんでガンバ奏者になった人は2人いるということですね。「サラ」と「マルテ」は姉妹なのでしょう。
その他のメンバーは、チェンバロのミラ・ランゲ、チェロのマルティン・ゼーマン、そして指揮者でオルガニストのペーター・ユーリングです。このアンサンブルとして17世紀や18世紀の音楽、さらには現代の音楽まで幅広く演奏するとともに、今回のような編成にまで拡大してこのような曲に挑むこともあります。ここでは、ユーリングは中華料理(それは「ユーリンチ」)ではなく指揮に専念、残りの3人で通奏低音をきっちり固めたうえで、弦楽器は各パートそれぞれ1人という、最小限の編成になっています。もちろん、合唱が必要な時には、そのためのメンバーも集まってきます。ただ、彼らはプロではなく、アマチュアで日常的に活動を行っている人たちなのだそうです。
この「マルコ」の演奏では、おそらくディートハルト・ヘルマンによる修復稿を使って演奏されているのでしょう。エヴァンゲリストによる聖書朗読の部分は、レシタティーヴォで歌われるのではなく、ナレーターによって「朗読」されています。しかし、その部分で彼らが行っていることは、かなり衝撃的でした。ナレーターのバックでは、低音楽器たちが即興的に「音」を加えていたのですよ。最初のうちは単音のドローンのようなものだったのが、次第にその自由度はエスカレートしてきて、それは殆ど「20世紀音楽」的な刺激的な「音響」に変わっていきます。
確かに、これはこれで単に朗読だけを聴いているのよりははるかにイマジネーションが掻き立てられるものには仕上がっています。ただ、そこからは当然のことながらバッハの音楽は全く感じられません。事実、このような「朗読」のあとにコラールが歌われると、その二つの世界の間にはとても越えられない隔たりが存在していることがまざまざと感じられてしまいます。
しかも、そのコラールにしても、いかにもアマチュアの集まりだと思えるような、あまりに主体性のない歌い方には、当惑させられます。もし、これはそんな朗読のバックに合わせた恣意的な表現だとしたら、それは本末転倒というべきでしょう。
ソリストたちも、不思議な挙動に終始しています。ソプラノはかなりロマンティックな演奏で臨んでいるのに、カウンター・テナーの人は、まさに「前衛的」というよりははっきり言ってピッチも発声もかなり怪しげな歌い方だったりしますからね。
着眼点は面白いのですが、それが全体に浸透しなかったのが敗因でしょう。

CD Artwork © Coviello Classics


おとといのおやぢに会える、か。



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