白鳥の水引。.... 佐久間學

(16/4/7-16/4/28)

Blog Version

4月28日

SCHUBERT
Symphony No.9
Christoph von Dohnányi/
Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD461


合唱関係でおなじみのこのレーベルですが、ここはロンドンのフィルハーモニア管弦楽団のいわば「自主レーベル」的な役割も果たしています。マゼールの晩年にマーラーの交響曲全集を録音したのも、このレーベルでした。
今回は、このオーケストラの首席指揮者を1997年から2008年まで務め、その後は終身名誉指揮者として関係を保っている長老、クリストフ・フォン・ドホナーニとの共演で、2015年10月に行われたコンサートのライブ録音です。
曲目はシューベルトの「交響曲第9番」、ジャケットにはそれしか書かれてはいませんが、もちろんこの作曲家の最後のハ長調の交響曲のことです。そうなんですよ。おそらく、いまの日本でオーケストラがこの曲を演奏する時には、まず「交響曲第8番」と言うであろう、あの交響曲のことです。それが、いまだにこの曲は「第9番」でないと納得できない人が、特にCDなどを購入するクラシックファンの中には根強く残っているものですから、やむを得ずこんな書き方をされてしまうのですね。なんとも不憫なことです。
というか、このCDのライナーノーツを読んでみると、その辺のあまりの無頓着さにがっかりしてしまいます。このライターさんは
フィナーレは、猛スピードのタランテラで、ヴァイオリンはまるでベートーヴェンの交響曲第9番の最後の楽章「歓喜の歌」のように、延々と三連符を演奏し続ける。おそらくこれは、シューベルトが意識していたかどうかはわからないが、彼自身の「第9交響曲」を作っている頃に、彼にとっての音楽的な英雄であったベートーヴェンが亡くなったことに対する追悼の意味があったのかもしれない。
などと書いているのですからね。お分かりでしょうが、この文章には事実誤認が2つもあります。まず、この曲に「第9番」という番号(それも今では「第8番」に変わっています)を付けたのは後世の人で、シューベルト自身ではありませんから、「彼自身の『第9交響曲』」というのはあり得ないということ。さらに、この曲が作られたのは、かつてはシューベルトの最晩年、1828年ごろだと考えられていたものが、最近の研究ではもっと前、1825年ごろだとされているのですから、シューベルトがこの「第4楽章」を作っていた時にはまだベートーヴェンはご存命だったんですよ(亡くなったのは1827年)。したがって、この曲に追悼の意味を込めることもあり得ません。このようなデタラメなライナーを平気で書くなんて、まるで日本の音楽評論家みたいですね。
現在86歳と、いわば「巨匠」と呼ばれてもおかしくない年齢に達しているにもかかわらず、ドホナーニという人にはそれほどのカリスマ性を感じることが出来ないのはなぜでしょう。知名度も低いし(それなーに?)。この曲は最近、実際に演奏する機会があったので、この最新録音で「今」のこの曲の一つの提案を感じてみたかったのですが、特にこれといったインパクトはありませんでした。
第1楽章は、冒頭のホルン・ソロで全体の印象が決まってしまうという恐ろしいものですが、ここでのホルンは変に小細工が施されていて何か軟弱な感じがします。楽章全体は割と締まったテンポでサクサクと進んではいくのですが、やや素っ気ないところもあって、シューベルトらしい抒情性はあまり味わえません。
第2楽章は、これもオーボエ・ソロ頼み。幸い、このオーボエはとても暖かい音色でたっぷり歌ってくれていますし、途中で加わるクラリネットともとてもよく溶け合って、至福の時が味わえます。ただ、フレーズのつなぎの部分でちょっと音楽が停滞して流れが止まってしまうのが残念です。
第3楽章は中間のトリオがちょっと重苦しいリズムに支配されているのが、気になります。
そして、フィナーレでは、さっきの「タランテラ」というイメージとは程遠いもたつきが、ただでさえ長すぎるこの楽章をより退屈なものにしています。この楽章、全部で1154小節もあるって、知ってました?

CD Artwork © Signum Records


4月26日

Rheinmädchen
Raphaël Pichon/
Pygmalion
HARMONIA MUNDI/HMC 902239


最近のこのレーベルのCDには、ハイレゾ音源がダウンロードできるようなヴァウチャーが入っています。どうやらもうごく限られたアイテム以外はSACDではなくCDに移行しようという意向が固まったかのように、このところSACDでのリリースが激減していることと関係しているのでしょうね。パッケージはCDだけど、ご希望のお客様にはハイレゾもご提供できますよ、という「暖かい」配慮なのでしょう。確かに、スタート当初は44.1/24という中途半端なフォーマットだったものが、今ではしっかり96/24というSACD並みのクオリティが確保できるものになっていますから、これはありがたいものです。なにしろ、今のハイレゾ音源の販売体制と言ったら、音源のデータだけ送ればそれでいいだろうという杜撰極まりないものですから、しっかり従来のパッケージがそのまま保障されたうえで、音だけはハイレゾが入手できるというこのシステムは大歓迎です。
入手方法もいたって簡単、ヴァウチャーに示されたサイトに行って、カードに書かれたパスコードを入れるだけでOK、会員登録などの面倒くさい手続きは一切要りません。もちろん無料です。オリジナルのCDがリリースされてから2年間はダウンロードが可能ですし、同じパスコードが3回までは使えますからね。
「ラインの乙女」というタイトルのこのアルバムは、最近何かと気になるラファエル・ピション率いる「ピグマリオン」の演奏ですが、ここでは合唱は女声だけが歌っています。「乙女」ですからね。伴奏も、ピアノは使われずホルン4本、コントラバス2本、そしてハープが用意されています。このフル編成で最初に聴こえてきたのが、ワーグナーの「ラインの黄金」というよりは4部作「ニーベルンクの指環」全体の前奏曲でした。編曲者のクレジットはありませんが、原曲の混沌感を見事に表現したものになっています。特に、ハープの低音が不気味さを演出しています。もちろん、オリジナルには合唱は入っていませんが、最初に聴こえるか聴こえないかという感じでうっすらと歌われているものが、次第に盛り上がってくるのは圧巻です。
ワーグナーの「指輪」はそのあとも登場します。「ジークフリート」からは、第2幕第2場でジークフリートが角笛を吹くシーンで演奏されるホルンのソロ、もちろん、それはホルン1本だけで、合唱は加わりません。さらに「神々の黄昏」では、第3幕の第2場と第3場をつなぐ、いわゆる「葬送行進曲」がホルン4本だけで演奏されます。これらのホルンは、全部で6種類の19世紀から20世紀初頭にかけて作られた楽器が用いられています。合唱のアルバムだと思っていたら、楽器でもしっかり「ピリオド」にこだわっていたのですね。そして、ワーグナーの「指環」からはもう1曲、同じ「神々の黄昏」の第3幕冒頭の前奏曲まで遡ります。ジークフリートのホルンに続いてラインの乙女の合唱がホルン2本とハープに伴われた編曲で演奏され、その最後に、またホルンのソロでその曲が終わったかと思うと、それがなんと次のブラームスの「4つの歌」のホルンによるイントロにそのまま続くという、憎すぎる演出が施されています。
そんな手の込んだ骨組みの中で、メインであるシューベルト、シューマン、そしてブラームスの女声合唱が歌われます。中にはリートを合唱に編曲したものも含まれていて、興味は尽きません。そんな中で、ブラームスの「女声合唱のためのカノンによる民謡集」(ふつうは「13のカノン」と呼ばれていますが、このCDでの表記はこうなってます)の最後の曲「Einförmig ist der Liebe Gram」は、シューベルトの「冬の旅」の最後の曲「Der Leiermann」と全く同じ曲なんですね。あの曲はずっとシューベルトのオリジナルだと思っていましたが、本当は「民謡」だったのでしょうか。あるいは、ブラームスがシューベルトの曲を「民謡」と解釈して引用したとか。
女声合唱のまろやかさと、他の楽器の肌触り、それらがきちんと聴こえてくるのは、やはりCDではなくハイレゾの方でした。

CD Artwork © Harmonia Mundi Musique S.A.S.


4月23日

BACH
Missa BWV232(1733)
Eugénie Warnier, Anna Reinhold(Sop)
Carlos Mena(CT), Emilliano Gonzalez Toro(Ten)
Konstantin Wolff(Bas)
Raphaël Pichon/
Pygmalion
ALPHA/Alpha 188


以前こちらで聴いたモーツァルトのアリア集の中で、とてもセンスの良いバックを務めていたラファエル・ピション指揮の「ピグマリオン」が、彼らの本来のフィールドでバッハを演奏していたアルバムが目に入ったので、聴いてみました。バッハの「ミサ・ブレヴィスBWV232」です。
カトリックの典礼で用いられる「ミサ」は、本来は「Kyrie」、「Gloria」、「Credo」、「Sanctus」、「Agnus Dei」の5つのパーツから出来ていますが、それの最初の2つだけから成るものは「ミサ・ブレヴィス(小さなミサ)」と呼ばれます。プロテスタントの場合も、ルター派ではこの形でのミサは認められているので「ルター派のミサ」とも呼ばれています。バッハが作ったこの形の作品は、一応4曲(BWV233-236)残されています。
しかしここでは、それらとは別の「BWV232」が演奏されていました。このシュミーダー番号をご覧になれば、有名な「ロ短調ミサ」であるとこはすぐに分かりますが、それは全パーツが揃った「フル・ミサ」ですから、「ミサ・ブレヴィス」ではないのでは、という疑問が浮かんでくるはずです。そのあたりは、この「ロ短調」の成立経緯を考えれば納得です。フル・ミサとして完成されたのは1749年頃ですが、バッハはその時点で以前に作られたものを集め、足らないものは新たに作って「ロ短調ミサ」という大曲に仕上げていたのです。「Kyrie」と「Gloria」がまさにそのような「在庫品」、1733年にドレスデン選帝侯に献呈するために作られていたものだったのです。つまり、ピションたちは1733年にタイムスリップして、その時には「ミサ・ブレヴィス」という形で存在していた作品をここで演奏している、ということになるのですね。
合唱は23人と、程よい人数、オーケストラも弦楽器は4.4.3.2.2という、少し大きめの編成です。ただ、見かけはそういう人数なのですが、ヴィオラ以下のパートにはそれぞれヴィオール系の楽器が1本ずつ含まれています。さらに、通奏低音にもオルガン、チェンバロ、そしてテオルボまでが加わっているというヴァラエティに富んだ編成がとられています。それによって弦楽器全体はとてもソフトな音色を楽しむことが出来ますし、テオルボが大々的にフィーチャーされた「Domine Deus」のデュエットなどでは、それがまるでハープのように聴こえてきて、とても典雅な思いになれます。
合唱もとことんまろやかな歌い方で迫ります。冒頭の「Kyrie」などは、良くある荘厳で重厚なものでは全然なくて、気抜けするほどの爽やかさです。トランペットとティンパニが活躍する場面でも、それはリズムを強調するのではなく、華やかな音色を加えるという方向に作用しているようです。
ご存知のように、献呈の際にバッハはスコアではなく、自ら写筆したパート譜を作って、それをドレスデンに送っています。その時にいくつかの部分で改訂を行っています。それはスコアには反映されていませんし、さらにスコア自体も後にパート譜で改訂した箇所とは別のところを書き換えたりしているので、この「ミサ・ブレヴィス」は厳密にいえば「ロ短調ミサ」の中の最初の2曲とは異なっているところがあります。その具体的な相違点は、こちらのCDに付いてきたパート譜のファクシミリや、こちらの、2014年に出版されたCARUSのスコアを見れば分かります。
しかし、その楽譜などと照らし合わせてみると、この演奏は1733に作られた「ミサ・ブレヴィス」とは別物であることに気づきます。特に「Et in terra pax」のフーガの歌い出しの「hominibus」のリズムは、全て付点音符になっているのはちょっと問題。これは、「ミサ・ブレヴィス」の時点では「♪+♪」の平たいリズムだったものが、「ロ短調ミサ」になった時に(おそらく)改訂された部分なのですからね。さらに、パート譜を作った時に改訂されたバスのアリア「Quoniam tu solus sanctus」では、両方のバージョンが混在してますし。こういういい加減なことは、金輪際やめてもらいたいものです。

CD Artwork © Alpha Productions


4月21日

MORAVEC
Violin Concerto, Shakuhachi Quintet
Maria Backmann(Vn), James Nyoraku Schlefer(Sh)
Stephen Gosling(Pf), Voxare String Quartet
Rossen Milanov/
Symphony in C
NAXOS/8.559797


1957年にアメリカで生まれた作曲家、ポール・モラヴェックの作品集です。チェコ語だと「モラヴェッツ」になるラストネームでもわかる通り、父親がチェコ系、そして母親がイギリス系という出自なのだそうです。
彼は幼少のころから聖歌隊のトレブル・パ−トを歌うことで、音楽と親しんでいましたが、そのころ衝撃を受けたのがテレビの「エド・サリヴァン・ショー」で見たビートルズだというのが、面白いですね。その後バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスといった「普通の」音楽との出会いもあり、ピアノのレッスンを受けるようになって、13歳で作曲を始めます。
現在では、アメリカを代表する作曲家として大活躍、オーケストラ作品や室内楽だけではなく、歌曲やオペラなど、あらゆるジャンルで膨大な作品を産み出しています。最新作はスティーヴン・キングの「シャイニング」を元にしたオペラで、今年の5月7日にミネソタのオペラハウスで初演されます。
今回のアルバムでは、彼の作品の中でも最も完成度の高いものとされている「ヴァイオリン協奏曲」がまず演奏されています。彼の場合、演奏家との出会いによって作品のインスピレーションがわいてくるケースが多いそうですが、この作品も、長年にわたって創造の源となってきたヴァイオリニストのマリア・バックマンのために作られています。黄色くはありません(それは「パックマン」)。もちろん、ここでも彼女がソロを担当しています。彼女の卓越した演奏技巧を前提として作られたこの協奏曲は、確かに高度のテクニックを必要とするものですが、彼女のよどみのないヴァイオリンによってとても魅力的に迫ってきます。モラヴェックの作風は、ごくオーソドックスで分かりやすい和声とメロディが基本、そこにジャズや、ほんの少しの「前衛的」なかけらを加えたような感じではないでしょうか。特にこのヴァイオリン協奏曲では、ブラームスあたりの重厚なテイストもいたるところに見られます。長大なカデンツァを挟んで、圧倒的な盛り上がりを見せるフィナーレは聴きごたえがあります。ここで共演している「Symphony in C」というのは、アメリカに3つしかないという「教育オーケストラ」、ここで学んだ才能が、各地のオーケストラの団員として活躍しています。
もう一人の、彼の作曲の源となった人物が、尺八奏者のジェームズ 如楽(にょらく) シュレファーです。彼はあの横山勝也氏などに師事、日本人以外ではほんの少しの人しか許されていない「大師範」の免状を与えられているのだそうです。また、彼は「虚心庵アーツ」という団体をアメリカに設立して、日本の楽器、ひいては日本の文化を世界中に広める活動を行っています。この「尺八五重奏曲」も、その「虚心庵アーツ」からの委嘱によって作られました。
ここでは、その如楽さんと「ヴォクサー弦楽四重奏団」(と読むのだと思います。少なくとも、このCDの帯やNMLで表記されている「ヴォザール」でないことだけは間違いありません)との共演です。曲の最初ではカルテットだけでいともロマンティックな音楽が演奏されますが、そこに尺八が加わるとガラッと曲想が変わる、というのが、モラヴェックならではのこの楽器との対峙の仕方だったのでしょう。あたかも「共演」していると見せかけて、音楽的には全く異質なものが最後まで互いに譲らない姿勢がありありと見て取れます。結局はやっぱり西洋楽器、あるいは西洋音楽の軍門に尺八は下ってしまう、という、まさに西洋人が見た和楽器という構図がミエミエの作品です。
あと2曲、ヴァイオリンとピアノのための小品が演奏されています。最後の「Everymore」という曲は、バックマンの結婚祝いに作ったものなのだそうです。これは1度聴いたら忘れられないこてこての「ポップ・チューン」、ビートルズがアイドルだった作曲家のルーツを見る思いです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


4月19日

MOZART
Requiem
坂本徹/
Mozart Academy Tokyo
Ensemble Bel Homme
NYA/NYA-1501


モーツァルトの「レクイエム」だったら、新しい録音はすべて聴いてみようというぐらいの気持ちでいるものですから、このようなプライベート盤でも、入手可能であれば迷わずにゲットです。2014年の12月に行われたコンサートのライブ録音で、すでに昨年のうちにリリースはされていたようなのですが、これに参加していた知り合いがたまたまSNSで紹介してくれたおかげで、こんなユニークな録音を聴くことが出来ました。
演奏している「モーツァルト・アカデミー・トウキョウ」は、甘いものが食べられない人たちが作ったグループではなく(それは「モーツァルト・アカデミー・トウニョウ」)、インマゼールの「アニマ・エテルナ」やブリュッヘンの「18世紀オーケストラ」のメンバーでもあったピリオド・クラリネット奏者であり、合唱指揮者でもある坂本徹さんが2005年に結成した団体です。オーケストラと合唱を含めた組織のようで、それぞれの分野のプロフェッショナルな人たちが集まって活動しています。この「レクイエム」の場合は、使われている楽器はピリオド楽器、合唱の人数は6.4.4.4と少なめ、そしてソリストは合唱のメンバーが務めるという、世界中のピリオド志向の団体のスタンダードのようなやり方を取っています。
用いている楽譜がジュスマイヤー版だというのも、やはりある意味スタンダード。ただ、ここで「ユニーク」なのは、この演奏全体をあくまで「礼拝」ととらえて、モーツァルトは作曲していないけれど、実際の典礼では用いられたはずのテキストまできちんと演奏しているという点です。もちろん、そのテキストはただ朗読されるのではなく、「グレゴリオ聖歌」の「メロディ」で歌われることになります。
その聖歌は、この合唱団とは別の、日本語に訳すと「イケメン・アンサンブル」となる、「アンサンブル・ベロム」という男声だけの合唱団が歌っています。その、今まで聴きなれたちょっと渋さの伴う「グレゴリオ聖歌」とはだいぶテイストの異なる、かなり洗練されたユニゾンで最初に演奏されたのが、「Introitus」です。これはモーツァルトはきちんと作曲しているので、ちょっとした反則技になってしまうのでしょうが、指揮者によれば「この素晴らしくも穏やかな」聖歌はぜひ聴いていただきたかった、ということなのだそうです。確かに、これは別にグレゴリア聖歌に興味のない人でも、合唱ファンであればどこかでは聴いたことのあるはずの、あのモーリス・デュリュフレが作った「レクイエム」と全く同じメロディ(いや、正確には、デュリュフレがグレゴリオ聖歌を引用したものですが)の曲ですからね。モーツァルトだと思って聴きはじめたら、いきなりデュリュフレが始まって驚くかもしれませんね。
その後には、普通のモーツァルト版の「Introitus」が始まりますから、安心してください。しかし、さっきまでのア・カペラははっきり聴こえてきたのに、ここで初めてオーケストラが入ってくると合唱がほとんど聴こえないほどになってしまいました。録音の際には1対のメインマイクを客席の中に立てただけのようで、補助マイクなどは全く使われていませんから、こんな不自然なバランスの録音になってしまったのでしょう。
この会場で録音する時の難しさは、同じ曲をここで録音したこちらの歴史的な「失敗作」(もちろん録音面での、という意味で)によって広く知られるようになっていますから、エンジニアとしてもいろいろ考えた末のマイクアレンジだったのでしょうが、ここはやはり潔く合唱に補助マイクを使うべきだったのではないでしょうか。何しろ、ここでの合唱は響きとしてはかろうじて聴こえるものの、言葉が全く伝わってこないのですからね。おそらく、会場で聴いている人たちには視覚も手伝ってその辺はある程度補正されて聴こえていたはずですが、残念ながらそこまでを音として収録することは出来ていませんでした。
演奏自体も、この録音では生の情感を表に出すことは避けた穏健なもののように聴こえてしまいます。

CD Artwork © N.Y.A. Sounds


4月16日

VENEZIANO
La Passione secondo Giovanni
Raffaele Pe(CT), Luca Cervoni(Ten)
Marco Bussi(Bas)
Antonio Florio/
Ghislieri Choir(by Giulio Prandi)
Cappella Neapolitana
GLOSSA/GCD 922609


ガエタノ・ヴェネツィアーノという17世紀後半に活躍した作曲家は、別にヴェネツィアとは関係なく、ナポリで要職についていた人でした。日本語版のWIKIでも扱われていないほどのマイナーな作曲家ですが、最近になって研究も進み、多くの作品が紹介され始めているようです。
今回は、こちらはナポリに由来するピリオド・アンサンブル、「カペラ・ナポリターナ」の指揮者アントニオ・フローリアがナポリで保存されていたアーカイヴの中から写筆稿を発見して、自ら校訂と再構築を行った楽譜によって演奏された、「ヨハネ受難曲」です。もちろん、これが世界初録音となるのでしょう。イタリアの作曲家ですから、タイトルもイタリア語になっていて、「ヨハネ」は「ジョヴァンニ」と呼ばれています。ただ、テキストはイタリア語ではなく、あくまでカトリックの言葉であるラテン語が使われています。ですから、このタイトルは正式には「Passio Domini nostri Jesu Christi secundum Ioannem」となります。「ヨハネ」は「イオアン」でしょうか。スーパーみたいですね(それは「イオン」)。
新約聖書の4つの福音書をテキストにした「受難曲」としては、バッハの作品が最も有名ですし、その前の時代のシュッツの作品も最近では良く聴くことが出来ます。しかし、これらは同じキリスト教でもプロテスタントの教会のために作られたものですから、テキストはドイツ語に訳したものが使われていますね。おそらく、今のクラシック界では、「受難曲」といえばこのドイツ語版が主流を占めているのではないでしょうか。
そんな中で、ラテン語による「受難曲」は、現在ではほとんど聴くことはできません。いや、作品はたくさん作られてはいたのですが、それらがきちんと楽譜として出版されたり、それを用いて演奏されるという機会がほとんどなかったということなのでしょう。そう遠くない将来にはこのような作品も広く知られるようにはなるのか、あるいは昨今のレコード業界の沈滞ムードのせいで、このようなレアなものの録音を手掛けるところが少なくなって、結局学究的な対象のままで終わってしまい普通のリスナーのところまでは届かない状況に終わってしまうのかは、誰にもわかりません。
このヴェネツィア―ノの作品は1685年に作られたものなのだそうです。先ほどのシュッツの「ヨハネ受難曲」は1666年頃に作られていますから、時代的にはそれほどの隔たりはありません。さらに、基本的に、この2つは福音書のテキストだけを用いて作られた受難曲ですから、バッハの作品のような自由詩によるアリアなどは全く含まれてはいません。しかし、その音楽は全く異なった様相を見せています。
まずは楽器編成、というか、シュッツの場合はそもそも楽器は全く入らないア・カペラで歌われているのですが、ヴェネツィア―ノでは弦楽器の合奏に通奏低音が加わっています。次に、登場人物のパートも違います。シュッツやバッハなどは、エヴァンゲリストはテノール、イエスはバスというのが定番ですが、ここではエヴァンゲリストがカウンターテナーによって歌われています。作られた当時はカストラートだったのでしょうか。さらにイエスのパートはテノールです。これだけで、全体の音色がとても明るいものになっています。
そして、決定的な違いが音楽そのものの明るさ。エヴァンゲリストは、とても雄弁な楽器の伴奏に乗って、まるでオペラのアリアのような装飾的なメリスマを多用して聖書の言葉を歌い上げていきます。民衆の合唱も、ポリフォニックに迫ります。それらはまるでマドリガーレのような軽快さを持っています。「受難曲」がこんなに明るくていいのか、と思えるほどのその陽気な音楽は、やはりくそまじめなドイツ人では決して出すことのできない、イタリア人ならではのキャラクターなのでしょうか。
カウンターテナーのラファエレ・ペが、いい味を出しています。

CD Artwork © Note 1 Music GmbH


4月14日

MOZART
Gran Partita
Trever Pinnock/
Royal Academy of Music Soloists Ensemble
LINN/CKD 516(hybrid SACD)


以前もこちらの新しいアルバムにチェンバロ奏者として参加していたトレヴァー・ピノックは1946年生まれ、アーリー・ミュージック界の第3世代(?)として、1972年に創設した「イングリッシュ・コンサート」を率いて、華々しい活躍をしていました。CRDやARCHIVから多くのアルバムを出していましたね。
そのイングリッシュ・コンサートの指揮者としてのポストも、2003年には他の人に譲り、現在ではライプツィヒ・ゲヴァントハウスやロイヤル・コンセルトヘボウといったメジャーなモダン・オーケストラの客演指揮者として、世界中で活躍しています。
そして、最近はこのLINNレーベルで、ロンドンに1822年に作られたという由緒ある音楽学校、「王立音楽アカデミー」のアンサンブルとの共演を行っています。このアカデミーからはクラシックだけではなく、エルトン・ジョンやリック・ウェイクマンといった「ロック」畑の逸材も巣立っているというあたりが、ユニークですね。
ピノックとこのアンサンブルがこれまでにLINNで作ったアルバムは全部で3枚、それらはいずれもシェーンベルクが主宰していた「私的演奏協会」で演奏されていたマーラーやブルックナーの交響曲などを室内楽に編曲したものが集められていました。しかし、4枚目となる本作では、ガラリと趣向を変えてモーツァルトとハイドンの室内楽です。ま、ハイドンの場合はある意味「編曲」ですから、共通項がないわけではありませんが。
モーツァルトは、管楽器だけを13本使った、「グラン・パルティータ」と呼ばれるセレナーデです。正確には、最低音にはコントラバスが使われるので管楽器は「12本」になるのですが、慣例としてコントラバスの代わりにコントラファゴットが使われることがありますから、その場合は間違いなく「13管楽器」と呼ぶことが出来ます。今回の演奏も、この編成です。つまり、ピノックの場合はアーリー・ミュージックを演奏する際のスタンスが、それほど厳格ではないような気がします。演奏面でも、例えば1曲目の序奏での付点音符の扱いなどは、「厳格」な人だと「付点八分音符+十六分音符」で書かれている楽譜は当時の習慣に従って「複付点八分音符+三十二分音符」で演奏するものですが、彼は普通に楽譜通りに吹かせていますからね。
ただ、楽譜はあくまで最新の校訂版、新モーツァルト全集が使われているようです。とは言っても、3曲目のアダージョで20小節目の1番バセット・ホルンのナチュラルを外していたりしますから、やはり「厳格」さは薄いようです。
楽譜に関してはそんなユルいところもありますが、演奏そのものはとても生命力にあふれたものです。特に、テンポがあり得ないほど速いのはかなりスリリング、あまりに早いものですから、1曲目や最後の曲などはアンサンブルに破綻が出てますね。でも、5曲目の「ロマンツァ」は、若い感性がとても瑞々しく、心が洗われるようです。
カップリングのハイドンは、「ノットゥルノ第8番」が演奏されています。この、全部で8曲から成るノットゥルノ集は、1788年から1790年にかけて、当時のナポリ国王であったフェルナンド4世のために作られたものです。そもそもは、国王が愛好した珍しい楽器「リラ・オルガニザータ」を含むアンサンブルで演奏するために作られたもので、その「リラ」が2台に、クラリネット、ヴィオラ、ホルンをそれぞれ2本に低音楽器という、中低音を強調した暗めのサウンドによる編成でした。それを、1791年の最初のロンドン訪問の際に、もっと明るい音色がふさわしいと、リラとクラリネットのパートをヴァイオリン2本とフルートとオーボエに置き換えて編曲を行いました。それがここでは演奏されています。
じつは、こちらでやはり「ノットゥルノ」をご紹介していましたが、そこでは「3番」はオリジナルの編成なのに、なぜかこの「8番」の方はこの編曲版になっとるの

SACD Artwork © Linn Records


4月12日

On My Way Home
Pentatonix
RCA/88875-19804-9(DVD)


かなり前から発売予告があったのに、実際のリリースは延期に延期を重ねて、やっとこのほど入手することが出来ました。しかも、届いたものがDVDだったのには、ちょっと驚きました。いや、たぶん最初からそのような告知だったのでしょうが、日本ではBDで出るのが当たり前ですから。アメリカでは、まだDVDの方が主流なのでしょうね。ハイレゾにしてもそうですが、日本の方が意外と進んでいる面もありますね。
しかし、確かにこれはDVDなのに、黙って見せられたらBDとほとんど変わらない画質だったことにも驚かされました。最後に流れるほんとうに小さなエンドロールの文字も、DVDでこんなにはっきり見ることができるなんて、まだまだ捨てたものではないと気づかされます。それこそ4Kだ、8Kだと煽り立てているのも、そんなに意味のないことのように思えてしまいます。
映像は、別にコンサートのライブではなく、昨年行われた彼らの北米ツアーのメイキングです。ただ、最初にそれぞれのメンバーの幼少のころに撮影されたホームビデオのようなものが流されることで、このDVD全体のテーマがくっきりと提示されています。そのツアーの最終地が、そんな彼らのルーツである彼らの故郷アーリントンだということで、こんなタイトルが付けられています。さらに、チャプターの構成も「Homeまであと〇日」という感じで、徐々にそこに近づいていくことを意味づけています。
そんな、ツアーの日々の彼らに密着して、最後は故郷での両親たちによる祝福、というありきたりの結末が描かれるのですから、このドキュメンタリー自身は特に魅力もない、陳腐なものでした。ま、下手に見え透いた感動を与えようという下心がない分、とても自然な感じは伝わってきますが、正直退屈な映像でした。
ただ、これを見ることによって、このメンバーのそれぞれのキャラクターがはっきり分かったというあたりは、一つの収穫です。やはり、CDだけを聴いていたのでは分からないことが、特にこのようなある種スタイリッシュな売り方をされているアーティストについては、かなり多いことがよく分かります。
まず、ボイパ担当で、なんとなくこの中では浮いていた存在のケヴィンが、かなりアカデミックな教育を受けていた、というのが意外でした。紹介されている昔のホームビデオではチェロを弾いていたりするんですからね。いや、それだけではなく、現在も「チェリスト」としてコンサートではしっかりソロのコーナーまで与えられているというのですから、これはかなりすごいことです。
それと、やはりこれまではあまり目立っていたという印象のなかったベース担当のアヴィが、グループの中ではかなりの発言権を持っているように見えたのも意外でしたね。
逆に、おそらくリーダー的な存在だと思っていたミッチが、それほど主導権は発揮していないな、と感じられたのも意外でした。というか、あのヘアスタイルは絶対に似合ってませんって。
その点、まとめ役的なスコットと、はしゃぎキャラのカースティンは予想通り、みんなそれぞれに個性を発揮しているのですね。
そして、もう一人の重要な人物であるベン・ブラムの姿を見ることが出来たのも、大収穫でした。デビューからプロデューサーとして彼らとともに音楽を作ってきた人ですが、この中ではメンバーと一緒にア・カペラを歌っているシーンも紹介されています。
ミッチ、スコット、カースティンの3人で始まったこのグループが、ベンと出会い、アヴィとケヴィンを加えてグラミー・ウィナーとなるまでの軌跡もこの「6人」によって語られています。しかし、そのあたりの細かい情報を字幕なしの映像から得ることは、かなり困難でした。日本語は無理だとしても、せめて英語の字幕でもあれば、もう少し助かったものを。最近は、日本語の映像でさえ、字幕がないと言葉が分からなくなっているぐらいですから、つい卑屈に(それは「自虐」)。

DVD Artwork © RCA Records


4月9日

GIFT
ura*coco
関井うらら(Fl)
千野こころ(Hr)
小瀧誠(Pf)
KARAKURI/KRUC 0001


「ウラココ」という、ハンバーガーみたいな名前(それは「グラコロ」)のユニットのセカンドアルバムが、今静かなブームを起こしているのだそうです。なんでも、TSUTAYAのクラシックCD週間販売ランキングで1位を獲得したというのですから、すごいものです。その時の2位が川井郁子だというのですから、ちょっと普通のクラシックとは毛色が違うような気がしますが、なんであれ1位なんですから文句は言わせません。
これは、フルート奏者の関井うららさんと、ホルン奏者の千野こころさんというお二人が結成したユニット、関井さんの出身地が仙台市だということで、ご当地では盛り上がっているのだそうです。一方の千野さんは「南アルプス市」のご出身です。外国のお生まれか、と思ったら、信じられないことにそういう名前の自治体が山梨県にあるのだそうですね。合併によって生まれた市なので、新たに名前を公募したら、こんなことになってしまったのだとか、いったい住民の皆さんは何を考えていたのでしょうね。
それはともかく、このアルバム(正確には5曲しか入っていない「ミニアルバム」)のレーベルである「Karakuri Recoeds」というのはその南アルプス市にある、映画製作やイベント企画など、プロモーション全般の事業を行っている会社のレーベルなのだそうです。
関井さんも千野さんも、「本職」は吹奏楽などのトレーナーや指揮者なのだそうです。日頃は中学校や高校の吹奏楽部などに出張して指導を行っているのでしょう。しかし、このジャケットの写真を見ると、とてもそんな「先生」とは思えませんね。AKBのメンバーが間違って楽器を持たされてしまった風には見えませんか?あるいは、フルートはともかく、ホルンほどそんなアイドルからは遠いところにある楽器もありませんから、それが産むなんとも言えないミスマッチをねらってのもののようにも見えますね。
フルートとホルン、そこにサポートとしてピアノが入るという編成は、ちゃんとしたクラシックでもなかなかお目にかかれるものではありません。最初のトラックの「Flower Clown」でまずホルンが聴こえてくると、そこにはほとんどブラームスのような雰囲気が漂います。しかし、そんな中で歌われるメロディが何とも健康的な、まるでNHKの合唱コンクールの課題曲のようなものだったところに、ちょっと不気味なものを感じないわけにはいきません。おそらくこの不気味さのことを、彼女たちは「新たなる可能性」と言っているのでしょうね。そのあとに同じメロディで歌い始めるフルートの方は、やはりこの楽器にはどんな種類の音楽にも対応できる柔軟性が備わっていることに改めて気づかされるのですけど。
2曲目の「絆」は、このアルバムの中では作品としてのクオリティは一番高いような気がします。まるでフランスの印象派のような粋なテイストは、したがってそれほどの表現力を持っていないこのお二人には、ちょっと荷が重いのかもしれません。
3曲目の「真昼の月」は、「♪真っ白な陶磁器を〜」で始まる、小椋佳子が歌った陽水の「白い一日」と酷似していますし、次の「かぜのおくりもの」という曲も、美空ひばりの「川の流れのように」を参考にしているな、と感じられた時点で、興味が失われてしまいます。でも、最後の「ミルク」は、タイトルからは想像できないようなシンコペーション満載のとても元気が出る曲ですね。
フルートは、とてもさわやかな音色で、自己を主張するというよりはしっとりと語りかけるような吹き方です。力はないけど耳元でささやくような感じでしょうか。こういうものに癒される人がいても、一向に構わないのですが、彼女たちが10年後にも同じスタイルで演奏していたりしたら、それはやっぱり不気味ですね。「賞味期限があるクラシック」というのも、世の中にはあるのかもしれません。

CD Artwork © Karakuri Records


4月7日

RUSSIAN DANCES
山田和樹/
Orchetre de la Suisse Romande
PENTATONE/PTC 5186 557(hybrid SACD)


すでに日本を代表する指揮者となっている山田和樹さんの現在のポストはというと、スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者(2016年9月からは音楽監督兼芸術監督)、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、横浜シンフォニエッタ音楽監督、仙台フィルハーモニー管弦楽団ミュージック・パートナー、オーケストラ・アンサンブル金沢ミュージック・パートナー、東京混声合唱団音楽監督兼理事長という膨大なものになっています。やはり小澤征爾から続く「ブザンソン・ウィナー」という経歴は、間違いなく大指揮者への切符となっているのでしょう。
中でも、オーケストラと並んでプロの合唱団の指揮者としても活躍している、というあたりが目を引きます。そう言えば、デビューしたばかりの小澤征爾も、この合唱団を指揮していましたね。ミュージック・パートナーを務める仙台フィルとのプログラムでも、今年の定期演奏会と特別演奏会ではいずれも「エリア(メンデルスゾーン)」と「カルミナ・ブラーナ(オルフ)」という、大規模な合唱を伴う曲目が選ばれています。
さらに、やはり仙台フィルと昨年行われたコンサート形式の「椿姫」を皮切りに、オペラのレパートリーにも手を広げようとしていますから、これからのさらなる躍進には期待しないわけにはいきません。
CDも、日本のEXTONレーベルから多くのアルバムがリリースされていますし、スイス・ロマンド管弦楽団とはオランダのレーベルPENTATONEからこれまで2枚のSACDが出ていました。それぞれに「フランス」、「ドイツ」というキーワードが秘められたダンス音楽が集められていた、かなり凝った選曲のアルバムでしたが、今回はその「ロシア編」となります。
まずは、この華麗にポーズをとるバレリーナをあしらったジャケットに注目です。このレーベルは最近ジャケットのデザインを一新して、さらにクオリティが上がっていますが、これもレタリングと写真との絶妙なコンビネーションにはうならされます。ただ、この写真と、最初を飾るのがチャイコフスキーの「白鳥の湖」(このタイトルを「はくちょうこ」と短縮するのだけはやめましょうね)だということで、アルバム全体のイメージが固まってしまうような気にさせられるのは、もしかしたら山田さんが仕掛けた巧妙な罠だったと気づくには、それほど時間は必要ではありません。
まず、その「白鳥の湖」の、「華麗」さとは全く縁のない武骨な演奏を聴けば、これが単なる「名曲アルバム」を目指したものではないことはすぐに分かります。最初の「情景」のオーボエ・ソロは、なにか喘いでいるような息苦しさを伴っています。「ワルツ」の低音の重っ苦しさは、とてもフランス語圏のオーケストラとは思えません。「白鳥の踊り」のシンコペーションの、なんと野暮ったいるいことでしょう。そして2番目の「情景」でのハープ、ヴァイオリン、チェロのそれぞれのソリストの持って回った歌い口には、ただの「甘さ」ではない何かを感じないわけにはいきません。
続く、グラズノフの2つの「コンサート・ワルツ」も、単に表面的な流麗さをなぞるだけではない、もっと深いものを引き出そうとしている意志を感じてしまいます。結局、それはこの作品の底の浅さを露呈することにしかならないのですが。
そんな、ちょっとした物足りなさを感じつつ、後半のショスタコーヴィチの「黄金時代」と、ストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」を聴くと、そんなモヤモヤは一掃されてしまいます。この不健全なアイロニーの塊のような2つの作品にこそは、心の底から共鳴できる音楽が満ち溢れていたのです。もしかしたら、単純にこれだけを聴いたのではそれほどの感銘はなかったのかもしれません。その前にあえて「つまらない」ものを持ってきたからこそ味わえるこの充足感、そんな腹黒い魂胆によって、このアルバムはとびきりの価値を持つことになりました。指揮者の勝ちです。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


おとといのおやぢに会える、か。



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