|
土瓶蒸し。.... 佐久間學
これは、そのモーツァルトの「レクイエム」と同じく、スウェーデンのPROPRIUSレーベルによって1976年1月23〜25日と4月29日にストックホルムのオスカル教会で録音されたもので、最初はもちろんLP(PROP 7762)でリリースされていました。 このLPは、あの長岡鉄男氏が絶賛したことによって、広く「録音の良い」アルバムとして知られるようになりました。現在でもこのオリジナルLPは作られ続けていますし、さらにそれをリマスターして高品質のヴァイナル盤としたものもリリースされています。もちろんかなり早い段階でCD化もされましたし、ハイブリッドSACDにもなっていて、そのような新しいフォーマットが出るたびに、その録音のデモンストレーションという役目を果たすために何度も何度もリリースされてきたものです。 そんな有名なものなのに、頻繁にそのジャケットは目にするものの、いまだかつて実際に音を聴いたことはありませんでした。それが、この、ハイレゾのリマスタリングに関してはとても信頼のおけるレーベルから128DSDというフォーマット、しかも半額で手に入るというのですから、これは聴いてみないわけにはいきません。 これは、実は「クリスマス・アルバム」。ストックホルムにあるオスカル教会のオルガニストでコーラス・マスターのトルシュテン・ニルソンが、その教会の合唱団を率いて録音しています。伴奏には、1983年に亡くなっているアルフ・リンデルという人のオルガンが加わり、時にはマリアンネ・メルネスというソプラノのソロもフィーチャーされます。そして、クレジットの表記はありませんが、金管楽器のアンサンブル(おそらく3本のトランペットと3本のトロンボーン)も、2曲の中で登場しています。 アルバムタイトルの「Cantate Domino」は、イタリアの作曲家エンリコ・ボッシが1920年に作った曲です(彼は1925年に没しています)。ここではまずオルガンの勇壮なイントロが響き渡ります。その音の生々しいこと。それこそ一本一本のパイプの音がきちんと聴こえてくれるような明晰さを持ちつつ、その絶妙のミクスチャーがオルガンの魅力を最大に引き出しています。そこに、金管のアンサンブルが入ってくると、その柔らかなアタックには魅了されます。いかにも人間が息を吹き込んで音を出している、という生命感が宿った響きです。そして、それらがいったん休んだところに、ア・カペラの合唱が入ってきます。正直、ピッチとかフレージングなどにはちょっと難があってそれほど上手な合唱ではないのですが、その、やはり一人一人の声までがくっきりと立体的に浮き上がってくる音には圧倒されます。確かに、これはオーディオ装置のチューニングには格好なソースです。 全く知らない曲が並ぶ中で、「きよしこの夜」などの有名なクリスマス・ソングが突然聴こえてくると、ほっとした気分になれます。最後に演奏されているのが定番のアービング・バーリンの「ホワイトクリスマス」ですが、そのオルガン伴奏がそれまでの堅苦しいものとはガラリと変わった4ビートのスイングだったのには驚きました。なんでも、このオルガニストはかつてはジャズ・ピアニストだったのだとか。そんな、様々な面で驚かせてくれるアルバムでした。おそらく、この128DSDは、サーフェス・ノイズがない分LPをしのぐ音を聴かせてくれているのではないでしょうか。 DSD Artwork © Proprius Music AB |
||||||
トヌ・コルヴィッツは、エストニアの現代音楽界の期待の新星である。彼の作品はエストニア国内と外国で何度も何度も繰り返し演奏され続けている。同じエストニアの作曲家であるトルミスの呪術的な魔力、トゥールのエネルギッシュな爆発力、そしてペルトの宗教的な瞑想の代わりに、コルヴィッツのサウンドの世界は高度に詩的で、視覚的なファンタジーにあふれていることで際立っている。彼の音楽は、自然の風景や民族的な伝統、人間的な魂と潜在意識によって、聴くものを麻酔にかけられたような旅に連れて行ってくれる。穏やかではあっても暗示の含まれた彼の作品の中のメロディは、豊かで洗練されたハーモニーのきらめきと音色の中に溶け込んでいる。この紹介文では、ことさらコルヴィッツのことをそれまでの作曲家とは別物のように扱っていますが、そういうわけではなく、彼の中にはエストニアの先達たちの存在が大きな影を落としているのです。その中でも、特に彼が傾倒しているのが1930年生まれの合唱音楽界の重鎮トルミスです。実際に、このアルバムの中の6曲のうちの3曲までが、何らかの意味でトルミスの作品とのつながりを持っているのですからね。 「プレインランドの歌(Tasase maa laul)」では、作曲家自身が演奏するフィンランドの「カンテレ」に相当するエストニアの民族楽器「カンネル」のパルスに乗って、ストリングスがまるでプリズムのような色彩感あふれるハーモニーを醸し出している中で、エストニアのジャズ・シンガー、カトリ・ヴォーラントによってまるで囁くようにハスキーな声でトルミスの曲が歌われ(語られ?)ます。そのストリングスのきらめきはまるでペルトのよう、そして、作品全体はまるでライヒのようなテイストを持っています。 もう一つ、「最後の船(Viimane laev)」では、男声合唱にバス・ドラムとストリングスが絡むという構成、ここではトルミスの土臭い味がそのまま合唱に保たれている中を、やはりストリングスの刺激的なハーモニーが不思議な色合いを加えているといった趣です。 もう1曲のトルミスがらみの作品は、合唱とチェロの独奏による「プレインランドからの反映(Peegeldused tasasest maast)」です。これは、このCDが録音された時、2013年に初演されたものです。ここでは合唱は歌詞を消してヴォカリーズで歌う中、チェロが浮遊感溢れるフレーズを産み出しています。この曲の最後に、クレジットはありませんがやはり作曲家によるカンネルと、チェリストのグリッサンドが薄く演奏され、次の曲への橋渡しを務めています。 贅沢なことに、このアルバムではエストニア・フィルハーモニック室内合唱団だけではなく、やはりカリユステが指揮者を務めるタリン室内オーケストラと、先ほど登場したチェリストのアニア・レヒナーの演奏でも、この作曲家の器楽作品を味わうことが出来ます。それは、とても得難い上質の体験をもたらしてくれました。 CD Artwork © ECM Records GmbH |
||||||
ブラウがこのオーケストラに入団したのは1969年、あのジェームズ・ゴールウェイと「同期」でした。彼が生まれたのは1949年でしたから、その時はまだ20歳だったんですね。以来半世紀近く、このオーケストラの首席フルート奏者として常に第一線で活躍してきました。 古典派前期に活躍したボヘミア出身の多くの作曲家たちの一人、という程度の認識しかされていないフランツ・クロンマーは、1759年にモラヴィアのカメニュイツェに生まれていますから、モーツァルトの3歳年下になります。独学で作曲を修め、音楽教師になろうと1785年にウィーンに出てきますが、その頃はモーツァルトの「フィガロの結婚」やハイドンの弦楽四重奏曲が音楽愛好家たちの間の格好の話題で、彼のような田舎者の出る幕はありませんでした。そこで彼は、それから10年間ハンガリーに行ってさらに音楽修行を重ねることになるのです。苦労マンなんですね。 そして、1795年に再びウィーンに戻り、彼に目を付けた出版業者ヨハン・アンドレによってそれまで書き溜めた作品が数多く出版されることになります。クロンマーの作風は当時のウィーンで隆盛を誇っていたベートーヴェンやシューベルトにはちょっとついていけないと感じていた聴衆、特にアマチュアの音楽家達には非常に好評を博し、楽譜は良く売れたのだそうです。そして1818年にはハプスブルク家の宮廷作曲家に就任し、1831年に没するまでその地位にありました。 このCDで演奏されているのは、出版された際に90、92、93という作品番号が付けられた3つのフルート四重奏曲です。それぞれ4つの楽章から成るかなり大規模な作品です。確かに、ベートーヴェンほどの緊密さはないものの、構成は非常に巧みで、この作曲家が同時代の巨匠たちに引けを取らないスキルを持っていたことがうかがえます。テクニック的にも、メインのフルートのパートはかなり技巧的な面もありますから、ただの「アマチュア」では吹きこなすことは難しいのではないでしょうか。というより、当時の「アマチュア」、あるいは「ディレッタント」達の技量は、実はかなりのものであったという証なのかもしれません。 この3曲の中でちょっとユニークだと思えるのが、作品90の四重奏曲です。まず、楽章の並び方も、他の2曲のような「アレグロ−アダージョ−メヌエット−プレスト」という、当時の交響曲によく見られるものではなく、第2楽章がメヌエット、第3楽章がアダージョという、まるでベートーヴェンの最後の交響曲のような配列になっています。それぞれの楽章もとても魅力的、第1楽章はフルートがメインテーマをオブリガートで装飾するという意表を突くやり方で始まりますすし、エンディングも終わるかに見せてなかなか終わらないというサプライズ仕上げ。第2楽章のメヌエットは、時折ヘミオレが入ってめまぐるしくリズムが変わり、とてもかわいいトリオが付いています。第3楽章は、しっとりとしたテーマがフルートだけでなくヴァイオリンによっても歌われます。そして第4楽章では、あくまでロマンティックなテーマによって、各楽器のスリリングなバトルが繰り広げられています。 もう一つ、作品92の終楽章のロンドのテーマが、メンデルスゾーンの「おお、ひばり」とそっくりなのも、和みます。 ブラウは、おそらく木管の楽器を使っているのでしょう。とてもくつろいだ雰囲気で、オケの中とはちょっと違った面を見せてくれています。テクニックは完璧、細かいスケールや幅広い跳躍など、軽々と吹くさまは見事です。ただ、さっきの作品90の第3楽章のようなゆっくりとしたところでは、もうちょっと深く歌いこんでも、この作曲家の音楽は十分に応えてくれるような気がします。 CD Artwork © Tudor Recording AG |
||||||
第二次世界大戦後に再開されたバイロイト音楽祭を支えた指揮者として非常に有名な方で、そのバイロイトのライブ録音は数多くリリースされています。1962年にPHILIPSのスタッフによって録音された「パルジファル」は、演奏、録音ともに最高のものとの評価がなされている名盤です。 しかし、そのような劇場における実際の上演のライブ録音ではなく、スタジオでのセッション録音になると、彼に対する評価は著しく低下します。なんせ、実際にそんなセッション録音を仕切ったプロデューサー自身が公にこのようなことを書いているのですから。 In the theatre I believe that he was a Wagner conductor of supreme ability. But on records he was a total failure. [...] He was a nineteenth-century professional, and to the end of his life the gramophone was a newfangled toy. We could not do him justice.これが2007年にはこんな風に訳されています。 「劇場の中では無上の能力をそなえたワーグナー指揮者だったと確信している。しかし、レコード上での彼はまるで落第だった。・・・彼は19世紀的なプロフェッショナルであり、死ぬまでレコードは新奇な玩具だった。私たちには、彼を正当に扱うことができなかった。」お判りでしょうが、これは英DECCAのレコーディング・プロデューサーだったジョン・カルショーの「Ring Resounding」という著作の中の一節です。彼がショルティとウィーン・フィルを使って、ワーグナーの「指環」の、完成した時には世界で最初のスタジオ録音による全曲盤となるレコードを作りはじめる丸1年前に、同じ会場で同じレコーディング・エンジニアの元に、同じオーケストラ(と、同じ歌手)を使って録音されたものが、この「ワルキューレ」の第1幕なのです。 ただ、なぜかこのSACDでのクレジットは、こうなっています。しっかりしてくれじっと。。 ![]() しかし、そんな製作者の思いとはうらはらに、いまではこんなシングル・レイヤーSACDにもなりうるような、高いクオリティのレコードが出来ていたのでした。何よりも、ゴードン・パリーの録音には圧倒されます。ここでの低音の充実ぶりは、後の「指環」にそのまま受け継がれているのでしょう。そして、クナッパーツブッシュの演奏も、当時カルショーが考えていた規格には当てはまらなかった分、生身の鋭い音楽がそのまま伝わってくるような気がします。前奏曲でのアッチェレランドには驚きましたね。 カルショーが「20世紀には対応できない」と言い切ったクナッパーツブッシュの「レコード」は、21世紀になってやっと正当に評価されるようになったのかもしれません。 LPでリリースされた時には、2枚組の余白に、その前年にやはりウィーン・フィルと録音された、「神々の黄昏」の序幕と第1幕の間の間奏曲と、第3幕の「葬送行進曲」の2曲が入ってていました。その後、CD化された時には、このカップリングは外されて1枚になっていましたが、今回はシングル・レイヤーSACDでの長時間収録で、このかつての「おまけ」が復活しています。こちらもゴードン・パリーの録音が存分に楽しめます。 SACD Artwork © Decca Music Group Limited |
||||||
個人的には、これは生涯で初めて自分のお金で買ったオペラ全曲盤という、記念すべきアイテムです。おそらく、国内盤が最初にリリースされた時に購入したのでしょう。ただ、その頃はまだきちんとした再生装置までそろえるほどの余裕はありませんでしたから、回転式のサファイヤ針のカートリッジが付いた安物のプレーヤーにラジオをつないで聴いていましたね。しばらくして何とかまともな「ステレオ」一式がそろったので、ちゃんとしたダイヤ針のMMカートリッジで聴けるようになった頃には、そのLPはさんざん高針圧にさらされて聴くも無残な音に変わっていたのでした。しかも、30pΦのターンテーブルに乗せてみると、それはいい加減なプレスでお椀状に反り返った盤だったことも分かりました。 そんなわけで、このレコードからは音自体もなんだか安っぽいもののような印象を、最初から受けていましたね。CD化された時はすぐに入手したのですが、やはりそんな印象はぬぐえませんでしたから、全曲を聴きとおすこともありませんでした。 ですから、このシングル・レイヤーSACDは、久しぶりに、まともに向き合ってしっかり聴く機会を与えてくれたものとなりました。まずは、今まで入手していた2種類のCDとの音の比較になります。元々はLP3枚、6面に収録されていたものですが、最初に買った時には、それが3枚組のCDになっていました。つまり、第2幕が77分以上かかっていたので、当時ではCD1枚にすることが出来なかったのですね。ただ、それではあまりにも余白が多くなってしまうので、同じモーツァルトのたった5曲の音楽しかないジンクシュピール「劇場支配人」全曲がカップリングされていました。 そのCDはジャケットもオリジナルとは違っていたので、それこそ「オリジナルス」で1997年に、今度は2枚組で出たものも買ってありました。それらを今回のSACDと比べてみると、意外にも初回のCDがかなり健闘していたことが分かります。当時のクレジットでは録音エンジニアのギュンター・ヘルマンス自身が「デジタル・リミックス」を行ったとありますから、そのあたりが原因なのでしょうか。オリジナルスの方は変に音を作っている感じがして、なじめません。そして、SACDは最初のヒス・ノイズからしっかり入っていて、とてもナチュラルな雰囲気が漂っています。それは、今まで抱いていた悪印象を払拭するには十分なものでした。 ![]() ![]() 演奏自体は、今まで多くの人によって語られてきたものですから、いまさら付け加えることはありません。ヴンダーリヒは最高のタミーノを聴かせてくれますし、フィッシャー=ディースカウのパパゲーノという超豪華なキャスティングもうれしいところ、ただ女声陣はちょっと弱体、特にピータースの夜の女王は間違いなくミスキャストでしょう。それと、やはり「3人の童子」は少年に歌ってほしかった。 この録音の特徴は、グスタフ・ルドルフ・ゼルナーという、当時ベルリン・ドイツ・オペラの総監督だった演出家の手によって、セリフの部分がきっちり演出されているということです。そこまでやっているレコードなんて、ありませんよ。ここでは、おそらくゼルナーによってコンパクトに切り詰められたセリフが、歌手たちによってとても生き生きと語られています。 SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
||||||
今回の版元は、アカデミア・ミュージックという、楽譜の専門店として有名なところです。ここでは毎月月報を作って無償で配布していますが、その内容はとことんマニアック、ですから、こんな佐伯さんのようなものに関してはお手の物に違いありません。ちょっと製本が雑で、無線綴じが剥がれたりしますが。 もちろん、佐伯さんの書かれたものには、そんな粗悪なところなどは微塵もありません。これまでは全く気が付かなかったような、オーケストラの管楽器に関する疑問が、次から次へと明快に解かれていくのには、いつもながらのスッキリ感が味わえます。 全体は、時代順に「バロック時代」、「古典派時代」、「19世紀」、「20世紀」4つのパートに分けられています。そこでは、それぞれの時代での様々な要因が楽器にもたらした歴史が語られています。最初の「バロック時代」では、「楽器の制限」というキーワードが用いられています。しかし、その「制限」という意味が、ネガティヴなものではなくポジティヴにとらえられているのが、ユニークな視点ですね。いや、実はそのような視点の方が今では「普通」になっているのですが、それは保守的なクラシック・ファン全体にはなかなか浸透することはない、という意味で「ユニーク」なわけです。 それは、例えばバロック時代のフルートであるフラウト・トラヴェルソには、指穴以外のキーがほとんど付いていないので、均一な半音階を吹くのは非常に難しいのですが、それを機能的な現代フルートには及ばない欠点ととらえるのではなく、調によって音色を変えることができるという「長所」ととらえるというような視点です。 「バロック時代」と「古典派時代」、さらに「19世紀」にも登場しているのが、トロンボーンです。常々、この楽器については疑問に感じている点が多々ありました。その最大のものは、この楽器自体はバロック以前からあったというのに、オーケストラの典型的なレパートリーである「交響曲」というジャンルの作品で最初に使われたのは、やっとベートーヴェンの交響曲第5番が作られた時なんですからね。そんな疑問に対する著者の答えは明快です。それは、「トロンボーンは教会というフィールドを中心に使われていた」というものです。ですから、作曲家がこの楽器を使う時には、少なからず「宗教的」なイメージが伴う、とも述べられています。 ただ、そうなると、あれだけ教会のための音楽を作ったバッハがこの楽器を使っていなかったのはなぜか、という新たな疑問が湧いてきます。それに対しても、著者は「バッハはプロテスタントだったから」と説明しています。トロンボーンが入るような華麗な音楽はカトリックだけのもので、プロテスタントではそのようなものは演奏されることはなかったのだ、と。うん、まさに目からうろこが落ちる思いです。 さらに、特殊なトロンボーンについても、以前の著作を参考に作らせていただいたこちらのコンテンツに関して、さらに深い考察を見せてくれているだけではなく、実際に「バスホルン」を演奏している写真を見ることができるのは感激ものです。 最後の「20世紀」では、ジャズバンドやミュージカルのピットでの「マルチリード」が扱われています。これも興味深いテーマですが、それに関連させて、ワーグナーが同じ発想でホルン奏者が持ち替えて演奏できるような楽器「ワーグナーチューバ」を開発していたのだ、という佐伯さんの視線もとても新鮮です。 Book Artwork© ACADEMIA MUSIC LTD. |
||||||
今回の、2015年10月に録音された新しいアルバムでは、入手したものでは初めて、その録音フォーマットが「DSD128」と明記されていました。同じ年の1月に録音されたものではまだ「DSD」という表記しかありませんでしたから、その頃はまだ「DSD64」だったのでしょうね。いよいよこのレーベルもSACDを超える「ハイ・サンプリング・レート」を採用するようになったのでしょう。 そうなると、ハイレゾ音源の配信サイトでは、そのDSD128の音源が入手できるのではないか、という期待が高まるのですが、DSDを専門に扱っているサイトでも、DSD64しか扱っていませんでした。残念(もちろん、日本のサイトではDSDそのものがリリースされていません)。 スティーヴ・ライヒの初期の作品がLSO LIVEのようなレーベルから出るなんてちょっと意外な気がしますが、このオーケストラではマイケル・ティルソン・トーマスが首席指揮者だった時代(1990年代)から、ライヒの作品は良く演奏していたのだそうです。という情報は、このライナーノーツに掲載されている、首席打楽器奏者のニール・パーシーからのもの、その中で彼は、この、彼が中心になって打楽器パートだけで録音されたこのアルバムは、ライヒの80歳の誕生日のためのオマージュだと述べています。紅白ですね(それは「おまんじゅう」)。 そうですか、もう80歳になるのですか。ということは、この前のペンデレツキとは3つしか違わないということになるんですね。とてもそんな風には見えません。しかし、それぞれにジャンルの異なるアーティストからのリスペクトを受けている、という共通点はあります。ただ、ペンデレツキに関しては、それはかつての「前衛音楽」時代の作品のみに対するものなのですが、ライヒの方はすべての時代のもの、さらに、もしかしたらクラシックの人よりはロック、さらにはヒップ・ホップ系の人の方がよりシンパシーを持っているのではないか、というほど、境界を超えたところでの人気を誇っているような気がします。というより、彼の作品ははたして「クラシック」なのか、というもっと掘り下げたところでの問いかけも必要なのでしょう。 そう、ライヒの場合は、「クラシック」とか「現代音楽」といった枠にはめて議論されること自体が、あまりふさわしくはないのですよ。そこにとどまっているうちは、たとえばこちらのような見当違いの評価にさらされてしまうことは避けられません。 このアルバムで演奏されているのは、まずは有名な「Clapping Music」です。ライヒの出発点は最初期の「「ピアノ・フェイズ」に見られるような、2人の演奏家が全く同じ繰り返しの音型を同時に始めて、それを片方がほんの少しテンポを速めるために生じるズレを体験するという「フェイズ・シフト」の技法だったわけですが、この頃になると、その「ズレ」を生じさせる遷移的で不確定な部分がなくなって、いきなり音符一つ分シフトする、というやり方に変わっています。おそらく、この時点でライヒは「現代音楽作曲家」から「ジャンルを超えた作曲家」に変わったのではないでしょうか。 そんな、リズム感さえ良ければ、面倒くさいクラシックの音楽教育(「教育とは偏見を植え付けること」と高橋悠治が言ってました)を受けなくても演奏できる作品のあとに、もう少し複雑になった「Music for Pieces of Wood」を経て、「Sextet」を聴きはじめる頃には、ライヒがこの1985年あたりにたどり着いた豊かなハーモニーを持つ一つの確かな成果を味わうことが出来ることでしょう。 期待していた録音は、ライブということでマイクのセットに問題があったのでしょう、「Music for Pieces of Wood」あたりでは変な干渉が起こっていてちょっとノイズっぽい音になってしまっています。これだったら、別にDSD128で聴く必要はありません。 SACD Artwork © London Symphony Orchestra |
||||||
ただ、ここで録音されている曲の中では、おそらくこれが初録音となる「Dies illa」以外は、全て割と最近NAXOSのアントニ・ヴィットによる一連のシリーズによって、今回と全く同じオーケストラと合唱団によって録音されているのですね。「聖ダニエル聖歌」は2005年、「聖アダルベルト聖歌」は2010年、「ダヴィデ詩編」は2006年です。しかも、これらは録音スタッフも今回と同じCD ACCORDなのですから、先に録音をしたヴィットは気を悪くしたりはしなかったのでしょうかね。 2014年の11月9日にベルギーのブリュッセルで初演されたペンデレツキの大曲「Dies illa」は、その後翌2015年3月にはワルシャワでポーランド初演が行われます。これは、その直後の6月にやはりワルシャワで録音されたものです。2014年というのは第一次世界大戦がはじまって100年という年ですから、彼はその戦争の犠牲者を悼むためにこの曲を作ったのだそうです。彼の大昔の作品に「広島の犠牲者のため」という言葉が入る有名な曲がありますが、今回はそのような「後付け」ではなく、ちゃんと「悼む」気持ちをもって作っていたのでしょう。 3人のソリストと合唱、そして大編成のオーケストラという、なんでも初演の時の演奏家は全部で1,000人にもなっていたというこの作品は、日本語のタイトルが「怒りの日」と呼ばれるのだ、と、代理店のインフォにはありますが、それは厳密な意味では正しくはありません。ペンデレツキがここで採用した、「レクイエム」の2つ目のパートに当たる「セクエンツィア(続唱)」の長大なテキストは、それ全体が「怒りの日」と呼ばれていますが、それは、最初の言葉が「Dies irae」で始まるから、その日本語訳を用いてそのように呼ばれているのです。しかし、この作品のタイトルは「Dies illa」、なんか、微妙に違います。 これは、そのテキストの最初が「Dies irae, Dies illa」で始まるところから、その2つ目のフレーズをタイトルにしたのでしょう。これは「怒りの日なり、その日こそ」と訳されていますから、「Dies illa」だけだったら「その日」と訳さなければいけないのではないでしょうか。でも、「ペンデレツキ作曲『その日』」なんて、なんだか間抜けですね。 実は、彼はそもそもこの部分のテキストは使ってはいません。そこはカットして、モーツァルトの作品で言うと、「セクエンツィア」の2曲目、「Tuba mirum」でバスのソロに続いてテノールのソロが歌い始める「Mors stupebit et natura」というテキストの部分から作り始めているのですよ。そうなると「Dies illa」はないじゃないか、と思われるかもしれませんが、安心してください(ふ、古い)、最後の方の有名な「Lacrimosa」に続くのが、「dies illa」なんですね。「涙の日なり、その日こそ」です。 ということは、彼がメインに考えていたのは冒頭の「Dies irae」ではなく、最後のこの部分だったのでしょうか。あるいは、単に1967年にすでに「Dies irae」のタイトルで別の曲を作っていたので、それとの差別化を図っただけのことなのでしょうか。いずれにしても、まさに彼の最近の作風にどっぷりつかった「親しみやすい」曲であることだけは確かです。いまだに「チューバフォン」という、太い塩ビ管を束ねた楽器を使っているのが、笑えます。 当然のことですが、他の曲でヴィットの演奏から聴こえてきたシニカルな視点は、ここではきれいさっぱりなくなっています。 CD Artwork © Warner Music Poland |
||||||
![]() 実は、このLPは「クラシック名録音106究極ガイド」でも取り上げられていたのですね。この2xHDというところは、そんな「名録音」と定評のあるものを探し出してきて、それをリマスターしてリスナーに届けるというのがポリシーなのでしょう。 このアルバムは、前回のドヴィエンヌを入手した「e-Onkyo」で扱っていました。しかし、なぜか今回はDSDはリリースされていなくて、24/192のPCMしか入手できないようになっていたのですよ。どんなフォーマットで販売するかというようなことは、あくまでレーベルの方針で決まるのだと思っていましたから、ちょっと残念ではあったのですが、仕方がないのでこの192FLACで全曲ダウンロードしてしまいました。 ところが、他のサイトを調べてみると、アメリカの「DSD Native」という、名前の通りDSDに特化して「商品」を扱っているところで、なんとこのアルバムの128DSDをちゃんと扱っているではありませんか。レーベルからはちゃんとDSDは提供されていたのに、なぜかe-Onkyoは独断でそれを販売していなかったのですね。 悔しかったので、DSD Nativeで「Lacrimosa」だけを買ってみました。そうしたら、1曲しか買っていないのに、ブックレットのPDFが付いてきましたよ。これは、このレーベルが制作したもの。そこにはしっかりジャケット画像や、トランスファーの際に使ったテープレコーダーやコンバーターの機種などのデータが記載されていましたよ。e-Onkyoはここでも、レーベルがきちんと用意していたものを消費者に届けることを怠っていたのですね。本当に、このサイトにはあらゆる面でがっかりさせられることばかりです。これでは「イー・オンキョー」ではなく、「イーカゲン・オンキョー」。 肝心の「レクイエム」の音はどうなのでしょう。それはもう、録音された聖ヤコブ教会の豊かなアコースティックスを完全に手の内に収めた素晴らしい音場が眼前に広がります。特に、ティンパニとトランペットのリズム隊が左奥に潜んでいて、ここぞという時にその存在感を示すあたりが、とてもドラマティック。主役の合唱は、左からソプラノ、ベース、テノール、アルトという北欧スタイルの並び方ですが、その外声と内声同士が程よく重なり合ってうまくブレンドされている上に、ポリフォニーではそれぞれの声部がきっちりと立っているという、エキサイティングな音場設定です。時折男声にはちょっと頑張りすぎの声が混ざりますが、それが音楽を停滞させることにはなっていません。 そんなサウンドに支えられたショルドの指揮ぶりは、基本的にとても穏やかで安心して聴いていられるものでした。ただ、「Rex tremendae」で合唱にも複付点を要求しているあたりは、この頃にしては先進的なアプローチが見られます。さらに、「Recordare」では冒頭のチェロがソロで弾いているように聴こえますし、曲によって弦楽器のプルトを減らしているところもあるようでした。「Lacrimosa」では間違いなくヴァイオリンの人数が減っているのでしょう。それはさっきの唯一のDSDで、よりはっきり分かります。やはり、DSD128は、192PCMを明らかに上回っているのですね。返す返すも残念なことをしました。 FLAC Artwork © Proprius Music AB |
||||||
このレーベルは、アンドレ・ペリーというプロデューサーと、ルネ・ラフラムというエンジニアが共同で運営しています。それぞれ華々しいキャリアを持った人たちですが、ここでは名前の通り、普通の「HD(High Definition)」の2倍の鮮明度の音源を目指しているようです。「これを聴いてしまうと、あなたはもはやMP3には戻ることはできない」などという挑発的なコピーが、彼らのサイトには踊っています。 実は、彼らは基本的に「録音」という作業は行わず、すでにリリースされている音源に手を加えて、ハイレゾ用のデータを作り上げるという作業をもっぱら行っているのです。ここは、そういう「リマスタリング」専門のレーベルです。 実際の彼らの作業は、まず音源をDXD(24bit/352.8kHzPCM)か DSD(あるいは DSD 2 )にトランスファーするところから始まり、それにリマスタリングを行い、一般的なハイレゾ音源の24/48から最高は24/192、そしてDSD 2までのデータを提供するということになるのでしょう。特に、NAXOSの音源を用いた時には、このように「2xHD-Naxos」というレーベル名を付けています。ただ、この場合、扱うのはNAXOSレーベルだけではなくNAXOSが販売に関わっているPROPRIUSなどのレーベルも含まれているようです。 ということで、このレーベルの5.6MHzDSDのラインナップを見てみたら、だいぶ前にCDで聴いていたこちらのアルバムがつい最近そんなリマスタリングを施されて配信が始まっていたことが分かりました。そこで、それがどの程度のものなのか聴いてみようと、フルアルバムではなく「フルート協奏曲第2番」だけを買ってみて、CDの音と比べてみることにしました。 それは、冒頭のしなやかな弦楽器の音を聴いただけで、CDとは全く別物であることが分かりました。まず、弦楽器の音色が違います。CDでは高音がとても硬い、はっきり言って長い時間聴いているのは苦痛に感じられる音なのですが、このDSDはそんな硬さは微塵もない、あくまで伸びやかな音です。当然、いつまでもこの音の中に浸っていたいという欲求が、ごく自然に生まれてきます。音を聴くだけで幸せになれるという安らぎ感、それはなかなかCDでは味わうことが出来なかった感覚です。 そして、それぞれの楽器がとても立体的に聴こえるという、これはハイレゾでまず感じることですが、それがこれほどはっきりしているものもなかなかお目にかかれないでしょう。変な喩えですが、CDではそれぞれの音がコールタールのようなものでべったりくっつきあっているものが、このDSDでは、そんなベタベタがきれいさっぱり洗浄されて、ピカピカになった音だけがくっきりと聴こえてくる、みたいな感じでしょうか。長い前奏が終わってやっと出てくるガロワのフルートは、ひときわ輝いてピチピチしています。 第3楽章のロンドでは、まるでマルチチャンネルからリミックスしたみたいに、楽器のバランスまでが違って聴こえてくるところがありました。それは、最後の方でフルートソロに絡み付くソロ・ヴァイオリン。DSDだと、まるでスポットライトを浴びたように、くっきり聴こえてきますよ。 これは、録音する時にハードディスクに収められたはずの音がCDになるといかに「汚れて」しまっているかが、端的に分かってしまうという、ある意味恐ろしいものです。それにつけても、この業界ではそういうファイルになぜ識別用の「品番」を付けようとはしないのでしょうか。 DSD Artwork © 2xHD-Naxos |
||||||
おとといのおやぢに会える、か。
|
accesses to "oyaji" since 03/4/25 | |
accesses to "jurassic page" since 98/7/17 |