どーれ、マタイでも聴こうかね・・・。.... 佐久間學

(17/10/19-17/11/6)

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11月9日

Christmas Deluxe
Pentatonix
RCA/88985 47691 2


これまで毎年素敵なクリスマス・アルバムを贈ってくれていたペンタトニックスは、今年のアルバムについても、もう数か月前からリリースの情報を伝えていました。ただ、具体的なタイトルやジャケット写真などはなかったので、ちょっと不思議な気がしました。それでも、大好きなアーティストですから、注文はしておきました。
そして、予定通り手元にはそのニューアルバムが届きました。そのタイトルは「PENTATONIX/Christmas Deluxe」、これは、去年のアルバムの後に「Deluxe」を付けただけのものではありませんか。写真も、おそらく去年撮影されたものなのでしょう、というか、今年の写真の方が先に撮られたもので、去年のジャケットではこの椅子の上のプレゼントを、メンバーが開けてよろこんでいる、という構図になっています。そして、曲目も、全く同じです。ただ、いちおう「Deluxe」というだけあって、去年の11曲に加えてもう5曲、新たに録音された曲と、別バージョンのテイクが収められています。つまり、これは決して「ニューアルバム」ではなく、単なる「ボーナス付きのリイシュー」だったのですよ。ペンタトニックスともあろうものが、なんとも小賢しいことをやってくれたものです。
と思って、ブックレットの写真を見ると、なんと、そこにはメンバーが4人しか写っていません。ベースのアヴィ・キャプランがいなくなっているのですね。もしや、と思って調べてみると、アヴィは今年の5月ごろにこのグループからの脱退を表明していたことが分かりました。そんなことがあったなんて、知りませんでしたよ。これではファン失格ですね。
元々、このグループはミッチ、スコット、カースティンの3人でスタート、そこにアヴィと、ヴォイパのケヴィンが加わったという経緯がありますから、アヴィはグループに対するプライオリティがすこし違っていたのでしょうかね。公式には「あまりに多忙すぎて、家族との時間が取れない」ということなのだそうですが、それはあくまで表向きのコメントのように感じられます。
まあ、そんなことがあったのでは、フルのクリスマス・アルバムを作ろうとしても苦しみますね。そんなモチベーションなんか湧かないのでは。ですから、ここでの、アヴィがいなくなってから録音されたトラックは、そのあたりを象徴するような微妙な仕上がりになっています。
まず、その5曲のボーナス・トラックのうちの2曲では、メンバーは4人だけで歌っています。映画「ドリームガールズ」で一躍注目を集めたジェニファー・ハドソンをフィーチャーした「How Great Thou Art」というゴスペル・ナンバーでは、ベースのパートはおそらくスコットが歌っているのでしょう、ごく平凡なベースラインしか聴こえません。もっとも、これはあくまでジェニファーの圧倒的なソロを聴くべきトラックでしょう。「Away In A Manger」という伝承曲でも、あっさりとしたアレンジで、ハーモニーはベースを欠いています。
そして、別の2曲、いずれもクリスマスの定番曲では、ベースにサポート・メンバーが入っています。「Deck The Halls」にはマット・サリーという人、そして「Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow! 」ではレノ・セルムサーという人です。いずれも、いかにもサポートに徹した正しいピッチとリズムの持ち主ですが、決して前に出てくることはないスタンスをとっているのが感じられます。残りの1曲は、昨年のアルバムの中のレナード・コーエンの「Hallelujah」のトラックに、トリッキーなストリングスを加えたバージョンです。
確かに、これらのボーナスだけでもこのアルバムを聴く価値はありますが、やはり、5人目の正式なメンバーが決まって、それぞれの個性が新たな次元でぶつかりあって作られる彼らの本来のサウンドを、早く聴いてみたいものです。でも、カースティンはすでにソロ・デビュー、ミッチとスコットも「スーパーフルーツ」名義で活動を行っていますから、どうなってしまうのでしょうね。

CD Artwork © RCA Records


11月7日

蓮見律子の推理交響楽
比翼のバルカローレ
杉井光著
講談社刊(講談社タイガ/ス-A-01)
ISBN978-4-06-294083-2


リアル書店で文庫本の棚を見ていた時に、なにか「呼ばれて」いるような気がしたので読んでみることにしました。「交響楽」という、今のクラシック界では絶えて使われることのない古めかしい言葉がタイトルになっていたせいでしょうか。
著者の名前も全く聞いたことのないものですが、そんなことは気にせずに読み始めると、その内容は音楽的にはけっこうヘビーであることに気づきます。「推理〜」というタイトル通り、これは推理小説の範疇に入るべきものなのでしょうが、そんな「推理小説」らしい「事件」が起こるのは、半分近くまで読み進んだ時でした。
つまり、それまでに行われていたことといえば、登場人物たちの単なる「日常」でした。とは言っても、著者はその登場人物たちにとんでもない「非日常的」な設定を与えていますから、まずはそのぶっ飛んだ生態を味わうだけで、けっこうな刺激が与えられたりします。そして、その最もぶっ飛んだ人物が「音楽家」であるところが、この作品の最大の魅力となっています。
タイトルの蓮見律子というのが、その音楽家。映画音楽などで多くの作品が世に出ている作曲家で、その収入で21階建の高級マンションを所有、その最上階に住んでいます。
そして、彼女に絡むのが、音楽に対しては特にマニアックな嗜好はないものの、普通に音楽を楽しめる感性はもっている、ニートのブロガーです。一応大学生ですが留年を繰り返して、講義を聴くこともなく、ただPCに向かって刺激的なブログを書き続け、そのアフィリエイトで生活しているという設定です。彼がひょんなことからその音楽家が作った曲の作詞を依頼されるというところから物語は始まり、その一部始終を彼が一人称で書き綴る、という体裁、これはまさに推理小説の古典に登場するシャーロック・ホームズとジョン・ワトソンとの関係そのものです。ワトソンを女性にしたテレビドラマがありますが、こちらはホームズが女性になっていますね。
そんな律子が、その「日常」の中で語り手のブロガーに対して自らの音楽観を披露しているのが、個人的には最も興味深いポイントでした。そこには著者自身の音楽観と共通するものがあるのか、あるいは単にネットからそれっぽいものを拾って来てコピペしただけ(こちらの方が可能性は高いでしょうが)なのかもしれませんが、それをほとんど日本一の作曲家に言わせているというところで、不思議な存在感が生まれます。
まずは、ブロガーが律子の曲の作詞に挑戦するところで、彼女は「歌詞」というか「詩」についての持論を展開します。曰く、「韻文であることが必要条件の一つ」と。「韻文」!なんと懐かしい言葉でしょう。これを見て、即座に対義語である「散文」という言葉も思い出しました。それで、最近の歌が歌詞の面からとてもつまらなくなっている理由が突然分かったような気になりました。今の歌では、圧倒的に散文の歌詞が多くなっているのですね。それらは、韻文のようにメロディに馴染むことはなく、違和感ばかりが募ることになっていたのでした。さらに、ただ韻を踏むだけの日本語ラッパーに対しても、彼女は「息苦しいほどの必死さで、楽しめない」と切り捨ててくれますから、爽快ですね。
結局、ブロガーの歌詞は完成し、出来上がった曲を音律の専門家に聴かせるのですが、そこで「詞だけを集中して聞こうとしましたができませんでした。どうやっても、声と楽器と言葉とが混然一体となって流れ込んできてしまいます。本来、詞とはこうあるべきなのでしょう」という言葉が返ってきた時には、涙が出てきましたね。
いや、本当に号泣したくなるほどの感動が訪れるのが、「事件」が解決した時です。「音楽」を、これほど見事に小説の中に取り入れたものを、知りません。
もしこれが映像化される時には、律子は絶対シシドカフカでしょう。それは不可

Book Artwork © Kodansha Ltd.


11月4日

BRITTEN
War Requiem
Sabina Cvilak(Sop), Ian Bostridge(Ten), Simon Keenlyside(Bar)
Gianandrea Noseda/
London Symphony Chorus(by Joseph Cullen)
Choir of Eltham College(by Alastair Tighe)
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0719(hybrid SACD)


大分前にリリースされていた、2011年録音のブリテンの「レクイエム」ですが、資料的に面白いものがブックレットに載っていたので、紹介してみることにしました。
それは、こんな、この録音に参加した合唱団のメンバーの一人が持っていた、この曲のヴォーカル・スコアです。たくさんの人数の合唱が必要ですから出版社はうれしいでしょうね(それは「儲かるスコア」)。ここには多くの人のサインが書き込まれていて、この楽譜の持ち主が今までにいかに多くのこの曲の演奏に携わってきたことがよく分かりますが、それはさておいてまず気が付いたのが、このスコアのためのリダクションを行ったのが、イモジェン・ホルストだということです(そこ?)。
ご存知でしょうが、彼女は「惑星」で有名なグスターヴ・ホルストの娘さんです。父親の影響でしょう、音楽学者、指揮者、作曲家として生涯独身で過ごした方で、もちろん父親の作品の編曲や管理なども行っていました。そのイモジェンさんは、ブリテンの親友でもあったのですね。ただ、ブリテンには別の「恋人」がいましたから、それ以上の関係に進むことはなかったのでしょうね(でも、彼女のお墓はブリテンのお墓の脇にあります)。彼女がブリテンの合唱曲にオーケストラの伴奏を付けたのは知っていましたが、こんな形で「戦争レクイエム」にも関わっていたのですね。
サインの話に戻りますが、なにしろ皆さん達筆ですから、写真では誰のものかは分かりません。でも、ちゃんと注釈が付いているので、誰が書いていたかは分かります。その中には、もちろんこの録音の時のソリストの名前もありますが、中にはピーター・ピアーズとかガリーナ・ヴィシネフスカヤなどといった、1963年の初録音の時のメンバーなどもいるので、このスコアの持ち主はそんなころから合唱をやっていたのでしょうね。持ち主の名前も分かるのでメンバー表を見てみたら、確かにベースのパートにいましたね。おそらく、彼はピアーズと共演したころは少年合唱として参加していたのでしょう。
彼が所属しているのはロンドン・シンフォニー・コーラスですから、オーケストラはほとんどロンドン交響楽団だったのでしょう。確かに、ヴィシネフスカが歌ったDECCA盤はロンドン交響楽団でしたからね(指揮はブリテン自身)。ただ、その前に行われた初演では、オーケストラはバーミンガム市交響楽団でした。ですから、その時のソリストだったヘザー・ハーパーのサインもあったので、そちらにも出ていたのかな、と思ったら、その後にロンドン交響楽団がリチャード・ヒコックスの指揮でCHANDOSに録音した時に、彼女は歌っていたので、サインはその時のものだったのでしょう。
ということで、このSACDはこのオーケストラが「戦争レクイエム」を録音した3枚目のアルバムということになります。もちろん、指揮者は全て別の人です。
この曲は、全曲演奏すると80分以上かかります。ですから、普通はCD2枚が必要になっています。先ほどの初録音のDECCA盤も、LPはもちろん2枚組でしたし、1985年にCD化された時も2枚組でした。その頃は、まだ1枚に74分しか入りませんでしたからね。しかし、2013年BD-Aによるハイレゾ音源がリリースされた時は、同梱されていたリマスタリングCDでは全曲が81分22秒が1枚に収まっていましたね。
今回のSACDでは、演奏時間は83分48秒ですから、シングル・レイヤーのSACDでしたら楽々収まるのですが、ハイブリッド盤でCDの規格に合わせると、ギリギリのところで1枚には入りません。仕方がありませんね。
ソリストは、テノールのボストリッジは今までに何度もこの曲を録音していますが、ソプラノのツビラクとバリトンのキーンリーサイドはこれが初めてなのではないでしょうか。二人ともなかなかの好演、特にキーンリーサイドは、とても懐の深い歌い方が印象的で、正直あまり面白味のないアンサンブルのパートを、意外なほど魅力的に感じさせてくれました。それと、少年合唱のレベルの高さにも、驚かされます。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra


11月2日

WOOD
Requiem
Rebecca Bottone(Sop), Clare McCaldin(Alt)
Ed Lyon(Ten), Nicholas Garrett(Bas)
Paul Brough/
L'inviti Sinfonia & L'invini Singers
ORCHID/ORC 100068


2012年に初演と同時に録音された、新しい「レクイエム」です。正確には2012年12月12日というゾロ目の日に録音セッションがもたれ、その日の夕方に同じ場所でお客さんの前で初めてのコンサートが行われました。
この曲を作ったのは、1945年生まれのクリストファー・ウッドというイギリスの「作曲家」です。いや、この方は決してプロフェッショナルな作曲家ではありません。「本職」は腕のいい外科医、さらには癌の新薬を開発する製薬会社の社員として、世の中のため働いている人なのです。
そんな人が2002年に仕事でアメリカに行った時にテレビで報道されていたエリザベス王太后の崩御を伝えるニュースを見て、何千人という人たちが悲しみにくれている情景に心を打たれ、こういう時に歌うものとして自らの手で「レクイエム」を作ろうと思い立ったのです。
それはあくまで彼自身が満たされるための作業でしたから、いつまでに作り上げる、といったような期限もありません。一日の仕事が終わった夜中にピアノに向かって心から湧き出てきたメロディを奏でて楽譜に書き起こすという時間は、まさに至福の時だったのでしょう。結局、彼は8年かかって「レクイエム」の全てのテキストにメロディをつけ終わりました。
もちろん、そんなものは世間に公表するつもりはさらさらなく、単に作曲上の誤りを指摘してもらってこれをさらに良いものに仕上げるために、知り合った音楽コーディネーターのデイヴィッド・ゲストという人にこの楽譜を見せました。ゲストは、自分で「こうでないといけないよ」というような助言はせず、彼に作曲家でオーケストレーションの仕事をしているジョナサン・ラスボーンという人を紹介してくれました。ところが、ラスボーンはこの楽譜を見るなり、いきなりオーケストレーションのプランを語り始めたのです。彼はこのメロディの中に、しっかりとした可能性を見出したのですね。
それから2年かかって、オーケストレーションは完成しました。ここでゲストが実際のレコーディングを仕切りはじめます。BBCシンガーズの首席客演指揮者のポール・ブローを指揮者に招き、この曲を録音するだけのために、イギリス国内からオーケストラと合唱団のメンバーを集めてしまったのです。
全曲を演奏すると1時間ほどかかるこの「ウッド・レクイエム」は、通常の典礼文のテキストをもれなく使って、全部で10の曲によって構成されていました。混声合唱に4人のソリストと、フル編成のオーケストラが加わります。
何よりも魅力的なのが、その、1度聴いただけで心の底に響いてくる豊かなメロディです。それを彩るハーモニーも、まさに古典的、5度圏や平行調の範囲を超えることはまずない、予定調和の響きが続きます。唯一、「Sanctus」と「Libera me」で出現するのがエンハーモニック転調ですが、それはフォーレのレクイエムの中で印象的に聴こえるものですから、おそらく作曲者はそのあたりを参考にしていたのでしょう。
全体の印象は、もちろんそのフォーレの雰囲気もありますが、ジョン・ラッターの作品にもとても似通ったセンスを感じることが出来ます。何よりも、そのオーケストレーションの甘美なこと。時折金管楽器のファンファーレで華やかになるところもありますが、基本のサウンドはハープと弦楽器が織りなす繊細なサウンドです。さらに、そんなオーケストラや合唱をシルキーにまとめた録音も手伝って、そこにはまさに天上の音楽が鳴り響きます。
ただ一つの欠点は、普通の「レクイエム」ではちょっとありえないほどのスペクタクルなサウンドで盛り上がって終わるというエンディングです。ただ、ウッドはしっとりと消え入るように終わるエンディングも考えていたのですが、その両方を彼の妻に聴かせたところ、即座に「賑やかな方!」という答えが返ってきたので、この形になったのだそうです。
その時、コンスタンツェやアルマと並ぶ「悪妻」が誕生しました。

CD Artwork © Orchid Music Limited


10月31日

TCHAIKOVSKY
Symphony No.6 Pathétique
Teodor Currentzis/
MusicAeterna
SONY/88985 40435 2


先日、BSでクレンツィスとムジカ・エテルナが今年のザルツブルク音楽祭でモーツァルトの「レクイエム」を演奏していた映像が放送されていましたね。この曲はCDも出ていますから、どんな表現をしているのかは予想出来ていましたが、やはり実際の姿を見るとそれがとても説得力に富んでいることがよく分かります。一番驚いたのは、彼らはチェロとコントラバス奏者以外は、合唱もオーケストラも立って演奏していたことです。休みのところでも立ったままなんですよ。というか、そもそも椅子が用意されていないのですね。ですから、「Tuba mirum」でのトロンボーン奏者などは、ソロが始まるとステージの前に出てきて暗譜で吹き始めたりします。まるで、ジャズのビッグバンドでソロを取る人が前に出て来て演奏するというノリですね。コンサートマスターも横を向いたり後ろを向いたりと、ほとんど踊りながらヴァイオリンを弾いていました。
そのモーツァルトでは、もちろん全員がピリオド楽器を使っていました。しかし、今回はチャイコフスキーですから、同じ「ピリオド」とは言ってもモーツァルトの時代とはかなり異なる、ほとんどモダン楽器と変わらないものを使っているはずです。ですから、この「ムジカ・エテルナ」という、クレンツィスがオペラハウスのオーケストラのメンバーを集めて作った団体では、そんな、モダンもピリオドも両方の楽器に堪能な人を揃えてるな、と思ったものです。
今回の録音は、2015年の2月にベルリンのフンクハウスで行われました。その時のメンバーがブックレットに載っているので、同じ年の10月から始まった「ドン・ジョヴァンニ」の録音の時のメンバーと比較してみると、やはり木管楽器あたりはほぼ全員他の人に変わっていましたね。確かに、木管では両方の楽器のそれぞれにスペシャリストになるのは大変です。ただ、トランペットやトロンボーンは、大体同じ人が演奏していました。弦楽器でも、何人かは「両刀使い」がいるようで、ここでは、半分ぐらいは別の人のようでした。ですから、やはりこの団体は、曲の時代によって大幅にメンバーを入れ替えて演奏しているのですね。そして、きっと「悲愴」の時は、みんな座っているのではないでしょうか。
それと、そのメンバー表を見ると、弦楽器の人数が16.14.12.14.9と、低弦がやたら充実していることが分かります。しかも、先ほどのモーツァルトは普通にコントラバスが右端に来る配置でしたが、どうやらここでは対向配置をとっているようで、コントラバスが左奥から聴こえてきます。そんなこともあって、第1楽章の序奏での低弦は、巨大な音の塊がのっそりと迫ってくる、というとてつもなく不気味なインパクトがありました。
さらに、続く主部のテーマは、本当はとても美しい女性が、あえて醜さを装って他人との接触を拒んでいる、みたいな不思議な思いが込められたものでした。もうそれだけで、この演奏が従来のイメージを破壊した上に成り立っているものであるのかが分かります。
おそらく、クレンツィスは今までの慣習を完全にリセットしたうえで楽譜を読むという、これまでに見せてきた手法を「悲愴」にも用いただけなのかもしれません。ですから、第2楽章で、ちょっと聴いただけでは軽やかなワルツに聴こえなくもないものを、あえて5拍子という変拍子を強調することで、その中にあるはずの複雑な情念を表に出そうとしていたのでしょう。
とはいっても、ここまでやられるとそもそもこの時代の音楽とはいったいなんだったのか、という根源的な疑問にまで立ち向かわなければいけないのでは、という思いにもかられます。正直、それはとても辛いことのような気がします。
そう思えたのには、なんとも圧迫感の強い、あまり美しくない録音にも責任があるはずです。この録音会場であれば、もっとのびやかな音で録ることはそんなに難しいことではありません。

CD Artwork © Sony Music Entertainment


10月28日

STRAUSS/Also sprach Zarathustra
MAHLER/Totenfeier
Vladimir Jurowski/
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
PENTATONE/PTC 5186 597(hybrid SACD)


辻井伸行をソリストに迎え、首席指揮者を務めるロンドン・フィルを率いての日本ツアーを終えたばかりのユロフスキですが、彼の現在のポストはその他にロシア国立交響楽団(正式な英語表記は「State Academic Symphony Orchestra of Russia ''Evgeny Svetlanov”」)とブカレストのジョルジェ・エネスク音楽祭の芸術監督ですし、少し前まではベルリンのコミッシェ・オーパーとグラインドボーン音楽祭のチーフも務めていたという売れっ子です。そして、今年の9月からは、マレク・ヤノフスキの後任としてベルリン放送交響楽団の首席指揮者兼芸術監督にも就任しました。
ユロフスキは、就任以前にもこのオーケストラとこのレーベルに録音を行っていました。それは2014年7月のシュニトケの「交響曲第3番」のスタジオ録音です。その時の会場がベルリン放送局(RBB)の本部の建物「ハウス・デス・ルントフンクス」の中にある放送用の大ホールだったのですが、ユロフスキはその録音の編集の時に聴いた音をとても気に入ったのだそうです。確かに、このSACDを聴くと、いかにも、シュニトケのこの作品にふさわしいあらゆる音がきっちりと聴こえてくる精緻な録音だという気はします。
そこで、ユロフスキは、普通のレパートリーをこのシュニトケと同じ状態で録音してみたいと、提案したのだそうです。その結果、この「ツァラ」と、カップリングには同じメッセージが込められているマーラーの「葬礼」が選ばれ、2016年6月に同じ場所、同じエンジニア(POLYHYMNIAのジャン・マリー・ヘイセン)による録音セッションがもたれることになったのです。このあたり、単にコンサートのライブ録音だけでお茶を濁している最近のレコーディング状況とは一線を画した、一本芯の通ったポリシーが感じられませんか?
まず、この会場にはオルガンは設置されていないので、オルガンのパートだけは別の教会で後日録音された、という点まで同じようにして作られた「ツァラ」の方は、冒頭のそのオルガンのペダル・トーンのあまりのしょぼさにはがっかりさせられます。ただ、その後のトランペットのファンファーレの後のクライマックスで、トライアングルの音がとてもはっきりと聴こえてきたのには驚きましたね。
というか、確かにスコアにはトライアングルは書かれていますが、改めていくつかの録音にトライしてみても、それは全く聴こえることはありませんでした。こんな、ちょっとお上品ではあるけれど、聴こえるべき音ははっきり聴こえて、音楽全体の構造がはっきり分かってくる、というのが、このホールと録音クルーが作り出したサウンドなのでしょう。おそらく、ユロフスキはこんなところが気に入ったのでしょうね。
ですから、この「ツァラ」は、冒頭を聴いただけで判断されるようなスペクタクルなものではなく、本来はもっと繊細で室内楽的な響きが良く似合う作品であったことも、よく分かります。エンディングの全く無関係な調の掛け合いも、しみじみと味わい深く感じられます。
そして、カップリングが、マーラーの「交響曲第2番」の第1楽章の初稿として知られている交響詩「葬礼」です。ユロフスキは、2011年1月にも、この曲を別のオーケストラと録音していました。そのCDのレビューで、後の改訂版との違いなどを見ることが出来ます。そこでは、今回、UNIVERSALのサイトで、スコアがPDFで提供されていたので、それを参考にしてさらに細かく手直ししてあります。そのスコアでは、交響曲は4管編成ですが、「葬礼」は3管編成だったことも分かります。
こちらの演奏も、丁寧なセッション録音のおかげでしょう、前のものより深いところまで踏み込んだ表現が見られます。
もう1曲、マーラーがブルックナーのもとで学んでいた頃の習作とされる「交響的前奏曲」も演奏されていますが、そこにはマーラーらしさは全く感じられません。それは、こういう録音だから、なおさらくっきりとそのように聴こえたのかもしれません。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


10月26日

L'OPÉRA
Jonas Kaufmann(Ten)
Sonya Yoncheva(Sop), Ludovic Tézier(Bar)
Bertrand de Billy/
Bayerisches Staatsorchester
SONY/88985390762


カウフマンの最新アルバムのタイトルは「 l'Opéra」。フランス語で「オペラ」ですが、このように固有名詞として使われると「パリのオペラ座」のことを指し示します。このオペラ座を舞台にしたガストン・ルルーの小説「オペラ座の怪人」の元のタイトルが「Le Fantôme de l'Opéra」ですからね。
もっとも、「怪人」が出てくるのはその小説が書かれたころの「オペラ座」、シャルル・ガルニエが設計して1875年に完成したオペラハウスで、「ガルニエ宮」とも呼ばれている建物です。今ではパリにはオペラ座は2つありますから、「バスティーユではなく、ガルニエの方」という注釈が必要になってきます。
ジャケットは、そのガルニエ宮の客席の写真。天井にはシャガールによる天井画も見えますね。ブックレットの裏表紙には、それこそロイド=ウェッバーのミュージカル「オペラ座の怪人」にも登場する大階段の写真もあります。いずれも、その前でカウフマンがポーズをとっている、という構図ですから、これだけを見るとあたかもカウフマンがパリのガルニエ宮まで行って録音してきたのかと思ってしまいますが、あいにく実際に録音が行われたのはミュンヘンのバイエルン州立歌劇場でした。ですから、これらの写真も当然合成です。まあいいじゃないですか。そこまでして「オペラ座」の雰囲気を出そうとしているのですから。
カウフマンと言えば、一応ドイツものを得意としている歌手とはされていますが、イタリアものでも、そしてフランスものでもレパートリーになっていて、それらを収録した映像なども、数多くリリースされていますね。ですから、今回、全てフランスで活躍した作曲家によるフランス語で歌われるオペラだけをまとめたアルバムが出たことに関しては、何の違和感もありませんでした。というより、彼のフランス・オペラをじっくり味わえることに、大いなる期待を抱いていました。
そして、その期待感は、ほぼ満たされました。カウフマンは、まさに彼にしかできないやり方で、これらの作品に命を与えていたのです。
正直、彼のフランス語の発音はネイティヴのフランスの歌手とは比較にならないほど、ゴツゴツとしたものです。ですから、彼の歌が始まると、そこからは「おフランス」の肌触りなどというものはほとんど感じることはできません。それは、バックのオーケストラも同じこと、ド・ビリーの巧みな指揮ぶりでいとも繊細な表情は出しているものの、肝心の木管の音色があくまでドイツ風なんですからね。フルートソロの素っ気なさったら、あきれてしまうほどです。
しかし、聴きすすむうちに、別にフランス語のオペラだからといって、すべてをフランス風に仕上げる必要もないのではないか、という気持ちになってくるのが、カウフマンの凄さです。そう、彼が歌えば、そこからはまさに「国境」を超えた真の音楽が聴こえてくるのですよ。
彼が持つ圧倒的な武器は、その強靭な声です。これさえ聴ければ、まず裏切られることはありません。その上に、彼はこのフランス語のレパートリーでは「抜いた」声を織り交ぜて、対比を明確にした表現を試みています。これは、彼がヴェリズモのようなレパートリーの時に「泣いた」歌い方を取り入れているのと同じやり方なのでしょう。そのあたりの様式による歌い分けも徹底されていて、ここでそのヴェリズモ風の歌い方は決して聴くことはできません。
これで、彼が手がけていないのは、旧東欧やイギリスのレパートリーだけになりました。彼のピーター・グライムズぐらいは、聴いてみたいとは思いませんか?
今回もデュエット曲には豪華なキャスティングがなされています。マスネの「マノン」のタイトル・ロールを歌っているのがソーニャ・ヨンチェヴァなんですからね。せっかくだから、このノーマル・エディションのブックレットにも彼女のポートレートの1枚も載せてほしかったものです。

CD Artwork © Sony Music Entertainment


10月24日

KARAJAN
The Second Life
Eric Schulz(Dir)
DG/073 4983(DVD)


半年以上前に録画だけしておいたものをチェックしていたら、NHK-BSで放送されたオペラの余白にこんなドキュメンタリーが見つかりました。これは、2012年に作られ2013年に放送されたものの再放送、同じ年にはDVDも販売されています。
タイトルの「セカンド・ライフ」というのは、カラヤンが引退した後のんびりと「第二の人生」を送っていたわけではなく(そんなものはカラヤンにはありませんでした)、この映像の中でいずれは自身も死を迎えることを悟った彼は、まだまだやり残したことがあるので、死んだ後も別の肉体を手に入れて、新たな人生を送りたい、と述べていたことに由来しています。
この映像の目玉は、DGのエンジニア、ギュンター・ヘルマンスがカラヤンと電話で交わした会話が聴けるということです。なんでも、ヘルマンス自身が録音していたそうなのですね。あのカラヤンと仕事をするのだったら、このぐらいの「保険」は必要だったことでしょう。それが、今となってはとても貴重な「資料」になりました。
おそらく、ここで初めて公になったこの会話録によって、今までうすうすとは感じていたカラヤンの録音のやり方が直接的に分かるようになったのは、何よりの収穫です。ヘルマンスは、この時期16チャンネルのマルチトラックで録音を行っていたのですね。それを駆使して、ミキシングの段階でカラヤンの思い通りのバランスを作り上げることが出来たのでしょう。
このあたりで、ドキュメンタリーの流れは、このようなプロセスで作られた音源を絶賛し、「生演奏の音よりも、録音された音の方が優れている」という立場から、カラヤンの業績をほめたたえるものになっています。「録音でなければ、作曲家の意図は完全には伝わらない」とまで言い切っていますからね。
ところが、後半に、EMIのエンジニア、ヴォルフガング・ギューリヒが登場すると、その流れが全く逆の方向に向かいます。カラヤンは1970年代にはDGとEMIとを二股にかけて録音を行っていましたが、確かにそのサウンド・ポリシーは明らかに別物でした。そもそも、ギューリヒはこのインタビューでは「生演奏の方が録音されたものより優れている」という考えを明らかにしていますからね。彼は、コンサートのサウンドに近づくために、ヘルマンスとは全く異なるマイクアレンジを採っていたのでした。
カラヤン自らがコンソールのフェーダーを操作して、編集を行っているという「貴重な」シーンも登場します。しかし、それより貴重なのが、休憩になってカラヤンがいなくなったら、残っていたエンジニアたちがそれを元に戻してしまっている場面です。
さらに、コンソールに向かって、カラヤンの右側にヘルマンス、左側にミシェル・グロッツという、ある時期の彼らの指定席の映像も見ることが出来ます。ここで大はしゃぎのグロッツの姿は、なにか異様、しかし、それは確実にカラヤンの信頼を勝ち取った男ならではの驕りきった態度のように見えます。それに続くDGのエンジニアたちのコメントは意味深ですね。
微妙なのが、オープニングの映像。そこには、カラヤンのLPで埋め尽くされたフィルハーモニーのステージが現れます。バックで流れるのはシュトラウスの「ツァラ」の冒頭部分、そこで目に入るのが、このカラヤンとベルリン・フィルがその曲を録音したLP(右上)です。さらに、その前にはキューブリックの「2001年」のサントラ盤も見えますね。
しかし、確かにこの映画の中で使われている「ツァラ」を演奏しているのはカラヤンとウィーン・フィルですが、こちらにあるように、このジャケットのアルバムに入っている「ツァラ」は、カール・ベーム指揮のベルリン・フィルによる録音なのですよ。いや、同じアルバムにはカラヤンが指揮をしたもう一人のシュトラウスの「青きドナウ」も入っていますから、そちらの方だったのかもしれませんね。どなうもんでしょう。

DVD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH


10月21日

MENDELSSOHN
Symphony No..2 'Lobgesang'
Lucy Crowe(Sop), Jurgita Adamonyte[](MS)
Michael Spyres(Ten)
John Eliot Gardiner/
Monteverdi Choir
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0803(hybrid SACD, BD-A)


ガーディナーとロンドン交響楽団によるメンデルスゾーンの交響曲ツィクルスは、声楽が入っていないものだけで完結していたと思っていたら、ちゃんと「賛歌」も出してくれました。もはやこの曲は最新の目録では「交響曲」のカテゴリーには参加を許されなくなっているのですから、原典志向を貫くのなら「出してはいけない」ものになるのですが、やはり今のガーディナーにそこまでの偏屈さはありません。
とは言っても、この曲のタイトルは「Sinfonie-Kantate Lobgesang」、普通は「交響的カンタータ」などと訳していますから、あくまで「カンタータ」の仲間だと思ってしまいますが、「Sinfonie」と「Kantate」の間にハイフンがあることを考えれば、「交響曲とカンタータが合体したもの」と解釈することもできます。実際、これは前半は紛れもなく交響曲の第1楽章から第3楽章までの形をとっていて、その後に9曲から成る「カンタータ」をくっつけたものなのですから、これを「交響曲」から外してしまったMWVはちょっと荒っぽいやり方をとったな、という印象はありますね。ですから、この曲を聴く時には、「交響曲」と「カンタータ」の両方の魅力を一度に味わえるものとして接する方が、より楽しみが広がるのではないでしょうか。
メンデルスゾーンは、この曲を1840年に初演を行った後にすぐ改訂しています。1841年に出版された時は、もちろんこの改訂稿が印刷されているので、この曲の場合その「第1稿」はほとんど話題にはなりませんが、そういうゲテモノが大好きなリッカルド・シャイーが2005年にそれを録音してくれていました。しかも、NMLで簡単に聴くことが出来るようになっているので、どんなものなのか聴いてみましたよ。
そうしたら、なんとすでに第1楽章の5小節目でトロンボーンのテーマが変わっていて「交響曲」の部分でもかなりの改訂個所が見つかりましたが、とりあえず「カンタータ」の部分の方がより大きな改訂がなされているようですから、しっかり比較してみました。その結果、この部分の改訂箇所はどうやら5箇所ほどあるようでした。
3曲目:テノールのレシタティーヴォとアリアですが、第1稿にはアリアがありません。
6曲目:これもテノールのアリア。全く別の音楽です。最後のソプラノの一言も第1稿にはありません。
8曲目:最初のア・カペラのコラールは、第1稿にはオーケストラが加わっています。
9曲目:テノールのソロの後ソプラノのソロになりますが、第1稿ではテノールの部分だけで終わっています。
10曲目:終曲の合唱ですが、後半のフーガが第1稿ではちょっと違います。
もちろん、この改訂に関するWIKIの記述は、かなり不正確です。
メンデルスゾーンの場合、改訂を行うと元のものよりつまらなくなってしまう、という、他の交響曲における真理は、この曲の場合は全く通用しないことが分かりました。シャイーの録音の場合、合唱があまりにひどいということもあるのですが、特に6曲目のテノールのソロによるナンバーが、現行の改訂稿に比べると全く魅力が欠けているのですよね。
と、長々と改訂稿について語ってみたのは、もちろん改訂稿で演奏されている今回のガーディナー版では、この6曲目からのインパクトがとてつもないものだったからです。ここでのマイケル・スパイアーズのソロの素晴らしいこと。カンタータというよりはまるでオペラのような豊かな表現力です。そして、それに続く合唱は、たとえばさっきのシャイー盤の合唱に比べたら全く別の次元のものでした。こちらもほとんどオペラかと思えるほどのドラマティックな歌い方、8曲目のコラールでもその生々しい表現はこの曲全体のイメージまで一新させてしまうほどのものでした。
そんな合唱の豊潤さは、SACDよりもBD-A(24bit/192kHz)の方がより顕著に味わうことが出来ます。やはりこれは、SACD(DSD 64fs)では元の録音のDSD128fsは完全には再現できないからでしょう。

SACD & BD Artwork © London Symphony Orchestra


10月19日

SHOSTAKOVICH
Symphony No.5
Manfred Honeck/
Pittsburgh Symphony Orchestra
REFERENCE/FR-724SACD(hybrid SACD)


ホーネックとピッツバーグ交響楽団の最新SACDですが、録音されたのは2013年ですから、「最新録音」ではありません。もちろん、録音機材も、そして録音フォーマット(DSD256=11.2MHzDSD)も現在と全く変わっていませんから、SACDとしてのクオリティにはなんの問題もありません。この頃はホーネックとこのオーケストラとの相性もとても良好なものになっていたはずですから、ホーネックが自らの思いを存分にオーケストラから引き出している様を、最高の音で聴くことが出来ますよ。
このレーベルが作ったブックレットでうれしいのは、オーケストラのメンバーが全て掲載されていることです。もちろん、それは録音された当時のメンバーですから、もっと最近のものと比べるとそこに若干の違いがあったりするのが、とても生々しくて興味深いですね。今回は6月に録音されたショスタコーヴィッチの「交響曲第5番」と、10月に録音されたバーバーの「アダージョ」がカップリングされているのですが、それぞれに実際に演奏したメンバーが分かるようになっていますし、その時のエキストラまでしっかり記載されていますからね。ある意味、一つのオーケストラの資料として、とても貴重なものとなっているのではないでしょうか。
そこで、いつも気になっていることなのですが、アメリカのオーケストラの場合、メンバーの肩書の中に「Principal(首席奏者)」や「Associate Principal(副首席奏者)」といったものとは別に「〜Chair」というのが加わっている人がいるんですね。実際にこちらでご覧になってください。管楽器では首席級の人だけのようですが、弦楽器だとトゥッティのかなり末席の人でもこの「Chair」を持っているようですね。
確信はないのですが、おそらくこれはある種の「ネーミング・ライツ」なのではないでしょうか。アメリカのオーケストラの主たる財源は個人や法人からの寄付ですから、こんな風に個々の団員(というか、個々の席次)にまでスポンサーが付くようなシステムが出来上がっているのでしょうか。なんせ、こんな風にインターネットや世界中で販売されているCDのブックレットに自分の名前がでかでかと載るのですから、たまらないでしょう。でも、中には謙虚な人もいて、別のオーケストラですが、自分は匿名で寄付をして、ヴィオラの首席を「パウル・ヒンデミット・チェア」と名付けるような粋な人もいるようですね。
もちろん、席次が下がれば寄付金もお安くなるのでしょうね。もしかしたら、パーティーなどの時には自分の「席」の人と家族みたいに親しくなれたりするのかもしれませんね。親席って。
このSACD、まず録音面で感心したのが、それぞれのパートがとても存在感を持っていることと、楽器の音のヌケが非常に良いことでした。特にホルンのパートがとてもくっきり聴こえてきたのには驚きました。あくまで個人的な感想ですが、このパートは、生で聴く時でも何本かが重なると常に音が濁って感じられるものでして、それが録音となるとさらに混濁が激しくなります。多分、ホールの中で微妙に倍音が干渉し合っているのでしょうね。それが、このアルバムではなんの障害もなくストレートにホルンの音が聴こえてくるのです。ホールの音響のせいか、マイクアレンジのせいかは分かりませんが、これは驚異的なことです。
そんなスッキリとしたサウンドによって、ホーネックのショスタコーヴィチは細かいところまで指揮者の意図が伝わってくるものでした。正直、それはこの作品に対してあまりに楽観的なように感じられるものですが、それはそれで楽しめるものです。こんな、陰の全くないショスタコーヴィチも、たまにはいいものです。
バーバーの「アダージョ」も、完璧に磨き上げられた弦楽器のサウンドは、パート全体が完全に「個」を離れた一つの発音体のように感じられるほどです。それはあたかも、北欧の優れた合唱団によって歌われた「Agnus Dei」のようにさえ聴こえてきます。

SACD Artwork © Reference Recordings


おとといのおやぢに会える、か。



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